呼吸が苦しい。
次から次に喉の奥から唾が込み上げてくる唾液が邪魔をして、息が切れる。何度も何度も粘り気のある唾液を飲み込んでも、またすぐに込み上げてくる唾が邪魔をして、私の呼吸を乱す。
酸素が足りず、息苦しい中で何度も脳裏に浮かんできた光景は、数時間前に目が開けられないほどのライトに包まれたアリーナで、先輩たちが私たちに見せてくれた大きくて頼もしい背中だった。手汗でびっしょり濡れて震える私の手を引いてステージを進んでいく先輩たちの背中は、手を伸ばせば届きそうな距離にあったはずなのに、その距離はとてつもなく離れていた。あの瞬間に感じた強烈な敗北感、劣等感、そして先輩の手の暖かさに無意識に安心感を覚えてしまった弱い自分への苛立ち––––。
ステージに立った僅か数分の間に私の身体中を駆け巡った全ての感情が、何度も何度もフラッシュバックしてくる。
(……悔しい)
守られるだけの存在になりたくはなかった。守られるだけの弱い存在のままでは、いつか大切なモノを簡単に失ってしまう。いつまでも弱いままじゃ、自分が大切にしているモノたちを守ることなんて絶対にできない。
だから私は変わりたいと強く願った。自分の大切なモノたちを守れるような強い存在でありたいと、その一心で私はアイドルの世界に身を投じたはずだった。
(それなのに、それなのに、それなのに––––……!)
何万人もの観衆を相手に、あの大きなステージを前に、恐怖心を抱いてしまった。金縛りにあったかのように身体は硬直して、足はガタガタと音を立てて小刻みに震えていたのを覚えている。
そんな弱い私を、春香さんたちは救ってくれた。だけど、もしあの時に春香さんたちが手を引いてくれなかったら一体どうなっていたのだろうか。きっと私たちは何万人もの人たちの前で、偉大な先輩たちが作り上げたステージで、とてつもない醜態を晒すことになっていたはずだ。十分に起こり得た別の結末を想像すると、ライブが終わった今でも背中が凍りつきそうになる程の恐怖心に誘われる。
春香さんたちは私たちに手を差し伸べてくれた。その結果としてライブは大成功を収めたのだから、結末としては悪くないものだったのかもしれない。私だって無事にライブが成功して嬉しいという気持ちが当然ある。だけどライブが成功して嬉しい気持ち以上に、春香さんの手を握った瞬間にホッとした弱い自分が、私はどうしても許せなかった。
(弱いままじゃ、いつまで経っても変われない––––っ)
あの時の残像と感情を振り切るように、私は脚を前へと進める。だけど私の意思とは裏腹に、まるで錘をつけているように身体が重く、脚が進まない。今日一日ずっと緊張の糸が張り詰められていたせいか、私の身体は想像以上に疲弊していた。
そんな状態でどれくらい走り続けたのだろうか。何度も呼吸を苦しくさせようとする唾液を飲み込んで、これ以上は無理だと拒絶する脚を無理やりに進め、何周も何周も数え切れないほど公園のトラックを回った後、私の身体は限界点を迎えて立ち止まってしまった。
前を向くことすら苦しくて、膝に手を付いた私の耳には、バクバクと大きな音を立てて動く心臓の音が聞こえてきた。その音を強引に押さえ込むように、私はシャツの胸の部分をギュッと握りしめる。
『君たちには、この夏開催される765プロのアリーナライブにバックダンサーとして帯同してもらうと考えている』
“あの”765プロのバックダンサーとして、アリーナライブに帯同できる––––。それはスクール生の私たちにとって、アイドルとしての今後を左右する大きな分岐点になると言っても過言ではないチャンスだった。
––––このチャンスを掴めば、きっと夢に近づくことができる。
そう考えると、誰にも負けたくなかった。他のスクール生たちには勿論、765プロのアイドルたちにだって。誰にも負けなければ、きっと夢への道が切り拓けると信じて、私は死ぬ気でレッスンに励んできた。
スクールや765プロで行われた全体レッスンだけじゃなく、一日の限られた時間の中で僅かな隙間時間を見つけては、こうして走り込んだりダンスの復習をしたり、これ以上頑張れないと言えるほどに、私は努力してきたつもりだった。
努力で全てが補えるとは思っていない。だけど、私のような平凡な人間が大きな夢を叶えるには、誰よりも努力をしないといけないと思っていた。夢を叶えるために、ライバルを押し退けてでもトップの世界に辿り着くために、私は努力をする以外の術を知らなかったのだ。
だが、結局死ぬ気で努力をしたところで、私は春香さんたちの足元にも及ばなかった。
『私が春香さんたちに勝てる要素なんか何一つなかった』
ライブが終わって私が真っ先に感じたのは、そんな圧倒的なまでの敗北感と劣等感。春香さんたちはオープニングからアンコールまで、アリーナを全速力で駆け抜けていたのに対して私の出番はたったの一曲だけ。それも歌もMCもない、踊るだけのバックダンサーだ。それなのに私は精神的にも肉体的にも春香さんたち以上に疲労を感じ、ライブ後に楽屋で用意されていた軽食は何一つ身体が受け付けなかった。
誰よりも頑張ってきたはずなのに、技術も体力も、精神的な強さも、春香さんたちと比べると、全てが劣っていた。その結果が悔しくて悔しくて、仕方がない。
あまりにも非力で不甲斐ない自分が歯痒くて、無性に泣きたくなった。どうしてこんなに私は弱いのだろう。こんなに強くなりたいと願っているのにどうして守られるばかりの存在でしかいられないのだろう。
酷く呼吸が乱れて、膝が笑っている。俯いたままの私の頬を、汗に紛れて一滴の涙が伝った。
「こんなままじゃ、いつまで経っても––……」
夢なんて、叶えられない。
大切なモノたちを守ることなんてできない。
誰かに守られるだけの存在が、強くなれるはずなんてない。
(もっともっと強くならないと。こんな弱いままじゃ、何も掴めない)
自分の弱さを痛感し、溢れ出る涙を強引に手のひらで拭って顔を上げた瞬間だった。涙で潤んだ視界の先、暗闇の中から一人の少年がただただ呆然と私を見つめていた。
★☆★☆★☆★☆
少女は脇見もせず、ただひたすらに前だけを見つめ、徹底的に自分を追い込むように走り続けている。その眼差しは真剣そのモノで、とてつもなく強い想いが込められているようだった。
少し大人びて見えた少女の横顔から推測するに、恐らく歳は俺と同じくらいだと思う。だとすると、近所の高校に通う練習熱心な運動部員––、といったところだろうか。
あっという間に遠くへ行ってしまった初めて見る少女の姿に様々な思考を巡らせてみたが、どうにもしっくりこなかった。俺の前を走り去って行った時に一瞬だけ垣間見えた少女の瞳は、部活の大会や記録なんかより、ずっと大きくて途方もないようなモノを追い求めている気がしたのだ。
何があの少女をあそこまで駆り立てているのかは分からない。だけど少女の凛とした姿や異様なまでの気持ちの強さに目を奪われ、俺は公園に来た本来の目的も忘れて暫くの間ずっと少女だけを追い求めていた。
灯りの乏しい公園の周りを一心に走り続けていた少女だったが、心肺機能に見合わない速度で走っていたのか、公園を一周回って再び俺の前を通り過ぎようとする直前に走るのを止め、その場で膝に手を付いて立ち止まってしまった。
暫く俯いたまま呼吸を整える少女。静かな夜の公園を流れる少しだけ肌寒い風に乗って、彼女の息切れの音が俺の耳へと届く。彼女は酷く息を切らしていて、その様子が長い時間とてつもない負担を身体にかけながら走っていたことを物語っていた。
(……一体、何がここまでコイツを真剣にさせてんだよ)
自分を追い込む少女の姿が、普通には到底思えない。少女の追い込み方は一言で言えば異様で、まるで自身の寿命を削っているかのようにさえ思わせるほどだった。
だからこそ、何故ここまで自分を追い込んでいるのかが純粋に気になった。少女の遠くを見つめる視線は、どんな世界を見つめているのか。ひしひしと伝わってきた彼女の瞳に潜む情熱は、何を求めているのだろうか––。
「……あの、なんですか。さっきからジロジロ見て」
少女の推測に夢中になっていた俺の思考回路を強制的に切断したのは、閑静な夜の公園に響く、女の子の冷たくて低い声。
膝に手を添えて苦しそうな呼吸を整えていたはずの少女は、いつの間にか背中を真っ直ぐに伸ばしながら、片耳のイヤホンを外して睨みつけるようなジト目で俺を見つめていた。
どうやら今更になって俺の存在に気が付いたらしい。俺は少女のジト目から逃げるように、慌てて視線を宙に向ける。
「わりぃ、なんでもねぇ」
「そうですか」
俺の答えに返ってきたのは、まるで興味がないと言わんばかりの落ち着き払った少女の声。抑揚のない少女の声は何の感情も持たないロボットのような声色だった。
本当に人間だろうか。そんな馬鹿げた疑問が浮かんできて、俺は宙から少女へと視線を戻した。
灯りに照らされて光沢を放つ汗を含んだ少女の黒髪、綺麗なパーツがバランスよく散りばめられた整った顔立ち、一直線に伸びた綺麗な背筋、そして俺を睨むように見つめる少女の眼差し––––、少女の佇まいは、一言で言えば、ただただ美しかった。
アイドルという仕事柄、普段から煌びやかな異性と接する機会の多い俺だったが、目の前で俺を見つめる少女の姿は今まで見てきた女性とは一線を画するような美しさに思えたほどだった。
何がここまで俺を惹き付けるのだろう。正直、翔太や北斗に比べると俺はあまり異性に興味があるわけではなかった。美人な人を見ても美人だと思うだけで、可愛いらしい顔立ちの人を見てもただただ可愛らしいと思うだけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
だが目の前の少女は、そういった女性たちと“何か”が決定的に違っていた。この少女には言葉では言い表せないような“何か”があって、その“何か”が俺の琴線を激しく刺激しているような気がしていた。
「…………だから、なんなんですか。何か私の顔に付いてるんですか?」
少女の低い声が再び俺を我に返らせる。さすがに今度は苛立ちのこもったような不機嫌な声で、さっきより更に鋭いジト目で俺を射竦めるように見つめていた。
良かった、ちゃんと人間なんだ。少女の感情のこもった声を聴いて、俺は怒られているのに関わらず何故か安心して胸をなで下ろしていた。相手が人間だと分かると、そこまで緊張する必要もない。
「だから何もねぇって」
「そうですか。それならあんまりジロジロ見ないでください」
「わ、わりぃ……」
強い口調でハッキリと言い放った少女はそれ以上何も言わずに、外していたイヤホンを耳に戻した。どうやらトレーニングは終わったのか、ランニングシューズの紐を緩めると俺の方––……、公園のある出口へと歩いてきた。俺も公園にやってきた目的を思い出し、少女の方へ向かって歩き始める。
今度はなるべく少女に視線を向けないようにと平静に努めながら。
だけど、どうしても我慢できずに俺はすれ違い際に、少女の顔を見てしまった。
綺麗な黒髪を揺らして俺の側をすれ違った少女の鼻は、多くの涙を流し終えた後のように、赤く染まっていた。