菜月スバルに直死の魔眼とか色々組み込んでみた。 作:繭原杏(繭原安理)
眼前でケタケタ嗤うこの泥男は、恐ろしさこそないけれど悍ましさはあった。
それに相対できている自分が、まるで自分では無いかと思えるほどに。
実際、私は誰かに体を乗っ取られているのかもしれない。心当たりはないが、私も所詮は唯のヒトなのだから。如何に世界の寵愛を受けていようと、その世界から支配を受ければ抗いようがない。
だが、今のこの感覚はそういう感覚とは違う。例えるのならば、もう一人の自分の意思で剣を握るような、そんな感じだ。自分でやっているという意識はあるし、感触もある。乗っ取られているわけではない。
体が自然に受け身を取るように、自然に剣を構える。それだけの理由。それが当然の事とでもいう様に、自分の体が思い通りにならない。
強張った体を解すように、息を吐き出した。それとともに背筋を正し、空気が変わった。
だが、それを見ても泥男は笑みを崩さなかった。そのまま軽い牽制のような勢いで鞘に収まったままの剣を振るったが、男は回避も防御もしようとしない。
ぱしゃり、水を打つような音と共にその姿は弾け、剣が通り過ぎていく。あまりにも軽い手ごたえに気味の悪さを感じ、顔を顰める。そして、付着した泥によって自分の持つこの剣が穢れていくように思えて血払いをした。
「ひひっ、かっこいいなぁ。なぁ? 騎士様ぁ?」
「ふっ」
首筋に生温い息が吹きかかったと思えば、嬲るように耳元で男が囁いた。それを予想していた――こんなに簡単に終わるはずがないと考えていた私は、戸惑うことなく背後に剣を振った。
その一閃は先程のような僅かな感触すらなく、それは至近距離からの一閃が完全に読まれていたということを指す。
再び正面にその姿を収め、油断せず睨み付けながら首筋を撫でさすった。肉食獣に甘噛みされる怖気を感じた首筋は、未だに鳥肌が立っている。舌で嘗められた様な湿り気は、滲み出た冷や汗か。
自身の体温の温もりでそれが解れていくが、骨の髄に届いた震えは体の内で反響し、簡単には抜けなかった。体を動かすことに影響は無くとも、体中に無用な緊張が入っているのを実感する。力を抜かなければ、とは思っていたが呼吸は心拍を落ち着かせることに集中して、強張る筋肉は解れない。
掌の温もりが首筋と同化するほど揉み、それから片手で構えていた剣に手を戻す。
「おう、もういいのか?」
「……っ」
その声に反応して、剣を振り被ってしまう。
駄目だ。気持ち悪い。感情を制御できない。つい力が入って、頭に血が上って、思考が単純に――理性が失われていく。
魔性の声とはよく言ったものだ。このような声を指すのではないことは重々承知していたが、その声は、体を蕩かす様な怖気を伴わせる声は「魔性の声」と呼ぶしかないほどに常軌を逸していた。
或いは、それは魔性にとっての蠱惑の声なのだろう。恐怖は容易く理性を削り、本能を剥き出しにする。もしかしたら初めて味わったと言っても過言でもない死の恐怖を、私はこの場で感じていた。恐怖のままに逃げださなかったのは、偏に私の体の制御が半ば失われていて、そして感情を無視して体を動かすことになれていたからだった。
私は人形だ。人形だ。人形だ。
糸に繋がれた操り人形を意識して、恐怖が支配する体を強引に動かす。恐怖は未だ抜けきらないが、軽く体を震わせたお陰で強張りは抜けた。
――この間もまた、泥男は襲ってこなかった。
「……お前は、
明らか様に殺気を垂れ流しているくせに、その行動には一切の殺意がない。
「殺される」という確信があるのに、いつまでたっても殺されない。
まるでちぐはぐな印象と行動に、酔いすら感じそうだった。
だからそう問いかけ、それに対して泥男はまるで「正解だ」とでもいう様に目を細めた。
「だから知らねぇよ、そんなこと。俺が何なのかって? そんなのはお前が決めることだ
――俺には、名前も姿も形もない。そうでなければならないんだからな」
まるで答えになっていない。
まるで答えになっていないのに、それが真理だと納得してしまう。
そう、この男は何者でもなく、正体不明ですらない。“誰か”なのだ。
私は“誰か”を彼に重ね、彼はそのように振舞っている。
「ああ、ただまぁ」
だが。
「
この男は悪であると。
例え天地がひっくり返ろうと聖人の皮を被ろうと、どうであれ必ず悪である。
都合が良すぎるほどの悪は、正義をお膳立てするような――お伽噺の中の悪役のように単純明快だ。背景もなく理屈もなく、ただ只管に「悪い」というだけの存在。
それに気付いた時、私は憐れみを感じた。
いつでも殺せるはずなのに、此方から殺せそうな隙を幾つも見せている。
それはつまり、私もまた、泥の男を殺す機会を悉く見過ごしているということだ。
私はきっと、この男を憐れんでいる。殺したくないと思っている。彼が必要なら、この首を差し出すほどに。
それに、気づいてしまった。
「――そうか」
私は、出会い頭の一合以外、まともな剣戟すら交わさずに負けを認めた。
だから、殺し合いのこの場に置いて負けは決まっていた――始まる前から、そう決まっていた。
体から力が抜け、構えが下がる。目を閉じ、体を恐怖のままに任せる。
体の制御を、手放す。
「
そして、再び体の制御を乗っ取られた。
「やぁっと出てきたかよ、王様。いやぁ、怖いねぇ、震えるぜ。こんな弱小相手に聖剣持ち出されたと成っちゃあ、こっちは震えて死を待つしかねぇじゃないか」
「――は。面白いことを抜かす。今の僕は人間で、ならば君に勝てる道理など無いだろう? この場での有利は、依然君の手にある。それに――」
「付け加えると、これか」
そう言って泥男が差したのは、自身の左胸。
そこには自身の輪郭を誤魔化す黒霧の中から浮かび上がるように、腐った赤で描かれた三画の、心臓を掴む手の霊印が浮き上がっていた。
「こんな肉体だろうと、サーヴァントは
「ま、その可能性があるのは間違ってねぇけどさァ……」
どこか面倒くさそうに手元の手――いや、干乾びたミイラの手のような短剣をくるくる回している。先程との態度とは一変して、けど相変わらずさっきは充満し続けている。
それを理解しているから、構えは未だ解かれず、虎視眈々と隙を伺っている。
この泥の男に、果たして如何なる隙があれば致死に至るのか。
それは自身の直感のみが答えを示した。
即ち、核だ。この男が現界しているのはここが心象風景の――現実より無茶の効く世界であるからだ。本来存在しえぬ姿は、
そして、この男が意識を表に出せているのは大本である要石がいるからだ。
要はその要石を破壊できればよく、その在処も突き止めている。
だが――
「よそ見すんなよ。寂しいじゃねぇか」
「ふざけたことを」
振るわれた歪な短剣を僅かな足運びで交わし、その体を貫いて襲い掛かった二撃目を剣で跳ね上げて逸らす。脇を通り抜ける際に掠った鎧には泥が付着していた。
その泥を魔力放出で吹き飛ばし、ついでにロケットさながら城の合った方向へかっ飛ぶ。すると、それを遮るように男が進行方向に現れ、足元の泥を蹴り上げてバックステップを強制させた。
「くっ、ああ、本当に厄介な泥だ」
「そうか? そうだろうな。だが丁度いいじゃねぇか」
呼吸によって体の底から無量の魔力を引き出す。それを暴風のように正面に叩き付け、強引に進もうとする。地に叩き付けた水風船のように呆気なく男の姿は弾けたが、その直後にお道化た仕草で元の位置に湧き出した。
吹き飛ばされたことでできた穴も、潮が満ちるように周囲の泥が穴を埋め、先の行動の結果は覆い隠された。
「――」
鞘の付いた剣の腹を額に向け、何かを呟く。
すると正面の視界を遮るものが消え、再び目が泥男を捕らえた。まるで剣が消えたかのような現象だが、轟々と唸る風の音と揺れる正面の景色を見てそうではないと気付く。
この場の淀んだ空気を吹き飛ばすようなその風は、清浄感を伴って前髪を揺らす。
「……ほぉ」
その様変わりには泥男も警戒を露わに、漸くまともな構えを見せる。
「星の聖剣、か。まさか本気でお目にかかれるとは思わなかったぜ」
「君は僕の探していた相手ではないが――それでも、獣になる可能性があるならば、この剣を振るうことに異論はない」
「は、まさかの弱い者いじめかよ、王様よぉ」
「僕は君を侮らない。君のその泥は――サーヴァントに対して致命的すぎる」
「……ッ」
開戦の号砲は、泥を抉るように蹴飛ばした泥男が上げた。
眼前に迫る、先ほど「致命的だ」と評価した泥の壁を不可視の剣を振るう事で切り開く。その際に纏わせた風を開放し、万が一にでも欠片が付着しないように気を払った。
一歩前に進み、泥の上に足を踏み込む。すると、不思議な事に、
正面に泥男がいない。瞬間、反転。背後から襲い掛かってきた泥男の探検による連撃を、流れるような剣捌きでしのぎ切る。小刻みに剣を振るう度、金属の打ち合う甲高い音が響く。あの短剣は金属なのか、と驚きつつも戦局は更に変化していく。
不可視の剣で泥男の連撃を受け切り、最後の大振りで片方の短剣を弾き飛ばすとともに泥男の体勢を崩す。仰け反った其処に追撃を加えることもなく横にずれて剣を構え直したのは、足元の泥を蹴上げて飛ばしてきたからだ。
気づけば周囲に泥の無い足場は無く、先ほどまでいた足場はだいぶ離れたところにあった。どうやら誘導されたらしい、と気付いたのは体を動かしている誰かが僅かに苦々しく顔を顰めたからだ。
だが、それも僅かな間で直ぐに踏み込んで剣を振った。
攻勢に回ったことで理解できたのは、泥男の小手先の器用さだ。力が強いわけではないのに関わらず長剣による攻撃を捌ききれ、時には後退させることもできるのは、その尋常でない素早さと意識の死角を縫うようなちょっかいと、そしてソードブレイカーの性質を持つ歪な短剣のせいだ。
退治するどころかお目にかかること自体が稀なソードブレイカーという短剣は、そもそもが扱いの難しい武器だ。普通の短剣より刀身が細い分脆いし、特殊な使い方を想定している。
武器破壊の性質を持っているとは言っても、実際にそれを活用できるかは別物だ。いつぞや相手したククリの方がまだ扱いやすいと言っていいだろう。
だが、泥男はそれを十全に扱っていた。連撃の隙間に武器破壊を目論むのは勿論、一本で剣を絡めとり、もう片方で攻撃を加えてくるなどだ。これまで凌ぎ切れたのはその攻め手が拙かったからである。
妙な話だが、泥男の剣筋には不純物が無いのだ。フェイントも、速度の緩急をつける器用さもある。だが、それ以上が無い。打ち合えば何を狙っているのかすぐに理解できるような素直さがそこにはあった。
だが、此方が攻め手に回ったとき、彼が振るう腕は一変した。
これまでの拙い攻め手からは連想できないほどに巧みな防御。踏み込めば逃げられ、逃げ切れなければ懐に入られて長剣の振りを殺される。
この押し潰れるようなさっきとは裏腹に、その戦い方は堅実その物で、私は王族に指南していた父の言葉を思い出した。
――王には剣はいらない。近衛が王の剣となるからだ。
――だが、国が攻め滅ぼされたとき、王は再興の為にその命を守らねばならない。
――故に教えるべきなのは、どんな敵からも逃げ切れる力なのだ。
ああ、そうだ。泥男には王という言葉は似合わない。むしろ貧民街の住人の方が相応しい品の無さがある。
だが。だが、だ。
今回王選に自身が主として選んだ少女の経歴を思い返せ。彼女もまた、貧民街の空気を身に纏うものではなかったか?
「ひゃはは、もってきな!」
両の短剣で剣を抑え込まれた直後、足元の泥を蹴り上げられために大きく後ろに跳び退った。
だが、泥男の反撃はそれで終わらない。
「――なっ、これは」
そう表現するのが相応しいだろう。
着地するとほぼ同時に足元が窪み、傾いた足場によろめくとともに視界は周囲の泥が隆起するのを視認した。
隆起した泥は意思を持ったように起き上がり、壁のように四方を囲んだ。井戸底から見上げるように天を仰げば、その泥が倒れ込んでくるのが見えた。
今までこんな手札は見なかった。
「手を、隠していたのか――!」
泥が空を覆い、光が失われた。