「ごめん、志保。福岡まで会いに行く約束は守れそうにない」
冬馬さんはそう前置きを挟んで、高校卒業と同時にハリウッドへ二年間の留学に行くことにしたのだと言った。
その話を聴いた時、あまりにも飛躍しすぎた話で何も言葉が出てこなかった。人って本当に驚いた時は思考回路が停止するんだな、ってことを呆然とした頭でボンヤリと考えていたことだけを覚えている。
冬馬さんにこの誘いを持ちかけたのは、かつて春香さんたちを担当していた赤羽根プロデューサーだったそうだ。赤羽根プロデューサーはアリーナライブが終わるまで765プロで働いていたから、私も少しだけ面識がある。少し気の弱そうな顔つきをした人だけど、性格は仕事熱心かつ真面目で誠実、何より春香さんたちから絶大な信頼を寄せられていたことが強く印象に残っていた。
冬馬さんも赤羽根プロデューサーとは961プロ時代から面識があったようで(詳しくは話してくれなかったけど)、春香さんたち同様に赤羽根プロデューサーには厚い信頼を寄せているようだった。あの人の誘いだからこそ、ハリウッドに行くことを決めたのだと。照れ臭そうに頬を掻きながらも、冬馬さんはそう話してくれた。
––––ハリウッドに行くなら私たちの関係はどうなるの?
冬馬さんがハリウッドに行くことになった経緯を聴いているうちに、徐々に停止していた思考回路が動き始めて、真っ先に脳裏を過ぎていったのはそんな不安だ。
ハリウッドと福岡。
このままいけば、春から私たちは気が遠くなるほど莫大な距離によって引き裂かれることになる。途方もない距離を前に、今の恋人関係が何の支障もなく継続できるとは到底思えなかったのだ。
だけど、私はそんな不安を言葉にして伝えることができなかった。
ハリウッドに行くと決意を明かしてくれた冬馬さんの瞳はもう、ここじゃないずっと遠くを見ていたからだ。
Final Episode 俺と私のSTANDING ALIVE
中学卒業と同時に福岡のゴールドプロに行くことを決めて、そして冬馬さんからハリウッドに行くことを告げられた夏から、日々が凄まじいスピードで塗り替えられていく様をこの目で見た。私は福岡の私立高校への推薦入試を受け、合格通知が届くとすぐさま福岡で始まる新生活の準備に追われる日々。一方の冬馬さんもアメリカでの滞在ビザの申請や現地の学校に入学するための語学試験など、国を跨ぐだけに手続きや申請もかなりの時間を擁し、私よりも何倍も慌ただしい毎日を送っているようだった。
それでも多忙な毎日を過ごす私たちを置き去りに、季節はどんどんと移り変わっていく。
いつの間にかうだるような暑さも和らぎ、空に浮かんでいた入道雲も萎んでいって、街が鮮やかな紅葉柄に着せ替えられたかと思いきやその秋景色も長くは続かず、あっという間に険しい冬がやってきた。
「え? アメリカにいた頃の話?」
それは確か年の瀬が迫った時期のことだったと思う。
東京の狭い世界しか知らない私にはアメリカでの生活が微塵も想像が付かなくて、偶然劇場で二人きりになったのを見計らい、アメリカにダンス留学をしていた経歴を持つ歩さんに尋ねてみたことがあったのだ。
冬馬さんがハリウッドに行くことも、きっと私と付き合っていることも知らないであろう歩さんは、「急にどうしたの」と呟きながら不思議そうに首を傾げていたものの、実際に自らが経験したアメリカ時代の話を私に沢山聴かせてくれた。
世界中からやってくる人たちと知り合って日本の常識が非常識だと初めて気が付いたこと、油断すればすぐ太ってしまうほどにジャンクフードに囲まれていること、アジア人というだけで心ない人種差別を受けるようなことも少なからずあったこと––––。
歩さんの話はどれも興味深い内容ではあったけど、その中でも一番気になったのは歩さんが現地で暮らしていたシェアハウスの話だった。
「アタシは英語全然話せなかったから、現地にいた日本人と一緒にシェアハウスしてたんだよ」
「日本人とですか?」
日本ではあまり馴染みがないけれど、外国ではシェアハウスと呼ばれる一つの賃貸や家を複数人で借りて共同で暮らす文化があることは私も一つの知識として知っていた。だけどそれはあくまで外国人の話だとばかり決めつけていて、日本人同士でのシェアハウスがあることは今までに聴いたことがなかったのだ。
だけど歩さん曰く、現地ではわりとよくある普通のことらしい。その時の生活の様子も、私に語ってくれた。
「アメリカにくる日本人留学生って意外に多いから、そういった人間で集まって一緒に住んでたんだけど、それがわりと楽しいんだよ。外国で一人ぼっちはどうしても心細いからさ、すぐ仲良くなれるしね」
「そうなんですか?」
「そうだよ! やっぱり異国の地で日本語が通じるだけで安心感あるしね。休みの日は皆でBBQしたり遊び行ったり……、あ、そうそう! シェアメイト同士で付き合ったりした人もいたなぁ」
その話を聴いた瞬間、小さな針で胸を刺されたような痛みを感じた。痛みを感じた胸の中では何処からか現れた拭きれない不安が濃い雲になって、あっという間に広がっていく。真っ暗な影が瞬く間に私の胸全体を覆い尽くすと次は骨の髄にまで不安を染み込ませるように、強烈な雨を溢し始めた。
琴葉さんが冬馬さんのことを好きだと気付いた時と、同じ感じがした。
あの時と全く同じ––––、冬馬さんが私ではない誰かの特別な人になってしまうのではないかという不安が、心の底に潜む嫉妬心をうごめかせるのだ。
歩さんにとっては本当に楽しかった思い出のようで、シェアハウスの話を暫く続けてくれた。だけど不安の雨に打たれる私には、もうその内容は途中から入ってこなかった。
––––春から私の知らないところで、知らない環境で、冬馬さんは生きていくんだ。
そんな当たり前の事実が一閃の雷になって、土砂降りの胸の中で雷鳴を轟かせる。
きっとアメリカでは数多くの出会いが冬馬さんを待っていて、その新たな出会いと環境に囲まれて生活することになるのだろう。もしかしたら私の知らない日常で、私なんかよりもっと魅力的で冬馬さんに相応しい人に出会うことだってあるかもしれない。それこそ歩さんの話のように、現地で一緒に日本人と暮らすようなことがあれば、色恋沙汰の一つや二つ、あってもおかしくないはずだ。冬馬さんのもつ煌めきに惹かれる女性が、誰一人いない保証なんてどこにもないのだから。
考えたくもない事態が次から次へとクリアな情景になって頭に浮かんでくる。その度に不安になって、胸が張り裂けそうになるけど、それは私がどうこうできることではなかった。これはどれだけ悩んで不安がっても、日本にいる私の力が及ばない世界の話になるのだから。
「俺は志保と別れる気は絶対ねぇからな」
ハリウッドに行くと告げた日、冬馬さんは私に何度も何度も念を押すようにそう言ってくれた。
その言葉を信じたいし疑っているわけではない。私だって冬馬さん以外の誰かを好きになることはないと思っている。けれども、人の心に“絶対”なんてことはないのだ。
どれだけ互いを想いあっていても、途方もない遠距離に負けて破局を迎えるなんて物語は世の中には腐る程あるだろう。遠距離恋愛を乗り越えてハッピーエンドを迎える、なんて奇跡の物語よりも何倍も多く散らばっているに違いないはずだ。
そして自分がその奇跡の物語のヒロインだと信じてやまないほど、私はもう夢見がちな少女でいられる年齢ではない。でもその現実をすんなりと受け入れられるほど、達観している年齢でもなかった。
中途半端な今の私はただただ先の見えない未来に怯え、震えることしかできなかったのだ。
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年を越してから数日が経った頃、ハリウッド行きの準備がある程度整ったのを目安に冬馬さんは航空券を買ったことを教えてくれた。日本を発つ日は高校の卒業式の翌日、偶然にも私の中学校の卒業式と冬馬さんの高校の卒業式が同じ日だったから、私も卒業式の翌日に福岡行きの航空券を購入することにした。
互いに東京を発つ日が決まり遠くにあるはずだった未来が現実味を増して迫ってくると、いよいよ別れのカウントダウンが始まった。
私たちに残された時間は限られていたが、その限られた時間を少しでも二人で一緒に過ごそうと、僅かな時間でも都合が良ければ私たちは会うようになった。だけど会って冬馬さんの顔を見るたびにいずれ訪れる別れが寂しくなって、眠れない夜を重ねていく度に想像もつかない未来が怖くなって、私の胸はどうすることもできない不安でいっぱいに押し潰されそうになっていた。
(私たちはどうなってしまうのかな)
そんな先の見えない将来を、不安に思う毎日が積み重なっていく。
当然ながら、未来のことなんて誰にも分からない。
もしかしたら福岡とハリウッドの距離に負けず、私たちは想いの糸を切ることなく繋ぎ止めておくことができるかもしれないし、世界中に転がっている別れ話の一つのように、あえなく破局を迎えるかもしれない。
どっちに転ぶかは、当たり前の話だがその時にならないと分からないのだ。だから今の時点でどうすることもできない未来に怯え、不安がることが建設的ではないことくらい私でも分かっていた。
それでも私は確証が欲しかった。
例え遠距離になったとしても、冬馬さんと共に歩む未来がこの先に待っていることを。冬馬さんの隣で、私もこの大空を飛べる未来が訪れることを。
––––今は例え別々の道を歩むことになっても、必ず何処かで一つの道に繋がることができる。
その未来が約束されていたとすれば、こんな不安はあっという間に消え去って、私は笑顔で冬馬さんと別れることができるだろう。縁もゆかりもない福岡の地での生活だって、きっと乗り越えられるはずだ。この別れだってハッピーエンドを迎えるために必要な試練だと、そう割り切って前向きに向き合えるのだと思う。
でも現実はそんな子供向けの絵本のような御都合主義に物事は進んではくれないのだろう。
だって世の殆どの人間が、思い描くようなハッピーエンドを手に入れることはできないのだから。ハッピーエンドに辿り着けなかった大半の人は、例えそれが心が張り裂けそうなほどに辛い経験だったとしても、受け入れて生きていかなければならない。そして歳を重ねて、戻らない日々が輝いて見えるようになった頃にふと振り返り、「あの頃は若かったな」なんて思うのだ。
私もそんなことを思う日が来るのだろうか。
冬馬さんとのかけがえのない時間を、「若かった」なんて言葉で片付けなければならない日が来るのだろうか。
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時間というものは名残惜しいと思えば思うほど、あっという間に過ぎ去ってしまうものなのかもしれない。福岡での新生活への準備、そして冬馬さんとの先の見えない未来に怯えている間に、いつの間にか卒業式の日を迎えてしまった。
互いに卒業式を終えた後、私たちは制服姿のまま待ち合わせをした。
今日で制服を着るのが最後になる冬馬さんが「最後の思い出作りで制服デートをしよう」と提案をしたからだ。今まではアイドルという立場を踏まえ、一発で在籍校が特定される制服姿でのデートは極力避けるようにしていた。だけど今日で一旦学校を卒業したわけだし、何より街には私たちと同じように卒業式を終えて制服姿のままデートを楽しんでいる歳の近いカップルも多く見受けられる。きっといつもよりは面倒ごとに巻き込まれるリスクも少ないはずだ。
「志保、卒業おめでとう」
「ありがとうございます。冬馬さんも、おめでとうございます」
卒業証書が入った筒を持った制服姿の冬馬さんは、ほんのり寂しげな影を含んでいたけれど、それ以上に晴々しい顔つきで私を見下ろしていた。制服姿の冬馬さんを見ることができるのは今日で最後なのだと思うと、私はやっぱり愛おしい気持ちになってしまう。明日から私たちは別々の道へ進む、その事実はもう何ヶ月も前から決まっていたはずなのに、いざこうして前日を迎えると今更じわじわと実感が湧いてきて、中学校の卒業式では一度たりとも緩まなかった涙腺が刺激されるようだった。
「なぁ、最後だから学生っぽいこと沢山しようぜ」
「学生っぽいこと、ですか?」
だけど冬馬さんは私とは対照的に、相変わらずいつもと変わらない様子だ。
なんなら卒業式を終えて「学生」という縛りから解放されたことを喜ばしく思っている風にも映って、いつになく上機嫌な気さえする。
「あぁ。プリクラ撮ったりクレープ食ったり、あとはカラオケ行ったり……」
「なんかもっとやりたいことないんですか? せっかく卒業したわけですし、明日で––––」
「ん? 明日がどうしたんだよ」
「い、いえ、なんでもないです。とりあえず何処か行きましょうか」
明日で最後––––なんて、言えなかった。言えるはずもなかった。
その言葉を言ってしまうと最後、本当に私たちの関係は明日で終焉を迎えてしまいそうな気がしたからだ。
だけど口に出さなくたってもしかしたら私たちの運命はもう既に決まっているのかもしれないとも思った。今更私がどうこうしたって、仮に子供のように泣き喚いても、いずれ訪れる恋の寿命を先延ばしすることはもう不可能なことに思えてきたのだ。
そして冬馬さんは、もしかしたらその事実に気付いているのかもしれない。
私たちの前にはどうやったって抗うことのできない巨大な運命が待ち構えていて、その運命が訪れる日まで少しでも楽しい思い出を作ろうとしているのではないか。いつになく上機嫌な冬馬さんを見て、私はそんなことを感じ取っていた。
★☆★☆★☆★☆
時間の流れは、やはり不公平だった。
楽しくない時間は永遠に感じるのに、楽しい時間、終わって欲しくない時間はあっという間に過ぎ去っていく。確かに同じ早さで時は流れているはずなのに、その両者の時間の流れが明らかに違うのだから、不公平以外のなにものでもないはずだ。そして今日の時間の流れは未だかつてないほど早く感じられたのだから、私にとって本当に終わって欲しくない時間だったのだと思う。
時間よ止まれ、なんて月並みなことを冬馬さんの隣でずっと願っていたけれど、当たり前だけど時間は止まってくれるはずもなくて。時間の経過と共に鮮やかな夕焼けは闇に染まっていって、街灯に光が灯り始めて、街中では制服姿の学生よりスーツ姿の社会人の比率が多くなってきた。真っ暗なカーテンに覆われた空の一番高いところには太陽みたいに眩しい月が私たちを照らしている。この月が地平線の彼方に沈んで本物の太陽が昇ってくると、次に訪れるのはいよいよ私たちが離れ離れになる旅立ちの日だ。
「志保?」
冬馬さんの声で、どこか遠くに行っていた意識が呼び戻された。
気が付けば冬馬さんは私の少し先に立ってこちらを振り返っている。冬馬さんが私より先を歩いていたのではなく、私が知らぬ間に足を止めていたみたいで、いつの間にか私たちの間には手を伸ばしても互いに触れ合えないほどの距離が開いてしまっていた。
「……泣いてるのか?」
「え?」
そう言われて、初めて頬に涙が伝っていたことに気が付いた。
確認するかのように慌てて瞼に触れてみると、途端に堰を切ったように涙が溢れ出してきた。異変を察して冬馬さんが駆け寄ってきたけど、私たちの距離が縮まれば縮まるほどに視界が潤んで、冬馬さんの姿がぼやけていく。
大きくて頼り甲斐のある手の平が私の肩に触れると、とうとう我慢できなくなって私はその場に膝から崩れ落ちてしまった。
「お、おい! 急にどうしたんだよっ!?」
「なんでも……、なんでもないです」
「なんでもねぇわけないだろ! 大丈夫か、なんか具合でもわりぃのか?」
とうとう胸の中に押さえ込んでいた不安が、爆発したかのようだった。
一度崩壊した堰はもう何の意味も持たなくて、ずっと胸の中にだけ押し込めていた想いが、恐怖が、とめどなく私の身体全体に駆け巡って行く。泣き止まなきゃって思うけど、そう思うたびに吸う息が苦しくて、涙を止めようと歯を食いしばることすらもさせてくれない。完全にリミッターを崩壊させてしまった私は、もう悲しみの全てに身を委ねることしかできなかった。
「……私、怖いんです。冬馬さんがハリウッドに行ってしまって、これから私たちの関係はどうなるのかって思うと不安で仕方がなくて」
絶対に言わないでおこうと思っていた胸の内が、とうとう言葉になって口から出てしてしまった。
潤んだ視界のまま顔を上げると、冬馬さんが泣きじゃくる私の顔を覗き込んでいる。私に向けられた冬馬さんの顔は溢れ出る涙のせいではっきりとは分からなかったけど、困っているのだけはなんとなくだが伝わってきた。
「……そうだよな、不安だよな。分かるぜ、志保の気持ちは」
「いい加減なこと言わないでくださいっ!」
自分でも驚くほどの叫び声が、人通りの少ない通りに反響した。気が付けば私は冬馬さんの手を振り払って、震える足にどうにか力を入れて立っている。今後二度と着ることのないであろう中学校のセーラー服の袖で強引に涙を拭うと、口を開けたまま唖然とする冬馬さんの姿を、私の瞳が克明に捉えた。
「冬馬さんは全然分かってない! 私の気持ちも、私の不安もっ!」
頭の中に浮かんできた言葉が、何の遠慮も気遣いもないままに次から次へと口から垂れ流れてくる。もう自分でも明日の別れを悲しいと感じているのか、何も分かってくれない冬馬さんに怒っているのか、コントロールを失った感情の根底にあるものの正体は分からなかった。
こんなに泣いて、感情の思うがままに言葉をぶつけたって、きっと冬馬さんにとってウザいだけで何も伝わらないことだって分かっているはずだった。だけどそんな理屈を理解していながらも、私はこの感情を抑えることができなかった。
私たちは互いの夢のために、進むべき道を歩いていく。
大切な夢のための挑戦なのだから、これは致し方ないことなのだ。
だけど、それでも私は「仕方ない」で全てを割り切れるほど器用な人間じゃなかった。街で歳の近いカップルを見るたびに、綺麗な冬馬さんの横顔を見るたびに、どうしても福岡に行くことを選んだ過去の決断を激しく後悔してしまうのだ。もしかしたら私が福岡に行くなんて馬鹿なことを言わなければ、冬馬さんだってハリウッドの話は断っていたかもしれない。そうすれば私たちは明後日からも二人で一緒の時間を過ごすことができたかもしれないのに、と。
もう後戻りができないと分かっていながらも、あの時福岡に行かない未来を選択した自分を想像してしまう。そして都合の良い未来に夢を見てしまったが為に、明日から始まる福岡での生活が、冬馬さんと一緒に過ごす時間以上の価値を持つものになるとは到底思えなかったのだ。
「本当は、本当はあの時だって––––っ」
夢と大事な人を天秤に掛けて、どちらかを選べと言われても選べるはずがない。
冬馬さんを好きになって、初めて誰かを大切に想う気持ちを知って、どちらも等しい価値を持ったかけがえのないモノだと気付くことができた。夢も恋愛も、何物にも替えられない大切なモノだからこそ、どちらか一方を選ぶなんて出来るはずがなかったのだ。
だけど、そう頭では理解していても、あの時は違う言葉をかけて欲しかった。
福岡行きを力尽くで止めて欲しかったわけじゃない。あの時に冬馬さんが何て言おうが、私の決断は変わらなかったと思う。そして、自分の望んでいることが酷いくらいに我が儘で身勝手なことだとも分かっている。だけどそれでも理屈じゃなくて、あの時は気遣いじゃなくて、冬馬さんの本心を私は聴きたかったのだ。
「––––本当は止めてほしかった! 「行かないでくれ」って、言って欲しかったのにっ!」
口からその言葉が溢れ出てきたと同時に、私の膝からはすっと力が抜けて行って、再びその場に座り込んでしまった。
※全話(EX:最上静香編)の志保と同一人物です。