「ねぇ、そういえばもうすぐ志保の誕生日じゃない?」
年を越してから暫く経ち、初めて劇場でメンバーたちと顔を合わせた日のことだった。新年だからといつもより気合の入った様子で美奈子さんが華奢な腕で重そうな鍋を自在に操りながら盛大に振舞ってくれた中華手料理を囲んでいた時、恵美さんがふと思い出したような口ぶりでそう呟いた。各々で美奈子さんの料理をつついていた皆の視線が一斉に私に集まる。私は何人もの視線を一身に受け、口に箸を含んだまま、箸を握る手はピタリと止められてしまった。
どうして恵美さんが私の誕生日を知っているのかと疑問に思ったが、そういえば人の誕生日を覚えることが特技だって、知り合って間もない頃恵美さんが自分で話してたっけ。その話を聴いた時、派手な見た目によらず律儀でマメな人なんだなと、失礼ながらそんなことを考えていた事を思い出し、名残惜しい気持ちを感じつつも急ぎ足で口の中の料理を飲み込んだ。
「えぇ、そうですね。再来週ですけど」
大きめのお皿に大量に盛られた回鍋肉を再度箸で摘み、口の中に放ると瞬く間に絶妙なバランスの調味料に包まれた牛肉の味がじんわりと口の中で広がっていく。気を緩めればあっという間にだらしない顔になってしまいそうな、絶品の味だった。
「次で十四歳だっけ?」
「ですね」
「まだ中学二年生かぁ、いいなぁ若くて」
「……恵美ちゃん、そう言うセリフはその場にいる年長者だけが言えるセリフなのよ」
恵美さんの隣に座っていたこのみさんが不愉快そうに指摘したものの、必死に威圧感を出そうと眉をしかめる姿と童顔が生みだすギャップがおかしくて、私は思わず視線を逸らした。私と同じタイミングで奈緒さんと未来がこのみさんから視線を外しているのが見受けられたから、きっと二人も同じ事を危惧したのかもしれない。勿論、当の本人は頬を膨らませたままで私たちに気付いていないようだったが。
「志保ちゃんは誕生日なにするの?」
私たちが楽しそうに食べる姿を、一番端の席で頬杖を付きながら幸せそうな表情を浮かべながら見守っていた美奈子さんがそう尋ねられて、私は再び箸を持つ手を止めた。
––––なにをする、かぁ。
その問いには少し困ってしまう。というのも誕生日は私の中ではとっては何も変わらない普段と同じ一日で、特別何かをする日ではなかったのだ。それこそまだ父がいた頃は私が小さかったことも盛大にお祝いをしてくれた記憶があるが、父が姿を消して母が多忙になってからは自然と誕生日は普通の一日に成り下がってしまった。そのことが少しだけ寂しいと思う傍ら、家庭の事情的に仕方ないとすんなりと割り切っている私もいる。今では私の誕生日に気を遣うくらいなら母には少しでも休んでほしい、という気持ちの方が強いほどだ。
「……特に何かをするわけではありません。いつも通りに過ごすだけです」
「えー、誕生日なのに!? 家でパーティーとかしないの?」
「しないわよ。普通どおりだって言ってるでしょ。家族だって皆忙しいんだから」
「そっかぁ……」
もともと大きな瞳を更に大きくさせていた未来は、ぶっきらぼうな私の言葉を聴いて子犬のようにシュンとした。まるで自分のことのように落ち込む未来を見て、少し大人気ない言い方をしてしまったかなと、申し訳ない気持ちが芽生えてくる。
シアターの皆どころか、プロデューサーにも中学校の友人たちにさえ私の家庭環境は伝えていない。伝える必要がないと思っていたし、何より伝えたところで変に気を遣われたり安い同情を向けられるのが嫌だったからだ。そのせいか、劇場や学校で過ごす日常でこうして皆の当たり前と私の当たり前のズレを実感する機会が多々あり、その度にポッカリと空いた心の穴に風が吹き込むような疎外感を感じてしまうことがあった。それが仕方のない事だと分かっていても、私は開き直る強さも、誰かを頼る強さも持ち合わせていない。こうしてなるべく他人との距離を取ることで、自分を守る術しか知らなかったのだ。
空がまだ青い時間にシアターを出た私は、帰路の電車の中で東京の町並みをぼんやりと眺めながら断片的になりつつある幼い日の記憶を辿っていた。家族揃って、幸せいっぱいに過ごした八歳のクリスマス。その時はまだ父がいなくなる予兆なんて微塵もなくて、こんな風に家族全員が揃って幸せに暮らす日々が永遠に続くのだとばかり思い込んでいた。その日常が数日後には崩壊し、一変してしまうなんて疑いもせずに。
楽しかったクリスマスパーティーから数日後。年が明ける前か後かはもう定かではないが、ちょうど今くらいの時期に突然父は私たちの前から姿を消した。父がいなくなったショックもだが、何より父がいなくなったのに関わらず、一切悲壮感を感じさせずにいつもとなんら変わりない様子で私たちに接してくれていた母の姿が強く印象に残っている。その姿はまるで父がいなくなることを予め知っていたかのように吹っ切れていて、私が知らぬ間にもう既に修復ができないほど夫婦の関係に亀裂が生じていたのではないかと、子供心ながらそんなことを考えていた。
そして父が姿を消してから数ヶ月後、私たち北沢一家は父と住んでいたマンションから今住んでいる団地へと三人だけで引っ越した。それを機に、母は仕事を始めて朝から夜遅くまで仕事で家を開けることが多くなり、家族で過ごす時間は極端に減ってしまった。それが今の北沢家の生い立ちだ。
「あっ……」
気が付けば私はいつもとは違う駅で電車を降りていた。背後で閉まるドアの音で我に返る。ここは私がかつて利用していた駅なだけで、今利用している駅ではない。そのことに気が付いた時、電車は私を残して動き始めてしまっていた。
セピア色に染まった幼い日のカケラを追い求めるのに夢中になりすぎた私が無意識に降りたのは、父がいた頃に住んでいたマンションの最寄駅だった。そしてこの駅は少し離れてはいたが天ヶ瀬さんが住んでいるマンションの最寄駅でもある。時刻表を見るとすぐに次の電車が来ることを確認できたが、今日は弟の迎えもなく、間違って降りてしまったのも何かの縁なのかなと、そう思って私は久しぶりにかつて住んでいた街を歩いて回ることにした。
今となってはあの頃と随分風景が変わってしまったが、住んでいたマンションを筆頭に、要所要所ににかつての面影が今でも残されていた。改札口前の人気のパン屋、駅前の唐揚げ弁当屋から流れてくる食欲を刺激する匂い、長い時間太陽の光を浴び続けて色褪せた看板が立ち並ぶ商店街––––。
タイムスリップしたかのような記憶の中の景色と変わらない風景を感慨深く味わいながら、私は赴くままに足を進める。駅から家まで父と一緒に手を繋いで帰ったことや、家族揃って商店街のお店に外食に行った日のこと、久しぶりに通る道で意外と沢山のことを私は忘れてしまっていたことに気が付いた。父が私たちの前からいなくなってから六年、もの凄い速さでこの街は変わり始めている。当時は沢山あった空き地には高層マンションが立ち並び、商店街のお店は殆どがシャッターを下ろしてしまっていて、退屈そうなタクシーが並んでいた駅前には随分とオシャレな店も増えた。
––––この街が変わっていくように私も大人になっていく過程で父との思い出を忘れていくのだろうか。
そんな不安が頭を過って途端に寂しくなる。今でも既に私は父との大切な思い出を忘れてしまっているのではないかと、そんな身に覚えのない空虚感が今になって私の胸をかき乱して不安にさせるのだ。
懐かしさと大切な思い出を忘れていることへの不安を抱きかかえたまま、一月の肌寒い風に流されるようにアテもなく歩き続け、私が辿り着いたのは高台にある公園だった。街を一望できる公園から街を見下す私の頬を、肌寒い北風が叩く。ここから眺める景色も、随分記憶の中の景色と変わってしまったように思えた。
弟はもう覚えていないかもしれないようだが、この公園も父との思い出の場所の一つだ。綺麗な芝生の上で、休みの日に父と追いかけっこやフリスビーなどで遊んだことを私は昨日のことのように覚えてる。そんな父との記憶を少しでも良いから弟にも覚えておいてほしい、密かにそんな想いがあって私は時間を見つけては弟を連れ、父との思い出を胸に刻み直すようにここを訪れていた。
(そういえば、天ヶ瀬さんと初めて出会ったのもここだったなぁ)
初めて想い人と出会った日のことを振り返る。あれはまだ日差しが強くて入道雲が空に居座っていた時期のことだった。天ヶ瀬さんのマンションからここまではそう遠くはなかったはずだから、もしかしたら彼も私と出会う前から頻繁にこの公園に訪れていたのかもしれない。もしかしたら今日も––––……。
(いや、さすがにないか)
都合のいい少女漫画のような偶然が一瞬だけ頭にチラついて、冷めた私が「現実を見ろ」と一蹴した時だった。数十メートル先のベンチで何か考え事をするように虚空を眺める見覚えのある男の姿が目に入って、私の心臓が一気に高鳴った。
★☆★☆★☆★☆
「冬馬、今回自分で作詞してみたらどうだ?」
北斗からそう持ちかけられたのは、インディーズ活動を始めてから知り合った新人作曲家に新たなメロディーを貰った年の暮れの日のことだった。そろそろ新曲を出そうという話もチラホラ上がり始めていた時期に偶然メロディーを貰えたことや二月にライブを予定していたこともあり、タイミング的にも悪くなく、またこれも一つの新たな試みかなと思った俺は二つ返事で北斗の提案を受け入れることにした。
作詞といえども既にメロディーは出来上がっているから、そのメロディーに合うような歌詞を考えて与えていくだけだ。作詞の経験は今まで一度もなかったが一から作るよりはずっと簡単だと、そう思って気楽な面持ちで作業に取り掛かったが、俺たちの曲にしては珍しいバラード調のメロディーということもあってか、思っていた以上に作詞作業は難航を極めた。頭に思い浮かぶのは世界中で擦り切れるほどに使い古された有り触れたフレーズばかり。安っぽい歌詞をノートに書き記す度に俺は破ってゴミ箱に捨て、新たなページと睨み合う。だけど結局新しいページにペンを走らせても、似たような聞き覚えるのあるフレーズばかりが並ぶだけで、俺は反復作業のようにノートを破り捨てていく。そんな足踏みをしばらく続けて、ゴミ箱にはぐしゃぐしゃに丸められたノートのカケラたちが積もっていくばかりだった。
そんな不毛な時間を何日も続けていよいよ作詞に行き詰まったある日、俺は気分転換も兼ねて近所の公園に足を運ぶことにした。気持ちのいい夕暮れ時の風が吹く空の下、キャッチボールをする親子や仲良さげに並びながら背筋を伸ばして歩く老夫婦たちを横目に、俺は辺りを見渡せる位置のベンチに腰を下ろす。数えれるほどの雲たちを抱えた空は西側から柔らかいに朱色に染まり始めており、俺が住んでいる街も既に傾き始めたオレンジ色の太陽に照らされて影が伸び始めていた。
こうしてベンチから俯瞰して自分が住む街を眺めるのが好きだった。ここから街を見下す度にこの街には沢山の人が住んでいて、きっとこの街に住む人それぞれに大切な日常があり、至る所で俺の知らない世界やドラマが沢山広がっているのだろうなと想像を膨らませる。更に視界を遠くに向ければ、高層マンションが立ち並ぶ東京の街並みも見えて、この街よりもっと多くの人が暮らす東京の街並みは俺の知っている世界が如何に狭い世界なのかを痛感させるかのように、遠目から俺を見つめているようだった。
俺たちが探し求めている“何か”が、きっと今はまだ俺の知らない世界で眠っている。その根拠のない直感は長い時間俺の手に握りしめ続けられていた「俺はこの広大な空を跳べる」という高揚感と似ていて、何かにぶつかった時、悩みを抱えた時の俺を前向きにさせてくれる魔法のような感触なのだ。
「天ヶ瀬さん、こんなところで何してるんですか」
暫く夕暮れ時の街を眺めていると、聞き覚えのある声に名前を呼ばれて俺は意識を戻した。声のした方を振り返ると、ベンチの側で北沢が俺をいつもの無に近い表情で見下ろしている。何だか北沢に会うのが随分久しぶりに思えて、彼女の姿がひどく懐かしく思えた。その懐かしさがゆっくりと姿を変えていき、胸の中に言葉では言い表せないような安心感を満たしていく。
「北沢……。お前こそこんなところで何してんだよ」
そう言い終えて、俺は言葉の選択を誤ったことに気が付いた。最後に会ったのはクリスマスイブの日だ。たった数週間、その間に年を跨いだだけで随分昔のことのように思えてしまう。
「じゃなくて……、明けましておめでとう、だな」
「あっ、確かに。明けましておめでとうございます」
新年の挨拶を口にし、お互いに礼儀正しく頭を下げあって、俺たちは目を合わせた。何も言わずとも、自然に笑みが溢れる。俺はベンチに腰を戻すと端にズレて、北沢の為のスペースを作った。
「今度新曲出すんだけど、作詞をすることになって。行き詰まって気分転換に来てたんだ」
「作詞? 天ヶ瀬さんがですか?」
俺の隣に座った北沢は意外そうな顔をして俺を覗き込んだ。ふんわりとした風が優しく吹いて、北沢のスカートを揺らす。微かに汗の匂いが風に乗っ鼻へとて辿り着いてきて、北沢はレッスン帰りかなと勝手に想像していた。
「そう、まぁ今回が初めてだから全然上手くいってねぇんだけど。北沢は何してたんだ?」
「難しそうですよね、作詞って。私はただの散歩です。同じく気分転換で」
「散歩って、一人でか?」
「そうですけど?」
あっさりと肯定されたが、それはそれでおかしな話だと思った。北沢の家はここから数駅離れたところにあって、劇場とも離れているこの駅で北沢がわざわざ降りる理由が思い付かない。弟を連れてならまだしも、今日に限っては一人だ。何かあったのかと思わず勘ぐってしまう。
気が付けば北沢は目を細めながら、あてどもなく街を見下ろしていた。夕日に照らされて影が生まれている北沢の横顔を見つめる俺の背後で、平和そうな親子の笑い声が聞こえてくる。「母さんが待っているから早く帰ろう」と子供を促す父親の声が、チクリと俺の胸に引っ掛かった。両方の親がいるごく当たり前の家庭を無意識に異質だと思ってしまったことが、ただただ虚しくて哀しかった。
「……天ヶ瀬さんってずっとこの街に住んでいたんですか?」
「え?」
北沢は穏やかな顔で遠くを見つめたまま、そう問いかけた。北沢にしては珍しい、脈絡のない質問に俺は戸惑いながらも首を横に振る。
「俺、父親が単身赴任になるまでは二十三区に住んでたんだ。だからこの街に来たのは一人暮らしを始めてからだな」
俺だけが東京に残ることが決まり、その際に比較的家賃が安いエリアを探して辿り着いたのがこの街だった。だからこの街に引っ越してきてまだ一年とちょっとといったところだろうか。そう考えると、自分の住んでいる街なのにまだまだ知らないことの方が多いような気がしてくる。
「私、昔ここに住んでいたんです。父がいた頃だからもう六年ほど前の話ですけど」
「え、そうだったのか?」
「はい、あそこです」
そう言って北沢は、俺の住むマンションとは正反対の位置にある繁華街近くにポツンと建つマンションを指差した。まだ築年数が新しそうなマンションは、夕日を浴びて黒い影に染まりながら佇んでいた。
「この公園も父とよく遊びに来てたんです。そのせいか、どうしても父がいなくなった今の時期になると無意識に足を運んじゃうんですよね」
「北沢……」
かける言葉が見つからなくて、俺は北沢の綺麗な横顔を見つめることしか出来なかった。
北沢の父の話は、先月のライブ後に電車で帰っていた時に少しだけ聴いたことがある。幼い頃、ちょうどクリスマスが過ぎた頃に父が唐突に家を出て行ってしまったのだと北沢は語ってくれた。彼女の身の上話を聴いて、俺は北沢は父親のことが本当に好きだったんだろうなと思ったし、なにより母を亡くした俺だからこそ、彼女が抱えている孤独感や胸にポッカリと穴が空くような喪失感も、痛いほど共感できて、その話を聴いた時はまるで自分のことのように胸が締め付けられるような想いに駆られた。幼少期に片方の親がいなくなってしまうのは子にとって大きなショックで、それがきっかけで塞ぎ込んだり、心に大きなダメージを負うことも少なくはない。子にとって親はそれほど大きな存在だということを、俺もまた嫌という程理解していたのだ。
だけど北沢はそんな自分の不幸に浸るだけの弱い人間ではなかった。何処か彼女の知らない街で生きている父に自分の姿を届けたい一心でアイドルになり、その夢を叶えるためにストイックに自分を追い込み続けている。北沢を突き動かす理由を知って、初めて会った時から垣間見得ていた異様なまでの向上心の理由を、北沢の中に宿った強さの理由を、俺はようやく理解することができた気がした。
北沢は父親に会いたがっている。前のようには戻れないと本人は話していたけれど、北沢は自分が北沢一家の拗れた関係を修復する架け橋となろうとしているのは明白だ。それはとても立派なことだと思うし、彼女を突き動かす強烈なモチベーションになっていることもわかる。だけど、その一方でそれは中学生の北沢が一人で背負いこむにはあまりにも大きすぎるモノではないのかという不安があった。身を削るような勢いで夢に向かって走り続ける北沢の姿を見ていると、いつか抱え込んでしまったモノの重さに耐え兼ねて何かがポッキリと折れてしまうのではないかと、そんな心配がつきまとっていたのだ。
「そういえば、北沢もうすぐ誕生日だよな」
安い同情の言葉もかけたくはなかったし、かと言ってくだらない質問をして北沢の事情にズカズカと土足で立ち入るのも無粋な気がした俺は、ぎこちない言葉で話題を変えることしかできなかった。だけど北沢は不愉快そうな顔はせず、「え?」と不意をつかれたように訊き返すと、細めていた目を少しだけ見開いて驚いたような顔色を浮かべた。
「知ってたんですね、私の誕生日」
「あぁ、39 ProjectのHPに載ってたの見ちゃって」
弁解するようにそう言うと、北沢は慌てて俯いてしまった。夕日に当てられてか、北沢の耳が赤く染まっている。もしかして照れ隠しをしているだけなのかもしれないと思った。北沢は俯いたまま、ボソボソと独り言のように口を開く。
「……母が天ヶ瀬さんにお礼を伝えたいと言ってました。りっくんのプレゼントの件で」
「あぁ、全然気にすんなって伝えてくれよ。俺だってもう使わないものだったから」
「それで、母が良かったら一度直接お礼を言いたいと言ってまして……。良かったら私の誕生日の日、家に来ませんか?」
「え?」
北沢は残り少なくなった歯磨き粉を絞り出すように、声を震わせてそう口にした。俯いたままの北沢が耳だけではなく白かったはずの頬も赤いリンゴのように染まっている。
「いいの? 俺が行っても」
「はい。りっくんも会いたいってずっと言っていたので、皆喜ぶと思います」
「……そっか、分かった。ならお邪魔させてもらおうかな」
母親に弟さん––––、あくまで北沢自身が来て欲しいと思っているワケではないんだな。そのことがちょっと胸の内で引っかかったが俺は北沢の誘いを承諾した。一月十八日、帰ったらスケジュール帳に忘れずに書き込まないとなと、頭にしっかりと刻み込む。それから暫く、北沢は俯いたままで俺たちは無言のまま公園のベンチで日が沈んでいく街をボンヤリと見下ろしていた。
★☆★☆★☆★☆
一月十七日。
その日は朝からソワソワして終始心が落ち着かない一日だった。カレンダーで、新聞で、テレビで、スマートフォンで、何度もなんども今日の日付が間違っていないかを確認して、今日が十七日で間違いないと確認できる度に私の胸は大きく脈打ち、抑えきれないほどに興奮していくのが分かった。
明日は私の誕生日。天ヶ瀬さんが家に来てくれることになって、母も仕事はあるが早めに帰ってきてくれるらしく、ささやかながらパーティーをすることになっていた。シアターでは誕生日はいつも通りの日だと言い切っていたのに、まさか今年はこんな誕生日になるとは想像もしていなかったなと夢心地の気分そのままで明日を想像してみる。もしかしたら明日は父がいなくなってから今日までで、一番楽しい一日になるかもしれない。そう思うと今から明日の夕方になるのが待ち遠しくて、時間が早く進んでくれれば良いのにと、我ながら遠足前日の子供のようだと呆れてしまう。だけど、そんな心の底から何かを楽しみにするなんて久しぶりに味わう感情が懐かしくて何処かこそばゆくて、思っているほどに嫌な感じはしなかった。
そんな柄にもないワクワク感を抱えたまま私が風呂から上がって髪を乾かしている時のことだった。ドライヤーの音の中にスマートフォンが揺れるバイブの音と初期設定のままの着信音が聞こえてきて、私はドライヤーを止めた。鳴っているのは自分のではなく、クリスマスに私がプレゼントした母の綺麗なスマートフォンだ。こんな時間に電話がかかってくるのも珍しいなと思いつつ画面を覗き込むと、ディスプレイに表示されているのは父親の弟さんの名前。また珍しい人からの着信だなと意外に思いつつ、私はバイブだけを止めて風呂場にいる母の元へと向かった。
「お母さん、電話なってるよ。ナオキさんから」
「ナオキさん? なにかしら、後で掛け直すからそのまま置いてて」
「はーい」
私はそう返事をして、リビングに戻った。
ナオキさんは父がいなくなってからも私たちのことを気にかけてくれている気さくな人だ。昔からナオキさんとその奥さん、そしてまだ幼い子供を連れて金沢から遊びに来てくれるほどに北沢一家とは仲が良く、不思議なことに父が出て行った今でもその関係は変わることなく続いていた。父が居なくなったのにその弟一家と仲が良いのも妙は話だなと疑いつつも、かと言って敵視するわけでもなく、何かと私たち北沢一家のことを気にかけてくれるナオキさんのことを私も信頼していた。
リビングに戻ってドライヤーへと手を伸ばした時、再び母のスマートフォンが揺れた。今度はLINEかメッセージの受信だったようで、通知音とバイブがそれぞれ一回鳴っただけだ。どうしてかこの時、私はものすごく嫌な胸騒ぎがした。直感というにはあまりにも頼りなくて、だけど間違いなく私の五感に何かが反応していて、激しく抵抗するように警告を発している。その胸騒ぎに駆られ、私はしてはいけないことだと分かっていながらも、母のスマートフォンの画面を覗き込んでしまった。
『直樹:今度兄の墓参りに東京へ行きます。その際に妻と北沢さんのお宅へ久しぶりに挨拶に伺おうと思っているのですが、予定はどんな感じですか?』
「……え、どういうこと」
墓参り? 兄ってお父さんのこと?
理解できないナオキさんの文面を見て、停電時のように私の思考回路は瞬く間に遮断されてしまった。