いよいよ次回が最終話です。最終話は今死ぬ気で復旧活動に勤めているので、今暫くお待ちください。
※今週中にはアップします。
都市部にある駅で降りて一直線に伸びる道なりに進み、暮れかかる街路樹を抜けて広いスクランブル交差点で俺は足を止めた。未だに昨晩の雨で濡れたままになっているアスファルトの上を車がドンドンと走り去って行き、雨上がりの匂いと排気ガスの匂いが肺を伝って全身に行き渡る。一年ぶりに訪れたこの道は、高慢で勘違いばかりをしていたあの頃と何一つ変わっていないような気がした。
信号が変わるのを待つ間、ふとまばゆい太陽を見上げる。あれほどまでに眩しく思えていたはずの一年前の自分へ、もう何も感じていないことに気が付いた。寒さをあまり感じさせない春風が前髪を揺らして、俺はポケットに手を突っ込む。朝に比べて徐々に晴れ間が広がりだした空は、清々しいまでに蒼く染まっていて、その蒼色の部分を俺はジッと見上げていた。
––––俺たちは……、俺たちは利用されるために歌ってんじゃねぇんだよ!
あの日のセリフが、頭の中で反響する。
たった一年前の日の出来事のはずなのに、あの頃は若かったな、なんて年寄りみたいなことを思ってしまって笑いそうになってしまった。だけど自惚れて自分たちには才能があるのだとばかり過信して、他人を見下してばかりだったあの頃の自分が遠い過去に思えるのは、俺が少しでも前に進めたという証なのかもしれないとも思う。インディーズ活動を通して知らなかった苦労を沢山味わって、自分たちの過ちを知って、それを受け入れることができたからなのだとも。
『その時間の中で得た苦労や経験は絶対今後の財産になるんじゃないですか?』
昨晩の北沢の言葉の通りだった。
俺たちがこの一年で味わった苦労は決して無駄な時間ではなかったはずだ。俺たちだけの力で本気でトップを目指して、だけど俺たちの力だけじゃ絶対にトップには立てないことを知って、それはきっと961プロにいた頃の俺たちが見落としていたことで、何より気付かなければいけない大切なモノだったのだと思う。
信号が変わって、俺はスクランブル交差点を渡った。横断歩道を歩き切ったあたりから徐々に目的地のビルの姿が見え隠れしてきた。色が変わった信号機から数十メートルほど歩き、一年ぶりに訪れた懐かしいビルを見上げて息を飲む。ただこれだけで十分意味がある行いのような気がしてきた。
「冬馬くん!」
俺を呼ぶ声が、空に向かって伸びるビルの影に覆われた小影の道に響く。視線をビルから落とすと、メガネをした男が俺に向かって満面の笑みで手を振ってくれていた。俺もなんだか嬉しくなって、柄にもなく駆け足で男の元へと向かった。
「よっ、マネージャー! 久しぶりだな」
「ほんとお久しぶりです! 元気にしてましたか?」
「あぁ、俺たちは相変わらずだぜ。マネージャーは?」
「私も変わらずです」
一年ぶりに再会したかつてのマネージャーは髪が短くなっていたように見えた。綺麗に刈り上げた短髪の近くに位置する耳に掛けられた眼鏡も、俺の知っていたモノではなくなっていた。だけど年下の俺たちに対する腰の低さは相変わらずなようでで、礼儀正しい言葉使いのまま「さ、こちらへどうぞ」と少し前を歩いて先導してくれる。マネージャーと並んで久しぶりにビルの自動ドアを潜ると、ビルのエントランスで入館手続きを済ませ、来訪者用の札を受け取った。札を首から下げると、マネージャーが寂しそうな眼差しでその札を見つめているのに気が付いて、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
「……もう冬馬くんたちが961プロを辞めてから一年が経ったんですね」
俺たちしかいないエレベーターの中で、マネージャーがおもむろに口を開いた。俺が伏し目がちに「あぁ、そうだな」と相槌を打つと同時にエレベーターが閉まる。静かな音を立てて、俺たち二人だけを乗せたエレベーターは上昇し始めた。
「悪かったな、急に電話かけたりしちまって」
「いえいえ、全然お構いなく。むしろこうして久しぶりに会えただけでも嬉しかったです」
「ははは、大袈裟だって」
「……それで、今日は社長にどういったご用件で?」
「あぁ、ちょっとな」
言葉を濁した俺に、マネージャーはそれ以上言及してこなかった。
その代わりに、俺はマネージャーにエレベーターのドアが開くまでの僅かな時間で簡単な近況報告をした。マネージャーは驚くというよりただひたすらに懐かしむような表情を浮かべながら、俺の話を聴いてくれた。
短い近況報告の時間も終わり、俺たちはエレベーターを降りた。一昔前の宮殿のような真っ赤な絨毯、一定の間隔で置かれた妙なセンスの花瓶とそこに刺さった黒色の造花、見慣れた光景が久しぶりに視界に入ってくると一気にノスタルジックな感情の中いっぱいに充満していく。たった一年前なのにこれほどまでに懐かしく感じるとは予想もしていなくて、思わずその場で足を止めて立ち尽くしてしまった。あれほどまでに消し去りたいと思っていた過去のはずなのに、何故か今は綺麗な思い出の一部として俺の眼に映っている。ここにやってくると過去の自分を思い出して嫌悪感に包まれたりするのかなとも思っていたくらいだから、こういった懐かしい感情に駆られたのは自分でも意外だった。
その場で黙り込んだまま、懐かしい感情に浸る俺を隣で見守ってくれていたマネージャーと視線が交錯した。その視線に「覚悟はできましたか?」なんて問われた気がして俺が頷くと、並んで立ち尽くしていたマネージャーがレッスンルームの方へと歩き始めた。俺は無言のままその背中に付いていく。懐かしさが半分、もう半分が妙な緊張で、胸がざわめているようだった。
「失礼します」
レッスンルームのドアを二度ノックし、マネージャーは中からの返事を待たずにドアを開けた。ドアの先に広がっていたガラス張りの部屋には二人の女の子の後ろ姿が見えて、微かな汗の篭った匂いと程よく効いた空調の匂いが溢れ出てくる。その匂いが鼻に届いて、やはり懐かしいなと感じてしまった。
「マネージャーさん? どうしたんですか?」
真っ先に俺たちに気が付いたのは、肩に掛からないほどに伸ばした髪を揺らした同じ年くらいに女の子だった。色素の薄い綺麗な髪には汗が混じっていて、照明に当てられてキラキラと光っている。初めて見る顔だったが、とても端正な顔立ちは何処か異国の雰囲気を感じさせる形をしていた。
「誰だい、その男は」
鏡ごしに目が逢ったもう一人の女の子は、少々高圧的な言葉遣いを俺に向けていた。最初に気が付いた女の子とは対照的に腰まで伸びたオレンジの髪と左右の瞳の色が違うオッドアイが特徴的なその女の子は、物怖じしない態度のせいか俺よりも少しだけ年上のようにも見える。言葉遣い同様に俺たちに向けられた視線も威圧感を感じさせるものだったが、それほど嫌味な感じはしなかった。
「社長はいらっしゃいますか?」
おそらく961プロの新たなアイドルであろう二人にも、マネージャーは変わらず敬語らしい。二人とも首を横に振ってここにはいないことを伝えると、「さようですか」と少し困ったような口調でドアをそのまま閉めてしまった。
どうやらレッスンルームにはいないようだ。日曜日だけど間違いなく出勤はしているはずなのですが、と困ったようにマネージャーが独り言を漏らした時、コツコツと革靴の踵が硬い床を叩く乾いた音が廊下の奥から聞こえてきた。次第に近くなってくる足音は数メートル先の角から聞こえてくるようで、その足音が俺の目当ての人のだと直感的に理解した。
曲がり角の向こう側から足音の本人が姿を現した。到底常人では理解できないようなセンスの紫色のスーツに黒色のワイシャツ、記憶の中の姿と何一つ変わらない男は、マネージャーの隣に立つ俺を見て驚いたように足を止める。
「……貴様、何をしに来た」
歯ぎしりが聞こえてきそうな、低くて鋭い声が廊下に響き渡いた。961プロを喧嘩別れのような形で辞めたあの日から、久しぶりにこの男の顔を見た時、俺はどんな感情を抱くのだろうとずっと考えていた。駒扱いしたことへの恨みか、それとも突発的に辞めたことへの負い目か––––。ここに来るまでの道中でもあれこれと想像はしていたが、今俺が抱いている感情はどれにも当てはまらなかった。
「黒井のおっさん、久しぶりだな。おっさんに話があって来たんだ」
「話だと?」
自分でも驚くくらい、俺の声も気持ちも落ち着いていた。憎悪も嫌悪も、何も含まれていない俺の声を聴いて少々戸惑った顔を見せながら、黒井のおっさんがゆっくりと俺の方へと向かってくる。コツコツとカウントダウンのように皮靴を鳴らし、そして俺の前で音を止めた。
俺より少しだけ身長の高い黒井のおっさんの瞳を見上げて、グッと拳を握る。相手の瞳に俺が映っていることを確認すると、俺は硬くなった蛇口を力一杯に捻るように、声を絞り出した。
「……俺たち、315プロに行こうと思う」
睨むように目を細めて俺を見下ろしていた黒井のおっさんの眼が、ほんの少しだけ見開いた。
「315プロ……? あぁ、あの斎藤のとこの弱小事務所のことか」
どうやら315プロの存在自体は知っていたらしい。ワザとらしく大袈裟に咳払いをすると、あの頃と変わらない憎まれ口を開いて高笑いをした。
「ふんっ、どうやら貴様らに染み付いた負け犬根性は相当なモノだったようだな! わざわざあんな弱小事務所に加担するとは」
「今は弱小事務所かもしれねぇけど、すぐに俺たちがおっきくして黒井のおっさんたちなんか追い抜いてやるさ。だから首洗って待っとけよ」
「負け犬ほどよく吠えるとはまさにこのことだ。良いだろう、面白い。すぐに貴様らでは961プロには歯が立たないという現実を教え込んでやる」
「へっ、それは楽しみなこって」
憎まれ口を言い合った後に嫌味な笑いを見せて、黒井のおっさんは俺に背を向けた。このまま立ち去るのかと思いきや、その場で足を止めたままで動く気配を感じさせなかった。何か言葉を探しているのか、束の間の沈黙が訪れる。
「…………北斗と翔太は元気にやっているのか」
時間をかけて選び抜かれた言葉は、ちょっと意外なモノだった。だけどこの人はこの人なりに俺たちのことを心配していたのかもしれないとも思った。北斗と話していたように、不器用で方法は間違っていたけれど、それでも俺たちのことを本気でトップアイドルにしようと情熱を持って接してくれていたことに変わりはなかったのだ。そんな俺たちの予想もあながち間違っていなかったのかもしれないと思うと、途端に一年前から居座り続けていた胸の中のしこりが消え去った気がした。
大きな背中に向かって「あぁ、元気にやってるぜ」と答える。すると黒井のおっさんは、「ふんっ」といつものように鼻息を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。
「せっかく晴れた日曜日の朝から貴様の顔なんざ見てると不愉快になる。さっさと消え失せろ」
昔ならすぐにカッとなって言い返したり、殴りかかろうと飛び出していた嫌味な言葉も、今はただただ気持ち良く感じられるほどに胸にすんなりと収まっていくのが分かった。そう感じられるということは、ようやく俺は過去と決別することができたのかもしれない。
「おっさん!」
嫌味な言葉だけを言い残し、そのまま背中を向けて来た道を戻るように歩き始めた黒井のおっさんの背中に向かって声を掛けた。その足が止まったのを確認して、俺は深々と頭を下げた。
「色々あって、最後はあんな別れ方になっちまったけど、それでも俺たちはアンタに感謝してる。ジュピターを作ってくれて、俺たちを引き合わせてくれてありがとな」
黒井のおっさんは一度だけ俺の方を振り返り、そしてまた背を向けて歩き始めた。
「……また会えるのを楽しみにしてるぞ」
初めて聴いたらしくない言葉を残して、一度も振り返らずに曲がり角を曲がって行ってしまった。俺はその背中を目に焼き付けるようにしっかりと見届けて、マネージャーと共にエレベーターを降りた。最後まで名残惜しく見送りに来てくれたマネージャーと別れ、一人きりになって空を仰いで見る。やはり今日の空はとても近くに感じられて、でもそれはきっと気のせいじゃないと思った。ようやくこの空の飛び方が分かったような気がした今の俺が、961プロ時代の俺に優しく語りかける。
––––あの時より今の俺は何倍も大きな空を見てるぜ。
さぁ、今から北沢に会いに行こう。
会って今まで言えなかったこの想いを伝えよう。
俺は黒井のおっさんの後ろ姿が瞼の裏に残っているのを確認して、足早に駅へと向かって走り出した。
★☆★☆★☆★☆
長い間電車に揺られ、私が降り立ったのは東京の喧騒とは無縁の静かな田舎町だった。私の住んでいる街と同じ東京とは思えないほど長閑な自然が広がるこの街は、遠くの山がくっきりと見えるほど空気が透き通っていて、どこか時間の流れがゆったりとしているような錯覚さえ感じさせる。私以外に誰も降車しなかった電車が走り出していくのを見送ると、帰りの時刻表を確認して私は小さな駅の改札を抜けた。
私が住んでいる街よりも随分と田舎の街並みを、スマートフォンのマップの案内通りに進んでいく。途中、いくつもの店にシャッターが降りた寂れた商店街の中で退屈そうに店番をする年配の女性の花屋を見つけて、立ち寄った。滅多に若い人が来ないのか、それともそもそもお客さん自体が来ないのか、私の姿を見て大袈裟に喜んだお節介な女性が沢山オマケをしてくれて、私は予想以上に大荷物になった花束を抱えて無人の商店街を抜けた。
商店街を出てすぐにあった神社の角を曲がり、山へと続く石段を登っていく。昨晩の雨が染み込んだままでぬかるんだ石段を滑られないように慎重に進んで、半分ほど登った辺りで母が教えてくれたとおりに右の横道に進むと、すぐに目的のモノが目に飛び込んできた。ほんの一瞬だけ、胸がギュッと締め付けられたような気がしたが、ただそれだけで哀しむ気持ちもなければ憂鬱感もなく、私はただただ穏やかな心持ちで目の前に広がる現実をしっかりと受け止めることができた。
ずっと遠くにいると思っていた父が意外にも身近にいたことを知って妙な安心感を覚えた自分を変に思いつつも、六年ぶりに父へと話しかけた。
「……お父さん。久しぶり」
雨に濡れた墓跡に掘られた“北沢家乃墓”の文字が煌めく。遠くで鳥たちのさえずりが聞こえて、緩やかな風に揺れる草木が擦れ合う音がやけに大きくなって聴こえてきた。悲しい気持ちより、久しぶりに父に会えたことが嬉しくて、思わず口元がほころんでしまう。
八歳の私しか知らない父は今の十四歳の私を見てどう思うのだろう。大きくなったと褒めてくれるか、まだまだ子供だなと言って茶化すのか。なるべくなら前者であってほしいなと思いつつ、私は商店街の花屋で買った菊の花を暮石前に供えて、手を合わせるとゆっくりと目を閉じた。
ずっと父が私の生きる指針だった。
家族が揃っていたあの頃の時間に戻りたくて、ごくごく普通の家族の時間が羨ましくて、私はアイドルを志した。私がアイドルとして有名になれれば母を少しでも楽にさせることができて、もしかしたら何処かで父が私の姿を見つけてくれるかもしれないと、その一心で色んなモノを犠牲にして、何度も泣きたくなるほどの挫折を味わって、全力で駆け抜けてきた。
だけど父は既に他界していて、私の夢は叶わないことを知って、恐ろしいほど自分には何も残らないことを初めて知った。私が何をしたいのかも、どんな人生を歩みたいのかも、自分のことなのに何も分からなかった。父への想いが大きすぎたが故に、その絶対的な指針を失うと私は途端に人生の路頭に迷ってしまったのだ。
きっとそれは私の弱さだったんだなと思う。結局私が当初抱いていた夢は私自身の為の夢ではなくて、他者を優先するあまりに本当の意味で自分と向き合えていなかったのだから。私が弱かったあまりに母に酷い言葉を何度もぶつけ、自暴自棄になって沢山の人に迷惑をかけ、そして一時でも私は死んでしまいたいとさえも思った。あの時の私は母が嘘をついてきたことより、きっと父をとったら何も残らなかった自分が許せなかったのかもしれない。
だけど今は違う。ちゃんと気持ちの整理をつけて、父の死とも自分の人生とも向き合う覚悟ができてここにやってきたのだ。
ゆっくりと瞼を開いた。父との再会を果たした私をジリジリと太陽の光が照らしていて、その光に屈しそうになりながらも目を細めながら空を見上げた。沢山の雲がゆっくりと流れる空は私が普段見上げている空より何倍も近く、今にも飛び立てそうな気がして、無意識に手を伸ばしてみる。当然雲たちには届きはしなかったけど、それでもいつの日かこの大空を自由に舞うことができるような、そんな根拠のない“何か”が私の手のひらで掴み取れたような気がした。
そんな“何か”を確かに手のひらに握ったまま、私はカバンの中から母がくれた封筒を取り出した。家を出る前に一度目を通してはいたけれど、父の前でちゃんと受け取ったと意思表示をしなければいけない気がしていたのだ。封筒から一枚の便箋を取り出して、風で飛ばないように両手でしっかりと両端を握る。懐かしさを感じさせるボールペンで書かれた父の手紙にもう一度だけ目を通した。
『志保へ。
成人おめでとうございます。あんなに小さかった志保がもう二十歳だと思うと、お父さんは色々と感慨深い気持ちになります。
この手紙を読んでいるということは、もう既にお母さんからお話を聞いた後でしょう。今まで嘘をつき続けてきて本当にごめんなさい。もしかしたら隠し続けてしまったことで真実を告げるよりも沢山傷付けてしまったかもしれませんね。だけど本当のことを伝えるべきか、隠し通すべきか、正直な話この手紙を書いている今もどちらが最善の策かは分かりません。ですがきっと今は隠すことがベターな選択肢だと信じて、お母さんに志保が成人したらこの手紙を渡すように後からお願いしてみるつもりです。
志保は昔からお父さんの自慢の娘でした。人見知りだけど気が利いて優しくて、陸とも喧嘩することなくしっかりと面倒もみてくれて、お父さんもお母さんも本当に何度も志保の気遣いと優しさに助けられてきました。だからきっと二十歳の志保も優しくて綺麗で、魅力的な女性になっているのでしょうね。大人になった振袖姿の志保を見れないのがお父さんは本当に心残りです。
誰よりも優しくて思いやりのある志保だからこそ、お父さんは少々心配していることがあります。それは、志保が自分のためではなく人の為にばかり生きてしまうのではないかということです。
誰かを思いやること、誰かに親切にすること、それらはとても大事なことです。だけどそれ以上に自分の人生をわがままに生きることはもっと大事なことだと思っています。
だからどうか、志保が人の為ではなく自分の為に幸せな人生を送れますように。志保の人生は志保だけのモノなので、二十歳の志保が自分のやりたいことを見つけて、自分の為に生きていることを願っています。もしまだやりたいことがなかったり見つからなくても焦らずにじっくりと探してみてください。そして夢中になれる何かを見つけたら、誰にも遠慮はせずに、自分の為に全力で向き合ってください。
お父さんはいつも志保の味方として、天国から応援しています。
父より』
二度目もやはり涙は出てこなかった。だけど私の胸には確かに父の想いが届いていたことは実感できた。自分の為に生きなさい、天ヶ瀬さんと同じことを言う父の文面を目に焼き付けるようにもう一度だけ見て、手紙を封筒に入れると、父の眠る暮石を見つめる。父は私に何も語りかけてはくれなかったが、それでも私は父の視線を感じてた。私はその視線に向かって、はっきりと誓いを立てる。
「ありがとう、お父さん。二十歳になった時に胸を張って自分の為に生きてるって言えるように、私、もう一度アイドル頑張ってみようと思う」
風がまた吹いて、僅かに残った雨の雫が暮石を伝って下に落ちていった。
初めて手紙を読んだ時、どうしようか少し迷ったが返事は二十歳になった時に書くことにした。きっと今の十四歳の私は二十歳の私に比べるとまだまだ未熟で、父の手紙に対するちゃんとした返事を書ける気がしなかったのだ。だから父や天ヶ瀬さんの言うようにもっと自分の人生と向き合って、自分の為に生きて、その上で二十歳になった時にちゃんと返事を書けたらなと思う。
––––必ず立派な女性になって返事を書くから、ずっとここから私を見守っててね。
最後に父へとそう語りかけて、私は踵を返そうとした時、まるで私の背中を優しく押すかのように一際強い春風が駆け抜けた。
風に背中を押されて、私は大きな一歩を踏み出した。
今から私は天ヶ瀬さんに想いを伝えに行く。