【完結】ニタモノドウシ   作:ラジラルク

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今更だけど、ミリマスのSS少なすぎひん?


SE@SON ONE
EpisodeⅠ: 俺と私の再会


『志保、よーく聴け。自分の身に起こることには全て意味があるんだ。偶然で無意味なことなんて何もないんだからな』

 

 何度も私に語りかける父の姿。大好きだったゴツゴツした大きな掌で優しく撫でながら見上げる父の姿を、私は今でも覚えていた。

 私の父は8歳の時に突然家族の前から姿を消した。あの日を境に母も一切父の存在に触れなくなったため、家族で父の話をするようなこともない。私が知っている父の姿は、幼い頃に脳裏に焼き付いたいくつかの思い出の中に存在する姿だけだった。

 どうして父は幼い私にあの言葉を伝えたのだろうか。父が居なくなってしまった今となっては、父の目的もその言葉にどんな意味が込められていたのかも、知る術は残されていなかった。

 だけどもし父の言うように全ての出来事に意味があるとするのなら、きっとあの人に出会ったのも、何か意味があるのかもしれない。だとしたら、彼との出会いは私に何をもたらそうとしているのだろうか。

 間接照明の灯りの下、私が握り締めたスマートフォンのディスプレイには一人の男の姿が映っている。少しだけ無愛想な眼をしてマイクを握りしめる男––––、その写真の下に小さく添えられているのは、『天ヶ瀬冬馬』の文字。

 

「……やっぱり、本人なのかな」

 

 公園で出会った男が、もし本当に“あの”天ヶ瀬冬馬で、彼が口にした話が本当だとしたら–––。

 私は大きく息を吐くと、意を決して机の上に置いたままになっていたメモ用紙の切れ端に手を伸ばす。丁寧に折り曲げられたメモ用紙を広げ、そこに書かれていた11桁の番号を、私はスマートフォンに打ち込んだ。

 

 

 

Episode Ⅰ : 俺と私の再会

 

 

 

 夏はまだ終わっていないのだと言わんばかりの、高らかなセミたちの鳴き声。

 夏と云えば8月が一番猛暑だと思われがちだが、実際は9月上旬が最も気温が高くなるようで、夏休みが終わったばかりの今の時期が夏場のピークになるらしい。今朝、何気なく点けていたニュース番組でそんなどうでもいい知識を知ってしまったせいか、今日はいつも以上に日差しが強く感じられた。

 鬱陶しいほどに身体中から湧き出てくる汗をタオルで拭い、私は強烈な紫外線を防ぐように額に手を添える。目を細めて見上げる視界の先には、765プロライブ劇場が私を待ち構えるかのように、そびえ立っていた。

 

 何故アリーナライブを終えた今になって私が劇場にやって来たのか。

 事の発端は、アリーナライブが終わって2週間ほどの時間が経過したある日のことだった。

 

「765プロダクションから、バックダンサーとしてアリーナに参加した7人を正式に受け入れたいとの申し出があった」

 

 突然バックダンサー組を集め、嬉々とした表情でそう告げたスクールの代表者。

 聴けば私たちがアリーナライブに向けて必死にレッスンをしている間、水面下では765プロの次期プロジェクトの準備が着々と進んでいたらしい。

 “39 Project”と題された765プロの新プロジェクトは、今年の春先に完成した765プロの専用劇場施設を拠点に、春香さんら俗に言う“765 ALL STARS”の妹分に当たる、新たなアイドルグループを発足させる内容のものだった。私はアリーナライブのことで頭が一杯だったせいか知らなかったが、既に39人のアイドルの卵を募って夏休みの間にオーディションが何度も開催されていたそうだ。

 765プロの申し出としては、既にアリーナライブを成功させた実績を持つ私たち7人を、39 Projectの一員として正式に迎え入れたいと云った趣旨のものだった。

 

「そそそそんなん、訊くまでもないやないですか!」

「私たちが765プロのアイドルになれるんですかっ!? かっ、可奈ちゃん、どうしようっ!?」

「百合子ちゃん、落ち着いて! でも、もし39プロジェクトに入れたらまた春香さんたちに会えるのかなぁ……」

 

 代表者からの話を聴いたメンバーたちは、各々が悲鳴なような声を上げて興奮している。他のメンバーたちの反応は言うまでもなかった。私だけじゃなく、あの場にいた全員がアリーナライブで躍動する先輩たちの姿に少なからず感化されていたのだから。それに加え、アイドルを真剣に志す者として今や大手アイドル事務所に成り上がった765プロからの誘いは紛れもなくステップアップのチャンス。断る理由なんて何一つなかった。

 思いも寄らない765プロからの申し出に、興奮する6人。その傍ら、おそらくこの場で私独りだけが複雑な想いを抱えていた。

 

「北沢、お前はどうする?」

 

 胸の内を覗き込むかのように目を細めて、そう尋ねたスクールの代表者。

 私はあの日感じた猛烈な劣等感を振り払うように、唾を飲み込んだ。

 

「是非、参加させてください」

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「つまんねぇ」

 

 程よく冷房が効いた自室のベッドの上で、何もない天井をボンヤリと眺めながら口にした。

 せっかく学校も休みの週末。午前中は久しぶり舞い込んできた雑誌のインタビューの仕事があったが、それも昼過ぎには終わってしまった。思ったより早く現場が終わってしまったことで、暇を持て余した俺は家でゲームでもしないかと2人を誘ってみたが、

 

「ごめん、今日は無理なんだよねー。家族でご飯食べ行く予定があって」

「悪いが俺も無理だな、今日は夕方からデートの約束があるんだ」

 

 

 都合が合わなかったらしく、俺の誘いはあっさりと断れてしまった。

 その結果、俺は一人寂しく自宅に帰宅し、こうして暇を持て余しながらボンヤリと天井を眺める週末を過ごしているのである。

 ジュピターとしての活動費を自腹で工面している今、街に出て遊び呆けれるほどの金銭的余裕はない。それならジムに行って自主トレでもしようかとも考えたが、既に昨日ジムに行ってみっちり鍛えてしまったせいで今日は全身筋肉痛。学校やアイドル活動の合間を見つけて稼働していた日雇いのバイトも、今日ばかりは何処も募集していなかった。

 カチッカチッと、静かな部屋に鳴り響く秒針の音。狭い部屋の中の時間は、外の世界より何倍も遅いスピードで流れているように感じられた。

 

「……つまんねえ」

 

 シミひとつない天井を眺めて過ごすのもすっかり飽きて、俺は寝返りを打つとテーブルに置いていたスマートフォンを手繰り寄せた。

 何か面白いことでもないものかと、ニュースサイトを開く。だが俺の期待も虚しく、ニュースサイトにピックアップされていたのは、最近報道されていた有名芸能人の不倫のニュースとか、遠い世界のように思える政治のニュースとか、俺にとってあまり関心のないニュースばかり。相変わらずつまんねぇな、なんてボヤきながら、作業的にサイトをスクロールしている時だった。流れていく画面上に見覚えのある名前が目に付いて、俺は慌ててスクロールされていた画面を止めた。

 

「『今をトキメク765プロが大成功を収めた、アリーナライブ』……」

 

 口に出して読んだニュース記事の隣には、白を基調とする衣装に身を包んだ、かつてのライバルたちの写真。目についたのは、1ヶ月ほど前に俺たちも足を運んだアリーナライブについての記事だった。

 見出しをクリックし、表示された文章に目を通す。所々にライブの写真が散りばめられた記事は、ライブの構成からセットリスト、会場の演出に運営フロー、全てが初めてアリーナライブを行うアイドルグループだとは思えないほど完璧に洗練されていて、懸念材料であったバックダンサーたちも本番では765ALL STARSに見劣りしないパフォーマンスを魅せ、記念すべき765プロ初のアリーナライブに華を添えた––––……などといった、あの日のライブを大絶賛される内容のもだった。

 芸能記者たちの目から見てもあの日のライブは圧巻で、多くの界隈から凄まじい反響を集めたらしい。確かにライブ翌日には大きなニュース番組や新聞などの媒体でライブの様子が取り上げられ、SNSやインターネットでも765プロの名前を見かける機会が爆発的に増えた。ライブが終わって1ヶ月の月日が経過した今でもその余韻は消えることなく、テレビを点ければ連日のように765プロの誰かしらを目にしている気がする。もともとアリーナライブ前から星井美希と如月千早の海外進出や大型専用施設の建設など、765プロの躍進は何かと巷を賑わせていたが、今回の件で更に多くの注目を集めることに間違いなかった。

 記事の最後には、765プロの新たな取り組みとして近々始動する、“39 Project”についても触れられていた。飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続ける765ALL STARSの後輩グループとして目が離せない、と。

 

「…………つまんねぇっ」

 

 画面を消して、スマートフォンを枕元に放った。

 アリーナライブを成功させ、猛スピードで爆進する765ALL STARS。961プロを辞めてただでさえ差は開いていたのに、今回のライブでその差が何倍にも広がったのは確かだった。きっと今こうして俺が退屈な時間を過ごしている間にも、彼女らは慌ただしく仕事をこなしていて着実とキャリアを積んでいるのだろう。

 そう考えると、今こうして自室でボンヤリとした時間を過ごしている自分がとてつもなく罪深い人間のように思えて、慌ててベッドから体を起こした。リモコンを操作して冷房の電源を切り、通気性の良いジャージに着替える。

 

(……こんなままじゃダメだ)

 

 今のままだとアイツらに追い付くどころか、近々活動を開始する39 Projectの連中にもあっという間に置いていかれてしまう。もっともっと、誰よりも早い何倍ものスピードで走っていかないと、今の陽の当たらない世界から抜け出すことなんてできるわけがない。

 そう言い聞かせ、玄関でランニングシューズを履くと、筋肉痛の体を引きずって部屋を後にした。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 私は昔から人付き合いが得意ではなかった。

 正確には好きではないといったが正しいのかもしれない。

 他人はあくまで他人、自分は自分。何をするのにも結局は自分次第で、他人が自分に及ばす影響はさほど大きいモノではない。そういった個人主義が昔から根強く私の中に存在していたのもあり、基本的に他人とは最低限以上のコミュニケーションを取る必要がないとさえ思っていた。

 かと言って人と過ごす時間を否定するつもりもなかった。寧ろ、そういった時間の重要性も十二分に分かっているつもりだった。それを理解した上で、私は個人主義の生き方が性に合っているのだなと思って、人を寄せ付けない生き方を今まで貫いてきた。

 

 そのはずなのに––––。

 

「志保ちゃーん! 見てみて、このおにぎり私が作ったの!」

「ほらほら、たこ焼き持ってきたでー。志保も熱いうちに食べーや」

「志保ー! 特別ドリンク持ってきたよー、にゃははは!!」

 

「……可奈も奈緒さんも恵美さんも、もう少し静かに食べれないんですか? あとこの不気味な色のジュースは結構です」

 

 少しだけ暑さが和らいだ土曜日の昼下がり。劇場の屋上スペースでは、親睦を深める名目で開かれたBBQが大いに盛り上がっていた。

 快晴の空の下、食欲を刺激する匂いを乗せた涼しげな風が吹き抜ける開放的な屋上。まだ顔を合わせて日も浅い39人のアイドル候補生たちの中には初めこそ硬い緊張した空気が流れていたものの、その緊張が解れるのに時間はさほど要さなかった。

 

「えー、絶対美味しいって! 遠慮なんてしなくていんだよ?」

「いや、本当に結構です。ていうか、何を混ぜたらこんな色になるんですか」

「うーん、確かコーラとオレンジジュースとカルピスだったかな?」

「確かって……、覚えてもないのによく美味しいとか言えますよね」

「にゃははは!」

 

 私の言葉に、ケラケラと陽気に笑う恵美さん。その様子につられ、楽しそうに奈緒さんや可奈も笑っている。そんな周囲の様子を見て、私は妙な居心地の良さを感じていたのだ。

 

 偉大な先輩方、765ALL STARに続くアイドルグループとして始動した“39 Project”には、実に個性的な経歴を持つ39人のアイドル候補生が日本中から集められた。

 最年少は10歳で最年長は24歳。一般オーディションを勝ち抜いたメンバーもいれば、スカウトを受け上京してきたメンバーもいて、年齢も経緯もバラバラに集った39人の中には、元子役や読者モデルとしてのキャリアがある者もいれば、元ダンサーやバンドのボーカル経験者など、何かしらの分野で一芸に秀でたメンバーも少なくなかった。

 いくらスタートラインは一緒だと言えども、既に芸能界でのキャリアや知名度を持つ者と普通の学生として過ごしていた者とでは、実力差があるのは明確である。こればかりは致し方ないことだった。

 だけどいざ同じスタートラインに立ったら、前歴なんて言い訳に過ぎない。子役にも読モにも、元ダンサーにもバンドのボーカルにだって、誰にも負けたくなかった。このメンバーたちに負けないくらい強烈な魅力を放つアイドルにならないと、絶対にアリーナライブで痛感した春香さんたちとの差は縮まらないことを知っていたからだ。

 

「……なぁ、志保」

「なんですか?」

 

 得体の知れないドリンクを片手に、嵐のようにやってきた恵美さんが嵐のように去っていった後、奈緒さんに声をかけられた。奈緒さんの持つ紙皿の上では、爪楊枝が刺さったままのたこ焼きから出る湯気が、屋上を駆け抜ける風によってなびいている。

 

「むっちゃ意外やったわ、志保が来たの」

「意外って、どういう意味ですか?」

 

 あかん、せっかくのたこ焼きが冷めてまう。紙皿の上でなびく湯気に気が付いた奈緒さんは、慌ててたこ焼きを口に放り込んだ。

 

「せやからな、こういう場に志保がくるの珍しいなーって言うてんねん」

「……そうですか?」

「そうやろ。だってスクールの時なんか一度も集まりに顔出さへんかったし」

「それは……」

 

 確かに奈緒さんの言う通りだ。

 765プロにやってくる前に在籍していたスクールでは、こういった集まりに足を運んだことなんて一度もなかった。 親睦を深めたところで、アイドルとしての能力が上がる訳ではない。そう思っていたから、時折開催されるアイドル同士の集まりに参加する意味を見出せなかったのだ。

 奈緒さんは集まりがある度に私を誘ってくれていたが、私はその誘いを全て断っていた。だからこそ、今日のBBQに参加した私を見た奈緒さんは不思議に思ったのかも知れない。

 

「……なんか、志保は雰囲気変わったと思うわ」

「別に、私は私のままですよ」

「そうやねんけどな、なんか前より柔らかくなったわ。刺々しさがなくなって」

「刺々しさなんて、もともとありませんから」

「んなわけないやろ。可奈と揉めた時の志保、鬼みたいな形相しとったで」

「……それ以上言うと怒りますよ」

「おーこわっ! 冗談やって、そんな怒らんといてや」

 

 誤魔化すように私に肩を叩き、ニカっと綺麗な歯を見せて笑う奈緒さん。その屈託のない笑みを見てると、とてもじゃないが怒る気にはならなかった。その笑顔につられ、溜息混じり呆れて笑ってしまった。アリーナライブの前から薄々勘付いてはいたが、この人はお調子者に見えて本当に人の事をよく観察していると思う。

 奈緒さんの言う通り、本来私はこういった大人数で過ごす場はあまり好きではなかった。現にプロデューサーからメンバー同士の親睦会を兼ねたBBQ大会を開催すると聞いた時、端的に「面倒臭いな」と思った。そして、そんなことをするくらいなら、一日でも早くレッスンを始めるべきではないのかとも。アイドルとしてブレイクすることを目的に39 Projectにやってきた私にとって、肝心のプロデューサーが率先してアイドル活動に関係のないイベントを企画する意味が本気で理解できなかったのだ。 

 だがいざ参加すると、面倒くさいとか煩わしいといった気持ちは一切浮かんでこなかった。絶対に負けまいと、顔合わせの時にはあれほど周りのメンバーに対抗心を燃やしてライバル視していたはずのに、気が付けばライバルのはずのメンバーたちと打ち解け、居心地の良い時間を楽しめている自分が我ながら不思議で仕方がなかったくらいだ。

 

「……もし私が変わったのなら、それは春香さんの影響なのかな」

 

 アリーナライブで見た、偉大な先輩の背中を思い出す。温かくて優しい手で私を引っ張り、恐怖心を一蹴してくれた先輩の大きな背中は、私に沢山のことを語りかけていたような気がした。

 

「んー? 何か言ったか?」

「いえ、なにも」

 

 リスのようにたこ焼きを口一杯に頬張った奈緒さんに、私の独り言は届かなったらしい。でもそれで良かったのかも知れないと思う。だから私はそれ以上何も口にはしなかった。

 

「そんなことよりさー」

「次はなんですか」

「志保、時間は大丈夫なん? 今日は弟さんのお迎えに行かなあかんー、て言うてたやろ?」

「あっ!」

 

 奈緒さんの言葉に、慌ててスマートフォンの画面を付ける。

 いつの間にか進んでいた時計の針は15時を過ぎていた。ここから保育園までの距離を考えると15時には劇場を出なければと思っていたのに、その時間を既に超えてしまってる。

 慌てて鞄を手に取り、帰り仕度を始める私。その様子を、奈緒さんは楽しそうに笑って見つめていた。

 

「すみませんっ! お先に失礼します!」

「ほーい、気ィつけてなぁ」

「またねー志保ちゃん!」

 

 簡単な挨拶を残して、バタバタと屋上を後にする。背中から聞こえてくるメンバーたちの別れの言葉も今日だけは妙に居心地よく感じられてた。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 そういやアリーナライブが終わった後もここの公園に来たな、なんて思い返しながらランニングシューズの紐をキツく結ぶ。

 今日は週末なのもあり、公園の利用者も多い。親しげにベンチで肩を並べて話すカップルや、小さな子連れの家族、犬を散歩させている若い女性など、様々な目的でやってきた多くの利用者で公園は賑わっていた。あの夜の閑古鳥が鳴いているような公園の姿とは、とても同じ場所だとは思えないほどだ。

 

(帽子も被ってるし、変装は十分だろ)

 

 しっかりと変装を再確認して、腕時計のストップウォッチ機能を起動させていざ走り出そうとした時だった。

 俺に制止をかけるように転がってきた子供用のゴムボール。サッカーボールの模様が描かれたボールは公園から飛び出す勢いで転がっており、その軌道が視界に入った俺は無意識のうちにボールを止めようと右足を伸ばす。ギリギリのところで俺の右足はボールに届いたようで、勢いを殺されたボールは足元にピタッと収まっていた。

 

「あのっ、すいませんっ!」

 

 遠くから聴こえてきた若い女性の声に振り返ると、数十メートル先から慌てたようにウェーブのかかった黒髪を揺らして少女が俺の元へと駆け寄ってきていた。その後ろには、まだ小さな男の子が少女に遅れまいと付いてきている。どうやら突然転がってきた子供用のボールはこの姉弟のものだったらしい。

 右足に収まったボールを少しだけ引いて、その勢いを利用して上へと軽く蹴り上げた。久しくボールを蹴っていなかったが、未だにサッカー部だった頃に培った技術は残っていたようで、宙に浮いたボールを地面に落とさないようにと、俺はリフティングをしてみる。久しぶりのせいか、ボールを蹴るという単純な行為は無性に楽しくて、駆け寄ってくる姉弟にボールを返すのが名残惜しく感じてしまうほどだった。

 

 勿論、子供相手にそんな大人気ないことをするはずもなく。

 ボールを追う視線の中で少女が近付いてきているのを確認すると、俺はリフティングを止めてボールを手で掴んだ。

 

「ご迷惑をおかけしてすみません」

「いや、俺は別にそんな……」

 

 スラッとした背筋を綺麗に曲げて、礼儀正しく頭を下げる少女。

 何もボールが飛んできたくらいなのだから、そこまで深々と頭を下げなくてもいいだろうに。そう疑問に感じていたが、その理由はすぐに判明した。

 

「ほらっ、りっくんもちゃんとお兄さんにお礼を言いなさい」

 

 少女の隣では、『りっくん』と呼ばれる男の子が、小さな手で少女の手を握っている。これだけ小さな弟の前だから、少女は少し大袈裟でもちゃんとした礼儀作法を見せようとしていたのかもしれない。俺と同世代ほどに見える風貌なのに、かなりしっかりしているんだなと思わず感心してしまった。

 

「ほらっ、もうお姉ちゃんに迷惑かけねぇように、しっかり練習すんだぞ」

 

 なるべく子供と視線を同じにするように、屈んでボールを男の子に返す。視線を同じにすることで、子供に威圧感を与えることなく接することができる––––らしい。以前とあるテレビ番組に出演した際に、子供をわんわん泣かしてしまった俺に北斗が教えてくれたアドバイスだ。

 だが俺からボールを受け取った男の子はうんともすんとも言わず、ボンヤリと俺の視線を見つめ返していた。『りっくん』と呼ばれる男の子は、俺に怯えている様子もなく、かといって泣き出しそうな様子もなく、ただただ不思議そうに大きな目をパチクリさせて俺の顔をまじまじと見つめている。

 

「りっくん、お兄さんにありがとうは?」

「お兄ちゃんは––––」

 

 俺に気遣ってか、弟を急かす姉。だがそんな姉に目もくれず、男の子は予想外の言葉を口にした。

 

「もしかして、天ヶ瀬冬馬?」

 

 

 

「…………え?」

 

 素っ頓狂な声を出して、今度は姉が目をパチクリさせて俺を見つめた。

 

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