バラバラと甲板を叩く雨音が心地良い。
ロドス本艦の末端。しばらく誰も立ち入っていないであろう資材置き場にある半開きになった錆びたコンテナの中で、ロープは膝を抱えて紫煙をくゆらせていた。
まだ夕刻まで時間はたっぷりとあるというのに、曇天に遮られた日光はあまりにも弱々しく、あたりは薄暗い。
「……落ち着くなぁ」
龍門の警官にロドスに強制連行されてから、二カ月が過ぎた。
かつて縦横無尽の駆け回った龍門のスラムと比べると、この船はあまりにも狭く、息苦しい。
一息つけるとすれば、このうち捨てられた場所くらいだ。
「――ッ。ゲホッゲホ!」
胸が締め付けられるように痛み、ロープは地面に這いつくばってえずいた。
加えていたタバコがコンテナの外に転がり、雨に打たれてジュっと音を立てて消える。
――まだ半分しか吸ってないのに!
ショックを隠し切れないロープの胃の奥から、朝食のパスタが舌の根本まで吐き出てくるが、それを無意識に必死に飲み込んだ。
貧乏性がまだ抜けない。
ロープは自重するように小さく笑う。
スラムと違って、ロドスには雨から守ってくれる屋根も三食の食事も、温かい布団が敷かれた寝床もある。ずいぶんと慣れたつもりでいたが、やはり性根は変えられない。
だからこそ、ロープは思う。
――ここは本当にぼくがいて良い場所なのだろうか、と。
※※※※※※※※※※※※※※※※
「サイレンスが探していたぞ、重病人」
「……その重病人を戦場に強制連行しているのはどこの誰かなー?」
ふいに頭上から低い声が降ってきた。
ロープはヘラヘラと笑いながら、頭を上げた。
予想通り、コンテナの外にはすっぽりとフードを被った男が立っている。
「ドクター、ずぶ濡れだよ。なにしてるの」
「私の部屋のIDカードがどこにもなくてね。随分と探し回っていたんだよ」
落ち着いていて、それでも凛とした声色はロープの胸の奥をひどくざわつかせる。
「あれー? もしかして、ぼくを探してくれていたの? なんだかうれしいなぁ」
立ち上がってロープはドクターの腕に飛びつき、ぐいぐいとコンテナの中に引っ張り込む。
「みんなに大人気のドクターを独り占めできるなんて光栄だなぁ」
「……」
「ねぇねぇ、二人っきりだけど、なにしよっか」
「……そうだなぁ」
上目遣いで瞳を潤ませるロープをチラリとみて、ドクターはわざとらしく顎に手をやる。
「とりあえず、IDカードを返してもらおうか。早く片付けないと、アーミヤがまた新しい書類の山を持ってくる」
「ちぇ、朴念仁め」
唇を尖らせ、ロープは抱きついていた腕を離す。
そして、自分の腰をポンと軽く叩いた。
それにつられて、ドクターが腰付近のポケットをまさぐると、硬い長方形のカードが出てきた。
「ちゃんとあるじゃない。ボケるにはちょっと早いんじゃないかな」
「しょうがないだろう。私は記憶喪失なんだから」
明らかにさっき抱きついた瞬間、ロープが仕込んだのだが、ドクターは特に咎めるわけでもなく軽口で返してくる。
それがなんだかくすぐったくて、ロープは思わず噴き出した。
「あはは。なにそれ、冗談のつもり? やっぱり変わってるなぁ。ドクターは」
笑いすぎてお腹が痛い。
そのとき、あの強烈な胸の痛みが消えていることに気が付いた。
無意識で胸ポケットに手を伸ばし、中からつぶれたタバコ箱を取り出した。
タバコ箱を手のひらで、とんとんと叩き、器用にライターと1本のタバコを滑り出させる。
「ロープ、君には医療班から禁煙指示が出ているはずだぞ」
「バレなきゃオッケー、ぼくはそういう生き方してきたら」
「私にバレていると思うが」
ドクターの声を無視し、ロープはライターをつける。
ほの暗い闇のなかに、オレンジ色の弱い光が灯る。
ロープはチラリとドクターに視線を向けた。
フードの中の輪郭がうっすらと見えるが、その表情はさすがのロープでも読み取れない。
ドクターは、怒っているのだろうか、呆れているのだろうか。それとも何にも考えていないのだろうか。
――まるで、子どもみたい。
からかったり、馬鹿にしたり、美辞麗句を並べて人を騙すのは得意だが、構ってほしくて悪いことをした覚えはない。
タバコをくわえ、ロープはコンテナの外をぼんやりと眺める。
――ぼくは弱くなったのだろうか。
「ねぇ、ドクター」
「……なんだい、ロープ」
「どうして帰らないの」
「どこかの重病人が今まさにルールを破っているのを目撃しているのに、帰れるわけないだろう」
「ふふっ、そう」
雨音の幕間に二人の短い会話が生まれ、曇天に吸い込まれていく。
この瞬間は嫌いじゃない。ロープはそっと目を閉じる。
「それに、何か言いたいことがあるんじゃないか」
ドクターの声にロープは、はっとして先ほど閉じたばかりの瞳を開き、ドクターを見上げる。
「君は口より先に手が動くタイプみたいだからな」
そう言ってドクターは、ポケットからIDカードを少し覗かせてみせた。
微笑しているのだろう。抑揚のないドクターの声色が少し柔らかくなった。
その声になぜだかロープは胸が締め付けられる。
気づいたときにはポツポツと言葉が漏れ始めていた。
「ドクター、ぼくはロドス(ここ)が気持ち悪いって言ったらどう思う?」
「……」
「分からないんだ。ずっと一人で生きてきて、食べるものもなくて、体調がいつも悪くて、そんな生活より今の方が恵まれている。そうだよね? それでもなんだか居心地が悪い。こうしてドクターが隣にいてくれることも、そう」
タバコをくわえる唇が細かく震える。
泣きたいわけではない。怖いわけでもない。それでも不安で、なにかに縋りつきたくなる。
こんな自分は初めてで、ロープ自身もどうすれば良いのか純粋に分からないのだ。
「意外と難しいことを考えるんだな」
ドクターがゆっくりとロープの横に腰を下ろす。
「君がロドスに来た理由は……。そうだな、まだ、話すべきじゃないだろう」
なにそれ。とロープは小さく笑う。
「でもね、私がここにいる理由は単純明快だ」
ドクターはまっすぐにロープの瞳を覗く。
「君が心配なんだよ。目を逸らせばいなくなるし、すぐにタバコ(それ)を吸う」
一瞬たじろいだロープの隙を付き、ドクターはさっとロープの口からタバコを奪い取った。
「あっ! ちょっと何するの」
じたばたするロープから顔を背け、ドクターはそれを自分の口に挟み一気に吸う。
ジリジリと音を立てて、タバコは一気に灰になった。
「ゲホッゲホッ!」
むせるドクターをロープは呆れたように見る。
「いいかい、ロープ。この船に互いがいる限り、私たちは運命共同体だ。君の過去も、私の過去も、今この瞬間は関係ないんだよ」
「意味がわからない」と言いたげに、ロープは眉をひそめる。
「一言でいうならば、仲間っていうやつだ」
「……仲間」
「そう。一人が好きでも、たまに私のIDカードを盗んでも、医療班の言いつけを守らなくても、その事実は一寸分たりとも動じることはない。だからこそ、サイレンスやハイビスカスは君の体調を心配するし、君が君を蔑ろにするなら叱る。仲間なんだから、当たり前のことだろう」
ドクターにしては、珍しくまっすぐな言葉。
「ははっ……やっぱり、居心地悪いな。そんなこと言われたの初めてだし」
ロープは服のすそをぎゅっとつかむ。
でも、悪くないかな。と思った。
「そのうち慣れるさ。先は長い」
「……ありきたりな慰めだね」
ドクターは返事をしない。
再び訪れた静寂。雨はいつの間にか小ぶりになっているようだ。
「ねぇ、ドクター。ドクターもぼくが心配?」
「ああ、もちろん。体調を崩してご自慢のロープ捌きが鈍ったりしたら、戦列が総崩れなりかねん」
「ちぇー、結局司令官目線かなのぉ」
軽口を叩きながらも、ロープは少しだけ微笑む。
いまもどこかくすぐったくて、違和感がある。もしかしたら、この感覚もこの先ずっと生きていたらいつの間にか慣れるのかもしれない。
ここで暮らすことが当たり前になったのなら。それは多分、味わったことのない「幸せ」を感じれるかもしれない。
いつの間にか、雨脚が弱くなっている。
――雨過天晴。
激しい雨が降った後は、まばゆい晴天が広がる。
龍門には、そんな都合の良い意味の言葉があったのをロープは思い出した。
※※※※※※※
「あー! ロープさん、見つけましたよ!」
ハイビスカスが突然飛び出してきて、ロープの腕をつかんだのはそれからしばらくしてからだ。
「サイレンスさん、こっちですー! もう逃がしませんよ、ロープさん……ってドクター? なんでここに」
首をかしげるハイビスカスにドクターは、小さく肩をすくめてみせる。
だるそうに連行されるロープは、途中、くるりと振り返り、いつになく真面目な顔でドクターを見た。
「ありがと、ドクター。それからIDカード、盗んじゃってごめんね」
そして、すぐにお得意の軽薄な笑みを浮かべる。
「でも、ぼくにキスしたからチャラだよね」
「キ、キス! ドクターとロープさんが!? ど、ど、ど、ドクターそれはどういう意味ですか!?」
「いや、間接キスはキスに入らないだろう」
「したことは認めるんですねー!」
いつの間にかドクターに迫っているハイビスカスを背にロープは一人空を見上げる。
そう、まだこれから。
ここは変な人、怖そうな人だらけ。それに、もしかしたら見知った誰かが死ぬかもしれないし、自分が戦場で朽ち果てかもしれない。
それでも今までとは違うのだ。
ロープは大きく伸びをする。
少しだけ気が楽になった気がする。
それもきっとあの人のおかげなのだろう。
「ありがとう、これらからもよろしくね……ドクター」
サイレンスが鼻息荒く近づいてくる足音が聞こえる。
これから起こる騒動を予想して、気が滅入りながらも、ロープの表情はどこか晴れやかだった。
雨過天晴(うかてんせい)
――雨が止み、空が晴れたる様。