水を打ったような静けさというのはこの事をいうのだろう。
どこをどうやったら、この状況下で、そんな自信満々に言い切ることが出来るのか。まったく真姫には理解不能で、何ゆえその人間がよりによって隣にいるのかがわからなかった。
硬直の解けた所から、ヒソヒソ声が広がっていく。誰あの子。何言ってるの。わけわかんねぇ。そんな言葉たちが口々より飛び出てくる。
穴があったらすぐにでも隠れたい気分だ。だが、ここに穴などなく、また逃げる場所もなかった。真姫の気持ちを斟酌してくれる優しい存在もいなかった。
動揺が噴出し始めた会場に一声かけようとした英玲奈を手で制し、
ツバサは口を開く。
「――あなた、名前は?」
口元に手を寄せ、メガホンの形にすると、
「高坂穂乃果です!!」
「高坂さんっていうんだね。グループは?」
「え、グループ……えーと、あれ、な、名前……名前名前……あ――ッ!?」
ウソでしょ!? ――続く言葉が予想できてしまい、真姫は両手で顔を覆う。そして、案の定、
「名前は、まだ……ないです」
どこかで失笑が漏れる。ヒソヒソはクスクスへと変わっていく。
当然だ。これじゃわざわざ恥をかいたようなものだ。黙っていれば良かったものを。思っても口に出さなければ良かったものを。何故。どうして。手のひらの中で真姫は唇を噛み締める。
しかし、耳は言の葉を受け取った。
「――でも、本気です」
ゆっくりと手のひらが眼前からはがれた。
「小さい頃から、歌とかダンスを習ってたわけでもないです。みんなからうらやましがられるくらい、キレイだったり、かわいかったり、そういうわけでもないです。
……だから、実力なんてないし、……名前すら決まってないような私たちです。笑われるのも当然だと思います」
そこで、穂乃果は胸に手を置き、
「でも……、でも、やろうって思ったんですッ!! 今は気持ちだけしかないけど、いつかラブライブに出場できるくらい有名になって、色んな人たちに私たちの学校、音ノ木坂学院はすっごいいい所だよって伝えたいんです!!」
そう、言い切った。
向けられた嘲笑の数々の中で、言い切った。顔をうつむかせることなく、胸を張り、はっきりと。
少しだけ、ほんの少しだけ、真姫はその姿に見とれた。
「――そっか、」
くしゃくしゃに、誰もが恋するような笑みを浮かべるとツバサは、
「高坂さんは、本気なんだ」
びしっと人差し指を穂乃果に突きつけると、
「なら、楽しみにしてるね。音ノ木坂のスクールアイドルさん」
会場にどよめきが走る。あの綺羅ツバサがレスに加え、エールを送ったのだ。まったく無名のスクールアイドルに対して、あの女王が、である。
この場における唯一絶対の
「それじゃもう一度いっくよぉ――――――ッ!!」
熱狂の渦が再開する。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ライブが終わってからというもの、真姫は無言だった。会場だったUTX学園を出る道すがら、穂乃果はその様子を気にするようにちらちらと横目で窺っていた。
だが、真姫は応えず。やや足早に穂乃果の一歩先を歩く。その足が止まったのは、歩行者デッキも中ほどまで進んでからだった。
秋葉原の高層ビル街が夕日に赤く染まり、吹き抜けていく春風に人々は身をすくめ行き交っている。その中心で真姫は振り返る。
「……どうして、あんな事言ったのよ」
「あんな事?」
「……だからっ、その、A-RISEに向かって、ラブライブに出るとか」
首を傾げ、
「んー? ……?」
穂乃果は考え込む。難しい顔で眉根を寄せて、ついでにぽんぽんとこめかみを叩きながら、
「――なんでだろう?」
疑問に疑問で返した。
「い、意味わかんない!! だ、だってあるでしょ!? 何かあんなことをするだけの理由が!!」
「えー、でも、うーん、やっぱないよ?」
一応、頭を振り絞っているらしい穂乃果の言に、真姫は呆れて物も言えない。
「えっと、理由って、そんなに大切なのかな? やりたいからやる、じゃ、ダメ?」
「そ、そんなの――」
考えたこともなかった。そういった類の思考は、どこかガラスの向こう側の出来事のように思っていた。
だって、いつだって理由はあったのだ。大病院の院長の娘ということで、優秀である必要があった。勉強はいつもトップでその座をゆずったことはなかった。身だしなみをくずすことなど、他所様の目があったから許されなかった。世間体の良い趣味に入るピアノを始めたのもきっと、父の熱心な勧めがあったからだ。
だから、常に理由というのは寄り添っていた。
そして、それでいいと思っていた。
なんとなくで生きているような人間とは違う。そういう人間とは、透明だけど確かに存在している壁に隔てられている。
覗くことは出来ても、触れることは出来ない。そう――
「西木野さん!」
「! ――な、なによ」
ははーんといった感じに穂乃果は、
「またなんか難しいこと考えてるでしょ?」
「な、なんで……?」
また理由を訊いてしまって、しまったと思った真姫に、
「それはねー、なんか西木野さんってどことなくユキちゃんに似てるんだ。ユキちゃんって、今の西木野さんみたいに、ちょっとうつむいて真面目な顔してる時があるんだけど、そういう時ってだいたい難しいこと考えてるから、そうなんじゃないかなって」
よぎったのは、昨日初めて会ったあの顔。出会いからして最悪に近かったあの男だ。似てると言われてもまったく嬉しくないし、むしろあれに似てると言われて思わず眉をひそめてしまう。だが、
「あはは、今のも似てたよ」
人の気も知らないで破顔する穂乃果のせいで恥ずかしくなった真姫は、
「い、意味わかんない!!」
結局いつもの口癖しか返せなかった。
「えへへ、ごめんね? ――あー、それにしても今日は楽しかったなぁ。初めてA-RISEを生で見ることができたし、西木野さんといっぱいおしゃべりできたし」
今日はひゃっくてーんと人差し指を立ててから穂乃果は、
「西木野さんは、どうだった?」
正直、疲れた。まさかこんなにこの先輩が付き合っていると疲れるタイプの人間だと思わなかった。きっと、もっと本来なら普通に楽しめたはずなのだ。でも現実の今日は、あの有様で、
「ちょっとでも楽しんでくれてたら嬉しいな」
「……それは、仲良くなって私に作曲をお願いしようって思ってるから?」
気づけば、言葉が口を突いていた。
穂乃果は、首を横に振る。
「ううん、違うよ。西木野さんも楽しんでくれてたら、私、もっともーっと楽しかったって言えるから!」
なんだそれは。……本当にこの人は。いちいちその裏に何があるのかを考えてしまう、私の方が馬鹿みたいじゃないと真姫は思う。
気づけば、何故だか込めていた肩の力が抜けていた。
「……楽しかったわよ。どっかの誰かさんがヘンなこと言い出さなきゃね」
「え、誰々? そんな人いた?」
まったくこれだ。よくもまぁ、あの日高という人はこの調子に付き合っていられる。
だがまぁ、少しだけだが、ほんの、少しだけだが、ガラスの向こうへ行ってみるのも――いいかもしれない。
「あ、海未ちゃん、ことりちゃーん!」
そんな時、穂乃果が声を上げた。振り返れば駅からこちらへと向かってくる、たしか穂乃果と同じくスクールアイドルをやっている幼なじみらしい先輩二人と、
「な、なにあれ……」
「穂乃果ちゃん、西木野さんもちょうど終わったみたいだねよかった~」
駆け寄ってきたことりの後ろから、どデカいぬいぐるみが海未を隣に何やら掛け合いをしながら向かってくる。
「俺のプライドはもうズタズタよ……」
「ま、まぁたしかに周囲の人に奇異の視線で見られはしましたけど、両手に花だったんだからいいじゃないですか」
「花じゃねーだろ。どう見ても俺の両手にあんのはクマだっつうの!!」
ぬいぐるみのその向こうから聞こえてくるのは、
「あ、西木野さん、こんにちは。穂乃果も」
「え、何、誰? 見えないんだけど。あのことり管制官、このぬいぐるみ様の着陸の許可を願います」
「許可します♪ ありがとゆーくん、こっちに貸して?」
ありがとーございまーす!! と満面の笑みでぬいぐるみをことりに渡した行人と目が合った。
「ちょちょちょ待って待って、ほら、いやいやいや違うんです」
反応は早かった。
「ほんとに。これ俺の趣味じゃないです。あのですねこちらのお嬢さんが俺にデリバリーを頼んだだけです。決して趣味ではないですよ。おかしいでしょ? こんなおっきなぬいぐるみを大の男が好きこのんで抱きしめてたらちょっとファンシーすぎでしょ? 俺は生来クールでニヒルなんだよ? チョコとかビターしか口にしないからね?」
「え……ゆーくん、甘いチョコ……ごめんね、バレンタインの時……」
「ステイステイ、おま、ことりさん? 君ちょっとわかってやってる? ね、それはあれよ別日に公式見解述べさせてもらうんで。今だとちょっと、ね、あの、こう問題がややこしくなるから」
ことりをなだめると、行人はこちらに向かい一語一語噛んで含めるように、
「――トラスト、ミー」
「……行人くん。今のでわざわざ信憑性を著しく下げたと思いますが……」
「え、ちょっと難しい言葉使っちゃったから?」
「いえ、そういう訳ではないんですが……」
繰り広げられる漫才にやれやれと言った様子で真姫は穂乃果に、
「……これに似てるワケ?」
「え、えと……あはは」
さしもの穂乃果もあさっての方向へと視線をやって明言を避けた。
姿勢を正し、わざとらしく咳払いをした行人は、
「いやまぁそんなことより、二人ともライブ、どうだった?」
「すっ~ごい良かったよ、ね? 西木野さん?」
「……まぁ」
ほほう、そりゃ良かったと相好を崩す行人に、穂乃果が付け加える。
「凄かったよねぇ~あのA-RISEの人がライブ中に私に話しかけてくれるなんて!! うんうん、勇気を出して、私たちもラブライブに出るって言ったかいがあったよ」
そうかそうかと深く頷く行人。
ポク、
ポク、
ポク、
チーンと四拍子の間が開く。そして、
「おま、何しとんじゃぁあ~~~ッッッ!!??」
頭をかきむしり絶叫し出した。
「嘘だろぉ~!? マジかうっわ……、え、西木野さん、あのつかぬこと伺いますが、こいつ……やらかしました?」
無言で一つ頷くと、
「神はお亡くなりになりました~~~!!」
あばばばばと空に向かって幼児をあやすようなことをし出した行人を弾き飛ばして海未が、
「ちょっと穂乃果、いったい何をしたんですか!?」
「え、だから、A-RISEの人たちがラブライブに出るっていうから、私たちも出ますって言ったんだよ。そしたら反応してくれてね?」
「何をしてるんですか貴方はぁ!!」
光速で穂乃果の両肩を揺さぶる。そこに戻ってきた行人は穂乃果を引っ張ると、
「ちょもうお前こっち来い! 西木野さん――ごめん!!」
深々と頭を下げた。
「あれだけファンなんだ。たぶん、このライブ凄く楽しみにしてくれてたんだよな。なのに、もしもこいつが台無しにしてしまったなら、本当に謝ることしか出来ない……ごめん」
更に一段階頭を下げるように、
「こいつがどんな人間なのか知ってもらおうと思って、チケット渡したんだけどさ……ごめん、全部俺が――」
「――わかったわよ」
えっ、と行人の顔が上がる。
「スクールアイドルやろうなんて言い出したのも、ただ学校を助けたいからで、深く考えもしないくせに行動しだして、そのくせ気持ちだけは誰よりも一生懸命で……本当に意味わかんないけど――でも、それがこの人なんでしょ?」
ぽかんと口を開けた、行人、穂乃果、海未、ことりの四人に、らしくないこと言ったと顔を赤くしながら、
「そ、その、だ、だからっ、A-RISE相手にあんな啖呵切ったんだから、曲がないと始まらないでしょ!!」
最初に動いたのはやっぱり、
「そ、それってつまり――?」
「曲、書いてあげるわよ!! なんか文句ある!?」
「ううん、ないよ!! あるわけなんか、ない!!」
穂乃果はぶんぶんと真姫の両手を掴んで振る。
「ありがと――――!! 真姫ちゃん!!」
「ま、真姫ちゃん?」
「うん、西木野さんなんて固い呼び方じゃなくて、真姫ちゃんって呼んでもいい!?」
「……か、勝手にすれば!」
はしゃぐ穂乃果に振り回される真姫を眺めながら、行人は自分の頭をこぶしで小突く。
「はぁ……出しゃばっちった」
「やっぱり……穂乃果ちゃんって、凄いね」
「ああ、ほんとだよ、あんなん誰にも真似出来ない」
肩をすくめ苦笑する行人に、ことりは微笑み、
「でも、きっかけを作ったのはゆーくんだよ?」
「どうかね……俺はあいつはきっと俺がいなくても一人で西木野さんを引き寄せたと思うけどな」
はしゃぎすぎの穂乃果をたしなめようとした海未も結局穂乃果の勢いに押され、ミイラ取りがミイラになっている。助けを求める視線に応えてやるかと一歩踏み出した行人の背中で、「――ないなぁもう」
「? なんか言ったかことり?」
「ううん、なんでもない、それより行こ? 海未ちゃん困ってるから」
背中をことりに押されながら、行人は三人の輪の中に飛び込む。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
控え室に戻ってくるなり、ソファーに倒れ込んだツバサに、英玲奈は、
「行儀が悪いぞ、ツバサ」
「お疲れなんだよ、許して~」
うつぶせになり足をばたつかせながら、くぐもった声で応答するツバサに、やれやれといった様子で英玲奈は自分の汗をタオルで拭う。ライブを一回終えると、気分的にはフルマラソンを走りきった後のような疲労感に襲われる。しかし、そこに同時にあるのは全力を出し切った時固有の心地よさだ。
つい先ほどまでの浴びていた歓声が耳を離れない。顔に置いたタオルの闇の中で会場の熱さがよみがえり――、
「二人とも、お茶を淹れましたわ。どうぞ」
あんじゅの声で現実に呼び戻される。
「うわーい、やったぁ」
跳ね起きたツバサに、思い切り元気が有り余っているじゃないかと呆れる英玲奈をあんじゅがまぁまぁとお茶菓子を差し出す。
「そうそう、英玲奈はあまり細かいことにこだわっちゃダメだよ」
皿に並べられたマフィンの紙をはがしながら、ツバサは英玲奈に意見する。
「そういえば、今日のライブにいらしていたあの方、面白い人でしたわね」
「ああ……あの音ノ木坂のスクールアイドルだとか言ってた子か」
紅茶を啜りながら思い出したように今日のライブに現れた同い年くらいの女の子のことをあんじゅは口にする。
「高坂穂乃果ちゃんだよ」
大口を開けてマフィンにかぶりつくツバサのその姿は、あまりファンには見せられないななどと思いながら英玲奈は、
「よく覚えているな。てっきり適当にあしらっただけかと思ったが……」
「たしかに、ツバサさんにしては珍しいですわね」
「ちょっとそれってどういうことさー、ぶーぶー」
「暗記物が嫌いなのは、事実だろう?」
「うっ、それはそうだけど……」
残った紙の容器をくしゃくしゃに丸めて、ごみ箱に指ではじくと、
「んっふっふー、なんか昔を思い出しちゃったんだよね」
それは一番最初。やろうと決めたあの時、
「私たちも、昔は気持ちしかなかったから。ね?」
静かに薫香を楽しむあんじゅと、中空を見て何か思い返している様子の英玲奈。
「……そうだったな」「ええ」
そっと肯定する。
そんな二人の前でツバサは立ち上がり、
「――気持ちがないと始まらない。でもその後は、それだけじゃどうにもならないことが一杯ある。うん、楽しみだなぁ。これからどうなるのか」
女王が笑う。
なかなか難産でした……。今回のサブタイトルはとあるアニソンから取っています。ご存じの方はいらっしゃるかな。