【完結】ニタモノドウシ   作:ラジラルク

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ミリシタ生配信とっても楽しかったので初投稿です(感想偏差値2)




 誕生日の前夜、私は生まれて初めて母と喧嘩をした。喧嘩といっても私が一方的に母を責め立てて罵っただけだったから、喧嘩という表現はあまり適切ではなかったかもしれない。

 風呂から上がってきた母にナオキさんのLINEについて問い詰めると、観念したようにあっさりと全てを白状した。父は出て行ったのではなく既に他界していたこと、そしてそのことを今まで私と弟に意図的に隠し続けてきたこと––––。何故母が父の死について真実を語らずに今日まで隠してきたのか、その理由を更に追求したが母は壊れたロボットのように「ごめんね」と泣きながら謝り続けるだけで、私が求めている理由について一切話してくれなかった。

 そんな母の態度が気に食わなかったのか、はたまた死んだ父の存在を今でも追い求めていた愚かな自分に腹が立ったのかは分からない。だけど気が付けば私は母に怒りの感情の全てをぶつけていた。自分でもゾッとするような酷い言葉を沢山口にしてしまった気がするが、それでも私の怒りは収まらなかった。何処かで生きている父に私の姿を見つけてもらう為、そして私が架け橋となって家族皆が揃って笑顔だったあの頃まで時計の針を戻すことができたらと願う一心でアイドルを始めたのに、その指針が実現不能な意味のないものだったのだと知らされ、どうすることもできない怒りと絶望の感情の矛先を母に向けることしかできなかったのだ。

 その日は結局一方的に私が母に暴言を吐き続けて、だけど母は言い訳も抵抗もせずただひたすらに謝るだけで、平行線を辿るだけの不毛なやり取りを続け、私は自室に引きこもった。そして翌日の早朝、私は僅かな荷物だけをカバンにつめて家を出た。当然行くアテなんて何もなかったけど、それでももうこの家にいるのは無理だと思ったのだ。

 団地の外は東京では珍しいほどの雪景色が広がっていた。そういえば今日から過去最大規模の寒波が訪れるってニュースで言ってたことを思い出し、一晩のうちに積み重なった雪の絨毯に足を踏み入れる。薄い生地のスニーカーから雪が染み込んできて、すぐに液体となって私の足を冷やしたが、寒さも冷たさも私は何も感じなかった。

 大雪が降り積もる中、私はまずシアターへと向かった。灰色の空から無限に落ちてくる大粒の雪に傘もささず、突如平日の午前中にシアターにやってきた私を見てプロデューサーは驚いたような顔をして迎えたが、もうその私に構う表情すらも煩わしくて仕方がなかった。

 

「志保、どうしたんだ朝から。学校は休みなのか?」

「今日限りでアイドルを辞めます。今までお世話になりました。それでは」

 

 顔を合わせてすぐ、単刀直入に要件だけを告げて踵を返したが、プロデューサーのゴツゴツした手のひらが伸びてきて、すぐに私の腕を捕まえる。

 

「や、辞めるって、いきなりどうしたんだよ。せめて理由を話してくれないと」

 

 プロデューサーは激しく動揺しているようだった。だけど対照的に私は驚くほどに冷静だった。シアターを抜けることに対しても、アイドルを辞めることに対しても、哀しいほど未練や情が全く感じられず、私の声はむしろ清々しいまでの言い草にさえも聞こえた。

 

「続ける理由がなくなったからです」

 

 もともとは何処かで生きている父の目に留まりたい一心で始めたアイドル活動。その父がこの世にいないことを知ってしまった以上、アイドルを続ける理由が私にはなかったし、今更本来の目的に取って代わるような大きな目標や夢が見つかるとも思えない。目的も夢も持たずに続けれるほどアイドルという世界は甘くないし、私自身もそんな中途半端なまま続けるくらいなら辞めた方がマシだと思っていた。劇場には半年もいなかったけれど、目標や夢を持って真剣に夢を叶えようと努力するメンバーたちの中に指針を失った私のような人間がいること自体、場違いなような気がしてたのだ。

 

「もう辞めるって決めたので。それでは」

 

 何かを口にしようとしたプロデューサーより先に、これは決定事項なのだと念を押して伝え、有無を言わせず腕を振りほどく。一瞬だけ怯んだプロデューサーだったが、すぐに我に返り再度私の腕を握った。もう離さまいと、二度目は先程より私の腕を握るプロデューサーの力は強まっていた。

 

「続ける理由がなくなったってどういうことだ。ちゃんと事情を話してくれ」

「嫌です。プロデューサーには関係のないことですから」

「志保!」

 

 ほぼ怒鳴り声のようなプロデューサーの声が、私たち二人だけしかいない劇場のエントランスに木霊する。思わずしまったという顔をするプロデューサーを冷めた目で私は見つめていた。

 プロデューサーに何も話したくない。私の胸の内を覗かれたくない。その一心で全てを拒絶する私が、昨晩の母の姿と重なって見えたのだ。私が軽蔑した母と、全く同じことを私はプロデューサーにしている。無意識に線をなぞるように嫌悪した母と同じ行動をしてしまっている自分が憎くて仕方がなくて、胸の内から行き場のない怒りが込み上げてきた。その怒りが身体中に行き渡ると次第に変異し始め、今度は自分の存在がとても醜い存在に思えてきて、すると途端に視界に映る世界の色が枯れていくように消え去っていくのが分かった。もう何もかもがどうでもよかった。父が生きていようが死んでいようが、プロデューサーが怒ろうが哀しもうが、弾力を失った私の胸には何も響かなかった。この時、既に私の胸からは大きな何かが抜け落ちてしまっていたのだと思う。

 大きく腕を振ってプロデューサーの手を強引に剥がす。そして最後にもう一度だけ軽蔑した眼差しでプロデューサーを見つめ、それを最後の挨拶にして今度こそ踵を返した。エントランスから走り去っていく私をプロデューサーは何度もなんども呼び止めようと名前を呼んでいるような気がしたが、その声は私の耳の中にまで辿り着くことはなかった。

 

 劇場を出てからのことは正直あまり記憶にない。

 唯一覚えているのは、霰と細氷が入り混じった吹雪のような雪に打たれながら人通りが全くない東京の街を一人で彷徨い、何時間か経過した頃に歩き疲れ、空腹を感じてファーストフードの店に入った時のことだ。朝から何も口にしていなくて、お腹と背中がくっつきそうなほどに空腹だったはずの胃は食べ物を一切受け付けず、私は従業員が暇そうに雑談をしている店内のトイレで、胃に入れようとしていた食べ物たちを全て嘔吐した。私自身でも自分の身体に何が起こっているのか分からず、だけど眼からはひっきりなしに涙が溢れてきて、私は日が暮れるまで一人、トイレで嗚咽し続けた。

 身体が食べ物を受け付けない理由も、涙が止まらない理由も、訳が分からないことだらけだったが、店を出た時はもう涙は止まっていた。それは心が落ち着いたとかこの分からないことだらけの感情を理解したとか、そんな前向きなものではなくて、ただ単純に私の中で何かが一線超えてしまっただけのような気がした。

 それから私は意味もなく街を彷徨い続け、気が付けば父との思い出が一番多く残っている高台の公園に流れ着いていた。日が暮れても尚、空から舞い降りてくる雪はその手を緩めず、私以外に誰もいない公園を健気に照らす街灯の上に降り積もっている。雪に埋もれた街灯の灯りが霞む蜃気楼のようにか弱く儚げな存在に見えて、真っ白な公園はまるで終焉を間近に控えた世界のようだなと思った。芝生広場とその周りを囲うトラックの境目も分からなくなるほど積もった雪は、いずれ街灯をも覆い尽くし、世界はこのまま雪に埋もれていってしまうのだ––––、そんな絵空事を私は一人街灯を見上げながら考える。私の存在自体も雪に覆われて消えて無くなってしまえればいいのと、そう強く願いながら。

 雪は私の望みを叶えるかのように、優しく私に降り積もっていった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「あの、先日はありがとうございました。陸は勿論、志保も本当に嬉しかったみたいで」

 

 俺だけを綺麗に整理されたリビングに取り残し、弟の手を引いて別室へと向かっていった北沢の母が一人で帰ってくると、開口一番にそう告げて浅く頭を下げた。どうやらクリスマスプレゼントのことを指していたようで、俺もぎこちない口調で「いえ」とだけ返す。少しだけ緊張していたのか、無意識に腰を上げて椅子に座り直したタイミングで北沢の母に「コーヒーでよかったですか」と尋ねられた。俺は黙って首を縦に振った。

 狭い台所でケトルでお湯を沸かす北沢の母の顔をチラリと覗いてみる。北沢と同じようにピンと張った表情筋に曇りはなく、初めて会ったばかりだがきっとこの人はいつもこのような顔をしているのだなと直感的にそう思った。それは娘が家出をしたばかりとは思えないほど、落ち着いた顔つきだった。

 コーヒー豆の匂いが漂ってくると北沢の母が二つの珈琲カップを持って戻ってきた。俺は慌てて視線を逸らすと、着地点を探して周囲に泳がせる。ふと棚に飾られた写真立てが目に入って目を細めると、遠目に見える写真には四人ではなく三人の人影が映っているのが分かった。父親がいない三人だけの写真が、俺のような赤の他人が見てはいけない秘密のように思えてしまい、慌ててまた目を逸らした。

 

「……それで、天ヶ瀬さんは何処までご存知なのでしょうか」

 

 俺の向かいに腰を一直線に伸ばして座る北沢の母がそう切り出した。それが何についてなのか分かり兼ねたが、話の脈絡的に北沢一家のことなのだろうと推測をする。そういう微妙に言葉が足らないところも北沢と似ていて親子なのだなと思い、変に実感させられた。

 

「六年ほど前にお父さんが突然家を出ていったとだけ聴きました。あとはお母さんが仕事で忙しいから、合間を縫って家事を手伝っているとか、弟さんの迎えに行ってるとか」

「そうだったんですね。先ほど仰っていたことについては?」

「先ほど?」

「はい。志保がアイドルになった理由です」

「あぁ、そのことですか」

 

 やはり北沢は伝えていなかったようで、北沢の母は一番知りたかった話は、北沢がアイドルを志した理由だったらしい。ここまで来てしまった以上、言い逃れはできないのだと分かっていたが、今から話そうとしていることに対して俺は背徳感を抱いていた。きっと北沢は母に気遣って父の面影を探していることは伝えていなかったのだと思う。それを第三者の俺が暴露して良いことだとはどうしても思えなかった。

 俺の後ろで窓が揺れる音が聴こえてくる。細氷を乗せた風が窓を激しく叩いているようで、沈黙が漂うリビングに大きい音を轟かせていた。北沢の母はそんな外の音がまるで聴こえていないかのように、ただ俺の顔の一点だけをジッと見つめて、言葉を待ち続けている。

 その視線に負けて、俺は重い口を開いた。

 

「……さっきお伝えした通りです。アイドルとして有名になれば、何処かでお父さんが北沢の姿を見てくれるかもしれない。北沢は俺にそう話してくれました」

「そう……だったんですね。それは初耳でした。あの子、あまり私に本音を話してくれなかったから」

「北沢なりに気を遣ってたんだと思います。前みたいには戻れないって言ってましたけど、本当は家族揃って暮らしたいって思ってるみたいだったから」

「……だとしたら、私はきっととんでもない裏切り行為をあの子にしてしまったんでしょうね」

 

 達観した声で、だけどどこか悲壮感が滲んだ声で北沢の母はそう口にした。裏切り行為ですか、と言葉の意味を汲みきれなかった俺は咄嗟に訊き返す。北沢の母は大きく首を縦に振ると一呼吸置いて、ハッキリとした口調で罪を告白した。

 

「夫は六年前に既に他界しています。そのことを、私は志保と陸に隠し続けてきました」

「………………え?」

 

 思いも寄らない発言を聴き、電気ショックのような衝撃が身体中を走り回る。思考が全く追いつかなくて、自分でも混乱しているのが手に取るように分かった。

 北沢のお父さんが死んだ? それも六年前に?

 意味が分からなかった。だって北沢は父が何処かで生きてるって言ってたし、その父にもう一度会いたいが為に強い意志でトップアイドルを目指していたはずだ。それなのにその父が既に死んでいるって、どういうことなんだ。

 

「偶然昨晩、私のスマートフォンにきていた父の弟のLINEを見てしまい、それで気が付いたようです。志保は激しく憤慨し、私はただただ謝ることしかできませんでした。きっとそんな私に、志保はどうしようもないほどの憎悪を抱いて出て行ったのでしょう」

 

 唖然とする俺を取り残し、北沢の母は淡々と話を続けて行く。にわかに信じられない話ではあったが、北沢の母は父を亡くなった者として扱い、何の感情も見せないまま機械のように抑揚のない声色で語り続けていた。

 その姿が、北沢の父が亡くなっていた事実をジワジワと俺の胸に突きつけてくる。受け入れたくないと咄嗟に拒んでいた現実がものすごいスピードで迫ってきて、俺はそれをモヤモヤしたまま受け入れることしかできなかった。

 北沢の父は既に亡くなっていて、そのこと北沢本人は知らなかった。だとしたら北沢が今までやってきたことは何だったのだろうか。いくらトップアイドルになっても、全世界中の人が北沢志保の存在を認知したとしても、父が死んでしまっていたのなら会うことは絶対に叶わないではないか。そうだとも知らず、寿命を削り取る勢いで自分を追い込み続けた北沢の血の滲むような努力に一体何の価値があったのだろう。

 それは北沢のアイドル活動の全てを否定する、あまりにも一方的で理不尽すぎる現実だった。

 

「なんで、そんなことを……」

 

 北沢が家出をした理由も、アイドルを辞めると突然告げて姿を消したわけも、ようやく理解することができた。それが当然のことだと思えるほどに、現実は非情で酷すぎたのだ。

 北沢がどれだけの強い思いでアイドル活動を頑張っていたのか、あの小さな背中にどれだけのものが積み重なっていたのか––––。この人は親なのに、どうしてそのことに気が付いてあげれなかったのか。

 胸の内がグツグツとマグマのように沸騰し始めて、自然と北沢の母に対して怒りが込み上げてくる。北沢の母は一切表情を崩さず、冷静なまま怒りに打ち震える俺を見つめていた。

 

「陸が生まれてすぐのことです。夫の身体に癌が見つかって、もう長くは生きられないと分かったのは」

 

 込み上げてくる怒りを、どうにか唇を噛み締めて堪える俺にゆっくりとした口調で語り始めた。きっと俺は今敵意の含んだ眼差しで北沢の母を見ているのだろうけど、それでも北沢の母の表情はピクリともしない。鉄のように硬い表情をしたまま、話を続ける。

 

「それから夫とは何度も話し合いました。子供達にどう打ち明けるか、これからどうするべきかについて。だけど私たちはどれだけ話し合っても最良の選択を見つけることはできませんでした」

「……それで行き着いたのが、こんな酷い選択だったのかよ」

 

 あまりにも北沢が不憫すぎて、思わず本音が溢れてしまった。それでも北沢の母は「本当に酷い選択をしてしまったと思います」と言い訳のように口にしただけで、相変わらず動揺した様子は一切見せない。

 

「志保は昔から内気な子供でした。保育園に行っても他の子達との間に入って行けずいつも一人で遊んでいて、先生にもずっと警戒するように距離を取っていて……。だけど志保はお父さんっ子で、家ではとても父に甘えていたのを覚えています」

「だから、隠していたのか?」

「そうです。私も夫も、志保に父が亡くなったと知られるとどうなってしまうか––––。そのことを一番に懸念しました。最愛だった夫を失うことが志保にとってどれほど大きなショックになるのか、そのショックから立ち直れなかったり一生塞ぎ込んでしまうのではないかと。夫は死ぬ直前まで志保の未来を気にかけていました。だから志保が成人するまでは隠しておこうと。そう二人で決めてたんですけど……」

 

 そこまで言って、息を詰まらせるように言葉を区切った。

 微動だにしなかった北沢の母の表情が一気に崩れ去っていく。いつの間にか鉄のように硬かった表情は綻んで、気を緩めたように弱々しくなっていた。表情筋が緩んだ頬に一滴の水滴が、今朝から東京の街を白に染める雪のように、優しく、静かに伝っていくのを俺は見逃さなかった。

 

「––––結局、私たちのその気遣いが志保を余計に傷付けてしまったんですよね」

 

 その言葉を口にした時の北沢の母の表情を見て、俺は自身の誤ちに気が付き、胸が張り裂けそうになった。

 俺は大きな勘違いをしていた。北沢の母は残忍で冷徹な人間なんかじゃなくて、必死に自分たちが犯した罪を背負い、一人で向き合い続けてきた強い人間だったのだと。夫に先立たれ、独り残されても子供達を育て上げて、亡くなった父との約束を守り続けてきたこの六年間は孤独で苦しい時間だったに違いない。きっと北沢の母も早い段階で自分たちが選んでしまった選択が間違いだったことには気付いていたはずだ。そうだと分かっていながらも、北沢の未来を案じて嘘をつき続けることにどれだけの罪悪感を感じ続けていたことだろうか。

 きっとこの人だって誰よりも悲しかったはずなのに、北沢や弟の前で涙を見せることもせず、今日まで必死に悟られないように平静を取り繕って生きてきたのだと思う。父を失った悲しみを残された家族と共有することもできず、一人で全てを抱え込んで生きてきた北沢の母の六年間の苦労を思うと、どうしようもないほどに胸が痛んだ。

 北沢家の運命はあまりに複雑に絡み合い、そして縺れ合ってしまっている。悲しい哉、長い年月を経てしまった以上、ここまで絡み合った糸はどれだけ泣いても悔いても、解けないほどに入り組んでしまっているようだった。

 

 ––––似た者同士なだけじゃねぇか。北沢も、お母さんも。

 

 あまりに残酷すぎる運命に翻弄されてしまった北沢家を想うと、気の毒なんて言葉じゃ済まされないほどに猛烈な行き場のない悲しみが溢れてきた。

 北沢も母も亡くなった父も、誰も悪くなんかない。ただ皆それぞれが不器用すぎたが故に、こんな悲劇が起こってしまったのだ。父は間近に迫った自分の最期より家族のことを想い、母は自分の悲しみよりも残された子供達の未来を案じ、そして北沢は両親のために人生を賭けてアイドルを志した。お互いがお互いのことを想って、それぞれの形で大切な人に幸せになってほしい一心で行動してきたはずなのに、その想いが強すぎたが故に皆が不幸になってしまっている。

 

 どうして大切な人を誰よりも守りたいと願っていただけのはずなのに、こんな負の連鎖のように悲しいことが起こってしまうのだろう。

 どうしてこれだけの哀しみをそれぞれが一人で抱え込まなくちゃいけなかったのだろう。

 

 北沢家が歩んできた六年間は、俺の遥かに想像を絶する過酷な時間だった。その中でも大切な人を想い、凛とした強さで生きてきた母と北沢のあまりの報われなさが、ただただ哀しかった。

 

「……北沢に嘘を吐き続けたのは正解だとは思わない。けど、お母さんと亡くなった旦那さんの気持ちも分かります」

「お気遣い、ありがとうございます」

「気遣いなんかじゃなくて––––」

 

 違う。そんなんじゃねぇんだよ。

 思わず涙が溢れそうになって、俺は慌ててシャツの袖で目元を拭った。こんな言葉をかけたところで安い同情にしかならないことは分かっている。部外者の俺なんかが北沢家が歩んできた六年間の苦労を理解することなんてできないことだって。

 だけど、それでも俺は伝えたかった。伝えなければならないと思っていた。同じ経験をしてきた人間として、これ以上哀しみを一人で抱え込もうとする北沢の母を、放っておくことができなかったのだ。

 

「……俺も、幼い頃に母を癌で亡くしたんです。だから親が子を想う気持ちも、残された子の想いも、なんとなくでも分かっているつもりです」

 

 鼻を啜って、零れ落ちそうになる涙を必死に堪える。

 北沢の母が一度だけ肩をピクンと跳ねさせた。そして次の瞬間、口元に手のひらを被せてボロボロと涙を流し始めた。

 

 

 

 

 北沢家を出たのは、積もりに積もった雪が街灯に照らされて白く光っている頃だった。団地を降りて吹雪の中に身を投じると、最後に窓から灯りが溢れる北沢の住む部屋をもう一度だけ見上げた。横殴りの細氷の先、窓から溢れる暖かな灯りを見て、北沢家は優しくて暖かい家庭だったなと思った。母も子も、そして亡くなった父も、皆が自分のことより大切な家族のことを優先し想いやっていた。その想いの形は各々で違っていたし、その結果すれ違いが発生してこんな悲劇が起こってしまったけれど、そこに家族の絆と愛情が存在していたのは間違いなかった。

 だからこそ、北沢を絶対に連れ戻さないといけない。亡くなった父も、その哀しみを一心で背負ってきた母のためにも、その両親を誰よりも愛していたであろう北沢のためにも。それぞれの優しい想いをこんな形で終わらせてしまうのはあまりにも憐憫すぎる。例え父がいた頃の生活には戻れないにしても、それでも北沢一家には人並みの––––、いや、どの家庭よりも幸せになってほしいと俺は強く願っていた。これだけ苦労と哀しみを抱えて、それでも自分のことよりも大切な誰かを思いやる強さを持った優しい人たちだからこそ、誰よりも幸せにならなければいけないのだと。

 北沢家の優しい温もりが溢れる窓を遠目に、ポケットに手を突っ込むと凍える指先が薄い紙のようなものに触れた。北沢の母が別れ際にもどかしい想いとともに、「何かあったらすぐに連絡をください」と一言添えて、俺に託してくれた北沢の母の電話番号が書かれたメモだった。

 きっと俺の何倍も北沢のことを心配していたであろう北沢の母は最後の最後まで自分自身もこの大雪の中、外に出て北沢を探しに行こうとしていた。だけどそれだと弟が家に一人になってしまう上に、万が一北沢が帰ってくるようなことがあったら入れ違いになってしまう可能性がある。そう俺に説得され、分かったような顔をしながらも、北沢の母は最後まで家で待つことしかできない自分を責めるように、俺を見送り続けてくれた。

 その視線を思い出し、メモがしっかりポケットに入っていることを指先で確認すると、俺はフードを被って雪原の中を走り出す。北沢の行く先は検討がついていた。

 

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