稀血をよこせ、人間ども   作:鬼の手下

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 (ハツ)()の報告によれば、珠世は愚かなことをしているようだった。あんなことを続けていれば、いずれは廃人になるだろう。もはや裏切られる可能性はなかった。


愛すべき

 回復機能訓練。

 ケガの療養でなまった体をもとに戻すために行われる訓練だった。

 

「…………」

 

 そして、私は薬湯でびしょびしょに頭から濡れていた。

 

「……も、もう一回!」

 

 反射機能訓練。机に並べられた沢山の湯呑み、その中の薬湯を掛け合う訓練だった。

 沢山ある湯呑みから、一つでも掴んで中身を相手に掛けたら勝ち。でも、湯呑みを掴んでる間にその湯呑みを相手に抑えられたら、その湯呑みはもう掛けられない。そういう訓練だ。

 

「はい!」

 

 アオイちゃんの掛け声がする。掛け声と共に動き出す。

 

 私と相対するのはカナヲちゃんだった。何度か会ったことはあるけど、あまり話したことはない。ずっとニコニコとしている不思議な子で、この子のことは私にはよくわからなかった。

 

 右手で、湯呑みを掴む。すでに、カナヲちゃんの左手が、湯呑みに添えられている。

 けれど今回は、右手と同時に、左手でも湯呑みを掴んでいる。今度こそと、掛けようとするが、もうカナヲちゃんの右手がその湯呑みの上にあった。

 

「きゃ……っ!?」

 

「そこまで!!」

 

 気がつけば、私はびしょ濡れだった。カナヲちゃんは最初に私の湯呑みを抑えた手で、いつの間にか新しい湯呑みを掴んでいた。薬湯を掛けられてしまっていた。

 

 もう、何十回と負けている。

 情けなくなってきてしまう。

 

 他にも訓練はあって、身体ほぐしに、全身訓練。身体ほぐしは身体をほぐすだけだからいいとして、全身訓練の鬼ごっこ――( )これは、相手の身体に触れたら勝ちの、極めて簡単なきまりだけでやっている。

 ここでも、誰もカナヲちゃんの身体には触れなかった。

 

「では、炭治郎さん!」

 

「はい!」

 

 炭治郎がカナヲちゃんの前に座る。

 私と同じで、薬湯でびしょ濡れにされ続けている炭治郎だ。今度こそはと意気込んで、臨んでいるとわかる。

 

「準備してください」

 

「…………」

 

「…………」

 

 じっと二人は机に並べられた湯呑みの茶碗を見つめている。

 

「はい!」

 

 アオイちゃんの合図によって二人は動き出す。

 勝負は一瞬だった。

 

「うわ……っ!」

 

 炭治郎は掴む湯呑みのことごとくを抑えられ、カナヲちゃんに薬湯を掛けられていた。

 本当に、圧倒的だ。

 

「今日はここまでにしておきましょう」

 

 アオイちゃんがそう言う。

 たしかにもう日が完全に暮れて、夜になってしまっている。これ以上、無理をしてもあまり良くはない。よく寝て、明日に備えるのがいいだろう。

 

「はい! ありがとうございました!」

 

「カナヲちゃんに、アオイちゃん、何回も相手をしてもらって……ありがとう。なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんも、付き合ってくれてありがとう!」

 

「では、明日も今日と同じ時間に集まってください」

 

 そうして、私たちは解散した。

 ちなみに、善逸くんと伊之助くんはいない。カナヲちゃんに負け続けるのが気に入らずに、途中の休憩で抜けて行ってしまった。

 自分たちより小さい女の子に負け、心が傷ついて、嫌になったらしい。男の子は、面倒だなと私は思った。

 

 別に、私たちは鬼を倒すための隊士なわけだし、鬼を倒せるようになるなら、負けるとかは、あまりどうでもいい話だろう。私はそう思って、特にカナヲちゃんに負けることは気にしてはいない。

 

「炭治郎……はい、手拭い」

 

 私も炭治郎も、カナヲちゃんに薬湯を掛けられて、ずぶ濡れになってしまっている。

 風邪をひかないように、しっかりと体を拭いておく必要があった。

 

「あ……ありがとう、なえ。準備がいいんだな……」

 

「さっき、なほちゃんに、きよちゃんに、すみちゃんが、私に、炭治郎のぶんもと渡してくれたのよ」

 

「そうなのか……後でお礼、言っておかなくちゃだな……」

 

「うん……」

 

 あの、三人仲良しな子たちだ。なんだか、あの子たちは私に妙な気を回しているような気がする。三人一緒に来て、炭治郎にもと、手拭いを二枚渡してくれたんだった。

 

「カナヲ……強かったな……」

 

 炭治郎は手拭いで頭を拭きながら、今日のことを振り返っていた。私と炭治郎は、カナヲちゃんにはまるで勝てていない。本当に私たちとは次元の違う強さだった。

 

「たぶん、カナヲちゃんは全集中の常中ができるわ」

 

「常中……?」

 

 私は育手の人から話だけは聞いていたけど、炭治郎は違うのだろう。聞き慣れないと言うように、炭治郎は問いかけてくる。

 

「全集中の呼吸をずっとやる技術のことよ? できれば、基礎体力ができないときとは比べものにならないくらいに上がるという話だった」

 

「ずっと……!? 全集中の呼吸を!? ただでさえ辛いのに……」

 

「寝ているときもという話だった。きっと、それができれば、もっと強くなれる!」

 

 あの糸の鬼と戦って、思った。もっと私が強ければ……もっと力があれば……。きっと、炭治郎や禰豆子ちゃんを危険な目に遭わせることはなかっただろう。

 

 今回こそは、どうにかなったけれど、次も同じようにいくとは限らない。だから、強くならなくちゃいけない。

 

「なえ。なえは、全集中の呼吸をずっと、それをやってみたことはあるのか?」

 

「いいえ……。私は、風の呼吸が身体にあまり合っていないみたいなの。負担がかかり過ぎるから、まだ、やめておいた方がいいと言われていたわ」

 

「そうなのか……」

 

 でも、私に合った呼吸も、今回の戦いで分かったから、本格的に身体に馴染ませる訓練ができる。

 これからだ。これから、きっと私は強くなれる。

 

「ねぇ、炭治郎。炭治郎は、あの神楽……ヒノカミ神楽の呼吸で常中をやるのでしょう? 私は新しい呼吸を試すから……一緒に頑張りましょう!!」

 

「いや、俺は水の呼吸から始めてみるよ。ヒノカミ神楽は、長く舞うと本当に辛いんだ……」

 

「でも、違う呼吸の癖がつくとあまり良くないわ。炭治郎の刀の色は黒。始まりの呼吸の剣士と同じ色で、青色の水の呼吸の色ではないわ。身体に合ったヒノカミ神楽の呼吸で常中をやるのでしょう? 私も頑張るから……ねぇ、一緒に頑張りましょう!!」

 

「…………」

 

 すごい顔で炭治郎は固まっている。

 

「……?」

 

 そのあと、炭治郎は、ヒノカミ神楽で全集中の常中をやると決心してくれた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 炭治郎は、本当に辛そうな顔でヒノカミ神楽を舞っている。もう長く舞っているから、呼吸も乱れて、半分はヒノカミ神楽の呼吸ができていないようだった。

 

 ただの舞ではない。舞の一つ一つの動作に合わせて、刀を振る。戦闘に用いるため、型の練習と同じように馴染ませている。

 

「そろそろ、休憩してもいいんじゃない? 三人に、差し入れもらったわ?」

 

 私の持っているカゴの中には、おにぎりにお茶が入っている。炭治郎と一緒に食べてと、さっき走っていたら、きよちゃんに、なほちゃん、すみちゃんに呼び止められて渡されたものだった。

 素直にありがたいのだけれど、やっぱり三人に、私と炭治郎のことで、変に気を回されていることは間違いがない。

 

「いつも、いつも……。本当にありがたいな……」

 

「……ええ」

 

 炭治郎は、素振りをやめて、こちらにやって来る。

 

 あの三人には、他にもいろいろ良くしてもらっていた。

 本当に頭が上がらないから、たまに炭治郎と仕事を手伝ってあげたりしている。私たちができるような力仕事だ。

 これでお礼になっていればいいのだけれど……。

 

「いただこう。ちょうど、お腹が空いていたんだ……」

 

 おしぼりで手を拭いて、炭治郎はおにぎりに手をつける。朝早く起きて鍛錬していたから、これが朝ごはんになる。

 これから、回復機能訓練もある。

 

「あ……炭治郎……。ヒノカミ神楽の呼吸が止まっているわ……!」

 

「……ゔ……っ」

 

 おにぎりを片手に、炭治郎は固まってしまった。

 休憩と言っても、全集中の呼吸をやめていいわけではない。眠っているときにもしていなくてはならないのだから、意識のある間も常に続けなくてはいけないのは当然だった。

 

「炭治郎! 頑張って……」

 

「なえ……。ヒノカミ神楽の呼吸を続けるのは、とても辛いんだ……。苦しいんだ……」

 

「炭治郎! 炭治郎が頑張ってるのは良くわかるわ! きっと、できるわ! 私、信じてるもの!」

 

「……なえ……ぇ。俺、頑張るよ……」

 

 炭治郎は必死に息を整えている。

 限界が近いようで、炭治郎は死にそうな顔だった。

 

 私も全集中の呼吸を途切れさせないように、しっかり整える。

 こうして、朝に鍛錬した後、回復機能訓練に行くから、私たちはもうその時点でボロボロだった。アオイちゃんたちは、半ば呆れながら付き合ってくれているくらいだ。

 

 もちろん、全集中の呼吸ができるように、走り込みや、素振りの基礎的な体力をあげる鍛錬も欠かさない。そうやって、肺を強くして、だんだんと全集中の常中にも耐えられる身体になっていこうという計画だった。

 

 全集中の呼吸を止めないようにしながら、おにぎりを食べる。美味しいと炭治郎と言いあって、とても穏やかなひと時だった。ごちそうさまと食べ終わって、お茶を飲んで少しだけゆったりとする。

 

 そこで私は思い出した。

 

「そういえば、こんなものをもらったわ!」

 

「どれどれ? ひょうたんか……。でも、お茶なら、こっちの容器入ってるし……そのひょうたん、(から)、みたいだな……」

 

 炭治郎の言う通り、そのひょうたんの中身はから。何かを入れて持ち運ぶために使うのではない。

 

「これを吹いて、破裂させるらしいわ!」

 

「……えっ……」

 

 炭治郎は、信じられないものを見るかのような表情をしていた。

 試しにひょうたんを叩いてみると、コツコツと音がしてとても硬かった。

 

「いくわ……!」

 

「…………」

 

 息を吹き込む。

 鼻から吸って、口から吐いて、空気をひょうたんの中に送り込むけれど、びくともしない。

 

「はぁ……。はぁ……。ダメ……ぇ」

 

 肺の方が痛くなって、今はまだ無理だと分かった。

 まだまだ、鍛錬が必要なのだろう。

 

「なえ……。大丈夫か?」

 

「うん。炭治郎もやってみる?」

 

 私の持っていたひょうたんを炭治郎に渡した。その硬さを確かめるためか、炭治郎はひょうたんをじっと見つめる。

 

「いくぞ……?」

 

「頑張って……!」

 

 必死に、炭治郎はひょうたんに息を吹き込んでいる。頑張って無理をしているから、顔が真っ赤になっていた。

 それでも、ひょうたんは割れない。

 

「ダメ、みたいだ……」

 

「……うぅ」

 

 炭治郎でも、まだ無理のよう。

 毎日、毎日特訓して、肺を強くするしかない。

 

「今日はできなかったけど、きっといつかできるように……まだまだ頑張っていくしかないんだな……」

 

 このひょうたんを破裂させることがまず最初の目標になるだろう。

 

「ねぇ、炭治郎。そろそろ特訓に戻りましょう?」

 

「あぁ……そうだな」

 

 そして私たちは休憩をやめる。

 刀を持って、また素振りを始める。今度は私も一緒にだ。

 

「じゃあ、炭治郎……」

 

「……あぁ!」

 

 炭治郎のヒノカミ神楽に合わせて、私も新しい呼吸の型を振るう。

 

 新しい呼吸。それにあった型。

 創り出すというよりは、思い出すという感覚に近い。なぜだか刀を振るうたびに、懐かしいような気分になる。

 

「…………」

 

 そして、合った。

 炭治郎のヒノカミ神楽と、すごく合う。互いに互いが干渉せず、型として最大の力が発揮できる。

 

 いや、それだけではない。

 この二つの呼吸を合わせれば、隙を埋め合い、互いの型が本来以上の力が出せる。

 

「……はっ……」

 

 若干だが、私の呼吸が乱れてしまう。

 

「……う……っ」

 

 それに釣られて炭治郎が、呼吸を乱してしまったことがわかる。

 こうして二人とも、息を乱してずれたとしても、不調和は起こらない。それがまた新しい形の連携になるだけ。意図して相手に合わせているわけではないのに、そうなってしまう。

 

 ここまでくると、もともと、こうして炭治郎と肩を並べるために創られた呼吸のような気がしてくる。

 私は身体にあった呼吸を使っているだけ。だからこそ、私は炭治郎と一緒に戦うために生まれてきたような錯覚さえ持ってしまう。

 

 炭治郎が斬りつけた敵の逃げ道を塞ぐように、私の剣の一振りが走る。

 私の無防備を守るように、炭治郎が歩を進めて刀を振るう。

 

 どの型をどんな折に出したとしても、完璧な取り合わせで、互いの動きを補い合うことができる。

 とても不思議だった。

 

「……!?」

 

「……うぐ……」

 

 炭治郎がとても苦しそうに倒れた。

 炭治郎がこうして倒れることは今日に始まったことではない。呼吸を無理に続けすぎたからだろう。

 炭治郎のヒノカミ神楽は本当に負担が大きくて大変そうだった。

 

「……大丈夫?」

 

「……あぐ……うぅ……」

 

 まるで大丈夫そうではない。近づいて、かがみこむ。

 仰向けに倒れる炭治郎の顔を覗く。うまく呼吸ができていないようだった。

 

 無理に呼吸を続けた後遺症で、こうして息ができなくなり、最悪の場合は窒息して死んでしまうというものがある。

 

 苦しそうに呻く炭治郎の口に、私の口を近づける。

 

「……ん」

 

「……あ……ぁ」

 

 炭治郎が息をできない代わりに、私の息を炭治郎の肺に吹き込む。最初に炭治郎が、息をできなくなった時はかなり焦ったけれど、今はもう慣れたものだ。

 治るまでこうしておけば、なんてことはない。とても落ち着いて対処できる。

 

「……ふぅ。……ふぅ」

 

「…………」

 

 何度か人工呼吸を繰り返して、炭治郎が落ち着いてくる。五分もこうしていれば、自力で炭治郎は息ができるようになる。

 

「……んぅ。んん……。ん……?」

 

「…………」

 

 ばっちりと目が合う。

 炭治郎が、平生なままに、唇を合わせた私の目を見つめていた。

 

「大丈夫? 息、ちゃんとできる?」

 

 炭治郎から顔を離して、口もとから溢れる唾液を舌で舐めとる。頬が熱を帯びてどうしようもない。表情だけは取り繕って、冷静なふりをする。

 

「あぁ……なんとか……。なえ、もう大丈夫だ」

 

 まだ、炭治郎は苦しそうだった。

 それでも上半身を起こして、無理な笑顔で私に微笑みかけてくれる。

 

「じゃあ、そろそろ! 時間だから、少し休憩したら、アオイちゃんたちのところに行きましょう? 今日こそは、カナヲちゃんに勝てるといいけど……」

 

 鼓動の高まりを誤魔化して、回復機能訓練へと意識を向ける。

 日を追うごとに、カナヲちゃんとの差が狭まっていることが実感できる。それは炭治郎も同じだろう。見ていても、最初の頃から動きがまるで違うのだから。

 

「……なえ」

 

「……!?」

 

 不意に暖かさを感じる。

 なぜか、私は炭治郎に抱きしめられていた。

 

「なえは、幸せになってもいいんだぞ……?」

 

 炭治郎は、わけのわからないことを言った。でも、そう、それなりの付き合いだから、炭治郎の言いたいことは私にはわかる。もう何回も繰り返してきたやり取りだから、わかってしまう。

 

「…………」

 

 私は何も言わない。

 今、私の心は正常ではないのだから、口を開いても、まともなことは言えないとわかる。頭も真っ白になって、どうすればいいかわからない。

 

「なえ……」

 

「……炭治郎……」

 

 しばらくの間、私たちは抱き合ったままだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「竈門くんは、見ない呼吸を使うのですね……」

 

「……!?」

 

 夜。屋根の上で瞑想をしているところだった。

 耳もと近く、吐息がかかるくらいの距離まで顔を近づけられて、それまでまるで気がつかなかった。

 

「頑張っていますね……」

 

 胡蝶しのぶ。

 裁判のとき、禰豆子をどうしても殺したがっていた人で、今、お世話になっているこの屋敷の主人でもあった。

 

 この人の顔を見て、思い出した。あの毒の仕込まれた刃で突き刺され、苦しんでいた禰豆子のことを。

 

「……禰豆子の! 分だ!」

 

 気がついたときには身体が動いていた。

 隣に座っている胡蝶さんには、もう頭突きをするしかない。

 

「……え!?」

 

 驚いた顔でよろけて、胡蝶さんは避けなかった。

 そのまま、胡蝶さんの頭に頭突きが入る。衝撃が響く。

 

 頭突きをうけた反動のままに、胡蝶さんは体勢を崩していた。

 

「あ……っ!」

 

「あれ?」

 

 ここは屋根の上だった。

 身を崩して、胡蝶さんが屋根の上を転がっていく。このままでは、胡蝶さんは屋根から転落して、大怪我を負ってしまう。最悪の場合、死んでしまうかもしれない。

 

「胡蝶さん!!」

 

 必死だった。

 呼吸を深めて、屋根を転がり落ちる胡蝶さんに、急いで追いつく。屋根の端に先回りをして、抱きとめる。

 

 危ないところだった。

 

「竈門くん……。とても痛いです……。これは、(とう)(がい)骨が割れているかもしれません」

 

 額から血を流しながら、そう文句を言う胡蝶さんだった。いま、屋根から転がり落ちそうだったことは、まるで気にしていないかのような物言いだった。

 

「禰豆子はきっと、それよりも痛かったはずです!」

 

「竈門くんは変わっていますね……!」

 

 なぜか、そんなことを言われてしまう。

 それはいいとして、頭突きもしたし、禰豆子を刀で突き刺したことは、これで差し引きなしで、きっといいだろう。そうなれば、胡蝶さんとのわだかまりも、もう感じられない。

 

 禰豆子。兄ちゃんが禰豆子の分、ちゃんと、やり返してやったぞ。後で禰豆子に報告しておかないと……。

 

「……そういえば、胡蝶さん。胡蝶さんは、軽いんですね! たぶん、禰豆子よりも……。ちゃんと食べていますか?」

 

 いま、屋根から転がり落ちる胡蝶さんを身体を張って抑えたわけだけれど、思った以上に軽かった。

 たしかに胡蝶さんは、身長がそこまであるわけではない。更に女性でもある。けれどそれらを考えても、異様なほどに胡蝶さんは軽い。

 

「食事なら、栄養を考えて、しっかりと摂っていますよ? 竈門くんの心配は、もっともですけど……そういう体質なんです」

 

「そうなんですか……」

 

 胡蝶さんは笑顔のままだった。

 その答えには、嘘がないとわかる。そして、どこか悔しさの匂いもした。

 

「それで……そうです……。竈門くんは、見ない呼吸を使うのですね! 新しく、作った呼吸ですか?」

 

「いいえ! ヒノカミ神楽って、言います! 胡蝶さんは知っていますか?」

 

「知りませんね。初めて聞きました」

 

 まさか、ヒノカミ神楽が戦いに使えるとは思わなかった。ヒノカミ神楽については、なえとよく話をしたんだ。

 

「代々、(うち)に伝わってきた神楽で、その時の呼吸法なんです! なえは、昔、鬼舞辻無惨を追い詰めた剣士の使っていた呼吸と同じだって、言うんです!」

 

「それは、すごいですね!」

 

 笑顔で胡蝶さんは、パチパチと拍手をする。

 なえが知っていたから、鬼殺隊の偉い人なら知っていると思ったけれど、そうではなかったみたいだった。

 

「この呼吸を、ちゃんと習得して……俺も、きっと、鬼舞辻無惨を追い詰めてみせます!!」

 

 なえも、期待してくれているから……。水の呼吸を教えてくれた、鱗滝先生には悪いけれど、こうして、ヒノカミ神楽の呼吸で常中をすることに決めたんだ。

 

「あの上弦の弐の村の子……竈門くんは、あの子とずいぶん仲がいいみたいですね……。屋敷の子たちが噂をしていましたよ?」

 

「なえは、俺に、本当によくしてくれるんです。だから、俺もなえのために……頑張っていくしかないんですよ」

 

「あら……。頑張ってくださいね?」

 

 禰豆子を人間に戻す方法も、上弦の弐をどうやって説得すればいいかも未だにわからないけれど、きっと、すべてうまくいけば、明るい未来が待っているから。

 

「そういえば、胡蝶さん。聞きました。昔、胡蝶さんは鬼になった姉を庇ったって……」

 

「……っ!?」

 

 いつも笑顔だった、胡蝶さんの表情が一変する。

 苦虫を噛み潰したような顔で、何かを恐れるような匂いもした。

 

「胡蝶さんは、悔しかったんですか? 自分のお姉さんが鬼殺隊に認められずに、禰豆子が鬼殺隊に認められることが、悔しかったんですか?」

 

 胡蝶さんは俯く。

 しばらく間を置いて、こちらに表情を見せないままに。

 

「当たり前ですよ……っ! あの時も……冨岡さんだった! 冨岡さんが、私が血鬼術にかけられておかしくなっているって……! 私の言葉になんの信憑性もないって……っ、そう言ったんです! なのに……っ、今度は鬼を庇って……! まったく、わけがわかりませんよ……」

 

 涙を堪えるような、悲痛な声だった。怒っている匂いもする。

 

 最初に禰豆子の血鬼術によって心が操られていると言った理由も、なんとなく想像がついた。

 

 そして、胡蝶さんのお姉さんは鬼だった。

 

「胡蝶さんのお姉さんは、そういう血鬼術を使うと思います」

 

 一度、あの浅草の任務の時に会った上弦の参。話すと不思議な気分になってしまったんだ。

 

 初めて胡蝶さんを目にしたとき、よく思い出せないような既視感を覚えた。

 今になってみれば、わかる。あの上弦の参と、胡蝶さんは、とてもよく似ている。姉妹と言われたなら、間違いなくそうであろう。

 

「竈門くん。竈門くんはなにを言っているんですか? 姉さんにも会ったときがないのに……! ……っ!?」

 

 ハッとした表情で、胡蝶さんはこちらを見つめた。

 そういえば、あの上弦の参には、会ったことは内緒にと言われたんだった。それを今、思い出す。

 

「……!?」

 

「会ったんですか! 姉さんと……っ!! 竈門くんは、姉さんと会ったんですか!!」

 

 肩を掴まれ、問い詰められる。

 どうすればいいかわからなかった。

 

 あの『(しゃ)()』と名乗った上弦の参とは、会ったことを言わないようにと約束をしたんだった。家族と同じくらい大切な約束だった。そんな約束を破るわけにはいかなかった。

 

「あ……会っていま……いません……!!」

 

「……!! ……!? ……??」

 

 胡蝶さんは、わけのわからないようなものを見る目でこちらを凝視している。

 

 俺は、嘘を吐くのが爆裂に下手だった。

 どうしても顔に出てしまうんだ。すみません、沙華さん……。

 

「お……俺は……。あ、会って……会って……いません!」

 

「会ったんですね!! どこで……っ! いつ……っ! 姉さんはなにをしていたんですか……!?」

 

「言えません!!」

 

「竈門くん……っ!」

 

「言えないんです!!」

 

 何度も強く詰め寄られる。

 けれど、おそらく姉妹である胡蝶さんにも、それは言うわけにはいかなかった。そういう約束なんだからだ。

 

「……っ。……わかりました。でも、竈門くん。竈門くんは、この話、他の人にはしないようにお願いしますね……。私は、大丈夫ですけど、他の人に話したら、いよいよもって裏切り者として、竈門くんは殺されてしまいますから……」

 

「……え!?」

 

「会ったことを話せない。そうなふうにして鬼を庇うのはまずいですし……姉さんは元柱ですから――( )強い。そんな鬼と密通しているとバレたら、斬首は免れませんよ?」

 

 口もとに立てた人差し指を当てて、しーっ、と胡蝶さんは喋らない方がいいことを教えてくれる。

 

 禰豆子のときは、徹底的に反対されたけれど、今はこうして助言をしてくれている。胡蝶さんは、感情のよくわからない複雑な人だった。

 

「胡蝶さんは、お姉さんのこと、信じているんですか?」

 

 だから、どうしても尋ねたくなってしまう。

 

「…………」

 

 考えるように、胡蝶さんは黙り込んだ。

 

 もしかしたら、失礼なことを聞いてしまったのかもしれないと思った。

 話によれば、姉を庇う言動をして、投獄までされているらしいから、こういう質問に答えるのには、憚られるのかもしれない。

 

「こ……胡蝶さん……」

 

「そうですね……。私は鬼を信じられない……。私の両親も、仲間も、慕ってくれた子たちも鬼に殺されていますから、心の中には鬼に対してどうしようもない嫌悪感があるんです」

 

「…………」

 

「冨岡さんは……っ、冨岡さんは言っていました……っ! 自分の姉が特別な存在だと思うなって……。別にいいじゃないですか……っ、自分の家族ぐらい、特別な存在だって思ったって……っ! 姉さんは、とても立派な人でした……鬼にも同情するくらい、優しい人でした……。人を殺しておいて、可哀想だなんて、そんな話はないのに……っ!」

 

「胡蝶さん……?」

 

 話を続けるほどに強くなる語気に尻込みをしてしまう。胡蝶さんがなにを見ているのかよくわからなかった。

 憎しみと愛情がないまぜになった匂いがする。

 

「姉さんは、言ってたんです! 鬼と人が仲良くって……でも、人を殺したら罪を償わないとでしょう? あぁ、だから、鬼を殺さないと……。姉さんの優しい世界に人殺しの鬼はいらないんです……っ! 私が正しく裁いてあげるんですよ……? 私の毒なら、人を殺した分だけ苦しんで死ぬでしょう? とても素晴らしいことを私はしていると思うんです。そうは思いませんか、竈門くん。ふふ、うふふふ……」

 

 狂っているかのようだった。

 それでも、悲しみの匂いがとても強い。本心で言っているのか、それがまるでわからなかった。

 

「胡蝶さん。俺は、禰豆子のこと、人間に戻したいと思ってるんです! 胡蝶さんも……っ! お姉さんを人間に戻したいとは思いませんか……?」

 

「竈門くん……。その必要はないんですよ? 姉さんは、特別ですから、鬼のままでも大丈夫なんです。そうでなければいけないんです……っ!!」

 

「そんな……」

 

「それに、もし鬼が人に戻るとして……そんな鬼を殺してきた……人を殺していない鬼もですよ? そんな私たちは――( )いったいなんなんでしょうか?」

 

 風が吹く。

 吹いた風で、匂いが流され、胡蝶さんの感情はわからなかった。

 

 このままではいけない。なにか言葉をかけなければいけない。

 

「……胡蝶さん! きっと鬼殺隊は間違ってない! 鬼になってしまった人も……きっと、人を殺す前に……っ、止めて欲しかったはずです……! 俺だって、もし鬼になってしまったら、そうしてほしい……! だから……っ、鬼殺隊は間違ってない!! だから……っ、鬼殺隊の人たちは――( )()()()のために戦う……立派な人たちだと思うんです……っ!!」

 

「あぁ、やっぱり……。竈門くんは、とても優しい人ですね……」

 

 胡蝶さんは、言った。風が止んで、何かを諦めるような、そんな匂いを感じてしまう。

 

「胡蝶さん。胡蝶さんは、どうして、この屋敷に俺たちを連れてきたんですか?」

 

「それは……鬼の妹さんを私が監視しやすいようにですよ? そう言ったじゃないですか……?」

 

 裁判のとき、胡蝶さんは確かにそう言っていたことを思い出す。

 

「たしかに、それもあるかもしれませんけど……怪我をしていた俺たちのこと、放っておけなかったんですよね……? だから、胡蝶さんは……とても優しい人だと思うんです……!」

 

「……!?」

 

 顔を上げて、胡蝶さんはこちらの目を見つめていた。とても綺麗な、澄んだ目だった。

 

「俺、ここで療養できて、修業にも付き合ってもらえて、とても感謝しているんですよ」

 

「あ……」

 

 あっけに取られたような顔を胡蝶さんはしている。

 

 アオイさんに、カナヲ、すみちゃんに、きよちゃんに、なほちゃん。

 本当に、みんなにはよくしてもらっていた。

 

「善逸に、伊之助は、回復機能訓練を休んでしまっているけど……俺は、俺たちのためにこうしていろいろしてくれること、とても感謝しているんです」

 

 胡蝶さんがなにを考えているかはわからなかった。とても、複雑な匂いがして、その感情も俺には汲み取り切ることができなかった。

 

「……竈門くん」

 

「はい!」

 

「休んでいる二人には、私が少し手を貸してあげましょう」

 

「……え……っ」

 

「頑張ってくださいね……?」

 

 胡蝶さんは柔らかく微笑んでいた。

 

 いつも、胡蝶さんは笑顔だったのに……なぜだか今初めて、胡蝶さんの笑顔を見たような、そんな気持ちになる。

 

 一陣の風と共に、胡蝶さんは目の前から姿を消した。俺の目には追いきれない速度だった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「出陣ですか……?」

 

「胡蝶さん!」

 

「胡蝶か……!」

 

 産屋敷家で御館様から命を受け、今から出るところだった。

 

「煉獄さんに、真菰さん。柱が二人で出陣……ということは十二鬼月ですか?」

 

「いや、それがよくわからない。どうも鬼の噂話があったらしい。向かわせた隊士からは異常がなかったと、報告が帰ってくるが、皆が皆、その報告の後に行方不明になっているそうだ。胡蝶はこれをどう思う?」

 

「その話は、柱合会議でもあった……とてもきな臭いですね……」

 

 やっぱり、胡蝶さんも不思議に思っている。私には、正直、なにがなんだかわからなかった。

 

「御館様はこれを十二鬼月の仕業だと睨み、何度か隊士を送っているが、全て失敗している。それで今回、柱を送るとおっしゃっていた」

 

「でも、そうなると……人を操る類いの血鬼術が相手ですか……。とてもやっかいですね……」

 

 何度か鬼とは戦って来たが、そういう類いの血鬼術を用いる鬼とはまだ遭遇していなかった。

 それに、上弦ともなれば、単純に身体能力も高いはずだ。私が相手をできるのか、こんなことを思っていては冨岡さんに怒られてしまうかもしれないけれど、かなり不安だった。

 

「うむ。御館様の話によれば、おおかたの目星がついたのみで、その鬼の潜伏先を特定しきれていないそうだ。おそらくは長期の任務になる」

 

「一応……もし、すぐ見つけられないようであれば、私はいったん別の任務に移るんだよ……?」

 

 鬼は今ものうのうと人を喰って、被害を広げているのだから、柱を長い間、遊ばせておくわけにはいかない。

 基本的に煉獄さんが主となって現場で調査し、任務に余裕のできた他の柱がその都度に支援にまわるという形だった。

 

「そうですか。頑張ってくださいね……?」

 

「そういえば、胡蝶……その怪我は、鬼の仕業か?」

 

 煉獄さんが指摘をする。

 胡蝶さんは頭に包帯を巻いていた。十二鬼月を倒したという話を聞かないが、十二鬼月が相手でもないのに、柱が怪我をするというのは珍しい。誰かを庇ったのだろうか。

 

「いえ、竈門くんに……例の鬼を連れた隊士の子に頭突きをやられてしまいました……。鬼の禰豆子ちゃんを傷つけた分だそうです。一発くらいならと受けてみましたが、思った以上に石頭でしたね!」

 

「アッハハハハ! それは災難だったな……胡蝶」

 

 竈門くん。あの柱合会議のことを思い出す。

 

 あの会議の後、冨岡さんと話をした。

 私は怒った。すごく怒った。冨岡さんは私が切腹するかもしれなくなったことについてをとても謝っていたけれど、そこは大事なところじゃなかった。

 

 鱗滝さんに、冨岡さんは、私にとってとても大切な人だから、一緒に切腹するのは別にいい。でも、あんな無茶をするならちゃんと相談してほしかっただけなんだ。

 

「そうです! 人手が必要なら、後から竈門くんたちを合流させましょう。彼らも、頑張っていましたし……全集中の常中も、形にはなってきたみたいですから」

 

「なるほど……! 常中をか!? うむ、それはなかなかに筋がいい!」

 

 全集中の常中は、柱の入り口とも呼ばれる技術だ。私も、冨岡さんに水の呼吸を止めないようにとコッテリ絞られたことを思い出す。

 あの厳しい鍛錬があったからこそ、今の私の強さがあるということは身に沁みている。冨岡さんには、とても感謝している。

 

「そういえば、胡蝶さん。胡蝶さんはどうしてここに? 御館様から、任務で呼ばれたの?」

 

 こうして偶然、胡蝶さんと会ったわけだけれど、胡蝶さんはあまり急いだ様子がなく、私たちを引き留めていた。

 少し疑問だった。

 

「いえ、そうではなくて……。竈門くんの使う呼吸について、少し御館様に尋ねようと思って」

 

「えっ……? 水の呼吸じゃ……ないの?」

 

 竈門くんは、鱗滝先生のもとで水の呼吸を教わったと聞いている。

 だからこそ、竈門くんの使う呼吸は水の呼吸のはずなのに、どう言うことなのだろう。

 

「どうやら竈門くんは、()の呼吸を使うようですよ? 話に聞く、戦国時代の始まりの剣士と同じ呼吸だそうです」

 

「え……?」

 

 まったく違う呼吸だった。()って、火? 火の呼吸? 水、関係ないじゃん。派生させたものでもないの?

 

「なるほど……それは面白い。その少年の刀の色はなんだったか?」

 

 刀の色。呼吸の適性が現れたそれだ。

 たしか、あの子の刀は、鬼と戦っていたらしきあの場所に落ちていて――( )

 

「黒……だったと思います」

 

「黒刀か……! 黒刀は出世しないと言われるが……うむ、彼はひょっとするかもしれないな!」

 

「……むぅ」

 

 鱗滝先生から教わったというのに、別の呼吸を使って話題になっているのが、私にはあまり面白くなかった。

 鱗滝先生は、たぶん、なにも言わないだろうけれど、私が気に入らない。

 

「では……そろそろ、行こうか!」

 

「……うん」

 

 竈門くんのことは少しだけ納得いかなかったけれど、いま、いろいろ言っても仕方がないだろう。

 

「お気をつけて……」

 

 胡蝶さんに見送られて、私たちは任務に向かうことになった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「裏が出ても……表が出るまで何度でも投げ続けようと思ってたから!」

 

 ――表がでたら、カナヲは心のままに生きる。

 

 そう言われて投げられた硬貨は表だった。

 なにもかもどうでもいいから、硬貨を投げて決めていた。それを言ったら、そんなふうに言われて硬貨を投げられてしまった。

 

 小細工を疑ったけれど、何度でもと言われてしまった。何も言い返すことができなかった。

 

 胸が温かくなるのがわかる。

 いままで感じたことのない心地よさだった。

 

「あ……炭治郎……! 探したわ! ここにいたのね!」

 

「なえ!」

 

 女の子。よく炭治郎と一緒に修業をしていた、上弦の弐の村で育った女の子だった。

 

「炭治郎。なにしてるの?」

 

「お世話になったから、カナヲにお礼を言っておこうと思って……俺たち、任務だろう? また、いつ会えるかわからないから……」

 

「そうね!」

 

 炭治郎と、仲良く喋っていた。

 二人の距離はかなり近い。二人の関係は、噂をされているくらい。

 それを見ていると、なぜだか焦がれるような痛みがする。

 

「…………」

 

「カナヲちゃん! 回復機能訓練でも、相手をしてくれてありがとう! おかげで強くなれたから、すごく感謝してるわ!」

 

「……!?」

 

 手を握られる。

 発汗が止まらない。何も言葉を返すことができなかった。

 

「ふふ……カナヲちゃん強くて……けっきょく私、数回しか勝てなかった……。カナヲちゃんのこと、とっても尊敬してる。次はちゃんと良い勝負ができるように、私、頑張るから……そのときは……また相手をしてもらえるかしら?」

 

「師範の指示だったから……。私が決めることではないから……さよなら」

 

 なんとか、声を出せる。

 どうすればいいかわからない。今まで、こんなことはなかったのに。

 

「ねぇ、カナヲちゃん! カナヲちゃんも元気でね! また会いましょう! きっと、カナヲちゃんなら鬼が強くても、勝っていけるだろうから……いらない心配かもしれないけど……どうか、死なないで……!」

 

 無事を願われていた。

 ふと、この子は私が死んだら悲しいのだろうかと疑問に思う。私はこの子が死んでも……きっと、悲しまない。涙も出ない。

 なにもかもが、どうでもいいことだから。

 

「さよなら」

 

 苦手、だった。

 今、初めて思ったけれど、この子のことが苦手だった。

 本当にどうすればいいかわからなかった。

 

「炭治郎。行きましょう? 早く行かないと、鬼の被害が広がってしまうかもしれないから……!」

 

「うん、そうだな……!」

 

 そう話して、炭治郎と一緒に行ってしまう。

 

「…………」

 

 二人の後ろ姿を見ていることしかできない。なにもするべきことがわからず、途方にくれてしまう。

 

「カナヲも、元気で!!」

 

 振り返って、炭治郎は私に手を振る。

 それと一緒に、上弦の弐の村で育てられた子も振り返って、私に手を振った。

 

 わからない。なにもかもわからないけれど、頭がおかしくなりそうだった。

 

「カナヲさん! しのぶ様がお呼びです!」

 

「あっ……」

 

 こけてしまった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 浴槽を血で満たす。

 人一人が入れるくらいの小さなお風呂だ。

 だいたい人間一人分くらいの量の血で満たせば、肩まで浸かって入れるくらいにはなる。

 

 これだけで、家一軒が建つくらいの値段になるのだから、だいぶんに馬鹿げていると思う。

 それでも、最近になって生まれた月に一度の私の楽しみだった。

 

 温める必要はない。湯加減はどうでもいい。

 服を脱いで、足先から血の中に入っていく。太もも、腰、胸、肩まで浸かって、血の冷たさに僅かだが不快感を覚える。けれど、それもすぐに終わる。

 

「ん……うぅ……」

 

 少しずつ、血を全身で吸収していく。

 まず、頭がカッと熱くなる。意識がふわふわとしてきて、気分が良くなる。身体中の血管が拡張され、熱が行き渡り温まっていく。

 

「……ふぅ……」

 

 発汗。

 こうして冷たい血に浸かっているのに、()()って、全身から汗が止まらなくなるくらい暑くなるのは、とてもおかしな話だと思う。

 

「……あぁ」

 

 いい感じに酔いが回って、思考が鈍っていくのがわかる。気持ちがいい。

 ゆっくりと吸収しているから、まだ肩まで浸かれるくらいには風呂桶の血は残ってはいるけれど、今からでもなくなってしまうのがとても惜しい。

 

 飲むのもいいけれど、こうして浸かって、上質の稀血を全身で吸収していくのは格別だった。

 

 今、こうして至福の時間を味わえているのは、全て上弦の弐のおかげだった。

 いくら大金を求められるとはいえ、これほどの稀血を自分で食わずに売るだなんて、信じられないことだった。

 

 こんなふうに吸収したら酔える血は、私の長い生でも、一度お目にかかったくらい。それも、いま吸収している血よりは効能がとても薄い。

 それほど希少なものをまだまだ貯蔵していると言うのだから、上弦というのは恐ろしいものだと思う。

 

「ふふ、ふーん。ふふ、ふへへ」

 

 最初に他の下弦と集められた時は何事かと思ったけれど、今思えば、あれは天啓だった。そこで飲まされた血の味はもう忘れられない。あれほどの幸福は今までになかった。

 

 そのときの上弦の弐の言葉の通りに、駆けずり回って日銭を集めて買いに行ったが、その高さに絶望した。目の前にはこの上なく芳潤な匂いのする稀血があるというのに、手に入れることができないなんて。

 

 無理やりに奪おうとした下弦の肆は上弦の弐の血鬼術で潰されていた。相手との実力の違いもわからない。わざわざ売ってくださっているのに、この上なく愚かだったと思う。私は下弦の陸だけれど、賢いからよくわかる。

 

 そこから私は思い直して、お金集めに奔走した。ただ稼ぐのではだめだ。鬼の力を利用して、美女に化け、金持ちの男に取り入り貢がせればいい。

 あの血が手に入るなら、今までの誇りなんてどうでもよかった。少し演じれば、男なんてすぐに虜になってくれる。

 

 他の馬鹿な下弦たちにはできないことだ。

 

 その甲斐あって、二度目には、それなりの稀血が買えるほどのお金が手元にあった。

 

「……あ」

 

 そういえばと思い出す。

 湯船から、上半身を出し、床に置いた服を探る。体を這う水滴は、煩わしいから吸収して、肌は乾くから触った服は濡れたりしない。

 すぐに、赤い粉の入った容器が見つかった。

 

 今日のやりとりを思い出す。

 

「はい、お釣りね?」

 

 上弦の弐は、そう言って、私にお釣りを手渡してくる。上弦の弐自らがお金の精算をしていた。

 

「…………」

 

「今日もいっぱい買ったわね。ありがとう。いつもどおりの場所に、送っておくわ?」

 

「……はい」

 

 さすがに夜とはいえ、大量の血を手に持って運んでいくことは人の目が気になって難しいからか、荷物は送ってくれる。

 どうやら、遠くまで運べる血鬼術を持った鬼が協力してくれているようだった。

 

「ねぇ、稀血のお風呂、やった? どうだったかしら……?」

 

「もう……最高です」

 

 最初、たくさん買って、ちまちまと飲もうとしていた私に、上弦の弐は冗談まじりにそんな使い方を教えてくれた。

 興味があって、実際にやってみたら、本当に幸せな時間を過ごせた。それにも、とても感謝している。

 

「それはよかったわ! そうそう。零余子ちゃんに、今日は特別に見せたいものがあるの! これよ?」

 

「え……赤い粉……?」

 

 上弦の弐は台の上に、赤い粉の入った容器を置く。それと、薬さじに、キセルの筒のような器具があった。

 

「そう、この粉は、稀血の特別な成分を取り出したもの。あのお方がおっしゃっていたけど……粉を、こう、台に撒いて……この筒で、こうやって、肺まで行ってしまわないくらいで、鼻から吸うのがいいらしいわ?」

 

「……へぇ……」

 

 上弦の弐は、ふりだけして、実際に粉を吸っている様子はなかった。

 いまひとつ、興味が湧かない。

 

「相場はそうね……。一回分――( )この薬さじ一杯分で、一万円くらいだけど……零余子ちゃんには特別。今返したお釣りを払ってくれれば、この箱一つ分あげちゃうわよ……?」

 

「……え?」

 

 明らかにおかしい。

 箱は小さかったが、それでもその相場と、要求されている金額に二十倍以上差がある。上弦の弐は、算術ができないのだろうか。

 

 面食らった私の表情に、上弦の弐はくすりと笑う。

 

「私が零余子ちゃんのこと、気に入ってるから特別なの。さぁ、三種類あるわ? どれにする?」

 

 三箱、目の前に出される。

 どれも、同じ赤い粉だった。違いが、わからなかった。

 

「おすすめは……どれでしょうか?」

 

「うーん、零余子ちゃんが買ってるのは……酔う血だから……一緒に使うなら、夢の世界に飛んで行ける……この箱がいいわ?」

 

「じゃあ、これで……」

 

 さっき返してもらったお釣りと引き換えに、箱を渡される。

 正直なところこの粉に、相場と同じくらいの価値があるかどうか、半信半疑だった。

 

 お風呂に戻って、箱を眺める。

 薬さじを手に持って、浴槽の淵に粉を盛る。そのまま筒を持って、片方の鼻の穴を塞ぎ、粉を吸い込む。

 

「……ん……ぅ……!?」

 

 鼻の奥の粘膜で、粉が溶けたのだろう。

 そこから頭はすごく近い。身体が震える。頭まで、すぐに届いたように思える。

 ビクリと、まず身体が震える。

 

「……あぁ……」

 

 不思議な感覚だった。

 腕を動かしピシャピシャと水面を叩く。間違いなく、これは自分の腕のはずだった。思う通りに動いている。そのはずなのに、その腕が自分のものであるという感覚がなくなってしまう。ただの肉の塊とさえ思えてくる。

 

 力を抜く。全身から、自己という感覚がなくなっていく。自分の身体が自分のものかさえわからない。

 現実にいるのに、まるで夢のようで、今浸っているこの血の中に溶けてしまっている気さえする。肉体という(くびき)から解放され、水面に揺蕩う影のように、私自身の精神の居場所は、掴みどころがなくなってしまった。

 

「ふふ……あはは」

 

 幸福に支配される。この凄まじいほどの超越感にともなって、私の頭は際限ない法悦に満たされ、それに耽溺していた。

 どうしようもないくらいの心地よさに、涙や涎、そう言った体液の類いがあふれでてしまっている。

 

「うご……」

 

 気がつけば、私は浴槽にたまる血の中に、顔まで浸かってしまっていた。

 

 肺まで血が侵入してくる。

 苦しいとは思わなかった。世界と一体となるような気分で、その血を受け入れる。なんでもできる気がした。

 

 もちろん、鬼とはいえ、空気なしでは呼吸ができないから、意識が遠のいていく。

 

「……ふはぁ……」

 

 息をする。

 体が、周りの血を吸収して、口が出るほどの水位になった。同時に、肺の中の血も吸収しきったから、身体が暑くて暑くてたまらない。

 

「あはは……。あはは……」

 

 意識がどうしようもなくフワッとする。

 

 もうあれだけあった血もほぼない。

 これしかない量の血に、長い間浸かっているのはあまり優雅ではない。風呂桶の底に体を擦り付けて、いっきに吸収しきる。壁面の水滴も、全て体で拭っておいた。

 

「はぁ……あれれ……?」

 

 浴衣を羽織って、床に倒れる。

 最後に量を吸い切ったぶん、余韻が酷く残っている。まだまだ酔っていれそうだった。

 

 それにしても、まだ身体が自分のものでない気分だ。あの粉がまだ効いているのだろう。酔いと相まって、虚ろな気分になってしまう。

 

 そして、わかる。私の身体が震えている。あの粉が私に浸透させた幸福感がまだまだ強く残っている。

 まずいと思った。今までで生きてきた幸せを全て寄せ集めたとしても、今の幸福には敵わない。私の今までの生がとても味気ないものだったと確信できる。

 

「あは、あはは……!」

 

 これが、()()()()()だった。

 そして、欲も生まれる。確か、三つ箱があってそのうちの一つがこれだ。あと二つも味わってみたくなる。それに、今のこれもまた買ってしまうだろう。稀血のお風呂も捨てられない。

 

 もう、ここまで来てしまうと、普通の人間の肉で満足していた私は本当に愚かだったと思う他ない。腹が減ってどうしようもないとき以外は、きっと食べることもない。

 

 考えを巡らせる。

 お金が必要だった。こんな生活を続けるには継続的に大金を得なければいけない。そうでなければ、鬼殺隊からこそこそと隠れ、殺した人間のあまり美味くもない肉をむさぼる生活に逆戻りだ。

 

 金持ちの男を籠絡し、貢がせ金を得るのでは、きっと限界がある。

 

「あの上弦の弐に、血戦を挑んで、勝って、部下にして、私に稀血を献上させる。それしかない」

 

 あの上弦の弐は、数百年と生きているそうだから、それに何百年かかるかはわからなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「待って! 炭治郎!!」

 

 任務に向かおうとしていたはずだった。

 先に調査に向かっていた炎柱と合流との合流地点に向かっていたはずだったが、突然に炭治郎はあらぬ方向へと走り出した。

 

 一緒に任務に来ていた善逸くんや、伊之助くんを置いて、私は炭治郎のことを追っているのだけれど、私の言葉を聞いてくれる様子がない。

 

 合流地点からはもうずいぶんと離れてしまっている。どうして炭治郎が、こんな行動をとっているのか、私にはわからなかった。

 

「ここ……なのか……?」

 

 不意に、炭治郎は止まった。

 いつの間にか手に持っていた紙を見て、なにかを確認しているようだった。

 

 追いつく。

 炭治郎の肩を掴む。

 

「ねぇ、炭治郎……急にどうしたの! 走り出して……」

 

 なにかに駆り立てられるように動く炭治郎が、なによりも心配だった。

 この理解のできない現状に、どうしようもない不気味な流れを感じる。

 

「なえ……俺は、ここに来なきゃいけなかったんだ……」

 

 建物……だれかの家なのか……西洋風でそれなりに立派、お屋敷のように見える。

 

 炭治郎の言っていることがわからない。

 任務に向かっている最中にも関わらず、どうしてここに来なければならなかったのだろう。そんな理由があるのだろうか。

 

「ねぇ、炭治郎……。どういうこと? 今は、炎柱と合流をして……そこから任務をこなすって話だったんじゃ……」

 

「……約束があって……ここに来るって……。え……? 俺は……いったい……」

 

 うわごとのように呟かれる。炭治郎も炭治郎で、自分の行動が理解できていないような様子だった。

 

「と、とにかく戻るわよ! 早くみんなと合流した方がいいわ?」

 

「そ、そうだな……なえ」

 

 なぜだか、この場所には長く居てはいけない気がする。炭治郎の不可解な行動もそうだけど、なにかまずい。嫌な流れを感じる。

 

「あら……炭治郎くん? 久しぶりね! 来てくれたのね! その女の子は……?」

 

「え……?」

 

 女の人だった。

 見た瞬間に、既視感を覚える女の人。この人に似た人を、私は最近見たことがある。

 

「上弦の参!!」

 

 炭治郎が、刀を抜いて、声を上げる。

 精度の高い人間への擬態。だが、たしかに気配が、流れる温もりが人間のそれとは異なる。

 

 だが、上弦の参というのは……。

 炭治郎が見抜いたのか……いや、この女の口ぶりからすると、既知なのだろうか。

 

「ねぇ、剣は下ろして、仲良くしましょう? 鬼と人間でも関係ない。きっと、私たちは仲良くできるわ?」

 

「違うぞ! お前のように人を操って……思い通りにさせることを仲良くなんて言わないんだ! お前は間違ってる!!」

 

「……え?」

 

 噛み合う。

 今回の鬼は、人を操るという話だった。おそらくこの鬼が、その正体なのだろう。

 

 炭治郎が、急に勝手に動き出したこともこれで納得がいく。いつ、炭治郎が術にかけられたかはわからないけど、全てはこの鬼のせいだったんだ。

 

 きっと、この鬼を倒せばそれで済む。

 

「お願い! 話し合いましょう? 話し合えば、きっと互いに理解し合うこともできるわ!」

 

「なえ! この鬼の話を聞いてはダメだ!!」

 

「わかったわ!」

 

 もとより、鬼とは話す余地はない。

 鬼の理屈は、聞くだけ無駄だと分かっている。

 

「なえ……? なえちゃんって……もしかして、ハツミちゃんの村の?」

 

「……!?」

 

 私の出自を知られていた。

 この鬼が炭治郎の言う通り、上弦の参ならば、鬼は群れないと言うけれども、上弦の弐であるあの女とも交友があるのかもしれない。

 

「なえ! 合わせてくれ!」

 

 常中から、さらに呼吸を深めていく。

 走り、距離を詰める。

 

「ええ! いくわ!」

 

 一太刀、大きく水平に振るう。

 

「これって……月の……」

 

 鬼はあっけなくその刃から逃れる。それは折り込み済み。

 

 私の呼吸の特徴として、刀を振ったその場所に、三日月のような形の刃が残存する。

 だからさらにもう一つ、一振り目で刃が残ったその先へと、追い詰めるように刀を振るう。

 

 ――『破鏡の舞 厭忌月・鎖り』!

 

 逃げ場のない二連撃。

 残存する刃と、振られた刀の挟撃。普通ならば、これで終わる。

 

「これなら!」

 

「……そうねぇ」

 

 わずかな間で、鬼は最適な行動を選ぶ。

 上に跳び、私の攻撃すべてを避ける選択をする。

 

「これを! くらえ!」

 

 だが、上にはすでに炭治郎がいる。

 

 ――『ヒノカミ神楽 碧羅の天』!!

 

「……っ!?」

 

 完全な連携だった。決着がついてもおかしくないほど綺麗な形で決まっていた。

 

「く……っ!」

 

 頸へと振られた炭治郎の刀を、上弦の参の刀が防いでいる。

 刀……上弦の参は剣士なのだろうか。

 

 中空での鍔迫り合いはわずかな間だった。

 炭治郎の斬撃を防いだ上弦の参は、その斬撃の勢いまでは殺せずに、地面に叩きつけられる。

 

「あら……っ?」

 

 まだ残存していた私の刃で、上弦の参の右足に左手首が刻まれ飛んだ。

 

 明確な隙が生まれる。

 踏み込んで、刀を振るう。

 

 ――『破鏡の舞 闇月・宵の宮』!

 

 倒れた鬼に狙い澄まして、頸に刀を……。

 

「……く……ぅ」

 

「ねぇ、よく話し会いましょう?」

 

 上弦の参の刀が阻む。鬼の左手は私の刃にはね飛ばされて、今はない。右手だけの力で守られる。

 

 相手が片腕だけの力ならばと、両腕に力を込めて無理に押し切ろうとする。鬼は倒れた体勢のまま。こちらが上。並の剣士相手なら、押し切れる状況。

 だが、上弦の参はさらに左足で自身の刀の峰を抑えて、私の刀を完全に止めた。

 

「それなら!」

 

 ――『破鏡の舞 月魄災禍』!!

 

「え……っ!? それも使えるの!?」

 

 この型は刀を振らない。

 刀の微かな動きから、三日月の形の刃を放ち、敵を刻む。だからこうして鍔迫り合いで刀を止められている最中でも攻撃ができる。

 

「……あっ!?」

 

 鍔迫り合いから、勢いよく上弦の参に刀を振り抜かれる。完全にこちらが力負けをしてしまっていた。

 刃こそ、こちらの刀で防げるが、刀を振られる勢いのままに、私は強く吹き飛ばされる。

 

 代わりに刀を振らない型で放った刃が、上弦の参の右手を奪う。

 

 私を弾き飛ばした鬼は、ひとまず落ち着き、身を起こそうする。

 

「うおおおお!!」

 

 ――『ヒノカミ神楽 円舞』!!

 

 いま着地した炭治郎が、鬼にすかさず型を放つ。

 

 負けていられない。鬼に飛ばされ、地に足の付かない中空でも、私は身を捻って型を出す。

 

 ――『破鏡の舞 払暁・散残月』!!

 

 万が一、炭治郎が仕留め損なっても、私の刃が鬼の身体を切り刻み、炭治郎への追撃を許さない形だった。

 

「すごいわ! とってもいい連携ね! まさかここまでやられるとは思わなかったわ!」

 

「……なっ!?」

 

 炭治郎の刃を左手で掴んで抑えていた。私の遠距離から放った刃が、その左手を切断する。

 鬼は焦った様子も見せずに右手で今度は炭治郎の腕を掴んだ。

 

 一度奪ったはずの両手に右足。()()()と数える間もなく完全に回復している。

 再生が早すぎる。

 

「二人とも……とても息が合ってて……互いの呼吸が連携に適する形でうまく噛み合っているのかしら……? 二人でなら、きっと十二鬼月の下弦の壱も倒せるわ!」

 

 上弦の参は喜ぶようにそう言った。まるで自分は倒されないと確信している口ぶりだった。

 もし、その下弦の壱を倒せるくらいだったとしても、今はなんの慰めにもならない。

 

「ぐぅ……っ!?」

 

 腕を掴まれた炭治郎が暴れる。

 上弦の参ほどの、鬼の力だ。捻り潰されてもおかしくない。

 もう炭治郎は、刀を取り落としてしまっていた。

 

「あら……? この痣……形が変わって……。もしかして……っ!」

 

「炭治郎……ぉ!!」

 

 着地して、走る。

 今、遠距離から刃を放っても、炭治郎を盾にされてしまう恐れがあった。もう近づくしかない。

 

「ねぇ、なえちゃん。鬼狩りもいいと思うのだけど、両親が心配していたわ……? やっぱりハツミちゃんの村に帰った方がいいと思うの……」

 

「……え?」

 

 何が起こったのか分からなかった。

 気がついたときには、鬼が私の腹部にのしかかっていた。その上で私は、両手を抑えつけられている状態だった。

 

「説得したから大丈夫だったけれど……なえちゃんの両親は自死を選ぶほどに追い詰められていたわ……? ねぇ、帰りましょう?」

 

「い……いや! 帰れるわけない! だって(ハツ)()さま、こうじろうにぃを殺したんだ! 村を出たから……っ! 私は生き残ったから……っ! 私は仇をとらないと……!」

 

 このままでは、連れて行かれてしまう。

 頭がスッと冷たくなって、上弦の参の声がよく頭に通る。

 

 ふと、炭治郎が気になる。横目に確認すれば、強く握られていた腕を押さえて倒れているようだった。

 生きていて、無事でよかったと思う。

 

「……? なえちゃんと一緒に連れて行かれた子? たぶん、死んだのは、先天性の免疫不全が原因だと思うわ……? あの村は、病気のもととなる細菌やウイルスがハツミちゃんの血鬼術で存在しないの……。そうなると、病気に対する免疫機能が必要なくなるわけだから……退化してしまったわけね……」

 

「……え?」

 

 言っている意味がわからなかった。

 

 細菌やウイルスだったり、免疫だったりの話は、蝶屋敷の人たちがよく言っていた覚えがある。

 (ハツ)()さまの血鬼術は、生き物を殺す。

 この鬼の言うことは、意味のわからない呪いなんかよりも、筋が通っている。

 

「あの村の子達は、病気に対して闘えない身体なの……」

 

「う、嘘よ! だ、だって私は死ななかった! それなら! 私だって死んでいるはず……っ!」

 

「たぶん、なえちゃんは、村の外から来た人が両親か、祖父母のだれかにいるのね……。その免疫機能を運良く受け継いでいたから……生き残れたわけね!」

 

「……あ……っ」

 

 聞いたことがある。

 私の祖母は、村の外から来た人だと……。おかしな宗教を一直線に信じていた困った人だったらしい。私の生まれる前に死んだようだったけど……。

 

 思い当たる節はあった。

 だけれども、認めるわけにはいかない。だって、おかしいんだ。(ハツ)()さまの呪いで死んだのでなければいけない。

 

 私は、仇を討たなければならないのだから……。その目的がなければ私は……私は……。

 

「ハツミちゃんは、その男の子を()()()()()()わ? ねっ! 誤解がとけたのなら、もう争う理由はないでしょう?」

 

 鬼は――上弦の参は私の上から退く。その声が心に染み渡って、私にはもう戦意がなかった。

 それが分かっているのか、上弦の参は私を完全に自由にした。

 

 そこで私は、やるべきことに思い至る。

 

「そ……そうよ……? こうじろうにぃは、(ハツ)()さまが殺したんじゃない……。仇じゃなかった。鬼殺隊のみんなも……精一杯、鬼から助けようとしてくれていた。こうじろうにぃが死んだのは、私が外の世界に連れ出したから……っ! あぁ……っ! ()()()()()()()()だった!!」

 

 (ハツ)()さまを殺してから、私は死のうとしていたんだ。(ハツ)()さまを殺す必要がなくなった今、順当に順番がまわってくる。

 

 刃を自分自身に向ける。

 

 なぜ、もっと早くこうしなかったのだろう。

 どこを斬るのがいいか……首の動脈……いや、罪人はできる限り苦しんで死んだ方がいい……。ずっと苦しかったけど……楽になるわけにはいかない。最期の最期まで苦しまなければならない。なら、お腹を裂いて……ぐちゃぐちゃにして……。

 

「やめるんだ! なえ!」

 

 手を止められる。

 炭治郎にだった。

 

「は……放して!! 私だけが死ぬべき人間だったの……!! これで終わるべきなのよ! ねぇ! だから、放して!!」

 

「違う! 違うんだ!! なえ! なえは死ぬべき人間じゃない……!! 俺はなえに生きてほしい! 生きてくれよ!!」

 

「悪いのは私一人……!! (ハツ)()さまの言いつけを守らなかったのも私! 私がちゃんといい子にしてたら、()()()()()にはならなかった! 死ななければ償い切れない!」

 

「なえ! そんなに悲しいことは言わないでくれ! なえはなにも悪くない! 悪くないんだ!」

 

 放してと暴れるけれど、炭治郎は私を自由にはしてくれなかった。

 炭治郎は優しいから、私なんかのためにもこうして心を砕いてくれるだけだ。

 

「死んでしまうなんて……命を粗末に扱うものではないわ? 普通の女の子として結婚して、幸せになればいいの。だれか好きな人はいるかしら?」

 

「……え……っ?」

 

 声が、入ってくる。そうしたら、力が抜けてしまう。もやもやと霧がかかったようにうまく頭が働かない。

 私の好きな人――( )私はただただ炭治郎を見つめていた。

 

「そう! なえちゃんは、炭治郎くんが好きなのねーぇ」

 

 気がつけば、鬼によって、私の心の内が暴かれている。

 

「ふ、ふざけないでよ……。どうして……! どうしてそんな酷いことするの……!」

 

 炭治郎にだけはバレたくなかった。

 この気持ちは、私が死ぬまで心の中にだけしまっておくべきものだった。

 

「炭治郎くん。炭治郎くんは……なえちゃんはどうかしら……? 結婚したら幸せじゃない?」

 

「そう思うけど……俺は……禰豆子のことがあるから……。禰豆子を人間に戻してからじゃないと……俺が幸せになるのは……」

 

「禰豆子ちゃんのことなら、私に任せて……? ちょうど、珠世ちゃんがそういう薬を作ろうとしていたから、きっとなんとかなるわ! これで、ぜんぶ解決でしょう?」

 

「……あっ」

 

 炭治郎の耳に手を当てて、鬼はそう嘯いていた。

 それから、炭治郎はなぜか納得をしたように頷く。頷いてしまった。

 

「た、炭治郎……ぉ」

 

「なえ、結婚しよう! 俺が絶対に幸せにする! 後悔はさせないから!! これから一緒に()()()()()()!」

 

 私の手を掴んで、炭治郎はそう言う。

 

 嬉しくて、嬉しくってたまらなかった。だから、こんなこと許されていいのかとも思ってしまう。

 

「炭治郎! 好きよ……っ! とても好き!! 大好き!」

 

 口が言うことをきかなかった。

 なにが起きているのか、まるでわからなかった。

 

「なえ……ありがとう。でも、俺は頷いてほしいんだ。結婚しよう」

 

「うん……わかったわ……私、炭治郎と結婚するわ! 幸せになる!」

 

 抱き合って、とても幸せになった。

 心がふわふわとして、私自身がなにを言っているかわからない。私の口を誰かが勝手に使っている気さえする。それでも私は幸せだった。

 

「あぁ……よかった。本当によかったわ……ぁ。二人が幸せだと、私まで幸せな気分になるの……本当によかった……」

 

 鬼はそう言って、私たちを祝福していた。

 

「えへへ……」

 

 祝福をされて、私はとても幸せだった。

 




 小ネタ
 炭治郎はヒノカミ神楽を無理に鍛えたので、原作のこの時期よりは少し弱いです。
 しのぶさんはストレスで栄養がうまく吸収できないため、三十七キロです。
 カナヲ様にはごめんなさいしながら書いていました。
 (ハツ)()様は、下弦たちをカモだと思って接してます。
 日の呼吸と月の呼吸は、この作品では、使い手の練度が同じくらいならすごい連携力を発揮するという設定です。
 現在の上弦の参の方は、玉壺に圧勝したので、玉壺のことを甘く見ています。



 次回、ウキウキ新婚生活。
 本当だったら、十万字でじっくり書きたいのですが、それではテンポが悪いので一話で終わると思います。



 稀血を育てる系の鬼の小説、増えないかなぁと思ってます。

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