それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
下を向くな。顔を上げろ。皆お前を愛している。
帰路は赤い沈黙の中だった。
防護服のヘルメットの中で、自分の呼吸だけが狭い反響を繰り返している。行きと同じ赤い大地が車窓を流れている。コア化した地表の鈍い光沢は変わらない。けれど私の目に映る世界は、行きとはまるで別のものだった。
あの少年の顔が、まぶたの裏に焼きついて離れない。日に焼けた頬。くしゃりと潰れる笑い皺。目を輝かせた、あのまっすぐな瞳。
加持さんの面影が、その顔に重なっていた。
相田君がハンドルを握り、アスカが助手席で頬杖をついている。私は後部座席で、防護服の重みごと座席に沈むようにして座っていた。
ヘルメットはもう外してもいい場所まで来ていたけれど、誰もそれを言い出さなかった。車内の空気が、防護服の中よりもなお重い。
「碇」
相田君が、バックミラー越しにこちらを見た。
「あいつのこと——あの子は、葛城さんと加持さんの子供だ。お前の思ってる通りだよ」
やっぱり。
頭の中ではもう答えが出ていた。あの眉の角度。鼻筋の通り方。何よりも、相手の目をまっすぐに覗き込むあの瞳の奥の光。加持さんの忘れ形見だ。
声に出されたことで、推測が動かしようのない事実として固まった。
「……いつ、生まれたの?」
声が掠れた。
「ニアサーの後。生まれてすぐ第3村に預けられてる。ミサトさんは一度も会いに来てない」
「一度も?」
「ああ。一度もだ」
相田君の声は穏やかだった。けれどその穏やかさが、事実の残酷さをかえって浮き彫りにしていた。
自分の子供に、一度も会わない。
その選択がどれほどの痛みを伴うものか。ツバメちゃんの泣き声一つで跳び起きる鈴原君やヒカリの姿を見ていたから、想像がつく。想像がつくからこそ、胃の底が捻じれるように重かった。
「なんで……」
「世界を元に戻すまでは母親であることを許さない——そう決めたんだろうな。あの人はずっと、そうやって自分を律してきた」
車内の沈黙が深くなった。
アスカがふんと鼻を鳴らす。窓の外を見たまま。
「あんたには分かんないだろうけどね。ミサトったら昔、艦橋であんたの名前を口にするとき、いつも一瞬だけ声が詰まってた。その意味を少しは考えなさい」
「そうなんだ……」
「それだけ」
アスカはそれ以上言わなかった。赤い大地を映す窓ガラスに自分の横顔を重ねて、黙り込んだ。
沈黙が戻った。エンジンの低い唸りだけが、鼓膜の底で振動を続けている。
自分の指が、無意識に首筋へ伸びていた。今はもうここにはない、カヲル君の首とともに爆発したDSSチョーカー。
目覚めてからずっと、私の首に巻きついていた枷。いつ起爆するか分からないという恐怖で、眠れない夜を過ごした。
ミサトさんが——私を殺すためにつけた首輪。
……本当に?
あれは拒絶の証だった。恐怖の象徴だった。
けれど——息子にすら会わずに世界を背負い続ける人間が、それだけの理由であの枷をつけるだろうか。
車が大きく揺れた。赤い地表の凹凸をタイヤが踏み越えたのだろう。けれど私には、足元から世界ごと傾いたように感じた。
違う。
これは、憎しみなんかじゃない。
ミサトさんは——もし私が再び暴走したら、自分の手で止めなくてはいけないと決めたのだ。その判断を——私の命を、自分ひとりで背負うと決めたのだ。息子に会うことすら許さないほど自分を律し続ける人が、この首輪に込めたのは憎しみじゃない。
血を吐くような、覚悟。
私の命を——自分の責任として、引き受ける覚悟。
涙は出なかった。泣けるような単純な場所には、もう立っていなかった。
……ミサトさん。
あなたの覚悟を何も知らないまま、恨んでいた。それは否定できない。首輪をつけられた恐怖と屈辱だけを握りしめて、その苦しみなんて想像もしなかった。
何を捨て、何を背負ってヴンダーのブリッジに立っているのか。何も知ろうとしなかった。
窓の外で、赤い大地がゆっくりと第3村の結界の緑に切り替わっていく。結界の境目を越えた瞬間、車内の空気がほんの少しだけ変わった。重くのしかかっていた圧力が、僅かに緩む。
世界の色が赤から緑へ移り変わるその境界で、私は思った。
自分の足で、この罪に落とし前をつけなければならない。
誰かのせいにするのは、もう終わりにしなければならない。
◆
それから二日が過ぎた。
第3村の朝は早い。鶏の甲高い鳴き声と、遠くの井戸のポンプが上下する音で意識が水底から引き上げられる。
すぐ隣で霧島さんがまだ穏やかな寝息を立てていた。その呼吸の波が、しんみり冷えた部屋の空気をほんの少しだけ温めている。
私に抱きついてくる霧島さんの腕を、起こさないようそっとどかし、音を立てないように布団を抜け出し、溜め込んだ洗い物の桶を持って裏手に出た。
この二日間で、村の風景が違って見えるようになっていた。以前は泥臭い労働の背景でしかなかったものが、一つ一つの色彩を持って目に飛び込んでくる。竹垣にかかった朝露の小さな虹。畑の畝を這う虫が乾いた土に刻む一本の線。井戸端のおばちゃんたちの「今日もええ天気ねぇ」と笑う声。
この小さな景色の全てが、あの赤い大地と隣り合わせながらも奇跡のように存在していること。加持リョウジJrの存在と相田君の言葉を知った今、その重みの意味が塗り替わっていた。
ミサトさんが外側から守っている。自分の子供にすら会わずに。
洗い物を干し終えたころ、霧島さんが縁側に出てきた。寝癖のついた髪を手櫛で梳かしながら、私の顔を覗き込む。
「おはよう、カノンちゃん。早い時間からお洗濯? 偉いねぇ」
「はい。おはようございます」
霧島さんは私の横に腰を下ろし、物干しを手伝い始めた。シーツを持ち上げて竿にかけるとき、ふいに手が止まった。
「あら。カノンちゃん、腕……」
「え?」
「ちょっと、見せて」
言われるまま、袖を捲り上げた腕を差し出した。霧島さんの指が私の二の腕に触れた。
確かに、一番ひどかったころの枯れ枝のような細さではなくなっていた。薄い筋肉の上に、僅かだけれど柔らかい脂肪の層がある。肘から手首へ向かう輪郭線には、以前はなかった緩やかな曲線が生まれていた。
「ちゃんと肉ついてきたね。よかったよかった」
霧島さんの指先が二の腕の内側を滑った。そこにある僅かな柔らかさを確かめるように、ゆっくりと撫でる。皮膚の表面がぞわりと粟立った。鳥肌が立つ。腕の内側の薄い皮膚を通して、彼女の指の温度が血管の深いところまで沁み込んでくるような感覚。心臓が一拍だけ余計に跳ねた。
「ここもね、ちゃんと女の子の腕になってきてる。今はほら、こうやって押すと少しだけ沈むの」
指先がぐっと押し込まれる。確かに、骨にすぐ当たっていた以前とは違った。薄い弾力がそこにある。肌が指の腹の形に僅かに凹んで、離すとゆっくり戻る。その感触が妙に生々しくて、腕の内側を這い上がるむず痒さが背筋にまで伝った。
「……や、やめてください。恥ずかしい……」
顔が熱くなった。耳の先まで血が上っているのが分かる。
「鎖骨もね、前は薄い板を立てたみたいに尖ってたけど、今はちゃんと丸みが出てきた。首筋から肩のラインも……うん、きれいになったね」
鏡を見る習慣のなかった自分の身体が、知らない間に変わっている。骨と皮だけだった輪郭が少しずつ人間の形を取り戻している。鎖骨から首へと走るラインに薄い肉がつき、肩甲骨が浮き出ていた背中にも僅かに厚みが戻っている。
それは——生きている証拠なのだろう。この村の食べ物と、労働と、誰かの温もりが、私の身体を少しずつ作り直してくれている。
「……霧島さんのご飯のおかげです」
「もう。カノンちゃんが頑張って食べてくれたからだよ」
霧島さんは目を細めて笑い、私の頬にそっと手を添えた。
「うん。きれいになった」
その掌の温もりが、頬骨から顎のラインに沁みていく。胸の奥が、痛いくらいに温かかった。
◆
——私は鈴原家に走った。綾波さんの布団はもう冷えていた。畑を横切り、共同浴場の戸を開けた。どこにもいない。足を止めるたびに心拍が一段ずつ上がっていく。
施設に飛び込んできたヒカリが「朝起きたらもういなかったの」と言った声、ずっと耳の奥にこびりついている。
突然いなくなるような人ではないはずだから、何かあったと考えるのが自然だ。
第三村の中をそこら中走り回っても、人に聞いて回っても行方は依然として分からない。
夕方になり、村の外縁の廃墟へ向かった。けれどそこしかない、と思った。私がいちばん苦しかったとき、死にたかった時、一人うずくまった湖。綾波さんがそこへ来てくれた場所。
私を救ってくれた場所。
湖のほとりの廃墟の縁に、彼女はいた。
崩れかけたコンクリートの縁に腰を下ろし、湖畔の向こうをぼんやりと眺めている。
私の近づく足音に振り向いた赤い瞳。だがその視線は、いつもと何かが違っていた。風景を見ているのではない。風景を目の中に吸い込もうとしている。一つ一つの色と光を、自分の内側に焼き付けようとしている。
その切迫が、胸をちくりと刺した。
「おはよう」
「もう夕方だよ」
「……そう」
隣に腰を下ろした。湖面のさざ波だけが、二人の間を揺れていく。
彼女の右の手のひらが目に入った。滲んだ赤い光。その中心に、底の見えない黒い空洞がぽつりと口を開けている。手のひらに灯った、小さな赤い穴。
見た瞬間、心臓が鷲掴みにされたように縮まった。
不吉な予感が脳裏をよぎった。
聞きたいこと。聞かなければいけないこと。
けれどその前に——果たすべき約束があった。
「……あの約束、まだだったよね」
胸の底で疼く何かを振り払うように言い出した言葉。
綾波さんの横顔は計算され尽くした芸術品のようだった。見ているだけで、自分がいま何を言ったのかさえ忘れてしまいそうになる。
その顔が、こちらを向いた。
「名前のこと?」
「うん」
私はポケットに手を入れた。指先に触れる紙の感触。ずっと持ち歩いていた小さな紙切れ。角が擦り切れて、ポケットの中の体温でほんの少しだけ温まっている。
それを取り出して開いた。
「苗字、考えたよ」
紙の上に書かれた一文字を差し出した。
綾波さんが紙を覗き込む。赤い瞳がゆっくりと文字をなぞった。
「……響」
声に出された。抑揚のない、静かな声で。もう一度。
「ひびき……」
何日も天井を見つめて悩んで、明け方にふっと降りてきた一文字。共鳴。つながり。誰かと響き合っていられるようにという祈り。
けれどそのどれも、言葉にはしなかった。
「……これがいいと、思って」
それだけ言った。
綾波さんは紙をそっと両手で包み込んだ。
長い沈黙が落ちた。湖面のさざ波。空が橙色に傾き始めている。
「碇さん」
「うん」
「この村に来て、たくさんのことを教えてもらった」
彼女の声は、いつもの平坦なトーンだった。なのに一語一語の輪郭がくっきりとしていて、その微かな差異が鼓膜を不思議に震わせた。
「挨拶の仕方。田んぼの歩き方。お風呂の入り方。ツバメの抱き方」
指折り数えるように、一つずつ。
「全部、初めて。全部、ここで覚えた」
「うん」
湖面に、夕方の空が映り込んでいた。橙と紫の間で揺れる、黄昏の色。
「……ツバメを見ていて、初めてわかった気がした」
綾波さんは続ける。
「生まれてくること。名前を呼ばれること。生きること。生きたいと願うこと。それがどういうことなのか」
間があった。風が湖面をさざ波立てた。
「だから……私の名前は、メイ」
「……メイ?」
「芽が出る、の芽でもいい。命でもいい。……ただ、メイ」
胸の底を何かが強く押し上げてきた。咽喉が締まる。
響メイ。
ひびき、めい。
苗字と名前が一つに重なった瞬間——湖畔の空気が変わった。何かが完成した手応えが、肌を伝って全身を走った。
「……響メイ」
私は声に出した。彼女の新しい名前が零れ落ちる。
綾波さんの——いや、もう綾波さんではない。私の声に、響メイの瞳が大きく揺れた。
そして唇が動いた。
今まで見たことのないほどゆっくりと、微かに、けれど確実に優しい弧を描いた。
笑っていた。
あの人形のように凪いでいた表情に、初めてはっきりとした笑みが灯っている。器用な笑い方ではなかった。唇の端がほんの少し持ち上がっているだけの、不格好で、ぎこちなくて——けれどそれが言葉にできないほど美しかった。
生まれて初めて、笑い方を覚えた人間の顔。
「……うん」
その返事は、砂時計の最後の一粒が落ちるような満足感に満ち溢れていた。
「響メイ……響メイ。ありがとう、碇さん」
そうして、彼女の手から紙切れがひらりと落ちた。名前を書いた小さな紙が、湖面へ吸い込まれる。
視界の端で、何かが揺らいだ。
彼女の着るプラグスーツ。黒いはずのその足先から——白くなっていっている。
橙色の光のせいかと思った。違った。足首のあたりから、黒のプラグスーツがゆっくりと色を失っていく。インクが水に溶け出すように、漆黒が抜けて、足元から白へと塗り替えられていく。
「……っ」
理屈よりも先に、悟ってしまった。良くないことが起ころうとしていると。
手を伸ばす。私は何かを考える間もなく彼女の肩を掴み——そのまま、力いっぱい抱き寄せた。
「ま、待って!」
なぜそのような言葉が出てきたのか私自身にも分からなかった。
細い身体が、腕の中にすっぽりと収まる。プラグスーツ越しに、確かな体温が伝わってくる。骨ばった肩。薄い背中。耳元で聞こえる、浅い呼吸。まだここにいる。まだ、ちゃんとここにいる。
「待って……嘘、待ってよ」
腕の中の彼女は、抗わなかった。ただ静かに、私の肩口に頬を預けている。その表情は、おそろしいほど安らかだった。
「碇さん」
最後の最後まで、その声に抑揚はなかった。平坦で、けれど不思議なほど満ち足りていた。
「私、ここでは……生きられないみたい」
「っ……」
「でも、ここが好き。みんなのいる、この村が」
指折り数えるように、彼女は静かに続けた。一つずつ、宝物を確かめるように。
「稲刈り、もっとやってみたかった」
「……っ」
「ツバメ、もっと抱っこしたかった」
腕の中の身体が、少しずつ、軽くなっていくのが分かった。
白の侵食はもう膝を越えていた。腰から背へ、私の腕に抱かれた薄い背中を伝って、黒が音もなく白へ塗り替えられていく。抱きしめた腕の下で、命が静かに退いていくのが分かった。
「碇さんと、ずっと……一緒にいたかった」
私の背に回された手に、最後の力がこもる。
「好きって、わかった。……うれしい」
喉の奥が灼けた。返事をしようとしたのに、声にならなかった。
「碇さん」
「うん……ッ!」
「名前をくれて……ありがとう」
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。白はもう喉元まで昇りつめ、黒いプラグスーツは隅々まで純白へと変わり果てていた。橙色の夕陽を受けて、その白がほのかに輝いている。私を見て——微笑んだ。あのぎこちない、けれど今度はためらいのない笑みで。
「さよなら」
その瞬間だった。
腕の中の体温が、ふっと遠のいた。
途端、パシャと軽い破裂音とともに力いっぱい抱きしめていたはずの身体が崩壊した。
咄嗟に抱きしめる腕に力を込めるも、腕の中のものはすでにその中身を失っていた。
「メイ……! まだ——」
肩口に預けられていた頬の重みが、消えた。耳元の、浅い呼吸が途切れた。
胸に掻き抱いていたのは、夕陽にぬくもった真っ白なプラグスーツと——その内側を満たしていた、生暖かいL.C.Lだけだった。それはゆっくりと私の腕を伝って、コンクリートの上にぽたぽたと滴り落ちる。体温とまるで同じ温度の、オレンジ色の水溜まり。
その上で小さな十字架が現れ、虹がふわりと拡散すると同時に消えていった。
「メイ……!」
叫んだ名前は、夕暮れの空に吸い込まれて消えた。
空っぽだった。
ついさっきまで、確かに彼女の身体があった場所に、もう彼女はいない。どこかへ消えた。亡くなったという表現が正しいのかどうかわからない。
でも、人として死ぬことができたことは間違いない。
ひび割れたコンクリートの隙間が、こぼれたL.C.Lを静かに吸い込んでいく。大地が彼女を受け入れるように、ゆっくりと。やがて湿った染みだけが残った。これもしばらくすれば、何もなかったかのようになってしまうのだろう。
私はコンクリートの上に崩れ落ちた。
「あ……ぁ……ああっ!」
声にならない声が、割れた唇から漏れた。
主を失ったプラグスーツを強く、強く抱きしめた。徐々に失われていく響メイの体温を少しでも感じたかった。
胸の底から何かがせり上がってきた。暗い穴の底から地響きのように迫る、巨大な悲しみの塊。それは胃の底から喉元まで一気に押し上げてきて、嗚咽として溢れ出した。
涙が落ちた。
一滴。コンクリートの上に落ちて、小さな染みを作る。
二滴。三滴。やがて堰を切ったように溢れ、顎を伝う。
泣いていた。
声を上げて、みっともなく、しゃくりあげながら泣いていた。
それでも——心は閉ざさなかった。
以前の私なら、ここで全てを遮断していた。感情の回路を焼き切って、痛みを感じなくなるまで自分を凍らせていたはずだ。
カヲル君の時のように。
今は違った。鋭い心の痛みが全身を巡っている。胸を抉り、肺を圧し、目の奥を焼いている。辛くて苦しくて、息ができないほどに。
けれど、その痛みから逃げようとしなかった。
響メイ。
たった今、自分の名前を手にしたばかりの彼女。
もう二度と、その名前を本人の口から聞くことはない。
響メイ。
彼女は——知っていて、それでも最後にここへ来たのだ。
L.C.Lに濡れたプラグスーツはずっしりと重かった。中にはもう何もない。体温もない。L.C.Lの僅かな残り香——生物の匂いとも鉱物の匂いともつかない、あの独特の匂いだけが布地に染みている。
それをもう一度胸に抱きしめ、額を押し当てた。
まだ僅かに温かかった。ほんの少しまで、この中に一人の少女がいたのだ。笑っていた。初めて自分の名前を呼ばれて、あのぎこちない笑顔を浮かべていた。
私はゆっくりと、立ち上がった。
目は腫れて視界がぼやけている。鼻が詰まって呼吸はほとんど口だけ。みっともない恰好だった。けど足は動く。
もう逃げない。
この痛みを抱えたまま、歩く。
彼女がくれた痛みは、彼女が確かにここで生きていた証拠だから。
手の中で、白いプラグスーツの布地が風に揺れた。湖に落ちた紙切れは、もう沈んでしまっただろう。
けれど名前は消えない。消させない。
響メイ。
その名前は、カヲル君の名前の隣に、私の胸の奥深くへ刻まれた。
◆
のそり、と布団を横に退けた。朝日が私の顔に突き刺さっている。
まぶたが重い。頬に何かが張り付いていた——涙の乾いた跡だった。
目を開けると、公民館の古い木目の天井。見慣れた染みの模様。
隣の布団で、霧島さんがまだ眠っていた。その右手が、伸ばしたまま私の髪に触れている。昨夜からずっとそうしていたのだろう。寝息に合わせて、指先がかすかに動く。
布団から起き上がると、窓の外に朝日が差し込んでいた。鳥の声。鶏の声。誰かが井戸から汲み上げるポンプの音。いつもの朝だ。
けれど一つだけ違ったのは、遠くから何やら低い音が聞こえていたことだった。
エンジン音……ではない。それに近くはある。時折村全体に響くようなラッパのような、深海から轟く巨大生物の鳴き声のような音だ。
村もなんだか少々騒がしい。
足早に外へ出ると、その正体は一瞬で判明する。
村に巨大な影が落ちているのだ。空を見上げると、そこには人類の保有する技術の結晶、ヴンダーが空中で静止していた。
ここから少し離れた場所に浮いているというのに、圧倒的スケールと存在感を放っている。ヴンダーと地上を、複数の回収艇が生き来しており、何かを積み下ろし、補給しているだろうことは予測できる。
駆け足気味に台所に戻ると、いつの間にか起きていた霧島さんが朝食の準備をしていた。
「……来たね」
背中だけを見せて、それだけ言った。私のことか。それともヴンダーのことか。
その後すぐに準備は終わり、食卓に私たちは座る。
腰を下ろし、椀を口元に運んだ。お粥だった。いつものあの、優しい味。
生姜の微かな辛みと、白米が崩れた柔らかな甘み。この村の自給自足の難しさを知っているからこその感謝がある。
「行きたいんでしょ?」
すでに食べ終えていた霧島さんが私の隣に腰を下ろした。傍にハンガーにかけてある、昨日私が持ち帰った白いプラグスーツをちらりと見た。とうにL.C.Lは洗い流され、きれいになっている。
しばらく、音がなかった。椀の中の粥が冷めていくのだけが分かった。
「……私ね、カノンちゃんがいてくれてよかったと思ってるよ」
霧島さんが静かに言った。
「今を生きることで精一杯だったけど、なんだか昔のことをたくさん思い出せたような気がする。正直辛いことばかりではあったけど、そうじゃないものもあったって、思い出せた」
「はい」
「私はカノンちゃんのことが好き。酷いことしようとした元スパイが何を言ってんのって話だけど、それでも。カノンちゃんはこうして立ち直って、前を向いた。私がそのきっかけになれなかったのはちょっと妬いちゃうけどね」
「そんな……霧島さんのおかけで私は元気になりました。だらしのなかった私を絶対に見捨てずに。アスカとは大違いです」
思い起こす、アスカのあの乱暴な行動。
あれはアスカなりの励ましだったかもしれないが、世間一般的にはあまり褒められたものではないかもしれない。事実、私はだいぶ苛立ちを覚えた。
私に対しての対応としてはあまり嬉しくはなかった、というのが正直なところだ。
「まぁ、うん。アスカと私は結構違うかもね。でも嫌いにならないであげてね。あれでもきっと、だいぶ心を許してるからこその振る舞いだよ」
「あれで……?」
振り返れば、ニアサー以前の私とアスカの最後の接触は使徒化した参号機との戦いだった。
いや、あの時アスカに意識があったかはわからないから、厳密には……アパートで大喧嘩した日になる。嫌な記憶だ。
はっきり言って、あまり思い出したくもない。あの後、仲直りしようとして、確かぬいぐるみを買ったはずだ。そのあとすぐに参号機との戦いがあって、それから──すべて有耶無耶になってしまった。
そうして14年が経ち、今である。
アスカは今の私のこと、どう思ってるのだろう?
「そ、あれで。これアスカには言わないでね。絶対怒るから」
空になった椀を、霧島さんがそっと私の手から引き取ってくれる。指先が一瞬だけ触れて、その体温が伝わった。台所に立つ背中。
もうこれが最後になる。
そう気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
立派に前を向いて発つ。そう決めたはずだった。なのに最後の最後で、堪えていたものの隙間から、子供みたいな我儘がひとつだけ顔を出してしまった。
いいだろうか。
霧島さんも、なんだか寂しそうにしているし、何かしてあげたいと思った。こちらからするのではなく、してもらうのでもきっと喜んでくれると直感した。
それに、もう二度とここへは帰ってこられないかもしれないのだから。
だからたった一度だけ。
私は最後にひとつだけ、霧島さんに甘えることにした。
「最後にひとつ、お願いしていいですか?」
◆
ヴンダー間を往来する複数の回収艇を眺められる高台に、相田君とアスカがいた。相田君の手にはカメラが握られている。
「──が下船している。いよいよ決戦か」
何かを話していたようだが、近づく私に気づきこちらを向いた。
私を見るふたりは私の変化に少し驚いたようだ。相田君は目を丸くしながら口を開く。
「碇、お前……」
「……」
「いや、いい。綾波のことは霧島さんから聞いたよ。残念だったな」
「違うよ、綾波さんは綾波さんじゃない。響メイとして、この村で最期まで生き抜いたの」
「そうか……そうか。悪かったな。最後は碇に看取ってもらえて幸せだったと思うよ」
「うん……ありがとう」
アスカはパーカーのフードを深く被ったままたま。しかしながら影にかかった瞳は私をしっかりと射止めている。
「で?」
とてもやさぐれた顔。でも怒っているようには見えない。
「何しに来たのよ。ただの見物ってなら、さっさとあのナルシストのところに帰れ。あんたにはあそこがお似合いよ」
「私も連れて行って」
私はアスカの強い拒絶に真っ向から対立する。
この間だったら、打たれるままになって不貞腐れていたが、もうそんなことは出来ない。
私の訴えが冗談ではないとわかっているのに、アスカはなおも突き放してくる。
「ふぅん。さいあく死にに行くようなもんだけど、それわかってんの?」
「わかってる」
「バカね、あんたが着いてきても何もできないわよ。肝心の初号機はヴンダーの心臓だし、第13号機はネルフが鹵獲してるだろうし。はっきり言ってお荷物だから──」
「そんなのはどうでもいいんだよ、アスカ。エヴァに乗れる乗れないなんて。私は着いて行くって決めたの」
つい、少しムキになって反応してしまった。
咄嗟に謝ろうとしたが、アスカは声を詰まらせて唇の端を強く噛む素振りを見せる。
それが無意識の行動だったのか、素早くフードを深く深く被り直して私の視界から表情を隠した。
アスカを説得なんてしなくてもヴンダーに乗船することはきっとできるだろう。ここでアスカを振りきってヴンダーに接近すればいいだけだ。でもそんなのはフェアじゃない。
今見せた表情は、単なる私への侮蔑では決してないことくらい私でもわかる。
結局ここで私がどれだけ言葉を繕っても、実際に現場で戦闘するのはアスカである。
私に対するもやもやがすっきりしないまま戦ってほしくないから、ここで説き伏せないといけないのだ。
懐かしく着る中学時代の制服をギュッと片手で握りしめ、第三村でも日々を思い起こしながら決意を口にする。
「皆の優しさに救われて、私はこうしてここに立っている。その優しさを無駄にして死ぬかもしれないけど。何も得られずに終わるかもしれないけど、ここで皆と生きていくことは出来ない。だって、私が──響メイが、好きだと心から思った場所を守りたい。それがきっと、世界を壊した私にできる、贖罪の第一歩だと信じてるから」
誰かに責任を丸投げして逃げるのではなく、たとえ何もできずに終わってしまおうとも、最後まで立っていたい。
ニアサーを引き起こしてしまうよな、カヲル君を失うような事が起こっても、私はもう立ち止まれない場所にいるのだから。あの日ミサトさんに連れられ、初号機に乗せようとするお父さんの前で啖呵を切ることで始まった私の物語はこんなところで終われない。
同様に力の入った左手にはS-DATが。私の荷物は、この身一つとその音楽プレイヤーしかない。今すぐにでもヴンダーに搭乗する準備はできている。
「きっと俺から何言っても無駄なんだろうな。知ってるよ、ミサトさんから散々聞かされたからな。いざという時はお前、テコでも絶対に動かないんだって」
「え、そうかな……? そうかも……?」
「自覚なかったのか……」
「うん。でもありがとう相田君。鈴原君たちにも、ありがとうって伝えておいて」
「わかった」
アスカはジッと私の目を射抜いている。
と、急に鼻で笑った。
「せいぜいあんたにできるのは、私の華麗な決戦を目に焼きつけるくらいよ」
それと同時にアスカの手がポケットから引き抜かれる。
そのまま私に向けられたのは黒く小さな装置だった。先端の二本の電極が、朝の光を鈍く弾いている。
何か銃みたいなものだ。
身体が強張り、避けるとかそんな動作をする反応が突然すぎてできない。
「……じゃ、これ規則だから」
「ぇ、あ、ちょッ」
身体に鋭い電撃が走り、
意識が暗転した。
その命は何がため。
その意志は誰がため。
その結末は世界がため。
それではまた次回!