子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ 作:hasegawa
あかん……これは非常にあかん……。あかんヤツや。
リツコは使った事も無い関西弁で呟きながら、リビングで頭を抱えていた。
「レイだけじゃなく、まさかアスカにも影響が出るなんて……。
ヘレン、貴方という子は……」
現在夜の10時。子供たちはそれぞれ部屋に引っ込み、ここにはリツコひとり。
普通なら今ごろ、「あー疲れたわー」なんて言いながらのんびりとお酒を嗜んでいる感じの時間だというのに。貴重な貴重なリラックスタイムのハズなのに……リツコの表情は冴えない。
目の前にあるお酒に手を付けないだけでなく、もう両手で顔を覆ってしまっている。
こんなハズじゃなかった……そう言わんばかりに。
「そっけないフリをしておいて……もう両膝までドップリじゃないの。
あの子のあんな顔、初めて見たわよ」
いかにも「興味ないわ」という風に、我関せずのように見えていたアスカだが、恐らく彼女は独学で動物の生態や飼育について勉強し、人知れずヘレンの世話をしていたのだろう。
可愛がるばかりのレイでは足りない部分を、補ってくれていたのだ。
しかしそれは、アスカの心に深刻なダメージを与える事となる。
目と耳が不自由、そして味覚や嗅覚までも無いと思われる、獣医師でも匙を投げる程に重度の障害を持つ子ぎつねだ。
そんなあの子の世話をするには、未だ少女の域を出ないアスカの心には、荷が重すぎる。
見ているだけで心が和むような、愛らしい生き物。それを撫でたり抱きしめるのではなく、頭を押さえつけて無理やりエサを食べさせる。
暴れる身体を押さえつけ、手にひっかき傷や噛み傷を付けられながら、それでも口に指を突っ込んでエサを喉奥に押し込む。
子ぎつねの苦しむ鳴き声や、可哀想な姿を延々と見せつけられながら、何度も何度もだ。
そんな行為に耐えられる14才の子供など、いようハズも無い。
感受性豊かな時期の少女が、何も思わずにいられるハズも無い。心に傷を負わずにいられるワケがないのだ。
……アスカだって本当は、ただ子ぎつねを抱きしめ、優しく頭を撫でてやりたかったハズなのに。
「迂闊、だったわね……。アスカの境遇を考えれば、
親を失ってしまったあの子を見て、何も思わないワケがないのに……」
ただ母親に愛される為、喜んでもらう為に、エヴァのパイロットに選ばれる程の努力を重ねたというアスカ。その上で母親を失うという境遇。
あの子がどんな想いでヘレンを見つめていたのか、リツコには想像する事しか出来ないが……。
普段は唯我独尊に見えるアスカが持つ、愛情の深さ。彼女の本質的な部分。
それを自分は、見誤っていたように思う。甘く見ていた。
「どうすれば良いのよ……。レイだけじゃなく、アスカまでなんて。
もしヘレンに何かあれば、いったいあの子達にどんな影響が出るか……」
こんな時ミサトでもいればと思うが、あの飲んだくれは今頃、空にしたビールの缶でほののんとタワーでも作っている事だろう。こちらの苦労も知らずに。
なんだかんだありつつも、ミサトには立派にシンジの面倒を見ているという実績がある。
未婚であり、今まで子供の世話など経験した事の無いリツコには、正直この事態は非常に荷が重いと感じる。まだ不安定要素満載のエヴァを相手にしていた方がマシだ。
だから一度、ミサトにアドバイスでも聞けたらとは思うのだが……しかしヤツに弱みでも握られたらと思うと、なかなか気が進まない。
本当に、なんでこんな事になったのかしら……? 誰かタスケテ……。
ヘレンの"魔性の子ぎつね"とも言うべき前代未聞の影響力を想い、ただただテーブルに突っ伏すリツコであった。
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「ヘレン、ミルクよ? ……飲んで?」
朝になり、ゲージからヘレンを出してやったレイは、すぐ顔の前にミルクの入ったお皿を置く。
「ヘレン、お腹空いてるでしょう? ……ね?」
けれどヘレンは、ただぼんやりと何もない方を見つめるばかり。ミルクに口を付けようとはしない。
レイはヘレンと目線を合わせるように床に伏せ、じっとその姿を見守っている。
「飲まないと、大きくなれないわ……。
ね? たくさん飲んで、大きくなりましょう? ……ね?」
時折よちよちと、どこかへ行こうとするヘレンを、そのつど元の場所に戻す。
「ここよヘレン? ここにミルクがあるわ。……ね? 飲みましょう?」
辛抱強く見守り、何度も何度も声を掛けていく。たまにお皿の位置を調節したり、背中を撫でてやったりしながら。
けれどヘレンは、ミルクには見向きもしない。
アスカの言っていた通り、それがご飯だという事が分からないようだった。
「……っ!」
だが、いつまでもこうしては、いられない。
生き物である以上、ごはんを食べなくていい日なんて、ありはしないんだから。
やがてレイは意を決してヘレンを抱き上げ、そっと自らの膝の上に乗せる。……その手に小さなストローを持って。
「……ッ!」
昨夜の光景が、頭をよぎる。
昨日の晩、その光景が繰り返し頭をよぎり、レイは一睡もする事が出来なかった。
暴れるヘレンの姿。悲痛な鳴き声――――それを思い出す度に、レイの胸にズキリと痛みが走った。
レイの手が震える。目は虚ろになり、歯を食いしばっているように見えた。
その瞳が、じんわりと涙で滲んでいく。
それでも、ごはんは食べなくてはいけない――――ぜったいに食べさせなくてはならないのだ。
そうしなければ、この子は
「……ヘレンッ!」
ヘレンの口元に指をかける。その途端、まるで烈火の如くヘレンが暴れ出す。
「……ッ! ……ッ!」
必死に逃げ出そうとする。「痛い事をされる。怖い事をされる」と、ヘレンが前足も両足もピーンと前に出し、必死で抵抗する。
それを力づくで押さえつけ……レイがストローを口の奥にねじ込み、ミルクを喉に流し込む。ミルクを飲ませていく。
「……ッ! ……ヘレン、おねがい……! おねがいッ……!」
上手くいかない。今もヘレンは必死に首を振り、口からストローをどけようと暴れている。
床にも、服にも、レイの顔にも……そこら中にミルクが散らばっていく。
ヘレンは口に入ってしまった
「いやだ。いやだ。やめて」、悲痛な鳴き声を上げて、力いっぱいに抵抗する。
その姿に……レイの心は何度も折れそうになる。
「ヘレン……! ヘレンッ……!」
細切れにした生肉を、ピンセットで喉の奥へ押し込む。その度にヘレンが苦しそうに鳴き、必死で吐き出そうともがく。
「……ッ!」
ガブリと噛みつかれ、レイの指に赤い血が滲んでいく。それでも決してヘレンを離さずに、口をこじ開けてエサを食べさせていく。
どんなにヘレンが、嫌がろうとも。指が痛もうとも。
……そんな二人の様子を、リツコは部屋の入口の所に立ち、じっと見つめる。
今ようやく腕から解放され、「ギャン! ギャン!」と声を上げて怯えているヘレン。そして放心したように、ただその傍で座り込んでいるレイの姿を。
いまレイは力なく項垂れ、まるで固まってしまったかのように、動こうとしない。
その瞳はもう……何も映していないように見えた。
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時刻は昼時になり、再び二階の方からヘレンの悲痛な鳴き声が、絶え間なく聞こえている。
いまも必死に暴れ、もがき苦しんでいる声が聞こえてくる。
そんな中、リビングではアスカが感情の見えない表情のまま、ソファーに寝そべって雑誌をめくっていた。
「さっき動物病院に連絡を入れてね?
今からヘレンを連れて、行って来ようと思うの」
キッチンで紅茶の用意をしながら、リツコがそう声を掛ける。
「ふーん。……で?」
「先生が言うには、いま雌のキツネが一匹入院しているそうなの。
一度その子とヘレンを会わせてみたらどうかって、勧められてね。
よかったらアスカもどう?」
紅茶を手渡しつつ、努めて普通の声色で話しかける。
リツコは本当になんでもない事のように、サラッとアスカに訊ねてみた。
まぁ昨夜の事もあったし……。未だどんな風に接すればいいのかを決めあぐねているリツコだ。
不自然になってなければいいけれど、と自嘲する。
「なんでアタシが行くのよ。必要ないでしょ?」
「……そ」
まぁプライドの高い彼女の事だ。昨夜リツコに弱音を吐いた事は、おそらくアスカの中では黒歴史となっている事だろう。
リツコは藪をつついて蛇を出さぬよう、黙ってテーブルに着き、紅茶を一口すする。
うん美味い。掛け値なしに。心がホットだ。
「……キツネってね? 誰の子供でも、分け隔てなく可愛がるの」
「ん?」
「たとえ自分の子じゃなくても、そんなの関係なく育てる。
まれに子供のいない雌が、余所の巣穴から子供を盗っちゃう事があるくらい……。
それくらいキツネって、愛情が深い動物なのよ」
こちらを向く事もせず、雑誌の方を見たままで、アスカは呟く。
「だから、良いと思うわ。会わせてみるの。
その雌のキツネも、きっとヘレンを見て大喜びするハズよ?」
なにやらぶすっとした顔。しかしどこか照れ臭そうに、アスカがそっぽを向く。
「アタシは、チャンスはあると思ってる。
もしヘレンが体力をつけて、ちゃんと治療を受けられれば……。
少しでも聴力が回復して、ちゃんと鳴き声さえ、出せるようになれば……。
他のキツネ達と一緒に、暮らせるかもしれないわ。
……適当な巣穴に放り込んどけば、後は勝手に育てて貰えるんだしね」
ミルクを飲ませてる時の反射的な物じゃなく、仲間や母親を呼ぶ為の"声"。キツネという動物の言葉。
これさえちゃんと出せるなら、ヘレンも仲間と共に生きていく事が出来るかもしれないと、アスカは語る。
「分かったわ。ありがとうアスカ」
「ふんっ!」
その後、あからさまに「いま雑誌読んでるの!」という感じを出し始めたアスカによって、会話は終了。
もう見事なまでのツンデ……いやアスカらしい振る舞いに、リツコはほんのり関心してしまった。流石アスカだと言わざるを得ない。
「それじゃあ、行ってくるわね。
とりあえず……レイがミルクをやり終わったら」
けれど……いまアスカの言葉を聞いたリツコの表情は、冴えない。
アスカの心遣いに、その期待に応える事が出来るかどうかは、まだ分からないから。
自分がこの後、決して彼女が望まない方法を選択せざるを得ない可能性も、充分にあるのだから。
やがて二階からしていた鳴き声が途絶え、ようやくヘレンのエサやりが終わった事を知る。
軽いため息をひとつ付いた後、リツコはレイを呼びに行く為、重い足取りで階段を上っていく。
アスカは今、そっぽを向いている。
だからリツコは、いま自分がしているであろう、とても酷い顔……それを見られていない事を幸運に思った。
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「この子は足を悪くしていまして。
もう随分長いこと、ここで面倒を見ているんです」
二人が連れられて来たのは、獣医さんの自宅。母屋というヤツだ。
案内されるままに部屋の入り口をくぐると、そこにはゲージの中に入った美しい雌のキツネの姿があった。
(どうやらアスカ博士の見解は、間違いなさそうね……)
リツコは、隣に立つレイの方を見る。
今もレイの胸にちょこんと抱かれ、ぼんやりとしている様子のヘレンを観察する。
(匂いを探る事もせず、何の反応もしない……。これは有り得ない事よ)
この部屋には、雌のキツネがいる。その匂いが染み付いている部屋だ。
ならば野生のキツネであるヘレンが、それに反応しないハズが無い。
「自分以外の動物がいる!」「大人のキツネがいる!」と分かれば、必ず何かしらの反応をする筈なのだ。
しかしヘレンは特に変わった反応を見せる事も無く、ずっと明後日の方を向いている。
やはりヘレンには、ここにいる雌キツネの事が、分かっていない。
その匂いを感じ取る事が、出来ないのだった。
「さ、ゲージの中に入れてあげて下さい。
この子も嬉しくて仕方ないみたいですから」
それに対して雌キツネの方は、もうヘレンがこの部屋に来た途端にソワソワとし出した。
「はやくこっちにきて!」とばかりに、せわしなくワチャワチャ動きまわっている。
愛らしい子ぎつねと出会えた事に、喜びを隠しきれない様子だ。
「大丈夫、この子はとっても優しい子ですから。
もうヘレンちゃんと遊びたくって、ウズウズしてるんですよ」
「……はい」
獣医さんに促されるまま、レイがゲージの方へと寄っていく。そして両手に乗せたヘレンを、そっと雌キツネに差し出した。
「クックック。クックック」
ちょこんと座るヘレンのもとに、雌キツネが鼻を近づけていく。その優しい瞳と、慈しむような仕草に、レイ達はただ目を奪われている。
いま雌キツネが、ヘレンの耳元にフッと息を吹きかけた。
子供と遊ぶように、コミュニケーションを取っているのだろう。
するとその時、ヘレンの耳がピクリと動く。
「おぉ……」
「あら」
獣医さんとリツコが、思わず声を漏らす。
いまヘレンが、耳を小さく動かし、尻尾をフリフリと動かしているのだ。
「ヘレン……」
レイも今、その姿に見入っている。愛らしく尻尾を振るヘレンの姿に。
キツネはイヌ科の動物だ。犬同様に感情が尻尾にもあらわれる。嬉しい気持ちの時は尻尾を振るし、その気持ちが大きければ大きい程、その回数も増える。
小さな尻尾がいま、可愛くフリフリと揺れている。
今までレイの腕に抱かれ、いつもただぼんやりとしているばかりだったヘレン。そんなこの子が初めて見せた"感情"だった。
「クック。クック」
それに大喜びしたのは雌キツネ。いま彼女はパタパタとケージの中をまわり、興奮気味に床をカリカリ引っかいたり、柵をトントン叩いたりしている。
「あぁ、エサを探しているのでしょう。
きっとヘレンちゃんにエサをあげたくてあげたくて、仕方ないんですよ」
もう雌キツネは「なにかないかしら? なにかないかしら?」と大騒ぎだ。きっと親キツネにとってエサを与える事は、愛情を与える事と同義なのだろう。
ヘレンの様子は相変わらずで、少し雌キツネの走り回る振動にビックリしてしまってる感じではあるが、この微笑ましい光景に、なにやらリツコは頬が緩んでくるのを感じる。
獣医さんがいったんこの場を離れ、すぐに細切れ肉の入ったお皿を持って戻って来る。
そして「どうぞ」と前に置いてもらった途端に、雌キツネはお皿の中身を全部パクッとくわえ、喜び勇んでヘレンの方に向き直った。
「クゥー、クゥー」
これは親キツネが、エサを運んで来た時に出す声だ。
子供たちに「ごはんですよー」と伝える、とてもやさしい鳴き声。
雌キツネはとても嬉しそうに、お肉で口をいっぱいにした顔を、ヘレンに近づけていく。
「クゥー、クゥー」
でもヘレンは、それに反応しなかった。
いくら雌キツネが「ごはんだよー」と鳴き、すぐ近くに顔を近づけて行っても、それに反応を返す事も無く、ただその場に座るばかり。
喜ぶどころか、オロオロしている感じすら見受けられる。
「……あぁ」
「…………」
獣医さんが、静かに声を漏らす。リツコはただ無言で見守るばかり。
いま雌キツネがドサッと口の中のエサを置き、ヘレンに「ほら」とあげようとした。それがペチョッとヘレンの鼻先にひっついた。
その途端、ヘレンは驚いた様子で、ジリジリと後ずさりし始める。雌キツネから離れようとする。
「ガッガッ! ガッガッ!」
これは、キツネが怒った時に出す声。レイ達も初めて聞く"ヘレンの怒っている声"。
どれだけ雌キツネがクゥクゥ鳴こうとも、ヘレンは後ろへと逃げ、怒りを露わにするばかり。
「なんて……なんて事……」
リツコの呟いた声が、静かに部屋に響く。
いま目の前にあるのは、何度もエサを咥え直しては与えようとする雌キツネの姿。そしてそれを懸命に拒んでいる、小さな子ぎつねの姿……。
『まるでこの子、死にたがってるみたいに――――』
脳裏に、昨夜のアスカの姿が浮かぶ。
彼女が血を吐くように、縋りつくように口にした言葉……。
いまリツコの目の前には、どうしていいのか分からずに途方に暮れている様子の雌キツネがいる。
彼女は困り果て、オロオロとヘレンと接する。そして悲し気な声で鳴き続ける。
「ごはんよ」
「ごはんよ」
「ほら、たべて」
「わたしのかわいい子」
その声は、決して届かない。
ヘレンはそれを、受け取る事が出来ない――――
レイの瞳から、一筋の涙が流れ、頬を伝っていく。
感情の薄い表情。自分が泣いているなんて、まるで気づいていないような泣き方。
それでも、確かに彼女の心は涙を流し、それが頬を伝って落ちていく。
ポタリ、ポタリと、床に沁み込んでいく。
そんなレイの姿に、もはやリツコは、目を逸らすしか無い。
それしか出来る事がもう、見つからなかった。
子供を愛する、生きて欲しいと願う気持ち――――
そんな、生物の親として当たり前の気持ちが、伝わらない――――
こんな事が、あっても良いのか。
生き物にとって、こんなにも悲しい事が、あるのか。
「……レイ、先に車に行ってなさい。
私は先生と、少し話をしてから行くから」
そうレイに告げ、先に戻らせる。
それからリツコは、未だ沈痛な表情のままの獣医へと向き直った。
「帰ってあの子を説得してみます。……少しだけ、時間をもらえますか?」
もはや、打つ手はない。
あの子たちにこの子は……ヘレンという命は、あまりに重すぎる。
目も視えず、耳も聴こえず、匂いも分からない。
食べ物を探す事も、食べ物だと知る事も、母親の愛を受け取る事も……出来ない。
「安楽死しかないと、私も思います」
この子にとって、生きる事は苦しみ以外に、ない。
そう自分に言い聞かせながら、リツコは踵を返し、レイのもとへ戻っていった。