子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ 作:hasegawa
モコモコした柔らかいタオルの上に、ヘレンを乗せる。
自転車の前かご。痛くないように、居心地が良いようにと敷き詰められたタオルに包まれたヘレンが、可愛らしい顔でレイの顔を見ている。
それに微笑みを返し、優しく頭をひと撫でしてから……レイは自転車に乗り込み、そっとペダルをこぎ始める。
いつものコテージを後にし、柔らかなカーブを描く森林の中の道を、ゆっくりと進んで行く。
「――――」
澄んだ空気。森林の匂い。気持ちの良い風。
暖かく照らす、おひさまの光。その眩しさに目を細める。
やがて二人を乗せた自転車は森林を抜け、大きな一本道に出る。その途端に一気に視界が開けた。
遠くに見える山々。どこまでも広がる透き通った青空。フワフワと浮かぶ大きな雲。
柔らかな陽気が照らす、北海道の美しい景色。
この見渡す限りの草原に囲まれた、長い長い道は、海へと続いている。
「ほらヘレン、海が見えてきたわ」
景色を楽しみながら。自転車は進んでいく。
遠くに見える海を目指し、穏やかな坂道を、下っていく。
「空、光、風……」
身体中で世界を感じながら……そのひとつひとつを、言葉にする。
ゆっくりと、優しく。
この子に教えてやるように。
「海――――」
ふたりで、同じ方を向いて。
どこまでも進んで行く。
…………………
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その後の話をしよう。
あの獣医大学から連れ帰ってきた日。それ以降ヘレンの病状は、日に日に悪くなっていった。
目や耳か効かない事からの癇癪ではなく、レイの目から見ても明らかな"発作"だと分かる症状。それが日を追うごとに増えていったのだった。
ある日ヘレンは、
いつものようにリラックスした状態で、四本の脚を投げ出してお昼寝をしていたヘレンは、目を覚まして起き上がろうとしても、ただ床の上でジタバタともがく事しか出来なかった。
横に寝そべった状態から、まっすぐ身体を起こして、立ち上がる。
その極自然な当たり前の動作が、ヘレンには出来なくなった。
目を覚ました途端に「ここがどこだか分からない、自分がどうなっているのか分からない」、そんな風に床の上で暴れ出す。
起き上がれない、何も分からないという恐怖に抗うように暴れ、そこら中にある物に噛みついていった。
まわりに噛む物が何も見当たらなかった時は、さらに大変だった。左右に頭を振りまわし、その場でバタバタと周りながら、もう必死に攻撃の出来る対象を探した。
空振りをし、なにもない空間にガチリと噛みついてしまえば、そこからパニックに陥った。
もう手あたり次第というように、次々に何も無い空間へと噛みつき、ひたすらに暴れ続ける。
壁や檻に突進し、そこで頭や鼻にぶつかった物に、なんでも噛みついていった。
これは明らかに、ただ「起き上がるのを誰かに邪魔されたと思い込んで怒っている」……というような物では無い。
脳や神経の一部に問題があり、それによって引き起こされている"発作"だ。
その様は以前とは比べ物にならない程に、常軌を逸していた。
その日以降、ヘレンのこういった発作は、何度も出るようになる。
日に3度も4度も発作が起こり、その度にヘレンはそこら中の物に狂ったように噛みつき、突進しては頭をぶつけていった。
そうしている内に、ヘレンは口から血を出すようになった。
興奮して何度も見えない物に噛みついていく内に、自分の舌を噛んでしまうのだ。
もう発作を起こす度に、ヘレンが口から血を出してしまうのが、当たり前になった。
その為に家の者達は、いつも脱脂綿を巻き付けた割り箸を、傍に置いておくようになった。
ヘレンが発作を起こす度に、それをいち早く口の中に入れてやり、噛ませてやる。口の中を怪我しないようにしてやる。
そうでもしなければ、もうどうしようもない状態になっていた。
レイは、身体中にたくさん傷を作った。
これは発作を起こしたヘレンが、無意識に噛んでしまって出来た物だった。
ぐっと足を伸ばし、身体を弓のように曲げながら、ヘレンが時々襲ってくる小さな発作の痛みに、ただじっと耐える姿も見られた。
ヘレンの病状は、間違いなく脳に異常がある事を告げている。
あの教授が告げた精密検査の結果を、ハッキリと証明していくようにして。
ヘレンの状態は、日に日に悪化していった――――
「ヘレン、これはタンポポ。タンポポの花」
しかし、たとえどんなに激しい発作でも、耐えがたい痛みに襲われても。
ヘレンはこうしてレイの腕に抱かれ、そして優しく揺らされると、穏やかさを取り戻した。
たとえそれが一時的な物にせよ……ヘレンはいつも安心したように身を任せ、子ぎつねらしい愛らしい表情を浮かべて、レイの胸で眠るのだ。
「タンポポは、花がおわると、フワフワの羽でせかいじゅうを旅するの」
辺り一面に咲く、広大なタンポポ畑。今レイとヘレンは、その中にいる。
黄色と白の綺麗な花に囲まれた、美しい景色。胸いっぱいに広がる、緑と花の匂い。
それを感じながら、レイは今も穏やかに眠るヘレンを膝に乗せ、そっと語り掛ける。
花の名前、木の名前。この世界に溢れる沢山の名前をヘレンに教えてやりながら、レイは静かにその瞳を閉じた。
「きれいね、ヘレン。
ここは、とてもきれい――――」
何気なくタンポポの花を手に取り、そっと息を吹く。
沢山の白い羽が舞い上がり、風にのって空に飛んでいった。
……………………………………………………………………
三日、四日と、日々は流れていく。
レイは一日中ヘレンに寄り添い、ヘレンと共に過ごした。
あの獣医大学の件の、次の日。シンジが自分達の住む北海道へと来てくれた。
そのおかげでレイは任務に手を煩わされる事無く、全ての時間をヘレンの為に使えるようになった。
彼はそれに加え、リツコと共に家事全般を請け負ってくれた。
レイを元気づけるように、毎日の食事がとても華やかな物になった。美味しいごはんがすごく嬉しかった。
そして、いつもレイを気にかけてくれた。
時に眠る事なくヘレンの傍に付き添うレイの為に、夜食を用意してくれた。仮眠を取っている間、ヘレンの面倒を見ていてくれた。
いつも体調を気遣い、その心を支え、優しく寄り添ってくれた。
そんなシンジに深く感謝しながら、レイはヘレンの為に力を尽くしていく。
薬は、次第に効かなくなっていった。
ヘレンが酷い発作を起こした時に、リツコが安定剤を注射して症状を落ち着かせてくれるのだが、それも効果が薄くなっていった。
痛みに耐えて苦しむヘレンの姿を見て、歯を食いしばっているアスカの姿も見られた。
「安楽死は無しよ、リツコ」
発作の後、力なく横渡るヘレン。日に日にやつれていくレイ。
そんな彼女たちを見て苦悩するリツコに、アスカは告げる。
「ヘレン、もうすぐたくさんの花が咲くわ。
夏になったら、もっとたくさんの花が咲くの」
近頃のヘレンは、ずっとレイの膝の上にいるか、その腕の中にいる事が多くなった。
そうしていれば、ヘレンは穏やかでいられた。たとえ発作の痛みに苛まれようとも、レイの存在を感じて安心する事が出来た。
症状が落ち着いている時……レイはよくこうして、散歩に出かけている。
ヘレンを連れて、高原や砂丘やタンポポ畑に出掛け、二人でのんびりと景色を眺める。
風、光、花の匂い。身体中で世界を感じる。
誰にも邪魔されず、静かに。ゆっくりとした時間を、二人で過ごす。
「たのしみね、ヘレン。……きっとキレイ。
そしたらまたお弁当をもって、ピクニックにいくの」
優しく語り掛けながら、レイはヘレンを抱き上げ、この子の耳の後ろや、首の後ろをちょこんと摘まむ。
するとヘレンは仰向けになって、機嫌よく前足と後ろ脚をパタパタと動かす。
症状が落ち着いている時、よくレイはこうしてヘレンと遊ぶ。
こうして触れる事で、ヘレンとちょっとした会話をする事が出来た。気持ちを交わす事が出来るのだ。
楽しそうにパタパタと動いている足を、軽く握ったり離したりしてやる。
するとそれに合わせて、ヘレンがまた足を動かす。
パタパタ。にぎにぎ。パタパタ、にぎにぎ。そうやって二人でじゃれて遊ぶ。
たまにヘレンがあぐあぐと口を開けるので、そっと指を中に入れてやる。
するとヘレンはそれを軽く噛みながら、ふりふりと楽しそうに首を振る。
ちゃんと弱い力でしてくれるので、指の方はぜんぜん痛くない。
赤ちゃんが哺乳瓶を咥える感じで甘えているので、むしろペロペロとくすぐったい心地だ。
まぁだんだんヘレンが楽しくなってくると、ちょっとずつ噛む力が強くなっていったりもするけれど……、おおむね問題はない。どんとこいだ。
たとえやってる内に興奮してきても、いつもこうやってゆらゆら優しく揺らされると、ヘレンは今までの興奮を忘れたように、すぐに落ち着いた。
そしておかあさんの胸で甘えるように、安心してスヤスヤと眠るのだ。
ヘレンとレイにとって。
こんな風にして二人で過ごす時間が、一番幸せな時だった――――
「ピクニック、いこうね。
たくさんキレイな花を、ヘレンにみせてあげる。
夏に、なったら……」
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ヘレンの愛らしかった顔は、次第に失われていった。
ある日の深夜。発作に襲われて苦しむヘレンの顔を見て、レイははっと息を止める。
恐ろしい顔だった――――
額には何重もの皺が寄り、まん丸だった愛らしい目は、後ろに引っ張られるように細く尖っていた。
唸り声をあげて、歯をむき出しにし、その唇は耳の方に大きく引き寄せられている。
そして身体はブルブルと震え、時折歯がカチカチと音を鳴らしている。
痛みと苦しみと、恐怖。
それに必死に抗うように、近づく物があれば噛み殺すと言わんばかりに、ただじっと構えていた。
「ヘレン、痛いの?! どこなのっ? どこが痛いのっ?!」
レイの胸に抱かれて優しく揺らされているヘレンを覗き込み、アスカが涙ながらに声を掛ける。
そして慈しむようにして、あちこちをさすってやる。
そうされた事で、ヘレンの表情が穏やかな物に変わっていく。
身体中の緊張が抜けて、愛らしい元の子ぎつねの顔に戻ていった。
レイの腕の中、ぐったりと力なく抱かれるヘレンが……とても小さくフリフリと尻尾を動かす。
キツネという動物の感情。"嬉しい"という気持ち……。
それをレイ達に伝えようとするように。
しかしその安らぎも、10分と続かなかった。
すぐさま次の発作がヘレンを襲い、その耐えがたい苦しみによって、その表情は恐ろしい物へと変わる。
見ていられない程の、痛ましい姿だった。
「綾波、少し眠らないと駄目だ。綾波が倒れちゃう。
ぼくが代わるから、今日はもうベッドに入りな?」
イヤイヤと首を振るレイの手を握り、しっかりと目を見つめて、シンジが言い聞かせる。
君まで倒れたら、ヘレンはどうなるのさ? いつもそう優しく説いて、寝かしつけてやった。
「 ――――なんでよっ! あんまりよこんなのっ!
ヘレンがいったい何したって言うのよッ!! 」
リツコの白衣を掴み、アスカは問い詰める。
八つ当たりなのは、分かってる。……でもそうせずにはいられなかった。
「 誰よやったのは!! ……人間なんでしょ?!
誰がヘレンを撥ねたの! 誰がこんな風にしたのよッ!! 」
縋りつくようにして声をあげ、アスカが涙を流す。
「……なんでっ……なんでよっ……。
なんでこの子がっ! …………こんなっ……!」
崩れ落ちるように、アスカの力が抜けていく。
リツコはただ、こうしてその身体を抱きしめてやる事しか、出来ずにいた。
今もレイに見守られながら、静かな寝息を立てるヘレン。
いつも発作の後、ヘレンはこうして死んだように眠った。
疲れ果て、まるで全ての力を使い果たしたみたいに、力なく身体を横たえていた。
さっきまでの顔が、まるで嘘だったみたいに、穏やかな顔――――
ヘレンにこの優しい時間が、いつまでも続きますように。
そうレイは、神様に祈った。
………………………
………………………………………………
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「あぁ! それならあそこが良いよ! いま画像を送るねっ!」
受話器から、マリの元気な声が聞こえている。
窓からお日様の光が差し込む、早朝。
ある日の朝、遠く第三新東京市にいる彼女が、レイに電話をかけてきてくれたのだ。
「えっとね? この前そっちに行った時に、見つけた場所なんだけどね?
そこがも~凄いのっ! 楽園って感じだった!
きっと気に入ると思うよ♪」
やがてお礼を言って電話を終えた後……、レイは書斎にあるパソコンを起動し、マリから貰った一通のメールを確認する。
そこには彼女が言っていた場所の所載な地図と行き方が書いてあり、そしてマリが撮ったであろう、一枚の写真の画像が送付されていた。
「……っ!」
その写真の画像を見た途端、レイは目を見開く。
ここだ――――
レイが頭に思い描いていた場所……そのままの風景が、そこにあったのだ。
暫くの間レイはポ~っとし、画像の風景を見つめていた。
やがてレイは胸元で手をギュッと握り、「うん」と確認するように、強く頷く。
しかし、その時……
「――――綾波っ! ヘレンがっ! 早くリビングに!!」
シンジの緊迫した声を聞いた途端、レイは飛び出すように部屋を出ていった。
……………………………………………………………
「綾波っ、こっちだ! ……ヘレンがっ!」
階段を下り、リビングに駆け込むと、リビングの惨状が目に入る。
床には沢山の小物、そして沢山の綿が散乱している。
……それはヘレンがいつも抱き枕にして一緒に眠っていた人形、その喰い破られた中身である事が分かった。
シンジの声を頼りに近寄ってみると、そこには狂ったようにその場で跳ねまわるヘレンの姿。
暴れる、というよりも、この上ない痛みにもがき苦しんでいるように思えた。
「……ヘレン」
その顔は、まるで以前TVで観た"夜叉"のようだった。
誰よりも愛らしかったヘレンの顔が、恐怖を感じてしまう程の恐ろしい顔に変貌していた。
これまでに無い程、もうとても見るに堪えない程の……酷い姿。
ヘレンが己に迫ってくる逃れられない運命に対し、心から怒っているような……そんな悲しい光景に見えた。
「ヘレン……苦しい? 苦しいの……?」
放心したように、レイがフラフラと寄って行く。
シンジが止める間もなく手を差し出した途端、ヘレンはそれにガブリと噛み付く。
「綾波っ! 駄目だッ!」
慌てて引き剥がし、ヘレンから距離を取らせる。
噛まれた指から、止めどなく赤い血が流れていく。
「――――レイ、シンジくん、下がりなさい」
廊下から、注射器を持って来たリツコとアスカが現れ、ヘレンのもとに近づいていく。
「安定剤を打つわ。……もう気休め程度だけど」
リツコ達が必死にヘレンを押さえつけながら、安定剤を注射する。その様子を、レイがただ目を見開いたまま、じっと見守った。
「…………アスカ、これまでよ。
もう私達がしてあげられる事は……何も無い」
狂ったように見開いていた目が、ゆっくりと閉じていく……。
ヘレンはぐったりと床に寝そべっており、その呼吸音とゆっくりした腹の動きだけが、この子がまだ生きているという事を皆に知らせている。
その姿を見つめながら、力の無い声でリツコが告げる。アスカは黙ってその場に座るばかり。
「もう、楽にしてあげましょう……。
ヘレンは、精一杯がんばった。精一杯生きたわ」
一度だけ静かに目を閉じた後、リツコはその場から立ち上がり、廊下に向かって歩き出す。
部屋にある、安楽死の為の薬を取りにいく為に。
「……………………綾波?」
ふと、シンジの声に足を止める。
リツコが振り返ると、そこにはそっとヘレンの身体を抱き上げる、レイの姿があった。
「綾波っ! どこ行くの……?」
優しく、慈しむようにしてヘレンを抱きかかえたレイが、玄関の方に向けて歩いて行く。
今レイが、ゆっくりとシンジに振り返る。
思わず見惚れてしまう程の、柔らかな表情……。
柔らかな声で……
「ヘレンに、夏をみせてあげるの――――」
そう、微笑みを返した。
………………………
………………………………………………
…………………………………………………………………………………………
暖かな太陽が照らす、北海道の広大な草原。
それを二つに割るようにして、地平線の彼方までまっすぐに続く道を、駆けて行く。
ヘレンとふたり、自転車に乗って。
風を身体に受けながら、心地よい日差しを感じながら。いつものように、走っていく。
「――――」
何度も、この道を通った。
ヘレンとふたりで、いつも自転車で走った。
流れていく景色。
美しい山々。風に揺れる草花。キラキラと輝く小川。
ヘレンと出会った草原のくぼ地。いつも一緒にお昼寝をしていた、あの大きな木。
そのひとつひとつに、思い出がある。
二人で一緒に遊んだ、大切な思い出が。
それを眺めながら走るうちに、やがて自転車は、海へとたどり着く。
ここは、みんなと一緒に来た浜辺とは、少し違う場所にある所。マリからメールで教えてもらった場所。
どこか寂しいような、寂れたような……そんな雰囲気のある、静かな場所だった。
「あっ、あそこ……」
レイは浜辺に自転車を止めて、目の前に現れた小高い丘を見つめる。
海の反対側にある、豊かな草が生い茂る丘。
その奥には……赤や黄色や紫といった沢山の花が咲く、とても綺麗な場所があった。
本当はまだ少し早いハズの花々。まるでそこだけ夏が訪れたような、美しい花畑が姿を現したのだ。
「ヘレン、少しまってて?」
今も静かに眠るヘレンをそっと地面に降ろし、レイはひとり丘に向けて駆けて行く。
木の柵をよいしょと乗り越え、ジャンプして降り立つ。
そしてテテテと小さく走り、がんばって丘の上に登っていく。
「っ……」
そして辿り着いたのは、思わず驚嘆の声が漏れる程に、美しい光景。
視界いっぱいに広がる、色鮮やかな花々。
「っ!」
レイは「よし!」とばかりに腕まくり(の仕草だけを)して、この場にある色とりどりの花々を摘んでいく。
ちょこんとしゃがみ、その顔にほのかに笑みを浮かべながら、よいしょよいしょと花を集めていく。
やがてレイの上着の上に乗せた花々が、溢れんばかりに一杯になった時……
レイの後ろ。
ヘレンの待つ浜辺の方から、鳴き声が聞こえてきた。
…………………………………………………………………………
「ねぇ、あれ……」
「レイを……呼んでるんだわ」
車に乗り、この場に駆けつけた三人は、遠くから聞こえるヘレンの声を聞き、驚愕の表情を浮かべる。
ヘレンのいる浜辺から少し離れた丘の上で立ち止まり、今も"おかあさん"を呼んで鳴いているヘレンの姿を、ただじっと見つめる。
「ヘレン――――」
その鳴き声を聞き、レイは急いで花を包んだ上着を抱え、浜辺へと引き返す。
途中おっとっとと転びそうになったが、なんとか一生懸命に踏み止まり、ヘレンのもとに戻っていった。
「ヘレン、おまたせ」
そしてこの場に戻った途端、レイはヘレンの傍にペタリと座り、上着に包んでいた花々をせっせと取り出していく。
赤、青、黄、紫、白――――沢山の色鮮やかな花をヘレンのまわりに並べる。
やがてヘレンのいる場所は、一面の綺麗な花畑になった。
「ヘレン――――夏だよ」
………………………………………………………………………………
「ヘレンは……良い親に恵まれたよ」
遠くにある二人の姿を見つめながら、シンジが柔らかく微笑む。
リツコもアスカも、ただ目の前の美しい光景から、目を離せずにいる。
沢山の花に囲まれ、無邪気に遊ぶヘレン。
レイは両手に花びらを持ち、それをヘレンの上にフワッと降らせていく。
沢山の色鮮やかな花びらが、まるでヘレンを祝福するように舞っていく。
パクッと食べてみたり、お花の絨毯を転がってみたり、かけっこをしてみたり。
ヘレンは、心から嬉しそうに遊ぶ。
レイのプレゼントした"夏"を、元気よく駆けまわっていく――――
「ほらヘレン、おいで……?」
そんな風にして遊ぶうち、やがてヘレンがレイの足にスリスリと身を寄せ、「だっこして」という意思表示を見せた。
レイはヘレンをそっと持ち上げ、いつものように抱きかかえて、ゆらゆらと揺らしてやる。
おかあさんが子供にするように。
優しい揺り籠のように。
「ヘレン? ほら」
安心したように瞳を閉じる、ヘレン。
その小さな前足をそっと握ってやり、ヘレンに「遊びましょう?」と語り掛ける。
言葉なんか、いらない。
レイにはもう、ヘレンの気持ちが手に取るように分かる。
「ほら、ヘレン。今度はこっち」
レイの動きに合わせて、ヘレンも前足をふりふり動かす。
じゃれるように、甘えるように。大好きなおかあさんと遊ぶ。
「ずっといっしょに、遊んでいようね」
にぎにぎ、フリフリ。
にぎにぎ、フリフリ。
この子と会話をするように。この時を、胸に刻みつけるように……。
レイはヘレンと遊ぶ。
なにげない二人の時間を、共に過ごしていく。
「ほら、ヘレン? ……ヘレンの番よ?」
ウトウトと目を閉じていくヘレンに、やさしく語り掛ける。
そっと握ってやると、またヘレンがゆっくりと前足を動かしてくれる。
「……ヘレン? ほら、遊びましょう?
ヘレンの番」
やがてヘレンの反応はだんだんと遅くなっていき、その瞼がゆっくりと閉じていく。
「ヘレン……どうしたの? ほら……」
にぎにぎ。
…………にぎにぎ。
……………………にぎにぎ。
交代でしなくちゃいけないのに、ふたりでする遊びなのに、だんだんレイの番ばかりが増えていく。
フリフリをする間隔が、どんどんどんどん、長くなっていく。
そして――――
「ヘレン? ほら、ヘレンの番よ。………………ヘレン?」
――――――ぱたっ。
とても安らかな顔で、幸せそうに瞳を閉じて。
その小さな前足が、最後の音を立てた――――
…………………………………………………………………………………
「……ッッ!」
リツコが手で口を覆い、目線を外す。
耐え切れずと言ったように。…………そして、目に滲む涙を隠すようにして。
「ファースト……」
アスカは、ただ見つめ続ける。
まるで見入ってしまったように、動けずにいた。
今、沢山の花に囲まれた中で……
その胸にヘレンを抱いたレイが、そっと
「――――」
静かな表情。感情の視えない顔で。
ただじっと、レイが空を見上げている――――
透き通るような、空。
広くて、大きくて、胸がすくような、青空。
どこまでも続くような、決して手が届かない、遠い空。
レイはそれを、ただじっと見上げ続ける。
大好きなこの子を、その胸に抱いて。
「当たり前だ……綾波は分かっていたんだもの。
最初から全部分かってて……その上でヘレンと一緒にいたんだもの」
シンジは最初、レイは泣くんだと思っていた。
ヘレンの死を悲しみ、子供のように大きな声を上げて、泣くのかと。
……けれど、それは違う。
だってレイは、全てを覚悟した上で、ヘレンと一緒にいた。
いつか別れがくる。こうなる日がやってくる。……それを全て分かった上で、ふたりで歩んで来たんだから。
一週間と生きられない、そう言われていた。
獣医も、まわりの大人達も、ただ首を横に振っていた。
それでも頑張って、ふたりで歩いてきた――――
この一か月という時を、ふたり一緒に乗り越えてきた。
「綾波が頑張ったから……ヘレンも頑張れた。
綾波はヘレンを育てたけど、ヘレンも綾波を育てた」
その言葉に、リツコの視界が滲んでいく。
零れ落ちていく涙を拭う事も忘れ……リツコは遠く眼前の、眩いばかりの太陽の光に照らされたレイの姿を見つめる。
涙は、流さない――――
でもレイは、ただじっと、空を見上げる――――
それは、"受け止めている"ように見えた。
いま腕の中にある、命を……しっかりと受け止めるように。
同時に、"問いかけている"ようにも、見えた。
空の上。そこに住むとても偉い誰かに、「どうして」と。
そうじっと、神様に問いかけているようにも見えた。
子供のように純粋な目が、まっすぐに空を見つめている――――
その光景を……三人はいつまでも、見つめていた。
………………………
………………………………………………
………………………………………………………………………………………………
『わたしが死んでも、代わりはいるもの――――』
前に、そう口にした事がある。
当たり前のように、自然に呟いた言葉だ。
……けれど今、私はその言葉を口にする事に、強い抵抗を感じている。
死んでも良い。代わりはいる。
そんな"命"があるなんて、認める事が出来ずにいる。
私の心の奥の部分が、そう言ってる。
だって、この子が教えてくれたもの。この子が見せてくれたもの。
この子は決して"価値の無い命"なんかじゃない――――
だって私は、この子をとても愛おしいと、感じるもの。
たとえ、目が見えなくても。
耳が聞こえなくても。
それでもこの子は、自分の命を精一杯に、生きたでしょう?
……………………………………………………………………………………
『多分、わたしは三人目だと思うから』
そう碇シンジという少年に言い捨てて、綾波レイは自分の部屋に戻った。
「――――」
誰とも話さず、言葉を交わす事も無く、自宅までの道をただ漠然と歩き、この部屋に戻って来た。
「……」
扉を開けたそこは、打ちっ放しコンクリートの壁に囲まれた、殺風景な部屋。
家具も無ければ、白と灰色以外の色も無い。
締め切られた窓もカーテンも開ける事はせず、ただ今日する事は全て終わったと言うように、ベッドの上に腰掛ける。
そこから長い時間、綾波レイは何もする事無く、ただそうしていた。
「……?」
ふと、何気なく見つめた視線の先。
そこに綾波レイは、ベッドテーブルに置かれた、シンプルなデザインの写真立てを見つける。
「……これは、なに?」
何気なく手に取り、それを眺める。
当然の事だが、綾波レイはその写真に心当たりなど無い。
これは恐らく、自分の前の"二人目の綾波レイ"の持ち物。誰が撮影したのかは分からないが、それを彼女が写真立てに入れ、こうして大切に枕元に飾っていたのだろう。
綾波レイはその表情も変える事無く、ただじっと手にある写真を、見つめ続ける。
「――――っ」
ふと、足元からポタリという音が聞こえる。
床に目をやってみれば、そこにはたった今落ちたのであろう水滴らしき跡がある。
何かはわからない。だが綾波レイが何気なく自分の顔に手を持っていくと、自分の頬の辺りに水滴がある事に気が付く。
そしてそれは、今も自分の瞳から零れ落ち続ける"涙"である事を、知った。
「……ないてる? 泣いてるの? ……私……」
それは、綾波レイと小さな子ぎつねが、寄り添い合って眠っている光景。
お互いの鼓動を感じながら、ふたり一緒にスヤスヤと眠る。
そんな、とても幸せな写真――――――
――fin――