菜月スバルに直死の魔眼とか色々組み込んでみた。 作:繭原杏(繭原安理)
呆けていた時間は短かったのだろう。再びパテンカイトスが食指を伸ばしてきたとき、それから逃げることができたのだから。少なくとも、体の動かし方を忘れるほどに記憶は奪われていない。
確認してみれば、ちゃんと、『衛宮』も『菜月』も記憶の内に居た。そのことに安堵を抱きつつ、思い出せない『■■』の欠落に背筋を震えさせる。あの穴の中に入る言葉は何だったか。その力で戦っていたはずなのだが、俺にそんな力なんてあるのか。
「ひ、ひっ」
乱れる呼吸のままに俺は魔術回路を励起させ、全力の強化魔術を全身に施した。走るのに必要な器官だけ強化するなんて、そんな器用なことができるわけがない。
必然、無駄だらけの俺の魔術ではパテンカイトスの追跡を振り切ることができそうになかった。床を滑るような、足を触手のように動かす気味の悪い歩法で、後ろを向く度に近づいてくる。それに恐怖を抱いた俺は、ますます呼吸を見出しながら強く地を踏み叩いた。それは半ば地団駄でもあったと、じんじんと痛む足で駆けながら判断した。
音が無い。気配がない。まるで蛇のように、首筋に生暖かい息がかかっているような錯覚さえ覚えながら逃げ続ける。
「っ~~!」
道なんてわからない。もしかしたら、何処かしら一周した場所まであるのかもしれない。幸いなことに行き止まりにぶつからなかっただけで、俺は未だ逃げ続けられている。魔力の限界はまだ遠い。体力の方は――分からない。体の感覚が、朦朧としてるのだ。
「……ぁ。ひ、ぃ……!」
掠れるような悲鳴が漏れた。押しつぶすようにそれを堪えても、声は漏れた。むな焼けするような不快感を残して、俺の無駄な抵抗は力尽きる。
悲鳴を堪えたかったのは、それによってパテンカイトスを調子づかせたくなかったからだ。そんな筈がないと分かっているはずなのに、今の俺はあいつが俺の恐怖すら食らって強くなるものだと思い込んでいた。
そんな様子で走れば、体力が限界に至る前に足がもつれて転ぶ。顔面を強かにうちつけながら、俺は『今日はよく転ぶ日だ』なんてことを頭のどこかで考えていた。
すぐさま立ち上がろうとして、右手を床に突く。そのまま体を持ち上げようとするが、どうにも体が持ち上がらない。足で床を蹴って力を加えても、やはり体が持ち上がらなかった。
じたばたと藻掻いて暫く、背中を踏まれていると気付くのに俺は気付いた。ひっ、と悲鳴を上げつつ、俺はそれがパテンカイトスであると思った。とうとう、追いつかれたのだと。
「あぁ、あは、はははははぁ……」
――捕まえたぁ……♪
心底楽し気、嬉し気なその声は、不思議と薄暗い地下に良く似合っていた。不吉で、恐ろしい声だと感じたからだ。
「さぁーて、次はどっちを食べようかなぁ……? ねぇ、スバルくん、スバルくん、スバルくぅん?」
スバル……そう、俺はスバル。スバルだ。
だけど、その前の名前は、思い出せない。パテンカイトスが復唱したはずのその名前ですら、思い返せない。シチヤシロウ――どういう字を書くんだ? それは本当に俺なのか?
いや、俺だったはずだ。俺に違いない。だけど忘れて――食われてしまっている。だから思い出せない。奪われた。
怖い。
俺はスバルだ。菜月昴。菜月スバル。ナツキ・スバルだ。
衛宮でもある、菜月でもある。だが、シチヤシロウでは……ないのか?
「……ぁ」
背筋を撫でられた感触と共に、悪寒が込み上げる。弛緩した四肢を放り出しそうになり、それが食われる直前で俺は暴れ出す。
しっちゃかめっちゃかに振り回した手のお陰か、俺の体の中心軸からパテンカイトスの足はズレ、脇腹を踏みつけられながら俺は仰向けになることに成功する。
唯一覚えている戦闘手段のお陰で、選択肢に迷うことは無かった。俺は何処からともなく歪な二本の短剣を取り出し、デタラメに振り回す。それらが線をなぞる事は無かったが、幸いなことにパテンカイトスが口に運ぶ途中の腕を切り飛ばすことに成功する。
切った感触なども覚えてないが、その瞬間に何かにぶつかったという自覚が生じたのは覚えてる。それは、パテンカイトスの骨に短剣が引っ掛かったからなのだろう。この短剣にこれほどまでの切れ味があるとは思ってもいなかったが、そんなことに感謝する余裕は折れにはなかった。
「ぅわぁぁぁあああっ!!」
再び逃げ出す。手には短剣と先程切り飛ばした片腕を。これが俺に触れた方の手なのか、そもそも権能の発動条件は本当に『触れた手で嘗める』ことなのか。そんなことも考えずに、俺は逃げた。無我夢中、というやつだ。
頭を空っぽにして、肺も空っぽにして、ただ分かれ道を見つけては適当に道を選び、地下道を駆ける。
再び理性が沸き上がったときには、俺は邪魔だと判断したのか、パテンカイトスの腕と短剣を放り捨てて逃げていた。そのまま足を止めずに、分かれ道を左に曲がる。
考えているのは、逃げ道の事だ。このまま地下を逃げ回っていても、対抗手段の無い俺では遠くない未来に喰いつくされる。
となれば、地上に逃げるのか……いや、あんな『痛い空気』の環境でいつまでも留まることができるわけがない。地下に戻ることができないならば、地上に逃げるのもまた危険な……だが、これしか手段はないのか?
少なくとも、俺にはそれ以外の道は見当たらなかった。『強化』すれば、恐らく暫くは持つ。自身が出した結論を思い返し、それを信じることにする。地上に逃げたところで、じゃあその後はどうするのかなんて……まるで考えてはいなかったが。
今はとにかく、パテンカイトスから逃げきりたかった。
さぁ、じゃあまずは未知を探そう。地下の構造も、走ってきた道も覚えてないが、走っていればどこかしら見覚えのある所には行き付くはずだ。そこから階段を探そう。
目標のできた俺の足には、変な話だが、『走る力』が湧いてきたように思えた。今現在走り続けているところだというのに、だ。
――走れ、走れ、走れ。
先程まで脳裏を占めていた恐怖は嘘みたいに消えて、鼓動が高鳴り、踏みしめる足も力強く感じる。
右、右、左。分かれ道を選択し、曲がり角を曲がり、一応ということで脳内地図を作成する。通ったことのあるような道にはつかないよう、三回同じ方向に曲がらないと気を付けて。
ところが、元が脱出路であるからか、今度は中々階段につかないという問題に遭遇する。追跡者を迷わす、という目的もあるための地下道だろう。行けども行けども、階段どころか大穴の開いた天井すら見当たらない。
だが大丈夫だ。体力ならまだある。息切れもしていない……ああ、息も切れてない。
どころか……あれ?
俺……さっきから、
「――は、はっ、はっ、はっ、はっ!」
すぅ、と息を吸い込み、吐き出し、増す息を吸い、吐く。
呼吸はできる。している。未だに呼吸が乱れて喉が焼ける様に熱くなる感覚がないし、肺が疲れて脇腹が居たくなる気配もない。体力に限界は来ていなかった。
これも強化魔術の恩恵だろうか。一向に体力の底が来ないというのは、少し不気味でもある。俺自身がこんなに体力のあるやつじゃないのは、良く分かっているからだ。
確か、この世界に来てからだったか? 魔術や、魔眼が……強化されてってるのは。
以前できなかったことも、今はできるようになっている。この底なしに見える体力も、そうやって強化された魔術の恩恵なのかもしれない。きっとそうだ。
俺は深く考えず、考えようとせず、そう思い込む。
だって、先程まで息をしていたという自覚がまるでないのだから。むしろ『ただ走っていた』ということしか覚えてない、呼吸をしていた記憶がない。
だからと言って、呼吸を止めてみるつもりもなかった。少なくとも、意識できる限りでは呼吸をし続けるようにした。
もし自分が呼吸せずとも好いのであれば、それではまるで化け物じゃないか。俺は人間だ。化け物じゃない。親もいる。覚えてる限りでは三人。覚えていないが、生みの親も二人いたはずだ。
木の股から生まれた訳でも、怪異が受肉したわけでもない。正真正銘の人間だ――と。
そう断言できなくなるから。
――逃げろ、逃げろ、逃げろ。
俺は唯ひた走り、階段を探した。
ちりちりと焦げ付く様な不安を感じながら、それを振り払うように必死に、階段を探した。
前のめりになって、ただ早く駆けようとして、角を曲がろうとして――誰かにぶつかる。
「ひ、ひひ。ぁあ、いったいなぁ……!」
ゆぅらり、幽鬼のように立ち上がったそれは、パテンカイトスに酷似していた。
「――なっ、なんで!?」
驚愕のあまり、思わず立ち止まる。後ろから誰かが追いつく気配が無いから、俺はそいつを先回りしたパテンカイトスだと判断した。だが、それだと少し可笑しいことがある。
そいつは両腕あるのだ。パテンカイトスには、何か体の欠損を再生する力でもあるのか。きっとあるのだろう。あっても不思議ではない。
「くそっ、あ゛あっ!」
「おーいおい、逃げるなよぉ。あは、ははは! さっきみたいに、武器を取って戦えばいいだろう?」
戦う? とんでもない。逃げるしかないだろう。
だから踵を返したのは当然で、むしろさっきの方が可笑しいのだ。
返事の一つも返さずに、走り出そうとした。それが癪に障ったのか、そいつは俺の足を引いた。
引いた――というより、『食った』。
「――ぁ? ぎ、ぁぁああああああ!!!」
見下ろせば片足が膝のあたりから捩じれ、千切られていた。その恐ろしさに悲鳴を上げ、あれは足をばたつかせる。
「くっ、来るな……来るなぁ!」
「旨いなぁ。美味しいなぁ。ああ、ルイの奴、こんなに良いのを独り占めにするなんてひどいじゃないか」
完全に俺を餌としてとしか見ていない目で、無遠慮に近づく。そこには「恐怖を味合わせよう」なんて意図はなく、ただ只管に「腹を満たしたい」という飢えだけがあった。
いうならば、『悪食』。腹を満たせるのならばなんだって構わないとする、『暴食』の一形態。
「ああ、そっか、そうだよなぁ、そうなんだ、そうだからこそ、そうであって、そうでなくちゃあ――うん。面倒臭いけど、マナーはきちっとしなくちゃぁ……」
だが、直前で何かに近づいたように足を止めると、まるでいただきますの代わりのように、食膳の祈りの代わりのように、彼は名乗り始めた。
「魔女教大罪司教。『暴食』担当ロイ・アルファルド……さて、これでいいか。じゃ、イタダキマス」
右手に持った俺の足を頬張りながら、パテンカイトスと同じような、けれど決定的に違う名乗りを上げる。
そしてそれを聞いて、俺は嫌な可能性を思いつく。まさか、まさかだが――
――この地下には、二体の『暴食』が徘徊しているのではないか?
最悪だ。パテンカイトスから逃げきるだけで精いっぱいだったのに、此処で二人目。逃げ切れるはずがないと思うのは極自然なことで、でも行きたいと願うなら、喰われたくないと願うならば逃げなければいけなかった。
先が見えた負け試合とは、こんなに苦しいのかと、俺は痛感している。
「くそっ……くそくそくそくそ、くっそぉぉおおおお! ぁぁああああ゛あ゛!!」
雄叫びというには醜いだみ声で、俺は自分を鼓舞する。肩を壁に擦り付け、残った片足で地面に立ち、そのまま肩を摺り下ろすように駆けだした。
背後では肉を貪る音が響く。ねちゃねちゃと、肉を食む音が途絶えず響いていた。
ずっと背中の方でそれが聞こえていた。ずっと、ずっと。
気が狂いそうだ。
狂える自我があるだけマシ。