子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~   作:hasegawa

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ごはん。

 

 

「……やっぱり、おかしいわ」

 

 旧北海道の豊かな自然に囲まれたコテージ。その中の一室である、アスカに宛てがわれている部屋。

 

「野生動物なら、警戒するのが当たり前……。

 そうは思ってたけど、あの様子は異常よ」

 

 ボソリと呟いた声が、静寂の中へと消えていく。

 いまアスカは、ひとり薄明かりの中でデスクの席に着いている。彼女の周りには、動物医学やキツネの生態について書かれた本が、積み上げられている。

 これらは先日、アスカが地元の研究員の方に同伴を頼み、図書館から借りてきた物だった。

 

「目も耳も不自由……それは関係ない。

 キツネは元々視力の弱い動物だし、聴力が無い事も今はいい。

 そこは問題じゃないのよ」

 

 日本語には漢字という物があるし、それには若干手間取りはするものの、辞書が手元にあれば問題はない。

 どれほど難解な内容であろうとも、こういった本を読み解いていくのはお手の物。

 若干14才という若さで大学を出た彼女の頭脳は、お墨付きだ。

 

 しかしながら……アスカの表情は冴えない。

 今読んでいるのは、動物について書かれている本。あの子ぎつねヘレンについての調べもの。

 しかしどれだけ本を読み進めても、アスカの疑問に対する答えが見つからない。彼女の表情はさらに深刻になっていくばかり。

 

「あの子が変わり者? 特別臆病な子なの?

 ……そんなワケないわ。生き物にとって、生きる事は問答無用なのよ」

 

 静かに席を立ち、アスカは自室を出てリビングへと向かう。

 入ってすぐ、部屋の一角のスペースにヘレンのケージを見つけ、薄明かりの中じっと覗き込んでみる。

 

 充分な広さがあるゲージの中には、ヘレンの寝床となる可愛らしいサイズの小屋が入れられている。現在ヘレンはその中でスヤスヤとおやすみ中だ。

 

 そしてケージの隅には、エサやミルクの入ったお皿が置かれている。いつでもヘレンが食べられるようにと、レイが用意している物だ。

 

「……」

 

 見た所、お皿の中には充分な量のエサが入っているようだ。

 恐らくヘレンが踏み散らかしてしまったのか、多少のエサやミルクがその周りに散乱してはいるが……今もお皿には充分な量が入っている事が分かる。

 

「……」

 

 

 やがて無言でその場を後にしたアスカは、再び自室のデスクに着き、読書を再開する。

 

 夜は更けていく。けれどアスカは真剣な表情のまま、次々に本を消化していく。

 

 その夜、アスカの部屋から明かりが消える事は、無かった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「おはよう、ヘレン」

 

 早朝。いつものように「朝が待ちきれない……!」といった様子で早起きをしたレイが、トコトコとリビングにやってきた。

 早速ヘレンのケージの傍にしゃがみ、柔らかな表情でぐいっと中を覗き込む。

 

「ヘレン、おきてる。

 えらいわヘレン。早起き」

 

 本当はこうしてリビングではなく、レイの部屋で一緒に寝たかったのだが……それはリツコにより却下されていた。

 先日ヘレンは寄生虫を退治する為の薬を飲んだが、それが完全に外に排泄されるまでは、暫く時間がかかるのだ。

 

 子ぎつねはそこらじゅうにフンやおしっこを散らかしてしまうので、そこから人間に感染してしまう危険性もある。

 だから暫くの間は、しっかり新聞紙やビニールをしいて準備をしたこのリビングの一角にヘレンのケージを置くよう、リツコに言い付けられていたのだった。

 

 一応そろそろ大丈夫と言われているので、今夜からはレイの部屋にケージを運び、一緒に眠るつもり。

 ヘレンの事を気にしながらソワソワして眠る日々は、もう終わりだ。

 

 

 ヒョコっと檻から顔を覗かせ、まるで進〇の超大型巨人みたいな感じで「じぃ~」っと中を見つめるレイ。

 なにやら朝のヘレンの様子を観察しているようだ。

 

 ちなみに今ヘレンは、ゲージの中をお散歩中。

 子ぎつねらしい愛らしい動作で、ゆらゆらトテトテと、ゆっくり歩いているのが見える。

 

「あっ……」

 

 レイの見守る中、いまヘレンが〈コツン☆〉と柵に頭をぶつける。

 まっすぐに進んでいたヘレンは、どうやら目の前にある柵に気付く事が出来ず、そのままぶつかってしまったようだ。

 

「……!」

 

 レイは思わず手を伸ばそうとしたが、かろうじて踏み止まる。

 本当は「だいじょうぶ?!」と抱き上げ、痛いの痛いのとんでいけ~的な事をしてあげたかったのだが、その直前で手を止めた。

 

 何故ならゆっくり歩いていた事もあり、特にヘレンには痛がっている様子もなく、すぐにトテトテとお散歩を再開したからだ。

 

「……っ! ……っ!」

 

 レイがハラハラと見守る中、柵にぶつかったヘレンは右に進路を変え、またトテトテと歩き出す。

 そして暫くするとまた〈コツン☆〉と柵にぶつかり、そこでまた進路を右に変えて、再び歩き出す。

 

「……ヘレン、いたくない? だ、だいじょうぶ……?」

 

 ヘレンは目が視えない。目の前に障害物があっても、避ける事が出来ないのだ。

 まぁぶつかると言っても、本当にゆっくり歩いているので大丈夫なのだが、それでもレイは心配そうにヘレンを見守る。

 それはもう「あわわ……あわわ……」といった様子で、なんだか両手までワチャワチャ動かしている。今にもヘレンに手を伸ばしてしまいそうな様子だ。

 

「……あ」

 

 しかしレイが見守る中……いまトテトテと歩いているヘレンが、今度は柵にぶつからずに、その寸前でクルッと進路を右に変えてみせた。

 またそのままトテトテと柵まで歩いて行き、ぶつかる寸前でクルッと進路を変える。

 そうやって、なんと柵にそって歩き始めたのだ。

 

「……おぼえた? 柵までどれくらいあるかを、おぼえたの……?」

 

 やがてヘレンは一度も頭をぶつける事なく、ぐるっと柵のまわりを一周する事に成功する。

 目の視えないハズのヘレンは、こうして何度か繰り返す事でしっかりと柵までの距離を覚え、見事ぶつかる事なく一周してみせたのだ。

 

「すごい、すごいわヘレン。

 まだちいさいのに……ヘレンはこんなすごい事ができる」

 

 やがてお散歩に満足した様子のヘレンが立ち止まり、前足でクシクシと顔をかき始める。

 それを見たレイはそっとヘレンを抱き上げ、スリスリと頬擦りする。

 

「えらいわヘレン。こんな事わたしにもできない。

 ヘレンはとってもかしこい。すごい子だわ……」

 

 もしかしたらヘレンは、超能力者なのかもしれない。

 あ、でもヘレンはきつねだから、超能力きつねかも……。

 そんな事を思いつつも、レイは嬉しそうにヘレンの頭を撫でる。よしよしと褒めてやるように。

 

 

 目が視えなくても、耳が聞こえなくても、ヘレンは立派に歩いて見せた。世界を把握して見せた。

 

 その事にレイは深い喜びを感じ、そして心に希望の火が灯る。

 

 きっとヘレンなら、この世界で生きていけると。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「…………」

 

 レイが実験場へと出かけていった後……それと入れ替わるようにして、今リビングにはアスカの姿がある。

 

 今日は彼女は休み。任務の予定はない。

 恐らく、あれから一睡もしていなかったであろうその顔は、いつもの彼女らしからぬどこか生気のない物。心なしか目は座っているように見えた。

 

「……ねぇ? いつまでそうしてるつもり?」

 

 ただケージの前に立ち、静かな声で語り掛ける。

 いま目の前にいる、小さな生き物に対して。

 

「待ってるの? ママが来るのを。

 ……そうやって待ってたら、ママが迎えに来てくれるの?」

 

 ケージの中を一瞥し、状態を把握する。

 そしてアスカは、まるでつまらない物でも見るような目で、ヘレンを見つめる。

 

「ただ何もせず、じっと待ってたら……ママに会えるって? 助けてくれるって?」

 

 ただその場に座り、ぼんやりと遠くを見つめているヘレン。

 そんなこの子の身体をアスカが掴み上げ、乱暴にケージの外へ出す。

 

 

「――――来ないわよ、ママなんて。

 アンタこのまま、ひとりぼっちで死ぬのよ。そんな事してても」

 

 

 

 

 

 

 

 

 リビングに、子ぎつねの声が響く。

 

「ギャン! ギャン!」というヘレンの鳴く声が、幾度も辺りに響いた――――

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 夕方。送迎の車に乗って、レイが帰宅してきた。

 

 珍しく今日の任務は夕方までかかり、レイは一日中ヘレンの事が気がかりで、なんだかソワソワしながら過ごした。

 生来の責任感から、一応任された仕事は全てキッチリこなした物の、もう早く家に帰りたくて仕方ない。

 

 短く運転手に礼を言い、車から飛び出したレイは、急ぎ足でテテテと家に向かって行く。

 

「――――戻ったのねファースト。おかえり」

 

 靴を脱ぎ捨て、ドタバタとリビングに辿り着けば、そこにはソファーにねそべっているアスカの姿があった。

 ゲームのコントローラーを握り、こちらを見る事も無く、レイにおかえりの言葉を告げる。

 

「あぁ、もうこんな時間なのね。忘れてたわ。

 ファースト、こっちに来なさいな。ヘレンにエサをやるから」

 

 ダルそうに掛け時計を見た後、アスカは乱暴にゲームの電源を落とし、ソファーから起き上がる。そしてスタスタとヘレンのケージまで歩いていく。

 

「……?」

 

「ん? なにボサッとしてんのよアンタ。はやく来なさいよ」

 

 ギロリと、座った目つきでレイを睨みつけるアスカ。その声もどこか、苛立ちを感じさせる物。

 

「えさ? ヘレンのえさは、中に入ってるわ。

 お腹が空かないように、いつもたくさん入れてるの」

 

「はぁ? アンタばかぁ?」

 

 そう吐き捨てながら、アスカがヘレンを掴み上げる。そのどこか乱暴な仕草に、思わずレイが息を呑む。

 

食べるワケないでしょ(・・・・・・・・・・)! そんなもの!

 この子は野生動物、しかも子供なのよ?!」

 

 ケージの中からエサのお皿を取り出し、乱暴に置く。その衝撃で少しミルクが床へ零れる。

 

「いい、ファースト?

 アンタそこで見てなさい。あたしが全部やるから」

 

「……ッ」

 

 いまアスカが、床に胡坐をかいた姿勢で、ヘレンを膝の上に乗せた。

 その手荒な扱いに、ヘレンがジタバタと暴れる。それを意に介する事無く、強引に頭を押さえつける。

 

「ミルクをやる時は、このストローを使いなさい。

 いい? しっかり見てなさい。次からはこれ、アンタがやるんだから」

 

 次の瞬間、アスカが無理やりヘレンの口をこじあけ、手にしていたストローをねじ込む。

 その途端ヘレンが激しく暴れ出し、「ギャン!」という鳴き声を上げて必死で抵抗する。

 

「……ッ!!」

 

 どれだけ暴れようとも決して止める事なく、指で口をこじ開けて無理やりミルクを飲ませていくアスカ。

 前足でアスカの手を引っ掻き、必死に後ろ脚を蹴り出して逃げ出そうとするヘレン。

 その光景を目にして絶句していたレイが、縋りつくようにアスカの腕に飛びつき、懇願する。

 

「やめて……! ダメッ……! ヘレンをいじめてはダメッ……!」

 

 アスカは手を止めない。歯を食いしばり、目を見開いた形相のまま、ヘレンの喉にストローを押し込む。ミルクを流し込む。

 必死に暴れ、必死に吐き出そうとするヘレンの口元からミルクが飛び散り、どんどん床に零れていく。二人の服を汚す。

 

「――――邪魔をするなッ!」

 

 おもいっきり腕を振り、しがみついていたレイを弾き飛ばす。レイの身体が強く壁にぶつかり、そのまま床に倒れ伏す。

 

「見てろって言ったでしょうがッ!!

 次からはアンタがッ! アンタがこれをやんのよッ!!」

 

 憤怒の表情で、アスカがレイを睨みつける。

 

 

『――――こうしないと死ぬのよッ!!

 こうしないとコイツは、エサを食べられないの! 食べさせないと死ぬのよッ!!』

 

 

 手にしていたストローを投げつける。

 それはビシャリとレイに当たり、ミルクがその顔を汚す。

 

 

『食べられないのッ! お皿なんか置いてたって、コイツには食べられないのよ!

 それがエサだって、コイツには分からない(・・・・・・・・・・)ッ!!

 ――――食べ物なんだって、分からないのよッッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 アスカが立ち上がり、押し付けるようにしてヘレンをレイに渡す。

 そして顔を伏せたまま、ズカズカと音を立て、リビングから出ていった。

 

 

「…………」

 

 レイはヘレンを抱きしめたまま、未だ呆然としている。

 目を見開き、動く事も出来ぬまま、ただその場に座り続ける。

 

 今聞いた言葉が、何度も何度も頭の中で響いている。

 

 この子には、ごはんが分からない(・・・・・・・・・)

 食べさせないと、死んでしまうのだと。

 

 

「…………ッ」

 

 やがて、未だ虚ろな目をしたまま……レイがいま腕の中に居るヘレンへ目を向ける。

 

 暴れる事を止めたヘレンは、どこを見るでもなく、ただ遠くを見るようにぼんやりと抱かれている。

 

「……ヘレン……ヘレン」

 

 涙が滲む。レイの瞳はいつの間にか涙で滲み、視界がぼやけていく。

 世界が……輪郭を失っていく。

 

「……ヘレン、ミルク。

 ミルクよ……? 飲んで……」

 

 震える手でお皿を手繰り寄せ、ヘレンの口元へ持っていく。

 だがヘレンには何の反応もない。ただただ今もぼんやりと前を見つめ、ただじっとしているばかり。

 

 

「ヘレン……? いい子……いい子だから……。

 飲んで、ヘレン……ヘレン……」

 

 

 

 レイの目から涙が零れ、頬を伝っていく。

 ヘレンは今も、ぼんやりと前を見つめている。

 

 すぐ口元にあるのは、子ぎつねの大好物であるハズの、おいしいミルク。

 

 その匂いを嗅ぐ事も無く

 口を付ける事も無く。

 

 まるで目の前には、なんにも無いかのように。

 

 ただぼんやりと、世界を見つめている――――

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

「アスカ、平気?」

 

 

 家の傍にある、大きな木の下。

 リツコは突然家から飛び出して行ったアスカを追い、ここへやって来た。

 

「…………平気って、何がよ?

 アタシはちょっと、外の空気を吸いに来ただけなんだけど?」

 

 まるで縋りつくように、母親の胸に顔を埋めるようにして、木に額を当てていたアスカ。

 彼女はリツコがやって来た事を知り、ゴシゴシと乱暴に目を拭った後、腰に手を当ててそちらに向かい直った。

 

「……そ。ならいいの」

 

 静かにそう告げて、リツコは白衣のポケットからたばこを取り出す。

 ゆっくりとした動作でジュボッと火を着け、何気なく夜空を眺めながらスーっと煙を吐き出した。

 

 その様は、まるで何かを待っているように。

 ならいいと言いつつも、この場から動こうともせずに、静かに時を待つ。

 決してアスカをせかす事無く、のんびりたばこを吹かしながら。

 

「……最初はね? そういうモンかな~って、思ってたのよ」

 

 やがて、未だ目を伏せたままのアスカが、静かに口を開いた。

 

「エサを食べたがらないのも、無理ないって。

 だってあの子は野生動物で、しかもまだ子供なんだもの。

 しょうがないわねって感じで、ミルク飲ませてたの」

 

 野生の子ぎつねは、お皿に入ったミルクなんか飲まない。たとえそれが大好物であっても、どれだけお腹が空いていたとしても、そんなあげ方では飲んでくれない。

 

 野生動物の子供は、お母さんからエサをもらって食べるものだ。

 子ぎつねは、エサを持ってきてくれたお母さんの「ごはんよー」という声を聞き、それを合図に「わーい」とご飯を食べる。

 

 ようは、そのお母さんの合図が無いと、ごはんを食べられない(・・・・・・・・・・)のだ。

 

 だからケガで入院した野生動物の子供は、人間が「はいどうぞ」とお皿でご飯をあげても、決して食べてはくれない。見向きもされない。

 人は動物の声で「ごはんよー」とは言えないから、これがエサである事を、その子に教えてやる事が出来ない。

 

 だから獣医さんは、今日アスカがやったように、ストローなんかで直接ミルクを飲ませてやる。

 そりゃあ最初は「なにするんですか!」と暴れるし、怖い想いはさせてしまうけれど……そうしないと飲んでくれないから仕方ない。

 ご飯を食べないとケガは治らないし、元気にだってなれないのだ。

 

「でもね……? 何度やってもそうなの(・・・・・・・・・・)

 何回ミルクをやっても、その度に必死で吐き出そうとするの。

 どれだけお腹が空いてても……全然ミルクを飲もうとしないのよ」

 

 普通、こうして無理やりにでもミルクを飲ませなければならないのは、最初の一日目だけだ。

 たとえ怖い思いをしたとしても、一度ミルクを飲んでその味を覚えたなら、子ぎつねはそれが「食べ物なんだ」と知ってくれる。 

 そうすれば無理やりに飲ませる必要なんか無い。次からは尻尾を振りながら、喜んでミルクを飲んでくれるようになる。

 

 けれど――――ヘレンはそうじゃない。

 何度ミルクを飲ませても、その度にヘレンは激しく暴れ、必死に口に入れられたミルクを吐き出そうとする。

 それは、明らかにおかしい事だった。

 

「それだけじゃないわ。

 ……あの子、ケージの中に置いてるエサ、踏み散らかしてるでしょう?

 食べようともせず、ただの障害物みたいに」

 

「…………」

 

「別に、踏んじゃうのは良いのよ。

 むしろこっちは、踏んで欲しくて、いつも多めにエサを入れてる所あるしね」

 

 キツネは綺麗好きなので、足に付いた汚れをペロペロ舐めて綺麗にする習性がある。

 なのでわざとケージの中に沢山エサを置いておく事で、それを踏んでしまったキツネが足をペロペロ舐めてくれるので、自然と「これは食べ物なんだよ」と教える事が出来る。

 

「けれど、いつまでたってもあの子は、エサを食べようとはしない。

 いつも足に付いたのを舐めて、ちゃんとそれを口にしてるハズなのに……、

 自分の踏み散らかしてるソレが"食べ物なんだ"って、あの子には分からないのよ」

 

 ヘレンがこの家にやってきて、もう5日目になる。

 その間ずっとヘレンはケージの中のエサを踏み散らかすばかりで、決してそれを食べようとはしない。

 

 レイがケージの中のご飯が減っていない事に気付かなかったのは、アスカが人知れずヘレンに餌やりをしていたからだ。

 お皿に残っている中から綺麗な物を選び、それをヘレンに無理にでも食べさせていたからである。

 

 もし仮にアスカがそれをしていなかったら、あの子ぎつねはもう……とっくに死んでいる。

 

 

「おかしい事は、他にもあるの……。

 普通キツネは、頭を低く下げて歩くものでしょ?

 あの子達は視力が弱いから、嗅覚を頼りにして周りの状況を知るの。

 だからいつも地面の匂いを嗅ぎながら、頭を低くして歩く。

 ……でもヘレンは、それをしない。

 くんくん匂いを嗅ぐ事もなく、いつもただ、ぼんやりと歩いてる」

 

 ギリリと、アスカが歯を食いしばる音が聞こえた。

 

「……だからね、リツコ?」

 

 俯いていた顔を上げ、アスカがこちらを向く。

 真剣な……どこか耐え難い痛みに堪えているかのような、そんな表情で。

 

 

「ヘレンが不自由なのは、目と耳だけじゃないわ。

 ……多分あの子には、味覚も嗅覚も無い(・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 あの子は、ご飯を食べようとしない。

 たとえ口に入ったとしても、それがご飯だと分からない。

 

 ヘレンにとってそれは、ただ口の中に入って来ただけの異物(・・)でしか無いんだから。

 

 

 

 リツコは無言でいる。何も言ってやることが出来ずにいる。

 

 いまアスカの脳裏に浮かぶのは、この数日のヘレンの姿。

 ヘレンが自分の腕の中で、泣き叫ぶ姿……。

 

 嫌がるあの子の口をこじ開け、無理やり喉にミルクを流し込み、エサを押し込んだ。

 幼いこの子の、胸が引き裂かれるような鳴き声を聞きながら。何度も何度も、それを繰り返した。

 

 アスカが今、涙で潤んだ瞳で、

 

 

 

「リツコ、食べてくれないのよ。

 どれだけお願いしても……食べようとしてくれないの。

 まるであの子、死にたがってるみたいに――――」

 

 

 

 

 

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