一月十八日。北沢の誕生日当日、東京は大雪だった。
朝起きるといつの間にか降り積もった雪が東京を雪に覆われた銀世界に変えており、テレビでは延々と交通機関の運転見合わせを報道している。窓の外を忍び足にように歩く僅かな人影を見ると、この一晩で随分と雪が積もったことを証明するかのような深い足跡が刻まれていた。それでもなお飽き足らないのか、東京を覆う灰色の空からはしんしんと雪が降り注いでおり、雪原に付けられた足音をかき消すかのように、新たな雪が積もっていく。空は寒波を緩めるつもりは毛頭なさそうだった。
眠気が一瞬で飛んでいくような別世界を暫く窓から眺めていると、テレビの中のアナウンサーが「東京は今晩にかけて吹雪になるでしょう」と興奮気味に伝えている声が耳に届いた。どうにもここ数年で最大規模の大寒波になるようで、しきりに積雪や地吹雪による災害を注意する呼びかけをしている。これは少し厄介なことになったなと思いつつ、俺はエアコンの温度を少しだけ高くしてから部屋を離れた。
顔を洗って部屋に戻り、一斉送信で届いていた休校の連絡には目もくれずにスマートフォンで北沢の家までのルートを確認してみる。ニュースでやっていた通り、電車は全線運転見合わせで再開の目処はなし、本数は少なかったが北沢の住む団地近くの病院まで走っているバスも本日は終日運休、残された交通機関としてタクシーは辛うじて走っているかもしれないが、この大雪と交通機関の麻痺具合じゃ予約どころか並んでても乗車できるか定かではないだろう。
交通状況のアプリ閉じてLINEに切り替える。北沢に一度確認しようかと考えたが、俺はすぐにその考えを打ち消した。北沢は優しいから俺の身を案じて今日は来なくていいと言ってくれるだろうと咄嗟に思ったのだ。
––––せっかくの誕生日だしな。
チラリとテーブルへと目をやる。テーブルには北沢にと用意していたプレゼントが自身の身の行方を不安視するかのように、寂しげに佇んでいた。
「……仕方ねぇ、今日は歩くか」
覚悟を固めるように一度だけ大きく息を吐いて、立ち上がった。なるべく防水性の高い靴を履いて行って(いずれにせよビショビショになるだろうけど)、団地に着いたら靴下とともに替えの靴に履き替えれば良い。それはひどく手間のかかることではあったが、嫌な気は微塵もしなかった。誕生日という特別な日に北沢に会える––––、たったそれだけのことが妙に嬉しくて、しきりに降り積もる雪さえも綺麗だと思えるほどに、今は全く煩わしさを感じなかった。
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家を出たのは待ち合わせの一時間半前だった。この時間は北沢の住んでいる団地まで歩いて四十五分と表示されたマップアプリから雪で足取りが重くなることを踏まえて逆算した時間だったが、雪が降っていなかったとしても俺は同じくらいの時間に家を出たのではないかと思う。待ち合わせの時間が近づくにつれ俺は北沢の喜ぶ顔を想像し、何気ない会話だけど温かみと居心地の良さを感じる北沢との会話を思い浮かべた。この時になって俺は初めて北沢は笑った顔が好きなんだなと気が付いた。ツンと張った頬が緩み、気の強そうな尖った目元でニコッと笑う北沢の顔は妙に魅力的で、普段のクールな表情も素敵だなとは思っていたがその何倍も俺の頭の中に強く印象的に残っていた。北沢のことを思い浮かべるたびに身体中は熱く火照って落ち着かなくなり、その度に気持ちを落ち着けようと時計を見て、あまり進んでいない時計の針を見てもどかしい気持ちになって––––。結局最後はジッとしていられずに家を飛び出してしまうものだから、もしかしたら俺は北沢よりずっと子供なのではないかと思えて、我ながら内心呆れかえってしまう。だけど俺よりも四つ下とは思えないほどに達観して落ち着きがあって、沢山のものを背負ってしまってもその重さに負けず、夢に向かって突き進む北沢は間違いなく俺よりも遥かに強い人間なのは間違いないと思っていた。
マンションを降りて一歩を踏み出すと、その瞬間にスニーカーが雪に埋もれてじんわりと冷気が足先にまで侵食してきた。それからすこし遅れて、靴下がじわじわと濡れていくのが分かる。一番耐水性のありそうなスニーカーを選んだつもりだったが、結局どの靴を選んでも結果は同じだったのかもしれない。空は綺麗に蓋を閉められたように灰色一色に染まっていて、朝から変わらないペースで雪が舞い降りてきては東京の街を白色に染め上げている。俺は暫く桜のようにゆっくりと舞う雪を眺めた後、冬の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、一通りが全くなく足跡一つ見当たらない綺麗な雪原の上を歩き始めた。
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北沢の団地が見えてきた頃、今朝の天気予報の通り空から降ってくる大粒の雪は綺麗な細氷へと姿を変えていた。いつの間にか強くなった横殴りの風が細氷を拐って、身が引き裂けるような寒さとともに俺の身体にぶつかっていく。何層にも着込んでいたのに直に冷たさが伝わってくるほど、元は細氷だった水分がコートの上から染み込んできていて、俺がマンションを出た時から握りしめていた傘はもう何の存在意義も持ち合わせていないほどに無力化されてしまっていた。
北沢が住んでいる棟の入り口に避難するように走って向かい、ようやく雪と風を凌げる軒下に辿り着くと俺は途中から存在意味を失っていた傘を畳んでリュックを下ろした。雪が溶けて色が濃くなった黒いリュックのチャックを手袋の上から開けて、真っ先にタオルを取り出して身体中の水分を拭き取る。リュックのポケットに入れてたスマートフォンの着信音が聴こえてきたのは、身体中の水分を拭き取ったタオルがずっしりと重くなり始めてきた時のことだった。
「……ん、誰だこの番号」
てっきり北沢からの着信だと思って画面を確認した俺だったが、ディスプレイに表示されているのは登録していない電話番号だった。手袋を外して直に冷気に晒され、感覚が失われつつある指先が通話ボタンを押すのを躊躇う。見覚えのない電話番号から電話がかかってきたことではなく、何かこの電話が良くない報せを告げる電話のような気がしていたのだ。
「……もしもし」
いつまでも諦めない着信に負けて、俺は電話に出てしまった。電話越しから真っ先に聴こえてきたのは誰かが息を切らして走っている呼吸の音だった。たったそれだけのことで、何やら騒々しい雰囲気が伝わってくる。寒さのせいか、背筋が凍るような感覚が走った。
『あ、もしもし! あまとう!?」
「と、所か?」
俺の名前を変わった呼び方で呼ぶ声で、電話主の正体がすぐに分かった。所は興奮したような口調で話していて、いつもの人懐っこさは微塵は感じられなかった。
『いきなり電話してごめんね! 北斗から電話番号聞いて』
「あ、あぁ。それでどうしたんだよ」
『ねぇ、志保が今どこにいるか知らない!?』
所の声の後ろで車のクラクションが鳴った。こんな天気の悪い日に、所もまた外に出ているらしい。背中に迷い込んだ一滴の水滴がゆっくりと首から腰にかけて降下していくのが分かった。嫌な胸騒ぎが収まらない。心臓がバクバクと激しい音を立てて脈を打っていた。
「北沢なら家なんじゃねぇの? それよりどうしたんだよそんなに慌てて」
『志保がいなくなったの! 学校は休校なのに家にも居ないらしくて」
「はぁ!? 居なくなったって、どうして……」
『そんなのアタシたちも分かんないよぉ! 今朝劇場に来て、プロデューサーに唐突にアイドル辞めますって言って出て行ったきりみたいで……。どこにいるのか分かんないからみんなで探してんの!」
今にも泣き出しそうな所の声を聴いて、心臓が止まりそうになった。
––––北沢が居なくなった? アイドルを辞める?
思考回路が所の話にまるで追い付かない。背後から細氷を乗せた風が誰もいない外の世界を一心不乱に走り抜けていく音が聴こえてきた。だけど不思議と寒さは感じなかった。
「ちょっと今北沢ん家の近くにいるから、家に行ってみて親に確認してみる!」
『……分かった。何か分かったらまた連絡して』
「あぁ、それじゃ!」
最後はもうすすり泣きのような声で喋る所にそう告げて、俺は通話終了ボタンを押して階段を駆け上がった。雪の中を歩いてきて疲労を溜め込んだ足が疲れを訴えていたが、俺はその反応を無視して一段飛ばしで階段を走っていく。足の疲労も、乱れた呼吸も、全てを忘れて俺は北沢が住んでいる最上階を目指して無心で走り続けた。
あっという間に辿り着いた最上階の右側のドアに『北沢』と書かれた表札が貼られていることを確認して、俺は肩で息をしながらインターフォンをグッと押す。ドアの向こうでインターフォンの音が鳴って、すぐにドアは開かれた。
「天ヶ瀬冬馬……くん?」
ドアの先に立っていたのは北沢の弟だった。俺を見上げる不安げな表情で目も泣いた後のように赤く腫れている。きっと姿を消した姉のことを心配していたのだろう、幼い弟の不安に怯える顔を見ると、胸がギュッと締め付けられた。
「よっ! 久しぶりだな。元気にしてたか?」
少しでも元気にさせようと明るく努めようとしたが、弟は笑わずに不安げな表情を浮かべたまま頷いただけだった。僅かに開いたドアの先から、誰かが歩いてくる足音が聴こえてきた。やがてその足音が止まると、誰かがドアを優しく押して更に開かれた。
「天ヶ瀬冬馬さん、ですよね」
出てきたのは小綺麗な女性だった。華奢な身体つきと肩まで伸びた綺麗な黒髪、何より少しだけ吊り上がった気の強そうなタレ目が北沢にそっくりで、この女性が北沢の母だということにすぐ気がつくことができた。
北沢の母は礼儀正しく頭を下げると、申し訳なさそうに優しい口調で俺に話かける。
「こんな雪の日にわざわざ来てくださったのに、ごめんなさい。ちょっと志保は今出掛けているようで……」
「さっき劇場の人から聴きました。北沢が居なくなったって」
やんわりと追い返そうとした北沢の母の言葉を、俺は遮った。一瞬だけ驚いたように目の端を釣り上げたが、すぐに困ったように溜息をついて「知ってたんですね」と言葉を漏らす。俺は頷いたが北沢の母はそれ以上何も言いはしなかった。だけど無理に追い返そうとする意思も感じられない。
「……北沢のやつ、ずっと言ってました。トップアイドルになって何処かで生きている父に見つけて欲しいって。それなのにアイドル辞めるって、一体何があったんですか!?」
「志保がそんなことを……」
今度は大きく目を見開いて、長い間俺の瞳の中を探るように見つめていた。まるで初めてその話を聴いたかのような反応を見て、北沢は父親に会いたいが為にアイドルになったことを母には伝えていなかったのだと察した。北沢の人間性的にも、母を気遣って自分たちを置いて出て行った父の話はあまりしたくなかったのかもしれない。
無言のまま視線を交わらせる俺たちの下では、取り残された弟が俺と北沢の母を交互に見つめていた。その視線の動きに母も気付いていたのか、弟の頭に優しく手のひらを乗せると、困ったように笑いながら言った。
「……あなたにはちゃんとお話しした方がいいのかもしれませんね」
弟の背中を部屋に押し戻すと、北沢の母はドアを九十度にまで開いて「どうぞ、入ってください」と、手招きをしながら口にする。俺は唾を飲み込んで浅く会釈をすると、濡れたままのスニーカーで北沢家の敷居を跨いだ。