【完結】ニタモノドウシ   作:ラジラルク

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今回含むラスト2話で完結なので初投稿です。




 こうして俺と志保の遠距離恋愛は始まった。

 ハリウッドと福岡の距離はおよそ8873キロメートルで、二都市の時差はおよそ十六時間。安易に会うことも叶わないどころか、生活習慣だって殆ど重ならない。そんなあまりにも巨大すぎる壁が俺たちの前には立ち塞がっていて、その壁を乗り越えることも、ましてや破壊することもできず、ただただ淡々と二年の月日が過ぎるのを待つことしかできなかった。

 そんなどうしようもない現実に屈しそうになった時がないといえば嘘になる。どうしてもふとした瞬間に志保の温もりが恋しくなる時というのは訪れて、その度に俺は行き場のない孤独感に苛まうことだって少なからずあったのだから。

 だけどそんな風に孤独感に負けて挫けそうになる度に俺を支えてくれたのは、誰でもない、遠く離れた福岡の地で頑張る志保の存在だった。

 志保は一年目の梅雨時期から徐々にローカル局のCMの仕事を貰い始めると、夏には準主役の役を貰って舞台女優デビュー。それから更にスピードを加速させてみるみる頭角を現していくと、冬には台詞の少ない脇役だったそうだが念願だった博多座で行われる舞台への出演も勝ち取って見せた。

 

 ––––志保はちゃんと福岡の地で独りでも頑張っていて、着実に夢に近づいている。

 

 だからこそ俺も二年後に帰国した時にちゃんと胸を張って会えるように、今後も志保が憧れた天ヶ瀬冬馬であり続けれるように、もっともっと頑張らなければいけないと思った。その思いが会えないことへの寂しさを和らげて、自らを異国の地で奮い立たせるモチベーションになっていたのだ。

 例え側で支え合うことができなくても、今の俺には「志保が福岡で頑張っている」という話だけで十分だったのかもしれない。悔しくて眠れない夜も、強烈な太陽の光に屈しそうになる朝も、遠くの街で頑張っている志保を想うだけで、俺は頑張り続けることができたのだから。

 そんな風に互いに刺激を与え合う関係性を保ち続けてたからこそ、俺たちはそれぞれ違う場所で孤独にも負けず、誰の手の及ばない場所でも独りきりだと感じなかったのだと思う。途方もない距離と時差の前に俺たちは引き裂かれてしまったが、そんな現実にも負けることなく、互いの存在を誇らしく見つめ合うことで、俺たちは旅立ちの前日に初めて繋がった糸を断ち切らぬように丁寧に、そしてより深く紡ぎ続けることができていたのだ。

 

 そして、ハリウッドにやってきてからちょうど一年が経過しようとしていた三月。ようやく志保との遠距離恋愛も折り返しを迎えたこの時期に急遽、俺に思わぬ形で日本へと一時帰国する機会が訪れた。

 

「トウマ、たまには日本に帰ってリフレッシュしてきたらどうだ」

 

 二週間ほどの春休みに入る直前にハリウッドでお世話になっていたボスが、そう言って日本への往復航空券をプレゼントしてくれたのだ。さすがに日本までの航空券の相場を知っている俺は気が引けて断ろうとしたが、「オフの時はしっかりリフレッシュしろ」という如何にもアメリカ人らしい言い分で俺の遠慮は捻じ伏せられてしまった。

 大きな野望と強い志を持ってハリウッドにやってきても、ハリウッドの芸能界隈でも特にスパルタと評判のボスの厳しい指導に耐え切れず、ハリウッドを去っていく者も多かった。後に赤羽根さんから聴いた話だが、これはそんな厳しい環境下でも逃げ出さずに頑張って来た俺に対する、ボスなりのご褒美だったそうだ。

 ボスに対して申し訳ない気持ちはあったものの、それでもいざ日本に帰れるとなると嬉しくて、心が浮き立ってしまう。幸い俺が日本に到着する日から志保が通っている高校も春休みに突入するそうで、俺はボスがプレゼントしてくれた航空券の発着点を福岡空港に変更し、日本の皆に会いたいと早る気持ちを抱えて春休みに入ると同時にロサンゼルスの空港を発って日本へと向かった。

 乗客の少ない機内の電気が消灯されて真っ暗になったタイミングでふと窓の外を覗いてみると、飛行機の下は雲の海が広がっており、上空の星たちは手を伸ばせば届きそうなほどに近い距離に浮かんでいる。銀河と月明かりの下、一年ぶりに日本へと向かう機内で俺はあっという間に過ぎて行ったこの一年を振り返っていた。

 言葉も今までの常識も通じない日常でもがき苦しんだ跡、孤独に負けそうになった夜、手に染み込んだ志保の温もりが異様に恋しく感じた日のこと––––。

 この過酷な一年間で俺は志保の存在にどれだけ助けられてきたことだろう。その話は何度か電話でも伝えたことがあったような気がするけれど、きっと言葉にしても伝わりきれないほどに俺は志保に支えられた一年だったと思う。

 

 ––––志保にも同じような一年があるんだろうな。

 

 電話では伝えきれなかった話が山のようにある。

 だけどそんな俺の話の前に、まずは志保に「おめでとう」と伝えたかった。演者として博多座に立つことができた志保の努力を、真っ先に称えるべきだと思ったのだ。

 

 

 一年ぶりに日本へ帰ってきて、入国審査を終えて福岡空港の国際線のターミナルに出ると、すぐに見慣れない清潔感のある白を基調としたセーラー服姿の志保が目に付いた。制服を身にまとう志保の姿は遠目から見ても一年前と比べものにならないほど大人びて見えて、その凛とした佇まいがこの一年での苦労を物語っているようだった。

 志保もすぐに俺に気が付いたようで、俺に向けて控えめに手を振っている。泣いて駆け寄ってくるようなことはしなかったけれど、志保の表情は満面に喜色を湛えていて、その顔を見るともう我慢できなくなって、俺は重いキャリーケースのキャスターの音を煩く鳴らしながら志保の隣にまで駆けて行った。

 

「志保っ!」

「冬馬さん」

 

 電話越しではない、志保の肉声が耳の中で心地よく弾ける。

 隣で見下ろした志保の目にはやっぱり涙が滲んでいたけれど、その煌めきに悲壮感は一切なくて、ただただ汚れのない純白な輝きを放っていた。

 最後に会った一年前に比べて、ウェーブのかかった髪は肩上に触れるくらいの長さで切られていて、少しだけ化粧もしているようだった。髪型や化粧のせいで高校生らしからぬ雰囲気を漂わせていたけれど、実際の志保は俺の思い出の中の姿と何も変わっていなかった。雰囲気や制服が違和感を感じさせているけれど、綺麗な鼻の形も、小さな手の甲も、髪の毛から漂う優しい匂いも、羽田空港で別れた時と一緒のままだ。

 妙な安心感と懐かしさが胸の中にじんわりと広がって行く。俺は帰ったら真っ先に伝えようと決めていた言葉をすっ飛ばしてしまって、心の底から温まるような優しい気持ちに浸っていた。

 

「……お帰りなさい、冬馬さん」

「あぁ、ただいま」

 

 志保は二回ほど瞬きをして、その拍子に大きな瞳から涙が溢れた。 

 俺はキャリーケースから手を離して、志保の小さな身体をギュッと抱きしめる。一年ぶりに華奢な身体に触れて、俺はずっと志保に会ったら伝えようと決めていた言葉を口にした。

 

「待っててくれてありがとな。それと、博多座出演、本当におめでとう」

 

 

 ☆★☆★☆★☆★

 

 

 冬馬さんが日本に到着する当日、私は高校生活一年目を終える終業式を終えて、制服姿のまま福岡空港へと向かった。到着予定時刻までは少し余裕があったから一度マンションに帰ることもできたけれど、あまりに胸が急くものだから、マンションでジッと待つなんてことができる気がしなかったのだ。私が急いで空港に着いたところで、冬馬さんを乗せた飛行機の到着が早まることなんてないのに、それでも私は早る気持ちを抑えられなくて、地下鉄の福岡空港駅を降りると制服姿のまま長いエスカレーターをダッシュで駆け上がった。

 

 ––––久しぶりに会って、冬馬さんには私がどう映るのかな。

 

 一年前の冬馬さんと別れた時、私は二年後までにはもっともっと魅力的な女性になろうと密かに誓っていた。ハリウッドから日本を結ぶ航空券は決して安価なものではないことは私も知っていたし、何となくではあったが冬馬さんは二年間の期間を終えるまでは帰って来ないような気がしていたから、てっきり次に冬馬さんと会えるのはハリウッドでの留学を終えた二年後だと勝手に決めつけていたのだ。

 その二年後の春を一つの到達点として、私は福岡での日々を過ごしていた。演劇や勉強はもちろん、39プロジェクトで学んだアイドルとしてのダンスや歌の技術も鈍らせないように、寂しさを感じる暇もないくらいに自分が福岡でやるべきことに打ち込み続けた。冬馬さんと共有したこの大空を私なりの方法で飛べるようにと、この大空を飛ぶことが亡き父の手紙にも書かれていた魅力的な女性になることにも繋がると信じて。

 そう思っていただけに、まさか冬馬さんがこのタイミングで一時帰国するのはある意味誤算だった。想像していた期間の半分……、この一年で私はどれだけ変われたのかどうかが気になって、何度も空港のトイレと到着ロビーを往復しては髪や化粧をチェックする。マンションでジッとしてられないから空港に直行したのに、結局空港でもジッとしていられなかったなと自分の落ち着きのなさに我ながら呆れる反面、時計の針が進むたびに胸が張り裂けそうなほどにドキドキして、私はやっぱり冬馬さんが好きなんだなとも思った。

 

 冬馬さんを乗せたロサンゼルスからの飛行機が到着したとアナウンスがあってから、三十分ほど経った頃だろうか。

 国際線の到着ロビーには、大きなキャリーケースを持った人たちがぞろぞろと出て来始めた。ラフな格好をしたガタイの良い外国人、キッチリとしたスーツ姿のビジネスマン、小さな子供を連れた家族、私の前に出てくる一人一人の顔を失礼のないように遠くのベンチから確認しながら、鼓動の早まる胸を押さえ込んでいた。

 

「……あ」

 

 思わず声が出て、ベンチから立ち上がった。一年前にも見た真っ黒なキャリーケースを握った茶髪の人影が、私の方をジッと見つめている。胸の中で何かが弾けて、泣かないと決めていたのにあっという間に涙腺が緩んでいくのが分かった。必死に涙を堪えつつ、気丈に振る舞おうとして小さく手を振ると、人影はキャリーケースのキャスターを強引に走らせて私の元へと駆け寄って来た。

 

「志保っ!」

 

 ––––あぁ、やっぱりダメだ。

 一年ぶりに聴いた冬馬さんの私を呼ぶ優しい声が、視界が潤ませる。私も冬馬さんの名を呼び返したけれど、ちゃんと言葉になったかどうかは怪しかった。だけど冬馬さんは私の隣に立って、ただただ笑っていた。

 見上げた冬馬さんの顔は頬の辺りが引き締まっており、あの頃とは見間違えるほどに逞しくなった大人の顔をしていた。一年前にまだ高校生だったとは思えないほどに変わり果てた顔つきに、きっとハリウッドで私の想像以上に苦労して大変な思いをしてきたんだろうなと思う。

 一度だけ鼻をすすって涙を堪えつつ、今度はちゃんと聴こえるような声量で「お帰りなさい、冬馬さん」と言った。すると冬馬さんはやっぱり優しく笑って、おどけたように「ただいま」と返すと、周囲の人目を気にもせずに私を頑丈な両腕で包み込んでくれた。

 

「待っててくれてありがとな。それと、おめでとう」

「……ありがとうございます。冬馬さんのおかげです」

 

 きっと冬馬さんは私が博多座に立てたことをお祝いしてくれているのだろう。そして私も、博多座に立つ夢が叶ったのはハリウッドで頑張る冬馬さんの存在のおかげだと伝えたかったのだけれども、だいぶ言葉を端折ってしまって分かり辛くなってしまった。

 だけどそんな言葉足らずのセリフだったけど、想いはちゃんと伝わっていたらしい。

 

「俺も志保のおかげで、頑張って来れたんだ。お互い様ってことだな」

 

 一年前にようやく繋がった糸は、ハリウッドと福岡の遠距離にも負けずにしっかりと繋がり続けれていた。

 

 

 博多で借りている私のマンションに寄って冬馬さんの荷物を置きに行った時に、お腹から空腹を主張する音が聴こえて、私は以前旅行で訪れた屋台に行かないかと提案した。実はあの時に行った屋台の味が忘れられなくて、あまり身体に良くはないと分かっていながらも福岡に引っ越して来てから度々一人で足を運んでいたのだ。

 機内で最後に食べた食事から随分と時間も経っていたようで、冬馬さんは若干時差ぼけの疲れを感じさせながらも私の誘いに同意し、二人で中洲の屋台に行く事になった。

 

「志保はあの屋台のラーメン屋よく行くのか?」

「いえ、行っても月に一度行くか行かないかくらいです。さすがに頻繁に行くのは身体に悪い気がして」

 

 この一年ですっかり見慣れた博多の街を冬馬さんと並んで歩く。ずっとずっと私が憧れていた夢の一つだ。

 いくら互いの夢のためだと言っても、やはり制服を着た同世代の男女が歩いている姿を見ると羨ましく思えて仕方がなかった。誰でも良いわけではなくて、私の隣は冬馬さん以外に考えられなくて、だけど私も周囲の人たちと同じような人並みの青春を送ってみたくて、そのどうしようもない現実と理想の狭間で私は何度も何度も胸を締め付けられて来たのだ。 

 特別なことをしたいわけではない。

 きっとこうした些細な日常の一コマを、私は冬馬さんと過ごしたかったのだと思う。

 だけどそんな日本中に転がっているありふれた日常を捨てて、私たちは互いの進むべき道を選んだのだ。そのせいか、誰にでも起こりうる日常を二人で過ごすだけでも随分と特別なことをしているような気がする。こうした身近なことで幸せを感じられるのも、冬馬さんと付き合えたからなのもしれない。

 

 まだ少しだけ早い時間帯なのもあって、中洲の博多座近くに構えている屋台は誰一人としてお客さんがいなかった。年季の入った暖簾をくぐると、退屈そうにて店の隅に置かれたテレビを眺めていた店主がすぐに振り返って、パッと子供のように嬉しそうな顔をして私たちを出迎えてくれた。

 

「おー志保ちゃんか! いらっしゃい!」

「こ、こんにちは」

 

 何度か訪れるうちに顔馴染みになった店主の、嬉しそうな声が響く。その視線に少しだけ恥ずかしさを感じつつもいつも座っている隅の席に腰を下ろすと、店主の視線が冬馬さんに向けられたまま止まっているのに気が付いた。

 

「––––あんた、もしかして数年前に志保ちゃんとここにきた天ヶ瀬冬馬か?」

 

 どうやら冬馬さんのことも覚えていたらしい。

 私と冬馬さんが付き合っていることは初めてここに訪れた時に気付いていたみたいだけど、こうして今でも続いているとは思ってもいなかったのだろう。店主は調子の良さそうな顔で親指を私に向けて立てると、すぐにメニューを冬馬さんの前へと引っ張り出した。

 

「志保ちゃんは久しぶりじゃないよな。二日前にも来てく––––」

「いつのもラーメンでお願いします。冬馬さんもそれで良いですよね?」

「あ、あぁ良いけど……。それより今、二日前にも来たって……」

「そんなこと誰も言ってません。言ってませんから」

 

 お喋りな店主の口を強引に封じて、そのままぽかんとする冬馬さんの視線を無視して水を喉の奥へと走らせる。乾いた喉に冷たい水が走っていく間、狭い屋台には隅に置かれた小さなテレビから流れる音だけがBGMとして響いていた。テレビに映っているのはここ数年でよく見かけるようになった三人組のアイドルだ。よく見かけるわりに三人の名前も、どこの事務所のアイドルなのかも知らなかったけれど、のんびりとした声と、抑揚のない透き通った声と、そして少しバタついたような若い声が、楽しそうに戯れ合っていて、その仲睦まじい雰囲気は不思議と心地の良いものだった。

 

「あ、そういえばな」

 

 店主が何かを思い出したようにそう切り出したのは、慣れた手つきであっという間に二人分のラーメンを作ってくれた直後だった。

 

「あの子も志保ちゃんの舞台見に行ってたみたいだぞ。この前の博多座であった」

「え? 本当ですか?」

 

 意外な話が飛び出して来て、私は目の前に置かれたラーメンを今すぐにでも食そうと二つに割った割り箸を握ったままそう訊き返した。私たちの目の前に置かれたラーメンは食欲をそそる匂いと湯気を立てていて、そのラーメンを目の前にした冬馬さんは横目で私を見つめていた。

 

「あの子って、志保の知り合いか?」

「あ、えっと……。知り合いって言うと少し違う気もするんですけど……」

 

 そう尋ねられると私は説明に困ってしまう。 

 おそらく店主が話している「あの子」というのは、よくここの屋台に一人でくる常連さんのことだ。その常連さんとは何故かいつも示し合わせたように同じタイミングで鉢合わせをするというだけで、特別仲が良いわけでも悪いわけでもない、非常に曖昧な関係だった。

 常連さんは不思議な人だった。年齢は私より上なのだろうけど、そこまで離れているような気はしない。涼しげな目元と泣きぼくろ、そして赤髪が特徴的で、綺麗な顔立ちをしているもののその瞳はいつも冷めきっていて、常に周囲の人間を自分の側には立ち入らせないようなバリアを醸し出していた。そんな雰囲気もあってか私はおろか、店主にも素性を明かそうとせず、年齢どころか名前さえも知らなかった。学生なのか社会人なのか、福岡の人なのか他所から来た人なのか、一切プライバシーを明かそうとしない人だから、いつしか私と店主は常連さんを「あの子」としか呼ぶようになったのだ。

 

「志保ちゃんと同じでよくここに来てくれる子のことさ。だけど一向に名前とか年齢を教えてくれなくてな」

「だから“あの子”って呼んでるのか」

 

 店主が私に代わって常連さんのことを説明してくれた。だけど説明と呼べるほどの情報はなくて、冬馬さんはイマイチ実態を掴めていないといった顔をしている。でもそれも仕方がないと思った。あの人のことを言葉で簡単に説明するほど、私たちはあの人のことを知らないのだから。

 

「あぁ。笑ったら可愛い顔してると思うんだけどな。いっつも不貞腐れたようにブスッとした顔をしてて、口を開けば辛辣な言葉ばっか言って……」

 

 言葉は失礼だが、そこまで的を外していない特徴をぺらぺらと喋っていた店主が、不自然にその口を閉ざした。暖簾が揺れた先に、私たちが話していた「あの子」が立っていたのだ。

 

 

 ☆★☆★☆★☆★ 

 

 

「あ、えっと……。いらっしゃい!」

 

 慌てて言葉を繋いだ店主のリアクションを見て、この赤髪の女性が今ちょうど話題に上っていた「あの子」の正体なのだと察することができた。

 だいぶ失礼な言葉を並べていた気がするけれど、本人には聴こえていなかったのか、そもそも気にもしていないのか、店主には文句どころか一言も言葉をかけず、黙り込んだまま俺たちと少しだけ距離をとって腰を下ろす。その拍子に冷たい視線を俺の方へと一瞥したが、あまり興味がなかったのかすぐに視線を逸らして頬杖を付いた。

 

「ちょうど今アンタの話をしてたんだよ」

「…………私の話?」

 

 不愉快そうに眉をしかめながら、氷のような冷たい声で返事をする。その威圧的な雰囲気にも慣れているのか、店主は何も気にしない様子で話を続けた。

 

「あぁ。ほら、この前志保ちゃんの舞台を観に行ったって話してたじゃないか。そのことを伝えてたんだ」

「そう」

 

 自分のことなのにまるで関心のなさそうな無愛想な返事だった。だけどきっとこの人はこれが普通の態度なのだろうと思う。不思議とその態度からは悪気は感じられない。

 

「ほら、せっかくだから何か志保ちゃんに感想でも言ってやりなよ」

「え、そんな気遣わせないでください! ほんと、観に来てくださっただけでも嬉しかったので」

 

 店主のお節介(というより無茶振り?)に、志保は慌ててフォローの言葉を口にしたが、当の本人は相変わらず無表情のまま、ボンヤリと虚空を眺めていた。重い沈黙が続く中には、相変わらずテレビの音だけが不自然に響いている。

 

「ビールちょうだい」

 

 少しの間を空けて「あの子」が口にしたのは、志保の舞台の感想でもなんでもない言葉だった。注文を聞かずに勝手にラーメンを作り始めていた店主はその手を止めて、「アンタ、成人してたのか」と驚きの声まじりに言うと、「あの子」は溜息をついて左手で頭をひと掻きして、免許証を財布から取り出した。無言のまま、だけどしっかりと名前のところは指で隠されている免許書を確認して、店主は狐につままれたような顔でビールをジョッキ一杯に注ぐ。そのジョッキを、「あの子」は一度も休むことなく一気に飲み干した。

 

「お、おいおい! そんな飲み方して大丈夫かよ」

「……大丈夫。もう一杯頂戴」

 

 動揺する店主とは対照的に、「あの子」はまるで落ち着き払ったようで、空になったジョッキをカウンターに置く。アルコールがまだ飲めない俺でも、その飲み方が普通ではないことは理解できた。

 唖然とする俺らの方を見向きもせず、ジョッキを空にした「あの子」はもう一度大きな溜息を吐く。そしてほんのりと顔を赤めらせながら、「お酒の力に頼らないと言えないこともあるの」と小声で呟いた。

 

「……志保の舞台、すごく良かった」

 

 店主から受け取った二杯目のビールを少し口に含んでから、独り言のように虚空を眺めたまま志保の舞台の感想を述べた。

 

「私は演劇なんか全然分からないし、知識もないけど、それでも志保の演技は何か心に来るものがあって、すごく良かったと思う」

 

 とうとうと喋る。誰も「あの子」の言葉を止めなかった。俺も志保も目の前の食べかけのラーメンの存在を忘れ、店主も手を止めてジッと見つめている。

 

「……私も志保と同じくらいの時、やりたいことがあった。踏み出すことで何かが壊れることも、綺麗なものにはトゲがついてることも分かっていたけど、それでも当時の私なりに真剣に向き合おうとしていたことが」

 

 虚空を眺めながら淡々と語るその瞳が、水溜りのようだなと思った。その水溜りの底が見えないほどに深くて、そして真っ黒な影を落としている。その水溜りは一日二日の雨で出来上がるような浅いモノではなく、長年の雨が積み重なってできるような深いモノで、深淵を覗くことは決して許してくれない。

 

「希望を持てばその度に傷は増えてって、だけどその痛みにはいつまでも慣れなくて。それでも飛ぼうとした。だけど、私“だけ”が飛べなかった––––」

 

 その水溜りの奥底に潜む瞳が、虚空を眺めているのではなくテレビを見つめていることに初めて気が付いた。

 テレビではさっきからずっと変わらず、283プロと呼ばれる事務所に所属する三人組ユニットの『ノクチル』が映し出されている。リーダーの浅倉透と福丸小糸、そして市川雛菜の三人組は、アイドル界では異色の“三人組幼馴染みユニット”だった。

 283プロ自体は俺が961プロに所属していた頃から時折耳に挟んだことがあった。近年マルチタレント化しつつある傾向のアイドル界では異色の、「かつてのスター性のある古き良きアイドル象」を掲げ、異様なまでに新人アイドルの登竜門である『W.I.N.G』の優勝に拘りを持つ事務所として知られていたが、その規模は決して大きくはなく、悲願であるW.I.N.Gでも毎年思うような結果が残せず例年準決勝以下の成績で敗退。所属アイドルの出入りも非常に多かったようで、イマイチ軌道に乗れていない事務所––––というのが俺が勝手ながら抱いていた283プロのイメージだった。

 だが丁度俺がハリウッドに行く直前に初めてノクチルのリーダーである浅倉透が決勝まで勝ち進むと、それを機に注目を集めるようになり、その恩恵を受けて浅倉透が所属するユニット、ノクチルもメディアに登場する機会がグンと多くなった。浅倉透が決勝に進出するまでに多くの時間を要し、ノクチルの三人も全員成人済みで決して若くはない年齢になってしまっていたが、長年の雌伏の時を乗り越えただけあって今はそれなりに勢いのあるユニットの一つとして活躍の場を広げている。

 

「だけど、志保の演劇を見て思った。私もまた頑張ってみようかなって」

 

 いつの間にか「あの子」の視線がテレビではなく、志保の方へと向けられていた。あれほどまでに深かった水溜りも乾き切っていて、まるで雨上がりの晴れ空を映し出したように清々しく透き通っている。

 そして、ずっと睨み付けるように細めていた目の力を抜いて、自然な顔で笑った。

 

「ありがとう。志保のおかげで自分の場所へ帰る決心が付いた」

「か、帰るって何処に……」

「東京。私、出身は東京だから」

 

 だから、その挨拶で今日は来ただけ。

 そう付け加えて二杯目のビールを飲み干すと、無言のままラーメンを食べて帰って行ってしまった。暫く店主と他愛もない話をして、少しお客さんが増えてきたタイミングで俺たちも屋台を出ることにした。

 

「志保、また夢が一つ叶ったな」

「えっ、何のことですか?」

 

 すっかり日がくれた夜の博多の街を歩きながら、俺がそう言うと志保は咄嗟に足を止めた。

 幾つかの細道を挟んだ向こう側から、大きな道路を走っていく車たちのごうごうとした音が聴こえてくる。近くの博多湾から漂ってくる海の匂いと、春の草木の匂い、博多の街を駆けていく車の匂いがごちゃ混ぜになって、肺の奥へと入り込んできた。知らない街の知らない匂い、だけどこの匂いは志保にとっては日常のひとカケラなのだろう。

 長い間隔で置かれた電信柱の灯が、ポツポツと光を灯していく。それはまるで志保が福岡の地で掴み取った夢を順々に証明しているようだった。

 

「言ってたじゃねぇか。自分の演技で誰かに影響を与えたり、勇気を与えれる人間になりたいって」

「––––あっ」

 

 志保は今更になって自分の夢が叶ったことに気が付いたようだった。

 驚いたように立ち尽くしながらも、感極まって泣きそうになっている。その表情も、去年よりもグッと大人びて見えた。

 

「やっぱり志保はすげーよ。ちゃんと夢を叶えて、大人になってんだな」

 

 




志保の制服のイメージは千年さんが通っていた高校です。
志保はブレザーよりセーラーのイメージすよね。

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