表も裏も、そして闇もある高校野球ですが、甲子園という舞台に憧れて野球を志す子供たちがいるのも事実です。
夏の大会が、無事に開催されることを祈って……この物語の締めとさせていただきます。
あぁ、こういうことか。
甲子園で準優勝の経験を持つ、母方の伯父さん。
野球少年だった俺は、甲子園に出場し、準優勝までした伯父さんに憧れの想いを抱いて良く話をせがんだ。
ノリノリで話してくれたモノもあれば、口を濁して話してくれなかったモノもあって……どこか切なそうに、しかし懐かしそうに話してくれたこと。
それを思い出した。
一昔前、ウ〇トラクイズって番組があったらしい。
出場者同士で争いながら、アメリカのニューヨークを目指すという、大掛かりなクイズ番組。
勝ては次のステージへ。
負けたら罰ゲーム。
視聴者を楽しませるのは、場所を変えていくステージの多彩さや、バラエティ感溢れる罰ゲームの数々。
人気番組だったらしいが……大掛かりな内容だっただけに、予算が厳しくなって打ち切られたらしい。
その罰ゲームだが……決勝における敗者だけは、罰ゲームがないらしい。
ただ、喜びにあふれる優勝者をじっと見つめることこそが罰ゲームといえば罰ゲーム。
春の選抜高校野球。
その大会の、決勝が終わったのはついさっきのことだ。
伯父さんが出場し、準優勝を果たしたのは夏の大会。
場所は同じ甲子園。
伯父さんは……伯父さんの甲子園準優勝の想い出は、ここで止まっているのか。
子供のころから、毎年毎年見てきた甲子園のテレビ放送。
今、テレビ画面でどんな映像が流れているのか、簡単に思い描くことができる。
ホーム前に整列する優勝校。
その背中方向から、バックスクリーンを映す構図。
画面には、優勝校の校歌の歌詞が、白く描かれ……校歌が流れていく。
すぐに、カメラの視点が切り替わる。
選手の顔。
ベンチ。
そして観客席。
子供の頃は、何の疑問ももたずにそれを見ていた。
この、優勝校の校歌が流れている間、決勝で負けたチームはどうしていたんだろうなんて疑問を持つことはなかった。
子供らしい、残酷な無邪気さ。
ただ、勝者だけを見つめる、勝者だけに憧れ、自己を投影する。
そんな、子供らしい残酷な無邪気さだけがあった。
知識としては知っていた。
伯父さんの話を聞いて、そういうものかとも思った。
こんな形で、俺は伯父さんの話を、想い出を、追体験している。
こんな形で、知りたくなかったことを、本当の意味で理解している。
俺は、俺たちのチームは……敗者だ。
出場校32校で、31番目に負けた敗者。
この大会で、一番最後に負けた敗者だ。
ベンチ前にきちんと整列し、ただ黙って、優勝校の校歌が流れるのを聞いている。
涙が流れる。
隣から鼻をすする音が聞こえる。
それでも、優勝校の校歌を邪魔するような泣き声だけは出すまい。
それが、敗者のプライドで……勝者への敬意。
優勝校の校歌。
子供のころから親しんできたフレーズだ。
甲子園常連校。
憧れの高校だった。
憧れていた高校だった。
何度も。
何度も。
その校歌を聞きながら、俺もあのユニフォームを着て甲子園の舞台に立つんだと夢想していた。
憧れの校歌だ。
覚えている。
ソラで、歌うことだってできる。
しかし、俺は……その、憧れた校歌を、黙って聞く。
下を向くな。
空を見て逃げるな。
ただ、優勝校のメンバーを見つめる。
俺は、伯父さんとは違う。
俺には夏がある。
俺達にはまだ、夏がある。
俺達はまた、ここに来る。
今と同じように、メンバーが並んで。
同じように涙を流しながら。
俺達の校歌を、歌い上げるんだ。
校歌が終わる。
優勝メンバーが、そろって礼をする。
自分たちのベンチに向かって走り出し、観客席に向かって頭を下げる。
甲子園の、サイレンが鳴る。
試合開始と、試合終了の合図のサイレン。
春が終わる。
それは、夏の始まりだ。
春が終われば、夏が来る。
夏が終われば、春に向けた秋が来る。
そしてまた、当たり前のように春がやってくる。
試合が終わっても。
大会が終わっても。
春には春の。
夏には夏の。
球児たちの想いを受け止めて、甲子園はただそこにある。
高校野球は、どこまでも続いていく。
どこまでも蒼い、この空の下で続いていく。
強打者のホームランに、剛腕投手の奪三振ショーなどなど。
それに隠れて、取り上げられることの少ない走塁や駆け引きをメインに描いてきました。
甲子園の象徴ともいうべき行為でありながら、取り上げられることがほとんどない校歌斉唱のシーンを、敗者目線でお送りしたところでラストです。
かなり昔は、敗者はさっさと自分のベンチで片づけを始めていたらしいですが、いつからこうなったのかはわかりません。
全5話ということで……まあ、昭和中期の荒っぽいエピソードを言い出したら論文になるぐらいネタはあるんですが、プレイの結果で怪我をするのならともかく、怪我をさせることが目的のようなプレイは書きたくないですね。
ただ、それでも……ルールが改正されると、消えていく技術があります。
その消えていく技術は、覚えている人間がいなくなれば、伝える人間がいなくなれば、失伝しちゃうんでしょうね。
セカンドランナーが打者にサインを送る……サイン盗みなんて表現されるようになりましたが、私の世代の経験者にはサイン盗みってのは違う意味の言葉であり、意味が通じない表現でした。
『盗み』という言葉を使って、『悪いこと』と認識させるためのテクニックなんですが、経験者には意味が通じなくて会話が成立しないという。(笑)
このルール変更に関しても、当然消えていく技術があります。
打者にサインを送るためには、走者が捕手の出すサインを見る必要があり、自分でサインを出す必要があります。
その、『サインを見る』『サインを送る』瞬間に、ランナーの意識は投手から逸れます。
それを利用して、捕手がサインを出すタイミングをずらして牽制で走者を殺す……1970年代に形になったとされるサインプレイは、そのエッセンスはともかく、このまま失われてしまうんでしょう。
人が何かをしようとすれば、相手は当然それへのカウンターを用意する。
そうやって、人は技術を発展させていくと、昭和の古い人間は考えているのですが……世界基準を免罪符にする時代の流れに多少切なさを感じてしまいます。
そんな想いが書かせた、ちょっと黒いノスタルジックな作品。
読んでくださった皆様の心に何らかの感情を残せたのなら幸いです。