子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ 作:hasegawa
『おめでとう綾波。本当によかった』
受話器から、シンジの優しい声が聞こえている。
『これでヘレンも元気になれるね。おもいっきり外を駆けまわれるようになるよ。
すごいよ綾波。こんな事……きっと他の誰にも出来ない。
綾波だったから、ヘレンは手術を受けられるようになったんだ』
彼の声を聞き、心がぽかぽかと暖かくなっていく。
心からの祝福を受け、少しだけ目がうるっとしてしまう。このぬくもりを噛みしめるように、レイはそっと目を瞑り、ギュッと手を握りしめる。
その受話器の向こうで、シンジは思う。今言った言葉を頭の中で反芻する。
綾波だったから――――そう強く思うのだ。
たとえば、可愛かったから。それが当然だから。
……そんな事だけで、このヘレンという命を守ってやる事は、決して出来はしなかっただろう。
小さいから。弱いから。そうすべきだから――――
そんな理由だけで動けるのならば、誰もがレイと同じ事をすると言うのなら……この世には身勝手な理由で飼い主に捨てられる動物など一匹もいなければ、自ら産んだ子供の育児を放棄する親など存在しなくなる。
そんな理由だけで自分の生活を崩し、多大なリスクを負い、全てをあげるようにして献身的に寄り添う事が出来る人間が、いったいどれ位いるのだろう。
それはレイのような子供ではなく、常識的な大人であればある程、そうだろう。
きっと上手に理由を見つけて「自分には出来ない」と判断し、さっさと誰か別の者に任せてしまうか、見てみぬフリをするだろう。
あまりにも簡単に「仕方ない」と決め、「ごめんね。きっと誰か良い人が拾ってくれるよ。幸せになってね」と、そんな言葉を吐きながら動物を捨てた人間が、この世界にどれほどいる事だろう。
身勝手に命の前から去っていった人間が、どれほどいる事だろう。
幼少の頃に遠い親戚のもとに預けられ、親のぬくもりを知らずに育った自分。
シンジは今のレイの姿を、とても眩しく思う。
見事にヘレンを育て、おかあさんになった大切な友達を、誇らしく思うのだ――――
『それで、相談って何? 綾波、何か悩み事があるの?』
「ええ、碇くん」
暫し思考の中にいたシンジは気を取り直し、改めてレイに要件を訊ねる。
どうやらいつも二人がおこなっている近況報告だけじゃなく、今日は相談事があるようなのだ。
レイは自分なりのペースで、ゆっくりとシンジに話を打ち明けていく。
『そっか、ヘレンが退院したら、か……。
元気になったヘレンに、どんな事をしてあげたら良いか。それを悩んでたんだね』
(こくこく)
電話越しなので(こくこく)はしても意味が無いのだが、そんな事も気にせず二人は話を続けていく。
ヘレンの快気祝い。身体が治ったお祝い。それに想いを馳せていく。
「げんきになったら、いろんな所につれていってあげたい。
おいしい物も、たくさん食べさせてあげたいわ」
『うん、良いと思う。きっとヘレンも喜ぶよ』
「碇くん……ヘレンに料理、つくってくれる?」
『えっ?! ……いや、それはもちろん良いんだけどっ。
でも人間と動物って、食べる物がぜんぜん違うよ?
ぼくの料理って、ヘレン食べられるかな……」
「……だめ? 碇くんの料理、とてもおいしい。
ヘレンにもたべさせてあげたいの」
『う~ん。……よし、分かったよ綾波。今度までに動物用の料理を勉強しとく。
きっとヘレンに、美味しい物を作ってあげるね』
なんてったって、これはヘレンの“はじめてのお祝い“になる。
いままで目が視えなかったヘレンに、沢山の綺麗な景色を見せてあげる事。
そしていままで味覚が無かったヘレンに、たくさん美味しい物を食べさせてあげる事。
それはきっと、なによりの喜びになる。とっても幸せな“はじめて“になる。
だからレイもシンジも、一生懸命うんうんと考える。ヘレンに沢山の素敵なはじめてを、あげられるように。
『あとは、耳だよね。ヘレンは音を聴けるようになるんだから……。
あ、そうだ! ぼくチェロを弾こうか?
あまり人前でやる事もないし、上手かどうかは分からないんだけど。
でもヘレンに“音楽“を聴かせてあげるのって、どうかな?』
「!?」
なんというアイディア! なんという発想!! レイは〈ピシャーン!〉と雷に打たれたように感銘を受ける。
音楽! あぁ音楽! ミュージック! なんて素晴らしい事だろう!
「すごい……やっぱり碇くんはすごい。ネルフのてんさいしょうねん」
『あはは。あんまり期待されたら、ぼくちょっと困っちゃうんだけど……。
でも頑張ってみるよ』
碇くんに相談してみて、本当に良かった。心から感服致したッ!!
レイはふんすふんすとそこはかとなく興奮しながら、彼に心からの賛辞を贈る。
これはきっとヘレンへの、一番のプレゼントになる!
『……あ、そうだ。
ヘレンの入院は明日からで、退院までにしばらく時間がかかるんだよね?』
「? えぇ、赤木博士がそういってたわ」
ふいにシンジが、どこか弾んだ声を出す。
まるで、素敵な思い付きをしたみたいに――――
『なら綾波も、一緒にやらない?
チェロの独奏もいいけど……それだと少し寂しい気がするんだ。
どんな楽器でも構わないし、短いパートだけでも良い。
だから綾波も、一緒に演奏しようよ』
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「ん? あの子なにやってんの? また何か始めたワケ?」
いまアスカがいるリビングでは、二階からの〈ぷぴぃ~♪〉という不思議な音色が聴こえてきている。
「ああ、確かフルートだったかしら? 練習しているのよ」
のほほんと雑誌をめくるリツコの耳にも、先ほどからレイの奏でる〈ぷぴぃ~♪〉という音色が聴こえていて、なにやら微笑ましい気持ちになってくる。
「でぇ? なんでまた楽器なんかを?
そんなモン吹かなくたって、五円玉でもピーピーしてりゃーいいじゃない」
「今度シンジくんと一緒に演奏するんだって。今朝、嬉しそうに話してたわ」
「えっ、バカシンジと?! ……という事は、アイツはチェロか。
……何? ふたりで仲良く
はんっ! バッカじゃないの!? 色気づいてんじゃないわよエロシンジ!!
あのすけこまし!」
「そうじゃないの。
おそらくは、ヘレンが帰ってきたら聴かせてやるつもりなんでしょう。
耳が治ったお祝いに、ね」
「っ!?」
その言葉を聞き、なにやら爪を噛んでブツブツと呟き始めるアスカ。
とても小さな声だったが、「……ここら辺に楽器屋って……」という言葉がリツコの耳に届く。
「あ、アタシちょっと街の方まで出てくるわ!
確かウェットティッシュとかファブリーズ切らしてたわよね?」
「そうね、是非お願いするわ。
……あとついでに、駅前のビルにも寄って来て貰える?
そこの
「もぉ~! しょーがないわねぇーリツコったらぁ~♪ 甘党ぅ~♪
よし! それじゃあ行ってくるわっ!」
なんか満面の笑みでソファーから立ち上がり、イソイソと玄関を出ていくアスカ。
心の声が漏れだしているのか「ばいおりんっ♪ ばいおりんっ♪」と呟きながら、嬉しそうに歩いて行った。
その後ろ姿を見送ってから……リツコはどこか物憂げな表情で、何気なく二階の階段の方を眺める。
「……」
今も二階から、レイの調子っぱずれながらも頑張っているのが感じられる笛の音色が聴こえている。
「あの子……嬉しそうだった……。
本当にこれまで、よく頑張ってきたもの」
憶えている。
あの朝、手術を受けに行く為に車に乗ったヘレンを、いつまでも見送っていたレイの姿を。
遠ざかっていく車に向けて、一生懸命に大きく手を振っていた、レイを。
そしてその後ろ姿を、険しい顔で見守っていたであろう、自分自身の事を。
『ネルフの赤木博士。
もし貴方からで無ければ、これは
あの時、出発の直前。車でヘレンを迎えに来た高名な獣医大学の教授は、苦い顔をしながらボソリとリツコに告げた。
『容体を聞く限りですが、これは極めて治療が困難な、見込みの無い
一応は診てみますが、どうか過度な期待はしないで頂きたい――――』
リツコは言葉なく、黙って頭を下げた。それを見た教授はため息をつき、ダルそうに車に乗り込んでいった。
「今日あたり、検査の結果が出るでしょう。
ま、今の内に、心構えだけでもしておきましょうか……」
あの子の泣き顔、罵倒、怒り――――
それを受け止めてやるのは、レイに一番近しい大人である、自分の役目だ。
それがあの子の為にしてやれる、自分の精一杯の事。
「……あら、もう結果報告のお電話かしら?
つくづく人生は情け容赦ないわね。心の準備もさせてもらえない……」
ふとこの場に意識を戻せば、リビングの電話がうるさい程にリツコを呼んでいる音が、聞こえていた。
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
数時間後。
街での買い物を速攻で済ませ、意気揚々と帰宅して来たアスカが見たのは……なにかリツコが険しい顔で電話をしているらしき、その姿だった。
『――――独断行動だ、赤木博士。いったい何を考えている?』
「……!」
思わず壁を背にして隠れ、アスカはかすかな電話の声に耳を澄ませる。
これは……碇指令の声。リツコの上司たる、ネルフのトップからの電話だ。
『レイにはチルドレンとしての使命、そして計画の為の重要な役目がある。
野生動物になど、構わせている暇は無い』
「ですがっ……! 碇指令っ!」
リツコがらしくもなく声を荒げ、必死に何かを訴えている。だがそれが届くハズも無い。
当然だ。相手はネルフの総責任者。人類を背負って戦う組織の長なのだから。
『その
レイの精神にもし悪影響が出れば、どう責任を取るつもりだ。
――――すぐに引き離せ。レイにそんな物は不要だ』
強い言葉。ハッキリとした声が、アスカの耳にも届く。
聞く耳を持たぬという断定の言葉が、静かに辺りに響いた。
「しかし……! 今のレイには、あの子が必要なんです!
あの子と出会ってから、レイの心には目覚ましい変化がっ!
私が責任を持って監督します……。ですので碇指令、どうかっ……!」
悲痛な声で、リツコが喰らい付く。必死にあの子達を守ろうとしている事が、アスカにもひしひしと感じられる。
『不要だ――――レイはただ、我々に従順であれば良い。
変化は望まん』
だがその言葉によって、リツコの身体は凍り付く。
『例の獣医大学の教授には、そのまま
――――もう君は何もするな。話は以上だ』
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「――――ッッ!!!!」
バイオリンを、ベッドに叩きつける。
今しがた大切に抱え、ウキウキしながら持って帰ったハズのそれを、感情のままに。
「……ハァ! ……ハァ! ……ハァ!」
息を乱し、自室のドアに力なく背中を預ける。やがてアスカは、そのままペタリと床に腰を下ろす。
「治療も不可能……? 引き離す……?
あの子を…………処分……?」
整理が追いつかない。頭の中がクシャグシャで、何も考えられない。
……けれど、ひとつだけ分かっている事がある。
ヘレンはもう、二度と帰ってはこない――――
その事実だけが、グルグルと頭を周る。
「……ッッ!! ……くッ!!」
吐き気がする――――目の前が白に染まる――――
視界はボヤけ、頭が重く、まるで誰かに揺らされているかのように、平衡感覚を失っていく。
そのままもう、床に倒れ込んでしまうかと、思った。
「――――ッッ!?」
けれど……突然アスカは身体を起こし、目を見開いて自室の壁の方を向く。
薄い壁。たった今、かすかに聞こえてきた
「……あんのっ……バカファーストォーーッッ!!!!」
飛び出すようにして、部屋から出る。ワケが分からないままの頭で廊下を走る。
そのままアスカは、怒りにまかせてレイの部屋のドアを、開け放った。
………………………………………………
「……っ!」
ドアが壊れる程の大きな音。
それに驚いたレイが、身を固くして扉の方を見る。
手にしたフルートを、思わずギュッと抱きしめたまま。
「……へぇ~。流石よねぇファースト……。
今朝までロクに吹けなかったのに、もう綺麗な音が出せるようになってる……。
あんたヘレンの為だったら、なんでも出来ちゃうってわけぇ?」
そこには、憤怒の表情を浮かべてこちらを睨みつける、アスカの姿。
やがて驚いているレイを余所に、アスカがズカズカと部屋に押し入り、突然レイの手からフルートを取り上げる。
「っ!? なにをするのっ……」
「 ――――うるさいっっ!!!! こんなモン吹いたって、何の意味もないのよッ!! 」
壁に叩きつけられたフルートが、聞くに堪えない音をたてて、床に転がる。
怒りより、疑問より、レイは信じられないという想いで、アスカの顔を見る。
いままで沢山支えてくれたこの人が、こんな事をするハズが無いと。
「 帰ってこないっっ!! もうヘレンは帰ってこないのよっっ!!
身体は治らない! 手術も出来ない! もう二度と会えないのッ!!!! 」
とても高い、乾いた音が鳴る。
力いっぱい振り抜いたアスカの手のひらが、レイの頬を強く打ち付けた。
「 ――――行きなさいよファーストッ!!!!
さっさとリツコ問いただして、ヘレンのトコに行きなさいッ!!
なにグズグズしてんのよッッ!!!! 」
大粒の涙を流し、グシャグシャになったアスカの顔。
それを見た瞬間、レイは跳ねるように部屋を飛び出した。
……………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「休憩かね、初号機のパイロット」
「あっ、冬月副指令」
自動販売機が沢山並ぶ、ネルフの休憩所。
そこでひとり水分補給をしていたシンジに、冬月が声をかけた。
「はい、これから訓練なので、何か飲んでおこうと思って」
「そうか、いつもご苦労だな。
君のその努力と献身に、私を含めた数多くの人間が救われている。
もっとも大人としては、少々情けない気もするが」
「いえっ、そんな。自分で決めた事ですから」
柔らかく微笑む冬月。このように会話をする事はとても稀だったので、シンジはどこか恐縮しながら、それを誤魔化すようにジュースに口を付ける。
「時に、少年よ?
これから訓練だと言うが……すまないが少し時間を貰えるかね?」
「時間……ですか? ぼくは構わないですけど、どうしたんですか?」
キョトンとした顔のシンジ。コテンと首を傾げる愛嬌のある姿に、冬月が軽く苦笑する。
「いやなに、少し君に伝えておきたい事があってな。
これを聞いてどうするかは、全て君の自由だ。
少年…………いや、碇シンジよ」
………………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
潮時――――
その言葉が今、幾度もリツコの頭の中を巡っている。
これは碇指令の命令、の事だけじゃない。
数時間前に受けとった、獣医大学からの連絡を聞いての事でもあった。
『精密検査の結果、この患畜には
残念ながら、我々に出来る事は、ありません』
システムキッチンのコンロ台。その換気扇の前で、リツコは疲れた顔で静かにタバコを吹かす。
『今日の朝、患畜が発作を起こしました。
まるで見えない敵と戦うように暴れ、脳挫傷から来る痛みに苦しんでいました。
……これは一度きりの事では無く、患畜はここに来てから、
何度も発作を繰り返しています。
残念ですが……おそらくはもう、数日の内かと』
『正直、驚きましたよ赤木博士……。
ここに来るまでにも、患畜は何度も発作に襲われていたハズだ。
そしてその度に、狂ったように激しく暴れ回っていたハズですよ?
……そんな我々でも手を焼くような患畜の世話を、
本当にまだ中学生の子がやっていたんですか?
少々信じられない気持ちですよ……』
『とにかく、お伝えした通り、この患畜の治療は"不可能"と判断しました。
加えてこの患畜の余命は、もうあと数日といった所でしょう』
『流石にその子も、
ですので非常に珍しい個体ですし、こちらとしてはこのまま引き取っても良いと、
そう考えています。
サンプル、といっては何なのですが……この個体を研究する事は、
今後の獣医学の更なる発展に……』
こちらが科学者だと知っての事なのか、もうズケズケとデリカシーの無い言葉を、嫌と言うほどぶつけられた。
もう何度、衝動的に受話器を叩きつけて切りそうになった事か。
私が激昂しそうになる心を押さえ、必死に歯を食いしばっていた音は、どうやら受話器の向こうまでは聞こえていなかったようだ。リツコはそう苦笑する。
「終わりね。完全に。
たとえ指令の命令が無かったとしても……ヘレンを戻らせる事は出来ない。
私たちにあの子の命は、あまりにも重かった。
こんなの、最初から分っていたハズなのに……」
いつもそう。
分かっているのに、こうして取り返しの付かない失敗をし、後悔をする。それを繰り返す。
そして自分は後悔の念に身を焼かれ、これから正に、その断罪を受けるのだ。
他ならぬ、この子の手によって――――
「レイ、階段を走っては駄目よ?
もし怪我でもしてエヴァに乗れなくなったら、貴方どうするつもり?」
「――――っ」
気だるい仕草でたばこをもみ消して、後ろを振り向く。そこには思っていた通り、レイの姿がある。
大きく肩で息をし、まるで縋りつくような目で私を見つめている、レイが。
「赤木……はかせ。……ヘレンは……?」
「あぁ、伝えるのを忘れていたわ。ごめんなさいね。
……さっき獣医大学から連絡があってね?
検査の結果、ヘレンが治る見込みは無いのだそうよ。
だから、そのまま引き取ってもらう事にしたわ。
……もういいでしょうレイ?
満足したでしょう?」
まるで別人のように、昨日までの優しい顔が嘘だったかのように、リツコが冷たい声で告げる。
まるでこれがなんでもない、つまらない事かのように。
「……なおら、ない……?
でもはかせ、手術をすればって……。
そうすればヘレン……げんきになるって……」
「可能性はゼロじゃない、という話だったでしょうに。
何度も言っているけど、貴方は人の話をちゃんと聞いているの?
随分と都合のいい耳をしているのね。……これは話をしても無駄かしら?」
気だるそうにそっぽを向き、リツコがこの場を立ち去ろうとする。その途端、レイが飛びつくようにしてリツコの白衣を掴む。
「 ……うそつきっ! 赤木はかせのうそつきっ!! 」
その顔は、見られない。
けれどリツコには、今ハッキリとレイが涙を流している事が分かる。
「なんのために、ヘレンは体力をつけたの……?!
においも味もしないミルクを飲んで……肉もたべさせられてっ……!
手術をすれば、治るって……だからヘレンはっ、あんなにがんばってっ……!」
身体を揺らされる。
レイのそれは決して強い力ではないが、いま必死にリツコに縋りつき、あらん限りの声を振り絞っている事を感じる。
リツコはそれから、目を逸らす事しか出来ない。
「手術をしても、良くなる見込みが無いの。治らないのよ。
……だから、獣医大学の附属病院に引き取ってもらう。
私達のような素人じゃなく、ちゃんと専門の人達にね」
「……なぜ? ここにいればいい……!
治らないのなら、わたしたちといっしょに……」
「――――貴方に何が出来るのッ!!!!」
「……っ!」
目を見開き、強い声でレイの言葉を遮る。
何も出来ない子供に対し、大人の強い言葉を暴力のように、その胸に突き刺す―――
「言ってごらんなさい、何が出来るの。
ここにいて! 貴方のような子供が傍にいて! それでどうなるの!!」
「……っ」
「レイ、入院でも安楽死でもなく、
ヘレンがここに戻ったら、いったいどうなるのか……教えてあげましょうか?
……あの子はね?
苦しんで、苦しんで……あの子がだんだん弱っていく姿を見ながら、
それでも何もしてあげられない……。どうにも出来ない……。
――――その辛さが分かる?! 貴方に想像出来る?!」
この子のこんな顔……今まで見た事が無い。可哀想な位に、震えてしまっている。
私のこんな顔……見せた事がない。こんなにも純粋で良い子に、こんな顔をして……。
「……諦めなさいレイ。私達にあの子は重すぎた。
こうするのが、一番良い事なの。……言う事を聞きなさい」
酷い。もう目も当てられない位に、酷い――――
これも私が、判断を誤ったから。あの時決断する事が、出来なかったから。
せめて、恨んで。
私を恨んで頂戴、レイ。
眼に滲む涙を見せるのは、卑怯だと。それは決してしてはならない事だとレイから顔を背け、リツコはこの場を去ろうとする。
いま白衣にかかっているレイの手を外そうと、そっと手を添えた。
しかし……。
「……ヘレンは、ミルクをじょうずに飲める。飲めるの……」
まるで呟くようなレイの言葉が、リツコの耳に届く。
「……肉だって、ちゃんとたべられる。……おさんぽだって、上手にできるの……」
その声に、思わずリツコが、レイの方を向く。その顔を見つめる。
「…………できないって、ヘレンには無理だって……いわれてた。
はかせは言いました……。この子には何もできないって。しかたないって……。
でもヘレンは……ちゃんと出来るように、なったでしょう…………?」
大きな瞳から、涙がこぼれていく。
感情表現が下手な、とても薄い表情……。
それでもこの子が今、懸命に自分の気持ちを、伝えようとしている――――
「できない事より……できる事のほうが、おおいです……。
ヘレンは、とてもすごい子です……とてもすごいんです、はかせ……。
びょうきだって…………きっときっと、治ります……」
今にも消えてしまいそうな、震える声で。
「だから……そばにいさせてください……。
ヘレンのそばに、いさせてください。
いっしょにいたい……です。はかせ――――」
………………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「――――何の用だ、シンジ」
巨大な窓と、広い空間。そこに大きなデスクがあるだけの、指令室。
碇ゲンドウの部屋。
「呼んだ憶えはない。何をしに来た、ジンジ」
その他人を拒んでいるような、威圧的な雰囲気が漂う部屋に、今まっすぐに父の顔を見つめるシンジの姿がある。
「冬月……どういうつもりだ」
そしてその後ろには、まるでシンジの決意を支えるようにして、薄く笑顔を浮かべる冬月が付き添っている。
「いやなに、少年が自らの殻を破り、今まさに一人の男になろうとしている。
それを後押ししてやりたいと願うのは……大人として至極当然の事だろう。
お前は違うのか、碇?」
「貴様……」
また軽く苦笑してから、冬月はそっと後ろに下がる。
碇シンジに、出番を告げるようにして。
「父さん――――」
……………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「○○獣医大学よ……。行って来なさい――――」
ふうとため息をつき、そっぽを向いたリツコが、静かにそう告げる。
「私は今から、もうネルフだの獣医だのと沢山交渉しなくてはいけないの。
……誰かさんのおかげで忙しくなるから、付き合ってあげられないわ。
バスでもタクシーでも使って、早く行ってらっしゃい」
リツコが白衣のポケットからサイフを取り出し、ぽけっとした顔のレイに握らせる。
「レイ、後悔しないわね?
貴方が今から迎えにいくのは、"命"よ。
その重み……しっかり受け止められるわね?」
リツコのサイフをしっかり胸に抱き、レイはもうパタパタと家から飛び出した。
「……バスっ! バス停に……!」
急いで家の前に停めてあった自転車に鍵を差し込み、「~っ!」と勢い良く乗り込む。
前カゴには、いつもヘレンを乗せる為に敷いているモコモコしたタオルがある。愛らしいデザインのそれを見て、なお一層ヘレンへの想いが募る。
すぐにヘレンのもとに向かわなければ!
「――――はいよ、おまっとさんだレイ君!
さぁ乗って。ちゃんとシートベルトを締めるんだぞ?」
「っ! 加持、さん……?」
そこに突然現れたのは、スポーツカーに乗った、ニヒルな無精ひげのお兄さん。
レイはあまり話した事はないけれど、たしか赤木博士や碇くんと仲が良かった気がする。葛城三佐とはいつも喧嘩ばかりしているみたいだけど……。
「お客さんどこまで? ……と聞くまでも無いな。
今から例の獣医大学まで飛ばすから、着くまでのんびりしててくれ。
あ、ドリンクホルダーに飲み物があるぞ? ガムは食うか?」
「加持さん……どうして……?」
「なぁに、さっき葛木から連絡が来てね?
こうして馳せ参じたってワケさ。ナイトの真似事だな」
レイは目をまんまるにしながらも、言われるままに助手席に乗り込んで、しっかりシートベルトをする。大変素直な子なのだ。
「まぁ礼を言うなら葛木……いやシンジくんか。
親父さんを説得し、俺に連絡するようアイツに頼んだ、シンジくんに言うと良い」
そう告げた途端、加持が勢いよく車を発進させる。一気にアクセルを踏み込む。
レイの身体はギューッとシートに押し付けられ、思わず上にある持ち手にしがみつく。かなり必死に。
「いいボーイフレンドじゃないか、レイ君!
料理が出来て、気も利いて、その上男気もある。
おまけにエヴァのパイロットで、甘いマスクときた!
今からしっかり捕まえておけよ? きっと損は無いぞ!」
………………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
なぜか全部UCCコーヒーという不思議な自販機が並ぶ、ネルフの休憩所。
「お疲れ様、シンジくん。……緊張した?」
「あはは……。はい、ちょっとだけ」
ケータイをポケットに仕舞いながら、ミサトがシンジのいる休憩所に戻ってくる。
なにやら気疲れしてグッタリしているシンジに、缶コーヒーを手渡して労ってやる。
「冬月副指令がすごく褒めてたわよ? 『久しぶりに良い物を見た』って。
……なぜかあたしも褒められたのよね……。シンジくんの保護者として」
「そうなんですか? ミサトさんが褒められるのは、ぼくも嬉しいですけど……。
それにしても、ちょっと驚きました。
冬月副指令って、綾波やぼくらの事、すごく気にかけてくれてたんですね」
「そうね。あの方はとても尊敬出来る人よ。職員の中にもファンが多いの。
まぁ今回に限って言えば……副指令がヘレンのファンだった可能性もあるけど……」
「?」
ミサトはシンジに聞こえない位の声で、ボソッと呟く。
これはシンちゃんは知らなくても良い事だ。うん。
「とりあえず、色々と大丈夫だった? 仮にも指令に担架を切っちゃったワケだし。
もし何かあるようなら、あたしも出来る限りフォローするわよん?
シンちゃんの為だもの♪」
「あ、大丈夫は大丈夫なんですけど……。
でもお願いを聞いてもらう代わりに、ちょっと言われた事があって」
「ん、言われた事? 何かの命令?」
はてな? と首を傾げ、ミサトが続きを促す。
シンジはどこか困ったような、戸惑っているような、そんな不思議な顔をしている。
「なんか父さん、『ならばお前が面倒を見て来い』って……。
綾波とヘレンをサポートしに、お前も北海道へ行けって」
「は?」
「父さん、怒ったのかな? しばらく僕の顔は見たくないって事なのかな?
ここにはマリさんもカオルくんもいるし、ぼくは全然いいんですけど……」
可愛く「はてな?」と首を傾げるシンジくん。それに対して固まっているミサトさん。
碇指令……それ罰でも何でもないです。
めんどくさい大人の分かりづらい優しさに、ヒクヒクと苦笑いのミサトだった。
……………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「ん、どうしたのかなお嬢ちゃん? 誰か探してるの?
……え、ヘレン? そんな留学生いたかなぁ~」
「教授ぅ? いや、ここ教授は沢山いっけども。
何学部の教授か分かっか? どんなヤツ? ……なにぃ! きつね泥棒ぅ?!」
「ちょ、ちょっと君ぃ! 勝手に入って来ちゃ駄目だってぇ!
君まだ子供でしょ? ここは獣医大学……って、ちょっとちょっとぉーー!!」
「おい! 子供が紛れ込んでるぞ! 追えーっ!」
「あぁっ! 牛舎から牛が逃げたぞぉーー!」
「……っ! ……っ!!」
走る。ただひたすらに走る――――
獣医大学のカレッジに乗り込んだレイは、必死に建物の中を走り回る。
まぁ、たまに関係ない所にも行ってしまっているが。
「誰だ! 七面鳥を解き放ったのは! 廊下が鳥だらけだ!」
「マウスがっ!? 実験用のマウスがぁぁーーーっ!! 大行進ですぅぅーーー!!」
「犬達を鳴き止ませろっ! 落ち着かせるんだ!
おーよちよち! おー♪ 可愛いですねぇ~~♪」ワシャワシャ
「出入り口を塞げ! 封鎖しろぉー!! 急げぇぇえええーーーッ!!」
「待って私のPちゃん! かむばっく! 戻ってきてぇぇーーっ!!」
「……っ! ……っ!!」
なんかもう大騒ぎになっているけど……とにかくレイは必死に走る。
目につく限りの扉を開け、そこら中の部屋に入り、ヘレンを探す。
事務員さんや生徒さん達に追いかけらながら、隠れたりしながら、時に動物たちを引き連れて大行進したりしながら、パタパタと校舎を駆けていく。
「……どこ? どこなのヘレンっ……! どこっ……?!」
こんな広い建物で、右も左も分からず、ひとりぼっち……。
あまりの心細さに、涙がじわりと滲んでくる。心が潰れそうになる……。
それでも必死に勇気を出して、まるでお守りのようにリツコのサイフをギュッと抱きしめながら、レイは一生懸命に廊下を駆けて行く。
ただひたすら、大好きなあの子の姿を求めて。
………………………………………
………………………………………………………………………………………………
「……見て分かる通り…………極めて重篤な…………広範囲に渡り……」
レントゲン写真を前に、教授の男が静かな声で講義を行っている。
「……脳挫傷、及び外傷性の…………このような例は………極めて……」
その説明を聞き、目の前の見た事も無い症状のレントゲン写真を見て、思わず生徒たちが声を漏らす。
「なんだこれ……何で今まで生きてられたんだ……?」
「ひどい……こんなのって……」
「五感のうちの四つって……マジかよ」
「外傷性……事故で? 言っちゃなんだけど、そのまま死んでた方が……」
薄暗い教室に、生徒たちのざわめきが響く。
教授はそれも当然の事と、構わず症状の説明を行い、講義を進めていく。
少し離れた場所にある長机……そこに置いたケージの中で眠っている子ぎつねの方を、ちらりと一瞥して。
「――――」
教授、そして生徒たちは気付かない。いま静かに教室のドアを開け、中に入ってきた少女の事に。
「世界的に見ても例が無く、おそらくこの患畜の余命は…………ん?」
今、レントゲン写真を指差し講義をしていた教授が振り向くと、そこには音も無くその場に立っている、レイの姿があった。
「君は、赤木博士の所の……」
数日前の朝、子ぎつねを迎えにいった時に見た、あの儚げな雰囲気の少女。
いま静かに己の目の前に立たっているその少女を、教授の男は目を見開いて見つめる。
「ヘレンを……かえして――――」
小さく震える、今にも泣きそうな声。
そのあまりにも純粋な瞳に見つめられ、教授の男は言葉を失う。
「いったの、まもるって。
いっしょにいるって……やくそくしたの。
ずっと、そばにいるって……」
男は、何も言えずにいる。それはこの場の生徒たちも同じ。
けして動く事が、出来ずにいる。まるで時が止まったかのように。
「ヘレンを、かえしてください。
いっしょに、いさせてください……。
……わたし、もっとがんばる。がんばるから……」
ポタリと、涙の雫が落ちた。
大きな瞳から、沢山の涙がこぼれた。
その光景の前に、この場の者達はただ立ちすくむばかり。
しかし……そんな静かな時間が、突然出入り口から響いた声によって壊される。
「オイいたぞ、あの子だ! 捕まえろ!!」
「待てっ! 動くんじゃない!!」
即座に教室に押し入り、レイを取り押さえる男達。
レイは髪を振り乱し、涙を流しながら必死に抵抗する。けれど、とても大人達の力には敵わない。
「何をしている! やめないかっ! そんな子供にっ!」
「教授っ?! し、しかし……!」
生徒も事務員も入り乱れ、この場はもう取っ組み合いの様相。
その子を離せとばかりにしがみ付いてくる生徒達に、事務員たちはもうどうしていいのか分からず困惑するばかり。
「ヘレン! ヘレンをかえしてっ! ヘレンっ!」
両腕を押さえられながらも、必死に抵抗するレイ。泣きながら懇願するその声は、大人達の声にかき消されていく。
けれど――――突然その場に響いた"鳴き声"に、この場にいた全ての者が、動きを止めた。
……しばしの沈黙が、辺りを包み込んだ。
この場にいる誰もが手を止めて振り向き……そこにあるケージの方を見た。
「――――母親を、呼ぶ時の声だ……」
ボソリと、生徒の一人が呟く。
「教授っ、鳴きましたっ! あの子鳴きましたよ?!」
「ありえないっ……!」
またひとり、またひとりと、生徒たちが声を上げる。
教授はただその場に立ち尽くし、放心したように子ぎつねを見ている。
「ヘレン……?」
そんな中で、ただ一人……。
今もおかあさんを呼ぶ声を上げている子ぎつねの方へと、ゆっくりと歩いて行く少女。
「ヘレン、わかるの……?
わたしのことが……わかる……?」
………………………………………………
やがて、その場の者達が見守る中……レイがヘレンのもとに辿り着き、そっと身体を抱き上げる。
「ごめんなさい、ヘレン。……さびしかった?」
優しい顔。
慈しむような、優しい仕草。
「いいの。そのままのヘレンで、いい……。
ヘレンがいっしょにいてくれれば…………いい」
その存在、命をも包み込むようにして。
今、しっかりとヘレンを、抱きしめる。
「ヘレン、おかあさんよ。
おかあさん、きたわ――――」
レイの頬を伝う、暖かい涙。
それが今、安心したように眠るヘレンのほっぺに、ポトリと落ちた。