子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~   作:hasegawa

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まいごの子ぎつね。

 

 

 ――――大発見だ。世界とはこんなにも美しかったのか!

 

 さっきまでの仏頂面はどこへやら。レイはほんのり頬を赤く染めながら、この旧北海道の美しい田園風景を眺める。

 嬉しそうにトテトテと、どこまでも続く広い草原を歩いて行く。

 

 それもそのハズ。さっきまでとは違い、今はこの気持ちを分かち合える友達がいる。

「綺麗だね」「嬉しいね」と、そう笑い合える誰かいるのだから。

 

 いま自分の腕の中にいる、小さな子ぎつね。

 先ほど道路の傍で見つけた、とても小さな友達。

 

 レイは時折、子ぎつねの頭を優しく撫でてやりながら、のんびりと草原を歩く。

 見渡す限りの青い空に、美しい草木。広大な山々に、キラキラと輝く小川。

 

 さっきまで灰色だった景色が、今は鮮やかな色に溢れ、光り輝いて見える。

 ここにはもう、綺麗な物ばっかりだ! なんと素晴らしい事なのか!

 

 まぁ生来ポーカーフェイルな彼女であるから、その変化はとても傍目には分かりづらい物ではあるが……、きっとシンジくんが今の彼女を見たら「綾波、とっても機嫌良さそうだね♪」と声を掛けた事だろう。

 

 ふんすふんすと軽く息を荒げながら、ワクワクしながら歩く。

「ここに来て良かったなぁ」なんて、さっきまでと真逆の事を思ったりもする。とても現金なのだった。

 

「この景色、碇くんにも見せてあげたい……」

 

 なんとなしにそう呟き、やがてレイは高原の真ん中にある大きな木を見つけ、その傍に腰掛ける。

 そっと子ぎつねを地面に下ろしてやり、低く屈んでこの子と目線を合わせた。

 

「碇くんね? 来れなかったの。

 きっと貴方とも、いい友達になれたのに」

 

 リツコさんって人がイジワルなのと、赤木博士についての不名誉な印象を子ぎつねに吹き込んでいくレイ。

 

「碇くんはね? 優しいの。それにとても物知り。

 分からない事があったら、なんでも教えてくれるの。料理もすごく上手」

 

 分かっているのか、いないのか。子ぎつねもつぶらな瞳で、じっとレイの方を見ている。

 クリクリとした大きな目が、とてもかわいいと思う。不思議そうにコテンと首を傾げてはいるけれど。

 

「わたし、エヴァのパイロットなの。

 エヴァンゲリオン……知ってる?」

 

 ゴソゴソと鞄の中から、資料として持っていたエヴァ零号機の写真を取り出して、子ぎつねに見せる。

 

「これ。見た事ある? エヴァンゲリオン。

 わたし、これに乗ってるの。ファーストチルドレン」

 

 地面にちょこんと座り、代わる代わるエヴァの資料の写真なんかを見せていく。

 そのつどレイは解説を入れていくが、なんかどれもふわっした"レイフィルター"のかかった言葉なので、おそらく相手が子ぎつねじゃなかったとしても、聞きててよく分からなかった事だろう。

 だがそんな事も構わず、レイはとても楽しそうだ。子ぎつねも背中を撫でて貰い、気持ちよさそうにしている。

 

「これが碇くんの写真。青いプラグスーツを着てるの。

 その隣にいるのは、弐号機の人。……貴方はあまり近づかない方がいい。

 食べられてしまうかもしれないわ」

 

 そしてアスカについても誤った情報を吹き込むレイ。普段の唯我独尊な態度がそうさせたのかもしれない。

「もし出会ったら逃げて」と、意外と真面目な表情で子ぎつねを諭していた。

 相変わらず子ぎつねは「?」と首を傾げていたけれど。

 

 

「ここ、暖かいわ。とてもキレイ……」

 

 

 そんな風にして過ごす内、なにやらレイの瞼は重くなっていき、やがで木にもたれてウトウトとし始める。

 

 心地よい陽気、気持ちの良い風、暖かな気持ち――――

 

 それに誘われるようにして、レイは子ぎつねの隣で、静かに眠りに落ちていった。

 

 

………………………………………………

 

 

「……?」

 

 ペチペチと、なにか柔らかい物が頬に当たる感触がする――――

 

 ふとレイが目を開けてみると、すぐ傍には丸くなった子ぎつねの姿。どうやらこの子の尻尾がフリフリと揺れ、それが頬に当たっていたんだろう。

 

「……」

 

 寝ぼけ眼のまま、レイはそっと子ぎつねの背中を撫でる。

 未だ寝息を立てている子ぎつねは身じろぎしながらも、どこか気持ちよさそうにしているように思える。

 レイの胸に、また暖かな気持ちが溢れ出していく。

 

「……!」

 

 しかし今、もう随分と日が落ちてきている事に、レイは気付く。

 さっきまで真上にあったお日様が、今はもう随分と傾きつつある。恐らくはもう1時間としない内に日が落ちてしまう事だろう。

 つまり、もうレイは帰らなければいけない時間、という事だ。

 

「……」

 

 今もすぅすぅと寝息を立てている子ぎつね。その愛らしい姿に後ろ髪を引かれる想いをしながら、ゆっくりとレイは立ち上がる。

 

「じゃあ。また遊びましょう……」

 

 そっと声を掛け、子ぎつねに背を向けて、歩き出す。

 そうして暫くは歩いてみるものの……レイはすぐに子ぎつねの方を振り返ってしまう。

 

「――――」

 

 

 じっと子ぎつねの方を見つめ、そのまま立ち尽くす。

 

 しばらくの間、そうして葛藤していたけれど……やがてレイはその場から駆け出し、再びそっと子ぎつねを抱き上げた。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「落とし物?」

 

 広大な田園風景のど真ん中にある、寂れた様子の派出所。

 

「ええ。きつねのお母さんの」

 

「……あぁ、そう。……落とし物ねぇ~。……なるほど」

 

 レイは今、子ぎつねを抱きかかえて、おまわりさんの下を訪ねていた。

 

「困るんだよねぇ~。こういうのが一番……」

 

 情けない声を出し、ガックリと項垂れるおまわりさん。

 レイの方は「?」と首を傾げ、よく分かっていない様子だ。

 

「えっとね? 親が分からないんじゃ、迷子扱いにも出来ないしね?

 ちょっと僕も、どうして良いか……」

 

「?」

 

 なにやらとても困っている様子のお巡りさん。

 レイの子供のように真っ直ぐな瞳に見つめられ、今にも折れてしまいそうな感じだ。

 

「この子、お母さんとはぐれてしまったの」

 

「……うん、うん、分かるよお嬢ちゃん?

 僕もね? 何とかしてあげたいとは……思うんだけどね?」

 

 どうしたら……どうしたら良いんだコレは……。

 お巡りさんは頭を抱え、机に突っ伏してしまった。

 レイは今ものほほんと椅子に座り、優しく子ぎつねの背中を撫でている。とても純粋な子なんだろうなぁというのは分かる。

 

「と、とりあえずどうしたモンかなこれは……。

 お嬢ちゃん、お家の人は? どこに住んでるんだい?」

 

「第三新東京。ここには旅行で来たの」

 

「~~ッ!?」

 

 どうりで見ない顔だと思ったら、都会っ子のお嬢さん。しかも旅行で来ているときた。

 出来れば住所の分かる物を見せてもらって、親御さんに引き取って貰おうと思ったのだが……果たしてそれが出来るのかどうか……。

 ちなみにレイが旅行だと言ったのは、「もし誰かに訊かれたらそう言うように」と言い付けられている為である。

 今回の作戦の事は極秘なのだ。

 

「――――失礼。その子の関係者です。身元を引き受けに来ました」

 

「えっ?!」

 

 すると突然派出所にやってきた、黒服姿のいかつい男達。

 まんまテレビで観るような、どこぞのエージェントその物の姿だ。

 なにやら後ろの方で「対象を発見。これよりお連れします」と電話している声も聞こえてくる。

 

「さあ綾波さま、こちらへ」

 

「……」

 

「ちょ! ちょっとちょっとぉ!!

 あ、アンタ達はいったい……? この子をどうするつも……?!」

 

「お手数をお掛けしました、お巡りさん。

 後の事はお任せください。心配無用です」

 

 思わずお巡りさんは立ち上がって引き留めようとするが、そこを男達に阻止されてしまう。

 レイは俯き、トボトボと外に停めてある車へと向かっていく。その後姿を呆然と見送る。

 

「もし何かありましたら、こちらまでご連絡を。

 では我々はこれで」

 

「えっ……!? ちょ、これ! ……ネルフってぇー?!」

 

 名刺を受け取り、再び驚愕するお巡りさん。

 そんな彼を余所に、レイを乗せた黒塗りの車は走り去っていった。

 

 

………………………………………………

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 今回の実験は、数日に渡って行われる予定だ。

 その間レイたちの寝床となるのは、ネルフが借りてくれたお洒落なコテージ。

 電気ガス水道はもちろんの事、様々な設備が充実した、とても大きな建物である。

 

 黒塗りのいかつい車がその拠点へと帰還した時……レイを玄関先で出迎えたリツコとアスカが、もうビックリする位の悲鳴をあげた。

 まさしく「ぎゃー!」というような。

 

 

「――――こらっ! 大人しくしなさいッ!!」

 

「!? ?!?!」

 

 そして現在、レイは怒り狂ったアスカにより風呂場に叩きこまれ、おもいっきり身体をゴシゴシと洗われていた。

 

「動くな! 動くなって言ってんでしょうが! 大人しくなさいッ!!」

 

「?! !?!?」

 

 スポンジでこすられ、お湯をぶっ掛けられ、頭からシャワーを浴びせられ。

 もう前が見えない程の水攻めとスポンジ攻めを喰らい、レイは目を白黒する。

 

 寡黙な彼女は声こそ出さないものの、その驚愕にひん剥いた瞳で「なんて事をするんだ」と訴える。

 だがそんなレイの批難も気にする事無く、アスカはスポンジ片手にガンガン水を浴びせていく。

 

 レイはもうワケも分からないまま、必死に湯舟から逃げようと奮闘するが、何度やってもグイッと頭を押さえられ、またドボーンと湯舟に叩きこまれる。

 駄目だ、死んでしまう。このままではお風呂で死んでしまう。

 

「アンタ何てモン拾って来たよ! ホントどういうつもり!? アンタばかぁ?!」

 

「ッ!! !?!?」

 

 もう鬼の形相でシャワーを浴びせ、火の出るような勢いでゴシゴシするアスカ。

 その姿に一切の妥協も容赦もなく、人権すらも考慮されなかった。

 

 

………………………………………………

 

 

「はぁ。まったく何でこんな事……。私は獣医じゃないのよ?」

 

 ところ代わって、ここはダイニング。

 いまリツコがお湯を張った大きな桶で、子ぎつねの身体を洗ってやっていた。

 

「ま、この子が愛らしいのだけが救いね。

 虫とか爬虫類じゃ無いだけ、マシと思いましょうか」

 

 労わるように、優しく子ぎつねの身体を洗っていくリツコ。さっきのアスカとは大違いだ。

 

「リツコ、こっちは済んだわ。……まったくファーストったら、手間かけさせて!」

 

「お疲れ様アスカ。ちゃんと隅々まで洗ってあげた?」

 

「そらそうよっ! あのバカ、きつね触ったのよ?!

 洗わずにおくモンですか! 徹底的にやってやったわよ!!」

 

 まさに"泣こうが喚こうが"というヤツである。今ごろレイはソファーに突っ伏し、ぐったりとしている事だろう。

 

「そ。なら悪いけど、この子の方もお願い出来る?

 私そろそろ、本部の方に連絡を入なきゃいけないの」

 

「はいはい。毒を喰らわば皿までもってね。任されたわ」

 

 リツコがタオルで手を拭き、部屋を出ていく。

 それと代わるようにアスカが子ぎつねの前に立ち、柔らかい手つきで身体を洗っていく。

 重ねて言うが、レイの時とは大違いだ。

 

「……あぁそれと、その子がウンチしたら、保管しといてもらえる?

 寄生虫の検査に出しておくから」

 

「了解。まぁ必要よね。

 ……つかアタシにこんな事させるんだから、ディナーは奮発してよね?

 しょぼかったらタダじゃ置かないんだから!」

 

「分かってるわアスカ。それじゃあね」

 

 今度こそリツコが部屋を出ていき、この場にはアスカが子ぎつねを洗う音だけが響く。

 それはとても静かで、暖かな慈愛を感じさせる光景に思えた。

 

「……ん? 来たのアンタ?」

 

「……」

 

 そんな時、この場にレイが現れる。

 なにやら申し訳なさそうに、そ~っと物陰に隠れるようにしながら、じっとこちらを伺ってるのが分かる。

 

「はぁ……良いから入って来なさい。もう怒らないから」

 

「!」

 

 その言葉を聞いた途端、テテテとこちらに駆けよって来るレイ。

 嬉しそうに子ぎつねを見つめるその姿に、またため息が出そうだ。

 

「見るのは良いけど、邪魔すんじゃないわよ? ステイ!」

 

(コクコク)

 

 そう激しく頷きながらも、子ぎつねから決して目を離そうとしない。目線を外す事は無い。

 頬を上気させながら、じぃ~っと子ぎつねを見つめている。まるで宝物を見るかのようにして。

 

「まったく、こんなの拾ってきて。何考えてんのよアンタ」

 

「……」

 

 先ほどとは違い、アスカは静かな声で問いかける。

 レイはそれに答えられずにいるが、不思議と腹は立たなかった。この場にこの子がいるせいだろうか。

 

「こいつ、大人しいわね。……どっかで飼われてたのかな?」

 

 

 柔らかなタオルで身体を拭いてもらい、気持ちよさそうな様子の子ぎつね。

 そんなこの子を見つめながら、アスカが優しい声で呟く。

 

 いつもの勝気な彼女とは違う、とても柔らかな表情――――

 レイはそれを目に焼き付けていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……飼いたい?」

 

 夕食時。テーブルに並ぶ料理の数々を前にしながら、席に着く事も無くレイが告げる。その姿にリツコが眉間を押さえる。

 

「――――駄目よ」

 

 ピシッと、冷たく言い放つ。

 そして話は終わりだというように、再び料理に口を付けていく。

 

「どうして……ですか?」

 

「あのね? きつねは野生動物でしょう?

 飼っちゃいけないっていう法律があるの。問題外よ」

 

 レイはじっと俯き、床を見つめている。そちらを向く事もせずにリツコは食事を進めていく。

 

「あの子を保護したのはね? 衰弱していたからなのよ。

 いうなれば入院と同じで、ごく一時的な物なの。ペットにする為じゃないわ」

 

「……」

 

「それにね? 何度も言うようだけど、私達は遊びに来てるんじゃないの。

 貴方はここに仕事として来ているんでしょう?

 子ぎつねと遊ばせる為に連れてきたワケじゃないわ」

 

 リツコは冷たい声で諭し、アスカは口を出す事なく食事をしている。

 そんな中、レイは何もいう事の出来ないまま、ただ俯くばかり。

 

「わかりました。……返してきます」

 

 やがてリツコの方を見ないまま、俯いたままでレイが踵を返す。そして部屋を出ていく。

 わがままを言うでもなく、恨み言を言うでもなく。とても小さな声で告げてから、二人の前から去って行った。

 

「……まったく。なんなのあの子。

 パイロットの自覚はある方だと思ってたのに」

 

 その姿に本日何度目かのため息を付き、リツコがクイッとお酒をあおる。彼女らしくない、少し乱暴な仕草で。

 

「――――朝になったら、骨になってるかもね。あの子ぎつね」

 

「……ッ」

 

 すると突然、いままで沈黙していたアスカが言い放つ。

 少し片眉を上げた何とも言えない顔。まるで試すような表情でじっとリツコの顔を見つめている。

 

「……ッ!」

 

 リツコはキッと睨み返すが、それでもアスカはどこ吹く風といった様子。じっとリツコの目を見つめている。

 

 

「……あぁもうっ!」

 

 

 バンとテーブルを叩き、ナイフとフォークを置いてから、リツコが席から立ち上がる。

 

 アスカのニヤニヤとした顔に見送られながら、ドシドシと足音を立てて部屋を出ていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……」

 

 ギィッと玄関の扉を開け、レイが外へ出ていく。

 もうとっくに日も暮れ、真っ暗の中、子ぎつねを抱きかかえて歩いて行く。

 光の無い瞳をして。

 

「……」

 

 俯いた瞳が、腕の中にある子ぎつねの姿を映す。

 何も知らず、何も分からず、今も子ぎつねはレイに身体を預けている。とても大人しい、とても良い子だ。

 

 いま腕の中にいる、小さな命。

 それを想うと同時に、レイは自分の無力さを想う。

 

 何も持たず、何も言わず、何も出来ない。

 そんな無力な自分の事。

 

 

「――――」

 

 

 やがでレイの表情から、一切の感情が消える。

 少女のように泣くでも無く、怒りを宿すでもない、感情を失った何も映さない瞳。

 

 ただ何も考えず、足を進めていく。

 この子と出会った、あの草原に向けて。

 

 

 

「――――待ちなさい、レイ」

 

 そんな時、突然ガシッと肩を掴まれる。

 一瞬なんだか分からず、レイはただその場に立ち止まってしまう。

 

「貸しなさい」

 

 気づけば、腕の中にあったぬくもりが、消えていた。

 それに気付いたレイが、ハッと意識を戻し、慌てて俯いていた顔を上げる。

 そこには……なにやら苦い表情をした、リツコが立っていた。

 

「そんな抱き方じゃ、この子が可哀想よ。

 ちゃんとこうやって、身体を支えてあげないと」

 

 そうそっけなく言い捨てて、リツコが子ぎつねを抱いたまま、ズカズカと家の方へ戻っていく。

 レイは呆然としつつも、慌ててそれを追いかける。

 

「……どうして? 赤木博士……」

 

 消えそうなくらい、小さな声――――

 でも精一杯に絞り出した声で、リツコに問いかける。

 

「……言ったでしょ? この子はいま衰弱してるの。

 だから元気になるまでは……ここで保護をする。

 ちゃんと人の話は聞きなさい」

 

 プイッと顔を背け、リツコがさらに足早に歩いて行く。まるで照れ隠しのように。

 

「明日も実験はあるわ。

 ……この子の事ばかりじゃなく、しっかり仕事もこなすのよ? レイ」

 

 

 

 見えなくなっていく、白い背中。

 

 それにコクリと頷きを返して、レイも家の中へ入っていった。

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「いい? ファースト。

 リツコが良いって言うまで、あの子に近づいちゃダメだからね?」

 

 まだ少し肌寒い、旧北海道の朝。

 三人でテーブルに着き、モグモグと朝食を摂っている時、アスカにそう告げられる。

 

「……どうして? ……どうして近づいてはダメなの?」

 

「あのね……、きつねには"エキノコックス"っていう寄生虫がいる事があるの!

 それが人間にうつったら、病気になったり、最悪死んだりするのよっ!

 ……やっぱりアンタ、知らなかったのね」

 

 ショボーンと俯くレイを、やれやれといったように見つめるアスカ。

 先の拷問のような水攻めは、きつねに触れてしまったレイの身体を徹底的に洗浄する為だったのである。

 命があっただけ感謝して欲しい物だと思う。

 

「だから検査の結果が出るまで、ぜったいあの子に近づいちゃダメ!

 ……分かったわね?」

 

「……」

 

「――――ちゃんとハイって言いなさいよ! 言いなさいったら!」

 

「~~ッ!!」

 

 頬っぺをグイ~っと引っ張られ、悶絶するレイ。

 声は出さずとも、おめめはほんのり涙目だ。痛い痛い痛い。

 

 そんな仲が良いんだか悪いんだか分からない二人を眺めつつ、リツコは我関せずといったように朝食を頬張る。カリカリベーコンをモグモグするのに忙しいのだ。

 

「とりあえず二人とも、今日はこれから試験場の方に行って頂戴。

 また昼過ぎには終わると思うから、その後は好きにして構わないわ」

 

「了解! まぁバッチリこなしてくるわ! このアスカ様に任せておきなさい!

 その後はアタシどうしよっかな~?

 じゃあとりあえず、加持さんに車を出してもらってぇ~」

 

「……」

 

 仕事終わりの予定に想いを馳せ、なにやらニヘヘと気持ちの悪い表情を浮かべるアスカ。

 そんな彼女を余所に、レイはただ気配を殺して、じっと黙り込んでいる。

 先ほどの質問を、ぶり返されてしまわないように。

 

 

 わたし、言ってない。

 あの子の所に行かないなんて、言ってない。ウソはついてない――――

 

 

 そうさりげなく冷や汗をかきながら、このままアスカがさっきの話を忘れてくれるのを願うレイ。

 もう頭の中は、子ぎつねの事でいっぱいなのだった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 動物には、動物用のミルクがある。

 聞く所によると、私たち人間の飲むミルクは、動物には甘すぎて良くないのだそうだ。

 

 そんな話を仕事先の人から教えて貰い、レイはホクホク顔で動物用ミルクのパックを抱え、家に戻って来た。

 まぁ例によってポーカーフェイスであるから、ホクホクといっても極わずかな変化ではあるのだが。

 

 しかしながら、大切そうにギュッとミルクを胸に抱え、目を輝かせながらテテテと走って行く彼女の姿は、きっと誰が見ても微笑ましい物に感じる事だろう。

 

 ワクワクしながら、子ぎつねの下へ走って行くレイ。

 もう待ちきれないというように家の中へ駆け込んだ時……ふいに奥の方から、リツコの声が聞こえてきた。

 

「……はい、赤木です。出ましたか、検査の結果は」

 

 どうやら、リツコは誰かと電話をしているようだった。

 レイはリツコに見つかってしまわないよう、コソコソとしゃがんでイスの陰に隠れる。

 ちょっとしたスニーキングミッション。人生初のかくれんぼかもしれない。

 

「……あぁ、そうですか。……えぇ、薬ですね。分かりました。

 ……えぇ、やはり殺した方が良いですね(・・・・・・・・・・・・・)……」

 

 

 その言葉を耳にした瞬間、レイは抱えていたミルクを落とし、目を見開く。

 

 やがてケータイに耳を当てたリツコがこちらに歩いてきて、スタスタと玄関の方に消えていった。

 

 そのあいだ中、レイはずっと息を殺し、愕然とするばかりだった。

 

 

………………………………………………

 

 

 

「……ッ!!」

 

 柔らかな毛布で子ぎつねを包み、急いで抱きかかえる。

 そしてミルクも荷物も、財布すら持たずに……レイが家から飛び出して行く。

 

「……ッ! ……ッ!!」

 

 走る。息を切らして。

 彼女らしからぬ必死の形相で、ただこの場から遠ざかる為に。

 ここから逃げる為に――――

 

「ダメ……ダメッ……ダメッ!」

 

 さっき聞いた言葉が、頭の中でリフレインしている。

 やはり、殺した方が良いですね――――そんなリツコの冷たい声が。

 

「逃げなきゃ……ここから逃げなきゃ……!」

 

 遠くへ。少しでも遠くへ。

 そうしないと、この子は殺されてしまう!

 

 この愛らしい小さな命が、失われてしまう。

 

 いまレイの脳内には、まるで魔女のような恰好をしたリツコが「おーっほっほ!」とか言いながら、毒の入った注射を子ぎつねに刺すイメージが浮かんでいる。

 とんでもない恐怖だ。こんな恐ろしい人みた事ない。人間とは思えない。

 

 

「……ッ!?」

 

 ふと視界の端に、道端に停めてある自転車を見つけ、急いでそれに乗り込む。

 前カゴにタオルを敷いて子ぎつねを乗せ、出来る限りの速度で走り出す。

 

 

 もう何も、考えられない。何も分からない――――

 

 今はただ、ここから逃げ出す事だけ。

 

 ネルフや大人達の手から、逃げ出す事だけ。

 

 

 いま不思議そうにキョトンとしている様子の、愛らしい子ぎつね。

 この子を守ってやれるのは、自分だけなのだ。

 レイは汗をかきながら、必死で自転車を漕ぐ。

 

 

 そして二人で、どこか遠くで暮らそう。

 二人で生きよう。

 

 

 

 レイはそんな、とても出来もしないであろう事を……本気で思っていた。

 

 ただただ、この子ぎつねの為に。

 

 純粋な子供のように。

 

 

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