神の炎剣を拾った少年 ~精霊の少女は未来に降り立つ~ 作:ごぼう大臣
……はるか昔、地上におよそ人間というべきものが生まれるよりも以前。地上が草木と動物たちにあふれ、自然のままの姿だった頃。
文明と呼ぶべきものは、地上より遥か上の、交わる事のあり得ない天空にのみ存在していた。そして残酷にも、文明の先にある戦争というものまでが、地上の歴史に先んじるように存在していた。それもより凄惨に、大規模に。
善神、邪神、天使、魔物……のちにそんな呼ばれ方をする有象無象が真っ二つに対立し、昼も夜も絶え間ない争いを繰り広げた。
その争いがどれほど永く続いたかは計り知れない。しかし最後には戦乱も収束して天上は滅び、住人は地上に落ち延びていつしか人間に変わっていったという。
ただ一つ……戦争でいくつもの命を葬り去った天上の武器――
――
「……くそっ……痛い……」
すでに日が沈み、周囲を暗闇が覆う頃。叩きつけてくるような吹雪の中、一人の青年がうめいた。
短く切り揃えた黒髪に、かすかに少年らしさを残す茶色の瞳。腹から大量の血を流しながら、手に持った細身の剣を地面に突き立ててやせ形の体を支えている。
みるみるうちに雪を被っていく彼の腹には、皮革の鎧、毛皮、その下のチェインメイルに肌着までを一気にえぐり抜き、内臓が見えるほどの大穴が空いていた。手で押さえても止められず、ふきこぼれた血がどくどくと垂れていく。
"冒険者"という職業が死と隣り合わせだという事は、彼にだって分かっていたつもりだ。しかし、いざ目の前へと迫ってくると、どうしようもなく焦りと恐怖が込み上げてくる。
リオン・エルベルタ。15歳になった彼は磨いてきた剣術や知識をウリに、冒険者ギルドなるものに入ったばかりだった。国や都市の手が届かない荒事を代わりに解決する、使い走りの寄せ集めである。
容易に替えがきくので、一人一人の待遇は当然悪かった。秘境の探検に行かされようが、重要人物の亡命に付き合わされようが、死ねばそれまで。顧みる者は得てしてごくわずかだ。今のように、寒風吹きすさぶ山奥で獣に襲われ、野たれ死のうとも……その死体は野ざらしで骨になるばかりだろう。
(……このままじゃ……)
リオンは朦朧とする意識の中、前方をにらむ。白銀の体毛を全身に生やし、まるで大岩のような体躯を振り回す巨大な化け熊。辺りには木の一本もなく、逃げも隠れもできない状態で必死に応戦している仲間が見える。
「リオン! 大丈夫か!? 返事しろ、おい!!」
後ろで縛った長い金髪をなびかせ、化け熊の攻撃をしのぐ青年。リオンより重たい金属鎧とロングソードを身につけながらの動きは見事なものだったが、遠目に見ればもてあそばれる小人のようだった。幾度となく雪に足をとられ、体ごと地面に転がされる。忙しくなびいていたマントは先ほど無惨に引き裂かれた。それでも、彼は後ろを振り返ってはリオンによびかけ続けていた。
「……ニール……」
リオンは弱々しくその青年の名を呼ぶ。それは吐血混じりの呟きにしかならなかった。意識まで薄れていきそうな中、彼はどうしてこんな事になったのかをボンヤリと思い出していた。
リオンより三つ年上のニール・フォスター。思えば、お調子者の彼がたまには高い報酬が欲しいからと、無理に今回の仕事を請けたのが始まりだった。住民から『鬼神の遣い』と恐れられる猛獣シロガネグマが一匹、冬眠しそこねているようなので倒してくれ……という内容である。
ニールが楽観的なのはいつもの事だった。しかし、今回は巡り合わせが悪すぎたのだ。シロガネグマの棲みかを探して山に入ってしばらくすると、雪が降り始めた。そして目的のシロガネグマを見つけた時には、すでに天候が悪化していたのだ。
山の寒さはただでさえ次元が違う。冬にもなれば、装備や状況判断次第であっけなく死に至る。冒険者の身分ゆえ金欠気味だった彼らは、準備不足にならざるを得なかった。
おまけに、シロガネグマは生態として非常に執着心が強い。あまりの寒さに撤退しようとしたところを執拗に追いかけ回され、気づけば今のような岩と雪しかない、吹雪がもろに吹きつける場所にまで追いやられたのだった。
「リオン君!」
思考にふけったまま固まっていた彼の耳に、突如せっぱ詰まった女性の声が届く。リオンがのろのろと振り向くと、茶色いローブに身を包んだ背の高い女性が駆け寄ってくるのが見えた。
「ミィナさん……」
「傷を見せて! すぐ魔法で治すから!」
「でも、ニールが……」
「放っておいたら死んじゃうわ、早く!」
ミィナと呼ばれた女性は気丈な顔つきで言い張ると、手袋をした両手のひらをリオンの傷口へとかざす。手袋にはなにやら幾何学的な模様が書かれた円陣があった。
しばらくするとその手のひらの前にボォッと白い光の輪が浮かび上がり、続けてミィナが小さくこう唱える。
「
その白い光輪の隅々まで細かな文字が刻まれる。すると、リオンの傷が少しずつふさがっていく。
「うっ……」
激痛からいくらか解放され、リオンの焦点がはっきりしてくる。天上の技術の残りかすと言われている"魔法"が、今では天の恵みに思えた。リオンはつくづく、仲間に"魔法使い"がいてよかったと感じる。
パーティの紅一点、ミィナ・ルコット。リオンより二つ年上の彼女は、剣を主体とした二人をいつも魔法でサポートしてきた。ある時は傷を治し、ある時は戦闘を補助してきた。見かけによらずしっかり者で、ミィナがいなければ死んでいたような場面も度々あったものだ。
ただ、武器を振るわないのと、女性ゆえに体力に難があり、リオンはそれがいつか致命的になるのではないかと危惧していた。彼女は妙な円陣が描かれた手袋の他に、リオンとニールが無理をして買い与えた粗末な毛糸のマフラーを身につけていた。にも関わらず、豊かな栗色の髪はみだれ、灰色の大きな目は光を鈍らせている。
そんな風にミィナの血色を窺っていると、リオンはふと、彼女がずっと治癒の魔法をかけ続けている事に気づいた。和らいだと思った痛みはもうすっかり引いている。
「ミィナさん!」
「……へっ!? あ……」
リオンは反射的に名前を叫んだ。手元ばかり見ていたミィナが弾かれたように顔をあげ、うわごとを漏らす。
「もう十分ですよ! 魔力がなくなっちゃいます!」
「ああ……そうね。分かってる」
ミィナはすました様子で答え、光輪――魔法を使うときに現れる"魔法陣"――を消したが、その声は弱々しかった。魔法を使うスタミナ、魔力が尽きかけているのは明白だ。リオンの脳裏に、絶望的な予感が広がる。
「ぐあっ!!」
「っニール!」
その時、悲痛な声と共にニールがそばへと転がってきた。二人がそろって振り向くと、金属の鎧があちこちへこみ、あお向けに倒れて血と荒い息を吐いていた。
リオンが顔を上げると、シロガネグマが四つ足で音を立てて疾走してくるのが見えた。雪けむりをもうもうと撒き散らし、むき出しの敵意が迫りくる。
「二人とも下がって!」
リオンはとっさに剣をつかむと治ったばかりの体を起こし、ミィナとニールの前へと躍り出た。熊が猛然と飛びかかるのを横向きにかわし、肩口のあたりに剣を振り下ろす。
「ぐっ……!」
直後、リオンはその手応えに唖然とする。刃は確かに当たったはずだった。しかし全力で振り下ろしたそれは肉を断つどころか、まるで石にでも当たったかのように止まり、重たい感触を残す。
(剣が……通っていかない……!?)
強靭な筋肉と分厚い脂肪層を有するシロガネグマの肉体は、リオンの想像をはるかに越えていた。剣先の辺りからうっすらと血がにじみだすと同時に、彼は胴体に骨がきしむような衝撃を受ける。
「ぐぁっ!!」
鈍い悲鳴が漏れ、意識が飛びかけ、体が浮き上がる。リオンは一瞬して背中を強く打ちつけ、意識を取り戻した。
「グルオォ!!」
シロガネグマの咆哮にリオンはジタバタと上体を起こす。手元の剣を見ると、それは根本でポッキリと折れてしまっていた。
「くっ……」
仲間の方に視線を移すと、ミィナがニールを庇うように飛び出し、今度は両手のひらを敵に向ける。瞬間、手のひらの前に今度は青い魔法陣が浮かび上がる。
「
ミィナがそう唱えると、まるで手のひらからあふれ出るかのように大量の水が生じ、激しい水流となってシロガネグマへと襲いかかった。
「ギアァッ!?」
顔を覆う大量の水にシロガネグマは顔をしかめ、立ち上がってかぶりを振った。この吹雪の中では、水は瞬く間に凍って目鼻にへばりつく。
その隙を見てニールが立ち上がり、ミィナを連れてリオンの元へ走った。
「すまねぇ、心配かけた!」
「ニール、怪我は……」
「平気だ! 今は気にすんな!」
一旦集合した三人は顔を見合わせ、しばし曇った表情で遠くのシロガネグマを見ていたが、やがてリオンが気弱そうに言った。
「どうしましょうか……。ミィナさんはもう限界だし、僕の剣だって折れちゃって……」
喋るうちにうつむきがちになりながらも、リオンは必死に泣き出しそうになるのをこらえていた。今日、ここが墓場になるかもしれない。歯が寒さに加えて恐怖のためにガチガチと鳴り出し、足が震える。ニールの肩に寄りかかっているミィナを見ると、すでに息も絶え絶えになっていた。
しかし、そんな彼の肩を、ニールが力強く叩いた。
「……心配すんな、手はある」
「え……?」
「お前には得意分野があるだろ?」
ニールは歯を見せて笑い、ロングソードを掲げる。そのしぐさを見て、リオンはすがるような目をして詰め寄った。
「まさか……やめて下さい! もし失敗したら……」
「こう見えても一番強い自信がある。援護がありゃ十分さ」
胸をたたいてそう宣言し、ニールはそそくさとミィナをリオンへと預け、くるりと背を向ける。そして一拍おいて、ポツリと言った。
「……頼むぜ」
リオンは口を開きかけたが、ニールの背中を見て言葉を詰まらせる。見れば、とうに氷を払い落としたシロガネグマがまっすぐに彼らをにらんでいる。
リオンは一瞬地面に目を落とし、一言、ハッキリと言った。
「はい!」
その声を合図に、ニールがシロガネグマに向けて走り出す。相手の方も気づき、それ以上の勢いで飛び出した。
リオンがそのニールの背中に向けて手のひらを向けると、そこには紫色の魔法陣が現れる。すかさずリオンはこう唱えた。
「
そのとたん、魔法陣の向こうにいたニールの動きが追い風に乗ったかのように素早くなった。目を見張るシロガネグマを意に介さず、ニールは高速のままその背後に回り込むと、後ろ足を鋭く切りつけた。
「ギャアアァ!」
リオンの剣が通らなかった肉体に傷が入る。シロガネグマは痛みと怒りに怒声をあげ、ニールへと殴りかかる。しかしニールはそれを掠りもせずにかわすと、同じ素早さでもって今度は前足を切りつける。
身体能力に影響を及ぼす魔法。それがリオンが今まで積み上げてきた特技だった。"俊敏"ならば動きを早め、"剛力"ならば化け熊の肉を断つ力を手に入れる。ニールはまさにその恩恵を受けた状態であった。
優勢に立ち回るニールを見守りながら、リオンは出来る限り効果が持続するようにと、魔法に集中し続けた。このまま行けば倒せるかもしれない。疲労のためか魔力を流すたびに身体中が痛むが、
やがてシロガネグマの動きが鈍りはじめた頃、ニールは一瞬だけ改めて身構えた。
すると彼の剣の刃を中心にして、今度は黄色い魔法陣が浮かぶ。そしてパチパチと火花がはぜだしたかと思うと、刃全体を包むように小さな雷が流れはじめた。そしてニールはシロガネグマを一瞬見て、言った。
「
叫ぶが早いか、ニールはシロガネグマへ向けて高く跳躍する。そして敵の首もとへ向けて、雷の魔法を纏った剣を振り下ろした。
シロガネグマの動きは、"俊敏"の魔法がかかったニールについていけていない。そのまま行けば倒せるはずだった。
しかし、寸前のところで、一つの不運が起きた。
「っ……ぐ!?」
リオンが苦しそうにうめいて、腕をビクンと痙攣させる。すると、手のひらの魔法陣がスッと消え失せてしまった。二重に魔法をかけ続けるのが、ついに限界にきてしまったのだ。
すると必然的にニールへの効果も消失する。動きも力も並に戻り、ニールはシロガネグマの目の前に跳躍した格好のまま、ふわりと浮かんでいた。
シロガネグマが太い腕をフルスイングさせる。それは奇しくもニールが狙ったのと同じ、首の部分に当たった。
「あっ……」
ニールの首から上が分離し、赤い液体を飛ばしながら放物線を描いて斜面に落ちた。雪の上にころりと転がる
理解が追いつかないうちから、シロガネグマは吹雪の中で膝立ちになり呆然としているリオンへ突進をはじめる。リオンが亡骸の首から視線を戻した時には、視界を覆うほどに肉薄したシロガネグマが、今まさに食いつかんとその巨体をぶつけてきていた。
「うぐっ!?」
体全体でのしかかり、腕力で押さえつけようとするシロガネグマ。リオンも死物狂いでもがくが、鋭い爪がよけいに食い込むだけだった。シロガネグマがめいっぱい口を開け、目と鼻の先まで顔を近づけてくる。
黄ばんだ歯列と赤黒い舌、その奥からなまぐさい息があふれ出る。凍りつくような寒さの中で、気味の悪い暖気がリオンの頬をなでた。
恐怖で思考が止まりそうになる中、リオンはわずかに動く手先でもがく。その時、右手の指先が何かに触れた。
シロガネグマから顔をそむけ、触れたものを見る。先ほど折れてしまった自分の剣だった。リオンがそれをつかむと同時に、つかんだ右腕を押さえていたシロガネグマの手が、わずかにズレる。リオンは嫌な予感と殺気を同時に感じ、視線を化け熊の方へと戻す。
ついに首元へ食いつこうと前のめりになり、化け熊が牙をむく。リオンは目前に来たその狂暴な口に向けて、反射的に右手の折れた剣を突き出していた。
「ガグッ!?」
シロガネグマがくぐもった声をあげた。噛みつこうとした口の中へ、リオンの右腕がねじこまれていたのだ。彼は考える暇もなく折れた剣をがむしゃらに動かし、やたらめったらにシロガネグマの喉を掻き切った。相手はいまいましそうに唸り、その腕に牙を食い込ませる。
「……ぅ……ぐぁっ……」
骨までつぶれたかのような激痛。リオンは悲鳴を押し殺して必死に耐えた。鎧の下で生暖かい血が広がるのを感じながら、リオンは押さえつけられたもう片方の腕を少しずつ、自分の胸元へ持っていく。
そして魔法陣が弱々しく光りだすと、枯れそうな声でこう唱えた。
「祝法・……剛……力!」
瞬間、リオンの体がすさまじい勢いではね上がり、シロガネグマの巨体を弾き返す。そして巨体が戻ってくるのに合わせて、口の中の右腕を強引に喉奥へと突きいれた。
シロガネグマの体がびくりと痙攣する。それでも意識を失わない相手に、リオンは片腕一本で自らを支えて抵抗していた。
体にとんでもない負荷がかかるが、それもじきに終わると彼は見ていた。シロガネグマも噛む力を強めてはいるが、殴ったりなどしてくる様子はない。手応えはある。
そう思っていた矢先。
シロガネグマがいっそう強く腕に噛みついたかと思うと、そのまま大きく頭を振る。その瞬間リオンの脳内に肉を引きちぎる音が響き、視界がけたたましく明滅した。
「がっ……あああぁ!!」
右半身にしびれるような衝撃が広がり、絞り出すような悲鳴があがる。地面に背をつけて、右腕に走る激痛をこらえながら目を開けると、リオンははっと息を呑んだ。
さっきまであった右腕が、なくなっている。肘から先はすっかり消え、断面からは白い骨と、真っ赤な肉の裂け目がのぞいていた。心なしか脈打つ内側からみるみるうちに血が流れ、肌着や毛皮ににじんでいく。
いつの間にか目の前にいたシロガネグマは消えていた。視線をうろうろとさ迷わせると、少し遠くでシロガネグマが低い声をあげてえづいていた。
シロガネグマの足元には、折れたリオンの剣と、リオンのものだった腕が大きな血だまりと共に転がっている。そして最後に血のかたまりのようなものを吐き出すと、よろよろとふらつきながらシロガネグマは数メートル歩き……最後に大きな音を立てて倒れ、動かなくなった。
それから一分、二分……途切れる事なく吹き続ける吹雪の中、シロガネグマはピクリともせず、雪に赤色を広げながら横たわっていた。
(勝った……のかな……?)
仰向けで雪に埋もれ、顔だけをシロガネグマに向けた状態のまま、リオンはぼんやりと考えた。仲間の一人の命を奪い、自分の腕を食いちぎった猛獣。それが起き上がってこない事にリオンは少しの間だけ安堵していた。
しかし、すぐに彼はもう一人の仲間を思いだし、素早く跳ね起きた。
(そうだ、ミィナさんが!)
無事な方の腕を動かしてうつ伏せになると、すぐ後ろで雪をかぶりながらぐったりと倒れているミィナが目に入った。リオンは立つのももどかしく、這って彼女の元へ急ぐ。半分雪に埋もれたミィナの顔は真っ青で、さっきまでしゃべっていたとは思えない、死体のように見えた。
「ミィナさん、ミィナさん!」
片手で頬をはたきながら、リオンは必死に呼びかけた。四、五回ほどそうすると、ようやくミィナが薄ぼんやりと目を開ける。
「……リオン……君?」
「起きてください! シロガネグマは倒しました。早く下りましょう!?」
声を限界まで張り上げ、リオンは片手でミィナの肩をつかむ。しかし、ミィナはほんの少し顔を持ち上げると、首を横に振った。
「どうして!?」
「ニー……ル……は……?」
「っそれは……」
ニール、その名を出されてリオンは言葉をつまらせる。自分の不手際のせいで死んだ、心の内で何度もつぶやいて、しかし口に出せなかった。苦い顔をして目を伏せ、黙りこむ。
「いいのよ」
しばらくしてミィナからそう言われ、リオンははっとして顔を上げる。彼女は力のない瞳を向けて小さく微笑むと、遠くを見るような目になって言った。
「置いて行って……私の、事は……」
「な、何言ってるんですか!?」
「なんとなく分かるの……。もう、いっそ……」
ミィナのセリフを最後まで待たずに、リオンはじたばたと起き上がって彼女の腕をかかえ、持ち上げようとした。それでも、ミィナはだらりと力なく寄りかかる。
「……離し、て……。私を連れてちゃ、邪魔に……」
「バカ言わないでください! いいですか、今は下りる事だけ考えて!」
ミィナの体重が鉛のようにのしかかるのを感じて、リオンはとっさに釘を刺した。彼女はもう力尽きる寸前だ。仮に魔法の一つでも使われたら、たちまち……。そんな予想が浮かび、リオンは慎重に体を持ち上げ、ミィナを肩にかついだ。
しかしその時、ミィナが震えながら腕を持ち上げ、リオンの千切れた右腕へと手を伸ばす。
「祈法・……【治癒】……!」
「なっ……」
ミィナの唱えた呪文に、リオンが驚愕の表情を浮かべた。あわてて右腕を見た時にはすでにあの白い魔法陣が浮かび、腕の断面が治っていた。再生こそしないものの、出血はすっかり止まる。
そこで魔法陣は消え、直後にミィナの体が崩れ落ちる。それに釣られるように膝をついたリオンは、か細い息でうなだれているミィナに向けて、半ばパニックになって叫んだ。
「なっ……何考えてるんです!! 僕なんかのために、最後の魔力を……。黙らないで! 何かしゃべっててください! ミィナさんっ!!」
顔を突き合わせるような距離での絶叫。しかしミィナは何秒間もうなだれたまま、目も合わせずに答えた。
「ごめん……ね」
その一言で、リオンは押し黙ってしまった。ミィナの言葉には謝罪と感謝の気持ちが痛いほどこもっていた。
そして、彼女は続けて申し訳なさそうにこんな言葉を絞り出した。
「ねえ、よかったら……最後に……」
「なん、です?」
「……私を……ニールの、そばに……」
――
「ぐすっ……ひぐっ……」
夜が更け、いよいよ昼間とは別世界のような闇と寒さが辺りを包む頃。その夜の闇すら真っ白に染め上げるほどの猛吹雪の中を、リオンは独り歩いていた。
泣きじゃくるそばから涙は凍りつく。手足の感覚はすでにほとんど無くなり、涙を拭う事すらできない。ただ「歩く」という行為を惰性で続けていた。
方角などはとうに分からなくなっていた。方位磁石はミィナが持っていただろうか。そんな記憶がぼんやりと浮かんで、すぐに霧散する。仲間の道具を持っていく思考の余裕は、歩き出した時から消えていた。武器も何もない今の状態の方が、身軽な分ましだとさえ思った。
「あっ……」
どこか小さな起伏にでもつまずいたか、彼は小さく叫んで情けなく倒れる。雪の中に突っ伏して、片腕の彼は上手く起き上がれなかった。
何の気なしに後ろを振り返ると、視界の奥に二人の横たわった死体が見えた。ずいぶん歩いたつもりでいたが、百メートルも進めていなかった。
自分も向こうに行ってしまおうか……。一瞬うかんだ迷いを、リオンはかぶりを振って否定する。二人に助けられてここまで来て、諦めるわけにはいかない。かすかな残り火のような思いを糧に、彼は全身で這いずって進んだ。
もはや視界には凍った土と雪しか映っていない。代わり映えしない白黒の風景の中をもがくように進む。リオンは己の精神を奮い立たせ、いつまでも、いつまでも、止まらない事だけに集中した。
今自分がどこを這っているのか、リオンには見当すらつかなかった。視界は吹雪で数メートル先も見えない。体を動かすうちに寒さはもとより、左右や上下の感覚まで無くなっていく。もしかしたら彼は同じところをグルグル回っているのかもしれない。下り坂を這っているのかもしれない。それでも、リオンは歯を食い縛って進み続ける事しかできなかった。
しかし、たえず地面をつかんでいた手元が、不意に雪の上を大きく滑り出す。
(……ん?)
それに伴い、リオンが反射的に動きを止めようとする。しかし、彼の意思に反してその体はみるみる斜めに傾いていき、あらぬ方向へと移動しはじめた。
斜面を滑っている。そう彼が気づいた時にはもう遅かった。リオンがあわてて周囲に視線をめぐらせると、自分が滑っている先に、彼方まで広く深い谷が、黒々とした口を開けているのが見えた。
(そんな……嘘、でしょ……?)
リオンがあぜんとしている間にも体は下へ下へと落ちていく。そして間もなく彼は宙へと投げ出された。
「うわあああああぁぁっ!!」
彼が最後にあげた絶叫は、むなしく山中にこだまするだけだった。そして彼は底の見えない谷の闇へ向けてみるみるうちに小さくなり…………消えてしまった。