地面に叩きつけられた打球が、高く、高く舞い上がる。
「走れ!」
「イケル!」
ベンチからの声。
1塁に向かって駆ける打者。
ネクストバッターサークルで、僕はバットを握った。
相手の3塁手の動きがいい。
落ちてきたボール。
それを素手でつかんで、そのままくるりと身体を回して送球。
「へぇ」
つい、声に出た。
思っていたより、送球が速い。
いや、送球までの動作が早い。
あのフィールディングで、数えきれないぐらい、内野安打になりそうな打球をアウトにしてきたんだろう。
でもまあ、さすがにこれは無理。
ただ、余裕の内野安打になるはずが、わりとギリギリになったのはすごいと思う。
僕も守備には自信があるけど、あれは、一塁に送球するのを諦めるタイミングだ。
でもまあ、ようやく……僕の前にノーアウトで走者が出た。
僕の出番だ。
立ち上がり、バッターボックスに向かう。
バッターボックスに入る前に、バックスクリーンを見る。
7回裏。
スコアは2対0。
ウチが勝っている。
これを、『勝った』と過去系にするまで試合は終わらない。
息を吐く。
それにしても、と思う。
甲子園ってのは、うるさい場所だなあ。
ベンチから声をかけられているのがわかる。
しかし、その声がスタンドからの声援にかき消される。
まあ、聞こえなくても、分かるんだけどね。
ここが甲子園だろうと、いつもと同じ。
『頼むぞ、バントの名手』
『きっちり決めろよ』
そんなとこだろう。
監督のサインを見る。
はいはい、バントバント。
重要なのは、その後。
監督のサインが続く。
僕にとっては見慣れたサイン。
いつも通りだ。
まあ、1回戦は、その『いつも通り』のサインが一度も出なかったんだけどね。
僕の持ち味は、守備とバント。
バッティングが得意だなんて、口が裂けても言えない。
バントのサインってのは、走者がいなきゃ出せない。
走者が出ても、二死ならダメ。
軽く、やる気のなさそうな素振りを1つ。
相手の捕手と目が合ったので、『バントだよ?』という感じに、バントの構えをして見せる。
『ホントかよ?』という表情をされたので、『ホントホント。僕嘘つかない』という感じに、もう一度バントの構えをする。
1回戦の僕の成績は、4打席で四球を一つ選んだだけの3タコ。
地方大会の打率は、2割を切っている。
調子が悪かったわけじゃない。
僕のバッティングは、そんなもんだ。
正直、攻撃重視の監督になってたら、レギュラーメンバーには選ばれなかった自信がある。
そういう意味では、クビになった前監督に乾杯ってね。
まあ、守備にはそこそこ自信がある。
そしてバントに関しては……高校野球レベルなら、たぶん誰にも負けない。
その程度のプライドがある。
僕に出される送りバントのサイン。
チームでは、僕にだけ出される、サイン。
『2ストライクまでは自由にやっていい。ただし、打つな。そして2ストライクになったらバント』
この意味、分かるかな?
2ストライクからバントを失敗してファールになると、3バント失敗で3振扱いになる。
同じバントではあるけど、初球のバントと、2ストライクからのバントは圧力が全然違う。
1球あれば十分さ。
それが、僕のプライドであり、監督を含めたチームメイトからの信頼だ。
『ただし、打つな』って部分は、悲しい信頼だけどね。
バッターボックスに入る。
位置は、キャッチャーよりのベースより。
そして、ためらうことなく最初からバントの構えをする。
小学校なら、バントをするなら打席の前……投手寄りに立てって指導されることが多い。
フェアゾーンってのは、ホームベースを起点に伸びていくから、『当てて転がす』だけなら前に立ったほうが角度を広く使えるからだ。
ついでに言うなら、小学校レベルなら投手の球は大きくおじぎをすることがほとんど。
キャッチャーよりに立つと、ボールがおじぎする分ストライクゾーンより下の高さを通過したり、時にはバウンドしたりするから前に立ったほうがバントをしやすいってのもある。
これが中学校になると、打席の前に立つことは少なくなる。
そりゃ、バントだからって立つ場所を変えたらそれでバントってばれちゃうからね。
バントの構えからバットを引いてヒッティングに切り替える……なんて感じに、中学校になるとやることが増えるため、バントが苦手って人間が増えたりもする。
バントの基本の構えをとると、プレイの幅が狭くなる。
だから、基本じゃない構えでバントができなきゃダメってレベルになるせいだ。
高校になると、バントを失敗すると周囲から非難を浴びる。
あれかな、サッカーのPKみたいな扱い。
決めて当然って感じ。
ただ、高校になると単純にバントだけすればいいなんてことがなくなる。
守備に対しての牽制。
揺さぶり。
守備を動かして、その動きを観察する。
やることは多い。
そして、中学校よりも投手のボールは速くなり、変化球も増え、キレも増す。
挙句の果てに、失敗すれば馬鹿にされ、怒られる。
心理的にも難易度が爆上げってやつだ。
ホント、バントってのはやることが多いんだよ、と。
横目で捕手を確認しながら、構えたバットの高さをその目線に合わせる。
キャッチャーマスクってのは、捕手の顔面を守るために当然ボールよりも狭い幅しか空いてない。
そして、視界を確保するために、目の上と下にガードがある。
一度付けたらわかるけど……捕手の視界って、結構狭い。
だから、打者が打つと捕手はまずマスクを外して視界を確保する。
その、目の上と下をマスクの障害物で制限された捕手の視界をね、直径約7センチのバットで隠してあげるんだ。(笑)
送りバントってのは、走者を次の塁に進めることが目的だからね。
走者を次の塁に進めることができるなら、バントなんかする必要がないんだよ。
甲子園は広い。
ちょっと、捕手がボールを後ろにそらしただけで、走者は簡単に2塁に進める。
まあ、こんなことは、甲子園に出るような高校ならどこもやってるからね。
捕手だって慣れている。
それでも、投手の球を受けるからには、自分の視界を確保する必要がある。
つまり、バットの位置に対して、頭を上げたり下げたりして、ずらすわけだ。
当然、その動きに合わせて追いかけるけどね。(笑)
おまけに、ゆらゆらと上下に動かして、捕手の神経を逆なでしたり。
ついでにいうと、捕手が落ち着きなく動くと、気にする投手は少なくない。
コントロールミスに、集中力の低下。
攻撃側としては、夢が広がる。
おっと。
捕手が、座る位置を後方へとずらした。
バットが遮る視界を狭くして対応したか。
基本通りの対応。
レベルの低い学校や、捕手に慣れていない選手は頭を下げて前に出てきたりすることがある。
そういう時は、バントの構えからバスターのふりをして、バットで捕手のマスクやミットを狙ってやればインターフェア(打撃妨害)で、僕は1塁に、1塁走者は2塁に進んでチャンスが広がる。
もちろん、甲子園に出てくるようなチームで、これに引っかかるような捕手はまあいない。
僕はゆらゆらとバットを揺らし、投球を待つ。
動きを止めたり、また揺らしたり。
とにかく、捕手の集中力を削る作業に終始する。
ネクストバッターサークルで、先輩が笑っている。
……まあ、どこのチームもやることだけど、僕ほど徹底してやる選手は珍しい。
大抵の選手はバッティングが大好きで、できることならバントじゃなく打ちたいと思っている。
僕みたいに、自分のバッティングに見切りをつけている選手は、甲子園に出てくるレベルの選手では珍しい。
ただ……僕のこれは、相手に嫌がらせしているだけじゃない。
バントはやることが多い。
しかし、捕手というポジションはバントとは比べ物にならないぐらいやることが多い。
守備位置のチェックから、打者と走者のチェック。
投手のリードから、相手ベンチの動きにまで気を配る必要がある。
僕がバントをして、その打球を2塁に投げるか1塁に投げるか、指示を出すのも捕手であることが多い。
つまり、捕手の気を散らせば、その集中をいくらかでも削げば、バントの成功率が高まる。
だから、これは嫌がらせじゃなく、バントを成功させるための技術でしかない。
さて、1球目は、何を投げてくるかな。
セオリーとしては、高めよりも低めの方がバントをしにくいと言われる。
一昔前なら、縦の変化球が一番難しいとされていた。
最近は、打者の手元で動くボール……カットボールなどの変化球の回転数を調節して、失敗を誘うなんてレベルの投手もちらほらと。
細かいことを言い出すときりがないけど、守備側の思惑は2つにまとめることができる。
バントをやらせるか、やらせないか。
そして、走者を2塁に進めることを許すか許さないか。
たとえば、送りバントを初球にあっさりと決めたとしよう。
こういう堅実なプレイを確実にできるチームは強いなんて言うけど、守備側としては『1球』で1アウトを確保できたともいえる。
駆け引きで神経をすり減らす必要もない。
2塁走者が捕手のサインを読んで打者に送るのが禁止されてから、いわゆるスコアリングポジションの得点率は下がった。
そのデータをもとに、送りバント不要論なんてのがあるけど……サインのやり取りや声かけなどをはじめ、投手のリズムを崩すために躍起になっていた時代と今では、データの意味合いが違う。
昔に比べると、今の野球はずいぶんとお上品になったとよく聞くけど、同感だ。
僕は2ストライクまでバントなんかしない。
2ストライクまでは、捕手に投手、そして守備側の精神をがりがりと削っていくのがお仕事。
そういう意味では、オールドタイプかな。
強打者じゃない僕のデータに注目する人間はほとんどいない。
『打率が低い』『送りバントが多い』この2つで、マークから外される。
ちなみに、同じ地区の高校がこのケースになったら、ど真ん中に投げてくる。
『さっさとバントしてください』って。(笑)
長いサイン交換が終わったのか、投手が頷いた。
バットを揺らしながら、僕は待つ。
投手がモーションに入る。
1塁手のダッシュが視界に入った。
3塁手は?
動かず?
ただ、プレッシャーをかけに来たのかな?
あるいは、片側だけのシフト?
セオリーなら、外角低めの速球で、僕にバントをさせる。
バントはやることが多い。
考えることはもっと多い。
守備位置。
球種。
コース。
それによって、転がすべき方向や強さが、全部違ってくる。
……へぇ。
顔の近く。
慌てず、そして避けず。
静かに、バットだけを引く。
危険球、ではない。
バントの構えをしているから傍目にはそう見えるけど、ただのインハイのボール球。
ちらりと、捕手を見る。
目も合わせない。
……なるほどね。
お返しってわけだ。
1塁手だけを前に出させ、僕の視線を外に向けさせてインコース。
気の弱い選手なら、慌てて避けるかもしれない。
お上品に言えば、僕の身体をインコースで起こしに来た。
下品に言えば、小細工せずにまともにやれって警告だ。
ただちょっと失敗したな。
静かに見送りすぎた。
たぶん、バントをする気がなかったってのがばれたと思う。
なので、バッターボックスを外して、ベンチに視線を向ける。
次のサインを待ってますよというポーズだ。
監督が、サインを出すふりをしながら笑いをこらえている。
ネクストバッターサークルの先輩も笑っている。
やられたらやり返す。
これは、セオリー。
2球目。
僕は変わらず、バントの構え。
ただし、バットを揺らすのはやめた。
敢えて、捕手に視界を与えている。
投手がモーションに入った瞬間、膝を曲げ、バットに顔を寄せ……本気の構えに変更。
……速球だといいな。(笑)
来た。
外角。
やや低め。
バントの構え。
引き付けて……。
……捕手の目に向かってバットを引く。
惜しい。
ボールをはじいただけ、か。
この捕手、コンバート組かな。
少し経験が足りない感じだ。
こぼしたボールを拾い上げた捕手が、じろりと僕をにらむ。
笑顔を返す。
言葉は出さない。
なんにせよ、ストライクだ。
またベンチに視線を向けた。
2球速球が続いた。
カウントは1ストライク1ボール。
リードしているのはうちのチーム。
次を変化球と読んで盗塁ってのもありだ。
まあ、サインは変わらないんだけどね。
このケースでベンチのサインを確認しない方が不自然。
3球目。
当然の様に、バントの構え。
揺らしはしないけど、何度も、位置を確認するように構えなおす。
モーションに入っても、細かく動いて、投手と捕手の気を散らす。
大きく動くと、ルール違反だからそこは気を付ける。
捕手が動いた。
ウエストボール。
……ふーん、外してきたか。
盗塁警戒、かな?
また、ベンチのサインを確認。
相手チームの攻撃は8回と9回だけ。
ここで追加点をとられて3点差に広がると、かなり厳しい。
……と、すると。
さっきのウエストは、誘い、か。
それとなく、3塁手を観察する。
足元を確かめる仕草。
気配は静かだ。
……来るな。
たぶん、次はバントシフトで来る。
それも、少しひねってくるか。
確か……予選の準決勝の映像に、バントシフトがあった。
3塁手と投手がダッシュする変則シフト。
空いた3塁にはショートが入り、2塁はセカンドが入る。
まあ、まだやらないんだけどね、バント。
じっくり観察させてもらおうかな。
4球目。
投手がモーションに入ると同時に、1塁手が声を上げてダッシュ。
そして、途中で止まる。
外角低め。
速球。
3塁手。
そして投手が1塁側にダッシュ。
バットを引くのではなく、ギリギリのタイミングで下にずらして空振りしておく。
捕手がちょっとだけお手玉をするのが見えて、笑いをこらえる。
たぶん、バント空振り……なんてアナウンサーが言ってるんだろうな。
ウチのチームの人間は、慣れたものだけど。
基本、送りバントは走者がスタートを早めに切る。
バントを失敗しちゃいけないってのは、これが大きな理由だ。
だから、バットを引くときは早めに引いて、走者に『バントはしない』と教える必要があるし、バントの空振りは走者が反射的にスタートを切っているケースが多いので、捕手の送球が早ければ殺されることもある。
ストライクならバント。
ボールなら見送る。
大抵は、この程度のお約束。
それを利用して、高さはベルト、コースは外角にボール1つか2つ外したトリックプレイってのがある。
一塁走者から見て、高さはわかってもコースは見えにくい。
ストライクならバントって認識でいると、このコースは間違って飛び出してしまうってケースが生まれるわけで、捕手からの1塁牽制死を狙う、いわゆるピックオフプレイ。
走者を騙してアウトにする、そんなプレイをそう呼ぶ。
まあ、昭和の時代にこれが流行ったから……バントをしないときはすぐにバットを引くってお約束が生まれたわけで、歴史を感じるよね。
ウチのチームの人間は、僕が2ストライクまでバントをしないってこと理解してるから、この空振りがただの揺さぶりだってわかってるから飛び出したりはしない。
何気ないプレイだけど、『信頼』ってのは精神的な余裕を与える。
ただ、相手チームは……僕がバントを失敗したって考えることだって十分にあり得る。
そして、2ストライク。
追いつめられて、プレッシャーを感じている……そう判断してもおかしくない。
元の守備位置に戻っていく3塁手の背中を見つめながら、頭の中で整理していく。
シフトの穴は球種とコースで埋めるパターン。
素直に一塁側に転がすなら、投手が処理する。
無理に3塁側に転がせば、3塁手が処理と。
3塁手は中に切れ込むようにダッシュして、正面のボールも処理、かな。
たぶん、3塁手と投手の守備能力を信用したシフトだろう。
なら、セカンドを殺しに来る気持ちは強い。
ベンチに視線を向ける。
僕だけじゃなく、捕手も見ているのがわかる。
監督が怒っている。
大きな声を上げている。
ベンチメンバーが、『しっかり決めろ』などと叫んでいるのがわかる。
チーム全体で、『バント続行』のサインを放つ。
それを鵜呑みにするか、バントからヒッティングへの切り替えと見るか。
本格的な駆け引きの始まりだ。
ウチがリードしている。
追加点はやりたくない。
逆に言えば、ウチが追加点を取れば試合はほぼ決まる。
ヒッティングを警戒しつつも、バントを警戒しなきゃならない。
バントはさせたくない。
打者はあまりバントが上手くなさそうだ……と思ってくれたなら。
バントシフトでプレッシャーをかけるか。
しかし、シフトを取ればヒッティングへの対応が難しくなる。
僕の打撃成績を考えれば、ヒッティングの可能性は低いと思える。
と、まあ……2ストライクまでバントを我慢すると、選択肢が狭まることによって守備側には強いストレスがかかる。
こういう目に見えない戦い方は、数字としてデータには出てこない。
僕の打率は低いけど、僕の打席の後に、相手チームが大きく崩れたことはかなり多い。
……うん。
かなり、読みやすい……狙いやすい状況だ。
息を吐く。
中学に上がったばかりの頃に参加した野球教室。
元プロの選手の指導というか、僕の質問に対する答えを、今もはっきりと覚えている。
『最高のバントって、どんなバントですか?』
きっちりと走者を進めるバント。
自分も生きようとする、セーフティ気味のバント。
考えられる答えはいくつもあった。
『相手に、それも投手にミスをさせるバントかな。それが僕の考える、最高の送りバントだ』
そう、笑顔で答えられた。
性格にもよるけど、ミスをすれば精神的に後を引く。
時間の経過とともに、落ち着きを取り戻すことはできるけど、野球では、投手は……投手だけは次のプレイから逃げられない。
この、『投手にミスをさせる』って考えは……あの時の僕にとっては衝撃だった。
ホームランを打つよりも、ミスをさせる方がダメージが大きくなる。
ホームランを打てない、それを狙えない僕にとって、救いのように思えた。
投手にミスをさせるバント。
偶発的なエラーではなく、ミスを誘発するバント。
間に合わないセカンドに送球させて、バントした僕も1塁へと生きる。
フィルダースチョイス、日本語では野選。
セカンドで殺せると思わせなければならない。
同時に、1塁でセーフにならないといけない。
投手にそれをさせないといけない。
打球を殺すのがバントだ。
それを、打球を殺し切らず、強く転がす。
できれば、ランナーのスタートを遅らせたい。
でも、これは、僕の個人プレイだ。
だから、全部を計算して……1人でやる。
バントを成功させるなんて当たり前。
思った方向に、場所に、思い通りの強さで転がすのも当たり前。
それができて、初めて狙える。
見た目はただの送りバント。
いや、失敗したバントだと思わせなきゃならない。
本音を言えば、向こうがバントシフトをとってくるなら、プッシュバントでヒットを狙う方がよっぽど簡単だ。
そして、その方が僕の打率も上がると思う。
でもそれは、僕にできる『最高のバント』じゃない。
深呼吸した。
どうせ、野球選手としての僕のキャリアは、高校でお終いだ。
プロにもバントの名手はいるが、プロ入りした時点では『子供のころからエースで4番』みたいな選手しかいない。
高校レベルでバントの名手なんて言われる僕には、プロはおろか、大学からも声はかからない。
来年もレギュラーでいられる保証だってない。
チームのみんなが、監督が、僕のことを認めていたとしても、後援会やOB会の横やりで、チームの方針そのものがねじ曲げられることは普通にある。
チームの方針が打撃重視になれば、僕は守備要員としての控えに回らされるだろう。
そうなると、打席に立つ機会すら奪われる。
守備固めで出場する試合展開で、送りバントを求められるケースはまれだ。
バントヒットよりも、僕自身のプライドだ。
ちっぽけなプライドのために、僕は最高のバントを狙う。
もしかしたら。
僕にとって『最高のバント』を狙える最後のチャンスになるかもしれない。
相手のレベルが低ければ、そもそも狙うこともできない……そういうプレイだ。
バッターボックスに入る。
バントの構えをする。
イメージを、固めていく。
バントでプレッシャーを感じるなんて、久しぶりだな。
もう一度、深呼吸する。
5球目。
それを待つ。
投手のモーション。
1塁手の動き。
3塁手のイメージ。
外角。
低め。
投手のダッシュのイメージ。
セカンドに投げやすい体勢がとれる場所。
方向と強さ。
転がすというより、跳ね返す。
左手を意識して、ボールを芯で捕らえる。
球の方向、角度、強さ。
僕の描いたイメージをトレースするように飛んでいく。
完璧。
微かな満足感とともに、スタートを切る。
僕がセーフにならなきゃ、無意味。
走者の位置を確認。
ほぼイメージ通りのタイミング。
いける。
そう思った瞬間。
「ファースト!」
甲子園の歓声の中、捕手の残酷な指示が聞こえた。
ベンチに戻る。
「ナイスバント」
「仕事人」
はは。
ナイスバントか。
評価はされても、理解はされない。
別に、説明する気もない。
「おい」
監督の呼ぶ声。
振り向く。
「はい」
「今のバント、打球が死んでなかったし、なんか狙ったのか?」
「……投手の足元に強めに転がしたら、抜けるかな……と、ちょっとだけ色気を出したんですよ」
「なんとか転がすのでいっぱいいっぱいの連中に、聞かせてやりたい台詞だな」
「まあ、これしかできませんしね、僕は」
「お前みたいな選手がおらんと、チームは回らん。ちゃんと、オレは見てるから安心せい」
「はい」
小さく頭を下げ、ベンチに腰を下ろす。
まあ、監督の言葉は半分が本音、半分がフォローかな。
チームにとっては便利な存在でも、選手個人として評価されないことに変わりはない。
息を吐き……気分を切り替えた。
1アウトで2塁。
ウチのチャンスは続いている。
試合はまだ、終わっていない。
なお、バットでキャッチャーの視界を隠すってのは簡単そうですが、自分がマスクをかぶり、位置や角度、距離などを計算して、繰り返し練習を重ねて身に着ける技術です。
ただ、高さを合わせるだけでは、ダメです。
この技術に俊足ランナーを組み合わせると、『捕手が後ろに下がる分』と『いつもの姿勢を崩される分だけ送球が乱れる可能性が増える』ので、盗塁が有利になり、凶悪なコンビになります。
こう、バッターボックスでピンと背筋を伸ばしたままベルトの位置でバントの構えをしている選手を見かけたら、『ああ、(たぶん)やってるな』と。
にやりとできる知識なので、機会があればどうぞ。
余談ですが、このレベルのバントを狙う選手は、『バントが下手』と噂されることがあります。
バントが巧いかどうかって評価は、それを評価する人がどういうバントが巧いかという基準次第なので……ギリギリを狙えば、『ちゃんと打球を殺してない。あいつは下手くそだ』みたいに認識されることがあるからです。
というか、このケースで私が捕手なら、ノータイムで1塁送球を選択します。
1アウト2塁にしてから、次の打者を敬遠して塁を埋めます。
1アウト1、2塁でそのまま攻撃するなら、ゲッツー狙いですね。
向こうがまた送りバントで2アウト2、3塁にしたら、敬遠で満塁にする、と。
昭和の時代の感覚だと、7回裏で2点ビハインドなら、追加点が1点だろうが2点だろうが致命傷には変わらないので、守備側の防衛ラインを1アウト満塁に設定して、それまでは何をやられても無関係と考えたでしょう。
たぶん、昭和の時代の人間なら、こう考える人間は多いと思います。
そういう意味では、この状況で『バントの名手』がバッターボックスに立つってのは、めぐりあわせが悪いです。
ただ、これが昭和の感覚じゃなく今の感覚に置き換えると、この舞台ががらりと変化するのが野球の面白いところです。
今の時代の高校野球なら3点差ってのはワンチャンスの感覚なので、攻撃側はここで必要な追加点は1点じゃなく2点以上という考え方をします。
なので、攻撃側も送りバントじゃなくエンドランを含めたヒッティングが主流でしょう。
この打者なら、セカンド方向にプッシュバント気味にバントエンドランが効果的だと思います。
そして守備側は、できる限り勢いをつけるためにクロスプレイかゲッツーでこの回の守備を終わらせようと考えます。
まあ、努力目標の話ですが、いわゆる『お約束』は時代とともに移り変わっていくということですね。
つまり、セオリー云々は、相手側の意図を読み取ってからでないと適用できないわけで、そこに駆け引きというか、読み合いと騙し合い、神経戦が活発になる要因があって、そのための手段も、ホワイトなモノからグレーなモノ、そしてブラックなモノまでと、開発されて現在まで生き残る技があれば、時代の中で消えていった技があり……野球ファンというか、マニアにはたまらない部分です。(目逸らし)