子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ 作:hasegawa
無我夢中で走る内に辿り着いた、見知らぬ原っぱ。
長い草が生い茂る中、何故かそこにポツンと放置されている、古びた電車の車両。
壊れたのか、不要になったのかは分からないけれど、いかにも子供たちが秘密基地にでもしそうなソレを見つけ、レイは即座に中へ駆け込んだ。
その腕に、ちいさな子ぎつねを抱いて。
「…………」
雨降ってきた……。すんごい雨降ってきた……。
レイが自転車に乗って家を飛び出した途端、それを待っていたかのように突然空が曇り出し、ポツポツと雨が降り出してきたのだ。
なんというタイミング。なんという不運だろう。
せめて家を出る前に降り出してくれれば、傘のひとつも持ってこれたのに。
レイはいじわるな神様の事を想い、ぶすっと頬を膨らませる。
「…………」
本当は、今すぐにでもここを出たい。少しでも遠くへ行きたいのだ。
でもこんな雨の中で移動は出来ない。自分はともかく、子ぎつねが濡れてしまうといけないから。
なので仕方なしに、偶然見つけたこの電車の中へ逃げ込み、現在は雨宿りをしている所。
少し濡れてしまった子ぎつねの身体を拭いてやってから、こうして座席に腰掛け、二人でただ雨音を聞いている。
早く雨が止んでくれるよう、願いながら。
「……だいじょうぶ? さむくない?」
レイの膝の上、タオルに包まってモコモコしている子ぎつね。
今ものほほんとしているこの子の背中を、暖めるようにさすってやる。
うん、機嫌良さそうだ。だいじょうぶ。
「ミルク、持ってこれなかった……。どこかで買わないといけないわ」
慌てて飛び出して来たので、この子とタオル以外、何も持たずに来てしまった。
だってすぐにでも逃げないと、この子がリツコに殺されてしまうと思った。もう荷物なんか気にしている場合じゃなかったのだ。仕方の無い事だと思う。
ちなみにミルクを調達しようにも、レイは財布も持っていないのだが、まだそれに気付いていない。
どこかでヤギさんでもいないものだろうか? お願いしたら分けて貰えないだろうか?
クゥクゥとお腹が鳴り、レイはまだお昼ご飯を食べていなかったことを思い出す。
確かに死活問題ではあるが、今はどうする事も出来ない。この雨が止まない内はどこへも行けないのだ。
お腹が空くと、何やら気分も落ち込んでくる。なんだか悲しい気持ちになってくる。
でも今は我慢我慢。自分はこの子を守らなくちゃいけないのだから。にんにくラーメンチャーシュー抜き。
「これから、どこに行こう?
ねぇ、あなたはどこへ行きたい?」
でもこうして子ぎつねを抱きしめ、愛らしい姿を見ていると、勇気が湧いてくる気がする。
雨に降られ、お腹は空き、状況は決して良くないけれど……でもこの子が傍にいてくれるだけで、不思議と元気でいられる。
レイはほのかに笑みを浮かべながら、キリリと意識を切り替え、これからの事を考えてみる事とする。
これから二人で生きていく為には、どうすればいいのか。その計画を考えていこうと思う。
「まず、上の方にいこう。
ここは旧北海道だから、上にいけばロシアがあるわ」
以前見た世界地図を思い浮かべ、フムフムと考える。ちなみにレイの言う"上"とは、恐らく北の事だと思われる。
「たしか北海道の上には、点々とした小島がたくさんあったハズ。
それを辿っていけば、ロシアに着くの」
レイはいま自転車なので、船の問題、そしてパスポートの問題などが山積みなのだが、そんな事も気にせずに夢を膨らませていく。
ロシアでは、コサックダンスという踊りが出来ないといけないの。いっしょに練習しましょう? そう子ぎつねに語る。
「あ、でもロシアまでいくと、少しさむいかもしれない……。
なら途中の小島に家を建てて、そこで暮らしましょう?
木の実やココナッツをとって食べるの」
お魚なんかも獲れるかもしれないけれど、レイは肉や魚はあんまりなので、それは別にいいと思う。
もしそこにヤギが住んでいれば嬉しいけれど、いなかった時の為にどこかでヤギを見つけて一緒に連れて行こう。これでミルクの問題は解決だ。
私と子ぎつねとヤギ。その三人での新しい生活に想いを馳せ、レイの胸はぽかぽかしてくる。
「あ……でも碇くんには、連絡を入れないといけないわ。
ちゃんとお別れを言いたい……」
そんな時、ふとシンジの事が頭をよぎり、胸がキュッとする。
もう彼と会えない……その事を想い、ズキリと心が痛む。
でも仕方がない。これはどうにもならない問題なのだ。
本当は碇くんにも一緒について来てもらいたいけれど……、でも彼がいないと使徒が来た時にみんな困る。いっしょには行けないのだ。
だからいつか、彼にはちゃんとお別れを言わなければいけない。とてもお世話になったのだから、ちゃんと言っておかなければいけない。
いつも気にかけてくれた、おいしいお弁当を作ってくれた、優しかった彼には。
『いままでありがとう。私はこの子とロシアに行くわ。さよなら』
そう告げる時の事を想い、ポロリと涙が零れそうになる。
どうか碇くんには許して欲しいと思う。私がこの子と共に暮らす事を。
彼ならきっと私を応援してくれるんじゃないかって、そんな気もしている。どこかで公衆電話を見つけて、ちゃんと連絡しよう。
他にもアスカやネルフの人達の事を想うと胸が痛むが、今は子ぎつねの事を一番に考えてあげたい。
アスカはしっかり者だし、みんなは大人だから良いけれど、この子には私しかいないのだから。私が守ってあげないといけないのだから。
そうしっかり意志を固め、レイは子ぎつねと生きていく決意をする。
うむ、もう大丈夫だ。何の憂いもない。
「……やわらかい。モコモコしてる」
頭の中を整理し、素晴らしい計画を立て終えた後、レイは膝の上の子ぎつねをよしよしと撫でてみる。
どうやら色々と考え込んでいる内に、この子は眠ってしまったようだ。今もすぅすぅと寝息を立てているこの子の姿を見つめ、レイの胸に暖かな感情が湧いてくる。
「だいじょうぶ。わたしが守るもの――――」
子ぎつねの愛らしい寝顔を見つめる内、次第にレイの瞼も重くなってくる。
やがてレイは座席に身体を預けたまま、こくりこくりと船を漕き始めた。
まどろみの中で、あの魔女みたいなリツコに「待ちなさぁ~い!」と追いかけられる夢を見た。
あれは悪魔だ。とても人間とは思えない――――
そう恐れおののきつつも必死に子ぎつねを抱いて逃げる夢を見て、ウンウンとうなされるレイだった。
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レイがいなくなった。
それはすぐに知れ渡り、この土地にいるネルフの関係者達は、一斉に捜索を始めた。
「……正直、ちょっと信じられないの。
まさかファーストがこんな事しでかすなんて……バカシンジじゃあるまいし」
リツコが電話から戻った時、ゲージから子ぎつねの姿が消えていた。
レイのカバンも財布も置きっぱなしではあったが、あの子がいわゆる"家出"をした事はもう明らかだった。
現在アスカとリツコの二人は、車で周辺の捜索を行っている。
まだそう遠くへ行ったとは思えないが、この雨の降りしきる暗闇の中、いったいあの子はどうするつもりなのか。アスカの胸に不安な気持ちがよぎる。
「前からなに考えてるのか分かんない所はあったけど……、
でもあたしから見て、あの子ってとても従順なイメージがあったのよ。
言われた事には何でも従うし、訓練だって真面目にやってる。
バカシンジの言う事も、素直にきいてたわ。
……だから、まさかあのファーストが、家出するなんて……。
全部放り出すようなマネをするなんて、ちょっと信じられない気持ちよ」
あの子ぎつねは、可愛かった。レイが可愛がるのも分かる。
けれど、いきなりそれで家出? チルドレンの立場も、何もかも捨てて?
アスカにはとても理解出来ないでいる。あの従順だったファーストが、そんな事をするなんてと。
「立場が人を変える……よく言うでしょ?」
ただ前を見ながらハンドルを握るリツコが、ため息と共に呟く。
「あの子ひとりなら、これはありえない行動よ。
でも今あの子の傍には、子ぎつねがいる。守るべき存在がいるのよ。
従順で大人しい……そんな普段の自分のままではいられない。
それでは守れない。守らなければいけない。
そう必要に駆られたのなら……人はどんな事でもするわ。どんな風にでもなれる」
激しい雨がフロントガラスを打ち付け、それを繰り返しワイパーが拭っていく。その音だけが車内に響く。
「あの子ぎつねの……為?」
「そ。あの子ぎつねの為」
「はんっ! ……ホントにもうっ! あのバカッ…!」
言いたい事は沢山ある。アンタ使徒が来たらどうすんのよとか、チルドレンをなんだと思ってんのよとか。
だが何故か、それを口に出す事が出来ない。無責任だと大声で罵る事が出来ない。
なんとなく、分かってしまうから。
ファーストが……あの子が何故こんな事をしたのか、分かるような気がしたから。
きっとそれは、あの子だからこそ……。
「……とりあえず、またとっ捕まえて風呂に叩き込むわ! 話はその後よっ!」
「そうね。寄生虫どうこうより、この雨じゃ風邪をひいてしまうもの」
気が付けば、少しづつ雨の勢いが弱まっているのを感じる。
レイの行きそうな所……というよりも、家出をした子供が行きそうな所を考えながら、リツコは車を走らせていった。
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「……?」
薄い暗闇の中、レイは目を覚ます。
一瞬ここがどこなのか分からずにいたが、すぐに自分達が雨宿りをしている電車の中だと思い至る。ぼんやりとつり革のような物が目に入ったから。
「っ!」
目をパシパシさせながら暫くぽけっとしていたが、ふと膝の上を見れば、一緒にいたハズの子ぎつねの姿が見えない。
レイは慌てて辺りを見回し、薄暗い中をおっかなびっくりと歩き、表へと出た。
「……あぁ、よかった……」
すると出入り口を出てすぐ、草むらの所に子ぎつねがいるのを見つけ、そっと抱き上げる。
身体は濡れていないようだし、今ものんきに「ふぁ~」っと口を開けている。問題はなさそうだ。
「ごめんなさい、寝てしまって。……退屈した?」
この子は小さいのだから、今後はもっとよく注意していなければ。
もし目を離した隙にどこかへ行き、何か危険な目に合いでもしたら、きっと自分は一生後悔をするだろう。
そんな事にならないよう、レイはしっかりと今の事を心に刻む。
もう私は自分ひとりではない。この子に対しての責任があるのだから。
「……?」
子ぎつねを抱きしめ、そっと頬擦り。そうやって安堵していたのも束の間。
突然遠くから車のエンジン音らしき音が聞こえ、そしてすぐに辺り一帯に光が差す。
これは、沢山の車のライトだ。……取り囲まれている!
「――――ッ!!」
慌てて駆け出そうとするも、車から飛び出してきた沢山の男達によって取り囲まれる。すぐに逃げ場などなくなり、レイは目を見開きながらその場に立ち尽くす。
どこからか「対象を発見! 保護します!」という男性らしき声が聞こえた。
「だっ……だめッ!!」
男達がジリジリとこちらに近寄って来る。黒いスーツに、夜だというのにサングラスをかけた怖い男達。
レイは思わず子ぎつねを庇うようにして、地面に蹲る。まるでカメのような恰好で、必死に子ぎつねを守る。
「だめっ! だめっ!! ……この子を殺しては、だめッ!!」
縋るような、絞り出すような声で、懇願する。
身を固くし、ぎゅっと目を瞑り、必死で子ぎつねを抱きしめる。取り上げられてしまわないように。
「……おい、これ……」
「あ、あの……綾波さま……?」
「……だめっ! 悪いことしてないっ! ……だめッ!!」
それを見る男達は、みな一様に困惑する。
自分達はただレイを探すように言われ、連れて帰るよう指示を受けただけなのだが……。
子ぎつねの事なんて知らないし、何をするつもりも無いのだ。
「おねがい……おねがいっ……! 殺さないで……! ……おねがいっ……!」
でもレイは今、必死に子ぎつねを庇い、ひたすら身を固くして地面に蹲るばかり……。
どんなに声をかけてもイヤイヤと首を横に振るばかりで、まったく話が通じない。……正直な所、とても困ってしまっていた。
ただただ男達は、悲痛な叫びをあげてこの場に蹲る、少女を見つめる。
「……やれやれ、こんな所にいたの」
「ッ!?」
やがてこの場に、遅れてやってきたリツコの声が響く。
それを聞いた途端にレイは顔を上げ、即座にここから走り去ろうとするが、すぐに退路を塞がれてしまう。
今リツコがスタスタと、ゆっくりこちらに近づいてくる。
もうレイに出来るのは、少しでもという気持ちでジリジリと下がる事だけ。
それと、腕の中にいる子ぎつねをギュッと抱きしめる事だけ。決して取り上げられてしまわないように。
「…………はぁ。なんて顔をしてるのよ貴方。まるで悪魔でも見るみたいに……」
お言葉だが、もうレイからしたら正にその通りなのだ。
いまレイは目を見開き、顔面蒼白という絶望の表情でリツコを見つめ、プルプルと首を横に振っている。
この子を殺さないで――――そう必死で訴えるように。
「もういいから、早く車に乗ってちょうだい……お願いだから……。
話は家に着いてから聞くわ……」
「ほらっ! 歩きなさいファースト! 歩くのよっ!
……分かってるわよもう! 取ったりしない! その子取ったりしないから!
さぁ早くするっ!」
やがてアスカにペシペシ肩を叩かれたレイが、オロオロしながら車に乗り込んでいく。
ようやく迷子探しの任務を終え、三人を乗せた車が家に向けて走り出して行く。
家に着くまでの間、レイはずっと縋りつくような瞳でリツコの方を見ていたのだが……、もう彼女は心底疲れ果てた顔で、黙って運転をするのみであった。
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「あのね……? 殺すって言ってたのは、"寄生虫"の事なの。
貴方もその子に寄生虫が付いたままだと、困るでしょ?」
いまレイの頭上に〈ズガーン!〉と稲妻が落ちるのを、アスカは幻視した。
「アスカにはああ言ったけれど、貴方もう少し落ち着きなさいな。
感情で行動されても困るのよ私は……。ちゃんと理屈で行動して頂戴……」
アイアム科学者なのよ。そうリツコは言って聞かせる。
動物じゃなくて人間なんだから、考えて行動しなさいと。まるで子供に言って聞かせるように。
リツコはまだ未婚ではあるが。
「さっき投薬もしたし、もうこの子に触っても大丈夫だから。
餌やりでも水やりでも、なんでもして頂戴……」
「!」
その言葉を聞いた途端、俯いていた顔をガバッと上げるレイ。なんとも現金である。
「あ、でもあんまり構いすぎるのはダメよ?
ベタベタ触ってこの子のストレスにならないよう、ちゃんと気をつけなさい?」
(コクコク!)
もう残像が見える程の勢いで頷くレイの姿に、リツコはまたため息をひとつ。
これもパイロットのメンタルケアの一環だと思えば諦めもつく。もしそれでシンクロ率のひとつでも上がってくれるなら万々歳だ。もう嬉しくて涙が出そうである。
――――人類の平和は貴方にかかっているみたいよ? よろしくね子ぎつねさん?
そんな馬鹿な事を考えつつ、リツコが子ぎつねの身体をタオルで拭いてやりながら、軽い診察をおこなっていく。
「こらファースト! アンタちゃんとリツコにお礼言ったの?!
ちゃんとありがとうございますって言う! ほらっ、ごめんなさいって言うっ!」
「ッ!? ~~ッ!?!?」
グイッと頭を押さえつけられ、レイは目を白黒させる。
赤い鬼軍曹に促されるまま、レイは改めてリツコの傍に行き、ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます、赤木博士。……ごめんなさい」
「はいはい。もう怒ってないわ。この子と仲良くね」
「うわっ、甘ッ! リツコってこんなんだったかしら? もしかして偽物?」
ジトォ~っと睨みつけてみるも、アスカは「フフン♪」と涼しい顔。
またフゥとため息をつきつつも、どこかさっきよりも柔らかい雰囲気のリツコが、引き続き子ぎつねの診察をおこなっていく。
「貴方はいい子ね。あの赤い子とは大違い」
頭をよしよしと撫でてやりながら、じっと顔を近づけて観察する。
子ぎつねらしい小さな口に、パッチリ開いた大きなおめめ。
こうして見ると、この子はとても美人さんなのかもしれないと思う。将来が楽しみな逸材だ。
「ふむ……ん?」
しかしリツコは、少し子ぎつねの様子に、違和感を感じる。
「この子……大人しいわね」
「元々そうよ? アタシも身体洗ってあげたけど、ぜんぜん暴れたりしなかったもの。楽なモンよ」
「大人しすぎる……と思わなかった? この子は"野生動物"なのよ?」
リツコの言葉に、一瞬言葉を無くす二人。
やがてリツコが、子ぎつねの顔のすぐ前に両手を持っていき、そこで〈パンッ!〉と手を叩く。
「ッ!?」
「んひぃ!?」
音にビックリしたレイとアスカが、ビクッと身体を跳ねさせる。
……しかし、いま目の前で音を鳴らされたハズの子ぎつねは……無反応。
どこを見るでもなく、ただ前を向いているように見えた。
「ちょ……! リツコなにすんのよ……」
「――――静かに」
そしてリツコが、子ぎつねの顔の前に手のひらをかざす。
ゆっくりと右、左、右……そうやって手をフリフリとかざしながら、子ぎつねの反応を観察する。
子ぎつねは、顔を動かさない。その瞳すらも。
今もただ、何事も無かったかのように、じっと前を向いている――――
「貴方たち、この子が鳴いている所、見た事ある?」
無い。
二人とも、今まで一度もこの子が鳴いている姿を、見た事が無かった。
「……レイ、明日この子を獣医に診せに行くわ」
さっきまでとは違う、真剣な声色。その様子に二人が目を見開く。
「詳しい事は、まだ分からない。
……でも恐らくこの子、
アスカの身体が跳ね、持っていた鞄が床に落ちる。しかしその音がなっても、子ぎつねは無反応。
驚く様子も、顔をこちらに向ける様子も無く、ただその場で佇んでいた。
「なんて事……まるでヘレン・ケラーじゃないの。
目も視えず、耳も聞こえないだなんて……」
リツコの重い呟きが、この場に響く。
未だアスカは口を開く事が出来ず、ただその場で立ちすくんでいる。
……そんな中、レイがそっと子ぎつねの前に立ち、優しくその身体を抱き上げる。
じっと、慈しむようにして子ぎつねを見つめ、小さく呟く。
「――――ヘレン」
リツコとアスカが見守る中……レイは柔らかな笑みを浮かべ、子ぎつねを見つめる。
「この子は、ヘレン――――」
……やがて、嬉しそうに子ぎつねを抱きしめるレイの姿を見ながら、アスカが呆れたように呟く。
「アンタね……いま名前なんて……」
「ヘレン。あなたは今日からヘレン。ヘレンって呼ぶわ――――」
いままで見た事がない、とても暖かな表情のレイ。
目を閉じ、そっと子ぎつねに頬擦りをする、慈愛に溢れた姿。
それを見て……二人はもう何も言えなくなってしまう。
この美しい光景を壊す事が、出来ずにいる……。
「ヘレン、ヘレン?
わたしは綾波レイ。貴方の名前はヘレンよ。ヘレン――――」
やさしく背中を撫でられ、ヘレンがくすぐったそうに身じろぎをする。スリスリとレイの胸に頬擦りする。
それはまるで、お母さんに甘えてるみたいに。