「――後、二周です! 穂乃果、ことり!」
「う、うん!」「ふぇ~~、は、はい!」
街中にあってもなお、神前だ。早朝の神田明神の境内は清浄な空気に満ちている。パワースポットだなんだと持てはやされる昨今ではあるが、やはり歴史ある場所というのはただよう空気がそんじょそこらの物とは違う気がする。胸一杯に詰め込んでおけば、この都会の排ガスに汚れちまったわがままボディも浄化してくれないだろうか。
それはさておき、神田祭の際には人で溢れかえるここも、平日のこの時間帯はほぼ無人と言っていい。見えるのは、竹箒を持って石畳を掃き清めている顔に覚えのある
海未指導官のもと、朝練に励む穂乃果とことりの姿だ。
たかだか数日で見違えるほど体力がつく。というわけにはいかないものの、それでも多少は運動に慣れたせいか初日に比べるとマシになっている、のではないだろうか。
穂乃果は歯を食いしばっておらず、ことりも目を回していない。
「これが若さか……」
「何を言ってるんです? 行人くん」
「お、お前拾うんじゃありません! 独り言です!」
ったく、二人につきっきりだと思ったら急に振り向くなよな。壁打ちしようかなと思ってたらリターンエース決められた感じになっちゃったじゃんかよ。
いいからあいつら見ててやれよと俺は海未を再び前を向かせ、気づかれぬようこっそり嘆息する。
そして、俺は、今手元にある携帯音楽プレーヤーへと目を落とす。
ついさっき、会って早々に更新された会員証とこのプレーヤーを「ユキちゃん、凄いから聴いて!!」と目元にうっすらクマを残しつつ、鼻息荒い穂乃果から押しつけられたのだ。
何事だよと思って液晶を見れば、お気に入りの曲群の中に『μ’s新曲!』となんのヒネリもない曲名が異彩を放っていた。この仮の曲名を勝手につけたのは十中八九穂乃果だろうが、間違いない、
――西木野さんが作った曲だ。
作曲を引き受けてもらって、こうもすぐに渡してくるとは。その仕事の早さには舌を巻く他ない。それでいて穂乃果をあれほどまでに興奮させた曲とは、いったいどんな曲なのか。耳に出来る機会は目の前に転がっている。
だが、俺の指は先ほどから再生ボタンにかけたまま止まっている。
「……なぁ海未。歌詞つけるお前は、この曲もう聴いたのか?」
「はい? いえ、後でことりと一緒に聞かせてもらおうかと思って、まだ聴いていません」
「そっか。――なら俺も、後でいいや」
え? と戸惑う海未に、穂乃果に返しといてくれとプレーヤーを手渡し俺は鞄をかつぐ。
「あ、あの行人くん」
無言で、何、と問う。おずおずと、
「えっと、作詞、なんですけど……」
以前、約束していたことだ。
「わかってるわかってる。手伝うんだよな。……まぁ俺が何をすりゃあいいのかは知らないけど。ちゃんと手伝うさ」
たったそれだけの言葉で、よかったと海未は安堵するように顔をほころばせる。思わず俺は顔をそむけ、それじゃまた放課後な、とだけ口にし神社を後にした。
「――とは言ったものの、だな。」
ちょこんと座っている三人娘を見回し、
「我が家でやるんすね……びっくりだぁ」
もはや毎度おなじみ、下校中にスマホにメッセージを受け取った俺は、その送り主がお袋であった事に鼻白んだ。しかし、その文面が、
『今、うちに穂乃果ちゃんたち呼んでるから、アンタ早く帰ってきなさい』
という、あまりにもあんまりなものだったため、俺は帰宅マラソンを余儀なくされた。
頭は真っ白、肺が生きるため酸素を求め、心臓がフル稼働で全身に血液を循環させている。命のともしびが今静かに燃え尽きようとしているのを感じながら家に着いた。玄関に入ると、
どっかで見た事のあるローファーが、三足、ちゃっかりうちの玄関の一員として加わっていた。ともしびは消えた。
――以上の経緯があって、「びっくりだぁ」の反応である。
俺は今日の作業はてっきりどっか外でやるとばかり思ってたんだけど、現実は非情でした。というか、呼び立てやがった張本人であるお袋の姿がない事に気づいた俺はトサカに来るものを感じ、三人を問い質す。
……なるほど。そも、こいつらとしても最初からうちに集まる予定だったわけではないらしい。学校を出て、そのまま穂乃果の家に集まろうとした矢先、お袋と道ばたでたまたまエンカウントした。そしてぽろっと今日の予定みたいのを語ったところ、スクールアイドルに関することだったら全面的にうちは協力するから♪ などお袋は問題発言をかまし、三人の行き先を我が家へと変更させたのだという。お前ら世の中は悪い大人ばっかなんだから、ほいほい言うこと聞いちゃだめだろが、その時お前らの目の前にいた人間はたぶん悪い魔女だよ魔女。
「いきなりごめんね、ゆーくん……」
「あ、いや別にお前たちを怒ってるわけじゃない。遺憾の意なのは我が家の魔女に対してだ」
それで、お袋は三人を居間に通した後で用事があるとかで、再び出かけたのだという。おい、よそんちの娘さんにお留守番頼むなよ……。
なんか頭痛くなってくるわほんと、何考えてんだ。
「はぁ……ちょっと鞄置いてくる。すぐに戻るから」
頭を掻きつつ、俺は二階の自分の部屋へと上がり鞄を置く。すぐに戻ると言った手前、余計なことをせず出ようと思うが、一瞬足を止めて部屋を見渡した。
不自然なまでに部屋のスペースが所々ぽっかり空いている。もし匠が見たら無駄なスペースを有効利用してくれるのだろうか。
自分で自分のアホな発想を鼻で笑いつつ、
「…………」
殺風景な部屋だと、思ってしまった。
自室のドアを閉め、俺は廊下に出る。お袋のせいで心の準備が整わないまま来てしまったのは、事実。恨み言を重ねたところで現実は変わらない。深呼吸をする、顔の筋肉の調子はどうだ。大丈夫だ。俺は手首をさすりつつ考える。よし、擬態出来る。仮面を
一段一段階段を踏みしめながら俺は下りていく、彼女たちの前に戻る頃にはきっと、
いつもの日高行人だ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――どうしたの? 海未ちゃん」
行人が出ていった後、その扉に顔を向けたまま止まっていた海未に、穂乃果はイヤホンをはずしながら声をかける。
「いえ……」
すぐに頭を振るい、各自の担当作業――ことりは衣装の作成のために裁縫道具を片手に、海未は作詞のためペンとノートを広げ、……穂乃果はノートパソコンで他のスクールアイドルの動画を見ては一人拍手するというはたして作業と呼んでもいいのか疑問だったが、
とにかく、海未は己の作業に集中しようといまだ白紙のノートを見据えようとする。
がしかし、どうしても再び目が元の位置に戻ってしまう。それを繰り返しているのを、じーっと穂乃果とことりが見つめていることに気づいた海未は、逡巡しながらも口を開く。
「あの、……今日の行人くん、なんか変じゃありませんか……?」
ぽんと手を打ち、
「あ、そうだよ! 聴いてって、真姫ちゃんの曲を渡したのにユキちゃんたら聴いてくんないんだもん、イジワルだよ!」
ふくれ面で抗議する穂乃果に、
「いえ、そういう訳ではなくて……なんというか、その」
海未自身、適当な言葉を見いだせない様子で持っていたペンを離す。
「え~そんな、ヘンだったかな~?」
頼りになりそうにない穂乃果にかぶりを振り、海未はこの場にいるもう一人に尋ねる。
「ことりは……どう思いますか?」
糸を手繰る手を止めて、
「今朝のゆーくん、だよね?」
玉留めをすると、口を近づけて残りの糸を歯で噛み切る。
「いつもと変わらないと思うよ?」
「そう、ですか……」
二人からそう言われてしまい、自分の意識過剰だったのかもしれないと、海未が思い始めた瞬間に、本人がスキップで戻ってきた。
「よし、諸君。待たせたな」
「ゆ、行人くん……」
「なんだ海未、そんな学校でこっそり教師の陰口叩いてたら、いきなりその教師が現れたような顔をして。お前、さては俺の悪口言ってたな!? そろそろ俺のクールガイさが婦女子の皆さんの心を犯罪レベルで惑わせてしまうせいで毎日困ってますとか言ってたんだろ、しょーがないやつなお前」
「ち、違いますよ!」
も、もしかして聞かれていたのかと身構えた海未をあっさりスルーし、行人は穂乃果の横に立つと、
「今朝は悪かったな、曲、聴かせてくれ」
「むー、なんで朝聴いてくれなかったの?」
ジト目になって尋ねる穂乃果。
「知りたいか……」
凄みのある表情で決意のほどを確かめるが穂乃果はあっさり頷く。
仕方あるまいと、行人は前置き、
「……実は、あの時、お腹が痛くなってしまってな。それどころじゃなかった」
「え、そうだったの?」
「ああそりゃもうギュルンギュルンに唸りを上げて、一歩間違えばダムが決壊していたところだったんだよ。冷蔵庫を開けて、不自然に一個だけ残ってた卵とか食べるもんじゃないマジで。括約筋って知ってるか? ようはゲートキーパーなんだが――」
「ゆー、クン?」
底冷えのする声に行人は固まり、
「えーウソ……今の表現ことりコードに引っかかったの? 比喩多用してオブラートに包んだと思うんすけど…」
「ダ・メ、です。規制します」
ホイッスルを吹く真似をしながら注意することりに両手を挙げる行人。
「えっと、……」
凄まじくコメントに困ったような顔のまま海未は、
「い、今は、大丈夫なんですか?」
いささかとんちんかんな事を質問してしまう。
「でぇじょうぶだ。ラッパのマークのお薬はスゲェからな!」
ポンと腹を叩く行人は、机の上に置かれたUSBメモリに気づく。
「穂乃果、西木野さんの曲が入ってるUSBってこれか?」
「あ、うんそれだけど」
右手のみで端子のキャップを外しながら行人は思案すると、もう片方の手の指を鳴らし。
「せっかくだから、親父のオーディオ使うか」
「それって、あのなんかカッコいい奴だよね!」
「枕詞に“無駄に”って付けとけ。なんか知らんけど昔あれのケーブル一本がいくらかっていう自慢を俺にしてた親父に、お袋のいいレバーブローが入ったっていう思い出の逸品だ。親父の供養をかねてせいぜい使わせてもらおう」
穂乃果、海未、ことりは行人に導かれるままに部屋を移動する。パチンと明かりを付けたその部屋は、
「「「わぁ……!」」」
三人娘の口から歓声が上がるくらいには一目でイイモノとわかるオーディオシステムが揃っていた。そして、その隣には黒光りするグランドピアノが威容を構えている。穂乃果は部屋に入るなり、ピアノへと駆け寄ってしげしげと眺める。
「うわぁ、これ見るのもすごい久しぶり!」
「ちょ、ちょっと穂乃果、あまり勝手に」
「海未ちゃんもことりちゃんも覚えてるでしょ? 昔、これ弾かせてもらったよね!?」
「それは覚えてますけど……」
「うん、懐かしいなぁ。穂乃果ちゃんキラキラ星ばっかり弾いてたよね」
はしゃぐ穂乃果たちをよそに、行人はアンプをオンにし、USBを指定の位置に差し込む。
「――、流すぞ」
リモコンの再生ボタンを押し、空白の数秒がたったのち、それは始まった。
ピアノによって奏でられるイントロ。それはまるで暗い海の底から泡が浮き上がってくるかのように奏でられる。
一瞬の間隙から生まれた闇を切り裂くように真姫の伸びやかな歌声が響いてくる。歌詞が定まっていないため、ラララという言葉でメロディは軌跡を描いた。ピアノと人の声。たった二つの音が世界を塗りつぶしていく。
気づけば、すでに最後の一音が室内に融けていた。
沈黙が舞い降りる。
その場にいた、すでに何度も聴き込んでいる穂乃果ですらも鳥肌が立つ。隣の二人は言うまでもなくただ驚きに染まっている。
歌詞はない。ないが、その曲は曲として完璧に成り立っていたのだ。
キャッチーなメロディ、演奏もミスタッチはなかった。そして聴くものを圧倒する歌唱力。発声、ブレス、リズム、どれを取っても素人離れした西木野真姫の実力をうかがわせる。やがて、最初に動いたのは――、
拍手をする行人だった。
「すげぇ……はは、これは、ほんとすごいわ……ははは、本物だ」
その拍手の音が次第に三人の硬直を解いていく。
「ね、ね! ユキちゃん、真姫ちゃんの曲スゴいでしょ!!」
「……あぁ、いい曲だった。しかも……、アレンジ前でこれだろ、すごいよ」
そうだった。まだ“仮の段階だけど”と、USBに付いていたメモに書かれていたことを穂乃果は思い出す。
「うん、真姫ちゃんは『とりあえず渡したけど、聴いて判断して。ダメなら直すし、これでいいならこのまま編曲しちゃうから』って言ってたよ。こんなスゴい曲なら文句なんてあるわけないのにね!」
こちらが頼んだこととは言え、期待値を遙かに上回る形を示してくれたのだ。賞賛、感謝こそすれ、修正の依頼などは恐れ多く、第一その必要があるとも思えなかった。ただ行人は、ぽつんと、
「……その言い方、さすがだ」
そうこぼして、穂乃果にもうさっそく編曲を始めてもらうよう伝える事を勧めた。素直に従った穂乃果は、じゃあ電話してくると部屋を飛び出した。
残された行人、海未、ことりは、さてこちらはどうしたものかと互いを見合わせて、
「さて、まぁこっちも仕事するか」
「そうですね……」
あまり浮かない顔の海未である。実際プロみたいなあの曲に、こちらは完全に素人だと言うのにこれから詞を載せていかなければならないのだ。及び腰になるのも致し方ない。
「でも、やるしかない。だろ?」
瞑目し、深く息を吐いた後で、海未は頷く。作業をするならこの部屋は向かない、曲は穂乃果のノートパソコンにも入っているようなので、それを聴きながら元の部屋でしようという事になった。
行人はここの片付けしてから行くからお前たちは先にリビングに戻ってろと告げて、二人が去る足音を聞きつつアンプと対峙する。緩慢な動作でUSBを取り外し、そのまま手の平にのせたそれを強く、強く握り、
「――ゆーくん」
「おわっ!? な、なんだことりか。……やめてくれよ、気を抜いた時に声をかける事案が発生って、ネットの有名人になるぞ」
心臓の辺りを押さえながら行人は立ち上がる。最後にアンプの電源を落とすと、もうこの部屋でやることは終わりとばかりにドアの方をあごでしゃくりながら、暗に出ようとことりに伝える。しかし、
「だい、じょうぶ?」
すれ違う瞬間に投じられた言葉は行人の足を止めた。
「…………」
自分の足下に目を落としつつことりは続ける。
「その、つらそう、だったから……」
「何がだ」
はねのけるような。
問い返しは反射的で。
なのに、顔は笑みをたたえていて、
日高行人はそこにいる。
「ことりこそ疲れてるんじゃないか? 最近衣装で忙しいだろ、あんま根を詰めすぎるなよ」
「…………あ、……うん、ごめんね………」
「はは、謝るなよ。じゃ電気消すからことりも出てくれ」
制服のスカートの端を一瞬だけ握りしめ、ことりは足早に退室する。そのすぐ後ろについた行人は、部屋の明かりを落として、
「なんか小腹すいた~。……おっ、そういや、この前親父が買ってきたチーズケーキあったな。たぶん親父まだ食ってないけど残り全部俺たちで分けるか。ことりも食べるだろ?」
変わらない調子の行人に、ことりはためらいつつも口端を上げて笑顔を作る。
「いいの? わぁ、嬉しいな♪」
「よっし、じゃあ持ってくる」
ワイシャツを腕まくりしながら行人はキッチンへと向かっていく。
その姿をことりはじっと見つめながら、やがて振り返ったその先、出てきたばかりの部屋に広がるのは、
暗い、闇だ。