肉体的にも精神的にもよっぽど疲れていたのか、俺が起きてから数時間後に北沢はゆっくりと目を覚ました。寝起きの時こそ取り乱したように少々混乱していたが北沢は俺が思っていた以上に落ち着いていて、顔にはまだ多少の疲れの色が残っていたものの、昨晩のような虚ろな表情をしているわけでもなく、見た限りでは受け答えも意識はハッキリしている。だけどその瞳だけはまるで心ここに在らずといった北沢の心の内を表しているかのように、ボンヤリとしているようにも思えた。
(父親の為にアイドルになったのに、その父親が亡くなってたんだから仕方ねぇか)
こればっかりは時間が解決するのを待つしかないと思っていた。
いくら話を聴いてやってもありふれた言葉で慰めても、親を亡くしたショックはちょっとやそっとで癒されるものでもなく、自分もそうだったように結局は本人が乗り越える他に前に進む手段はないのだ。
今の俺にできることは、少しでも北沢の側にいて変な気を起こさせず、父の死を乗り越える彼女を支えることくらいだ。だけどその限られたできることを、俺は北沢のために全力でやっていきたいと思っていた。同じ経験をした人間として、そして愛する人間の力に少しでもなりたい一心で、それこそ今まで俺が北沢から自然と勇気をもらっていたように、今度は俺が北沢を支えてあげたいと。抱き締めることしかできずに自分の無力さを痛感した昨晩、俺はそう心に強く誓ったのだ。
だからこそ、今の北沢を独りきりにさせるのは些か不安で後ろ髪を引かれる思いではあったが、それでも誰かがやらなければいけないことだ。俺は「用事があるから」とだけぼかして、昼まで出掛ける旨を伝えた。
「絶対だからな、絶対だぞ?」
家を出る直前まで俺が帰ってくるまでこの部屋から出ないようにと、何度もなんども釘を刺す。ほんの少し目を離した隙に、北沢が昨晩のような良からぬことを考えてしまうのではないかという不安があったからだ。
「……大丈夫ですってば」
言葉にこそしなかったが、北沢は俺の胸の内を理解しているようだった。その上で大丈夫だという北沢の言葉を信じ、俺は部屋を出る。依然として空は灰色の雲によって青みを隠されていたが雪は止んでおり、昨日は一面真っ白だった道もところどころでは雪を存分に染み込ませて一層黒くなったアスファルトが顔を出していた。道路の端に残された雪も多くの人たちに踏み荒らされた痕跡があり、昨日までの非日常感は少しずつ薄れているようだった。
過去の記憶と目的地までのルートを表示しているマップアプリを頼りに、今朝から通常運行に戻った電車を乗り継いで、俺は海沿いのとある駅に降り立つ。都市部から少しだけ離れたこのエリアは平日の午前中なだけあって人の通りも少なく、俺を含めて下車した人間は片手で数えられるほどしかいなかった。
そんなまばらな数の人たちを追い抜いて改札を出ると、海の匂いを含んだ乱暴で荒々しい風が俺を出迎えてくれた。遠くにはレインボーブリッジが見えて、遠景には今朝テレビでも見たテレビ局の建物が見える。ここからのルートを最後にマップアプリでもう一度だけ確認して閉じて、北沢の母に電話をかけた。
『もしもし、北沢です』
三コールもしないうちに電話は繋がった。北沢の母は相変わらず娘そっくりの抑揚のない声をしていて、思わず緊張を感じてしまって、背筋が一直線に伸びる。緊張を解そうと息を吐き出すように一呼吸つくと、ぶわっと真っ白な息が口から溢れてきた。すぐに肌寒い風に晒されて消えていった冬の息を見て、雪は溶けてもまだまだ冬は終わりそうにないなと、そんな漠然としたことを俺は感じた。
「おはようございます、天ヶ瀬です」
『おはようございます』
「今、時間大丈夫でしたか?」
『えぇ、大丈夫です。どうされました?』
電話が掛かってきたことに驚きもしなければ、話を催促するような焦りも感じさせない、まるで感情を持たない機械のような話し方だった。だけどそれが決して北沢に無関心だからというわけではないことを俺は知っている。感情を表に出さない人ではあるが、不器用ながらも娘のことを精一杯愛し、案じていることを、昨日俺の前で見せた北沢の母の綺麗な涙から察していたのだ。
「ちょっと相談ってか、お願いがあって……」
潮の香りを乗せた海風が前髪をさらって、視界が開ける。電話を耳に当てながら顔を上げると、海沿いの公園の近くにそびえ建つ、立派な建築物が目についた。
「765の関係者に北沢の事情を話してもいいですか? 765の人たちも随分心配してるみたいだったから、とりあえず北沢が無事なのとちゃんと今回の事情を説明した方がいいかなって思って」
もちろん、公にするのではなくプロデューサーなど一部の人間だけに伝えるだけだと慌てて言い訳をするように付け足した。
今回の一件が北沢家のプライバシーに触れる話だということも、そしてそれを赤の他人の俺が説明するのが適切ではないことも分かっている。だけど昨日所から電話が掛かってきた時の様子から察するに、いくら北沢自身が直接辞めると伝えていたとしてもそれを納得していないから皆が心配して探し回っているのであって、ここまで大勢の人を巻き込んでしまった以上、誰かがちゃんと事情を説明しなければいけなくなってしまっていた。
かと言って今の状態で北沢本人を行かせるのはおろか、未だに北沢とちゃんと話をできていない母が行くのも得策とは思えない。その結果、消去法ではあるが親の承認があるとはいえ家出をしてきた北沢を匿ってる俺が説明するほか、選択肢があるとは思えなかったのだ。
『……構いませんよ。むしろ、お願いします。本当は私や本人がお話しした方がいいんでしょうけど』
少しの間を挟んで、あっさりと承諾してくれた。事情が事情なだけに断られることも想定していたが、北沢の母は断るどころか「ご迷惑ばかりかけて本当にすみません」と度々俺に謝罪の言葉を口にしていた。電話越しだったから顔こそ見えなかったが、昨日の記憶から想像される北沢の母の姿がまぶたの裏に浮かんでくる。イメージの中の北沢の母は自身の逸る気持ちを押し殺しながらしきりに頭を下げていて、その姿が俺の胸をギュッと締め付けた。
だけど今の俺では無責任な慰めの言葉をかけることすらもできず、「また連絡します」とだけ約束して電話を切ることしかできなかった。
北沢の母から許可も無事に取れた俺は劇場の前で足を止め、765 THEATERと大々的に掲げられた看板を見上げながらこれからどうしようかと頭を悩ませる。平日の午前中なだけだって、劇場のエントランスは電気が点いておらず、開かない自動ドアの先には『準備中』と書かれた立て札が一人寂しくポツンと佇んでいるだけだ。以前北沢から劇場には普段から誰かしら人がいるのだと聞いたことがあったから今日も例外ではないのだろうけど、一応今は営業時間外。俺のような直接的に劇場と関わりのない人間が正攻法で劇場に入ることはできない。
とりあえず所に電話をしてプロデューサーに繋いでもらうか。そう思ってスマートフォンを再びコートのポケットから取り出した時だった。
「天ヶ瀬さん?」
突如、背後から名前を呼ばれた。慌てて声の方を振り返ると、栗色の髪をしたショートカットの女の子が驚いたように目を見開いて俺を見つめていた。
––––え、誰だコイツ?
俺の名を呼ぶ女性の姿に、見覚えがなかった。だけど相手は俺のことを知っているようで、肩にかかるくらいの辺りで綺麗に整えられた髪を潮風に揺らしながら、じっと俺を見つめている。そして俺の胸の内を見透かすかのように優しく笑って、こう言った。
「志保ちゃんのことで来たんでしょ?」
★☆★☆★☆★☆
劇場の二階に位置する控え室に通されて待つこと数分、やって来たのは以前駅前でビラ配りをしていた時に偶然会った若い男性のプロデューサーだった。
聴けば彼が39 Project全体を統括するプロデューサーのようで、アポなしでやってきた俺を見るなり最初はキョトンとした顔をしていたが、嫌な顔一つ見せずに俺を出迎えてくれた彼に今回の一連の騒動の全てを打ち明けた。北沢がアイドルになった本当の目的や、北沢家が隠してきた父の死についても、プライバシーに踏み込んだ話をする度に背徳感と罪悪感に駆られたが、それでも俺は自分が聴いてきた話を全てありのままに伝えた。予想していた通り、プロデューサーは俺の話の殆どが初耳だったようで、終始驚いた顔をしていたが一通りの話が終わるまで相槌を打つだけで、ただただ聞き手に徹し続けるだけだった。北沢が俺の家にいることについても、俺との関係についても深くは言及してこなかった。今は俺との関係性の話はさほど重要ではないと思っていたのかもしれない。
「……そうか、志保にはそんな事情があったんだな」
程よく暖房が効いた控え室で、俺の向かいに座るスーツ姿のプロデューサーが大きく息を吐くようにそう口にした。一通りの話を聴いたプロデューサーは一応納得はしたようではあったが、かといって根本的な解決策を思い付いたわけでもなく、正直どうすればいいのか分からないといった困惑した表情を浮かべていた。だけどそんなリアクションになるのも仕方がないと思う。これはあくまで北沢家の問題であって、俺たち部外者がどうこうできる問題ではなかったのだから。俺自身も、プロデューサーや765の連中に解決策を求めて来たわけでもなかったため、こうなることはある意味想定内であったのだ。
一連の話を終えて、俺がやってきてすぐに事務員と思われる若い風貌の女性が持ってきてくれたお茶に初めて手を付ける。だけど湯気が出ていたはずのお茶はいつの間にか温くなってしまっていて、思っていた以上に長い時間俺が話し込んでいたことを物語っていた。
「申し訳ない、色々と巻き込んでしまったようで」
「別に……。俺が好きでやってることだから気にすんなよ。それより……」
目の前に座るプロデューサーから視線を外し、その背後へと向ける。俺の視線が捉えたのはこの部屋に案内された時からずっと気になっていたホワイトボードだった。落書きのようなメッセージがビッシリとホワイトボードを覆い尽くしており、その中心には一際目立つようなフォントで“北沢志”とまで書かれていて、右端には何かの文字を入れるために空けられたであろう空白が中途半端に残ったままになっていた。
プロデューサーも腰を捻って俺の視線の先を確認すると、「あぁ、あれか」とだけ言って苦笑いを受かべた。
「昨日は志保の誕生日だったから、未来がサプライズでお祝いしたいって言い出してな。あぁ、未来ってのは––––」
そうだ、あまりに色々なことが起こりすぎてすっかり忘れていたが、昨日は北沢の誕生日だったんだっけ。大雪の中、北沢の喜ぶ顔だけを思い浮かべて家に向かっていた昨日の自分が随分と遠い日の出来事のように思えてしまう。
「春日未来だろ? 前仕事で一緒になったことあるから分かるぜ」
「あー、そっか。去年の夏終わりにファッション雑誌の現場で被ってたんだっけ」
俺の言葉にプロデューサーは思い出したかのようにそう言うと、捻っていた身体を戻して湯呑みを口元に運んだ。喉が渇いていたのか随分と多くの量を口に含んで、底が見えるほど量が減った湯呑みをそっとテーブルの上に置くと、再びホワイトボードへと視線を戻す。ゴクッとお茶を飲み干す音が、静かな控え室に響いた。
「……それで皆が一昨日の夜から志保には内緒でパーティーの準備をしていたんだ。だから突然辞めるって言いに来たことを知って、皆もビックリしてたよ」
一段声のトーンを落として、寂しげにそう言った。その横顔を見て、胸がチクリと痛む。ホワイトボードを眺めるプロデューサーの眼差しは遥か昔を振り返るかのようで、それが既に北沢志保の存在を過去形にしてしまっているように映って見えたのだ。
「北沢のことなんだけど、もう少しだけ待っててくれ!」
プロデューサーの視線に我慢できずに、思わず椅子を蹴って立ち上がった。頭の中に浮かんできた言葉をそのまんま言葉にして叫んだせいか、後ろに倒れた椅子が床を叩く音より大きな俺の声が部屋中に轟く。プロデューサーはぽかんとした表情で俺をじっと見上げていた。
「確かにアイドルを辞めるってアイツは言ったかもしれないけど、それでも色々落ち着いた時にアイドルをまたやりたいって思うかもしれない。だから、その時のためにアイツの籍だけは残してて欲しいんだ」
こんなことを俺が伝えるべきではないのかもしれない。
北沢がアイドル活動に対して本当に未練があるのかどうかさえも、俺には分からない。
だけど、たとえこれが俺の勝手な願望だったとしても、このまま北沢にはアイドルを辞めてほしくなかった。始めた理由はどうであれ、あれほどまでに熱中していたのだから、少なからずアイドル活動に対する充実感や楽しみを感じていたのだと思う。アイドル活動を通じて叶えたかった夢は実現できなくなってしまったのかもしれないが、それでも北沢が見つけた本気になれる大切なモノを、俺はこんな形で失ってほしくはなかった。
「……大丈夫だって。心配するな」
興奮まじりに話す俺とは対照的にプロデューサーは俺を見上げたまま、口角をキュッと結んで笑っていた。
「俺も劇場の皆も、ここにいる全員が志保の帰りを待ってるから」
「それじゃあ……」
「あぁ、活動休止中として籍は残しとくつもりだよ。社長にも俺が説得してみせる」
その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろし、腰を下ろす。プロデューサーの力強い言葉を聞いて安心するのと同時に、北沢は俺が思っていた以上に皆から大事にされていたことを知って、まるで自分のことのように嬉しくなった。
お世辞抜きにしても決して愛想が良いとは言えず、不器用な性格なのも相まって人付き合いが苦手な上に、夢を追う過程で誰かと一緒に頑張ることを馴れ合いだと口にしていた北沢に対する俺のイメージは、ずっと孤独な姿だった。誰かと特別仲良くするわけでもなく、それこそ人に一切媚びない野良猫のように、ただひたすらに自分一人で誰の手も借りずに、ずっとずっと遠くにある夢を一心不乱に追っかけている姿ばかりを思い浮かべていた。
だけど、実際はそうではなくて、ここにいる大勢の人が不器用な北沢のことを理解してくれていて、ちゃんと劇場には彼女の居場所があったのだ。北沢に秘密で誕生日パーティーを企画してくれるような仲間がいて、突然アイドルを辞めると聞けば所のように雪の中必死に探し回ってくれる人もいて、そしていつになるか分からない帰りを信じて待つプロデューサーがいて……。俺が知らないだけで、北沢と劇場の人たちとの間に絆が存在していたのは間違いなかった。
––––アイツ、独りじゃなかったんだな。
そのことを知って安心する反面、そんな北沢のことがほんの少しだけ羨ましくも思えた。俺たちジュピターは961プロにいた時からある意味孤独で、騙されていたとはいえ天海たちを敵視して見下して、北沢のような心の底から信頼できるライバルや仲間と呼べる存在がずっといなかったのだから。
「……それより、赤羽根さんから聞いてた通りだ」
「はぁ? 何がだよ」
突然脈絡のないことを言われ、俺は思わず訊き返した。前任の名前を出して含み笑いをみせるプロデューサーはゆっくりと立ち上がると、持て余していた右手で隣の椅子に掛けていたジャケットを掴み、背中で広げて両方の袖に腕を通す。ジャケットを羽織るとチラリと腕時計を確認して、僅かに残っていた湯呑みの冷え切ったお茶を飲み干した。
「天ヶ瀬冬馬は少々口が悪いけど、筋が通った熱い男だって話してたんだよ」
「なっ……!」
「赤羽根さん、心配してたぞ。ジュピターの三人は才能あるんだから、まだどこかで再出発して頑張ってほしいって」
「……ふんっ、余計なお世話だぜ。言われなくてもすぐ追い抜いてやるよ。それよりその赤羽根ってプロデューサーは今どこにいるんだ?」
「赤羽根さん? 赤羽根さんなら今は研修でハリウッドだよ」
「は、ハリウッド!?」
それじゃ俺は今から打ち合わせあるから、そう言い残してプロデューサーは驚いて口を開けたままの俺に自身の電話番号が書かれた名刺を渡して、先に控え室を出て行ってしまった。きっとまた何かあったら連絡してくれと言う意味合いなのだろう。俺はその名刺を握りしめたまま、ボンヤリと立ち尽くしていた。
(ハリウッド、か……)
確か星井がハリウッド映画に抜擢されたとニュースで見た覚えがあったから、もしかしたらその横の繋がりか何かで赤羽根も現地に飛んだのかもしれない。研修が何の研修なのか、既に765プロを退社していたのかは分からないが、プロデューサーから聞いた話が俺の肺の奥を抉ったのは確かだった。アリーナライブで痛感させられた差は、俺の思っていた以上に大きかったのかもしれないと。そんな想いが不安となって、俺の胸から溢れ出てくる。この時はっきりと、今のままでは一生765プロに追い付けないのだと痛感させられた気がしたのだ。
俺は溢れ出そうになる不安を押し殺して、控え室を出た。部屋を出るとちょうど入り口の前で俺を控え室まで案内してくれたショートカットの女の子が待ち伏せしていた。
「ねぇ」
ショートカットの女の子は控え室から出てきた俺に気が付くと、壁に預けていた背中を浮かせて、声を掛けてくる。外見といい喋り方といい、記憶の中の姿と随分雰囲気が変わったせいか俺は未だに違和感を拭えずに、口籠ってしまって言葉が咄嗟に出てこなかった。そんな俺に御構い無しに、女の子は話を続ける。
「話は終わったの?」
「あぁ、一応な」
「そっか」
ならさ……。
そこまで言って口を閉じると、少しだけ気恥ずかしそうに女の子は笑った。その姿が俺の記憶の姿と初めてピッタリ一致して、外見や雰囲気は変われど目の前の女の子は俺のよく知っている人なんだなと、今更ながら実感が湧いてきた。
「ちょっと付き合ってほしんだけど、いいかな」
「……ちょっとだけなら」
俺の言葉を聴いて、ショートカットの女の子––––、田中さんは俯き加減に「ありがとう」と言って、俺を先導するかのように歩き始めた。