子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ 作:hasegawa
ヘレンがやってきて、10日目となる日の午後。
この日は風も無く、ポカポカと暖かい陽気となった。
「ドライブというのも良い物ね。どう? レイも楽しい?」
(こくこく)
カッコいいスーパーカーの運転席で、サングラスをかけたリツコが機嫌よく鼻歌を口ずさむ。
地平線の彼方まで、どこまでも続く北海道の道を、景色を楽しみながら勢いよく駆けて行く。
その助手席に座るのは、ヘレンを抱っこしているレイだ。彼女も心なしか柔らかい表情を浮かべ、内心ウキウキしているのが見て取れる。
優しく揺れる車の振動が心地良いのか、今もすぅすぅと寝息をたてているヘレンの背中を、時折そっと撫でてやる。
「良い天気。絶好のピクニック日和だわ。
ほんとアスカも来れば良かったのに。ねぇ?」
(こくり)
ちなみにアスカさんは、現在お家でお休み中。
よほど午前中の実験で張り切り過ぎたのか、〈ぐったり!〉とソファーに突っ伏していた。ほのかなサ〇ンパス臭を漂わせて。
エースパイロットの誇りを胸に、なにやら気合を入れて試験機のテスト操縦に臨んでいた彼女だが……まさか自分が搭乗していたのがエヴァでは無くガ〇キャノンのコックピットだとは、夢にも思うまい。
リツコも教える気は無い。あわよくば最後まで内緒にしとこうと思う。ご協力感謝。
(まぁバレたとしても、何とでも言いくるめられるわ。
ガンキ〇ノンって赤いんだし、「赤好きでしょ貴方?」とか言って。
それでOKよ)
リツコのグラサンが〈キラーン☆〉と光るが、幸運にもその悪い顔はレイに見られずに済んだ。
ちなみにレイが実験と称して乗せられているのは、内緒だけどガ〇ダムである。青と白だし。
重ねてになるが、人類存亡の危機に何をしとるのか。
「人間も動物も、たまにはお日様の光を浴びないと、どうにかなってしまうもの。
今日は風も無いし、気温も暖かい。きっとヘレンも喜ぶわ」
キツネという動物は主に聴力を頼りに生活するので、あまり風が強い日は嬉しくない。周りの音が聞こえづらくなくなってしまうし、匂いの問題もある。様々な危険があるのだ。
同じ晴れの日であっても、動物さんにとって“お散歩びより“という物がある。今日なんかが正にそうだ。
「海岸近くの砂丘……きっとヘレンも、そこで生まれたのね。
今日は里帰りを兼ねた、ちょっとしたリハビリって所かしら?」
「はい。きっと必要だとおもって」
「ええ、良いと思う。今度あの動物病院の……確かメンコちゃんだったかしら?
あの雌キツネの子も、一緒に連れて来てあげましょうか。
また先生に話をしてみるわ」
気が付けば、もうかすかに潮風の香り、そして波の音がしてきている。
今レイたちが車で向かっているのは、マリが写真を撮ったという海岸近くの砂丘。数多くの野生のキツネたちが住む、ヘレンの故郷である場所だ。
自分はセカンド・インパクト世代の人間なので、あまり良い思い出は無いが……でも海を見るのは一体いつ以来の事だろう。
リツコは自分の心が、ほのかに高鳴っていくのを感じる。
「あ、そういえばキツネとタヌキって、別々の場所に住んでるのを知ってる?」
「?」
「キツネは砂丘近くの草原、明るくて開けた場所が好きでしょ?
でもタヌキは森の中。薄暗い森林に住んでいるの。
どちらも同じイヌ科の動物で、本来とても近い生き物なのだけど、
でも住んでいる場所が全然違うのよ」
「どうして……ですか?」
コテンと首を傾げる、レイの愛らしい仕草。リツコも暖かい笑みを浮かべる。
「きっと、譲り合ったんだと思うわ。
キツネは日中に活動するけど、タヌキは夜に活動するの。
そんな風にして……お互いケンカをせずに済むよう、住み分けていったのね。
一生懸命努力したあとが見えるの。生きていく為に」
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波の音を聞きながら、二人並んで歩く。
片方はトテトテと。もう片方はそれに合わせるように、ゆっくりと。
オホーツク海に面した海岸。
ここは原生花園と呼ばれる、砂丘の草原がある所だ。
いま目の前には、見渡す限りの広大な海。それを地平線で隔てた青い空には、とても大きな雲が浮かんでいる。
それ以外には、何も無い。
「…………」
大きい。広い。すごい。
そんな当たり前の言葉が、幾度も幾度も頭の中に浮かぶ。それしか考えられないくらい。
そして、きれい――――
目の前の光景に圧倒されながらも、強く想う。
これは決して、話に聞くセカンド・インパクト前のような青い海では無い。透き通るような透明さも無いのに。
けれど……キレイだと思う。この空気と打ち寄せる波の音を、とても心地よいと感じる。
広くて、静かで、なんにも無くて……。
そんな寂しい場所のハズなのに、孤独を感じない。物悲しい光景なのに、心が満ち足りていく。
ただただレイは、その心地よさだけを、感じている。
(ふふ。やっぱり来て正解ね。レイのこんな顔が見られるなんて。
それだけで来て良かったわ)
どこかポーッとしながらトテトテ歩くレイを見守りつつ、リツコはのんびりと歩みを進める。
良い気分だし、本当はタバコでも吸いたいのだが、それはもう少し後。歩き終わってからにしよう。
レイは別に気にしないだろうが、この子に煙を吸わせてしまうのも嫌だし。我慢我慢である。
そしてしばらく海岸沿いを歩いていく内、やがて砂丘の草原の中に、植物があまり生えていない開けた場所があるのを発見。
ここでならのんびり座れるし、荷物も降ろせる。ヘレンも存分に遊び回る事が出来るだろう。
「よし、じゃあこの辺りで座りましょうか。
ビニールシートを広げるから、少しだけヘレンと待っていて頂戴ね。
お弁当にしましょう」
今日のランチは、リツコお手製のサンドイッチ。自信作である。
いくつかはハムも入れてみたので、レイにも是非チャレンジしてみて貰いたいものだ。
そんな事を考えつつ、リツコが荷物を下ろし、イソイソと準備に取り掛かっていった。
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「ヘレン、あそんでくる?」
遠くに海を眺めつつ、微かな波音を聞きながらの、穏やかな食事。
やがてそれを終えたレイが、胸に抱いていたヘレンを、そっと地面に降ろしてやる。
ここはくぼ地となっていて、風も無い。加えて草木もあまりない開けた砂地なので、安心してヘレンを遊ばせる事が出来る。
この場所は夏の間、キタキツネたちが一番好んで子育てをする場所なのだそうだ。
きっとかけっこが大好きな子ぎつね達にとって、ここは自由に走り回る事の出来るグラウンドのような物なのだろう。
「リフトオフ。子ぎつねヘレン、はっしん」
なにやらおかしな事を言いながらも……レイは穏やかな表情で見守り、そっとヘレンから手を離す。
ヘレンが今、生まれ故郷の砂丘の砂を、しっかりと自分の脚で踏みしめた。
「……?」
するとレイ、そして少し離れた場所でたばこを吸うリツコが見守る中……なにやらヘレンがズリズリと後ずさりをし始める。
レイの手が離れた途端、前足を力いっぱい「うーん!」と踏ん張り、そしてズルズルと後ろに下がる動作をしているのだ。
「ヘレン? どうしたの?」
やがてすぐ後ろで座っているレイの膝に、ヘレンのおしりがポスッと当たる。行き止まりだ。
コテンと首をかしげながら、レイはヨシヨシと背中を撫でてやる。「大丈夫だよ、ここにいるよ」と伝えるように。
きっと今までと違う感覚……平らでは無い地面と砂の感触に、少し戸惑っているのだろう。
ヘレンはそのまま、しばらく考え込んでいるようだった。しかしやがて意を決したように一歩、また一歩と、そろりそろり前へ進み始めた。
「…………」
無言ながら、どこか嬉しそうにレイが見守る中……次第にヘレンの足取りが軽やかになっていく。
トコトコ、トコトコと、砂地を歩いて行く。今日はどこにもぶつかる物がないので、自由に歩き回る事が出来た。
ヘレンの動きは、円を描いているようだ。
いつもゲージ内をお散歩する時のように、円を描いて歩みを進めていくスタイルだ。そしてその円は次第にどんどん大きくなっていく。
なんてったって今日は、邪魔な物がなにもない! いくら歩いても〈コツン!〉と頭をぶつけてしまう事がない!
そんなとても広い場所にいるんだから! やった!
それがもう嬉しくて仕方ないというように、ヘレンは元気にお散歩する。いつもよりずっと早足で、のびのびと故郷の砂地を歩いて行く。
「ヘレン、たのしそう。よかった……」
来て良かった。赤木博士にお願いしてみて良かった。
こんなにも嬉しそうなヘレンを見られて、よかった。
レイは快く付き合ってくれたリツコに感謝しつつ、優しい顔でヘレンを見つめる。
よし。ではひとつ、私もヘレンと一緒に遊んでみよう。一緒にお散歩してみようではないか。
例えばヘレンの後ろに続き、匍匐前進をしてみるのはどうだろう? 仲良く行進してみてはどうだろうか?
ヘレン隊長と、綾波一等兵――――
上官の指示のもと、私はどこまでもついて行くぞ。さぁこの砂丘を探検だ。サーイエッサー。
そんな愉快な計画をうんうんと思い描き、「さぁ私も」とレイが立ち上がろうとした、その時……。
ふいにヘレンが枯れ草に足をひっかけ、コテンと転んでしまった。
「……っ」
中腰のまま、レイはヘレンを観察する。
突然の事で少しビックリしたが、これは決して怪我をするような転び方じゃない。ヘレンの方もすぐに立ち上がってくれたので、心配は無い事が分かった。
けれど……。
「!」
まるで飛び上がるように立ち上がったヘレンが、「ウッ! ウッ!」と怒った声を上げながら、グルッと一回転する。
両足をバタバタと動かし、歯をむき出しにして突然暴れ出したのだ。
「……ヘレン? ヘレン……」
いま足になにか触れたのか、それに向かって必死に唸り声をあげる。そして噛みつくようにしてガッと砂に頭を突っ込み、〈ガッガ! ガッガ!〉と後ろ脚で蹴りつける。
そしてとうとう、ゴロンと地面にひっくり返ってしまった。
「ッ!」
四本の脚が上を向き、それでも必死にジタバタともがき続ける。
カッと目を見開きながら、歯をむき出しにして怒った声を上げ続ける。まるで狂ったように……。
「ヘレンッ! ヘレン!」
レイが駆け寄る。
今も必死に暴れるヘレンを落ち着かせようと、抱き上げてやろうと足に触れたその途端……ヘレンがレイの手に噛みつく。
刺すような激痛が親指に走り、思わず顔が強張る。
「――――レイ、下がりなさい」
親指の付け根の辺りから、赤い血が噴き出す。
そんなレイの肩をそっと抱き、リツコが後ろに下がらせる。ヘレンの傍から離すように。
「……こういう時は、手を出しては駄目。
ヘレンはいま興奮状態なの。貴方の事も分からない」
ポケットからハンカチを取り出し、傷口に当ててやる。
その処置をしながらも、リツコはじっとヘレンの状態を観察する。
……ヘレンは今、もう暴れ回るようにそこら中の物に噛みついている。
突然ケンカの相手が消えてしまったのが気に喰わないのか、唸り声を上げながら暴れ続ける。
近くにあるゴボウムギの穂にガブリと噛みつき、必死に四本の足でそれを蹴飛ばす。何度も何度も蹴りつける。
すると茎が突然ちぎれてしまい、その勢いでヘレンは後ろにひっくり返ってしまう。ドテンと身体を打ち付ける。
――――だれだ! いまやったのは! どこだ!
しかしそれさえも……ヘレンには
見えない誰かが自分を攻撃したと、そう見えているのだ。
――――まただ! またやられた! どこだ!
――――――ぼくはいま、みえない敵におそわれてるっ!!
喚き、頭を振り回しながら、見えない敵と戦い続けるヘレン。
敵から、
痛みから、
そして「分からない」という、その恐怖から……自分を守る為に。
……やがてリツコがヘレンの傍に行き、手にしたタオルをそっと掛けてやる。
ヘレンは暫くの間ジタバタしていたが、そのままリツコによってそっと抱き上げられ、そして腕の中でゆらゆらと優しく揺らされているうちに、次第に大人しくなっていった。
やがてヘレンは、そのまま眠りに落ちる。
たくさん怒って疲れてしまったのか……力を使い果たしたように、すやすやと眠る。
その安らかな寝顔は、さっきまで暴れていたのが、嘘だったかのよう。
狂ったようにキバをむき出しにした、あの恐ろしい顔が……、まるで嘘だったかのように。
やっと、安心できる場所をみつけた――――
レイには、ヘレンがそう言っているように思えた。
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ヘレンを膝に乗せ、波の音を聞く。
レイは静かに目を閉じ、じっと波音に耳をすませる。
ここは、静かな世界だ――――とても心が落ち着く。
けれど……ヘレンには、そうじゃない。
ヘレンはこの優しいお日様の光も、遠くからする波の音も、知らない。
感じる事が、出来ない。
「……赤木博士」
あれからしばらく経ち、レイとリツコは今、穏やかな時を過ごしていた。
手の怪我を診て貰った後、リツコが淹れてくれた暖かい飲み物をもらい、二人でただ遠くの海を眺めて波音を聞いている。
けれど、ふとレイがリツコの方を向き、静かな声で問いかけた。
「ヘレンは、どうして……?」
のんびりと足を投げ出して座っていたリツコが、その声を聞き、スッと姿勢を正す。
「どうしてヘレンは、おこったんですか……?
ヘレンは……なにをおもってたんですか……」
この静かで何もない場所が、ヘレンにはいったい、どんな風に見えていたのだろう。
ヘレンには、どう感じられたんだろう。
ふとそんな風に想い、リツコに問いかける。
「……ふむ。そうね」
レイに向かい直り、その顔を見つめる。
先ほどはヘレンの様子にショックを受け、しばらく言葉もなく俯いていたが……、今のレイの瞳にはしっかりと力が宿っている。
そしてヘレンの為に、ヘレンの事を知りたいと、しっかりと前を向く事が出来ている。
それを確認したリツコは、まっすぐにレイの目を見据え、問いかける。
「知りたい?
ヘレンが何を思っていたのか。ヘレンには世界が、どんな風に映っているのか。
……知りたい?」
コクリと、迷いなく頷く。
「……わかったわ。
レイ、こっちにいらっしゃい」
リツコは「ふぅ」とため息をついてから、レイを自分の傍に来させる。
そして持参した鞄の中から、包帯や脱脂綿など、いくつかの道具を取り出した。
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柔らかい感触が、レイの目を覆っていく。
包帯が一回り、二回りとする度に、次第にレイの世界から光が失われていく。
眩しかった太陽の光は、もうどこにも無くなってしまった。
「脱脂綿を詰めるわ。少しじっとしててね」
そしてレイの耳に、栓がされていく。
さっきまで聞こえていた波の音が遠くなり、今は自らの鼓動の音だけ。
レイの世界から、全ての音が失われる。
「レイ、10分経ったら声を掛けるわ」
耳元に顔を寄せ、リツコがそう告げる。
そしてヘレンを胸に抱き、レイのいるこの場から、歩き去って行った。
「……」
足音は聞こえない。けれどリツコがこの場から離れていった気配は感じた。この場にはもう、自分ひとりだけだ。
レイはその場に佇み、ただ立ち尽くす。
「……」
静かに心を落ち着かせ、周りに意識を配る。世界を感じようと試みる。
けれど今のレイには、何も感じる事が出来ない。視界を完全に無くし、音すらも失ってしまったレイには。
――――何も分からない。それだけが今のレイに分かる事の、全てだ。
「……っ」
ふいに、不安な気持ちが押し寄せる。
何も分からないこの状況を恐れ、何とか周囲の状況を把握しなければと、心があせってくる。
そんな中レイは、ふいに自分がこの場の景色の記憶を必死に思い出そうとしている事に気が付いた。
目を塞ぐ直前に見た景色を、どんな風だったかと必死にたぐりよせようとしているのだ。
……けれど、それはズルだ。だってヘレンにはそんな物は無い。
ずっと目の視えないヘレンは、そんな“見た記憶“なんて物に頼っていなかった。
だからレイは意を決し、少しこの場から歩いてみようと思った。
ほんの少しでもこの場から動けば、そこはもう、レイも知らない世界。どこに何があるのかも、どんな形をしているのかも分からない世界だから。
「……っ!」
けれど――――足を踏み出せない。一歩も動く事が出来ない。
いままで当たり前のように、思うだけで動いていたハズの脚が、まるで固まってしまったように動かない。
強烈なブレーキが……心の奥から出る「危険だ」というサインによって、必死にこの場に留まろうとしているかのように。
「こわい……? わたし、こわいの……?」
もしこの場から動けば、そこはもう、知らない世界――――
今は立っていられる。けれどもし少しでもここを動けば、そこがどんな所かが分からないから。
ここは大丈夫だけれど、そこは平らではないかもしれない。立っていられなくて転ぶかもしれない。
ここは平気だけれど、そこには沢山の草があって、足に引っ掛かって転ぶかもしれない。
もしかしたら大きな石があって、それに躓くかもしれない。
突然どこからか、虫や動物が飛び出してくるかもしれない。怪我をするかもしれない――――
「……ッ!!」
その瞬間、途轍もない恐怖がレイを襲った。
咄嗟にその場にしゃがみ込み、思わず巻いている包帯に手を掛けそうになる。脱脂綿を外しそうとする。
けれど……。
「だ……だめ! 外してはだめ……!」
思いとどまる。咄嗟に手を下ろし、ブンブンと首を振る。
だって、
怖いからと言って、包帯を外す事も脱脂綿を外す事も出来ない。これから逃げ出す事なんて、ヘレンには出来ないんだから。
「……っ! ……っ?!」
地面に蹲り、さっきと姿勢が変わった。ほんの少しだけその場から動いてしまった。
けれど……たったそれだけで、もう何も分からなくなっていた――――
「……えっ? ……あっ!」
気が付けばレイは、この場の記憶という安心も、平らだった地面の安全も、全て失ってしまっていた。
ここはどんな地形だったっけ? 自分がいるのはどの辺りだっけ?
お日様は? リツコはどっちの方角にいる? 海はどっちにある?
どこまでが、安全?!
分からない。何も感じられない。何も知る事が出来ない。
そしてもう、何にも頼れない。
「あぁ……! あああぁぁぁぁああああああーーーーッ!!」
――――叫ぶ。必死に声をあげる。
けれど……その自分の声すらも
私は声を出している……? 出した? 出したハズなのにっ……!
でも聞こえない! ちゃんと自分の声が聞こえない! 分からない!
……その事に強烈な不安を感じ、どんどん心が闇に沈んでいく。心細くなっていく。
「赤木はかせッ! ……はかせっ!! ………………ヘレンッッ!!」
どれだけ呼ぼうとも、届かない。どれだけ声を上げようとも、何も起こらない。
当然だ、こんなか細い声では。
私は今、自分がどんな声を出しているのかすら、ちゃんと出しているのかすら! 分からないんだから!
「……ッ! ……ッッ!!」
ふとレイは、自分が今ズリズリと後ずさりをしている事に気が付いた。
無意識に足を蹴り出し、おしりを地面に擦りながら必死に後ろへと下がろうとしている事に気が付く。
元いた安全な場所に、帰ろうとしているのか。
それとも、怖い物から必死に逃げようとしているのか……それは分からない。
自分でも、よく分からなかった。
けれど、確かヘレンも、こうしていた――――
最初に地面に降ろしてあげた時、ズリズリとこうして後ずさりをしていた記憶がある。
怖かったの、ヘレン? 知らない場所が、分からない事が怖かったの?
ヘレンもあの時、こんな気持ちだったの?
……ヘレンは
「……はぁっ! ……はっ! ……はっ……!」
――――手をのばす。必死に暗闇の中で。
気が付けばレイは這いずるようにして、必死に手を伸ばしながら、前に進んでいた。
「……はっ……はっ……! ……はっ……!!」
四つん這いになって、動物のように。ヘレンみたいに。
必死に手探りで地面を触りながら、少しずつ少しずつ、前に進んで行く。
これは砂……すな。やわらかい。
これは……草? 枯草? 石……? 尖ってる?
痛くない? ……大丈夫?
ここは……大丈夫なの……?
必死で手を動かし、地面の形を確かめるようにしながら、四つん這いで前に進んで行く。
少しでも情報を……! しっかりイメージを……! そう必死に心掛けながら身体を動かしていく。
「……あっ」
レイは、いつのまにか自分が、円を描くように動いている事に気付く。
最初は小さく、そこから少しずつ広げていくように、円を描いて進んでいる事に。
安全な場所を探すように。安全を確かめるように。
そしてそれを、だんだんと確保していくように――――円を描いて。
……これも、
だからヘレンも、いつもこうして歩いていたんだ。
「……いっ……!」
手に痛みが走る。
たくさん体重を掛けていた手のひらに、突然なにかが刺さったのだ。
……これはきっと、コウボウムギの穂だ。先ほどヘレンが怒って噛みついていたのと同じヤツだ。
レイは刺さったトゲを取ろうとするけれど、でも目が見えないので、取る事が出来ない。
痛い場所はどこだか分かるけど、でも刺さったのはとても小さなトゲだ。それを摘まんで取り除く事なんて出来なかった。
だからレイに出来たのは、痛い所をペロッとなめる事だけ。
鉄っぽい味がしたので、ちょっとだけ血が出ている事が分かった。
「……っ……! ……うぅっ!」
涙が出てくる……。
怖くて怖くて、不安でたまらない気持ちでいるのに、怪我までしてしまった。とても悲しい気持ちになってくる。
小さい怪我だけれど、でもすごく痛かった。血だって出てしまったのだ。
それがなんだかすごく悲しくて、じわりと涙が滲む。
でも泣いてなんかいられない。だってここにいたら、またコウボウムギのトゲに刺されてしまうかもしれない。
さっきよりも更におっかなビックリ、痛む手のひらを庇いながら、一生懸命がんばって進んで行こうとした。
……けれど。
「――――ッッ!! うぅッッ!?!?」
突然手に、まるでハチが群がったような激痛を感じた。
その途端、手をかばおうとして動いたレイは、〈ズザァッ!〉と頭から砂の中に崩れ込んでしまった。
「あうっ!! ……ん゛っ!!」
もう飛び上がりそうになる位の痛みを感じ、思わず「あっ」と開けた口の中に、沢山の砂が入ってきた。
砂?! 手! 痛っ! ……ハチ!?
体勢を崩し、平衡感覚を失ったままで、必死に頭を回転させる。地面に転がりながらも、パニックを起こしそうになる心を必死に押さえつける。
「ちがう! ハチじゃない!」
あれはハナマスの枝だ!
ハチがいるんじゃなくて、ハナマスの枝が手に刺さっただけだ! 大丈夫なんだ!
「――――ハチじゃない! ハチじゃない! ……ハチじゃない!!」
叫ぶ。
ハチじゃないって、自分に言い聞かせるように。自分を落ち着かせる為に。
でもそう声をあげたつもりなのに……いくら必死に声を出そうとも、それはまる暗い穴の中に吸い込まれていくように消えていく。
自分でも分からないくらい、頼りなく消えてしまう! どこにも届かない!
自分自身にすら!
「――――ハチじゃない! ハチじゃない! ハチじゃない!
ハチじゃない! ハチじゃないッ!! ハチじゃないッッ――――!!」
顔も、服も、髪だって砂まみれにしながら……レイは地面に蹲る。
まるく、ギュッと縮こまるように。
必死に自分を守るようにして、蹲りながら……声を上げ続ける。
ただひたすらにレイは叫び、涙を流し続ける。
……もう、動けない。
ここから一歩も、動く事が出来ない……。
だって、周りは敵だらけだ。ぜんぶぜんぶ、痛いものばっかりだ――――
いま、自分のまわりにある物、全て。
この世界、
なにも分からない。
怖い物しか、ない。
ヘレンにとって、この世界は。
こんなにも怖い物で、あふれていたんだ――――
………………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「――――…っ! ――――――……っ!」
遠くから、レイの叫び声が聞こえる。
今も言葉にならない慟哭をあげ、レイが苦しんでいる声が聞こえている。
その方向を、まるで睨みつけるように見つめながら。
耐えるように歯を食いしばりながら、リツコは強く己の肩を握る。
まるで、握りつぶすような強さで。皮膚が裂ける程に爪を立てて。
すぐにでもレイのもとに駆け出しそうになる心を、必死で押し留める。
……やがて腕時計が10分の経過を示し、リツコはレイのいる砂丘のくぼ地に戻る。
そこにあったのは、まるで必死に自分を守るようにして蹲る、可哀想な程に震えているレイの姿。
リツコがそっと歩み寄り、優しくその肩にポンと手を置いたその瞬間……レイはバッと跳ねるように身体を動かし、リツコの胸に飛び込んだ。
「……えらいわレイ。包帯を外さなかった。
よく頑張ったわね……」
震える身体を支え、泣きじゃくるレイの頭を撫でてやりながら、リツコが目の包帯と耳の詰め物を取り除いてやる。
ふと見れば、レイの手のひらから小さく血が流れ、腕や足などのそこら中に擦り傷がある事が分かった。
「――――ヘレンをなおしてっ!! ヘレンをなおしてくださいっ!!」
包帯が外れ、リツコの顔を見た途端に、レイが縋りつく。
目からたくさん、涙を流しながら。
「 いやっ! こんなのはいやっ!
……こんな、こんな世界は……いやっ!!!! 」
「 ヘレンを……! ヘレンをたすけて! はかせっ……!
――――ヘレンをたすけてあげてっ……!! おねがいっ……!!!! 」
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
そして、帰り道……。
リツコの運転する車の心地よい揺れを感じながら、レイはただ……窓の外を眺める。
今日の事を。
今日知る事の出来たヘレンの気持ち。ヘレンが抱えている不安や、恐怖や、悲しみ……それをじっと考え、思い返す。
(きっとヘレンも、そうだった……。だから……)
レイは今日の、口の中に砂が入ってしまった時の事を、思い出す。
自分はあの時、くちびるについてしまった不快な砂を、思わず舌を出して取ろうとした。そして口の中に入った砂を必死に舌で押し出し、ペッと唾を吐いて捨てたと思う。
あの砂は、味の無い不快な物だった。
とても邪魔で、困った物でしかなかった――――
だから自分は、必死に口の中から追い出した。舌でグイッと押し出して、ペッと外に吐き出したんだ。
それは、きっとヘレンも同じ……。
ヘレンはいつも肉を口に入れられた時、それが不快で邪魔な物だったからこそ、一生懸命に吐き出そうとしていたんだ。
「いやだ、いやだ」と、ただただ味のない物を口に入れられたから、嫌がっていただけなんだ。
今日の私と、おんなじ気持ちだったんだ――――
今も腕の中ですぅすぅと寝息を立てるヘレン。
その穏やかな寝顔を見つめながら、レイは思う。
もっと知ろう、ヘレンの事を。
わたしはもっと、ヘレンが何を思っているのかを、知りたい――――
「……あら、ふたりとも寝ちゃった?
まぁ仕方ないか。レイもヘレンも、今日はすごく疲れたでしょうし。
家に着くまで……ゆっくりお休みなさい」
そして、考えてみよう。これからの事。
わたしがヘレンに、何が出来るのかを、かんがえよう――――