子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~   作:hasegawa

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きねんび。

 

 

「あらレイ、指が傷だらけじゃないの。大丈夫?」

 

 このクソ重たい空気をなんとか出来ないものかと、リツコは必死で言葉を絞り出した。

 

「たくさん噛まれちゃったのね。でも獣医さんなんかでは、

 そういうのって日常茶飯事みたいよ? 気にする事ないわ。

 ……あ、ちゃんと消毒はした?」

 

「……」

 

 現在リツコはレイを助手席に乗せ、家までの道を運転中だ。

 ……少しでも、少しでもなんとかなんないもんかと思い、慣れない笑顔なんかを駆使して話しかけてはみるのだが、相変わらず車内の空気は重い。

 いまフロントガラスには、笑顔というか引きつっているリツコ自身の顔が映っていて凹む。

 

「そ、その手だとハンバーガーなんかは、食べづらいかもしれないわね。

 ……って、レイはハンバーガーなんて食べないわよね……。

 なら昼食は、何にしましょうか? レイは何が食べたい?」

 

「……」

 

 そういえばこの子は、お肉が駄目だった。失念していた。

 いつもうさぎのようにパリパリと野菜を齧るか、味気ない大豆食品を無表情でモソモソ食べている事を思い出し、苦笑いなんぞをしてみる。

 案の定フロントガラスに映る顔が凄い事になっていて、更に凹む。

 

 レイは今も大切そうにヘレンを抱き、じっと俯いている。

 もうギュッという音が聞こえそうな、しっかり両腕で抱きしめるその姿は、何があってもヘレンを手放さない事を暗示しているかのよう。

 今のこの子からは、たとえテコを使ってもヘレンを取れそうにない。なんかそんな風に感じてしまい、タラリ冷や汗をかく。

 

「たとえば麺類……おそばとか、うどんとか?

 ここは北海道なんだし、ラーメンも良いかもしれないわね。何がいい?」

 

「……」

 

 タスケテ。たすけてミサト。

 貴方のその無駄に楽観的な思考を分けて頂戴。今だけでいいから……。

 

 そんな風に思うも、ここにあの飲んだくれはいない。「ちょっちだけよ~?」とか言って笑いかけてはくれない。

 すなわち、自分でなんとかするしかないのだ。

 

「あ、ヘレンのエサやりなんだけど……その指じゃ大変そうだし」

 

 リツコは覚悟を決め、軽いジャブを出してみる事とする。

 自分はこの後、もう考えるだけでも鬱になりそうな話を、この子達にしなければならないのだ。

 責任ある大人として、是が非でもこの子達を説得しなくてはならんのだ。

 現在のレイの状態を探る為、ここはひとつジャブ的な物を繰り出してみようと思う。

 

「私が代わりましょうか? 私も一度ヘレンと

 

「ダメ」

 

 ――――斬ッ!!

 ほほう……これがいわゆる"一刀両断"というヤツですか。成す術も無く斬り捨てられたわ。

 

「わたしがやります。わたしの役目だもの」

 

「……そ、そうね」

 

 

 ブゥ~~ン! ブゥゥ~~ン!

 ……ただただ車を運転する音だけが、周囲に響く。

 

 あー綺麗だわー。北海道の景色はー。

 リツコは軽く現実逃避しつつ、この窓から流れていく美しい景色を、ぼんやりと眺める。

 

 

 ――――大人を、逃げるな。

 

 何気なく、昔観た事がある某CMの言葉を思い出しながら、リツコは車を走らせていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「貴方には、先に伝えておくわ。

 ……今日獣医さんと話をして、判断したのだけど」

 

 家に着き、レイがヘレンを抱えてトテトテと階段を上っていった後。

 リツコはリビングで出迎えてくれたアスカに対し、真剣な顔で向き直る。

 

「ヘレンを、獣医さんの方で預かって貰おうと思うの。

 ……いえ、貴方相手に取り繕った言葉は、通用しないわね」

 

「……」

 

 アスカは感情の見えない瞳で、リツコを見ている。

 せめてもの誠意として、それを逃げずにしっかりと見返し、ハッキリした言葉で告げる。

 

「――――安楽死の処置を取るわ。

 これが最善だと、判断したの」

 

 理由は、今更説明するまでもない。

 この状況は、自分などよりアスカの方が、よほど深く理解しているハズだから。

 

「貴方も知っての通り、あの子には手術に耐えられる体力は無い。

 たとえそれが出来たとしても、良くなる可能性は、極めて低い。

 この先あの子が生きていく事は、出来ないと判断する。

 ……恨んでくれても構わないわ。理解して頂戴」

 

 

 アスカと、リツコ。

 静かに見つめ合う時間が、しばらく続いた。

 

「そう、分かったわ」

 

 やがてアスカが目線を切り、短く言葉を返す。

 

「これからファーストにも言うんでしょう? 手助けは必要?」

 

「……いえ、私が話すわ。

 そう判断した以上、最低限の筋は通さなくてはいけない。

 責任という物がある」

 

 軽く目で会釈をし、リツコはこの場を離れる。

 これ以上付け加える事も、ダラダラ話す必要もない。

 安っぽい同情や、言い訳じみた言葉など……決してアスカは許しはしないだろうから。

 ただ、ありがとう。

 貴方のその潔さに、心遣いに、最大限の感謝を――――

 

 リツコはレイの部屋に向け、階段を上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 …………やがて彼女の姿が見えなくなり、この場にはひとり、アスカだけが残される。

 

「責任……ね」

 

 

 ふと、母親の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 少女時代の、自分の事。

 ただ振り向いて欲しくて、必死に走っていた。そんな幼い頃の自分を想う。

 

 

「どんなだって、愛してほしい。

 愛されたいって……そう思ってるのに」

 

 

 

 

 その呟きは、静寂の中に消える。

 

 あても無く、どこを目指すでもなく。

 アスカは静かに扉をくぐり、外へと出ていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 澄み渡る空。豊かな森林。色とりどりの花々。気持ちの良い空気。

 このベランダから眺める景色は、まるで別世界のように美しい。心が洗われるような風景だと思う。

 

「今日ね……獣医さんとお話をしてきたの」

 

 手すりにもたれながら、静かに口を開く。

 少し外で話さない? というリツコの提案に、当初は大変に難色を示されたものだが……二人はいま二階のベランダにいる。

 

 胸に抱いたヘレンを離そうとしない事には大変難儀したが、それでもリツコの真剣な雰囲気を感じ取ったのか、最終的にレイは部屋にあの子を置き、ここに出てくる事を了承してくれた。

 

「知っての通り、ヘレンの症状は、とても重い物よ。

 ……内緒にしてたけれど、最初にあの子を診せに行った時、

 もうそのまま預けてしまおうかと考えた程なの。獣医さんにも、そう勧められたしね。

 ……私たちには、とても手に負えない。

 ヘレンの抱えている障害は、そんな甘い物じゃないの。

 たとえ、どれだけ飼いたいって気持ちがあったとしても、ね」

 

 レイはいま、外の景色を見つめながら、じっと話を聞いている。

 包帯を巻いた手をちょこんと手すりに乗せ、ただ前を向いている。

 

「レイ、貴方はどう思ってる?

 この先ずっと、手に噛み傷を作りながら、ヘレンの世話をしていく?

 暴れるあの子を押さえつけ、無理やりご飯を食べさせていく?

 それを可哀想と……ヘレンにとってそれは、とても辛い事だって、思わない?」

 

「…………」

 

「ヘレンは、エサを食べられない。それがエサだって判断する事も出来ないの。

 あの雌キツネだって、ヘレンにごはんを食べさせる事は出来なかった……。

 レイとは違い、同じキツネである、あの子にも。

 ……これはね? ヘレンは野生の環境下では、生きていけないって事なの」

 

 たばこをもみ消し、リツコはレイの方に向き直る。

 今もただ前を向き、こちらを見ようとしないレイへと、真剣に語りかける。

 

「レイ、貴方の気持ちは分かる。……あんなに愛らしい子だもの。

 守ってあげたい、一緒にいたいって気持ちは、痛い程よくわかるわ。

 ……でもね? 今は自分の気持ちより、あの子の事(・・・・・)を考えてあげて欲しいの」

 

 恐らくもう、レイは今リツコが何を言おうとしているのか、理解しているハズだ。

 

 安楽死。

 その決断を告げようとしている事を、ちゃんと理解している。

 なぜなら、レイこそが一番長くヘレンに寄り添い、誰よりも長く見てきたんだから。

 

 

「ヘレンにとって、生きる事は苦しみでしかないわ。

 何がヘレンにとって、一番いい事なのか。

 何が"幸せ"なのかを……よく考えてみて欲しいの」

 

 

 自分でも、卑怯なやり方だと思った。

 その気持ちよりも、ヘレン自身の事をまず考えろ、だなんて……。

 自分で言っていても虫唾が走るような、そんな汚いやり口だった。

 

 けれど、こう言えばレイは必ず頷いてくれる。その確信があった。

 優しいこの子は、自分よりも何よりも、まずヘレンの事を想うから。

 

 ゆえにこう言えば、けしてこの子は拒む事をしない。これがヘレンの為なのだと言えば、どんな事だって受け入れる。

 

 たとえそれで、壊れそうな程に心が痛むとしても。

 この優しい少女は……何よりもヘレンの事を大切にするハズだから。

 

 

「……ふぅ」

 

 汚い仕事だった。本当に嫌になるくらいに、キツイ役目だった。

 けれど今、しっかりと役目を果たし終えたのを感じる。言うべき事をしっかり伝え終えた実感がある。

 

 それを終えたリツコは、再びたばこに火を着ける。

 レイと並び、何気なくこの美しい景色を眺める。

 

 もうすべき事は、何も無い。何も必要は無い。

 今はただ、この子と共に、この景色を感じていよう。静かに寄り添っていよう。

 

 そう、思っていた。

 

 

 

 

「……幸せ、って?」

 

 けれど、レイは――――

 

 

「"幸せ"って……なに?」

 

 

 静かに、その口を開いた――――

 

 

「…………レイ」

 

 ただじっとこちらを見る、無垢な瞳。

 リツコはそれに呑まれたかのように、動く事が出来ない。

 

 

「わからない、幸せ。

 わたしは目も耳もあるのに……わかりません」

 

「……なにが、幸せ?

 わたしはなにが、幸せですか? はかせ……」

 

 

 

 

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

 あれから暫くした、夕暮れ時。

 レイはいま自室の床に座り、腕の中のヘレンを見つめている。

 

「…………」

 

 こうしてペタリと床に座ったまま、もう随分と経った気がする。

 レイは何もする事なく、ただヘレンと共に、こうして過ごしている。

 

「わたしの、しあわせ……?」

 

 腕の中、目を閉じで眠るこの子を見ながら、レイは呟く。

 あのベランダでの会話が終わってから、ずっとレイは考え続けている。

 

 自分にとって、幸せとは。

 いったい何が、自分の幸せなのかと。

 

「ない……。

 ないわ、そんなの……」

 

 しかし、どれだけ考えようとも、頭に浮かぶ物は無い。

 生まれてからの数年間、自分はそんな物を感じず、考える事もなく生きてきたのだから。

 

 あるのは、役目だけ。

 人の意志によって産み出され、誰かに言われるがままに訓練を重ね、エヴァに乗って来た。

 そんな自分の生きた時間に、"幸せ"などあろうハズがない。

 あるのはただ、義務や役割だけ。そのように思う。

 

 

 なら……自分の幸せすら分からない私が、ヘレンの幸せを?

 この子にとって、何が幸せなのか……それを理解出来る?

 

「…………」

 

 ない。もう考えるまでも無い。

 きっと、私には出来ない。そんな事わかるハズがない。

 

 だって、無いから。私の中に"喜び"が。

 今まで生きてきた日々は、全て色の無い景色の中だった。

 そこに喜びを見出した事など、いままで一度だって……。

 

「……ッ!」

 

 ――――いや、ある。

 私にも"嬉しい"が……心がぽかぽかした瞬間が、ある。

 

 

「――――碇くん」

 

 

 人生を楽しむ事も、食べる喜びも、自分には無い。

 けれど……嬉しいと感じる事がある。

 彼と一緒にいる時間を楽しいと。心が暖かいと感じた事が、ある――――

 

「碇くんといるのが、楽しい。

 碇くんといる事が……幸せ?」

 

 誰かと寄り添う事。笑顔を向けられる事。

 そして、一緒に居るぬくもりを感じる時……私は"幸せ"を感じる。

 心が、ぽかぽかしてくる――――

 

 

「ヘレン、あなたも? ……あなたも、そう?」

 

 

 

 たとえ目が視えなくても、耳が聞こえなくても。ヘレンは感じているハズだ。

 誰かのぬくもりを。

 こうして寄り添う誰かの体温を。その暖かさを。

 

 目が視えないからこそ……全身で。強く強く。

 誰かと一緒にいる、この時を――――

 

 

「……ッ!」

 

 跳ねるように顔を上げ、壁の掛け時計を見る。

 時刻は18時。ヘレンにごはんをあげる時間だ。

 

「……!」

 

 

 ヘレンを床に置き、冷蔵庫のあるキッチンまで走る。

 

 レイはもうドタドタと音を立てながら、必死で走って行った。

 

 ヘレンに、ごはんを食べてもらう為に。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……もう夜の10時よ? あの子なにやってんの?」

 

 リビングで、アスカが不機嫌そうな声を出す。

 

「部屋にはいるんでしょ?

 夕飯にも出てこないで、いったい何やってんのよ」

 

「……ええ」

 

 ソファーに寝そべり、なにやらイライラしながら雑誌をめくっているアスカ。

 その相手をしながらも、机にあるお酒に手を付ける事無く、心配そうな表情のリツコ。

 

「話したのよね? ……なら落ち込むのも当然だけど、

 ごはんくらい食べに来いっつの。明日も任務あるでしょうが。

 こちとらチルドレンなのよ!」

 

「ええ……私もそうは思うのだけれど」

 

「私情を挟むなんて、プロ失格よ!

 なんなら引っ張り出してくる?」

 

「いえ、それは流石にね……。いましばらく、そっとしておいてあげて」

 

 プリプリと怒るアスカを、リツコは力なく宥める。

 レイにはご飯を食べて欲しいし、顔だって見せて欲しいのだが……先のベランダでの出来事を思い出すと、どうにも尻込みしてしまうのだ。

 

『それを探していく事も、人生だと思うわ。ゆっくりやりなさい――――』

 

 あの時、リツコは最後にそんな風な事を言ったように思う。

 ただそれは、極々一般的な良識から出た言葉。リツコ自身の中から出た物でないそれが、レイの胸に届くとは思えない。

 

 あの時の、レイの質問。最後にされた「幸せとは何」という疑問。

 それに言葉が詰まり、何か言わなければと苦し紛れのように吐いた言葉。それ以上でも以下でもない。

 

(恐らく、最低の悪手だったわね……。

 探していく事も人生だなんて……ならヘレンはどうするのよって話だもの)

 

 もし自分が子供の立場なら、もう烈火の如く反論した自信がある。それほどに拙い言葉だったと思う。

 レイはただ耳を傾け、じっと聞いてくれてはいたけれど……彼女が胸の内で何を想ったのかなど、もう想像もしたくない。

 

 言いたかった。上手にあの子を諭し、納得させてあげられる言葉が欲しかった。

 ひとりの大人として、それをしてあげられなかったリツコの自己嫌悪は、もうとんでもないレベルだ。

 今すぐにでも部屋に籠り、ミサトのように飲んだくれたい。酔いつぶれてしまいたい。

 

「ま、仕方ないか! じゃあ今回だけ特別に、

 アタシが部屋までごはん持ってってあげるわ!

 アスカさまの優しさに感謝する事ね!」

 

「えっ」

 

 そう言った途端パタンと雑誌を閉じ、なにやらキッチンの方でゴソゴソし始めるアスカ。

 野菜だのパンだのの入ったお皿を大きなトレーに乗せ、満面の笑みで意気揚々と階段を上がっていく。

 

「ちょ……! ちょっとアスカ?!」

 

 あまりの事に呆けていたが、リツコも即座に追い、階段を上がっていく。

 

 なんかもう、アスカに任せてたらデストロイな未来しか見えない……。

 そうならないよう、スリッパをパタパタさせて追いかけていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「えっ……!」

 

「……っ!」

 

 もう「邪魔するわよ!」とばかりに、バーンと扉を開け放ったアスカ。

 食事を持っていくと言っていたから、てっきり扉の前にでも置いておくのかと思いきや……もうおもいっきりズカズカ部屋へ踏み込んでいった。

 リツコも驚愕しつつ、慌ててアスカの後に続いたものだ。

 

 しかし、そんな彼女たちが見たのは、

 

「ヘレン……あんた……」

 

「……レイ!」

 

 いまアスカたちの目の前には、慈愛に溢れた顔でヘレンを膝に乗せる、レイの姿がある。

 

 手にあるは、ミルクの入ったお皿。

 それに口を近づけたヘレンが今、ペロペロとミルクを飲んでいる(・・・・・・・・・)のが見えた。

 

 

「……やっと、飲んでくれたの。

 ヘレン、いい子ね……」

 

 

 ペロペロと愛らしくミルクを飲むヘレンを、レイが優しく見守る。

 よく見れば、彼女達の周りはミルクだらけ。床や家具や服など、もうそこら中にミルクが飛び散った跡がある。

 

 それでも今、ヘレンはミルクを飲んでいる。

 頭を押さえつけて、口をこじ開けられて飲むのではなく、ちゃんと自分からお皿に口を近づけ、自らの意志でミルクを飲んでいるのだ。

 

「アンタ……いままでずっと、これしてたの?

 ご飯も食べに来ないで、ずっと……?」

 

「? ヘレンがたべないなら、わたしもたべないわ?」

 

 まるで「なにを当たり前のことを」とでも言うように、キョトンとした表情。

 恐らくは夕方から、レイがずっとヘレンにミルクを飲んでもらおうと、試行錯誤していた事が見て取れる。

 

 無理やり飲ませるのではなく、こうして自分で飲んでくれるまで――――

 どうやったらこの子が、ミルクを飲んでくれるか? それをこの時間になるまでずっと試していたのだろう。

 自分の食事の事も忘れ、ただずっと寄り添っていたのだ。

 

「だっこして哺乳瓶であげるのも、ダメだったわ。

 ヘレンはカリカリかじるだけで、のんでくれなかったの。

 ……でも、鼻の先についたミルクを、ヘレンがぺろって舌をだして舐めたの」

 

 そこで、レイは閃いた。

 こうやって抱っこをしたまま、ヘレンの口元にミルク皿を近づけたらどうかと。

 

 ヘレンはきっと、だっこが大好きだ。こうしてだっこされてる時は、いつもとても機嫌良さそうにしている。

 だから床にいるヘレンの頭を押さえて、皿に押し付けるようにするのではなく……こうして抱っこで安心させてやりながら、ミルク皿を近づけてあげようと思った。

 

「鼻の先が入るくらい、ミルク皿を近づけてみたの。

 さいしょはパタパタあばれて、嫌がったけれど……、

 すぐに鼻先についたミルクをペロって舐めて、キレイにしたわ。

 それをくりかえしてたら……のんでくれるようになったの」

 

 きっと鼻先に付いたミルクを舐めるうちに、「これは怖いものじゃない」という事を覚えたのだろう。

 

 これは嫌な物じゃなく、自分の喉を潤してくれる物。良い物なんだ――――

 

 それを覚えたヘレンは、こうしてレイの膝の上、自分でミルクを飲んでいる。

 以前のような怯えた顔じゃなく、怒った顔じゃなく、とても嬉しそうにミルクを飲み続けている。

 

 それを見たアスカは、もう口を「アンガー!」と開けている。まるで腹話術の人形みたいに。

 

 隣にいるリツコも、目を見開いて絶句している。

 あのヘレンが、ミルクを飲めている……あんなにも幸せそうな顔で(・・・・・・・)

 

「赤木博士」

 

「……ッ?! な、なにかしらレイ?!」

 

 唐突に、いま優しい顔でヘレンを見つめているレイが、リツコの名を呼んだ。

 一瞬反応が遅れ、ワケがわからないまま返事をする。必死で。

 

「幸せ……わかりません。

 まだわたしも、ヘレンも……」

 

「……っ」

 

 一瞬レイが、僅かに悲しそうな顔をし、俯く。

 リツコは、これがベランダの続きなのだと気付き、僅かに息を呑む。

 

 

「でも、なにが幸せかは、きっとヘレンがきめる(・・・・・・・)――――」

 

 

 俯いていた顔を上げて、レイがまっすぐにリツコの顔を見る。

 

「しあわせ、さがします……。

 ヘレンはこれから、たくさんしあわせを、さがします。

 "それが人生"……ですか?」

 

「~~~ッッ!?!?」

 

 レイが可愛くコテンと首を傾げ、とても純粋な瞳でリツコを見つめる。

 それに対し、もうリツコはグゥの音も出ない。いま〈ボッキィー!〉と心が折れる音を聞いた。

 

「ふ~ん。それが人生、ねぇ……。

 まぁ良いんじゃない? なんか、いかにも薄っぺらい大人が言いそうな言葉だけどっ!

 ねっ、リツコ?」

 

「……んぐぉっ?!」

 

 ニヤリと音が聞こえてきそうな顔で、アスカが「ふっふーん♪」と笑う。リツコは変な声が出た。

 

「ちょっとアンタぁ~、どーいうつもりぃ~?

 アタシん時はぜんぜん飲まなかったのにぃ~。そんなにママがいいの~?」

 

 なんかもう「貴方がオスカーよ!」と言いたくなる程の演技かかった声で言い、アスカがパタパタとヘレンの方へ寄って行く。

 いつもの彼女からは想像もつかない程、とても優しい手つきでヘレンを撫でてやる。ヘレンもご機嫌そうだ。

 

「……ママ? わたしはおかあさんじゃないわ?」

 

「何言ってんのよ。アンタばかぁ?

 アンタがごはんあげて、アンタが育ててんだから、ママに決まってるじゃないの!

 アンタはこいつのママなの! その自覚を持ちなさい!」

 

「~~~~ッッ!?!?!?」

 

 またリツコが目をひん剥いて絶句している。

 それに対し、アスカは絶好調だ! もうとても良い笑顔でレイを煽っていく。

 

 大人への反逆、復讐――――

 これは尾〇豊の精神か。バイクを盗んで走り出すのか。

 ちなみにアスカは14才。思春期も反抗期も真っ盛りである。ヨロシクゥ!

 

 

「……ママ? わたしがヘレンの、おかあさん?」

 

 

 やがてミルクを飲み終わり、レイの膝の上ですやすやと眠るヘレン。

 その幸せそうな顔を見つめながら、レイはいま、胸がぽかぽかしている事を、感じていた。

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

『そっか。じゃあ今日がヘレンの"ミルク記念日"なんだね』

 

 受話器の向こうから、シンジの声が聞こえる。

 久しぶりに聞く、彼の優しい声。

 

「きねんび?」

 

『うん、ミルクを飲めるようになった、記念日。

 綾波もヘレンも、今日はすごく嬉しかっただろう? だから記念日なんだ。

 この次は、初めてお肉を食べられた記念日だね』

 

 現在夜の11時。こんな時間にも関わらず第三新東京市にいるミサトから電話がかかり、リツコはプリプリしながらも、どこか嬉しそうに話し込んでいた。

 そして暫くすると、レイに受話器をバトンタッチ。その向こうにいたのは碇シンジ。「ひさしぶり」と言ってくれた声が嬉しかった。

 

「碇くんは、物知り」

 

『あはは。でも色々あったんだね、綾波。

 そっちでそんな事があったなんて……。ぼくもヘレンと会ってみたいなぁ』

 

 シンジにヘレンの事を報告すると、まるで自分の事のように真剣に聞いてくれた。

 レイのそれは、とてもつたない話し方だったかもしれない。しかしシンジはレイの気持ちに寄り添うようにして、優しく話を聞いてくれたのだ。

 

 それに深く感謝をすると共に、いまレイにはもうひとつ、彼に報告したい事がある。

 

 

「碇くん。わたしヘレンの、おかあさんになる――――」

 

 

 

 一瞬驚いたような、シンジの雰囲気。でも彼はすぐに笑顔を取り戻し、レイの言葉に賛同する。

 心から応援をしてくれる。

 

 

『うん、きっとなれる。綾波なら大丈夫さ』

 

「ええ……ありがとう」

 

 

 

 

 

 その日、リツコの「早く寝なさい! あとご飯も食べなさい!」というカミナリが落ちるまで、二人の楽しい電話が終わる事は無かった。

 

 

 

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