あれほどまでにもどかしいと思っていた旅立ちの日が、とうとうやってきた。
ずっと前から決まっていたこの日を迎えた時、きっと私は不安な気持ちを感じてしまうのだと考えていた。家族や劇場の皆との別れにも、冬馬さんと離れ離れになることにも、もしかしたらさほど思い入れのなかったはずのこの生まれ育った東京の街にも、胸が焼けるような恋しさを抱くのだろう、と。
だけどいざ当日を迎えてみると、私の胸にはそんな恋しさや不安は微塵も存在していなかった。
旅立ちの日の朝はいつもより日差しが眩しく感じられて、窓を開けて肺一杯に吸い込んだ空気は新鮮な味がして。大きくて重いキャリーケースを引いて家を出た時に見上げた空は透き通るような青色に染まっていて、私の胸の中では昂るような衝動が駆け巡った。
これから福岡の地で新たな生活が始まって、きっとそこで私は今よりもっと夢に近づくことができる––––……。今日という日がそんな希望に満ち溢れた未来へと続く第一歩のようで、もしかしたら蛹から羽化し、初めて羽を大空に向けて広げた蝶はこんな風に空を見上げているのかもしれないと思った。
私はこの空の飛び方を知らないけど、追い風を含んだ背中の羽は既に飛び方を知っているようで、あとは私の気持ち次第でどこまでも飛んでいけるような気さえする。冬馬さんが隣にいなくても、私は自分の空へと飛んでいけるのだと。初めてそう思うことができた。
––––これも冬馬さんのおかげなのかな。
私がこうして前向きにこの日を迎えることができたのも、そしてこの空を初めて独りきりでも飛べると思えるようになったことも。
きっと冬馬さんがちゃんと話をしてくれて、私が選んだ道も、冬馬さんが選んだ道も、全ては決別ではなく私と冬馬さんが見上げている空へと続いているのだと再確認することできたからだと思う。
今見ている景色や肌で感じている空気、身体中の血流を昂らせる衝動も、そして冬馬さんとの思い出も、何一つ忘れまいと胸に刻み付ける。全てを持って、私は福岡で夢を叶えるのだ。
この何処までも続く真っ青な空を飛べると確信を得た私に、昨日までずっと居座っていたはずの後ろ向きな気持ちが入る隙間は少しもなかった。
駅まで見送りに来てくれたプロデューサーや劇場の皆と最後の別れを済ませ、乗り込んだ東京モノレールを羽田空港第3ターミナル駅で降りると、空港の向こう側に広がる滑走路から飛行機が離着陸する騒音が聴こえてきた。飛行機独特の燃料の匂いを乗せた北風は乱暴に吹き乱れていて、これから始まる私の新たな門出を手荒に祝福しているようだった。
「志保、身体に気を付けて頑張りなさいね」
「お母さんもね。りっくんもちゃんとお母さんの言うことを聞いて良い子にしててね?」
「うんっ!」
母と弟は高校の入学式に出席するため、一週間後に福岡へとやってくることになっている。そのせいか、そこまでの寂しさは感じられなかった。
福岡の事務所から話があったことを伝えた時、母は真っ先に「家族のことは気にしないで、志保が行きたいと思う道を選びなさい」と言ってくれた。結局その後福岡に行くことを決めたと告げた時も、金田社長を連れてきて三人で話した時も、母は一貫して「志保のやりたいことをやらせてあげたい」と私の背中を押し続けてくれたのだ。
その言葉に有り難みを覚えつつも、あまりにあっさりと承諾してくれたことに少しだけ腑に落ちない部分もあって、後々母に「どうしてすんなり行かせてくれたの?」と尋ねてみたことがある。すると母は、「今まで散々志保に助けられてきた分、これからは少しでも志保には自由に生きて欲しい」と照れ臭そうに答えてくれた。私はもう気にしていないと何回も伝えたけれど、もしかしたら母なりに父の死を隠してきたことや無意識のうちに多くのモノを背負わせてしまったことへの負い目があったのかもしれない。
だからこそ、私が自ら選んだ道を進むことに対して寂しさ以上に嬉しさが勝って、そして誇らしくも思っているのだろう。今までとは違う形で母の愛情を感じ取れたのと同時に、母も私も、父の死を本当の意味で受け入れることができて、ずっと止まっていた北沢家の時計の針が未来に向かって進み始めていることにも気が付くことができた。
その変化に気が付けたからこそ、私も後ろ髪を引かれることもなく、自分の道を進めるのだと思う。
「これから天ヶ瀬さんにも会うんでしょ? よろしく伝えといてね、気を付けて行ってきてくださいって。それと本当にありがとうございました、とも」
「うん。ちゃんと伝えとく」
「お姉ちゃん、頑張ってね!」
「ありがとう。りっくんも春から小学生頑張ってね」
最後まで別れを惜しむような空気にはならず、母と弟は帰っていった。何度も振り返りながら改札を通って行った二人の背中を見えなくなるまで見送った後、私は目の前にそびえ立つ羽田空港第3ターミナルの中へと向かう。私が買った福岡行きの飛行機より、冬馬さんが乗るハリウッド行きの飛行機の方が早く東京を離れる事になっていた為、待ち合わせは国内線ではなく国際線ですることになっていたのだ。
第3ターミナルで無事に冬馬さんと合流した私だったが、その後は驚くほどに会話がなかった。この瞬間を最後に莫大な距離によって引き裂かれてしまうというのに、私たちは残された時間で今までの楽しかった時間を共有する思い出話や、それこそ昨日の私のように寂しさから感情を爆発させることもなく、互いに手を握り合ったまま言葉は殆ど交わさないという、奇妙な無言の時間を過ごしていたのだ。
だけど不思議と私たちの間には沈黙に対する気まずさも、別れることへの悲壮感は感じられなかった。むしろ何故かこの沈黙が心地良いと感じられるくらいだ。
無言のまま手を繋いでベンチに座る私たちの前を若いカップルや、それこそ別れを惜しんで涙する人たちの姿が何組も通って行ったけれど、やはり悲壮感は私の心の中に付け入ろうとはしてこなかった。
––––もう言葉は必要ないんだな。
昨晩、私が伝えたかったこと、知りたかったことは全て話し合うことができた。だからきっと本当の意味で私は冬馬さんと繋がり合うことができたのだと思う。
ようやく言葉に心の底から繋がり合うことができた今、私たちに余計な言葉は不要だった。わざわざ言葉で確認しなくても、今の私は冬馬さんの考えていることも、綺麗な瞳が捉えている未来も分かるのだから。
そしてそれはきっと冬馬さんも同じなのだと思う。
「あ、そう言えばさ」
ふと何かを思い出したような素振りを見せ、冬馬さんがそう言った。
だけどその切り出し方はごく自然なもので、沈黙に対する気まずさや何か取ってつけた話題のような不自然さは一切感じられない。その様子からやっぱり冬馬さんも無言の時間に何も違和感を感じていなかったのだと密かに思った。
「どうしたんですか?」
「前さ、志保がアイドル続けるって言った時あったじゃん。あの時、俺が言った言葉って覚えてるか?」
「冬馬さんが言った言葉……?」
訊き返した私はそう問われ、ちょうど一年前の今頃だった日の光景を記憶の隅から引っ張り出す。
久しぶりに実家に帰って母と和解して、父の墓参りに初めて行って––––……、その後に高台の公園で冬馬さんと待ち合わせをして互いに想いを伝えあった日のことだ。あの日はそれこそ今日と同じくらい空が高くて、優しい春風が吹いていた覚えがある。
––––誰かの為ではなく自分の為に、アイドルを続けたい。
確かそんなことを私は冬馬さんに伝えたはずだ。
一問一句しっかりというわけではなかったが、あの日のことはつい昨日のように鮮明に覚えていた。私が高台の公園で何を思って、何を伝えたのかも、そしてその時の冬馬さんの反応も、優しくかけてくれた言葉も。だから冬馬さんの問いかけの答えは、わりとすぐに見つけることができた。
「私がアイドルを続ける理由を一緒に探してくれる、ってやつですか?」
「そう! さすが志保、よく覚えてるな」
正解だったようで、冬馬さんは子供のように無邪気に笑う。
だけどすぐにその笑みを切って、困ったように眉をしかめた。その表情が心なしか申し訳なさそうにも見える。
「……結局志保がアイドルを続ける理由ってのは見つけてやれなかったな、って思ってさ」
「そのこ––––」
弱々しい冬馬さんの声が途切れたのを確認して返事を言いかけた時に、割り込むように空港内には大きなアナウンスが鳴り響いた。
『ロサンゼルス行き、十六時三十分発、ANA航空〇〇◯便をご利用のお客様は保安検査場をお通りになり、五番搭乗口よりご搭乗ください』
流暢な英語の後に聴こえてきたのは機械のように淡々とした日本語のアナウンス。二度同じ内容のアナウンスが繰り返され、出発時間が迫っていることと保安検査場を早く通過するようにとしつこく勧告している。
冬馬さんにもそのアナウンスが聴こえていたのか、シャツの袖を捲って腕時計を確認すると、おもむろに腰を上げて立ち上がった。
いよいよ別れの時なのだと思うと、途端にギュッと胸が締め付けられる。いくら心が通じ合ったからと言って寂しさが全くないわけではない。やっぱり別れの瞬間を迎えると私の胸は針を刺されたように痛くなって、気を抜けばあっという間に昨晩のような弱い自分が姿を見せてしまいそうな気がした。
だからこそ、そんな自分を押し込めるように、私は縮んだ胸の底から声をどうにかして絞り出した。
「そのことなら大丈夫ですよ」
「え?」
私がそう言うと、この答えは予想していなかったのか、立ち上がったままの冬馬さんはびっくりしたような顔で振り返った。座ったままの私を見下ろす冬馬さんは、言葉の真偽を確かめるように私の瞳を見つめている。
「ちゃんと見つけられましたから、アイドルを続ける理由は」
「そうなのか?」
「はい。冬馬さんのおかげで」
「え、俺のおかげ?」
ますます疑うように、冬馬さんは私に向けた目を細めた。どうやらこの言葉の意味に気が付くほどにはまだ通じ合えていないようだったけど、それはそれでいいのかもしれないと思った。きっと全てを分かり合えなくても、今の私たちなら大丈夫なのだとも。だから私は敢えて言葉にしてまでは伝えない事にした。
「さっ、早く行ってください。これで乗り遅れたら洒落になりませんよ」
恐らく冬馬さんと同じ飛行機に乗るであろう何組かが、急ぎ足で保安検査場へと向かう姿が目に付いて、私はそう言った。
冬馬さんは簡単に頷いて、大きく深呼吸をする。そして溜め込んだ息を吐くと、小さなキャリーケースのハンドルを握った。
「……そうだな。じゃ、行ってくる」
「はいっ。行ってらっしゃい」
★☆★☆★☆★☆
「ちゃんと見つけられましたから、アイドルを続ける理由は」
あの日に誓った、『志保がアイドルを続ける理由を一緒に探す』という約束を守れなかったと話した俺に、志保が返した言葉は意外なものだった。思わずその意味が分からなくて、「そうなのか?」と確認してみたけれど、志保はやっぱり確信に満ちた表情で頷く。見つけれたのは俺のおかげだという意味深な言葉も添えて。
その理由も、俺のおかげで見つけれたと話す志保の『アイドルを続ける理由』は依然として分からないままだったが、俺は言及はしなかった。志保も話す必要はないと思っていたのか、それ以上は自分から話を広げるつもりはなさそうだった。
ついさっき聞こえたのと全く同じ内容のアナウンスが、再び何処からか聞こえてくる。検査保安場へと足早に向かって行く人たちも増えてきて、俺たちにはあまり時間が残されていないことをひしひしと突き付けて始めていた。
「じゃ、行ってくる」
「はいっ。気を付けていってらっしゃい」
まるでまた明日にでも会えるかのような、冷たくも未練がましくもない口調だった。自分たちでも驚くほどに軽い言葉を別れの挨拶にして、ずっと繋いでいた手を解く。手が離れた瞬間にだけ寂しさが顔を覗かせたが、特に胸を激しく叩くようなことはしなかった。
少しだけ距離を取ってから最後にもう一度だけ手を振り、背を向けて俺たちは別れた。保安検査場に向かうまでの道ではひたすらに前だけを見据えて、俺は一度も志保の方を振り返らなかった。確認できていないから確かではないけれど、きっと志保も一度も俺の方を振り返らなかったと思う。
急ぎ足で保安検査場を抜けて搭乗口へと向かうと、ちょうどロサンゼルス行きの便の搭乗手続きが始まっていた。真新しいパスポートと搭乗券を見せて乗り込んだ飛行機の窓から外を見ると、そこにはただっ広い滑走路が広がっていて、多くの飛行機が空へと飛び立つ瞬間を今か今かとあちこちで待機しているのが目に入った。
不思議なくらいに胸が高鳴っている。日本を独りで離れる不安なんか全く感じなくて、今はただずっと見上げていた高い空へ飛び立つ瞬間が、待ち遠しくて仕方がなかった。
––––いよいよ、か。
ふと手の平を開いてみると、微かに志保の手の平から伝ってきていた温もりが残っていたことに気が付いた。一度だけ瞼を閉じて、志保の姿が焼き付いているのを確認する。志保のくれた勇気も、可能性も、そして温かさも、全てをちゃんと持っていることを確かめてから瞼を開くと、飛行機は大きく揺れながらゆっくりと広い滑走路を走り始めた。
––––その話を聴いて、凄いなって純粋に思ったんです。誰にも頼らないで、自分の実力だけでトップを目指すって、私も皆さんみたいにそれくらい強くなりたいなって。
––––あの、今日のライブ本当に良かったです。天ヶ瀬さん、素敵でした。
––––私、冬馬さんを好きになって本当によかった。
徐々にスピードを上げていく飛行機の中で、その速度に負けないほどの勢いで志保との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。次々と思い浮かんだ記憶は自分にとって都合の良い思い出ばかりだったことに気が付いて、少しだけ恥ずかしくなった。
思い返せば初めて出会った時から、志保はずっと俺を特別な枠に置いてくれていた気がする。俺がこの空を見上げているのと同じように、ずっと俺を高いところにいる人間として見上げて、眩しい眼差しを送り続けてくれた。時折その志保の羨望の眼差しが俺には不釣り合いなような気がして怖くなったこともあったけれど、そんな志保の眼差しが俺を奮い立たせてくれて、自分ですら信じられなくなっていた可能性を信じる強さをくれたのは紛れもない事実だった。
だからこそ、俺は強く願った。今度は俺が志保に貰った倍以上の勇気と元気を与えることのできる大人になりたいと。それがきっと天道さんたちのような、俺が憧れる大人の姿に繋がるのだと信じて。
––––ちゃんと忘れてないぜ。全部、ちゃんと覚えてる。
志保との思い出も、ずっとずっと握り締めていた可能性も、全てを持って俺たちはそれぞれの場所へと歩いていくのだ。一直線に、迷わずに。
喫茶店で志保と話した時のように、身体全体がふっと軽くなって、強烈な後押しを受けて背中の翼が広がるような感触が背中を走って行った。
この時初めて、俺はようやく飛べたんだなと思った。思い描いていた世界へ、胸の奥に広がってた世界へ向かって、ずっと確かめられないでいた可能性が初めて具体的な感触に変わった瞬間だった。
俺を乗せた飛行機は轟音をたてながら離陸し、あっという間に日本から遠ざかっていった。
★☆★☆★☆★☆
「じゃ、行ってくる」
「はいっ。気を付けていってらっしゃい」
このやりとりを最後の会話にして、私たちは互いに背を向けあってそれぞれの道へと歩き始めた。
大勢の人で賑わう羽田空港の第3ターミナルには夕暮れ時だと言うのに春の日差しが差し込んでいて、温かい陽気に包まれている。出口へと向かう途中で、私は数え切れないほどの人たちの出会いと別れを繰り広げられてきた空港という場所には、まるでこの季節がピッタリなのかもしれないと思った。
ふと近くで別れを惜しみ合うように泣きながら抱き合う若いカップルの姿が視界の端に入った。きっと私たちのように国を跨いだ遠距離恋愛になるのだろうか、女の人が感情を露わにして泣き叫んでいる。その光景が昨日の自分の姿と重なって、思わず冬馬さんの方を振り返りたい気分にとらわれた。
––––大丈夫。大丈夫だから、振り返らないで。
そう言い聞かせて、私は春の日差しが差し込む空港内を振り返らずに進んでいく。つい数秒前の冬馬さんの面影がハッキリと脳に焼き付いているのを確認できたから、私は最後まで一度も振り返る事なく第3ターミナルを後にすることができた。冬馬さんの姿も、そして私にかけてくれた言葉の一つ一つの意味も、ちゃんと覚えているから、わざわざ振り返って確認する必要はなかったのだ。
第3ターミナルからバスを乗り継いで、今度は私が搭乗する福岡行きの便が待つ第1ターミナルに到着した時、空港の上空をぐんぐんと登っていく一機の飛行機の姿が目に入った。飛行機の種類なんて全然分からないし、航空会社にも詳しいわけでもない私だけれども、それが直感的には冬馬さんを乗せたロサンゼルスへと向かう飛行機なのだと気付くことができた。
––––やっぱり冬馬さんは凄いなぁ。
初めて会った時からいつか大きいことをしてくれる人だとは思っていたけれど、まさかハリウッドに行くなんてことは予想できなかった。私が福岡に行くと決めたら、冬馬さんは国外にまで行ってしまうんだから、やっぱりまだまだ私は冬馬さんに敵いそうにないなと思う。
––––どうか、冬馬さんがこの先もずっとずっと遠くまで飛んで行けますように。
煙る夕日の先へと飛んでいく冬馬さんの飛行機をジッと見つめながら、そう強く祈った。そしてその背中を、私もずっとずっと、いつまでも追い続けていけるようにとも。
冬馬さんを乗せた飛行機の姿が見えなくなるまで見送って、私は自分の進むべき道へと戻った。既に日が暮れてしまった第1ターミナルの中は少し肌寒くて、だけどその寒さが程よく感じられて、私は軽快な足取りで空港内を進んでいく。第3ターミナルに比べると若干人の数が少なかったようで、チェックインを終えてから搭乗口に辿り着くまでの間は殆どその足を止める障害物はなく、スムーズに進むことができた。
搭乗口で大きなガラス張りの窓の外側で待機している飛行機たちをボンヤリと見ていると、ふと父のことを思い出した。父は私が幼い頃に他界したのもあって、今胸に残っている父との思い出はあまり多くはない。それでも今でもなお残り続けている記憶だけは決して錆びらせないよう、定期的に磨くように思い出していたのだ。
『志保、よーく聴け。自分の身に起こることには全て意味があるんだ。偶然で無意味なことなんて何もないんだからな』
何度も何度も磨かれた父との思い出の中でも、一際強く印象に残っているのがこの言葉だった。
あの頃も、そしてつい最近までもこの言葉を父が幼い頃の私に伝えた意図が分からなかった。だけど冬馬さんと出会って、ほんの少しだけ大人になれた今なら、その意図が分かる気がする。
––––きっと、全てのことに意味を持たせろってことよね。
自分の身に起こる出来事、全てにちゃんとした意味があるわけではない。きっと意味も理由もなく突発的に訪れる出来事だって人生の中では沢山あって、そういう形容しづらい機会があるからこそ『偶然』なんて言葉もあるのだろう。
だけどそういうことではなくて、父はきっと偶然でも必然でも、私の身に起こった出来事、私の周りで起きたこと、一つ一つに意味を見出して生きろってことを伝えたかったのだと思う。偶然の一言で片付けるのではなく、その出来事や経験は私に何を伝えたいのか、何を学ばせたいとか、もしかしたらそういう前向きな物事の捉え方ができる人間になって欲しいと父は願っていたのかもしれない。
長い年月がかかってしまったが、父が伝えたかった本当の意図に気が付くことができた。だからこそ冬馬さんがハリウッドに行くことも、私が福岡に行くことも、きっと全てに意味があって、私たちの選んだ道は間違いではなく、進むべき方向へと向かっているのだと信じることができる。今は離れ離れになった道の先は、必ず私たちが共有した空の一番高い部分に繋がっていることを、強く信じることができるのだ。
『大変お待たせ致しました。日本航空にて福岡へご出発のお客様にご案内いたします。日本航空〇〇〇便、福岡行きは全てのお客様を機内へとご案内いたします』
旅立ちを告げるアナウンスが聴こえて、私は春先に冬馬さんと二人で乗り込んだ飛行機に独りきりで乗り込んだ。だけど私の胸には孤独感も不安もなくて、ただただこれから始まる福岡での新生活に心を躍らせる期待感だけが一杯に詰め込まれていた。
福岡でしっかりと自分のやりたいこと、夢に向き合って努力して、そして今度冬馬さんと会う時はもっと魅力的な女性になっていよう。いつまでも冬馬さんと同じ空を、自分にしかできない方法で昇り続けていけるように。
新たな誓いを胸に刻んだ私を乗せた飛行機も、冬馬さんをハリウッドへと連れて行った飛行機の跡を追うように羽田空港を飛び立って行った。
ぶっちゃけここで終わらせるのが一番切りが良いかなと思っていたので、どうしようか迷ってました。
でもここまで長々と続けてしまったし、まだ書きたい話もあるので、残り二回分は後日談扱いにして投稿します。