福岡旅行から帰ってきて間も無く、桜の華たちが開花のピークを迎えた頃。
まだ時折肌寒い風が春風の中に紛れてはいたが、三月が過ぎ去って新たな年度が始まりを迎えた。
私は765プロの所属アイドルとして、冬馬さんはこの春から正式に移籍を果たした315プロの所属アイドルとして、初めて迎える春。特に冬馬さんは、移籍した315プロが立ち上がったばかりの新興プロダクションだったこともあり、他のメンバーたちとの顔合わせや事務所の宣伝も兼ねたメディア出演など、何かと忙しそうな毎日を送っていたようだ。
その傍ら、私も六月の定例ライブで39プロジェクト史上初の試みとして披露されることが決まったユニット楽曲のメンバーに選出され、冬馬さんほどではないにしてもレッスンに追われる忙しい時間を過ごしていた。
そんなこんなで、桜の華の美しさを味わう暇もないほどに多忙な四月が終わってやってきたゴールデンウィーク。私はとある有線放送のアイドル番組の出演者として、都内の収録スタジオを訪れていた。
『今春注目のクール系アイドル特集』。
各事務所からアイドルたちが集い、キュートな正統派アイドルとはまた違うアイドル像の魅力を伝えていく––––といった趣旨で構成されたこの企画に、765プロからはプロデューサーの推薦もあって私が参加することになったのだ。
今回765プロから選ばれたのは私一人。
ほんの少しだけ心細くて不安な気持ちを抱えつつも、765プロの代表として恥ずかしくないように振る舞わなければ、と。そんな緊張感と意気込みを持って関係者に挨拶を済ませ終えて楽屋のドアを開けた時、部屋の隅にいた人影を見つけて私の心臓は激しく飛び跳ねた。
集合の予定時刻まではまだ余裕があったため、誰もいないと思い込んでいた楽屋に座っていた先客。
スマートフォンを退屈そうに弄っていたショートカットの女性はすぐに私の存在に気付いた。こちらをジッと見つめる黄金色の瞳はとても澄んだ色をしているが、瞳の色の明るさとは対照的に中性的な顔立ちはほんの少しだけ影を感じさせて、その特徴的なギャップが神秘的な魅惑を放っている。
その圧倒されるような美しさに、私は見覚えがあったのだ。
「あら?」
狭い楽屋に響く、透き通った声。
一直線に耳へと届いた綺麗な声に、思わず背筋がピンと伸びる。上品に眼を開いた女性は、品定めをするように私を見つめていた。どうやらこの人も、思いも寄らない偶然に気が付いたらしい。
「……まさか、あなたも同業者だったとはね」
––––やっぱり。
速水さんは、私たちが福岡旅行で訪れた博多座で聴いた声とはまるで別人のように落ち着き払った声で微笑んでいた。
Episode Ⅱ : 俺と私の夢への距離
「……そう。貴女は39プロジェクトの一員だったのね」
私の話を一通り聴いて、そう口にした速水さんの声はまるで夜の浜辺に訪れる波音のように単調としていた。だけど興味が全く無さげなわけでもなさそうで、その証拠としてうっとりするほどに長いまつ毛を纏った瞼は不自然に開かれている。速水さんは普段あまり感情を表に出さない人なのかもしれない。そんなことを、速水さんの惚れ惚れするような横顔を眺めながらボンヤリと考えていた。
思わぬところで速水さんと再会を果たした私だったが、その後すぐに収録の打ち合わせや準備などで忙しくなり、ようやく速水さんにきちんと挨拶ができたのは、番組の収録を終えて楽屋に戻ってきてからのことだった。
「さすがに驚いたわ。志保もアイドルだったなんて」
「私もです。速水さんはてっきり女優の方かと思っていたので……」
聴けば速水さんは俳優や歌手、モデルなど多岐に渡る分野で多くの芸能人を排出している老舗事務所、美城プロダクションに所属するアイドルだったらしい。私たちが観劇した博多座での舞台は単発で参加していた案件だったようで、普段は私たちと同じように東京を拠点として活動しているのだと教えてくれた。
一方の速水さんも765プロについては大先輩である春香さんたち765ASの面々についてはそれなりの知識がありながらも、私が属している39プロジェクトについては名前を知っている程度で知識は乏しかったようだ。
他の事務所のアイドルのことについては正直あまり関心がなくて何も知らなかったが、速水さんは私とは違って、飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続ける346プロの中でもとりわけ注目度が高い、看板アイドルの一人だったらしい。番組内での扱いやスタッフの対応などから、なんとなくではあるが彼女の立場を察することができた。
「……すみません、私全然速水さんのことを知らなくて」
「そんなこと気にしないでいいわよ」
お互い似た者同士ってことで、お相子にしましょ。
無知を詫びる私に、速水さんはそう言いながら片目を瞑る。そんな芝居掛かった仕草も、速水さんがするとすごく自然な動作かつ魅力的に映るのはどうしてだろう。胸が静かにかき乱されていくような感覚がして、なんだか落ち着かなかった。
普段の何気ない些細な仕草の一つでも、速水さんからは圧倒的な『美』が感じられる。
博多座で観た原田まさを演じる姿にすっかり魅了されてしまった私だったが、どうやらこの人が持っている異様なまでのオーラは意図的に作り出された演技ではなく、生まれ持った天性のものだったらしい。
まるで同じ人間とは思えないほどに美しい速水さんの仕草に、私はただただ見惚れて言葉を失ってしまっていた。
「……だけど、なんだか意外でした」
「意外って、なにが?」
「速水さん、博多座で会った時と印象が違うっていうか……。あっ、全然悪い意味じゃないんですけど」
不自然に空いた間を慌てて埋めようと口にした言葉だったが、口から溢した後にすぐさま過ちだったと後悔した。自分で口走っておきながら、すごく失礼な言い方に聴こえたのだ。
だけど速水さんは私の失言を咎めることなく、「そうね」と相槌を打ちながら涼しい顔で笑っていた。
「速水奏はつまらない人間だって気付いて、ガッカリした?」
「そっ、そういうわけじゃ––––」
「ふふっ、冗談よ、じょーだん。志保の言いたいこと、ちゃんと伝わってるから」
速水さんはそう口にして揶揄うように愛嬌よく笑う。
咄嗟に否定はしたけれど、未だにあの日の速水さんと今の速水さんの姿がシンクロしていないのは確かだった。
博多座で初めて速水さんを見た時、私はもっと活発な女性のイメージを抱いていた。劇場のメンバーで例えるならそれこそ恵美さんのような、明るくて社交的でお喋り好きでバリエーション豊かな表情の色を持っている––––、私の瞳には速水さんの姿がそう映っていたのだ。
だけど今私の前にいる演者ではない“速水奏”は、そうではなかった。
表情のバリエーションはお世辞にも多種多様とは言えず、喋る時の声のトーンに抑揚がないからか喜怒哀楽が全くと言っていいほど伝わってこない。それはまるで本当の自分を誰にも見せまいと内側に隠し込んでいるかのようで、自分の想いを身体全体で表現していた演者の“速水奏”とは正反対の人間に思えたのだ。
しかもこんなに大人びた雰囲気を醸し出しているのに、実年齢はなんと十七歳の高校三年生!
そこらへんの大人より遥かにしっかりしていて色気もあるのに実際はまだ高校生だったなんて、もう色んな意味で掴み所のない人だな……、というのが改めさせられた速水さんの今の印象だ。
「お仕事で貰った役なんだから、なりきるのは当然のことでしょ?」
「そうですけど……」
至極当然のように速水さんはそう口にするけれど、それは決して誰もが簡単にできることではないと思う。
芝居というのは、自分ではない誰かを演じることだ。
誰かになりきるには、演技力はさることながら、自分を客観視できる想像力や、演じる役の想いや心境を的確に汲み取る理解力など、様々な能力を高水準で持ち合わせていなければならない。
そしてそれらは演者自身の人生経験の豊かさによって培われる代物だと言われていた。数多くの豊富な人生経験が演者の見聞を広げ、一人の人間としての多くの引き出しを持たせるのだと。まだ演技のお仕事を貰えたことはないけれど、実際に何度かオーディションを受けた私も、確かにその通りだなと思っていた。
何度も何度もオーディションに落ちた私だからこそ、速水さんの凄さはとくと理解していた。あれほどまでに人格を違和感なく切り替えれるのは、一流が為せる技であって、常人では不可能に近いことなのだ。
「博多座でも言ったかもしれないんですけど、本当に速水さんの演技には感銘を受けたんです」
「それはさすがに言い過ぎじゃない? 私の演技なんて、志保が言うほど大したものではないわ」
はにかみながらも、速水さんは謙遜する。
でも、そう言って貰えるのは素直に嬉しいわ。そう付け加えて、速水さんは困ったように笑った。
「実は私も演技のお仕事に興味があって、だけど全然オーディションには受からなくて」
「そうだったの?」
「はい。だからあの日の舞台を見て思ったんです。速水さんみたいな演技ができる女優になりたいって」
博多座で速水さんの演技を見たあの日、私は冬馬さんと仲違いをしたままで、期待していた博多座も見掛け倒しに思えて、どうしようもないほどに行き場のないモヤモヤと苛立ちを持て余していた。例えるなら視界に広がる世界が全て白黒に見えるほど、私の心は荒んでいたのだと思う。
だけどそんなネガティヴな感情たちも、速水さんの演技を見た後には一変した。あれほどまでにトゲを持っていた感情たちが、いつの間にか浄化されていて、不思議なほどに私は爽やかな気持ちに包まれていたのだ。
きっと素晴らしい物語に触れて、心が満たされたからだと思う。
自分が実際にそういった体験したからこそ、純粋な憧れを抱くようになった。私も速水さんのようにストレスや悩みを吹き飛ばせるほどの、人の心を満たす演技ができるようになりたいと。
「速水さんって、346プロに入るまでは何されてたんですか?」
「え、どうしたの急に」
私が突然投げかけた質問を慌ててキャッチした速水さんは、少しだけ驚いた素振りを見せた。
速水さんのように、人の心を強く打つような女優になりたい。だからこそ私は気になっていた。十七歳の高校三年生であそこまでの演技力を兼ね備えた速水さんは、一体今までにどんな人生や経験をしてきたのかを。高校生離れした速水さんの演技力と言葉では言い表せない魅力の原点を何だったのかを。
「特に変わったことは何もしてないわよ」
だけど、返ってきたのは期待外れな回答だった。
「本当ですか?」
「ええ。普通の高校生として普通に生きてきて、声をかけられるまで自分がアイドルになるなんて思いもしてなかったわ」
そんなはずがないと思った。
だけどその反面、これが本当でも嘘でも速水さんは本当のことを話してはくれないのだろうなとも思った。今日初めて知った速水さんの性格からそんな予感がしたのだ。
それでも私はベールに包まれた速水さんの秘密を知りたくて、今度は違う角度から速水さんの内側を覗こうと試みる。
「……それならどうしてアイドルをやろうと思ったんですか?」
「うーん、どうしてかしら」
唇に人差し指を当てて、困ったように笑う。
速水さんは紫色のネイルが付けられた指先でコツコツと机を一定のリズムで優しく叩きながら、思いを巡らせ始めた。小刻みに上下に動くネイルは照明が反射して煌めいて、速水さんの大人びた雰囲気をぐっと色っぽく演出しているようだ。
暫く考え込むように虚空を眺めた後、楽屋に響いていた机を叩く音が消えた。そして速水さんは追憶に浸るような眼で呟いた。
「––––『変わりたい』って強く思ったから……、かな」
「変わりたい、ですか?」
「そう。変わり映えのない退屈な日常に飽き飽きしてて、虚無感を感じてたわ。胸にぽっかりと空白があるような気がして」
古いアルバムを捲っていくかのように、速水さんはゆっくりと丁寧に言葉を紡いでいく。
「そんな自分を変えたいと思いつつもキッカケもなくてどこかで諦めてて、その時に今のプロデューサーに声をかけられたの。もしかしたらアイドルになれば胸に空いた穴も埋めれるかなーって思ったから、彼の話、受けちゃった」
「……それで、アイドルになって埋めれたんですか? その穴は」
「さぁ、どうかしら。それは未来の私にしか分からないわ」
まるで他人事のように、速水さんはキッパリと言い切って椅子から腰を上げた。
これでこの話を終わり。
遠回しにそう言っているように感じて、私は口を閉ざす。結局私が知りたがっていたこと、速水さんの考えていることたちは何一つ分からないまま、上手く言いくるめられてしまった。
速水さんは私の求めているような答えを口にしてくれなかったが、ふと思い返せば春香さんも冬馬さんもそうだった気がする。結局私が知りたいこと、気になっていることの根本的な答えは直接教えてくれはしなかったのだ。
それは即ち、『自分で答えを探せ』ってことなのだろうか。
「ねぇ、それじゃあ次は私が志保に質問しても良いかしら」
物思いに耽る時間も与えてもらえず、そう言葉を掛けられた。
立ち上がって小さな鞄のベルトを肩に掛けていたからすっかりもう帰るのかと思っていたが、速水さんはまだ帰るつもりはないらしい。
「博多座に一緒に訪れていた彼は、天ヶ瀬冬馬でしょ?」
「……気付いていたんですか」
「当たり前じゃない。それで、天ヶ瀬冬馬は志保の彼氏なの?」
「なっ、何言ってるんですか。そんなわけ––––」
「もしかして私の勘違いだった? それならそれでいいんだけど」
私の反応を楽しむかのように、速水さんは含み笑いを浮かべた。
すると次の瞬間、速水さんがその端正な顔をぐっと近づけてきた。唇が触れ合いそうになるほどの至近距離で瞳の中の自身の姿を確認するかのように、じっと速水さんの鋭い視線が私を捉えている。
その視線が嫌な胸騒ぎを引き起こし、心臓が激しく脈打つ音が聴こえてきた。
速水さんは何を考えているのだろう、そう思って私も速水さんの瞳を覗き返してみたが、そこには不安げな顔をした自分の姿しか映っていなくて、やっぱり速水さんの感情は一ミリも見えてこない。まるで真夜中の海のように、速水さんの瞳の奥は真っ黒に染まり切っていた。
「彼、すごく魅力的じゃない。志保の彼氏じゃないなら声かけてみようかしら」
「ちょっ、それって––––!」
「……なんてね」
志保って大人びて見えるけど、意外と分かりやすいのね。
そう言って悪戯っぽく笑いながら私の頭を軽く叩くと、「またね」とだけ言い残して速水さんは楽屋から出て行ってしまった。
その後ろ姿をぼんやりと見送りながら、「あの人には敵いそうにないな」と、ドッと遅れて押し寄せてきた疲れをひしひしと感じながらそう思ったのだった。