甲子園の空は、ただ蒼く。   作:高任斎

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……正直、今の時代ではできないプレイです。
後が怖すぎるというか、相手チームより怖いのがネット社会。

この話も好みがわかれると思います。
この話のための、『アンチ・ヘイト』タグです。


準々決勝:牽制。

 3回を終えて0対0。

 両チームともに、一人のランナーも出していない。

 

 試合のリズムはもちろん、先発メンバー全員が相手投手の球をじかに確認したことで、チームの方針やら作戦が明確になってくる大事な回だ。

 それだけに、このイニングの入り方は重要だった。

 特に、この回のトップバッターをどう処理するかは、本当に大事だったんだが……。

 

「やっちゃったぜ」

 

 などと、ウチのエース様が俺にボールを手渡してくる。

 

「……やっちゃったぜ、じゃねえよ」

 

 ため息を付きながら、ボールを受け取る。

 まあ、確かにやっちゃったものは仕方ないし、大事だとわかっていたから慎重にいきすぎて歩かしちゃったんだね、良くある良くある。

 

 どうも、近年はスターってやつの存在が求められているらしい。

 好投手やスラッガーは、大会が始まる前から特集が組まれて……映画のパンフレットよろしく、注目選手がとりあげられ、それを軸にして記事が書かれる。

『玄人好み』という言葉が免罪符のように使われる風潮もどうかと思うが、分かりやすさとインパクトを重視すれば、当然の様に取り上げられる注目選手の大半は、投手とホームランバッターに偏る。

 まあ、好投手と言っても色々あるはずなんだが、注目されるのは決まって速球投手で、百歩譲って技巧派まで。

 野球選手の立場からすれば、好投手ってのは相手に点を与えない投手なんだが、あの手この手で、のらりくらりと相手打線をかわしていく軟投派投手が話題になることは皆無だ。

 

 確かに、スターって存在は『一目でわかる』インパクトが重要なのはわかる。

 球も速くない、すごい変化球があるわけじゃない、ヒットは打たれるけど点はとられない……そういう投手を理解してもらうには、説明が必要になってくる。

 スターって存在には、見て感じられる瞬発力が必要だ。

 

 一昔前は、大会中のラッキーボーイ的な存在もその対象になったらしいが……最近ではおよびじゃないらしい。

 もう、努力と根性が無条件で称賛された時代とは違うってことだろう。

 努力と根性、そして勇気と知恵と計算でやりくりするしかない凡人には、やりにくい時代だ。

 

 

 ただ、好投手とホームランバッターばかり取り上げられると言っても、やはり例外はある。

 たとえば、ついさっき四球で出塁した、相手チームのトップバッターなんかがそうだ。

 

 甲子園の2試合で5盗塁。

 地区予選でも、7試合で稼いだ盗塁の数が21とか、冗談だろって言いたくなる成績を残している。

 プロフィールでは、50メートルが驚きの5秒7だ。

 

 まあ、野球部員が手動で計った記録をどこまで信用するかってな話になるが……『100メートルの日本記録保持者が持つ、50メートルの記録より速いわけないだろ!』ってな反論は、お門違いなのは間違いない。

 そもそも、手動計測と電気計測の違いを考慮しない時点で論外だし、100メートルの選手ってのは、100メートルを速く走るための練習をするし、その適性を持った選手が生き残る。

 人種によっても違うんだが、日本人の場合、陸上の短距離選手は50メートルの記録を2倍してから1~1.5秒をマイナスすると100メートルの記録に近くなるってのが少なくない。

 対照的に、野球選手の場合は50メートルの記録を2倍して、そこから0.5秒ぐらいマイナスすると100メートルの記録に近づくことが多い。

 

 つまり、トップスピードに入るのは早いが後半の伸びが足りない、あるいはトップスピードを持続できないのが野球選手に向いている資質ってことになる。

 というか、30メートル走あたりが一番向いていると俺は思う。

 そもそも、野球の塁間は約27メートルだからな、100メートルを速く走る練習なんかしない。

 

 だからまあ、50メートル走が5秒7って記録自体は、別にどうでもいい。

 野球選手にとって、注目すべきはベースランニングのタイムや走塁技術だ。

 

 ただ、こいつが前の試合でやらかしてくれた盗塁は……ちょっとばかりシャレにならない代物だった。

 

 クイックでのウエストボールを、捕手が素早くセカンドへ。

 ほぼストライク返球だったのに、余裕でセーフとか、頭おかしい。

 

 それを聞いて、慌てて映像を見ながらストップウォッチでカチカチ計測したんだが……どうも、盗塁の際のスタートから到達まで、3秒切ってるっぽい。

 この数値が間違っていなければ、日本のプロ野球どころか、メジャーのトップレベルの俊足ランナーとほぼ同等ってことになる。

 

 何度でもいう。

 こいつ、頭おかしい。(震え声)

 

 この、塁間というか、スタートから到達までが3秒を切るという意味が分からない人のために説明しよう。

 

 日本のプロ選手で、クイック投球が巧いとされるレベルで……動き始めから投球完了まで1.2秒程度。

 ちなみに、時速150キロの速球が投手の手を離れてから捕手のミットに収まるまで0.4秒かかる。

 150キロと仮定すれば、クイック投法のモーションが0.8秒ぐらいかかるってわけだ。

 まあ、実際はクイックだとボールの速度が少し落ちることが多く……モーションに0.7秒、それに投球がミットに到着するまで0.4~0.5秒ってのが妥当だろう。

 

 で、盗塁をアウトにするためには、捕手がセカンドに送球しなきゃいけない。

 捕手から2塁までの距離は、単純に投手から捕手までの倍の距離としておこう。

 そうすると、『平均』時速150キロの送球で、セカンドに届くまでは0.8秒かかるってことになる。

 ここに、捕手の投球動作……投手のモーション時間をそのまま当てはめたとすると、0.7秒から0.8秒。 

 

 投手の1.2秒と捕手の……まあ、1.6秒として、それを合わせると2.8秒だ。

 ちなみにこれ、捕手の補球動作や、セカンドが捕球して走者にタッチする時間が入ってない。

 

 スタートから到達まで3秒を切るという重み。

 つまり、普通の方法じゃ盗塁を阻止できないってことでファイナルアンサーよ。

 

 そもそも、平均時速150キロ送球とか、プロでも苦笑するレベルの計算だからな、高校野球にあてはめていい計算じゃない。

 

 とはいえ、この数字にはトリックというか少々欺瞞がある。

 人間ってのは、見て、反応するまで最速でも0.1秒かかると言われる。

 つまり、走者が投手を見て、スタートするかしないか。

 走者として、そのあたりの判断にかかる時間やタイミングが、この数値にプラスされるってのが正しい。

 

 ただし、投手のモーションが盗まれて、完璧にスタートを切られたらどうしようもないって結論だけは変わらない。

 

 高校野球では、ごくたまにこんな感じの自然災害のような選手が現れる。

 アマチュアの中にプロレベルが入り込むイメージ。

 正直、気にしたら負けのレベルなので、強打者なら敬遠、エースなら神経戦、俊足ランナーなら、ホームスチール以外は無視ってのがセオリーなんだが……ウチの監督は、立ち向かうことに決めたらしい。

 

『〇〇高校の、守備位置の変更をお知らせします……』

 

 エースが一塁に、そして一塁手の俺が投手に。

 

 プロならともかく、高校野球でのワンポイントリリーフってのは珍しい。

 それも、打者に対してではなく……実質、走者に対してのリリーフだ。

 

 俺は左投げ左打ち。

 中学時代は投手で、一応投手としてこの高校に入ったが……投手としての能力はそれほど高くない。

 ヒットを打たれても粘り強く要所要所を締め、終わってみれば3~4失点ぐらいでまとめるタイプの投手だ。

 先発投手としては計算しやすいが、1点勝負の試合では負け確定になるから使えない。

 結局、高校野球ではエースになれないのが、俺だ。

 

 というか、ウチの高校の捕手と絶望的なまでに相性が悪かった。

 めぐりあわせと言ってしまえばそれまでだが、球の速い好投手ばかりとバッテリーを組んできた脳筋キャッチャーじゃ、最速でなんとか120キロちょいの軟投派である俺の持ち味を発揮できるリード能力がなかった。

 

 配球に間合いの取り方、打者を焦らして力ませる方法など……脳筋キャッチャーのポンコツリードにそれを望むのは酷だったかもしれない。

 なのに、投手の俺が決めて投げるってのを受け入れられなかった挙句に、理不尽(俺主観)な罵声を浴びせられ、殴り合いに発展したあたり……なんというか、思慮の足りない人だったな、うん。

 まあ、そんな騒ぎを起こした俺が、一塁手にコンバートされてレギュラーポジションを奪い取れたってことは……監督の評価はそこそこ高かったんだろう。

 

 脳筋捕手の世代が引退してからは、投手としてもちょいちょい投げている。

 とはいえ、練習試合ばかりで……公式戦には投げていない。

 

 そんな俺に、昨夜のミーティングで監督から、このワンポイントリリーフの件を告げられた。

 

 まあ、俺はエースにはなれないが、左投げってことも含め、1塁ランナーに対する牽制に関しては、チームで一番巧い。

 頭一つどころか、二つ抜けている……そのぐらい、差がある。

 中学時代の恩師が『牽制とクイックは投手の基本』という、古いタイプの指導者だったから……そのせいだろう。

 

 そして、何よりも大事なことが……監督のこの一言に凝縮されている。

 

『お前の神経はワイヤーでできている』

 

 ははっ、そりゃどうも。

 

 公式戦初登板が甲子園とか。

 それも、準々決勝ときた。

 そして、一塁走者はメジャー級。

 

 無茶ぶり過ぎね?

 

 

 投球練習。

 キャッチボールのノリで3球だけ。

 余計な情報を与える必要はない。

 

 中学時代の恩師の言葉を思い出す。

 

『牽制は、走者じゃなく心を刺す』

 

 当時は『何言ってんだこのおっさん?』ってなもんだったが、高校に上がって、自分の投手としての基礎能力がそれほど高くないことを自覚してから、その言葉の意味を理解できるようになった。

 

 まあ、『自分を信じて、最高のボールを投げれば結果はついてくる』なんてのは、才能のある人間のための傲慢な言葉だ。

 

 才能のない投手は、自分なんか信じない。

 ただ、打者のリズムを、打ち気を、意識を……それを外すためなら何でもする。

 同じリズムどころか、同じフォームですら必要ない。

 

 二段モーションの禁止なんてのも、本来、二段モーションってのは打者のタイミングを狂わせるための工夫だった。

 その工夫を禁止するってことは、才能のない人間の努力を認めないってことだ。

 ただ純粋な才能を求めるってのが欧米文化で、それが世界基準と言われたらどうしようもないが……結局、甲子園でスターが求められる流れってのは、そこからも来てるんだろう。

 

 ルールはルールだから守りはするが、才能のない人間の努力や工夫を認めないなんて言われたらたまらねえよ。

 

 時速150キロのボールがミットに届くまで約0.4秒。

 時速100キロのボールなら、約0.66秒。

 人間が目で見て、反応及び判断するまで、0.1~0.2秒。

 

 つまり、時速100キロのボールでも、打者の、走者の意識をほんの0.3秒ほど奪ってしまえば、時速150キロ以上の速球に化ける。

 

 これは打者だけじゃなく、走者に対しても言える。

 

 盗塁を刺すんじゃなく、盗塁をさせない。

 スタートをきらせない。

 あの手この手で迷わせる。

 タイミングをずらす。

 

 俺に求められているのは、そういう役割だ。

 

 

 

 試合再開。

 内野に軽く声をかけ……サインを出しておく。

 

 左投げの俺がセットでマウンドに立つと……一塁側、相手チームの観客席をほぼ正面にとらえる。

 声ってのは空気の振動だから、それがそのままプレッシャーになる。

 甲子園の常連校ってのは、それがわかっているから、走者が出ると声援のリズムや音量を変えてくる。

 左投手なら真正面から、右投手なら見えない背中から、その圧力を受け続けるわけだ。

 

 捕手とのサインのやり取りもそこそこに、セットポジションに入る。

 そして、走者を見た。

 

 ……いきなり、リードでけえな。

 さすがに、誘いのリードだろう。

 

 まあ、判断が難しいってのは、行くか戻るかの、相反する判断が求められる時だ。

 リードを大きくとって、『牽制がくる』という前提でいれば、大きなリードってのは走者にとってそれほど苦にはならない。

 何かあれば、極端に言えば投手が動いた瞬間に塁に戻る……それでいいからだ。

 

 そうやって、ほかのチームメイトのために敢えて投手に牽制を投げさせて、そのフォームや癖を自分だけじゃなく、ほかのメンバーやランナーコーチに覚えさせるのがトップランナーや、チームで最初に出塁した選手の仕事になる。

 

 だからまあ……俺みたいな、公式戦のデータなり情報がない投手が出てくると、初球からいきなり走ってくるってのは、ほとんどない。

 もちろん、交代直後に揺さぶってくるってのもありなんだが……この場面でわざわざエースと交代させてきた投手だからな。

 これまでの試合の相手チームの監督の采配から考えると……まずは様子を見て、観察したいと考える、そういう傾向が強い。

 おそらく、ウチの監督もそこまでは想定済み。

 

 だからまあ、ここはギャンブルだ。

 その、ギャンブルに勝つ可能性を高めるためにも……相手に警戒させなきゃな。

 

 こいつ、何をやってくるかわからないって。

 

 セットポジションの構えでじっと走者を見つめながら、頭の中で、ゆっくりと数を数える。

 1から10まで。

 長い長い、異様な間合い。

 

 そこで、一度プレートから足を外した。

 

 走者というか、野球選手の呼吸に関しては2つのパターンに分かれる。

 息を止めてタイミングを待つか、息を止めずにタイミングを待つか、の2つだ。

 

 前者は、時間をかければかけるほど集中が途切れやすい。

 ただし、爆発力は高い。

 パワーヒッターなんかはこのタイプが多く……間合いを長くとれば勝手に崩れてくれることが多い。

 後者は、時間の経過が苦にならないタイプが多いが……息をするタイミングで隙ができることが多い。

 

 こいつは、後者だ。

 しかし、静かに、小さく呼吸を続けている。

 

 呼吸の隙をつくのは難しいな。

 なら、ちょいと揺さぶるか。

 

 投手と走者の駆け引きとか、戦いに見られがちだが……これはあくまでも野球の1部分でしかない。

 絶対的なエース、あるいは絶対的な4番打者の存在にチームメイトが依存することがあるように……絶対的な走者に対しても、チームメイトは依存する。

 

 指先でボールの感触を確かめ、握りを決めてから、セットポジションに。

 ただし、足幅は広め。

 

 入ってすぐに、体重移動だけのノーステップのクイックスローで打者に投球。

 それも、投手ではなく、野手のスローイングだ。

 

 せいぜい、時速100キロちょいってとこだろう。

 しかし、それでも捕手のミットに収まるまで0.6秒というわずかな時間しかかからない。

 

 気構えができてない打者は、中学生レベルのボールでも反応できずに見送るしかできない。

 どうせ、『待て』のサインが出てるんだろうしな。

 

 これで、1ストライク、と。

 

 俊足ランナーが塁にいると、大抵1球は牽制をする。

 そして、盗塁をさせなきゃって考えがあるから、初球から打ってくることはまずない。

 つまり、『初球から行くぞ』……なんて気構えができてない可能性は高い。

 そこを、念のために長い間合いからのクイックスローで、心を刺した。

 

 速い球を投げようとすると、モーションが大きくなる。

 ボールの速さではなく、別の要素で時間を奪う。

 奪ってしまえば同じことだ。

 

 あの手この手で打者を抑えるしかない軟投派の俺は、コントロールだけはいい。

 いろんなフォームで、いろんなリズムで、色んなタイミングでストライクが取れる程度に自信がある。

 打者のタイミングを外し、意表を突くことが前提なら、ストライクゾーンに球を投げ込むだけでいい。

 2度も3度も通じる手段ではないがな。

 

 捕手にボールを持たせたまま、内野に声をかけてまたサインを出す。

 

 ここも気をつけなきゃ、ディレードスチールがある。

 本来なら、内野の中央に位置する投手にすぐにボールを戻し、走者を警戒するのがセオリーだ。

 だから、投手のカバーも含めて、ショートが2塁ベースに張り付いて待っているし、捕手もすぐに送球できる体勢をとって走者を見ているように指示されている。

 

 

 捕手の送球を受け、すぐにセットに入った。

 打者が慌てて構える。

 もう、この時点で精神はぐらついている。

 たぶん、俺のセットの歩幅がさっきと違うことも分かってない。

 

 俺はゆっくりと数を数える。

 

 さっきとは逆に、走者ではなくじっと打者だけを見つめる。

 10まで数えて、またプレートから足を外してセットを崩した。

 

 みんなと同じ事をやって結果が残せるのは、才能と運があるやつだ。

 

 長い間合いとか、何故みんなやらないかって?

 

 そりゃあ……これをやると、打者だけじゃなく味方の守備のリズムもガタガタになるからだよ。(笑)

 打者のリズムをくずすってことは、守備のリズムを崩すのと同じだからな。

 

 だから、前もって『次は投げない』ってサインを出している。

 まあ、それでも焼け石に水なんだが。

 

 あと、こうやって間合いを使うと観客からブーイングが出ることが多い。

 無駄に待たされるストレスもあるだろうし、『正々堂々とやれ』などとクレームをつけられることもある。

 

 まあ、俺は気にならないけど。

 そんな柔な神経じゃあ、凡人はやっていけない。

 

 と、いうかだ。

『正々堂々とやれ』ってのは、『正々堂々と負けろ』ってことで、結局楽に勝ちたいとか、自分が見たいプレイをしてほしいとか、自分達の都合の言葉であることがほとんどだ。

 

 つまり、観客は……注目選手である走者の盗塁が見たい。

 そうした願望が、ブーイングを生む。

 

 以前、全打席敬遠が非難されたのも、結局はそれだろう。

 地方大会の成績を調べれば、4番打者が打つとチームが勢いづく……その傾向が明らかだったからな。

 つまり、あのチームは4番打者がチームのムードメイカーを兼ねていた。

 そのムードメイカーに何もさせずにチームを勢いづけさせないなんて、当たり前の駆け引きなんだが……そういう意見は、マスコミに徹底的に無視されてたからな。

 

 スター尊重主義ってのは、一般ファンを尊重し、阿るものだから……その中で、俺のような凡人は、踏みにじられていく。

 スターはプロの世界で輝いてくれ。

 俺のような凡人は、ここが、野球選手としては最後の舞台なんだ。

 

 かつて尊重され、称賛された凡人の努力は、もう、この甲子園の舞台では期待されていない。

 俺達に残されているのは、勝利しかない。

 

 ルールは守る。

 そのうえで、俺は好きにやる。

 主審から注意されるまでは問題なし。

 

 あらためてセットポジションに。

 一呼吸待ち、走者を見つめたまま、ゆっくりと右足を上げ……軽い牽制を1つ。

 

 当然、走者は余裕で塁に戻っている。

 

 左投手の1塁牽制の場合、この上げた右足が左足のラインにクロスすると打者に投球しなきゃならなくなる。

 これをクロスさせずに打者に投げることができれば、走者を牽制しながら投球できるんだが……重心移動が不十分になりやすく、球の速度が落ちる。

 

 さて、ここからだな。

 

 さっきの牽制は、見せるための牽制だ。

 普通の、誰もがやるような牽制。

 

 少しずつ、情報を小出しにしないと、『偵察?知るかバカ!』って感じに切れられたら、対応が難しくなる。

 

 

 セットで構える。

 歩幅は狭く、俺の視線は打者に向けている。

 

 投げる直前に走者を見て、視線で牽制してから打者に投げるってのが普通。

 だから、走者を向くタイミングで牽制したり、走者を見ずに打者に投球したりと、ここが駆け引きの肝になってくるが、まだそれは見せない。

 

 打者を見たまま、ゆっくりと数を数えていく。

 そろそろ、主審の反応も怖い。

 

 静寂からのざわめき。

 観客が、選手たちが、またかよ……と思い始めたそのタイミング。

 

 小さなステップでのクイックスロー。

 今度は、上体重視のクイックだ。

 

 打者の反応が遅れた。

 慌ててバットを振ろうとして、それを途中で止める。

 

 やっぱりな。

 ベンチから、『待て』のサインが出てる。

 

 絶対的な走者への依存が、チームというか、次の打者への歪みを作る。 

 

 その歪みを利用して、2ストライクをとった。

 これで、盗塁をするなら、打者を三振させなきゃいけないカウントだ。

 

 エンドランの可能性はあるが、絶対的な武器を持つ走者を殺すリスクをこの状況で背負うとは考えにくい。

 

 ここで、走者を優先するか、打者を優先するか……相手は選択に迫られる。

 しかし、俺はまだ1球も投手らしい投球をしてないし、まともな牽制もしていない。

 情報としてはまっさらな状態だ。

 

 クイック投法にも色々ある。

 

 腰の回転を使って投げるクイック。

 サイドから投げやすい分、戸惑わせることができる。

 

 腕の力で投げるクイック。

 これは、踏み出しが小さいから、早く投げられる。

 

 重心移動で投げるクイック。

 これは、打者がタイミングを取りづらい。

 

 色々仕込んでくれた中学時代の恩師に、心から感謝だ。

 俺1人に、ネチネチと走り込みと個人特訓してくれてありがとよ。

 

 

 走者を見る。

 目が合った。

 

 悪いが、俺はワンポイントのリリーフだ。

 いくら観察したところで『同じフォーム』や『同じリズム』では投げないぞ、と。

 

 自分の足を信じて、馬鹿みたいに盗塁を狙うのが唯一の正解。

 

 まあ、チームのために相手投手の癖や牽制を誘うのがトップバッターの仕事ではあるんだけどな。

 それも、心の隙ってやつだ。

 

 投手としての俺は、そういう心の隙や弱い部分をチクチク攻撃して、アウトを積み重ねていくしかない。

 

 さて。

 盛り上がってまいりました。

 

 息を吐き、騒がしくなってきた相手チームの観客席に視線を向けた。

 

 いいよね、ブーイング。

 これを聞くと、自分が根っからの悪役思考ってのが実感できる。

 

 甲子園の舞台だし、もしかすると、うちの学校にも抗議の電話が鳴ってるかもな。

 

 捕手の声。

 気のせいかと思ったが、ブーイングで聞き取りにくかっただけか。

 

 捕手からの送球。

 それを、わざとグローブではじいて取り落とす。

 

 もちろん、走者に進塁を許すような落とし方はしない。

 1塁側に近づく位置。

 マウンドから降りてそれを拾い上げる。

 

 こうして、ブーイングを浴びて、動揺している姿を演じておく。

 

 ん?

 

 走者がベースから離れている。

 その距離は、精々50センチほど。

 その視線は、観客席だ。

 

 おいおい、インプレー中で、投手の俺がボールを持ってる状態だってのに。

 

 50センチとはいえ、心の隙だ。

 

 次の打者の2球目で殺そうと思ってたが……作戦変更。

 

 マウンドに戻らず、ブーイングを受け止めながら、1塁側の観客席を見つめる。

 見上げる角度。

 俺がじっと見ているせいか、ブーイングが大きくなっていく。

 

 マウンドを降りた分、一塁までの距離は近い。

 10メートルちょっと。

 

 さりげなく。

 

 観客席を見上げたまま。

 

 また、さりげなく。

 

 そして、何でもないように、左手を挙げる動作で、1塁にボールを送る。

 

 ふわりと、弧を描いて1塁のエース様の元へ飛んでいく白球。

 エース様が捕球する前に、大きく息を吸う。

 

 おい、驚いてるんじゃねえよ!

 落としたら、殺す!

 

 捕球。

 そのタイミングに合わせて。

 

「ファースト!」

 

 ブーイングを切り裂く様に、腹の底から怒鳴る。

 

 走者が、驚いたように俺を見る。

 カウンターで、エース様がタッチ。

 

 よし。

 

 殺っちゃったぜ。

 

 

 

 

 

 

 ……で、終わればいいんだけどな。

 

 交代した投手ってのは、最低でも打者1人に対して投げ終わらなければいけないってルールがある。

 つまり、この2番打者を抑えるか、打たれるかしないと、俺は1塁に戻れないってことだ。

 

 

 2ストライクからの3球目。

 手を出してくれたら儲けものの、アウトコースのボール球を、奇麗にレフト前に運ばれました。

 この、地区予選レベルなら凡打になりそうなボール球を、普通にヒットゾーンにもっていかれるってところに、俺の投手としての限界が透けて見える。

 

 つまり、純粋な投手としての俺は……甲子園の準々決勝のマウンドに立てるような実力がない、ポンコツピッチャーってことだ。

 軟投派投手に分類される俺は、走者を背負うことに慣れている。

 しかし、その本質は……走者を出すことで打者の負担を増やし、駆け引きの選択肢を増やさないと打者を打ち取れない。

 

 高校野球ではエースになれない、それが俺だ。

 

 

『〇〇高校の、守備位置の変更をお知らせします……』

 

 

 俺は、エース様にボールを手渡す。

 さっきとは逆の立場。

 

 こう言うしかないよな。

 

「やられちゃったぜ」

「いや、まあ……走者が入れ替わっただけでも、助かるんだけどな。なんというか、お前さぁ……」

 

 エース様が、相手側の観客席に視線を向けた。

 さっきのブーイングから一転、盛り上がっている。

 

 まあ、俺が打たれてざまぁって感じだろう。

 そりゃあ、俺は1塁に戻るが……あの俊足ランナーが塁に出たら、またマウンドに戻るんだぞ、と。

 

 エース様からファーストミットを受け取り、俺はエース様のグローブと自分のファーストミットを取りに一旦ベンチに戻った。

 

「……お前さぁ」

 

 呆れたような監督の声を背に、俺は一塁に向かって全力ダッシュ。

 

 さあ、試合はこれからだ!




真凡人:「お前が凡人のわけないだろ!」
コイツ:「えっ?」
真凡人:「本当の凡人は、甲子園なんか出られないし、レギュラーメンバーになれないんだよ!」

と、まあ……人は自分中心にものを考えることから逃げられません。(目逸らし)
高校球児は、それぞれが自分だけの『甲子園』を想定して、白球を追いかけるのです。

さて、昭和の頃は、投手がセットに入ってから20秒以内に投球……という目安がありましたが、今は10秒に近い間合いは主審が試合を止める可能性が高くなってます。
これも70年代に、長い間合い、短い間合いを繰り返して打者を打ち取る作戦が広まりつつあったんですが、『迅速な試合進行』という建前で暗黙の了解的なルールがうまれたせいです。
野球そのものが複雑化して、試合時間が長くなることでテレビ放送やその他の影響が出始めたこともあって、『全力野球』とか『選手交代やイニングの切り替わりでの全力ダッシュ』などが『高校生らしさ』とか『溌剌プレイ』の美徳とされて、推奨された時代にすりつぶされた駆け引きです。
石油危機の頃は、ナイター照明をつけると1時間で(ピー)万円電気代がかかるなどと言われ、試合の速度アップが図られたそうな。

この、『速度アップ』の建前は平成の時代に入っても続き、タイムの回数の制限とか、伝令の制限とか……もう、『チーム全員で相談して頑張る』って昔ながらの姿勢の全否定に近いと思うんですけどね。
というか、とにかく視聴者からクレームが来そうなプレイに関して、ものすごく厳しくなったイメージです。

こうしたスター尊重主義が続く間は、ルールの隙間をつくような努力と工夫は、ルール改正で潰されていく流れかなと、個人的には思います。

なお、牽制には普通の牽制と言うか、見せるための牽制、通常使用する牽制、クイック牽制、そして試合に1回しか使えない、限られた状況でのみ使える1発牽制の4パターンがあります。
ただ、昭和の時代と違って、今は練習時間の効率も含めて、走者を殺す牽制は覚えないし教えようとしない学校が多いようです。
走者との駆け引きに必要以上に神経を使うぐらいなら、リズムよく守った方が好結果につながると割り切った感じですね。
なので、甲子園の舞台でサインプレイやトリックプレイがあっさりと決まったりすると、逆に話題になって情報が拡散し、『これ、数年はマークされて使えなくなるやつ』などと指導者が泣きを入れるとか。
チームの世代ごとに別のトリックプレイを仕込み、練習する……というのが、今の指導者のつらいところで、同じチームの出身なのに、教えてもらったサインプレイが異なるなんてのが普通(全国レベル)になってます。
情報化社会において、『秘密兵器』ってのは1試合に1回どころか、数年に1回しか使えなくなったのが、今の時代かもしれません。
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