「ごめん、ヒメコ、ちゃん……? うち、なんにも思い出せない……!!」
震えた声でぎこちなく名前を呼ぶほわん。頭に巻かれたまっしろな包帯よりも白い雪が降る、そんなMIDICITYには珍しい日に、あたしは胸をつかれるような思いで。
「先生!」
「ウーン、私にはまだどうしようもないネ、体に別条はないと思うんだケド……」
あの時、あたしが隣に居れば。考えても仕方のないことばかりが頭をめぐる。後悔だけならいくらでも出来た。他には何も出来なかった。
「ね、ねぇ、歌は? あたしたちはましゅまいれっしゅってバンドで、一緒に歌ってて――ほら! これあんたのギターでしょ!」
家から担いできたギターを半ば無理やりに押し付ける。それをまるで割れ物に触れるような手つきで受け取ったほわんはじっと考え込んだ後、ぼろぼろと涙を零す。
「うちは何にも、歌を知らない―――!」
そんな、そう漏れた声も自分の物じゃないみたいに病室に反響していた。あのきらめきを忘れてしまっただなんて、信じたくなかった。
「ほわんが倒れたって本当なの!?」
「ほわんさん!!」
病室の戸が開き、ルフユとデルミンがやってくる。事情はさっき伝えたばかりなので二人とも相当急いでやってきたのだろう、切らした息は二人の焦燥を物語っていた。重ねて容態を説明する医者と、ギターを抱いたまま涙を流し続けるほわんを交互に見て、二人の表情も暗いものになっていく。全ての話が終わった時、真っ先に口を開いたのはルフユだった。
「ほわん! ルフユだよ! 本当に―――本当に、覚えてないの?」
「デルミンです。ましゅましゅのことも、ほわんさんのことも、何も覚えていないんですか?」
ほわんはさっきと同じように首を横に振った。これ以上すすり泣くほわんを見ていたらあたしも泣いてしまいそうだった。
「ごめん」
口をついて出たその言葉は自分でも驚いてしまうくらい冷淡で。あたしは自分に操られるような感覚をおぼえながら屋上への階段を駆け上がる。
いつもの藍空とは違う雲の濁った白が不快だった。時折頬に落ちる融けかけの雪がもっと不快だった。
「早く止んでしまえばいいのに」
あーあ、何度そうわざとらしく声を出しても誰も答えてはくれない。神様だって何もしてくれないのだ。希望を与えるだけ与えて、最後に突き放すんだ。
それならば、いっそ。
「駄目だよ、ヒメコ」
普段よりもずっとずっと落ち着いたルフユの声。何にもしないわよ、と答えてから余計なことを言ってしまったことに気が付いた。
「一時的に忘れているだけで何かのきっかけで全部思い出すこともある、って先生も言っていました。今は信じましょう」
デルミンも。そんなことを言いながら、声が震えてるのは寒さのせいじゃないでしょう。
「……ありがとう」
「とりあえずさ、今日はもう遅いから。デルミンと帰るね。ヒメコはほわんを看てあげてくれる?」
「うん。わかった」
「ほわんさんを、任せました」
沈んだ口調でやりとりを済ませ、屋上の戸がまたぱたりと閉じる。はぁ、と吐き出す白はすぐに消えてしまった。
それからほわんが眠りにつくまで、ずっとましゅましゅの事を話したり、歌って聴かせたりしていた。あったかい、いい歌だね、そう言って笑うほわんは何処か他人のようで悲しくなったけど、おくびにも出せなかった。
絶対に眠れないと思っていたけど、ほわんの寝顔を眺めていると安心できるような気がして。もしかしたらそう信じていたかったからなのかもしれないと少しだけ考えたけれど、忘れることに努めて目を瞑った。
おやすみ、ほわん。いつもみたいにそう呟いて、投げ出されたほわんの手をぎゅっと握る。
眠りで頭が満たされる、その直前に。
「違う」
ほわんの声で現実に引き戻された。ほわんは頭が痛むようで、こめかみを抑えてうずくまっている。
「ほわん、先生呼んでくるからもう少し待ってて!」
「違う! うち、うちはほわんじゃなくて――」
そこから先に続いた名前は、聞き覚えどころか聞きなれもしないものだった。
「うちは日本に住んでて、学校に通ってて……」
「しっかりして、ほわん!」
ナースコールに気が付いた当直の先生が駆けつけてくる。先生が真っ先に制したのはあたしだった。
「アナタも落ち着くネ、何か思い出すかもしれないからネ!」
そう言われ我に返る。そして、シン、と静寂が訪れる。それがたまらなく怖くて言葉だけが進んだ。
「ほわん。明日許可貰ってさ、街を回って、そうだ。エイヤット村の家族にも会いに行こう? ね?」
ほわんの瞳の中は見えなかった。ほわんが痛々しい呻き声をあげるたび、焦りが波のように押し寄せる。
「あっ」
ふと何かを思いついたように、ほわんの手が頭から離れる。苦悶の表情は消え去っていた。
「ヒメコちゃん」
なめらかに、あたしの名を呼ぶ。
「思い出して、くれたの……?」
恐る恐る尋ねるあたしに、ほわんは答える。
「うん………うん。全部、思い・・出し・・ちゃ・・った・・」
ぼろり、と大粒の涙が零れた。その言葉の意味を掴み切れずに茫然とするあたしを我に返したのは、病室に向かって駆けてくる足音だった。
「えっと、ここだ。やっとたどり着けたにゃ」
安心したような顔をする、夜空色の巻髪の少女。のっかった耳からして、ネコ族だろう。
「詩杏」
少女のものらしいその不思議な響きのする名前を呼んだのはほわんだった。
「ほわん、知ってるの?」
あたしにそう聞かれて、少し困ったように頷くほわんは寂しそうだ。
「えっとね―――」
詩杏と呼ばれた少女が口を開いたその時。
「ちょっと待ったぁ!!」
「まだ終わったってわけじゃありませんよ!」
ルフユとデルミンが病室の戸を破らんばかりの勢いでやってきた。二人とも今にも飛び掛からんばかりで、デルミンに至っては角先が軽くスパークしていた。
「ちょっと、あんたたち……」
「ヒメコ、少しだけ聞いて頂戴。私のルナティックフューチャービューイングについて」
だからねぇ、いつもの調子でそう言いかけたけれどルフユどころかデルミンも真剣で。あたしは何にも言えなかった。
ルフユには秘密があった。
満月の夜。夢を見るのだ。長い、とても長い夢。予知夢というやつらしかった。
あの日。ほわんと出逢って最高にキラキラの路上ライブが出来ることを知っていた。だからそうなるように促した。
あの日。ほわんがレイジンのごちそうに選ばれることを知っていた。だからお父様に頼んでマスターがチケットをとれるようにしてもらった。
あの日。対バンが終わってもほわんがましゅまいれっしゅに居たことを知っていた。だから対バンに乗り気だった。
あの日。突然記憶を失ったほわんがどこか遠いところに連れ去られる未来を視た。すぐに妨害を試みた。
デルミンが信じてくれなかったら、きっとほわんが全て思い出すまでの時間を稼ぎきることはできなかった。
ヒメコがほわんの隣にいてくれなかったら、きっとほわんは歌を忘れたままだった。
「詩杏さん、ですよね。あなたはほわんを、どこかに連れて帰る・・・・・つもりなんでしょう?」
「どうしてもというのであれば、デルミンはもう少し手荒な真似をしなければいけないかもしれません。説明を」
依然として姿勢を崩さない二人に、困ったような顔をする詩杏。あたしは何も言えなかった。何を信じていいのかもわからなかった。
「まずは少しだけ自己紹介をさせてほしいにゃん。あたしは元プラズマジカの四人目、シアンにゃん」
プラズマジカ。あたしたちがその名前を知らないわけはなかった。ダークモンスターの襲撃からMIDICITYを救った伝説のバンド。現在は三人で活動していて、当時は伝説の四人目が居たらしい。このくらいなら常識だ。
「あたしは人間の世界からベリーさん――このギターに喚ばれてやってきたにゃん。二回の戦いがあって、あたしはその後人間世界に帰ったにゃん」
だから、プラズマジカは今、三人で活動をしている。人間世界というのはよくわからなかったが、きっと遠いところなのだろう。
「そして帰ってから、同級生の子が一人、失踪したにゃん」
先行する想像を言い当てるように、シアンの言葉は続く。
「その子は優しくて、元気だけどちょっとドジな子で―――とっても歌うのが大好きで。しばらくして、ベリーさんの声が聞こえたにゃん。一人巻き込まれてしまったみたいだ、って」
結論は見えていた。帰る、とはそういうことだったのだ。重苦しい空気が流れたまま、言葉だけが紡がれる。
「今はあたしも一時的にこの世界に留まっているけど――そろそろ、時間にゃん」
シアンの体は幽霊みたいに薄く透けていた。時間が無いのは本当なのだろう。
「だからってね―――」「あのね」
あたしを制するようにして、ほわんが口を開く。
「うちね、もう戻るべきなんだな、ってのはわかるんだ」
頬に一筋。涙の跡が光をうけてきらめく。
「けどね、うちはましゅましゅのみんなと歌を歌いたい。もう学校のみんなと会えなくなったって」
ほわんはもう泣いてなんかいなかった。もしいつか後悔するときが来たら、そんなことを考えてしまうあたしは弱い。
「そっか、わかったにゃん。じゃあそろそろ帰るね、ほわん・・・ちゃん」
「うん。またいつか逢えたら、その時は一緒に歌おう、詩杏・・ちゃん」
シアンの体がみるみる薄くなっていき、光片を散らして消える。最後の表情はどこか満足げに見えた。
「ねえ、ほわん……」
「えへへ、心配かけちゃってごめんね」
「ほんとどうなっちゃうかと思ったんだよ~」
「デルミンも久しぶりに駄目かと思いました」
ベッドから起き上がりギターをとったほわんは、ふっと笑う。もうすっかり元気になったようだ。ならこの質問は海にでも流してしまおう。
「よかったらちょっとだけ歌わない?」
「相変わらず唐突。まあいいけど」
しんしんと降り続く雪空に、みんなの歌声が染みわたる。
やっぱりみんなと歌うのは最高にきらめいていられて、心地よい。