子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ 作:hasegawa
「……」
今回の実験が行われている施設の、休憩所。
そこに今、眉をウムムと曲げながら本を読んでいるレイの姿があった。
「じぃ~」
別に声を出して言っているワケではないけれど……、でも傍目から見たら本当にそう聞こえて来そうな程、レイの顔は真剣そのものだ。
彼女が今読んでいるのは"奇跡の人"というタイトルの本。
あのヘレン・ケラーについて書かれた物語だった。
ぐっと本に顔を近づけ、前のめりになりながら、レイはフムフムと目で文章を追っていく。
『サリバン先生の熱心な教育のお陰で、ヘレンは世の中の物には全て名前がある事を知りました。そして次々に世界を広げていったのです――――』
かの有名な偉人、ヘレン・ケラー。
彼女は一歳の時に重い病気にかかり、視力と聴力を失ってしまう。
目も視えず、耳も聴こえず、言葉を話す事も出来ないヘレン。そんな彼女の家庭教師として招かれたのが、アン・サリバンという若い女性だ。
いままでずっと暗闇の中で生き、音の無い世界に生きてきたヘレン。そんな彼女と意志の疎通をする事は困難を極めた。
何故ならヘレンは言葉を話す事も、聞く事も出来ない。それどころか、この世界に"言葉"という物がある事すらも知らないのだから。
まるで動物のように暴れまわる彼女に悪戦苦闘しながらも、サリバン先生の試行錯誤の日々は続いていく。
辛抱強く、そして愛を持って寄り添うサリバン先生の教育が実を結び、やがてヘレンは言葉を学び、名前を知り、そして世界という物を理解していく――――
この本に書かれているのは、その過程。そしてヘレンケラーとサリバン先生の軌跡。
美しい絆の物語であった。
「ヘレンも、目が見えない。耳が聞こえない。
世界を、知らない……」
それがどんな事なのか、レイには想像する事しか出来ない。
けれどこの本を読んで、ヘレンケラーとサリバン先生の物語に触れて、いま心に思う事がある。
「やくそくしたわ。守るって。ヘレンのそばにいるって」
まだ考えは、纏まらない。何をどうすれば良いのかも分からない。
けれど、きっと私にも、出来る事がある――――ヘレンの為にしてあげられる事が、沢山あるハズ。
この上ない愛をもって寄り添い続けた、サリバン先生のように。
私も、やらなくてはならない。がんばらなくてはならない。そうレイはぐっと心に誓う。
いま彼女の傍らに置かれているのは、カラフルな模様のネームプレート。
先ほど加持さんに車を出してもらい、文房具屋さんで購入して来た小さなプレートである。
いま、文字を自由に組み合わせて作るタイプのそれに書かれている名前は「ヘレン」
帰ったら、ヘレンのケージに付けよう。あの子は喜んでくれるだろうか?
そんな事を思い描きながら、レイは引き続き、ムムムと本を読み進めていった。
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本当に、レイを連れて来なくて良かった……。
最近ため息をついてばかりのような気がするが、心からそう思いつつ、リツコは車を走らせていく。
いま助手席にいるのは、ゲージに入ったヘレン。優しい車の振動や揺れが心地いいのか、何やら機嫌良さそうに寛いでいる。
リツコ的には、「こちらの気も知らないで……」と思わない事も無い。
こんな愛らしい子に当たり散らす気など更々ないが、それでも今のリツコはそう思わざるを得ない。
それほどに、先ほど動物病院でしてきた会話は、リツコを疲労させうる物だったのだ。
「あんなの……とてもじゃないけどレイには聞かせられないわ……」
朝から任務だという事で、レイは一緒には連れて行けなかった。
子供のように喚き散らすのではなく、ただ無言で「じぃ~」っと見つめられるというレイ独特のゴネ方も、散々リツコの精神をゴリゴリと削ったものだが……。
しかし、本当に連れて行かなくて正解だったと確信している。あの場にレイがいたら、いったいどんな面倒事が起こっていたのやら。
「さ、どうしましょうね?
なるようになる……と言うには、これは大きすぎる問題だわ」
なんで私がこんな苦労を……今頃グルメ雑誌を頼りに食べ歩きをしたり、のんびり温泉に入っているハズだったのに……。
そんな事を思うも、現実は非情である。
自分もセカンド・インパクト世代の人間だし、そんな事は身に染みて分かっているけれど。
そうして本日何度目かのため息をつきながら、やがてリツコの運転する車が、家へと到着する。
車を車庫に入れ、ヘレンのゲージをよいしょと抱えながら、玄関の扉を開けた。
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「おかえり、リツコ。どうだったの?」
リビングに入ると、ソファーに寝そべりながらゲームをしているらしきアスカの姿があった。
恐らく予定通りに実験が終わり、今日は遊びに行かず直帰してきたのだろう。のほほんと寛いでいるのが見て取れる。
「ただいま。……まぁひとつ言えるのは、ろくなモンじゃなかったって事ね。
もう診察をしてもらうのも一苦労。
ネチネチ、ネチネチ……思い出しただけでも腹が立つわ」
キツネは野生動物だ。ペットを持ち込むのとはワケが違う。
それは充分に理解していたつもりだったけど……、まさかここまで渋い顔をされるとは思ってもみなかった。
ヘレンを連れて行った時、獣医の顔にはもうアリアリと「厄介事が来た。勘弁してくれ」と書かれていたのだ。
野生動物というのは、法律上"無主物"という扱いになっていて、ペットにする事が法律で禁じられている。
この子は
つまり、獣医師からしたら野生動物というのは「診療費が取れない厄介者」
たとえ怪我をした野生動物を見つけて病院に持ち込んだとしても、その人にお金を支払う義務など発生しない。
だから診察をするかどうかなど、獣医の意志ひとつ。当然"診察拒否"なんて当たり前だ。
リツコが動物病院を訪れた瞬間、もうどれだけ困った顔でネチネチ言われた事か。
正直リツコは、すこしキレそうになった。ああいった男は見ていて腹が立つ。
「ま、とりあえずは診て貰えたわ。散々拝み倒してね……。
お金を払うって言った瞬間、クルッと手のひらを返してたわ、あの男。
……でもヘレンの症状を話した途端、またすぐ顔色を変えてたけどね」
充分な経済力を持つ相手だと知り、獣医師はもう「どうぞどうぞ」と言わんばかりにリツコを中へ通した。
しかし、少しヘレンの症状を聞いた途端、一瞬にしてその表情を曇らせる。
「獣医ではないけれど、私も職業柄、生き物の事には詳しいつもりよ。
だからまぁ……彼が何を思っていたのかは、ある程度理解が出来るわ」
先ほどまでの陰湿さでも、軽薄さでもなく……それは心からの"絶望"の表情。少なくともリツコにはそう見えた。
「……ねぇリツコ?」
「ん、何?」
「アンタ達がどんな話してたか、当ててみせましょうか?」
アスカは相変わらずソファーに寝そべり、ゲーム画面を見つめたまま。
「――――
……あの時、ヘレンの症状を診察し終えた獣医は、沈痛な面持ちで告げた。
『目が視えない事はともかく、キツネにとって耳が聞こえないというのは致命的です。
仲間の声が分からないばかりか、敵の判別すら出来ない……。
母親とはぐれてしまったのも、恐らくはそれが原因でしょう。
この子には母親の声が届かず、母親を呼ぶ事も出来ないのだから』
耳が聞こえない、それは「正しく声を出す事が出来ない」という事でもある。
ヘレン・ケラーもそうだったが、彼女は別に喉が使えなくて話す事が出来ないのでは無い。
自分の出す声が聞こえないからこそ、"声の出し方"が分からない。喋り方を学ぶ事が出来なかったのだ。
そしてそれは、子ぎつねのヘレンも同じ。
恐らくは「おかあさーん!」という鳴き声が出せなかった為に、ヘレンは母親を呼ぶ事が出来ず、はぐれてしまったのだろう。
『特に目立った外傷はないようですが……恐らくは何かしらの事故により、
脳に損傷を受けたのだと思われます。
私はもう何十年も獣医をしてますが、目も耳もダメな患者など、見た事がない。
……今まで診てきた動物たちが、全て軽傷に思えてしまう程だ』
下を向き、リツコの顔を見れないまま、重い声で獣医師が語る。
『この子は幼い。手術をするにしても、それに耐えうる体力がありません。
その手術すら、どれほど難しい物になる事か……』
『……そして聴力の無いキツネは、ひとりで生きていく事が出来ません。
生きていけない事が分かっている……つまり
我々獣医の出番はありません……』
リツコはただ、耳を傾ける。いま目の前で苦渋の表情を浮かべる男の話に。
獣医という職業……この男が今まで、いったいどれほど同じような患者を診てきたのか。リツコには想像する事しか出来ない。
しかしその度にこの男は悩み、耐えがたい苦しみを味わってきたのだろう。
どうにもならない、助ける事が出来ない命を前に、心を削られて来たのだろう。
……それが男の表情から、見て取れる気がした。
『目が視えず、耳も聞こえない……。
貴方であれば、それが生き物にとってどういう事なのか、理解して頂けると思います』
『命とは、かけがえの無い物です。私もそれを救いたいが為に、この仕事をしている。
けれど……この子ぎつねにとって、生きる事は
幸せに生きていく為の術が……この子には無いんです』
『生まれつき翼の骨が無いトビ、脚を失ったタヌキ……色々な患者を診てきました。
けれど私が今まで"処置"をしてきたどの患者よりも、この子は重症なのです』
『……本当は、いつも逃げ出したくなる。なんで私の所に持って来るんだと……、
こんな事をしたくてこの職についたんじゃないと、叫び出したくなる……。
けれど……これも獣医という"命"を扱う仕事についた、私の役目なのだと思います』
獣医の男は真っすぐ向かい直り、リツコの目を見つめた。
『安楽死させてやるべきと、判断致します。
私でよければ、お引き受けします――――』
……あの時、リツコは判断する事が出来なかった。
このまま獣医師に頼み、安楽死という処置をしてもらう事が正しいのか……その結論を出す事が出来なかった。
今なら、もしかしたら傷は浅いかもしれない。
出会って3日という今ならば、レイが心に負う傷も浅くすむかもしれない。
このままヘレンを置いて家に帰り、後でレイに説明する。
安楽死という処置が決して残酷な物でなく、ただただこれはヘレンの事を思えばこその処置だったのだと、そう言って聞かせる事も出来たかもしれない。
考えるだけで気が重くなる……いや、ハッキリ言ってもう"恐怖"すら感じる事ではあるのだが、これでも自分は大人だ。
しっかりと理由を説いて聞かせ、泣きじゃくるあの子を抱きしめ、そしてやがて元気を取り戻してくれる時まで優しく寄り添う。
それが大人である自分の役目かもしれない、とは思う。
普段まわりがどう思っているのかは知らないが、リツコにだってそのくらいの良識はあるのだ。
しかし、もう一方の自分……決して切り離す事の出来ない"ネルフの科学者"としての自分が、頭の隅で顔を出す。
今回の件で起こるであろう、エヴァのパイロットであるレイへの影響……どうしてもそれを考えざるを得ない。
エヴァとはとても繊細な兵器だ。スイッチ押したら動くとか、レバーを入れたらビームが出るとか、そんな簡単な代物じゃない。
もしもレイがヘレンの事で心に傷を負い、そして万が一にでも彼女のシンクロ率に影響が出るような事があれば、今後の使徒殲滅に影響が出るような事態となれば……これはもうひとりの少女の問題だけでは無くなる。
有り体に言って、この世界に住む人類全てにとっての危機だ。
よく考えれば、いま我々は、もうとんでもない危機に直面しているのだ。
あの時、リツコが安楽死についての判断を下せなかった一因は、これにある。
昨日は冗談で言ったけれど……いま本当に私たち人類の存亡は、ヘレンという子ぎつねの双肩にかかっていると言っても過言じゃない状況なのだ。
――――おおヘレン! ヘレンよ! 貴方はなんという事をしてくれたのでしょう!
――――――どんな子ぎつねよ貴方は! どれほど影響力のある小動物なのよ!
これはもう、リツコが判断に困ってしまうのにも、頷けるという物だった。
まぁ今は、世界の事はいい。
決して良くないかもしれないけれど……とりあえずは横に置いておこうと思う。
とにかくリツコは、判断をしかねていた。
あの子ぎつねをどうするのか。そしてこれからどのようにすべきなのか。
どのようにするのが、あの子たちにとって一番良い事なのか……。
ひとりの人間としてヘレンの事を考えるならば、リツコはあの獣医が言っていた意見に賛同するだろう。
『この子ぎつねにとって、生きる事は苦しみでしかありません。
幸せに生きていく為の術が、この子には無いんです――――』
だから、安楽死という処置をとるべきと考える。
安っぽくて中身の無いヒューマニズム。そんな物は唾棄すべき物だと考える。
命という、誰もが素晴らしいと感じる物。不変の価値。
そんな響きの良い言葉だけを見て、本質を考えず、無責任にただ「生きろ」と言う行為が、このヘレンという子ぎつねにとって、どれほどの苦しみとなる事か。
そんな安っぽい考えが、勘違いの正しさが、いったいどれほどの"罪"であろう事か。
どれほど沢山の命を、苦しめてきた事か。
……けれど、判断が付かない。どうすべきなのか。
レイに今日の事を話し、そして納得してもらった上で、ヘレンの事を決めるべきなのか。
それとも傷の浅い今の内に、無理やりあの子からヘレンという命を、取り上げてしまうべきなのか。
その判断が、未だ付かずにいる――――
「参考までに……貴方はどう思うの?」
今もゲーム画面の方を見て、こちらを向こうともしないアスカ。
情けない、大人としてとても情けない事だけど……リツコはアスカにそう訊ねてみる。
自分では判断しかね、どこか縋るような気持ちもあったのかもしれない。
「生かしておくのが、救う事になるの?
私はただ苦しむだけと、そう判断するけれど……アスカはどう?」
アスカが「フッ!」と鼻を鳴らし、ニヤッと口角を上げる。
「そんなのアタシが知るもんですか。ヘレンにでも訊いてみたら?」
「……」
それが出来たら苦労しないでしょうよ……。
リツコはギロリとアスカを睨んだ後、なにげなくヘレンの方に目をやる。
今もゲージの中、丸くなってのほほんと眠るヘレン。
その愛らしさに毒気を抜かれ、リツコはまたため息をついた。
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「ヘレン、これは水。……みーず」
夕方、何気なく外の空気でも吸おうと散歩に出かけたアスカは、水道の所でなにやらやっているレイの姿を見かけた。
「みーず。みーず。……水っていうの」
ヘレンを抱きかかえ、前足をちょんと水道水に触れさせる。その繰り返し。
ヘレンの方はレイの腕の中、愛らしくジタバタしている。ちべたい、ちべたいと。
「あっ、もしかしたら英語の方がいいかもしれない……。サリバン先生は英語だったもの。
……ヘレン、うぉーたー。これはうぉーたーよヘレン? うぉーたー」
「……」
思わず真顔になり、ただただレイの方を見つめるアスカ。
なんか色々間違っている気がするけれど、とりあえずお前はウォーター(Water)の綴りが書けるのかと問いたい。問い詰めたい。
本家サリバン先生は、ヘレン・ケラーに水に触れさせた後、手のひらに指で文字を書いてやる事で言葉を教えていったというが……。
それをやるならWaterをはじめ、Wood(木)やSoil(土)やGrass(草)など、もう沢山の英単語を書けなくてはいけない。
アンタそれ出来んの? ネイティブな発音は? 無理せず日本語の方がよくない?
……というかその子きつねだし、言葉を教えるのって至難よ? きつねのキャパ超えてない?
この一瞬のうちに数えきれないほどのツッコミ所を見つけ、アスカはその場に真顔で立ち尽くす。
今ふとアスカの頭の中に「サリバン綾波」というプロレスラーみたいな響きの言葉が浮かんだが、すぐに忘れてしまう事とする。
ま、ファーストが楽しそうならいっか!
やがてそう思い直したアスカは、スタスタと散歩を再開した。
ちなみに現在、家のリビングでは、いつの間にかヘレンのゲージにカラフルなネームプレートが取り付けられているのを発見したリツコが「もう手遅れかもしれない……」と、ダーダー冷や汗を流していた。