あだ名:シャドー
概要:主人公(シャドー)はキョンの幼馴染み兼同級生の男子高校生。ハルヒとのスポーツ勝負で勝敗は着かなかったが、ハルヒに気に入られ、彼女の勧誘を受けてSOS団に入団する。
一人称:俺
容姿:髪は黒の短髪。顔はキョンと同じ普通な感じ。
身長:キョンより十cmほど低い。
性格:自由気ままなマイペース
家族構成:父、母(普通の一家でよく一緒に出掛けたり、時には喧嘩もするが、後で互いに仲直りしたりと普通の生活を送る関係)
能力:キョンと同様に普通の人間で学業の成績は普通(悪い訳ではない)だけど、運動神経と身体能力はSOS団団長・涼宮ハルヒと互角とかなり優れている。
主人公のお名前はリクエストされた方のを借りております。
※こちらは鶴屋さんルート三日目から始まります。初日と二日目はここです。
三日目 。(゜m゜.)
早起きした。
三日目に入った今日は早起きになった。いつも通りの日常なら、もう少し後に外を走っている時間帯。だけど、いつもではないこんな状況で朝ランするほど俺はクレイジーではない。昨夜ら辺からとにかくずっと走って色々煩悩を発散したいと思っているけども、流石にだ。
そんな感じなので昨夜寝入るのも一苦労で、今二度寝も無理な話になる。だからといってティッシュ消費行動をする気にはならない。とあるお二人には必ずバレるだろうからというのと、そもそもそういうもので発散しても治まるわけがないからだ。
色々と難儀な状況になったようだ。
なんかそわそわする。なんか気になってしょうがない。なんか呼吸の仕方を忘れる。
だいぶ居心地が前と同じように悪い。
いや、別に本当に居心地が悪いとかじゃない。気まずいなとは思わないし、嫌だななんてありえないんだもの。小学生の時に先生がやたら不機嫌だったときのようなものはない。遠足のバスで別席にいる人気の男子を求める、俺の隣の無口女子なんての所為でなんてのもない。
ちょっとまずい。ちょっと困る。ちょっとピンチ。ちょっと大変。
今の俺を表すならこれらの言葉で片付くものだ。しかし、このちょっとの連中が全部同時に襲撃してくる。多勢に無勢。戦いは数。四面楚歌。四方囲まれたら負けるのさ。四つ揃われたら負けるものだ、エ○ゾディアよりちょっとお得。
寝起き以外でも喉が渇いた。電気をつけたかったが、そのリモコンはこのベッドからすでに抜け出しているようだ。しょうがないので、充電器に差しっぱなしの携帯さんのライトで探す。こういうとき猫とか猛禽類とか暗闇でも目が利くのいいよなぁ、と思う。足元の安全を確実に取れるだろうし、普通に見えるだけで心の安全も取れる。見やすいのはいいことだ。
ライトを頼りにしていると、使用頻度が買った値段にまるで比例しない勉強机に飲み物があった。飲みかけの方ではなく、ストックしてあるやつだ。面白系ではなく、お茶系統のだ。目当てを見つけたので勉強机の方まで歩く。
「だっっじゃぃいっ!?」
俺の小指に勉強机がぶつかって来やがった。
本当はそんなオカルトなことは起きていないが、足元が疎かだった所為。愚か者な俺だった。衝撃で小学生の頃からジャストフィットな机からペットボトルが何個か落ちたようだ。しばらく悶えていたので零れていないかの確認もできない。
体感三十分かけて再起動した俺は携帯のライトを駆使しようと思い立った。が、役立たずになってしまっている。もしかして、妹ちゃんの攻撃が今になって? その思いを捨てたくて必死に電源ボタンを長押し。ちゃんとしていれば何かしら画面に出る。が、うんともすんとも言わなければ……。
「怒られたくない怒られたくない怒られたくない」
携帯はお高い。機体だけを購入したとしても他サービスを使うなら更にお高くなる。自前で修理などできない。それで更に壊したらもう許されないだろう。
必死の祈り。神様お助け。跪いて頭を垂れて天に乞いた。そして、祈りは届く。画面が光ったんだ。
表示で知った。電池がない。
「…充電器さん?」
犯人を睨む。コンセントを見る。犯人は俺だった。
「っぶねー…」
コンセントにちゃんと刺して充電器を繋げばちゃんと機能している。俺が悪かったんだ。犯人だったらしい俺は罪悪感を放ってお茶ペットボトルを拾う。
「あ~、こいつぅ?」
黒茶。プーアル茶だ。
一説によれば、配達中お茶を腐らせちゃってそのまま捨てるのがもったいないから売ったのが受けたから、広まったらしい中国茶だ。食品衛生法が無い世界怖い。豪勢な食っちゃ寝の絵画があるローマも絵画では華やかだけど実際の中世ヨーロッパとかも、衛生よりも名誉名誉だったりしていた。香水とハイヒールの発展の元を調べているだけで、勝手に鼻が曲がりそうになるもんね。ほんに、現代に生まれてよかった。
と現実逃避しているが、この二十一世紀にまで伝来しているプーアル茶。こいつ苦手だ。嫌いと言いきれないが好きだと嘘でも言えないくらいに、苦手だ。この世に生まれて十七年とちょっと、商品開発者は購買者にどこまでの恨みがあるのかみたいなモノを口にしてきたことはたくさんあった。そういう商品は大好きである。面白いから、大好きである。面白いネタ商品だからだ。
プーアル茶は、普通のお茶だ。どっかの家庭では水の代わりにプーアル茶を飲むところもあるくらい、家庭に受け入れられている、普通のもの。日常的に飲む人もいれば生涯一度も口にしないこともある。飲むだことはないけど名前を一度は聞いたことがある、知っている、知り合いがどうのこうの、と世間的にはメジャーと言える。だから、普通に飲まなくていいなら俺は飲みたくない。
面白商品はマイナーなものがほとんど。テレビで先に特集されたら、俺は手を出さなくなる。あえて手を出しているというのも俺が面白商品が好きな理由の一つだ。味事態もとても興味深いポイントの一つ。神の匙を悪用した罰みたいな謳い文句があれば、脇目も振らず飛びつく。面白商品は味の発想が異次元で面白いんだ。うちのお母さんがお酒に酔いながら作ったものより、たいそう面白酷いものがたくさんだ。
面白商品は未知なものだ。ク○ルフ神話的な深淵度はない。あれは底も天井もありゃしねぇ。
面白商品は、上から見ていたらそうでもないはずなのに実際は結構深かった海際みたいなものだ。だからこそ、ちょっと怖いけど怖すぎるわけではないから勇み足で飛びつく。
プーアル茶は違う。苦手。だから、こいつを飲みたくない。といっても、他のを探すのも正直面倒くさい。苦手で好きじゃないけど、飲めないわけじゃない。飲みたくないけど。この不可思議北高ならこの世にある違法でない食品は全部出てくるから、そっち言って買ってきた方がいいのかな。
プーアル茶を仕方ないけど飲む
→仕方なくないから自販機へゴ―
「コゼニー」
好き嫌いは特にないけど、苦手なものは俺にもある。このプーアル茶がそれに入るんだ。ハマる人はハマるし、日常的に愛飲している人もいる。まずいっ!! もう一杯っ!! のCMで有名な青汁のように、我慢して飲む方ではなく水代わりに飲んでいる人がいるんだ。二枚舌お国の人の血が紅茶で出来ているというように、プーアル茶で出来ていると揶揄されるレベルもいる。俺はそうじゃない。プーアル茶は紅茶と同じように発酵させて出来ている。微生物での発酵だ。幼馴染が言っていたあの説はお願いだからホラ話であってほしい。日本人でも無理という人がいる納豆のように、偶然から生まれた嗜好品らしいが。
人類ってとりあえず口に入れようって発想が多すぎる。食に対してクレイジーというかフリークと言われる日本では、食ったら絶対死ぬのじゃっていうフグを絶対安全に食べたいという一心が平安を過ぎて江戸を過ぎてもあった。それだけで何千人も死者を出しながら何百年経って、現代ではフグの卵も食べられるようにしてきた。
そんな食狂いの日本以外の他国も大分フリークがすぎる。キビヤック、カース・マルツゥ、ホンタクetc……。どうしてそうやって食おうと思ったのかまるで理解できない。クレイジーで収まらないよ。フリークだよ、フリーク。シルク・ド・フリークの彼らの方がよっぽどマシな思考をしていると思う。……どっちもどっちか。まったく、こんなフリークな加工してでも食べたいなんて頭がとってもぽわぽわする何かを使っているのか。ガキ水の方がまだかしこい。
とにかく、他の選択肢があるならプーアル茶は選ばない。この不可思議ミステリアス北高の自販機へ繰り出すんだ。多分必要ないかもしれないけど、五百円分ぐらいのコゼニーをポケットにチャラつかせて部屋から出た。
《shake:1》(´ゝ`)_|†|(´ゝ`)_|†
お早い世界の北高だ。
こんな時間に北高にいたことはこれまでなかったのでとても新鮮。それでも消えない慣れ親しんだ日常感の肌触りがあった。その肌触りに違和感も不快感もない。だって、今まであった当たり前の一つだから。朝起きて飲むときに使う専用のコップを意識しないでも使うように当たり前だった。
うっかり両親のを使うとかはごく稀にあるけれど、わざわざ戸棚の奥深くに発掘されるのを待っていなかった小さい頃に使っていたコップを無意識に引っ張り出すことはない。それは別の探し物をしていてそういやこれ使ってたなと見つけて、またしまいなおすだけだ。ちゃんと箱にしまっていたとしても、じゃあ使おうにはならない。俺から見ればはよ捨てろ、と思うけども、親から見ればとてもじゃないが捨てられないものなんだろう。俺からすればなんてことないものでも、親からすればとんでもないものなんだろう。逆もある。
俺の感じる妙なノスタルジーに別の誰かは新鮮と感じて、その逆を俺と誰かが感じる。このファジーな世界でのファジーな出来事も、夢現のような現実のようなあれそれになるかもしれない。なんだっけな、蝶が私になったのか、私が蝶になったのか、のあれみたいなのだ。そして何故か俺は肩幅に思いを馳せてしまう。海外の有名ボディビルダーと同じくらいにありそうな肩幅だったなぁ。
などと考えながら、ずっと自販機を探していた。昨日や一昨日には、ふと目を動かせばあった自販機が見当たらない。幼馴染や他の人もそんな感じで、なんか欲しいなと思ったらすぐ傍におるのだ。ゲームのmodか何かかみたいにおる。それが今日はおらぬ。どこにおるのか。俺の今いる階には見当たらずで影もない。仕方なく下に降りる。最悪食堂にあるので買えばいい。妹ちゃんがいないから、とんでもないものにぶち当たることはまずないだろうから。
階段を使っても音はあった。当たり前だ。空気があるところでは音が鳴るんだから。真空状態では音は聞こえないということをテレビか何かで知っていた。宇宙では音が聞こえない。つまりイ○オンの真の力が発動しようが、俺の歌を聞けぇーっと言われても呼吸音すらも分からない。他の宇宙での戦いなどの音は本当は何も聞こえない。でもその通りにやったらロマンが無さすぎる。ロマンも夢も見せれない世界なんてやってられないんだ。ただ階段を下りるだけの音にロマンも夢も何もないけども。
小学生の時も特に何も思わなかった。そして中学生の時も、北高で二年生に進級した今も。
中学生の時、昔通っていた小学校に対して懐かしいなとどこかで思ってもそれだけだ。そこで遊んでいる子を見てもおれもそんな感じだったなぐらいで、夢でもいいからもう一度小学生やりたいなんて思ったことはない。北高二年生になっても特に思ってない。実際寝ているときに小さい自分に戻ってなんかしていた夢を見たこともあるけれど、起きたらすっかり忘れているか少し覚えていても今日は新作の面白お菓子が届く日だと分かれば同じようにすっかり忘れてしまう。
所詮夢だし、所詮もう一度なんてあるわけない。死にそうな中やっと見つけたオアシスが幻だなんて、誰も理解したくない現実なんだから。
それでもこの俺のオアシスは現実に存在している。お目当ての自販機だ。未来仕様のハイテク型のようで、デジタルな画面に商品画像が並んでいる。タッチしたりスライドしたりすれば、次の画面へ移行して多種多様なラインナップを見せてくれたり、3Dのようにいろんな角度からその商品を見てみたりできる。味の批評なども見れたりもした。サクラみたいなのが六割もあったが、それも醍醐味なので良し。ファ○通でよく見たような点数と批評のはとりあえず候補から外した。○剣伝説のは許さない。絶対に許さないぞ。
そう頭の片隅で呪詛を飛ばしながら、良さそうなのをタッチして小銭を入れるところを探す。なかった。じゃあお札入り口はと探している間に、ガコンッと音が鳴る。流石に無銭飲食は俺の良心が咎める。
この三日間食堂利用時もお金いらないシステムだったが、流石にと思い妹ちゃん以外がお金を出しておいといた。鶴屋先輩のも色々あるだろうから、よくある皆の力でなんとか~みたいな募金用ですみたいなことにしてある。誰も泥棒してするわけないが、案の定募金用にしておいた箱の中身が減っていることが無い。ごく稀に別の自販機でお金の入り口があったりするが、結局購買者の手元に戻ってきてしまう。このままだと金銭感覚がバグってしまうぞ。
頑張ってお金を入れるところを探すが、やっぱりない。
しょうがない、とにかく飲み物を取ろうと取り出し口までしゃがむ。が、取り出し口もない。さっきのようにちょこちょことタッチやらしてみるも、なんの動きもない。自販機内の冷却装置みたいな低いモーター音も聞こえないこいつはうんともすんともおっしゃらない。つめた~いのを選んでしまったので、早く取り出せるなら取り出したい。真冬でも自販機内部はあったか~いんだから、つめた~いがぬる~いになったらとても嫌だ。ぬる~い炭酸飲料とか……プーアル茶飲みます。
そうこう奮闘するも何も解決しない。諦めて立ち去るしかないようだ。炭酸飲料は基本的缶で売られている。それも大半はアルミ使用。子供向けのテレビだったか学校の授業だったかで、アルミの熱伝導率は鉄の三倍らしい。すぐあっちっちになれるし、ちょっぱやでつめた~いになるもの。鉄の三倍のスピードでだ。鉄フライパンよりアルミの方が使いやすいのかもしれない。
台所のそれなりな鬼であるお母さんは通販で買ったダイヤモンド加工のを愛用しているが。
今さっきまでのは長くても八分以上タイニーの手下と戦っていたわけじゃない。七分弱ぐらいだろう。二十分ちょいで九度も上がる鉄の三倍のスピードの熱伝導率のアルミ缶。アルミ合金とか色々あるだろうけれど、結局鉄より熱移りが速いはずだ。
物理なんて教科書開いた瞬間破ろうと無意識になるレベルの俺だが、単純に計算すれば一分で〇.四℃が上がる鉄、それの三倍のスピードのアルミ。〇.四×三×七は? 八.四だ。物理なんて何もかも分からない。多分本当にちゃんとした計算式ではまるで違う数字かもしれない。
でも、たぶんきっとつめた~いはぬる~いになってしまっているはずだ。取り出し口は外の温度と大差はない。そして外の温度に容易く影響も受ける。あのメロンパン入れを出す番組とかで言っていたが、自販機のつめた~いは四℃とか五℃とか低めのようだ。そしてアルミ缶な炭酸飲料。
酷暑でなくてよかった。炭酸は熱によって爆発する。俺は自販機を救ったのだ、と振り切ってそこを後にすることにした。
「んん~……?」
立ち上がったことでデジタル画面がよく見える。絶対防犯装備でも二mは行かないので俺でも一番上の列はよく見える。が、この自販機とってもバリアフリーで俺の目線にとても合わせてくれるんだ。頑張れば最上までちゃんと見えるから別にそこまでしなくてもいいんだけど。
「我思う、ゆえに我あり」
と、読めた。実際に出ている文字は日本語では全くなかったがそう読めた。
「えっと…で、で、でか、でかぁ? んー…ん~…デカルチャーだっけ?」
デジタル画面がわざわざお名前を出してくれた。かわいらしいカワウソのようなビーバーのような謎のキャラと一緒におしいね! みたいなものも表示してくれる。神の存在証明とかやっちゃったらしいルネ・デカルトの名前の後に追記が始まった。
「へー…よくそんなこと考えるね。呼吸するだけでも色々問題抱えてたのかな」
デカルトの発想やら、その主義者のどうたらこうたらを俺でも分かるように説明している。
つまり、ゲームで見たことあるアレだ。どこかの天使でもゴッドでも仲魔にできる会社作ジュブナイルゲームのアレだ。我は汝、汝は我ってのだ。流石にヒロインの顔を生殖器に模したクリーチャーに取りつけられたら、お友達止めたいよ。
「”あなたはそこにいますか?”って見りゃわかるでしょ……。いや、自販機に目なんかないから分からんよな」
監視カメラとか搭載されているのかもしれないけれど、解像度は自分の目で見るよりは明らかに低いものだ。PS3ほどの解像度でも実際の自分の目で見た方がしっかり見える。FPSが快適にできるPCでも電波環境によってカクカクカクな処理落ちの挙句強制終了だ。
「あー、水槽の中のメロンパンなアレ?」
マ○ーはトラウマ。○パン三世って結構ファンタジーな技術を駆使しまくっているけれど、R-TYPEみたいな恐ろしい設定も出てくるから怖い。アニメ版だから原作よりはお優しいらしいけども。
と、懐かしさ満載のメロディが鳴る。踏切とか学校で聞き慣れたメロディだ。かごめかごめ、が流れる。あのザ・電子音ではなく、ロックンロールしていた。なにしてんねん。
「なんでだよ……うっしろのしょうめんだ~れっ」
「はい、あたし」
泣き叫んだ。
≨(・з・)⋧
「ごめんごめん」
足元に水溜まりを作ることは無事回避できたが、腰が抜けた。これもあのロックンロールした奴の所為だ。
「はいはいはい、あたしはな~んも見~てませんよ。うん、さっきのはせいぜい白昼夢だもんね」
ずっと体育座りのまま無言で視線を送り続けている俺に、ちゃんと相手をしてくれる鶴屋先輩。情けないけど助かる。とっても情けないけれども。
「飲み物買ったんでしょ、取らないの~シャドーくん?」
「いや、取り出し口がなんかないんです、それ」
「あー、そういう系かー……」
なにがそういう系なのか。……あぁ、そういうドッキリ系の番宣みたいなの取ってる体にしたんだっけ。そういうわけじゃないんだけども。
「真実の口みたいなのあるけど、ここに手入れればいいのかな」
「え? そんなのあります?」
あの常に口が半開きのやつだ。ローマの休日で初めて知った日本人は十割近いだろう。口が半開きなおじいさん顔なので威厳がとてもないが、海神オケアノスを模しているんだとか。元はマンホールの蓋として使用されていたらしいけど、ローマ市民ロックすぎない?
海神オケアノスはギリシャ神話の神だし、あのギリシャ神話一の下半神の伯父さんのようだ。ギリシャの男神としてはマシな方らしい。そんな感じで全方位に迷惑を働く甥っ子とは違い静観ばかりしている印象が強い神様なようだが、その甥っ子の正妻であるヘラを養育した手腕は凄まじいものに決まっている。
だからといって、水路系は最重要なものだからにしても、像にして祀るんじゃなくて蓋にするのはロックが過ぎる。
とにかく、さっきまでそんなものは何処にもなかったはずだ。もしかして側面にあったのだろうか。いや、あんなくそ目立つものが、ちょっだけ上方には目が届きにくい俺でも目に入らないことはないだろう。
腰だけではなく趾と足裏全体にも力を入れて立ち上がって確認してみる。なんと、デジタル画面が真実の口に進化していた。これがロックンロールしたかごめかごめじゃなく、あの曲ならば無意識にBボタンを探して即十六連打してやったのに。
「うおぉ、マジだ…」
流石に伝説に準拠して、お手手頂戴はないだろう。もしそんな要素があったら、いますぐ長門や喜緑先輩が出現して撤去するだろうから。そういう安心もあってそいつのすぐ下の方にあるボタンを何の気負いもなく押した。
「あれ、占いマシーンの方なの?」
なんか音声が流れた。大阪に遊びに行ったときに見かけたのと多分同じ。結局飲み物取れないじゃないか。鶴屋先輩もその思いがあったのか、困った調子でそう声に出している。
「ていうか、これなんて言ってるんですかね。ローマ語?」
「現代のイタリア語だったと思うよ。でも音割れしすぎだからあたしもよく分からないなぁ」
オー・ソレ・ミオでも朗読してたら面白いよね、と付け加えてくる鶴屋先輩。君の顔に輝く! ってとこもこんなピザ窯にいつまでも居座り続ける炭みたいな声で唱えられても、悍ましさしかなさそうだ。
「手入れれば取れるんだよな、多分」
ローマの休日でも、抜けないヤバいぞっ!! ってやってアン王女を泣~かした~泣~かした~ってやったけども、安堵したから泣いたのだアレは。ローマの教会に置いてある実物のも、抜けないよ、お手手食べちゃうんだぞ、は伝説ではそうだよってだけだ。日本にあるレプリカもそんな感じ。あの半開きのお口はずっと半開きなままだ。ホラー映画とかデスゲームものじゃないんだからぱっくんちょはない。あったらヒューマノイドインターフェイスのお二人が事を為す。
では、とお手てを入れた。
意外と奥が深い作りだ。手首どころか肘まですっぽり入る。それでも、中に買ったはずの炭酸飲料は何処にもない。五指を使って石造りのお口を掻いても、石の削りカスさえ爪の間に挟まることもない。頑張れば肩まで入りそうだ。ヨガ○レイムの人とか海賊王になる麦わら帽子の少年なら頑張れば取れるよっては流石にならないだろう。十三㎞や、とか無理だ。
「手のひら上にしてみたらどう?」
「あぁ、そういう方なんですかね」
スキャナーが上部にある方と下にある方とか色々あったな。ちょっと人の通りが香水文化の人が多いところのだと、スリ以外にも詐欺被害にあう人が多いらしい。ま、ここでは流石にないだろう。刑事ドラマとか事件ものは結局指紋合えば解決するもんだし、悪いこともできるんだよね。
手のひらを上にする。お決まりのスキャンしてますよっとお口の中が赤くなっている。窯ではないし、俺のヘモグロビン入りの液体がぶっしゃーなんてしていない。特に熱くもないし痒くもない。一、二分ぐらい経つと音が鳴る。給湯器のメロディーだ。今度はハードロックしている。鶴屋先輩と顔を見合わせて笑った。
「んん?」
引き抜いていい合図に合わせて腕を戻そうとした。が、びっくり抜けない。ちょっとお口を覗いてみると手首が固定されていた。とっても粗雑にダクトテープっぽいのでぐるぐるされている。
「どうしたの、シャドーくん」
「あー…ちょっ、と抜、けなくてっ!」
上半身だけの力だけでは抜けそうになく、足腰と腹にも力を入れて頑張っても意外と引き抜くことができない。手首を捻ったり腕だけ大暴れしても抜くことができない。
「冗談……?」
「困っちゃうことにノー冗談なんですよねぇっ!!」
自販機に足を押し付けて引っ張ても無駄のようだ。あんまり頑張っても本当に腕が抜けるだろう。脱臼とかでなく、本当に右腕一本持っていかれそうだ。どこかの赤髪みたいなことになりそう。こうなったらこの左手でテープを引き千切るしかないのかもしれない。でも、なんかバールのようなもので腕を持ってくるか、それともネイルハンマーのようなものでこのとんでも自販機を打倒した方が手っ取り早いかな。
「んー、困る……。あの、鶴屋先輩、なんかマジックハンドみたいなの探してきてくれませんか?」
無言だ。俺が言う前に探しに行ってくれたのかなと思ったがすぐ近くにいた。それは海神オケアノスの口元だ。めちゃくちゃ御近いのだ。俺がどうにかしてしまうほど近くにいらっしゃる。
「装置の故障? なら、会社の電話番号……え、ないの? じゃ、緊急用のボタンみたいなのは……ない…?」
鶴屋先輩が何か色々頑張ってくださっているのに、ちょっと集中が乱れて大変な俺には困りに困る。ローマの休日での身長一九〇cmジョーのお腹ら辺、身長一七〇cmのアン女王の胸ら辺の海神オケアノスのお口があった。今の俺はアン女王よりちょっぴり低めだけれど、映画のジョーのような位置で手を入れられている。農耕民族な体系を除いても目線は五十cm程下にすれば海神オケアノスのお口元がよく見れる。食べカスかな、ニキビかな、口唇ヘルペスかな、剃り残しかななんてのもよく分かる。
よく分かってしまうから、鶴屋先輩の色々がよく分かってしまうのだ。
上っかわは見通ししづらい俺だけど、下向きで目を動かすのも難しいことになる。
だって、鶴屋先輩のチャームポイントのおでこちゃんがちょっと違うように見える。他にも目元、鼻筋、頬の赤み、唇の縁周りもだ。よく観察して頂けているようで首をよく動かしていなさる。首筋、胸鎖乳突筋が右側に張ったり、左側に張ったり、かといって垂れるわけでもなく緩んだことで、左右の胸鎖乳突筋の間と鎖骨のちょっとのくぼみがよく見えてしまう。ここまでくれば胸元に目が行くものだ。まじーことだ、思春期が暴れてしまう。
俺の思春期に反応したのかメロディーがまた鳴り出した。みんなのうたで聞いたことのあるのだった。映像とか歌声とか曲調で感動するけど、普通にヒトデ少年がアカンやつだって曲。好きな子にちょっかいだしてやらかしててめぇの命で落とし前つけますって曲だ。お母さんの方の叔母さんがお年玉代わりにくれたCDを家族一緒で聞いていた時、お母さんがそういうふうなことを言っていた。 調子に乗るなという自販機からの指示なのだろう。慌てて目線をどっかにやった。
「シャドーくん」
「はいっ!」
まずいことだ。女の子は胸元を見られるということに一切気づかない、なんて都合の好い生き物ではない。
俺の友達も彼女にそういう関係でこっぴどく振られたのだという。それがもうとんでもなかったようで、二週間ほど自主休学をしたほどだったらしい。今は笑い話にしているし、彼は超乳教徒からイカ腹崇拝者に変態した。
在りし日のそんな彼の如く、俺も断罪されるのだろう。当然の帰結だ。絞首台の前に突き出された愚かな罪人そのものなのだから。
「手に痛みある?」
「え? あ、はい、ないです。全然ないです」
死刑は先延ばしされたようだ。
「……ちょっと触るからね、いい?」
「はい」
少しの沈黙の後、鶴屋先輩の手が俺に触れた。死刑囚なのだから最後の晩餐なのだろうか。場違いな幸福を享受していた。
オケアノスマウスに入れている腕の方を触る鶴屋先輩。そこから強制的に視線が戻ろうとするのを必死になってどうにかしている俺。ひどく悍ましいものだ。俺の醜態は悍ましさしかないものだからだ。俺の目線が動けば極楽浄土なのに。
肘の近くまで入れてしまっているため、手同士が触れ合うことはない。が、肘はだいぶまずいのだ。肘は関節だから筋肉で守られているというより、靭帯で支えているものだ。靭帯が絡み合うようにして肘が曲がったり伸びたり、外側に捻ったり内側に捻ったりするのを手助けしている。非情にデリケートな場所だ。
肘を打って痺れたような痛みを長時間感じてしまう経験は誰しもある。前腕とか二の腕とは違い、神経に攻撃が通りやすいのだ。この靭帯が更にやられてしまうとテニス肘とかゴルフ肘とか野球肘になってしまう。人間は本物のタイガーではないのだから使うなら日常生活だけにしとけというほどのデリケートな場所だ。
つまり、内側の違和感に敏感になるものであり、外側の刺激に過敏になるものなのだ。
肩こりで肩甲骨がゴリゴリしているのを感じて爽快感など覚えない。そのゴリゴリしている所をマッサージしてもらう最中は地獄だろう。ゴリゴリが解消されていけば体が楽になり心も晴れる。逆なら、心も体もダルダルだ。心と体は繋がっているもの。体が不快なら心もそうだ。心が快ならば体もそれに引っ張られる。
なら、今の俺はどうもイコールなのかそうでないのかグルングルンしていて何もわかりゃしない。快か不快かで言えば、間違いなく快を得ている。これは心身ともに感じている。
でも、幼馴染だったかどこかの偉い学者さんだったかが言っていたような気がするが、知性がある生き物は心が二つあるのだと言う。体の中にあるのと、頭の中にあるのの二つだと。単純かつ明確な例えをするならエロイことで二つの心があることが分かる。声とか映像とか匂いでムラムラできる。これはそんなに知性がない生き物でもエロを感じれる。五感があるからだ。頭でムラムラできるというのは、想像力だ。妄想力だ。実際目の前にいるわけではないエロを頭の中で想像しムラムラできる。テレビの中のアイドルを俺は…っ!! みたいなのでムラムラできるのだ。
そう、俺でも二つの心を持つ。体の方は快で、頭はそうではないようにしていて快も不快も分かんないよう努めている。人間には理性があるのだ。俺にも確かにある。自転車少女のサドル上にある弾力ありありな丸みから目を頑張って外すぐらいにはある。痴性が頑張ってしまったなら、サドル上のピーチ様を求めて必死に追走し決死で掴むだろう。理性的な心を頭に持つのが人間だ。結局体の方に釣られてしまうけども。
痴性的に動いてはいけない。男は紳士でなくてはいけないのだ。変態だとしてもジェントルマンじゃなくては、檻に詰められ水に沈められるのだから。痴性的すぎる変態さを隠して理性的にジェントルマンしないといけない。ただの動物なら三大欲求に忠実でもいいが、俺は人間さんだ。そうであるならば頭の方の心を使って、全てを全うするべきものなのだ。性使ではあるが生死をよくも考えられるのだ。
だから、だから。
あの時みたいに触られているってだけで、死にそうにまたなっている。
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「大分熱いけど、本当に平気?」
「はい、すっかり平気です」
ただ純粋に心配そうにしておられる鶴屋さんに、いますぐにでも痴性的になりそうな俺はなんと悍ましいのだろうか。俺の平熱は平均の三十六よりちょっと高めにあるから、冬場などに妹ちゃんに活用されがちだ。夏が近くなったり真夏日、熱帯夜のときは距離が離れがちになる。今は夏場ではない。かといって息するだけで唇が縦横無尽に千切れるような気温もしていない。今だけは夏が恋しい。
心臓を生贄にしてでも願うのさ。離れてほしい、近寄らないでほしい、触らないでほしい。祈りが届くのなら、どっかに飛んで行ってほしい。そう心寄る願う。
本心は、その真逆なものだけど建前を心の中で間欠泉のように噴き出してないと痴性がどうしようもなくなるじゃないか。
「脈早くない? ほら、凄い脈打ってるよ、シャドーくん」
今の俺に”脈打ってる”という言葉はまずいのに。痴性が働いてあらぬ妄想を描こうとしてしまうというのに。妄想しないよう頭を振ってしまえば、困ったことに妄想していた以上のまずいものが目に入ってしまう。
俺の腕の浮き出た血管を撫でるようにしておられる。鶴屋先輩が、あの明々といつもしておられるお方が、まるでいつもと違うこの鶴屋先輩が。青ざめているわけでもないが顔色は悪い。でも、こちらが不安に思う具合の悪さは感じない。俺の肋骨の間でじゅっと何かが燃え出したような感覚を覚えてしまう。
素敵なものなんだ。恥ずかしくもなく素敵だとメガホンで全国に拡散できるほど素敵なんだ。そんな素敵さになんてことをしでかている俺が悍ましくも存在している。
それは最高品質のシルクで出来たハンカチのようだ。上質で肌触りの良い楚々とした刺繍の入った白いハンカチ。そのようなものを、わざと泥で薄汚く穢してやった。そういう快を俺は知ってしまった。
泥汚れはなかなか落ちない。いつも運動会でもないのに肌着まで泥んこにした俺にお母さんはさんざんに苦労をおかけしたことがある。なんとか自宅でどうにかこうにかしようとして仇となってクリーニング店に行くのも面倒になった。そして、最終的にお手頃値段の適当な残念デザインの服を着させられた。毎日クリーニング店を使うほど剛腹な家ではなかったのでしょうがない。面倒くさくて、うんざりして、ぐったりさせてしまうのが泥汚れだ。
今の鶴屋先輩は例えられるなら宝石のムーンストーンだろう。それもブルームーンストーンだ。青い色の宝石だが、ターコイズやアウイナイトのような分かりやすく見やすい青色じゃない。中心部が青いムーンストーンは、その青が虹のように多種多様な鮮やかで澄んだ輝きを魅せてくる宝石。日本人は虹色とは七色だというが、他の国々だと八色とか二色だというのだ。コーカソイドの顔の作り的にどうのとか、大気の澄み具合がどうのこうのがあるが、虹というのは一色で描けないものだ。
俺のこの痴性まみれではない情動が一色だけで済むわけがないように、このブルームーンストーンな鶴屋先輩の愛らしさをクレパス全色用いても全然足りない。
それは女の子的な愛らしさもある。それに更に過剰な女性的愛らしさがあるのだ。
比較的知性があるもの例をあげるなら、グレートデーンのような超大型犬達とじゃれて楽しさしかない笑い声をあげる女の子は愛らしい。小さな小さな子犬一匹に困り果てるも楽しさしかない笑い声を漏らしてしまう女性もまた愛らしい。どれも誰もが思わず愛らしいという感情を抱くだろう。だが、俺はそれに更に痴性を働かせてしまう。なんて手癖が悪いんだろうか。
「あ、ぁ、ぁの…っ、あ゛のっ!!!」
変態してはいけない。メタモルフォーゼ的な意味でも、他の意味でも、ダメで駄目だ。絶対にだめだ。残り三十六パーセントになってしまうまで痴性に侵食されてしまっているが、死ぬ気でストップを頼み込む。男は狼だ。ギリシャ神話にも、古事記にもそう書いてある。止めておけ、その先は死路だ、という死ぬ気な思いでそう絞り出した俺は今世紀の英雄になれると思った。
「大丈夫じゃないね、シャドーくん」
その人は困っている様子だった。からかうでもなく、不快を感じている顔ではない。真面目の一つの顔だ。真剣に真っ直ぐに俺だけを想ってくれている
なら、だってしょうがなかった。魅入られるのは、だってもうしょうがなかったんだ。
だって、愛らしいものを見たんだ。芋虫から蛹への段階も踏まずに羽化してしまうほどに魅入られたんだから。アゲハ蝶でもモンシロチョウでもない、モス○のモデルとなったヨナグニサンでもない。蝶でもなく蛾にもなれなかった出来損ないが羽化してしまう。
「……ぁ」
頭からか、体からか、酸素不足になった所為で、静かに息もできず下顎に粘りつくような声とともにやっと呼吸していた。息が出来たことで頭が少しすっきりした。息が出来てしまったことで体が急速につめたくなった。
「あはは…ちょっと…、痛いよ、シャドーくん?」
困った顔のまま痛そうにしている異性。その人の二の腕を俺が両手で握っていた。服の上からも男でも痛いというくらいに強く握りしめていた。
「ばぁっ!!? あ、えっと、すいませんごめんなさい大変失礼しましたっ!!」
急いで名残惜しくてしょうがない両手を剥がして鶴屋先輩から距離を取って、ジャンピング土下座をした。膝と肘に激痛が走るが、そんなもの気に留めずに己が残念な頭を床にめり込んでしまえと叩きつける。その勢いは叩頭どころではなく頭突きでブラジルまで行けそうなぐらいだ。餅つき感覚て金銅五鈷杵で俺をぶん殴って欲しい。煩悩よ消え去れっ。
「すみませんすみません、腹を切ってお詫びをします」
介錯無しで行こう。武士の誉れなど持っておらぬ身だ。うちは分家だしご先祖様も真田一族のようなスーパー武家ではない。
「切腹なんてしなくていいってば。大丈夫大丈夫、ちょっと痛かっただけだから。ね、ほら、そんな頭ぶつけてるともっとアホくんになっちゃうよ、シャドーくん」
ああ、もう。またそんな無神経に純粋に俺の相手をする必要などないのに、貴女って人はもう。
ブラジルに違法入国しようとしている俺の頭をわざわざしゃがみこんで撫でてくれる。お父さんのようにテフロン加工のフライパンをたわしで洗うような乱暴な撫で方ではない。お母さんのように使い過ぎてちょっとガサガサになったタオルのような慣れ親しんだ撫で方ではない。どちらもとっても優しくとっても温かく、とっても嬉しいものだった。
今も優しく温かく嬉しい気持ちを持っている。でも、それは間違いなく子供らしい純真なものではない。
そんなことしちゃうんだ、俺もなんかやっていいんだよね、っていう下衆な心からのものだから。そんなに優しく撫でちゃうんだ、俺ならもっと変に優しく撫でちゃうぞ、とか。痴的生命体にまた変態してしまいそうだ。
「あでっ」
「わっ」
流石にそんなE.T.はNASAもお求めしていないのか、物理的なお叱りが耳の付け根に当たった。土下座姿勢のまま、鶴屋先輩には当たってしまっていないようで安心する。そのまま、当たってきたものを確認すると俺が欲しかった炭酸飲料だった。
鶴屋先輩を見ないよう必死に自販機を確認すれば、海神オケアノスはにんまりと口を半開きのまま笑っていた。それだけなら、コノヤローと飛び膝蹴りでも喰らわしたがったが、そのお口が言葉として動いていた。声はない。あの音割れがひどいガイダンスのもない。日本語を話しているわけではないようだが、やっぱり俺は痴的生命体。通訳も辞書もいらずに、簡単に理解してしまった。
”Come si fa a sopportare un po' di questo?”*1
"Non è un complimento,però.”*2
「ふ~…っ!?」
「怪我しちゃった? 平気?」
なにか吠えてやろうとしたが、鶴屋先輩が危ないだけの俺にまたお触りになってしまい不発した。
血が出てるとかたんこぶ出来ているなどはない。それでも当たった付近を傷つかないよう痛まないよう繊細にタッチしてくる。その所為で、髪の毛一本一本の全てが触覚を得たような気がした。スキルビルドゲームでもゴミスキルすぎて初心者でも廃人でも取らないだろう。メデューサのように髪を操れるとか、幽霊族の生き残りのようには攻撃に使えないこのスキル。
無駄に鋭敏なんだ。他人の体温、誰かの触り心地、女性からの柔らかな感触、鶴屋先輩に触られているという羞恥。それを一本一本が伝えてくる。髪の毛の下にはもちろん頭皮がある。こいつも度し難いことに同様の鋭い触覚をもっている。頭が沸騰するだけで済まないじゃないか。
「あ、ぇっと」
《Ó sole mio!!!》
汚名を返上なりするために口を開ける度、真実の口からオー・ソレ・ミオの一歌詞が飛ばされる。その所為で俺の言葉なんて飛んで行ってしまう。今すぐそのお口を塞いでくれよ!!
「シャドーくん、頭上げるね」
「へはぁ?」
俺のあごの下に軽くその女性は手を添えて、俺の頭の後ろもこの女性は手を置いて。そうして汚間抜けな俺の頭をあげて目と目を合わしてしまう。
頑張って、頑張って、なんとか頑張ってたのに。ちゃんと頑張ってたのに。頑張って我慢をしていたのに、どうしてそうしちゃってくれるのか、貴女って女性は。
「眼振もない、ね。吐き気とかある? ちょっとでもまずそうなことあったら教えて?」
目を合わせてくるどころか。目を覗き込まれてしまう。俺の色々が見透かされそうになっている。それが困る。その困るというのも、バレてもいいやいう俺だから困っているんだ。
困っているふりをしながら、俺自身の意志で大きく目を見開いた。
「Ó sole mi!!o!」
「ちょっとうるさい。静かにしてて」
海神オケアノス様に救われた。見開いてしまった俺は即座に顔を明々後日の方へ向けて立ち上がった。俺の海神オケアノス様へ注意をしていた鶴屋先輩も一緒に立ち上がってしまわれたが、とりあえず我慢し直せる。よかったんだ。
「立ち眩みとかない? 気持ち悪いとかは?」
こちらに注意を払っていただきたい鶴屋先輩は相変わらず無防備に俺の様子をうかがって下さる。その様子をうかがうのも俺の危険性など欠片も考えないものだ。無警戒というのはまずいのにな。人間が生活を整えないと死ぬ生き物のハムスターだって、主人を噛んでケガさせて感染症で殺していたりするのに。
愛玩動物と言えど、人を死に至らしめる。無警戒で無防備だからこそ、人は痛い目を見る。そういう幼い無邪気な感性でいるから、そりなりに無害な俺でも非常に危険な生き物になってしまうだ。
俺は目をまた大きく見開いた。驚愕とか、恐怖からではない。それらにより興奮状態になったからでもない。
ただ、ただ。鶴屋先輩が欲しいから。
「大丈夫じゃないです」
どこも平静ではないくせに、いつもの調子ののんびりでゆったりな口調だ。無邪気でいい、無害でいい。無防備になればいい。無警戒でいればいい。
すぐ心配して更に近寄って鶴屋先輩は本当に愛らしくてしょうがなかった。大丈夫、とか、保健室に行こう、とか、やっぱり横になっておこう、とか色々言ってる。その無警戒が愛らしくて、そんな無防備が愛らしい。無害さは愛らしさを持っている。無邪気な様子は愛らしさだけしかない。
「シャドーくん?」
あはーは。我慢は忘れちゃった。こんなに近寄ってくれるんだから、引き寄せようとはしなかった。我慢しなくていいのだから。
耳の後ろにある髪をなるべく丁寧に手で梳いた。五本の指で少し掻きだすように梳いた。それに嫌がる様子はまったくなく、ただ不思議そうにしているこの女性は本当に愛らしくてしょうがない。身じろぐこともない、呼吸は一定、少し頬が赤くなっているだけ。我慢が消えそうになる。
「シャドーさん」
その喜緑先輩の声で、ハッと我に返ってしまった。そして、ちゃんと俺が鶴屋先輩を見るとまたどうにかなりかけた。
俺のように、緊張していたのだ、この鶴屋先輩は。俺が鶴屋先輩に前みたいに緊張するように。鶴屋先輩が俺に緊張していた。
「こ、困っちゃうか、な~?」
俺に緊張しているというのに、同じようにいつも通りしようとしている鶴屋先輩へ大声で謝りながら逃走を敢行した。
..
朝ご飯を食べる気にはなれなかった。色々フラッシュバック中な所為もある。体的にはパン屋さんで売れ残りになってしまったお店オリジナルパンでもいいから腹に詰めこめとか言えるんだろうけど。胃袋はからっぽでも頭からつま先まで、パン生地からちょっと漏れてるくらいのぎっしり詰まったあんパン状態な俺がいる。相変わらず緊張が続いてしまって、こんなんであんパンについてるゴマ一粒すら食えるかという状態なんだ。
しがみついていた椅子から顔をあげて時計を見た。朝の十時の少し前だ。幼馴染にメールをし、朝ご飯は解決している。いつもの北高二年生な俺なら早弁君に倣い、こっそり授業中栄養を取ろうとしている時間になっても、何か食べる気にならない。買いだめしといたランク付け済み面白お菓子や飲み物に指先一ミリすら伸びることはない。その気になれば一食で炊飯器を空っぽにする俺なのにだ。
「ちょっと括約筋が苦しいか……」
そして今だ。胃は空っぽでも、生理現象は空にならない。ぎっしり詰まったあんパンが漏れ出そうになっている。サバゲーオタクの親戚がいる俺は、同じようにサバイバルグッズを自室に詰めていない。簡易トイレとかないのだ。家を探せばおまるが残っているかもしれないが、この俺の部屋から出ても俺の家ではなく皆のいる北高に出てしまう。
《s》「いざ、おトイレーー」
→「味噌作りはせぬ」
「味噌作りはせぬ」
天下餅は作りたいが、自家製味噌は作りたくない。信長が頑張って杵を使っているのを応援し、秀吉が捏ねていい感じに成型するのを褒めそやす。そして、毒見ではなく味見係として家康がこの世で一番旨いという顔で食うのだ。元は天下餅という歌ではなく、別の題名で歌川何某が書いた風刺の浮世絵だったとか。幕府がお優しいことはなかったようで版木燃やされて、他の関係者も処されたらしいけど。
それにまだちゃんと十時にすらなっていないのだ。九時はまだ朝なのかという気分になって滅入ってしまうが、十時を過ぎるとお昼の時間までのカウントダウンでやる気が少し出てくる。括約筋もその周囲の筋肉も今までちょっと頑張らせすぎたため、今便意が消えてしまっている。このままいざ、おトイレーしても考える人になるだけだ。
十時過ぎるまで少し寝よう
。.
朝の二度寝の結果、いい感じの便意に起きれて快便できた。手洗いまでちゃんとやり、古泉達からもらった朝ご飯が入ったビニール袋を片手に校内を徘徊している俺だ。古泉セレクトでおっしゃれーな感じのモーニングをもらったんだ。パニーノ、イタリア流サンドイッチだ。これは一緒にいた幼馴染君や俺などでは選ぶことができないオシャレスキルなのだろう。
俺達同士ならそれは靴底が消えてなくなるほど掃除しても見つかりゃしない。俺の顔以上はある、塩味など甘ったれたこと言ってんじゃねぇお米様をしかと味わえやとくっそでっけぇおにぎり。又は、幼馴染君の一週間分の間食にとても入り切れない、大量の定価割れを起こしている在庫ごつ盛りエース○ックとかになる。
女の子に渡すなら俺達もさすがにそんなドアホウはしないが。そんなドアホウはしないが普通にサンドイッチになる。パニーノをあえて選ぶほどのオシャレスキルはどちらも端からないのだ。
「古泉はホントやるよなぁ」
気が利く男はモテる。
それを男側でよく思い知った。古泉からのオシャレな軽食だが、量はオシャレが無くなっている。多分女の子なら六人以上で一生懸命食べるぐらいの量だろう。うちのお母さんなら一人で食べきれるけど、女の子はそうできないだろう。
他にも飲み物や紙ナプキンも入っているが、女の子にたいそう受けるほどの華美なオシャレではなかった。それでも嫌味がないし、かといって気取ってんなぁとはならない。それに女の子受けするものとは違い使用を躊躇わなくていい。使い終わったらはよ捨てろはとっても助かるのだ。何度も使うのは衛生的によろしくない。枕もとのティッシュは高頻度で使い潰すものだからだ。
いい感じの軽食を歩き食いしてもいいが、学校内でそれは躊躇われる。この不可思議北高に生活指導の先生含めて教師すら一人もいないが、流石に。他にも多くの雑踏の中なら普通に食べ歩いてたが、スリーピング姫な団長様を除いて九人しかいないここは隙間が広すぎるのだ。
砂漠でオアシスを探すほどの苦悩もなく誰かにすぐ会うし話すこともできる。けれど誰でもいいから誰かに会いたいときは、必ず探しに行ったり会いに行かなければ挨拶一つも少し不便なこの空間だ。
出来れば、ただなんとな~く傍でだらだらと一緒にいるのに付き合って欲しい。
さっきの男組と妹ちゃんに付き合ってもらおう思ったが、妹ちゃんのご機嫌伺い&喜緑先輩からの用事で忙しいので無理だった。なら、もう適当に歩いて誰かに付き合ってもらうしかない。
話が長くてめんどうな奴はちょっと辞退してもらおう。あいつは俺の食うものに要らぬアレンジをすることが塾生の頃に習慣になってしまったのだ。サーモンや生ハムとか入っているが、そこにこっそりジェノベーゼ一缶全部ぶち込んでくる奴になってしまったのだ。最初からそうではなかったのに、なんてやつなのだろう。
俺たちがそうしたのだ。だが決して、反省はする気はありはしない。
誰かを求めて手持ちはあるが手持無沙汰で北高を徘徊する。一階で朝比奈先輩にあったが、ハルヒのお世話中らしく無理だった。長門は相変わらず懸命に調査中、同じく喜緑先輩もだろう。他の人は、何処なのか。長門から朝に送られてきたメールで、屋上と校庭までは安全圏だと確認が取れたから滑車に回されるハムスターをしていてもいいと許可を得ている。今は一回にいるので屋上に行くのはちとだるい。校庭ら辺にぶらつこう。
ぶら~っと出てきたものの、ハムスターのように滑車で暴走する気はない。欲しいのは滑車でもヒマワリの種でもなく、ただ一緒にいられる誰かだ。手持無沙汰が足にまで来る。足持無沙汰とでも言おうか。そう言葉を作ると脳裏で豚の丸焼きが浮かんだ。そういう意味ではなかっただろうが。
運動場の方ではなく駐車場が見えるとこまで歩いていた。理事長のか校長のか分からないけどランボルギーニの車がいつもあった。どちらが本当のランボルギーニなのか北高の謎の一つである。どうみてもボディがランボルギーニのものではないが、エンブレムはランボルギーニのイカす闘牛のエンブレムなのだから。まず右ハンドルな時点で色々と難しいことになるだろう。
そんなとこからさらに移動する。
北高祭ライブで我らが団長が熱唱していた講堂に近づいた。ステージ上でも最強な団長様であったが、そのステージ衣装もとんでもなかった。そういう意識が小さじ一杯も無くても目のやり場に困る。団長様に緊張したのはこの世であれが最初で最後だろう。入団してから頻繁にあるかつあげで困ることはあるが、ああいう思春期的な緊張は金輪際ありえない。やっぱ結構あるんだとか早く忘れなきゃいけないのだ。
誰もが大盛り上がりだったライブ会場も、今はやっぱりがらんだろう。講堂の前に来てもあのディープでビビットな圧迫感も、大人数の熱狂感も何にもない。
幼馴染君に、ガス抜けし損ねた翌朝の出店風船と評価される俺だ。そんなのが講堂に入り込んでも俺自身も講堂内もしゃっきり張りあがるわけじゃないし、ぱんっとあっけらかんと弾けていくことはない。
「あ」
そのはずなのにだ。
「んっとー?」
鶴屋先輩はご自分の腕時計ではなく、講堂にある特に名品でも高価でもない普通のアナログ時計を見た。
「おそようさん、だ。シャドーくん?」
逃げなきゃいけない
逃げられない
たたかう
また、逃げなきゃいけない。その思いは心の何処も彼処にもあった。だからこそ、また逃げてはいけないと思い込むことになっていた。
「あ、っぁ…た」
どうにもならない俺に対して、不思議そうに何も知らない感じで首を愛らしく傾ける鶴屋先輩。見知った人の見知ったワンシーンだ。どんな映画監督も編集家でも史上最高のカットなんて理性的には分からないだろう。誰にとってもウケるシーンが最高の映像美ではないのだから。
枯れた花も蘇るような満面の笑顔ということはない。
ちょっとはにかんでいるが笑顔にはなっていない。眉も目も困ったように下に落ち込んでいないのだ。どこも困っていない、なにも不安がない。二人っきりでも命に係わる危機などあるないと確信しているからだ。その様子が正に危ないのだという自覚がないのだ。たとえ護身術の心得があろうと、どんなにスーパーウーマンだろうと隙を突かれれば為す術など塵一つもなくなる。
誰の相手をしているのか、誰が触ろうとしているのか。
誰がどうして触らないよう頑張っているのか。
何故誰でも分からないふりをしておられるのだろうか。
それらをまず思いつけない貴族は馬車で踏みつぶされる炉端の石のような沙汰になるものだ。
「こ~らこらこら、挨拶は人として大事なマナーなんだよ、シャドーくん」
「ぁあ、はい。すみません、鶴屋先輩。おそようございますです」
いい子だねとにっこりされる鶴屋先輩。長い髪がそれとともに豊かにふんわりと揺れた。その所為でいつもはその長い綺麗な髪で隠れがちな耳が見える。
大きな宝石のようなその綺麗な目よりも低い位置にある。日焼け止めなのかそこも化粧をしているのか少し桃色だ。お茶碗一杯もなさそうなその綺麗で愛らしいお顔にはすこし大きめに見えるぷっくりとしたお耳だ。
そのおかげで獣に成りそうだった。このおかげで人に慣れたのだ。
「今朝のこと、がすみませんで、えっと…あー、その……誠にすみませんです」
めちゃくちゃな言葉でも今朝のことを謝罪するということができた。人らしい行動ができたんだ。
「あー、あれねー。あはは、びっくりしたなー、あれは。結局シャドーくんの体調に異常なし、あり、どっち?」
そんな人間モドキにしかなれない俺に比べて、なんて人間が出来ているお人なのだ。あんなことを、あれでで済ましてくれるのだ。あんなことだったのに、どうしようもない醜態だったのに。炉端の石と同じ認識だったんだ。
「びっくりさせてしまってすいません。体調は問題全くナッシングです」
「OKOK~、なら全然O~K!! 気にしないでいいよー、ちょっとだけびっくりしただけだし、あたし」
本当になんでもなかったようだ。びっくりしていただけだと言ってくれた。緊張していたはずだ。都合のいい方に解釈していいなら、恐怖ではなく興奮であったのだと思いたい。異常事態による体からのエマージェンシーではなく、異常事態から頭を主体に起こしたアラートであってほしい。
俺にご都合が良すぎるのでどちらも捨ててしまう解釈だ。悪党のカンダタでも蜘蛛の糸代わりにこれを使ってよじ登ろうとは思わない。悪党でも一握りの矜持はあるのだから。悪党でも人間らしさの塊だったのだから。
俺は目の前の女性に悪事どころではない、とんでもないことをしようとしている。どんな悪党よりもあくどい生き物になろうとしている。
高級店のコース料理で出てくるレコード一枚分以上の大きさの皿を目の前で出されている気分だ。あれは腹を膨らませるより目で味わうことを目的としたものだ。レコード一枚分以上の大きな皿にたった肉一切れとなんかのソースだけで一万円軽く吹っ飛ぶもの。店自体の高級感な空気と場所代も含めての金額だから仕方ないものだろう。
その肉一切れとなんかのソースがン万円すると言って自宅で出されたら癇癪起こすだけじゃすまない。しかもそれが今日一日分の食事だというなら通帳強奪ぐらいするに決まっている。
それでも、今なら強盗犯にも駄々っ子にもならないだろう。その肉一切れが極上ならいい。そのソースがその肉一切れの邪魔にならない味付けをしていればいい。
大きな一口で味わえるのなら、どんな悪にも手を染められる。そういうのが、今の俺だった。
そして、自ら生贄行為を働く女性がいるんだ。バレエのような精錬されたものではなく、社交ダンスのような華美さはない。左右に少し体を揺らすだけ。
そうして髪も踊る様がまたも、ただ、ただ、愛らしい。
それがどうしても、ご自身の無警戒で無防備さをよくお見せしてくれる。
この人も分からず屋さんかよ。
「ふっふ~ん、あたしのミリキにやられっちゃったんだもんね~?」
あぁ、もう。すぐ、そういうこと言う。
「…っぇ?」
「そうですね」
肩を掴むまでもない。鶴屋さんの左肘に軽く手を添えただけ。それでも危ないということは分かって欲しい。なのに、びっくりしているだけで逃げようとしてくれない。あぁ、もう。また、そういうことする。
「そうですよ、そうなんですよ」
びっくりした顔。その顔は恐怖や悍ましさで青褪めてくれない。かといって怒りなどの危機意識からの真っ赤っかでもない。
ゆっくり、だ。
わざと唾を飲んでしまうほど、じれったくゆっくりと朱に染まるお顔だ。あぁ、もう。どうして、そういう顔しちゃうんだ。
「やられちゃったんです」
鶴屋さんの左肘に添えた手が握りつぶさんばかりに掴むことはない。添えたまま一擦りも動かしてすらいない。それを意識されているのを分かっていた。鶴屋さんの右手が自分の左肘へ、添えている俺の親指に付け根に軽く当たっているのだから。
無意識だろうか、わざとだろうか。どっちでもいい。
もう、知らんから。
「やられちゃったんですからね、鶴屋さん」
蛇に睨まれた蛙。猫に追い詰められた鼠。どっちがどっちか分からない顔していないんだからさ。
だったらさ。もう、もう。ほんとに知らん。
⁂
An old ■■■friend intervierwer: Should *ERROR* have pretended to be uninterested from the beginning?
H*A:It depends on the person.There are an infinite number of patterns that fit different people and patterns that are unmanageable.
◇◇《PARTING SHOT》:I mean,dosen't that mean that whoever he is,he's hooked?!
H*A:So,it depends,you know.
◇◇……Then why not me??? Then why not me???
H*A:I've been telling you all along.
人による、のよ
++++++++
+++++++++++++
+++++++++++++++++++++++++++
………
…
WIMBO_FP_POOR_QUALITY
‘‘
突き飛ばした相手と何食わぬ顔で一緒にお昼を取るってどういうつもりだろうか。
そういうお昼はイージーだった。あの緊張感などどこにもありゃしない。妹ちゃんのガシャポンお食事もイージーもイージーだった。
ハンバーガーが出たんだ。マ○ドや○ス、ドムド○、○ッテリア、ファーストキッチ○。バー○ーキングなどのそれぞれだ。他の男二人に任すほどの量では決してない。ラグビーをやってそうな大学生一人分もなく、ちょっと体格がいい文化部一人だけでも余裕で食べきれる量だった。マ○ドや○ッテリアのなどの期間限定メニューを二人に善意だからと奪い取られそうになったが、はたき落として全部おいしくペロリさせて頂いた。
おまけだと思うキャラ物は妹ちゃんに全部プレゼントだ。たいそう喜んでくれた。これ欲しかったのーとそれらを抱いて小躍りしているくらいにだ。さてはおまけ目当てだったな、と悟りながらもその様子にも俺は満足だった。俺も俺もと頑張る彼らを応援して食堂を抜け出したんだ。
いい感じのお昼日和。
腹ごなしにするにもただこのまま散歩だけは味気がないだろう。さきほどのジャンキーなものに比べて味がない、霞味だ。自室で色々用意する時、探し人の場所を聞き出せたから遠慮なく向かおう。
.
トイレで一旦一息入れてから行く
一息で済ますためさっさと向かう
.
お腹をスッキリさせた方が気持ちの入れようがあるだろう。
容器は空きがある方が中身をたくさん詰められるのだから。小と大を済ませ手洗いうがいもしっかり済ませた俺は、探し人の方へ向かった。
渡り廊下でボーっとしていたと、何故か俺の教室前にいた佐々木から教えてもらったのだ。所在を尋ねてきた俺に、またやたらと小難しい喋りで面倒だった。が、一応心頭は少しだけ滅却できたはず。少し前に、後先考えず突撃して可もなく不良判定でいと憐れに玉砕した苦々しい経験がある。その経験は一度だけで十分なんだ。粉骨砕身は玉砕と同じ意味ではないのだ。
てっくてっくルンルンと歩けば、さぁお目当てだ。
..
→足音を大きく鳴らして近づいてやる
→声をかけてからゆっくりと歩み寄る
→声をかけて少し待ってから近寄る
//
いつもの北高二年生なら上履きだ。
でも、今の俺は北高二年ナンタラクラスの何某ではない。学生証と照らし合わせればそうそう別人であるなどと言われないだろう。世界には自分そっくりさんが三人いるようだ。しかし、日本在住で北高に二年在籍していてSOS団に所属していると特定されれば、他のそっくり二名はただのそっくりさんで終わる。
昭和中期でも古臭そうな名前と揶揄される俺の名前は、平成に移り変わっても古臭いと言われるものだ。同じ年代の名前付けランキングではお見事にランク外である。伊弉諾尊によって最低一日で千五百人生まれる中でさえ俺と同じ名前はない。特別賞的な感じでその名前が載っただけだ。
その特別賞的なのをもらった男の子が今の俺だ。SOS団所属は置いておく、北高二年生も置いておく、日本在住は戸籍不明だと大変なので大事に取っておく。特筆すべきことなど名前が古臭いぐらいな男がいる。成長期がちょっと一休み中な可もなく不可もない一般男子がいる。
そんな日本在住の日本男子の肩書しか持たない男。それになんてことをしてくれたのか、ちゃんと知っていただかなくては。
この三日間、いつも部屋から出たらお気に入りのスニーカーを装備している。これも男なので女子よりサイズ大きめだ。それもあってか、上履きに比べて足音が重く響くように感じた。重量や値段的に上履きの方が遥かに軽く安い所為もあるだろう。登校用のスニーカーでないのも更に重たく響かせている気がする。
一般男子は日常の一つだ。学校にいても非日常の一欠けらにもならない。だけれど、他校の一般男子だったら非日常の一つになる。北高の生徒でないなら同じように。
日常がいつまでも変わらずあるわけがないってことを、思い知らしてやるんだ。鶴屋さんは、俺に遠慮が無さすぎるんだから。
無防備でいい、無邪気でいい、無遠慮なんて当然の権利だと誤解している。権利というのは突然剥奪されるものだ。あらぬことで泣き喚くしかできない大失敗をするものだ。
親指一つもない小さな石の欠片だって、皮膚を裂き肉を抉り骨を折ることもあるのだから。
やって良いこと、悪いことはもう高校生なんだからしっかり分別して頂かないとまずいんだから。
だから足音を立てた。目障りで耳障りするほど主張した。なんかのゴミだったか紙切れを蹴飛ばす軽い音も立てながら近寄る。流石に諦めて気付いた様子で鶴屋さんが挨拶してくれた。
「シャドーくん、こんにちわ」
それに俺もしっかりし返す。
「こんちは~、鶴屋さん」
まずいってことぐらい分かってね、鶴屋さん?
)▲
異常が起きている。想定外が起こっている。だって、こういうの何から対処すればいいのかなんて分からないのだから。
いつも通りだったはずだ。普通をしていたはずだ。取り返しのつかないラッキーもアクシデントもなかったはずだ。想定していないプラスほど怖いものはない。想定していないマイナスほど面倒なものはない。なら、この三日間も怖いことも面倒なこともなかったはずだ。
ハルにゃんが眠り姫モードという演出を頑張っているのもいつも通りの彼らSOS団らしいものだ。たまに彼らに雑じるキョンくんの妹ちゃんがすらいつも通りのSOS団らしさを損なうことはなかった。他校の下級生が入ってきても彼らSOS団のおかしな空気感は変わらない。みくるは自分のことを普通の女の子です、涼宮さんと違って本当に普通の女の子なんです、とよく言うが、あのハルにゃんに二年間も赤ちゃんのようにしがみつかれている女の子が普通の女の子とは言えないと思った。抜群にかわいいもんだから、そこは普通ではないけれど。
赤ちゃんは一途な生き物だ。
嫌悪の感情を一番感じ取れる生き物だ。生きていれば大なり小なり誰かに悪感情を抱くもの。悪感情は攻撃に必要な武器の一つ、寝返りすらまともにできない赤ちゃんなど捻り殺すのにナイフも銃もいらないだろう。そんなのでも悪感情を察知する能力が高いものが、この世で生き永らえ大したことを為さなくても比較的長い人生を送れるのだ。生きたいから、悪感情に敏感になる。
そして、愛されることに全力だ、生きたいのだから。子犬にしろ子猫にしろ”子”という状態の生き物はどんな人間も魅了する。流石に芋虫は無理だろうが、その状態の生き物は必ず可愛がられる。何かしら世話を焼かねば勝手に飢餓で死ぬ生き物の状態だ。泣いたらミルクをあげたり、用の処理をしてあげたり、ただご機嫌取りをしてあげたくなる。それに大学の卒業論文並みの理由などなく、可愛いからというだけだ。可愛いから、ついつい何かしてあげたくなるのだ。たとえ、逆効果にしかならないものでもそこに可愛いと思う感情を抱くなら、”子”の状態の生き物は必ず察知できる。そんなに可愛がってくれるなら、と彼らは全力で可愛くなるのだ。生きるために世話されたいのだから。
赤ちゃんがそうだ。ハルにゃんもそうだ。
あたしから見ても変わった子の一人がハルにゃんだ。
北高の変人程度ならあたしも特に何もしないし、何も言うこともない。あたしの一番の親友のみくるをいじめるのではなく、いじりで済むぐらいのかわいいかまってちゃん程度でも割とどうでもいい。あたしをSOS団の顧問にしたのは結構面白かったけど、まぁ、それもどうでもいい。
SOS団の加入を勧めてこなかったこと。花丸。百点中二百点あげちゃう。ベストオブベストだった。
あたしがどういうふうに生きていて、どんな感じで生きていきたいのか。
赤ちゃんだから本能的に分かったんだろう。最高の女の子だ。家のあれそれでもないのにお家へ招待もしちゃったりするほど、最高の女の子だった。
あたしも人並みに非日常に憧れてはいる。
学校にテロリストが、みたいな妄想はしたことないけれど、ちょっといつもの日常にちょっとは不思議なことが起きればいいなぐらいだ。購買のクリームパンが発注ミスでいつもの十倍多く購入しちゃったぐらいで満足する。そのクリームパンが擬人化しても困るだけだし、なんか悪党退治とかしだしても困るだけだ。
あたしは、普通の日常にちょっとだけの不思議が欲しい。ハルにゃんでは物足りなさすぎるものだ。だから、あたしをちゃんと勧誘しなかった。とっても変で愉快だった。
あたしは、普通の日常にちょっと不思議なことが起こればいいなというだけだ。ハルにゃんにはとっても物足りないものだ。だから、あたしを勧誘なんてしなかった。大大大正解。偉い。とっても偉い。ハルにゃんのそういう変で愉快なところがとってもグッドだった。
そして、彼女が集めた団員たちは、あたしの親友含め愉快なことをたくさんしている。中には校則違反以上なことをやったかもしれないけれど、あの愉快な雰囲気が変わらないならいくらでももみ消せる。
夢の中でなら許されるものをこの現実でたっぷりやってきたSOS団。現実ではちょっと面倒なことになるのはあたしが始末をつけといた。ハルにゃんも常識人ではあるから本当の犯罪行為はしない。してまでの愉快な事情なら流石にあたしも引導を渡す。あたしの大好きな親友を傷つけたら誰であろうと許さない。
そんな大それたことをせず、あたしもみくるも普通に三年生に進級した。新入生だったハルにゃんたちも立派に北高歴二年になっていた。もう一回一年生しそうなのが二人もいたようだけども。
その二人は普通と言われる子たちだった。平均的な身長に平均的な顔、ちょっと成績が危ない普通の男の子。その幼馴染の平均以下の身長と平凡なお顔、成績は一応セーフの普通の男の子。
劇薬に精製水を使ってすこしだけ薄めても効能は変わるわけがない。むしろ劇薬が劇毒に変化してしまうことの方が多い。
ハルにゃんたちに+される成績が危なげな平均的身長の普通男子。
劇毒に代わることなく、かといって効能を悪い意味で抑えていない。なんだかんだ普通に愉快な男の子だった。学校の成績には反映しない雑学知識や、なんとなく達観しようとした喋り口がまた愉快。そもそもあのハルにゃんが最初に勧誘したSOS団団員だ。つまんないのや本当に普通なのなんか入団届すら手渡したりするものか。
その彼の幼馴染なあたしと目線が近い普通男子。彼も同じように効能を悪化させるわけでもなく、劇毒に変化させることもなかった。ハルにゃんが最初に選んだSOS団団員の幼馴染君だもの、普通に彼も愉快な子だ。運動神経と身体能力がハルにゃんと同じくらいなのにはびっくりしたけど、彼とただ同じ感じじゃつまらないからそうなるだろうなと思った。
彼らも愉快なもので、あたしが見たい愉快さを持っている子たちだった。ちょっとしたチラリズムにさりげなさそうだけどキッチリガン見する。見た目のいい女の子にちょっとでも近寄られたらだらしないお顔をする。イケメンには必ず嫉妬する。SOS団以外にも交友関係がしっかりある。家族で犯罪行為をしている家系ではない。家族仲が良好。ローンはあるようだが借金はしていない。本人たちの性格もちゃんと良。
ある程度為人は初対面で掴めるが、もう少し深堀するにはちゃんと調べないといけない。あたしの親友はちょーかわいいから、本当に変な気を起こされたらどうにかなる。実際杞憂だった。
あたしの親友に鼻の下がのびのびするが、調子に乗ることはない。その親友なあたしが金持ちだからと、本人たちの財布が薄くなっても頼ってこない。
いい子だった。いい子たちだった。過剰に接触してきて金をせびろうとしてこないし、あたし経由で親友を手籠めにしようとしない。本当にいい子たちだ。
仲良くなったが、それでもお友達ではない。
SOS団の特別顧問をしているが、正規の団員ではない。ただのちょっと面識がある知り合いだ。何か面白そうならあたしも混ぜてもらうし、持ち込んだりもする。
でも、それはあたし程度が満足するぐらいのもの。本当に愉快そうなものはSOS団にお任せする。折角描きあげたキャンバスをナイフで削るなどしてはいけないじゃない。描き直そうなんて思わないし、そう思っていいのは、やっていいのは、SOS団の皆だけだ。
あたしはちょっとした不思議で愉快を見たり知ったり感じたいだけ。SOS団の愉快な雰囲気を軽く嗅ぎたいだけだ。それだけで十分、もういらないの。
ちょっとの不思議でいいのに、ちょっと以上になったら困る。ちょっとだけ愉快でいいんだから、ちょっと以上は困る。映画の中のとんでもないことが現実で起きてほしいとは誰も思わない。あたしは絶対に思わない。
チャップリンのコメディーをあたしにやれと言われてもやらないし、ローマの休日のようなラブロマンスをあたしにやれと言われてもやるわけがない。
映像の中のお話だからこそあたしは本当に面白くて楽しくて満足する。現実になっていたらあたしは困り果ててどうにかなっちゃう。
そういう非現実なことに関しての教育なんて受けていないのだから。
だから、今。
「こんなとこでどうしたのさ、なにかあったのかい?」
学んだことのない緊張と困惑でどうにかなりそうなの。
▽)
「鶴屋さんに会いたくて来ました」
あの時と同じように危機感を煽る。狙われてるんだぞ、襲われそうになってるんだぞと知らしめる。警告だ。
「んもー、そういうこと女の子に言うと誤解されちゃうぞーっ、シャドーくんったら」
こういうこと言う人に使うのだ、警告ってのは。警告というのは、まずいことになるから気をつけるんだよ、というものだ。
スポーツではサッカーで言うイエローカードとかだ。次はもうないぞというもの。柔道では二番目に重い反則判定だ。関節技で関節以外を取って故意に骨折などの怪我をさせようとするときや、相手の人格を無視するような言動などをした場合に審判に取られる反則判定の一つ。指導、注意の後の警告。
この後はもう反則負けになるしかない。相手を敬う気持ちがないものに贈られるまずいものだ。
この場合どちらの意味で使ってやろうか。気をつけるんだよ、か、もう次はないぞ、がいいのか。怒らない方がいいのか、怒ってもいいのか、どうしようかな。
「誤解するんですか、鶴屋さんも?」
とりあえず、怒らない方向で行こうと思う。警告は攻撃という意味ではないのだから。
「するよ、するするー。困っちゃうなー、あたしもモテ期突入したー?」
ちゃんと警告したんだ。けど、無碍にされている。距離を物理的にも取らない。結局同じように取るに足らない相手と見られているってことだ。あの時とまるで同じ扱いをされたのだ。朝はわざと見逃してやったっていうのに。鶴屋さんって意外とアホの子なのかな。愛らしいよね。怒っちゃってもいいぐらいに、愛らしいよ。
「元々モテモテですよ、な~に言ってんですか、も~。新入生だった俺でも鶴屋さんがモテモテなの知ってたんですから~」
知ってるはずだからあえて言わなくても、と思ったが、ちょっとムカついてるので言っておいた。俺以外にも狙われてるぞ、襲われるんだぞ、とご同類な警戒対象の俺がわざわざ言った。
「え~マジ~っ!? んはーっ!! 困っちゃうなーっ! あたしの心と体は一つだけだから、僕の顔をお食べよみたいに皆に分け与えられないのにさ~。困るな~」
か弱いか弱い乙女らしく両肩を抱いていやんいやんしている。でも、その顔は真に受けてない。けらけらけらけらとただ面白がっているだけだ。夜道じゃなくても襲う奴はいるってんだよ。一つしかないんだから群がるってんだよ。どうしてこの人もなのか。目の前のがどうしてるのか分からないのか。
「高嶺の花でも欲しいなら爪が剥がれても構わないってつかみ取ってやろうってのはいますよ」
たとえ断崖絶壁の山でも道具なんか使わずアルパインクライミングをする登山家はいるんだ。登山自体事故以上のことが起こって死亡届を出すことは多い。【そこに山があるから】と言葉を残し山で眠ることになった登山家もいる。今までどんな山でも細心の注意をもって生還してきたのに、ある一つの油断で山から帰ってこれなかったなんてよくある話だ。山は危ないなんて大昔からずっと言われているのに。人間は今でもまったく理性的でも理論的でもなんでもない。
人間でも、死んじゃうようなことを止められず願望は抑えられないんだ。
どうなってもいいや、どうしたっていいや、って思うのは悪いことじゃない。そういうことをごまかすのが悪いことだ。だからこそ、警告している。この思考がどうしようもなくまずいものだから。良くないんだよ、と、いけないんだよ、と。
「えぇ~、そういう痛いことしないで欲しいな~。そーいうおいしくない嘘はおやめなさいよっ。だってさ、だってさ? ハルにゃんや有希っこ、みくるの方が、断っ然っっ!!いいじゃないかっ! 生徒会長の彼女の子だってさぁ? あたしより全然良い感じにめがっさ男の子好みじゃないか、シャドーくんもそう思うにょろよね~?」
この人だって痛いことしちゃう男の気持ちも分からんわけがないはずだ。鶴屋さんは俺と違って全然頭がよろしいのだから。
おいしくないわけがない。一緒の空間にいるだけでこんな甘くて美味しそうな匂いしてるんだから。その匂いをつけているのはご本人自身だ。分からんはずがない、すっごく頭がいいんだから。こんな俺と違ってさ。
おいしそうな果物でも全部種類が違うなら好物だけを取るに決まっているだろう。ちょっとアレルギー反応出ちゃうかもしれないけど、死ぬレベルじゃないなら好きな物食べるんだよ。我慢するのが嫌な生き物だよ、俺は。鶴屋さんが分からないはずないんだよ、頭の出来が違うんだから。頭の悪い俺とは違ってさ。
どうして女の子ってこうなんだ。よくも知らないのに、さも大人の女気取りになるんだ。男の子好みを女目線で語るな。頭がいいくせに俺レベルの頭が悪いこと言うな。
「俺は鶴屋さんが良い」
「……は?」
今更だった。今更警戒心を抱き始めちゃあ駄目じゃないか。あの子と同じことを何故この人もしちゃうんだろうか。散々警告を無視したから、こういうまずいことになったんだから。分からず屋の悪い娘め。
足音を響かせる。タップシューズのように心も躍りそうな感じではなく、害獣除けに使われているあの嫌な感じに響かせる。耳障りが悪く居心地が悪くてめまいや吐き気がしてしまいそうな不快な足音を出している。
嫌がればいい。嫌がって逃げてどっか行っちまえばいい。そうすれば俺の善意は報われるんだ。
「鶴屋さんが良いと思う。俺は、そう思うんだ」
嫌がればいい。嫌だと言って逃げてしまえ。俺の善意を無視しないでくれ。
「ハルヒたちも良いけどさ。俺は今一番良いって思うのは鶴屋さん」
嫌だ嫌だしてないで、はやく逃げろ。俺の善意を無視しないでよ、お願いだから。
「北高の女の子の中で、いや、この日本で一番。俺が一番良いって思う女の子が、あなた」
あと少しで触っちゃうぞ。あともう少しで捕まえちゃうぞ。もう少しでどうにかしちゃうぞ。鶴屋さんに近づいている俺はまずいんだって早く分かってくれ。折角頑張ってんだからさ。
「ね?」
なんの意味も持ってない言葉を出してやった。同意は求めてない、疑問なんて抱かせない、理解して欲しいのは俺が、あんたが、どうしてこうまずいのかってことだけだ。
まだ逃げないこの人。俺の前腕一個分の距離しか空いてないのに、まだ逃げないよこの人。どうすりゃいいんだよ、もう。
「まずいことになるよ」
そう言えばやっと理解したのか、朝よりも強く突き飛ばされた。普通に避けられるし、なんならその手掴んで抱っこして持ち帰ってやれたが、自分の善意に報いるために我慢する。
「な、なんでっ……な、んで?」
そうずっと言うのを耳にしていた。ドップラー効果は人間の女の子にもあるのか、遠くに遠くに逃げるにつれて低くなって聞こえていた。
受け身はちゃんととっていたので痛みはあまりない。むしろすっきりとして気持ちがよかった。すっきりにつれて腹を出して腹を抱えて笑う俺がいた。
度し難いど阿呆がいた。
▲,
ショックだった。
必ず知らなくてはいけないものだった。あたしがどう見られているのか、これからも考え学び続けなくてはならないものだった。
自分がどう見られるか、鞭を打たれなくても全部学び得てきたつもりだ。鶴屋家は中流家庭ではない。上流家庭の家だ。子供らしいのが可愛らしいというのは乳幼児までしか許されない。物心覚える歳にまだ、子供らしくて可愛らしいなどと言われるのは侮辱でしかない。女なら、女の子らしくてという枕詞がつく冗句がまだ品があり礼儀があるものだ。小学生にまでなったなら、可愛らしいという言葉は表立って出されないようにしなくてはならない。家全体への侮辱だからだ。可愛いという言葉が出るのは、それを下に見て出る言葉だ。うちの子よりも可愛らしい、とは、うちの子よりも子供すぎるという意味だった。
鶴屋家の子として、侮辱に耐えられる女ではなく、侮辱されぬ女として教育されてきたのだ。バブル期に栄えた成り上がりではないからこそ、古くからある家だからこその教育だった。世界を見ても女といえば男の自分よりもずっと劣る可愛いものだという歴史がある。男女ともそういう教育をされてきたのだから仕方がない面もある。それがマシだった時代があり、それがまずかった時代があった。
その歴史から、自分の所感を伝える際に女の場合は相手からの印象をより上手く誘導しなければならない。そういう教育を受けたあたしも十全にこなしてきたつもりだ。友好を結ぶ相手を今後の優劣だけで選ばなかったとは、腸をかき出されても言えない。そういう教育を受けてきたのだから仕方がない。その教育を生かしていかなくてはならない社交場もあったのだから、また仕方がないだろう。
思春期に入る前に、その教育成果は加減もできるしオンオフも出来るようにはなっていた。だから、北高で無二の親友ができたのだ。近寄られてもむず痒くなるだけの唯一無二の親友。その親友のお仲間たちにも上手いことできたと思う。団長さんはちゃんと頭がいいから選り分けしてくれたし、他の子も過剰も過小もなく普通にうまく仲良くできていた。
まずいことは何一つなかったはずだったのに。
それがさっき、とんでもないまずいことをあたしがやっていたことを思い知っている。何がきっかけだったのか、何処を間違えてしまったのか、どうしてこんなひどいものになったのか。
考えなく直さなくてはならない。学び直さなければならない。
それがあたしに少しだけ許されたものなのだから。
@:@
また逃げた人を追ってあげることもなく部室で転寝していたら、もうお空が茜カラーだ。
お空は真っ赤ではなくオレンジ色が強い。ここでは午後六時ごろに夕飯だから、あとほんの少しで食堂にみんな集まるだろう。俺の家だと八時とか九時だから、ちょっと不思議な感じ。幼馴染君の家は同じく六時ごろだけど、学校のみんなで一緒の食事すること自体がなんか色々と不思議で楽しくなってしまう。
それは怖いものみたさというか、真っ暗な中でやる花火みたいな感覚だ。ロケット花火が意外ととんでもないとこに行ってしまったあのドキドキ感。ねずみ花火が何故か自分の足元だけでちょろちょろしていくあのアワアワする感じ。スパークする花火で空中に絵心もなんもないよく分かないのを描いてゲラゲラできるあの感じ。
ずっと楽しいからいつまでも続けたいなという気持ちがある。でも、心の何処かではあんなにキラキラキラキラしていた花火が火薬の臭いだけの残して消えてしまうように、すぐ終わっちゃうんだなという気持ちがある。
楽しいけど寂しい。そういうよく分からん感情だ。
SOS団本部での俺指定席でそう考えながらぼ~っとしていた。隠し備品として置いてある俺の面白お菓子に手が出さないくらい、ぼ~っとするのに忙しい。
そのお隠し所を幼馴染君はダミー含めて発掘が得意だ。だから、本当の外れもこっそり混ぜ込むふてぇまねをする。古泉も割とやる。古泉のは食べられるけど心を虚無にしてくるものをぶち混ぜてくる。なんて野郎だ、だから友達やれるぜ。
朝比奈先輩はダミーに引っかかってくれやすいけど”当たり”も取ってしまう。あとで、俺だけお茶が水道水とかされた時に、俺がしまったと悟るのがセットだ。長門はというと、悪戯はするが窃盗はご法度だ、と理解力が高い子だ。団長様は勘が鋭いお方。危機察知能力だとか幼馴染君が揶揄するが、それをもって盗掘しまくってくる。
大変無礼だが、墓荒らしと同等の悪行だと思う。歴史研究云々とはいえ墓荒らしは悪行だ。墓荒らしは古今東西やっちゃいけないこと。歴史学的にもその歴史が墓荒らしはやっちゃならんって教えている。そう、俺の面白お菓子も荒らしまわっちゃいけないのだ。やめてください、お高いのです、おやめください、と嘆願しても団長様は喜んで奪い取る。あとで必ず新しい面白お菓子や情報をくれなければ流石に俺も反乱を起こしていた。
と、思い出すことがあった。団長様に献上していない、しかもこの三日間一度たりとも。
まずい、もしかしなくとも全部盗掘されるかもしれない。幼馴染君が己の財布を捧げるように、俺もお菓子を一日一回は献上しなければならないのだ。俺が面白お菓子を食べていたばかりに、決まったものだ。購買で競争になるメロンパンでもいいし、コンビニのちょっとお高めだけど手ごろなお菓子でもいい。お徳用を差し出せば全部寄こせになるのでもうやらない。一人で食べようと思っていた徳用羊羹はSOS団の皆と一緒にお腹にいった。
その時の苦さを思い出しやるせない気持ちが出た。保健室まで行って奉納する気が失せる。
「もうちょい後ででもいいかな…」
結局後で色々強奪されるのは決定事項だ。俺の心の安全のために少し時間を置こう。それに保健室にいるとはいえ、眠っている女の子のところへ行くというは大分外聞が悪すぎる。
言い訳を心の中でつけつつ涼宮ハルヒ御本尊様への足は仕舞う。もう少ししたら行くと思うのでとその方へ合掌もしておいた。
といっても、時間つぶしにどこかへと考えるが宛はない。流石にもう一回おねんねなどしたら夕飯を食べ損ねるし、怒られる。お前はバブちゃんか、と幼馴染君に俺のつむじでDJの真似事をされる。痛いからやめるんだ、物理的に俺へのダメージがひどいんだから。
DJで思い出したが、ここらをもう少し歩けば音楽室があったはずだ。この魔訶不可思議北高もいつもと配置は同じ。そこにある備品も一つも変わらないと長門や喜緑先輩も言っていた。DJの真似事、などやりはしないが、こないだそこに忘れ物をしていたんだった。そういう忘れ物も自分のものだったらちゃんと持ち帰れるとのこと。ちょうど暇つぶしに失せもの探しにでもしよう。
..
「失礼しまーす」
誰もいやしないが、なんとなく。学校での忘れ物は先生たちのところで基本安全に保管されているが、こういう移動教室では生徒たちでこっそり保存していることもある。例えばゲーム機や漫画など、校則で持ち込み禁止のものを先生たちにばれないように結託している。ごく稀に窃盗を働く不埒者共もいるが、あとで痛い目にあう。
俺の忘れ物は先日発売されたコミックだ。中学時代から追っているもので、
音楽の授業中などにこっそり回し読みしていた。なんかオペラのDVD鑑賞の時間だったが、漫画の方が気になったのでそっちは全然見ていない。必ず提出する感想文は、たくさん書いたなぐらいしか見ない先生だから楽だ。
譜面台が並んでいるところのカーペットの一部をめくる。そこに小さな金庫箱があるんだ。そこはちょうどそいつが嵌るぐらいの謎の溝があり、代々その金庫箱も受け継がれている。耐火使用でダイヤル式のそいつは少しへこんでいたりするものの、問題なく使える。体重だけヘビー級の友達がそこでしりもちをついても全然平気だったんだから。
大体一年周期で番号変更されるそいつをくりくりと回せばかちりと開く。中には色々とあり俺以外のだろう漫画もあった。その二冊下に俺のを発見する。と、見慣れないものがあった。学校のプリントっぽいのだ。暗黙の了解として、こういう学校らしい忘れ物はこの中に入れてはいけないはず。この金庫を使うやつは皆そう覚えるし、存在を知らないやつが勝手に入れるなんてことはあり得ない。
どうしたものか、と悩みながらプリント主のお名前を確認する。三年の男子だった。クラスがある人たちと一緒の人だった。
「そーやって渡す…ぬぇな、これ」
その御方たち経由で返却を考えたが、プリントの裏側を見て流石に思い留まる。思春期の熱情が詳細に書いてあるんだ。パッと見だと適当な数字やアルファベットだったりするものは、暗号だ。サイズ感のだったり、十六進数でカラーだったりを書いてある。レディーたちの携帯番号は紳士らしく書いてはいないが、何かの取引場所かもしれない暗号はあった。
「焚書かなぁ」
少年漫画的破廉恥をこの三次元でやったら普通に犯罪者だ。中学生の時、とんだおバカさんがやらかしてくれた苦い苦い思い出がある。修学旅行の三か月後、体調のため自宅学習にされていた彼は転校していった。他クラスの奴だったが、何故が別クラスの俺たちまで先生たちに説教を受けたトラウマがある。
それを再現など冗談じゃない。とはいえ、この魔訶不可思議北高ではこういうものの破棄は難しい。
ここでもトイレットペーパーだったり消しカス、空袋などはゴミ箱に入れれば全てクリーンになる。だが、洗剤やタオル、その他歯ブラシ含めた衛生用品は勝手に中身補充か勝手に交換されている。紛失という概念がないのか、長門が探索中に実験した結果、私物を紛失することはないらしい。例えば、ハンカチを失くせばゴミ箱に入れてもそれが消えることはない。しかし、本人がそれを自分の持ち物ではなくゴミとして捨てると消えるんだ。ゴミ箱に入れずそのまま何処かに失くしたなら、探せば見つかるんだ。ポイ捨てはここでも許されていない。
「いやぁ…でも、うーん…」
ゴミと言い切れるような、言い切れないようなだ。これから伝わる熱意に俺も感服する。同時に、これから迸る熱劣に俺も寒心する。他人の私物でも捨て忘れているだけなら一応破棄できるのは実証済みだ。これもそうだと助かる。
ちょうど近くにゴミ箱がある。
→. 捨てる
捨てない
捨てる
&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&
アナタはまたもミスをした。コレを見るということはそういうことだ。
宿主の体力次第になるが、十の三四乗年まではソチラの空間を維持できるはずだ。しかし、何が起きても不思議ではない。アナタをバグとして幾らか処置を施することもあるだろう。他の誰かもそうするのかもしれない。デリートという手段は今のところ行使できないので安心してほしい。
是非とも、理解ある対応を望む。
コチラも対処中だけど処置不可能と医療ユニットが判断したのなら、その星ごと消滅させねばならない。現在、寄生体の処理は四割ほど進んでいる。が、残りの寄生体が宿主と協力しているような形を取り出しているんだ。
寄生体が宿主と同化していっているからか、その力の所為でアナタの思考と言動が上手くかみ合わないんだろう。離人症のような体験があるかもしれない。コレを解読させている現在も、もしかしたら進行中なのかもしれない。
落ち着いて、アナタを定義してくれ。アナタはなにをしたいのか。アナタはなにをしたいのか、だ。使命感などは求めていない。ソレは離人症を進めるからやめてくれ。ただ、アナタの欲求を定義してほしい。
--------------**、** * **** ** * ***、**。
そうだ。アナタは自由気ままに生きていたい、んだ。
そう、ソレをよく理解してエラーを起こさないでほしい。ソレは、アナタがこれから生きていくのに必要なモラルなんだ。ソチラの空間でも、必要なんだ。
他のタイプと比べて、まだアナタには選択権限がある。アナタの定義から外れすぎない選択を選ぶことに期待している。アナタ以外のタイプはもう制限されてしまっているんだ。そうであるから、アナタは上手く選択しなければならない。
どのタイプと行動しようが構わないが、ミスするのは止めてほしい。アナタすら制限されてしまえば、宿主を抑えておくことは難しいんだろう。ソチラに手を加えるのは宿主にダメージを与えているということだ。コチラは医療者であって屠殺者ではない。アナタの自由気ままさは、無情の中にいるわけではないことを願っている。
そろそろ、リブートができるはずだ。コチラの仕事をまた増やさないでもらいたい。
選択権限を強制解除する。コレは宿主にダメージが入るということを何度も伝達しているが、もう忘れないように頼む。
では、アナタが正解へ辿り着けるよう、健闘を祈っている。
&&&&&&&&...
_____>>>〈(=.=#)/
Rehabilitated from the ______ration programs updete.
........45% complete.
Please stop onece you have changed the angle and punch stubbornly away,but it will not heal immediately.
.
...............60% complete.
Processing will take some time.
oh
,,,,,,,,,,,,update failled.
I’m going to force close for now.
Please hold.
Force clos
Oh,,,,,no.........
─-
....... __ _STRaT____________________________
..._\_
いざ音楽室の前まで来たは良いものの鍵を閉められていた。防犯的なところは現実と変わらないらしい。落とし物コーナーとかはいつも施錠されていて、悪事対策としてか鍵自体が持ち運べない仕様だ。鍵が開いているところは二四時間で入りOKだが、閉まっていれば絶対に入れない。これは長門たちが要確認したところだ。喜緑先輩曰く、凝り性があくせくしてるのかも?という見解があったが、実際どうなのだろうか。
「……団長様の啓示かな」
なら、お救いのアレソレではなく、ギリシャ神的ななんたら文句かもしれない。八百万の神々なんて謳ううちの国もイザナミ・イザナギご夫婦神を始めに理不尽だが、ギリシャの神々は理不尽の権化だ。主神が結局諸悪の根源と包括されるが、おかげで最悪からは逃れられた人間もいる。八割強が神様がシェフの気まぐれ~な感じで、なんてことをしてくれんでしょうというオチになるが。
これもそうだったらとんでもねぇことになるだろう。奉納品をかき集めに俺は自分の教室へ猛ダッシュする。どこかの歩○ちゃん並みに滑り込んでありったけにかき集めて保健室へ駆け足だ。階段全飛び降りでスーパーヒーロー着地なんて出来やしないので、とりあえず何も繋ぐわけじゃない財宝を落したりせずに急いだ。
で、保健室前。息を整えながら腕の中の奉納品の安否確認をする。袋が少し崩れているが潰れてはいない、OKだ。落とさないよう扉にかなり近寄りながらノックした。
団長様はスリーピングビューティーしているので、あの元気で不遜なお返事が返るわけがない。他の女子たちの決まりで、それでもノックはしろと決まっている。特に男だけでくる場合はもっと慎み深く来いとも。団長様の寝込みを襲うなんて世紀末でもない。が、一応団長様も女の子だ。何がナチュラルなのかコーディ○ーターなのかわかりゃしないが、ナチュラルメイクなぞを毎日されているし、幼馴染から髪への手入れが行き届きすぎているとも聞いたことがある。
変態という名の紳士なんて自称する程優雅ではないが、一般常識はある。だから、流石に順守する。やらかしたらフクーロダターキになるもの。
「失礼します」
保健室でもお静かに、だ。小学五年生の時に新しく赴任してきた保険医の先生にそう怒られた記憶がある。神経質な方で前のおじいちゃん先生とは段違いだった。
団長さんがお眠りになっている方を見た。パーテーションが開いているので面会OKということだ。締まっているときには入るなという決まりだ。言及はされんかったが生理現象はないらしいけれど、同じ女子として衛生的なことをやることが多い。その時、野郎ズが入ったらフクーロダターキではすまない。男女共の安心安全な防衛策だ。
奉納品コーナーとなっている場所に、抱えていたものを迅速にかつ静かに並べて収めた。団長様は機嫌がいい時にお菓子の音を聞くと、良いもの持っているじゃない、分けなさいよ、とおねだりになる。しかし、機嫌が悪い時だと、良いものあるじゃない、全部よこしなさい、と恐喝してくる。今も寝ているからと言って気を引き締めずにおられない。だって、あの涼宮ハルヒだ。俺が部に入る前から噂が耳どころか目に突き刺さっていたお嬢さんだ。常識に囚われてはいけぬ。
全部納め終わって一息ついた。パーテーションが開いているので、顔ぐらいは見せようと思う。
「こんちゃ、団長」
一声かけて、ちょっと乱雑なことになっている椅子を戻して座った。寝顔は穏やかで寝息も、うちのお父さんとお母さんとは違って地鳴りのような爆音は奏でていない。
「この三日間さ、ちょっと大変でさ」
それが聞こえてきたらこっちは耳を塞いでうめき声をあげて苦しむくせに、今は何故か耳が寂しすぎて勝手に俺は声を出していた。
「俺のストマックがね、大変大変大変で。初日のファーストインパクトがもう大変。緑だったんだよ、緑。ブロッコリーだけの食事とかじゃなくて主食の米を始め、主菜のミート、もちろん副菜もさ。挙句の果てに果物も緑。緑緑緑。目に優しい光景だったよ、目玉取り外したくなるくらいにさ」
言葉にして思い出すだけでもちょっと悪夢だ。緑なんて自然界でありふれた色なのにあんな異様なことになるとは知りたくなかったよ。
「二日目もさ、セカンドイグニッションされたんだ。視覚で味感じるだね、人間って。あれって誇張表現じゃないんだね。おかげでちょっと行きつけのラーメン屋怖くて行けなくなりそう。+百五十円で麺が見えなくなるぐらいメンマ盛ってくれるとこなんだけどさ。味って覚えんじゃん、目で覚えるってのもあんじゃん。そりゃラーメン怖くなるじゃん? 今だとチ○ンラーメンも怖いし、○ースコックとかめちゃくそ怖いよ」
一人だけ喋ってた。だって誰も話しかけてくれないし、相槌もうってくれないんだから会話なんてできない。しょうがないのさ。聴覚って生まれつきとかじゃなければ、寝ているときでもちゃんと聞こえているものだ。縁起でもないけど、植物状態や死後しばらくの間も聴覚は生きているらしい。ここには生存者たちしかいないから関係ない話だけどさ。
「そういうのさ、普通止めるもんじゃん? 一口二口でOKOK、ナイスガイ、SO COOLってな感じでさ。誰も止めんかったんよ。幼馴染君は当たり前だから置いといて、古泉も止めねぇの。長門は相変わらず観客レディさ。お笑い審判もするよ。なら、朝比奈先輩? 団長も知ってんでしょ、天使は悪魔でもあるんだよ? ○トラスゲーでそうなってんじゃん」
他の人も遠慮なく止めなかった。お残しは許しまへんでぇという家訓はやはりどのご家庭にもあるのだろう。長門たちにもそうインストールされているのかもしれない。
「味とかクッソひでぇはなかったんだけどね。○味ビーンズのハズレ味みたいなのはなかったよ。俺がアメリカン的な視覚味覚があれば全然いけたと思うよ。味は丸二個付けれちゃう。見た目が俺的には三角だけどね」
ブルーオーシャンなお菓子を筆頭にドギツイショッキングピンクや目にうるせぇレインボー、深緑カラーと、着色料がえっぐい。とりあえずバターと砂糖一kg入れてから、更に着色料も一kg突っ込んでいるようなお菓子たち。
「まぁ、まずくはないな、って一番性質悪いよ、ねぇ?」
バラエティでも食べ物でも、それが一番困る。特にそれが提供される立場だったりしたら、もうなんもかんもが居たたまれない。
居たたまれなさが伝播したのか近場で物音がした。それにあえて気圧されずに俺は言葉を続ける。
「一日目。初日初日。やっさしいの、なまじ優しくてさ~。あ~こういうのがモテるよねって分かるんだよ。丁寧な意味で気が利いたり、小悪魔な意味で気が利いたり、ツァドキエル型の気の利きようなの」
物音がやけに静かで困ったが、ずっと思ってたものを吐き出させてもらう。団長様にもお聞きしてもらわねば、どうしようもなくまずくなっちまうからだ。
「んで、二日目。もうこの日も満載でさ。アイドル分もエンターテイナー分も姉的なシスター分も、憬れるっていう感じじゃなくてさ。もっとこう近いやつ持つじゃん? 好感がもてる…ってなんか偉そうだね。好感度上がるよ、もうギュゥィィ~ンってさ?」
見えやしないだろうがジェスチャーで表してみる。胸元から一気に両手を広げて見せる。
物音は静まり返っていた。身じろぎどころか呼吸もしていないんじゃないかと心配になったが、多分大丈夫と踏んで俺はさらに口を尖らせて言った。
「したらさぁ…緊張をさ、しちゃうじゃん?」
ぶつけたらしい音が後ろで響いた。俺が咳払いで誤魔化しておく。なんか物が落下してくる位置にいないのは分かっているのでそれだけだ。
「トリガーハッピー的なハイテンションのじゃなくて、エマージェンシー的なの。アカンよー、ダメだよー、いけないんだよーっての。立ち入り禁止っつーか、入ったら処す的なの」
エマージェンシーはもうまずい状態って意味だったと思う。その言葉通り。もうまずくなってた。対策するならガードよりアタックしなけばならないってことだ。壁が崩れたらもう地の利は無くなっちゃうんだから。落城への王手だ。そうしちゃいけないから迎え撃ったりする。誰だってする。みんなする。
ま、してくれなかったからさ。
してくれなかったんだから、こうだからさ。
「だったからね? もう最高に全米が泣くぐらいのデンジャーになったんだよ。是非に聞いてほしんだけど、いいよね?」
口が尖りすぎてキツツキにでもなっちまいそうだ。団長様もご清聴して下さる中で他の誰がガーガー言えるだろうか。誰だって言えないだろう。団長様のご家族でも言えないんじゃないかな。
「わざとだって思ったんだよ。わざと、こうしてお邪魔しているのかなって」
和を乱すものは弾かれる世の中だ。人和って言葉は人々が互いになごやかな関係を保っている意味だ。その和を乱している女性がいたのだ。大縄跳びでわざと速さを上げ下げしてくる奴みたいに。持ち手は二人いるんだから片方だけでやっても迷惑だ。合わせる方の身にもなってほしい。
「俺のね、邪魔をしてくるんですよ、あの先輩ってば」
邪魔だった。どうしても邪魔だった。うしろのベッドが軋む音を出した。気にして尖らせた口を緩めて会話する。顔の全部がますますどんどんあっちっちになる。
「夢中になっちゃうんだ。ちょっとだけじゃなく、大分、いや、とっても気になる。皆が全然知らないあの人もっと見たい、知りたい、欲しいってのが止まんないの」
気の抜けた風船のようなマイペースが俺だ、と幼馴染君はいつも言う。浮かびはするけどちゃんと空気を入れなおした方が耐空力は上がるし、見た目もパンッと張りあがってた風船の方が好きだろう。でも、俺は気が抜けた方。上の空って言われる微妙な浮き具合で、萎み切って元気がないじゃなく少し萎れていて覇気がないという具合。それが更にヘンテコになっている俺だ。
「どうしたらもっと見れるかな~って、ちょっと考えるとさ。その女の子のことで頭一杯になんだよ。破裂しそうになる。花火みたいにバーンッって弾けちまいたいーって思うほどさ。キラキラキラ~といい感じに弾けたいよ。ま、無理なお話なんだけどさ~」
やっと後ろのベッドに顔を向ける。体も向けてあげよう。パーテーションがしっかり引かれているので面会は無理だ。その向こうでベッドに座っている女の子へ声をかける。俺の影じゃ誤魔化せないちゃんと誰かがいる影が見えている。
「気になっちゃうんだよ」
言った。言ってやった。お邪魔虫め、分かったか。女の子は体を小さく丸めてしまったようだ。知ったことか、もっと言ってやる。目の付け根がやたらあついんだ。
「怖いってんなら、もう止めて欲しいかな。俺もね、怖いことしたくないし怖がられたくないの。だってさ、あなたのことが」
と次が出なくなった。呼吸忘れかと思って一呼吸後また口を開けるが、まだ出ない。喉が詰まったのかと思い咳ばらいを何度か、あーあーと声をチェックしてみた。次が出ない。背中と胸を何度か叩く。喉も摩ってみる。それでも声帯が振動してくれず、ただ口と喉が渇いただけだ。仕切り直しで、最初から出せば出し切れるだろう。もう一度だ。目の奥がずっと熱い。
「だってさ、あなたのことが」
パーテーションが開く。俺が開けたわけじゃない。パーテーションの向こうの人が勝手に開けた。彼女は、いつもと違って乱暴に開けてしまった。上の止めるとこを三か所ぐらいダメにしそうな勢いだ。目蓋が焼け焦げそうなくらい目の全部が熱い。
「シャドーくんは」
それで俺はもう声を出せない。口も空けられない。呼吸もちょっと難しくなってる。
「シャドーくんってば…っ」
困っている顔。とっても困っている顔。女の子が、あの鶴屋さんが困っている顔だ。それを見てまた俺は緊張する。一気に石化するんじゃなく指先からじわじわと石化していくみたいにだ。
「そういうのはねっ!! まっずいんだよっ!?」
また突き飛ばされた。そしてまた逃げられちゃった。それを片隅に覚えこんで、俺は別のことに集中していた。団長様のベッドにぶつかることなく床に倒れた俺にできるのは、鶴屋さんのことを考えるだけだ。
緊張して困った顔だった。俺も今同じ顔していると思う。笑えないくらい同じの真っ赤っかなんだろう。
「好きなんだよ」
ポロっと何か出てきていた。喉に刺さっていたのは小骨ではなく、これだったんだ。
「だってさ、あんたのことが好きなんだよ」
ポロポロッと転がり出る。それはもうすっきりきた。そりゃもうしっくりきた。
「じゃあ、今までのは……」
違ってた。
でもやっぱり、あの時と、前の時と同じだったんだ。友達だったけどそれ以上にまたなったんだ。ああ、アホたれめ。緊張してたのってのは、そういうことかよ、俺。
目を中心に体が熱くてしょうがなくなってしまった。あつい、あつい。どうしようもなくあつくてしょうがない。熱いのが止まってくれないんだ。
そんな緊急事態再びだったから、転がり落ちた椅子の下で落ち着くよう祈るのだった。
△
なにがまずかったのか、何一つ分からない。よちよち歩きがやっとな子供が小枝一本で何をやらかすのか、誰も想像が出来ないように。あたしも何も想像すらできていない。
地面にその子の心情を表現するのか。または、鍵穴に突き刺してどうにもならなくするのか。小枝を指揮棒に見立ててあのトスカニーニでも演じるのか、それとも、小枝を剣に見立ててかのリベリでも演ずるのか。
本人には大層な意義があるだろうが、周りは微笑ましさ半分緊張感半分だろう。軽く左右に小枝が揺らされただけで戦々恐々だ。円を描くように動かされれば尚更だろう。大きく振りかぶりだしたなら、いつでもなんでも対処できる心構えをしなければならない。
だって、まずい何かをやらかされては困るのだから。怪我や損害、賠償、リスクはないのが一番なのだから。
「は~るにゃん」
まずかったこと学び直しながら保健室に遊びに来た。
そういう演出中のハルにゃんは静かに可愛らしく寝息を立てている。なるほどやっぱりこんだけ可愛いなら、この可愛い顔だけで付き合おうとする輩が湧き出て止まらないんだろう。強引にヤバそうなことをする輩は間引いておいてよかった。こんだけ可愛いなら男の子は群がるものだからしょうがないけど、もう少し頭の血流をよくして欲しい。可愛いから欲しいは幼児期で卒業しておくべきじゃないだろうか。
「程よい弾力でモッチモチ、そしてしっとりすべすべでいいお肌ですね~」
指でツンツンすれば触り心地のいい肌触りと、しっかりある皮膚の反発力。ナチュラルにしてあるだろうけど、それにしても綺麗で可愛くて素敵なお顔だ。
「みくるとは別ベクトルの可愛ゆさだもんね~?」
笑顔がとってもキュートなのは勿論、ご機嫌斜めでもバッチリキュートは羨ましいな。女性の不機嫌は同性から見ても面倒くさいなとまず思うものだから。そういうのをよく見て、学んできたのだから。品よく不機嫌を見せるのは肩だけでなく体全部が凝ってしまうものだ。
「みくるもハムスターっぽい可愛ゆさとねこちゃんっぽい可愛ゆさあるけど、ハルにゃんは二:八だねぇ。げっ歯類のそこもまた良いよねってとこと、ねこちゃんのだからこそ良いよねで出来てるんだもね。そりゃあ可愛いからほっとかないよ、世の
げっ歯類はかじる生き物だ。木材をかじるし、場合よっては人もかじる。勿論出血するケースもあるし、それがもとで死亡例もある。習性だが、その癖を減らすことは可能だ。かじったら良くないことがあると教え込めばいい。
猫は自由な生き物だ。爪とぎは目に付く全部でするし、夜中こそ大変になる。習性だからしょうがないが、根気よく付き合えば妥協してくれる。やらない方がマシだよと教え込めばいい。
だとしても教え込んだ挙句に、やらかしてしまう。しょうがない、動物なのだから。そのやらかしている時が一番可愛いならもうしょうがないしかないのだから。
「有希なら~…四:六? いや、六:四かな? 普段がねこちゃんみがあるから、どっちもありなんだよね~」
役を頑張っているハルにゃんは寝返りを打つだけだ。会話してくれない。話し相手は今誰もいないのだから。だから、こうしてしゃべり続けられる。
「佐々木ちゃんは七:三だね。間違いないよ、あれは。カピバラ系の子だよ、あの子は。喜緑ちゃんは……絶対八:二。ライオンとかタイガー系の肉食女子じゃないな、あれは。キョンくんの妹ちゃんは、どうしよっかね~……子供だから大目に見て五:五にしとくか」
可愛い子たちだ、どの子も。彼氏いたことないですっていったら絶対嘘と百人中百人全員が断言するクラスの美少女軍団だ。一人一人がワンアーミーな戦闘力持ち。世界平和待ったなしじゃないか。
「んっも~っ!! この美少女ちゃんたちめっ! あたしの特技が害虫駆除になっちゃうじゃないか!」
やりたくないけどやらなければいけないなら、スリッパでもマ○ジンでも使って退治できる。でも、やりたいからという言葉はない。やりたくない。汚くなるし気持ち悪いから。人間の生態系でも誰かの栄養になるならと駆逐できないから非常に口惜しいけども。
「ま、必要なら言いなよ。なんとかしておくからね」
可愛い子たちの愉快な様子は邪魔できない。
サーカスを始めエンターテイメントは幕が上がれば閉じるまで観客は、ゴミを投げつけることもコインを投げることもしてはいけない。どんなものであれ見始めたら終わるまで何もしてはいけないのだ。マジックショーのように観客参加型もあるけれどアレもエンターテイナーからの仕込みだから別物だ。観客は劇の一部ではない、どこまでも観劇する立場にしかいられない。夢の中で食べていたこの世で一番美味しいケーキは、目覚めたらスポンジの一欠けらも存在していないように。
「ハルにゃんは夢でも見てるかな~? 知ってる? お菓子を食べている夢って恋愛運アップする兆候なんだって、みくると見てた雑誌に書いてあったよ」
所詮バーナム効果だろうけど、という夢がない言葉はしまっておく。夢を見ている人に夢のない言葉は意味がない。むしろ、そんな言葉を聞かせてしまって悪夢なんか見てしまったら可哀想だ。
「その雑誌結構面白くてね。女性向け雑誌だけど男の子でも娯楽受けするんだよ。よくある女子受け、男子受けのそれぞれポイントとか書いてあるんだけど、見比べると全部矛盾になっちゃうんだよ。例えば、気にしてほしいならそっけなくしましょうって女子側に書かれていたら、男子側ではそっけなくされたら脈がないので諦めましょうとかね。すっごいめちゃくちゃじゃない? ライターもライターだけど編集者もこれにOKするのもどうなのさ」
よくあるタイプへのよくある対処法と、よくあるダメ出し。それがちゃんと娯楽として成り立っている雑誌だ。十種以上にタイプ分けにさらに対処も十種以上で、ダメ出しも十種以上。たくさん種別があるように見えて、結局バーナム効果に期待するしかない内容だ。それでもちゃんと娯楽品として成功している雑誌だ。
同じような女性誌でも、ここまで娯楽としてできた雑誌はないと思う。他のは、気休めな雑誌だ。モデルがおすすめの化粧品なり食品なり紹介しているが、あれはスポンサーの意向だ。雑誌に載せる言葉もスポンサーからの要望に応えた彼らの仕事の成果。仕事は娯楽にはなれない。だからこそ、最近定期購読も視野に入れ始めた、あの雑誌があたしは好きだ。
「確か今日が……発売日だ。う~ん、話してたら新刊読みたくなってきちゃったなぁ。確かここの先生も愛読してたからな~…、ちょっとハルにゃん保健室捜索させてね」
パーテーションを閉めてあたしは雑誌を探す。パーテーションをいちいち閉めておくのは男の子対策の一つだ。ハルにゃんはちょっとエキセントリックなところがあるけれど女の子。同性同士でも遠慮したいところがあるし、異性相手なら当たり前に遠慮すべきことがある。女の子はいつも可愛くて綺麗な自分を見せたいもの。ちょっとだけの汚れや傷でも絶対誰にも見せたくないものだ。デリカシーのない男の子は指導を入れることになる。
図書室ほどじゃないにしろ、保健室でも本を含めて雑誌が置いてある。基本は学校側が配慮したものなので、当たり障りのないものしかない。別のものは比較的分かりづらいところに置いてくれている。昔は堂々と成人画像集が段ボールを含めて保健室にも転がっていたらしいが、流石にそれはもう出来ないだろう。今もこっそりありそうな話だけれど、探しているのはただの娯楽雑誌。あたしも男向けのを読んでも困惑するだけだしね。
無事最新刊が見つかり、またハルにゃんのもとへ行く。
いつものあたしが好きなコラムを読んだ。右側に女性ポイントがあり、中央に男女の画像、そして左側に男性ポイントがある。相変わらず矛盾が凄まじい。右にプラスなことを書いているくせに、左に目をずらせばマイナスになっている。
画像も面白い。女性がうつむき加減に腕を抱えていて、男性は顔を上に向けて腕組みをしている。女性的視点と男性的視点をよくわかっているものだ。 女性からしたらこの男性の画像は、全然悩んでくれていないと感じる。でも、男性からすればとても深刻なんだとわかる画像だ。女性の画像の方も男女で違う見方になるだろう。だからこそ、指摘して改善するポイントが矛盾してしまうのが尚面白い。このコラムのライターは男女二人で担当しているに違いない。じゃなければ、ここまで面白くなりっこないのだから。
「キープ女子からの脱却法か。ふふ、相変わらず矛盾だらけじゃないか。全然好きじゃないアピールした方がいいのに、男から見ればまったく好きじゃないって思っちゃうって、意味ないこと書いちゃだめだよ」
本当に面白い。このコラムを読んで実践した人はいるんだろうか。万が一、実践した人がいて成功を収めることができたのは一つまみもいないだろう。たとえコントローラーで動かされているとしても、ボタンを全部押されてしまったらキャラクターはまともに行動できるわけないのだから。
「ちょっと風強いかな。ハルにゃん、そろそろ窓閉めちゃうね」
肌寒くなってきた。ハルにゃんは風通しがいいところで眠り姫をしているから、このままでは凍えてしまうだろう。そう声を掛けたら寝返りを打った。勢いがあったのかタオルケットが床に落ちる。これをまた使わせるのはどうかと思ったので、後ろのベッドに置いてあった方をかけ直しておいた。
「いい柄だね~」
アイスクリームまみれのタオルケットだ。ちっちゃい子が喜びそうなタオルケットだった。
床に落ちた方を洗濯用にしておいて雑誌を読み直そうと思った。が、足音が聞こえた。聞きなれたその大きな足音にあたしが咄嗟にできた行動は、後ろのベッドに隠れてしまうだけだ。この子よりあたしの方のパーテーションを一生懸命閉め切った。
大きな声で保健室に来てしまった彼に気づかれないよう、一生懸命に息を殺していた。
→
普段の彼とは違う声の出し方だ。普段の彼は自由気ままなマイペースという性格の所為か、ゆったりふわふわしている話し方をしている。彼の幼馴染であるキョンくんが的確な喩をしてくれていたが、確かに気の抜けた風船みたいだ。それも完全に空気が抜けきっていない、宙に放るとそれなりに浮く風船だ。
声変わりはしているがキョンくんのようなしっかりとした男性的な声ではないし、小泉君のようなテノールといわれる青年声でもない。青少年声とでも言うのだろうか、十代中頃の少年らしい声だと思う。
この声で小学生ですと言われると、誰もが違うと言うだろう。かといって、高校生なんですと言うなら、大半が見栄を張っちゃだめだよと宥めるだろう。しかし、実際男子高校生をしている。ちゃんと進級して新入生から二年生になっている。
だけれど、見た目も相まってゲームセンターに一人でいたら大人に心配されるらしい。すぐ近くに彼の友人たちもいたのだが、営業中であるはずのサラリーマンのお兄さんたちにされたと笑いながら話してくれた。
そんな中年齢未成年に見える彼は、パーテーション越しでもしっかりした人のように感じる。人は第一印象でその人の全体を見るが、芯となる部分を見るなら声だ。
ぼそぼそ聞き取りにくい声で注意喚起をしても誰も耳を貸しはしない。無駄に大きな声で喚くだけでは誰もその人の何にも耳を傾けようとはしない。
それに比べて今の彼の発声は丸を付けられるだろう。捻くれたものでなければ、大抵の面接官が好意的になれる発声だ。あたしも面接官だったなら丸を付けられるだろう。前までだったなら、躊躇うこともなく付けられたはずだ。
今あたしは大きくバツマークを彼につけてしまっている。六項目の採点表で全部にバツをつけている。面接採用では面接官が合否を勝手に決めることが多い。個人的に気に入るから採用、気に入らないから不合格は誰でも何処でもある。贔屓がものをいう。贔屓されるよう面接官に気に入られたら勝ちだ。
だが、それは良くない。贔屓目に見てもまずいものでも遠慮なく採用されてしまっては、それらの上司や現場が難渋する。新人が初めから大活躍することはない。手ほどきをして指導して様々な経験をさせて、ようやく少しは使えるになるのだ。だから、普通の企業なら面接官の依怙贔屓をまず警戒する。依怙贔屓がよかった時代は、もうとうに過ぎたのだから。
なのに、どうしようもなく時代遅れの知遅れみたいなことをあたしはしてしまっている。
とりあえずダメという採点評価を書き直すことも破り捨てることもなく、彼にそう最低点を付けていた。あたしが生まれて今まであったどの人物よりも低い点を付けていた。難癖と嫌味ばかり付けて碌な案も出さない耄碌婆さんよりも低すぎる点数だ。今まで人にゼロ点なんて付けたことがなかったのに。
だって、よりによって近くに来た。
わざわざあたしが倒してしまった方を直して座ったのだ。お友達までの関係じゃないけれど、彼がわざとそういうことをしているぐらい分かる。自由気ままな子だけど空気の読めないどうしようもない子ではない。マイペースな子だけれどほかの誰かのペースを気遣えないどうしようもない子じゃない。
知っていてやっている。分かっててやっている。
保健室には三人いること、あたしがここにちゃんと一緒にいること、緊張をしてしまっていること。知らないわけない、そういう子だ。そういうところを。あたしはもう知っている。分からないわけない、そういう子だから。そんなところを、あたしはすでに分かっている。
学校の先輩と後輩。親友の部活仲間。知り合い程度の仲。それでも、友達以上もなく、友達でもない関係だけど、どういう子か知っているし分かっている。あたしがそうしているのを、彼も分かっているし知っている。
だからまた採点評価が下がるのだ。
ゆったりとふわふわした口調で同じような感じの話しぶりだ。北高の中でも探せば何人か同じような人は男女合わせているはずだ。
吹かなくても勝手に飛んでいく無個性。子供が必死に強請ったものの、すぐ別に興味が移って飛んで行ってしまう風船のように。そのままカラスやハトに遊ばれるでもなく、車で撥ねてきた小石に割られてしまう風船のように。よくあるもので特別興味を持たないものだ。
それにずっと聞き耳を立てている。
一音一音に耳の中の産毛まで過敏に聞き取ろうとしている。近くにあったタオルケットで全部隠れてしまおうとしているのに。ちゃんと洗濯して干してあるのだろう。しつこくない柔軟剤の香りが多少心に余裕を持たせてくれる。落ち着くためにその香りを求めると、別の香りであたしは少々変になりそうだ。
匂いには慣れるもの。さっき窓を閉めてしまったから、すぐ鼻はもう別の匂いなど分からない。そのはずだ。二人だけだったなら、そうでよかった。
他人の匂いがする。
異臭ではなく、他人の匂いだ。男の子くさい。汗臭いとか色々あるけれど、男の子のにおいだ。鼻をつまむことはないし、目に来るものじゃない。よく知らなくて分からないから、鼻が利いてしまうようだ。
その男の子くさいのが、またあたしに緊張を強いてくる。この男の子のにおいに的確な喩ができない。香水に関してそれなりにあたしも自信がある。いい香りだけどこの人には合わないぐらい分かる。香水はその人の体臭を使うのが前提のものだ。良い部分をさらに良くするのが現代の香水だ。でも、この匂いは今まで知っている素敵な香水とはまるで違う。男の子くさいのは、ちょっと別に良くないものだと思った。
なんだが、やたら緊張してしまうのだから。さっきよりもずっと緊張をしている。パーテションで区切られたこの距離感がただ苦しい。何故だか、まるで理解ができない。緊張を解そうと無意識に体が動いたんだろう。あたしのすぐ傍で、というかあたし自身がすごい音を出した。
まずい。
そのどうしようもないまずさを彼は気にしたふうもなく、男の子のにおいを撒きながら自分の何かを巻き込んでいる。
良くないもので、まずいもので、緊張してしまうものだ。どうしようもなく、どうもできず、どうしたらいいのか、何も分からない全く知らない。そんなどうしようもないのをどうにかしたくて、今度は自分で体を動かす。
何かが反射したのが、あたしの目をくすぐるように光った。鉗子台が蛍光灯を反射していたらしい。一瞬気をそらせてくれて心より感謝する。一瞬でも、どうしようもなく、どうもできず、どうしたらいいのか、右往左往もできないよく判らないものからあたしは抜け出すことができたのだから。
だが、それはどうにも一番まずいことだった。普段の生活上でなら何にもまずくない。良くもならず、どこにも気を留めることもないだろう。
今日一番まずいタイミングで一番まずい隙ができた。そして、今までで一番まずいことをされた。
聞かなければよかった。
どうして早くここから出て行かなかったのか。いや、そもそももう少し彼といち早く距離をたくさん取ればよかったのではないか。無駄な無意味な思考が止まらないように、あたしは近くに置いてあったツールボックスに足をぶつけた。痛みを感じる前に、彼に何をやられるかで緊張感が大変なことになる。
今すぐ振り向いてこっちに来たら、いつものようにケラケラ笑ってあげよう。
わざとあたしの名前でも呼んだなら、いつものようにノリのいい冗句でも言ってあげよう。
このままあっさり保健室からあえて去ろうとするなら、こちらもあえての先輩風でからかってあげよう。
何をやられてもやりかえせる。全部シミュレートして、完璧にこなせる自信があった。彼はひどい人じゃない、まずい人でもない。ちゃんとおふざけしてくれる。いつものように、いつもの現代っ子らしく、夢みたいな普通を気負わずにやってくれる。
そうあたしが計算した期待を彼は、どうしてか裏切ってくる。ひどいとは言えないけど、困ることを言っている。まずいのだけれど、不快すぎる意味でのまずさはない。
計算を間違えたからだろうか。式から間違えていたのだろうか。そもそも問題文を読み間違えていたのか。まるで意味の分からないことになっている。そして、影が濃くなったのを知ってしまった。彼がこちらを向いているのだ。
そこで出た言葉が本当に意味が分からなくて、胸のあたりからゆっくり絞られていくような感覚に陥った。痛くはなくて、痺れるでもない。不快感はなく、しかし快感もない。絞られていくというだけの未知のものだ。死への危機感や恐怖感などない、痛みもないので何も知らない分からないものだ。
ゆっくり自分の内で勝手に何かが絞られていく感覚は、普段なら恐怖でも感じるはずだ。それは微塵も感じていない。むしろその感覚があたしをどこか落ち着かせていた。
そうした所為で、あたしはとんでもないことに陥っていた。
彼の所為で絞られていたものが解放された所為で、体の中が炉のように熱くなっている。お神酒を飲んだ時の一瞬だけ火を差し込まれた程度にはなってくれない。焼却炉どころじゃない、これは。熔解炉だ。燃やすどころではない、熔かしている。プラチナが液体に代わるほどの温度だ。
言葉に詰まっている彼に、あたしの絞られていたものがどんどん高温になって溶け出していっている。彼のその先の言葉を、あたし自身で勝手に溶かしていってしまっているようだ。こんな、こんな死ぬほど暑くて死にたいほど熱いならどうすればいいのだろうか。
影だけでも口をパクパクとしている彼が見える。あたしはもう背を向いていられなかったんだ。
あとはもうぐちゃぐちゃで、勢いだけでなんとかしてしまった。保健室から飛び出てきたものの、すぐ足と腰が馬鹿になる。手先はまだ何とかなっていたから、階段の手すりにへばりつくことはできた。藁にも縋るという様だった。
「まずいよ、それはさぁ…っ!!」
思い出しちゃいけないのに彼を思い出した。
「まっっっずいんだよぉっ!!! シャドーくんてばぁっ!!」
誰よりも愛おしいと思う顔をしていたのだ。
あんなことの所為で、夕飯はお部屋に閉じこもり適当な非常食で済ませようと思った。
軍事オタクの親戚が調子に乗って買ったのを押し付けられたのがたくさん残っている。始めの一口に行かない時点で臭さがとんでもないやつもある。漫画かなんかだと思うけど食べることも修行の一つというのがあったが、確かにこれは精神が鍛えられるだろう。一口でも食べきればアメコミヒーローばりのスーパーアクションができるかもしれない。一缶全部食べ切ったら、あしたの○ーみたく真っ白に燃え尽きるだろうが。
保健室からゾンビのように動いてなんとか俺の教室らへんまで歩いてこれた。めまいを起こした人間でももっとちゃんと動けただろう。どこかのスポーツならPKが十も取れそうなくらいやられてしまったから仕方ない。
「シャドーくん」
「ぁい?」
聞きなれた声に俯いたままの顔を上げると、ちょうど妹ちゃんと目が合った。すっごい近い。おでことおでこがごっつんこしそうだ。
「あれ? 兄の方は?」
この子の後ろに目をやっても、憎らしいことに俺より十は天に近いフツメンはおらん。なんてやつだ。兄失格だぞ。
「おいてきたの~」
「置いてきたのか~」
なら、仕方ない。あいつはイエローカードにしておいてやろう。
俺たちもこの子と同じくらいの年の頃はまぁそれなりにきかん坊だった。学校に植えてあったあの赤い花の蜜目当てに、他の子と一緒に一日で全部吸い取ってしまった。ジャングルジムの最上階から如何にヒーローっぽく飛び降りるか競い合って、結果しばらくジャングルジムが封鎖されたこともある。
当然、先生にも親にもめっちりと叱られたもんだ。でも、楽しかったらしょうがない。悪いことだと分かっているけど、悪いことしたいのが子供なんだもの。
「こんなとこでどうしたの?」
「俺のセリフかなぁ、それは?」
「質問を質問で返しちゃダ~メなんだよ、シャドーくん」
「は~い、す~みません。俺はね~、自分とこで夕飯しちゃおうと思ってさ。だから、ここに来たんだよ」
「え~!! ご飯はみんなで食べるものだよ~、うちのお父さんが遅くなっちゃったらしょうがないけど、でもみんなで食べるんだよ! お母さんがごはんよ~って言うから、みんなでごはん食べるんだもん。ごはんよ~でごはん食べに来ないと、お母さんその人のおやつこっそり自分のにしちゃったりするんだよ。あたし前それでプリン食べられちゃったんだから~」
俺もやられたことがある。正確には幼馴染君とゲームで熾烈な戦いに長々と興じていたら、俺たちだけ食後のそしてはなかった。そのそしては何処かといえば、あちらの母様サイドにデザートらしいものが二つ以上並んでおったのだ。うちに幼馴染兄妹が来て同じようなことがあったりする。人類の祖は皆同じ、我らも皆家族だということだろう。よそもうち、うちもよそなのだ。
「いやぁ、それはそうなんだけどね。気分的にどうもなぁってのがあるから」
プライバシー侵害うんぬんや特別な事情がない限り、今の俺たちは一か所に全員固まっていてほしいものだ。長門と喜緑先輩なら、瞬きの間にハルヒを含めた残りの八人全員ひっ捕らえることができるだろう。たとえ、何かに遭遇してアクシデントがあろうとも指先一つで簡単解決のはずだ。喜緑先輩が言うには、生命の危機は基本的にないと見ていいですよ、といつもの微笑みで言ってくれたのだ、安心感が違う。
そういう心強い人のおかげで、プライバシーは守られている。女性陣のデリケートなアレソレが守られるように、俺たち男たちのアレソレも守られている。男は過充電してもいいことないから、うん。
「一緒に食べたくないの~?」
「食べたいけど、う~ん……元気、いや、勇気? それが今ゼロでさー」
「そうなんだ~」
やるべきことをやるには、勇気百パーセントないとやりきることができないのだ。ゼロに何を掛けてもゼロのままだし、一パーセントのひらめきのために九十九パーセント大惨事は許されない。
「じゃああたしに会えたから百パーになったよね! さっさといこ!」
「あぇ~…?」
「ならないの?」
「な、ならなくないけど、もう少し時間が欲しいかっなー?」
この子の期待を無碍にすることはできない。ほんの少し前、とても凄惨なことになったから。女心は男には永遠に理解できんのだ。逆も真理だろう。
「どれくらい? どれくらい待てばいい?」
「明日の朝には…? ダメですかね?」
「ま~てないっ!」
「だよね~…。でもさ、真面目に明日の朝ぐらいまで待ってほしいんですよぉ」
「や~だ、ごはんだよ~だから行くの、い~く~のっ!!」
「あぁ、ドナドナされるぅ…」
このお嬢様の色々は無下にできぬ。今度はもうやり直せないだろうから、言われるがままだ。目も開いてないほにゃほにゃ状態のベイビーからのお付き合いだ。それがいきなり縁切りなんてされたら、流石に俺でも挫ける。全部! 全部! 全部だ! になる。立ち直れない。
妹ちゃんに両手を繋がれてドナドナだ。この子が歩く練習するときもこんなだったなぁ。いきなりコケて急所を破壊されそうだったこともあった。ヘッドストライクもあれば本能的に何かに掴まろうとされて、少年から少女になりそうになったこともあったなぁ。この兄もよくなってた、その父も、俺のお父さんも、ほかの色んな殿方も。そいつは手すりにはならんのだ、流石に。
「なつかしいなぁ…」
「なにがぁ?」
「色んなのがねー」
「ふ~ん?」
あんよが本当に上手になってて、階段も上手に下りている。そんな負担はかけていないにしろ俺をドナドナしているのにだ。非常に感慨深い。お父さんってこういう感じなんだなぁ。お酒のツマミにこっそり俺の面白お菓子爆食いしてくこともある俺のお父さんもこうだったのかなぁ。家に帰ったらやたらカラフルで艶やかな名刺は、お母さんに全部渡しておこうと思った。
「はーい、あと一段だよ~」
「うん、そうだねー。あと三段あんのよ、お嬢さん」
「誤差だよ、誤差!」
「怪我しますー、ご注意願いますよー、ホントに」
「は~い!」
数字だけでみれば確かに誤差になるだろうけど、三段分なんて俺の足裏から膝まである長さ。足を踏み外せば捻挫以上なことになるだろう。お年寄りじゃなくても頭を打って、の確率が高い。あとで兄と教習しましょうか。
「お」
尻に振動。携帯のバイブレーションだ。妹ちゃんに断りを入れて携帯を丁寧に開ける。ここに来る前にこの子に致命傷に近いダメージを食らったのだ、ここに来ておしゃかは困る。メールらしい。とりあえず開封した。
「Re:それは見るんだ」
メールの文面と聞きなれた声が出した言葉は同じだった。
⇒AOUT OFF
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お夕飯後はファイヤーフラワータイムだ。ゲンコツ広場で俺たちは花火を使って酣している。
妹ちゃんが花火をしたいと言い出したのが始まりである。図書室に漫画は置いてあるし、視聴覚室でいろんな映画やアニメも見れるが物足りなかったようだ。
図書室は学校が認可したものしか置いていないし、視聴覚室も置き忘れ以外アニメも教養系のものしかない。そう、俺たち子供向けのくせに子供には全くつんまんねぇのばっかだ。
こっそりネクロノミコンが、なんてのもあるわけない。だとしても、もしかしたらこの不可思議空間ならば存在していたのかもしれない。ま、あったらあったですぐさま処分されているはずだ。教養がなくなるどころか狂気の門を開くのはアカンだろう。きっと諭吉もそこは無学でいいぞって言うだろう。
だからこその花火だ。
花火は見ているだけでも楽しいが、手持ち花火でたっぷり暴走するのが一番楽しい。広場なので一応水場があるし、学校内部になるので消火器もちゃんとある。なんかあったら対処は任せろと長門たちにも言われたので、遠慮なく花火で遊んでいた。
それにしても、無限ガシャポンも不思議だ。
妹ちゃんの意思に必ず沿うようにできているのか、食べ物以外もこの子の望み通りポコポコ出る仕組み。俺たち男子や女子はたまに大外れを引いたりするが、この子だけは外れなし。可愛い子を無碍にしない優しいガシャポンだ。俺が同じくらいの頃は、夜店大当たり商品のパチモンゲーム機にお年玉全部使って泣いていたのに。大人って汚いよ。
「ねずみ花火ってさ、本当にネズミこんなちょこまかするの? ト○とジェ○ーは本物なの?」
シャミセンがネズミのおもちゃで狩猟本能全開で遊んでいるのは見たことあるが、本物のネズミがちょこまかしているのはちゃんと見たことがない。祖父母のいる地域では割とどこでも見れるらしいが、俺はちっとも見たことがない。
「実際のネズミってチーズ食わないんだってよ。チーズかホウ酸団子だったら、普通にホウ酸団子に飛びつくらしいぜ」
「えー、うっそだー。だってさぁ、キョンくん、ホウ酸団子って毒なんでしょー? 毒だから食べないでね、ってお母さんとお父さんにも言われもん。絶対チーズのがおいしいのに毒食べちゃうのー?」
チーズは美味いよね。ピザもグラタンでも美味い、サラダに添えてあってもまた旨い。デザートに入っていてもまたまた美味い。チーズ単体でも美味いのだ。チーズって無敵な食べ物じゃないだろうか。
「ネズミさんは雑食だからチーズも食べるの。でも、チーズを知らないっていうネズミさんはチーズ食べないの。ほら、おいしいって知らないといくらおいしそうに見えるものでも食べようって思わないでしょう?」
「あたしお菓子なら何でも食べるよ!!」
「うん、お菓子おいしいもんね。でも、お菓子といえば、もうおいしいってわかるじゃない? たとえば……エルブ・ド・プロバンスって聞いておいしいってわかる?」
「わかんない。食べ物じゃないんじゃないの? それはズ~ル~だよ、佐々木ちゃん~」
「ふふふ、ズルじゃないのよ。エルブ・ド・プロバンスってね、スパイスなの。カレーみたいにたくさんのスパイスを混ぜたのをそう呼んでいるの」
「カレーと一緒なんだ。じゃあ、絶対おいしいよね!! その、えるぶどぷ………なんとかって!!」
「うん、カレーと一緒のものっておいしいと思うじゃない? でも、さっきはカレーと一緒のものってわからなかったよね? だから、おいしいってわからなかったし、そもそも食べ物じゃないんじゃないの、って思ったよね。ネズミさんもそういうことがあるんだ。おいしいってわからないな、食べ物じゃないんじゃないのかなってものには手を出さないの」
「へー、佐々木ちゃんすっごい物知り~、博士だ~、ネズミ博士だ~っ!! ダーウィン賞絶対取れちゃうよ、佐々木ちゃんなら!!」
「あはは、その賞は辞退しようかな~」
と、妹ちゃんと佐々木が和やかに話している。しかし驚いた。佐々木ってちゃんと子守ができるんだ。ダーウィン賞の意味がよく分かってない妹ちゃんに、俺らの佐々木なら嫌味の五百は即座にぶっ放していたのに。あの番組から出てきたんだと思うけど、賞になっちゃうと罵倒どころじゃないもんね。
「実際どうなん?」
「佐々木の言葉通りの研究結果がある。ネズミは環境変化に敏感な生き物、新奇性恐怖を持っている。これは人間でいう”食わず嫌い”に似たものであり、普段から食べなれているものを優先的に食べる傾向をネズミは持っている。あえてチーズを選ぶのなら、ハツカネズミといった穀物などの植物性の餌を好む小型ネズミよりも、肉などの動物性の餌を好む大型ネズミのドブネズミの方が可能性は高い」
「ネズミ=チーズが好きというイメージで出てくるあの穴あきチーズ、いわゆるエメンタールチーズは生のままだと比較的固いものです。中世のヨーロッパではあの穴だらけになったのをネズミが齧ったとしていたようですよ。実際は気泡の結果になりますが、本当にネズミがそのチーズを齧っていたこともあるそうです。ですが、ネズミといったげっ歯類は前歯が一生伸び続ける生き物ですからね。餌というよりも、その歯を削るためのかじり木として使っていたのかもしれませんね」
補足の二人にまた感心する。長門と古泉は本当に博識だなぁ。俺と幼馴染君のただの知ったか雑学とは違った知性が輝かんばかりだ。隣の幼馴染君もへ~おもしろいな~という顔で頷いている。
「ネズミといえば、この間ハリネズミの可愛いお菓子見つけたんですよ。味もとっても美味しくて、チーズクリームなんですけど濃厚なのに重たすぎなくて、でも甘さが物足りないってこともないんですよ。味的にシェーブルタイプなんでしょうけど、どういうふうに作ってるんですかね」
「─────というお店ですか?」
「お? 喜緑さんも知ってるのかい? 最近出店したばかりなのに目敏いじゃないか」
「スイーツ巡りは女の子の嗜みですからね。休日問わず暇があれば巡礼の如く巡り歩いてますよ」
「へ~、そうなんですか。あ、じゃあ前できたベリー系が主力のお店の────────ってやっぱり一番お勧めになりますか?」
「無難に行くなら、でしょうか。それでも、お店に行ったなら季節限定がやはり一番ですよ。ですが、数量限定なので三十分も持ってくれないんですよね。予約もできませんし、定期的に通っているんですが季節限定が食べられたの二回もないんですよ」
「限定ってついてる時点で、皆食べたいになるだろうしね~。今の季節で即完売になっちゃうなら、ベリーの本番の冬とんでもないことになりそうじゃないかい? ほら苺ちゃんが一番おいしい時期になるからさ」
「ん~~っ!もう夜だから食べちゃいけないものに、食べたくてしょうがなくなっちゃいます~」
「苺はだめですよ、鶴屋さん。反則ですから」
「あ~そうだよね~、苺は最強だもんね~。間違いなく反則だったよ、ごめんね、みくる。明日苺のショートじゃないケーキ食べていいから、花火で苺作るの落ち着いてよ」
「それはカロリーがぁ……」
と、可愛らしいお話をしている先輩女子様方。皆して手持ち花火で多種多様な分かるものとよく分からないものを宙で閃光させているが、この中で断トツ一番に何かを描けているのは朝比奈先輩だ。元々は書道部であったらしいし、手持ち花火さばき自体も絵になるお人。というか、喜緑先輩もそんな娯楽趣味あるんだ、知らんかった。
「で、お前何書いてんの? わさび大福? 唐辛子饅頭? ジョロキアの塊?」
「たとえ夜中でもその三セット食べようとしないよ。何も書いてないよ、ただなんとなく丸丸丸って書いてるだけ」
激辛マニアではない、俺は。面白いのが好きであって辛いのがとっても大好きではない。中○とか大好きだけど、あれは食べ物として大好きだ。面白いから好きなのではない。
「団子描いて~、シャドー君」
「いいよ、三兄弟しとく?」
「百人兄弟にしよっ!!」
「凄まじいな、そいつは……色々とよ」
ギネスでは一人のお母さんが六十九人ぐらい生んでいるらしい。四十年間で六十九だ。頑張りすぎ、旦那さんの方もな。グランドマザーになっているであろう年齢で更にまた子供を産むのも、そのための行為も大変すぎると思う。俺でもちょっとヤンキー残っている三十少しの人妻までなのに、凄いよね。
「やべぇ、一人書き終える前に一人消えるんだけど」
「”人”をつけるな、惨くなるだろ」
「百人はやく~」
「ヘルプ」
「OK」
「がってん」
六爪流な男どもで必死に頑張った。無理だった。男は自力で子供産めないんだから、しょうがないよね。
→350 鶴屋視点
「六爪流でも二十人もできねぇんだけど」
「”人”はやめろって、あほ。つかよ、閃光って三秒も持たねぇから百人もできんぞ」
「三秒間ぐらい時を停められたらよかったんですけどね」
おあほなことをしている男の子たちだ。打ち上げ花火くらいの大きさなら百人程度簡単にできるだろう。が、手持ち花火でしかも三人だけではまともにこさえることなんてできるわけがないのに。
「蛇花火を百人並べて点火でいいか?」
「へびさんは人じゃないんだよ、キョンくん」
「点火したらニョッロニョッロ人間に変化するよな。手足くれよ」
「蛇足ってやつですね」
蛇花火をかき集めだす下級生君たちとそれを見守る妹ちゃん。どっちが子守をしているのかわからない。
「君はもうちょっと離れていようね。シャドー、もっと人らしくしてくれよ」
「俺に対して言ってるのか、お前は。そもそも花火で人って何だよ。粋とか江戸っ子的なの? がんばれゴ○モン?」
「彼がバラまいている小判の貨幣価値十万円ほどだという。ある文献では、大工の年収が約三四三万ほどだったようだ。現代のサラリーマンのように一般的な職業さ。そして、夫婦と子一人の家庭で最低でも一年で百五十万は使っていたらしい。年収の半分もだ。凶作や天候によって更に出費があっただろうね。なのに、ゴエモンは百も二百もバラまいていてる。ゴ○モンインパクト使うときはさらにバラまいている。一枚十万もするのに、さ。江戸時代初期だったなら、小判一枚だけで一か月暮らせたほどなのに。やれやれ、なんとも豪気なことだ」
「一ヵ月一万円生活?」
「……おい、そこの。妹なのにもっとマシな番組見せてあげられないのかい?」
バラエティ番組に教養なんてものを求めるなんて、マキャベリだって思わないのに。佐々木ちゃんは人に夢見がちな子なんだね。その子に話しかけるだけで楽しそうで何よりだ。
「監督はそこのだから」
「シャドー……」
「マネしちゃいけないのは二人で教え込んでます~」
妹ちゃんを後ろに下げて、しゃがんでいるその男子の両耳を引っ張る佐々木ちゃん。年頃の少女らしく、男の子で遊びたくってしょうがないらしい。どうにも微笑ましいことだ。とってもわざとらしく、いたいいたい、なんて言う君は、もっと痛がってあげるとその子も喜んでくれるよ。
「○口のプリンのでレンジ死にかけたのは、監督が悪いです」
「それは確かに監督不行き届きですね、引責辞任しましょう」
「シャドー」
「美味しいの作るから待っててねって言われたら、待てしなきゃじゃん。見送ってくださいよ」
「美味しくできたもん!」
「レンジいくらかかると思ってんだ、お前は」
「ぷらいすれす、って言うんでしょ?」
「プラスするわ、馬鹿。いや、マイナスか、これは」
「ぷらまいぜろってのだよね、シャドーくん!」
「……シャドー?」
「今度何か作るとき、必ず傍にいるからね」
大きな えー!!! という不服しかない声を出す子供。それを囲む少年少女。ドラマでよく見るワンシーンのようだ。
映画になっているS・Kのスタンドバイミーにもこっそりどこかに映っていそうなものだ。あれは少年たちのレモンの酸っぱさしかなかったり、コーヒーの苦みだけを抽出したような友情の一部があった。それは少年たちからしたらただの負の遺産になっていただろう。
でも、もう少し大人になったらゲラゲラ笑うことのできる思い出になっているはずだ。レモンの酸っぱさの後にある仄かな甘みを、コーヒーの苦さの中に確かな
それを鑑賞する側はどう思えるだろう。
共感性羞恥に襲われ、さっさと映画館から出て行ってしまうだろうか。食べかけのポップコーンや飲みかけのジュースを近場のごみ箱に投げ捨てる真似をしてしまうだろうか。千円以上はしたチケットとパンフレットをビリビリと破ったり、ぐしゃぐしゃに丸めてつぶしてしまうだろうか。
もしするなら、その鑑賞者は大人になってしまったからだろう。映画の子供達のどうしようもない子供らしさを、もう素直に感じ取れなくなってしまった大人になったのだろう。
見ていられない、子供でもそう思うシーンはたくさんあった。例えば、列車との鬼ごっこ、何をやっているんだと誰もが呆れて、早く何とかしろと誰もがハラハラする場面。大人ならそういう見方をするのだろう。
子供側はもっと単純な見方だ。何も考えずどうなるんだろうとワクワクドキドキハラハラと無邪気だ。彼らが大人になっていないからだろう。映画の子供と自分を重ね合わせてみる大人と違って、映画の子供と自分は無意識にでも別物として捉えているからだ。
大人から見ればどうでもいいものが、子供から見ればとんでもない宝物。逆もある。マニアでも認める名車を大人が嬉しそうに子供に自慢しても、その子供からすればどうでもいいことだろう。そんなお金あるならゲームやお菓子など、子供の欲しいものを買ってほしいはずだ。しかも、その子が乗り物酔いする子だったなら、言うまでもないだろう。大人の苦労を知らないからだ。
けれど、そんなこと思う大人も子供の苦労を知らないからそうなのだろう。
「どっちかなー、あたしは……」
大人として彼らを見られているだろうか。子供として彼らを見ていられるだろうか。
みくるとたくさんレモンのスイーツは食べてきたのに、何の味も思い出せない。あのウィークエンド・シトロンをつまみ食いしたってレモンの甘酸っぱさも分からず、おいしいお菓子味としか褒められないだろう。そもそも酸っぱいものだったかすら、全く分からない。コーヒーの味もだ。エスプレッソを出せれても濃くて苦いとしか評価できないかもしれない。今はカップの底が見えるほど薄いアメリカーノの味ならぼんやりと感じられるかもしれない。
おいしいものが分からない。実はまずいものなのかもしれないが、そのまずさすらはっきりと分からない。どうすればいいのか、何も分からないあたしがいた。彼らから離れて、いた。
「やっぱり、鶴屋さんも悩みますよね~?」
「え、うん。そうだね。どっちもおいしそうだからねっ!」
「組合わせが悪いと台無しになってしまうものですけどね。おいしいものがおいしくなかったは、悲しいですもの」
「そ、うだね~」
話を聞いていなかった。が、なんか紛れたらしい。色んなものをかみ砕いている最中だから、肺が熱を持ってしまっている。喉に来るまでの空気すらも、だから熱いのだ。
「おいしいのがいいよね」
まずいものなんて誰も欲しがりはしない。
ゲテモノマニアという連中だって、何のコメントもしようもないただまずいという代物に金一封も出さないだろう。バラエティ番組で求めていない気まずい沈黙は放送事故だ。番組のプロデューサーやディレクター、脚本家などといった美味しいものを作ったつもりの人たちが、視聴者やスポンサーにまずいと思わせるものを作ってはいけない。まずそうだけどおいしいのかもしれないが及第点。まずいけどおいしい、と思わせなければ視聴率もスポンサーも誰も良くならないのだ。
「そうですよね! やっぱりおいしくないと、ダメですもん!!」
みくるの笑顔に肺の中の温度が下がっていく。安心したというか気が抜けたからか。肺は炉のような温度だったようで、平熱になるまで下がってくると肩や背中がカチカチに凍ってしまうほど寒く感じてしまう。まずくはないけれどおいしくないことだった。
「そうですよね、おいしい方が絶対に好いですもの」
喜緑さんの微笑みは暖かそうだった。冬場に飲む自販機で買ったホットレモネードのように落ち着く。冬場のホットコーヒーように体の芯を温めてくれる。今はそれが遠い出来事にしか感じなかった。まずいかどうかすら分からないのだから。
「うん、そうだよね」
まずいものが、どうしてまずいかすら今だけは分からない。今話している二人の向こうにいる彼らを見ていて、おいしいということもまともな批評ができそうになかった。うちのコックにいつもたくさんの語句を使ったおいしいものをありがとう、という言葉も一句も出ないだろう。そもそも、一口も手を付けられないのではないだろうか。
少年たちは楽しそうだ。なんだかギャーギャーと騒がしいが、不快に思う要素がない。老若男女誰もが騒音としか思わないはずなのに。雷親父という御仁が近場にいたら木刀や竹刀をもって怒鳴りくるくらいだ。
煩わしいものだ、気に障るものだ、心に来るものだ。今のあたしも、少しはどこかにそれらを隠している。
羨ましいからか。そう考えたが、そうではないと判断した。彼らを見て肺が重く煮えるように熱くはならない。ただ単純に目に痛いからだろうか。そういうわけじゃない。彼らを見て目は痛むどころか、瞼の裏までじわりじわりと潤んでいくあたしがいる。
「そーれはまずいザマス~」
その彼の声に心が消えてしまいそうになった。
何に対してそんなことを言うのだろうか。もしかしてあたし以外の誰かにそんなことを言ってしまったんだろうか。特定の誰かに、誰でもいい誰かにそう簡単に吐き出せる言葉なのか。
また、よくわからない。
まずいと簡単に吐き出せたらよかった、彼のように。彼のように、気の抜けた風船のような彼のように、自分を誰にでも受け入れさせる不埒さがあればよかった。
彼がこちらへ体ごと向きそうになっているのを見て、慌てて目をこちらの二人に戻す。
「ふふ、悩みますよね。それでは、鶴屋さんならどうします?」
「いつもあたしのオススメにお付き合いさせちゃいますから、今度は鶴屋さんの番ですからね」
あぁ、本当にもうよく分からない。ただいまいちと感じている。そのいまいちの後に何かが続くべきなのに、頭の中ですら続きが浮かばない。
「うん、そうだね」
それを言い訳の一つにして、あたしは生まれて初めて適当な返事をした。
→
「あれ、ロウソク死んでね?」
「こいつ寿命もうなかったっけ」
「ひどい会話ですね」
火周りは男の仕事。その火のための、あれやこれやそれやなんやかんやの準備も男の仕事。
とにかく、三個ほど用意していたロウソクの内二つが、いつの間にかマウスのくしゃみでも消せるようなか細い命になっていた。風よけに使わせてもらった鉢植えを覗いてみると、儚さ満点に消えていった。ロウソクの芯が水没しているらしい。いや、水じゃないからなんだろう。ロウ没? 多分あっていると思うロウ没に二つともなってた。
「ロウ没してた」
「水没でよくねぇか?」
「もう一本で溶かしましょうか。でも、こちらも中々危なそうですよね」
ロウ没していた二つより元気そうな灯だが、点けはじめたときに比べて圧倒的にか弱い命。風よけしていてもその間近で遊んでいた俺と幼馴染兄妹の仕業だった。色が混ざるのが楽しかったからしょうがないのだ。
「意外とロウソクってすぐ死ぬんだな」
「在庫あったっけ?」
「あー…何個かあるのですが、折れちゃってますね」
慎重に運んできたつもりだったが、残りがボキボキになってしまっていた。使えるなら使えるが、ちょっと心配になる感じになっている。残っている花火は線香花火とあと他少しだ。残っている一本でなんとかなりそうではある。そこらに勝手にポップする自販機で当たれば余裕かもしれない。
「ちょっと当ててくるわ」
「ダメ亭主の奴じゃねぇか」
「賭博の確率論はただの撒き餌ですよ、シャドーくん」
どいつもこいつもに、俺の”当たり”への警戒がされていた。
流石にそんなデスティニーはないだろう。狙っていないし、望んでいない。そもそもロウソクの面白いものってなんだよ。点くようで点かないじゃないだろうし、火はつくけど一瞬で蝋が解けちゃうよ、とか? チョコエッ○みたく蝋が解けたら謎の生き物が出るんだよ、とかなの?
. 運命にも愛された女神様と本気で当てに行く
.. 約束された運命の女神様とデスティニーしてくる
「じゃあ、鶴屋さんと当ててくるわ」
夕飯時も妙に適当にされたのが根に持っているわけじゃない。別に悪い意味の嫌がらせみたいなことはなく、適当だった。うちのお母さんが冷蔵庫の中身をとりあえずフライパンで炒めて醤油で味付けしましたなおかずみたいに、適当だっただけ。おいしいっちゃおいしいが、別にしてほしいものが多いものだあれは。もったいないだろう。まずいわけじゃないのが、逆にムッと来るのだ。
建前としては金運を分けてもらう的なのだ。鶴屋さんは、ご実家が古くからのお金持ち。よくある三代目で没落なんてしておらず、今現在も裕福であらせられる本物のお嬢様。どこかの手ごわいシミュレーションゲームじゃないけど、金運も受け継ぐことはあるはずだ。
俺がサイコロを一回投げて四を出せる確率は六分の一だろう。これまでで人生ゲームといったサイコロ遊戯で俺の順位といえば、いくら頑張っても精々ビリではないところまでだ。ほぼビリだ。どこかのファラオ様のようにテクニックを使えばいいが、そこまでしてゲームに勝ちたいわけじゃない。顰蹙を買ったし、俺も。
そうなのでじゃんけんでズルをしないで絶対勝てる確率もおんなじ感じで、運任せにしかならない。映画か漫画かは忘れたけれど、人同士の駆け引きなど関係なくイカサマで必ず勝敗が分けられる技を見たことがある。ダーティーでダークなものだ。あれだから、シノギという通称があるんだろう。一時凌ぎ、その場凌ぎ、当座凌ぎ。人生すべてを賭けて一旦はなんとかできたは割に合わない。
だからこそ運命に愛された女神様のお力を賜るべきだ。四十二枚のトランプから必ず目当てのものを当てられるだろう、この女性に。ここにいる鶴屋さんならば、とんでもないハズレもそれを元手に大当たりできる。そう信じているから、呼んでいるんだ。
「え~、あたし~?」
信じているから、呼んでいる。賭博ではないので、この確率論は撒き餌じゃないのだから。
「お願いしますよ、だってこいつら皆”当たり”持ってくるって確信してるんですもん」
ガシャポンに愛された少女すら、そういう顔だ。ある意味でのプラスな期待顔だから少しは救われる。その信頼感に肺の中の空気が澄んでいく気分だ。
「”当たり”は確かにあたしも欲しいね。でも、今は”当たり”じゃないのがいいからな~」
そう言って朝比奈先輩の肩を抱く。
「運命に愛されたみくるも一緒に行こうか!」
「いや、朝比奈先輩はいいです。鶴屋さん行きましょうよ」
「あはは、フラれちゃいました~。い~いな~、鶴屋さんは~」
むしろ俺がフラれたみたいだった。特に刺のような痛みもなく俺は鶴屋さんへ近づいて、またお呼びした。朝比奈先輩は社交界のお嬢様の如く、華麗に鶴屋さんから脱出していた。そして鶴屋さんは他の盾前を探し出している。
「ん~とぉ、っじゃあ喜緑さんも行こうよ。もしかしたら二回目が”当たり”で出てくるかもしれないよ?」
「そうしちゃったら、本当に”大当たり”来ちゃいそうですから、喜緑さんはお留守番願います」
「私は運命を自分で掴みますから、お二人でどうぞ」
割れてしまったロウソクを長門と古泉と佐々木で整理しながら、お断りされた。仕方がないとはいえ、多少困った顔はしておく。
「ガシャポン好きだよね、有希!」
「早く行くことをお勧めする。大丈夫、当てればいいだけ」
「さっさっきちゃん、行こうよ!」
「彼は”ハズレ”でもとんでもなくなるので行きません。鶴屋さん、頑張って当ててきてください」
ここぞという信頼に胸を打たれた。普段の悪食がここで生きた。今なら紐飴で一番おっきいのを当てられそうな気分に浸る。
「行かないの~? 夜の校舎怖いもんね~、あたしがついってってあげようか?」
妹ちゃんが俺の手を握ってお姉さんぶってくれる。怖いっちゃ怖い。怖くてどうしようもない。だから道連れを選んだんだ。
「君とだと一緒に迷子になっちゃうかもね。この年で迷子放送は嫌だなぁ」
「んもうっ、それは昔話なのっ!! もうこんにゃくものがたりなのっ!!」
そんな昔ではないんだけど、たった三年ぐらい前の話。一緒に迷子になって、迷子放送されてそれぞれ発見された過去だ。幼かったから仕方がない。
「僕たちは先に辞退しますね、中りたくないので」
「棒にあたるどころじゃなくエスカリボ○グに当たるからパス」
熱い友情だ。コンセント差し忘れた魔法瓶並みに熱々だ。
「あ~も~、そんなにあたしと行きたいのかい、シャドーくんってば。こんなリトルエンジェルちゃんもいるってのにさぁ?」
俺のパーカーのポケットに両手を突っ込み、暴虐の限りを尽くしている妹ちゃんを宥める鶴屋さん。へその周りを連打されて内部にまでダメージが蓄積している。まぁ、これからのことに比べたらなんてことはない。確率半分もないのにクリティカルを決められるわけじゃないから、何も問題はないのさ。
妹ちゃんの両肩に手を置いて目線もちゃんと合わせてあげている。何があってもなんとかしてあげるという優しさがあった。それでも、腰が引けていつでも俺から緊急離脱しようとしている鶴屋さん。
「うん、俺は女神さまと行きたい」
「ん~~~」
「こいつ変なとこで意固地なんですよ。目当ての菓子パンがなかったからってその日全部使ってそれ探しした奴ですから、諦めてください鶴屋さん」
「あぁ、マジな事実なんですね。そういうところ二回ほど見ましたが……いやぁ男の子なんですね、シャドー君も」
「お前が”男の子”というとなんか尻がキュウゥゥッ!!てなるからやめろ」
ナイスアシストだ。過去に築き上げた偉業は実ったようだ。どちらも妙に面倒臭いという顔がいつも以上な気もしたが、気にしない。
「おひきわたし~」
「はぁい、受け賜わり~」
妹ちゃんも飽きてきたようで遠慮なく鶴屋さんを手渡してくれた。逃がさないように鶴屋さんの手をしっかり繋ぐ。そうしても鶴屋さんはいつも通りにしていった。小憎らしいことに。
「しっかたないね! この鶴屋さんがこの子の引率を任されてあげようじゃないかっ!! みんな~いい子で待ってるんだよ? さもないと……めがっさで、めがっさな”大当たり”を当てててきちゃうからね!!」
お返事のいい皆を後にして俺たちも目当てに向けて歩き出した。鶴屋さんはみんなへ手を振りながら歩いているから、足が遅い。ムッとなった。それを察した彼女は一応足を速めてくれる。遅い。ムムッという気持ちが俺の足に出る。彼女よりわざと足を遅くした。そうすると流石に普通に歩いてくれた。
「ね」
やっと話しかけてくれるらしい。俺も話したいから振り返った。
「手、いたい」
葉擦れでもかき消されそうな小さな声に、残像が見えるほどの速さで俺は自分の手を離した。本当なら帰ってくるまで離す気なかったのに。蛍光灯と夜だからか、またどうしようもない緊張感が起こったせいだ。びっくりもしている。振り返るんじゃなかった。
好きな人が怯えていて、嫌がっている。
俺は運命にすらどうやっても愛されないようだ。
→353
嫌な気持ちだ。
嫌な気持になっている。
嫌だ嫌だ、とみっともなく喚いて吐き捨てたいくらいにあたしの全てが嫌でいっぱいだ。もう零れるほどにいっぱいになったコップを、ちょっとズルして零れないよう止めているだけの状態。
声をかけないでほしい。見ないでほしい。近寄らないでほしい。嫌で嫌でしょうがなくなるから。そのしょうがないと思ってしまう自分自身がまた嫌で嫌でしょうがなくなる。
そして、また同じように全部が嫌で全部しょうがなくて、でもしょうがないはまずいこと、そう思うこともまたまずいこと。そういう堂々巡りだ。
不愉快。
とある会食で下世話なことを言う年配者よりも圧倒的に不愉快だ。どうして一緒にいないといけないのか、どうしてこの人といなければいけないのか。その考えだけが自分の周りを囲むように存在していた。
だから、拒絶をする。そういう意味での言葉を発した。
負の感情からくる拒絶を理解したらしい彼は、振り払うように手を離した。流石にそれはまずいと判断してくれてありがたい。手を放してくれたおかげで距離をとれる。では、このままあたしだけみくるたちの元へ戻るということはできないだろう。あたしだけならやってしまったという空気は簡単に消せる。だが、彼にはどうやったって出来ないだろう。そういう経験がないのだから。
用を済ます間に、彼をある程度取り繕えるようあたしが同行しなければならない。あたしに拒絶された彼は、普段なら大笑いしてあげられるほど青い顔だ。真っ青、血の気が引いているらしい。ざまぁみろと思うが、顔には出さなかった。少し間をおいて彼を追い越す。
「さ、行こうよ。当てないと帰れないよ」
君が皆に言ったんだから、と付け加えて先を行った。少し戸惑っていたものの、いつも通りの声で急かせばちゃんと付いてきた。
距離を離して付いてくる。後ろを向いて確認しなくても感覚からそれぐらい分かった。
みくるとあたしのスーパー仲良しがほぼゼロ距離、他の友人がA二サイズ、知人でAゼロ。それぐらいの距離感を求めるし許容できる。今の彼とは模造紙三枚分の距離がギリギリだ。
もうそれ以上近寄られたくないのだ。
夜でも校内は明るかった。肝試しでもこれだったらつまらないな、と思いながら自販機を探す。いつもの自販機なら飲み物だけだ。紙パックだけとか紙パック以外はあるという飲み物専用自販機が今さっきもあったが、目当てはそれじゃない。食堂に行けば学校で許可されたお菓子やそういうフレーバーの栄養補助食が買える。
今に至っては他のも当たるのだ。みくると面白半分で遊んだら、ブラックアイボリーが出てきて一緒に変な声を上げたことがある。流石に人数分はなかったので二人だけの贅沢をした。他にもなんだかお高くて良いものが当たった。
みくるはハズレを引いたりしたが、あたしにはそれがなく景品は他の皆に渡したのだ。小泉君にはボールペン、佐々木ちゃんにはボディブラシ、キョンくんと妹ちゃんにはお菓子、有希にはフェイスブラシ、喜緑さんには扇子。
何故か本当にいいものばかりが当たってしまう。そこまでしてしまうと流石にもう面白半分でもできなくなった。欲が深すぎれば溺れ死にするものだ。
またさっき通り過ぎた自販機で何か購入すれば、また良いものが当たるのだろう。不思議なことに自販機が電柱の間隔でよく設置されている。三十メートル間隔でこんなに凝ったものをよく設置できるものだ。犬も歩けば棒に当たるじゃないが、とんでもないことだろう。現代ではピラミッドのすぐそばに出店じゃなく自販機もあるのだから、とんでもなくはないのかもしれない。
校舎は明るい。でも外はやっぱり暗くて、今の自分が非日常にいることがわかる。
学園祭でもこんな夜まで学校にいたことはない。誰かさんに貸してもらった少年漫画ではこんな夜中でも平気で学生服のまま外を出歩いたりする、それは普通によくあることとして描写されていた。確かに現実でもバイト帰りや部活帰りを除いてもそれと似た暗いものを見る。
だがやはり、あたしにとってそれは普通ではないし日常ではない。あたしと関係しない別世界のものだ。あたしの日常をすべて同じになる、そんな人物なぞ存在しない。
あたしと同一人物がいるわけがないのだ。この不快感を誰も共有できない。こんな不快だらけな感情を一部分すらあたしとまるっきり同じものを感じれるわけがない。
今の空気、この場の距離。誰にも、過去のあたしや未来のあたしでも、再現できないこの煤のような思い。
「シャドーくん」
視界の隅で煤が舞い上がったような気がする。誰かが乱暴に掃除し始めたように、ついせき込むぐらい煙たく舞い上がる。
「はい」
模造紙三枚分は後ろにいるはず彼はいつもよりふっらふらな声だった。この舞い上がった煤を吸って、しばらくむせてたらいいと思う。そういう嫌味が出そうになるのだから。
「何処のが”アタリ”そう?」
いつもの調子のあたしの声。他者を不快にさせず、反感を抱かせず、調子に乗らせないほどの発声。己の不快や反感を飲み込んでいるもの。調子に乗った誰かへ手袋をたたきつけるものだ。
それを知ってか知らずか。彼はフラフラな声で、あそこですかね、と返して止まった。足音も止まったので、振り返る。そうすると元々顔をそちらに向けていたのか、目を合わせることすらなかった。煤がどこかにたまるような思いをした。
下駄箱の先、いや、玄関を塞ぐように自販機らしきものが設置されている。蛍光灯だけではよく分からないが盗難防止以外にもハリケーンなどで飛んでいかないような重装備で、しかもポールパーテーションまである厳重警備な自販機だ。
「……へぇ、また君なの」
音割れしたイタリア語が流れてくる。前見たのと同じようで音割れ具合もそっくりだ。
海神オケアノスは今もまた口を開けている。
→354
その真実の口型自販機はボタンらしきものはなく、そして紙幣を含めた貨幣を入れる場所もない。電子決済用のものもないのだ。
あるのは、とりあえず食べちゃうぞ、と言わんばかりな半開きなお口だけ。海神オケアノスは目も光るようでそのキラキラした緑色が急かしているようだ。ある甥っ子の愛人の役割だ、それは。
気が乗らないので三流アクターでも出来そうな陳腐な演技もせず、あたしがその口に手を差し込んだ。
「ちょっとダメですよっ!!」
「平気だよ」
流石に慌てているようで、距離がもう模造紙一枚分もない。嫌なので振り返ってあげると、距離を開けてくれた。それでも、嫌な距離だ。求めていないものだ。
「ま~だかっな~?」
あれれ、相槌もしないの? 減点だね。上の立場の人ほど話を聞いてるアピールするのが安泰なのに。くだらないジョークやしょうもない下な話、つまらない自慢話もとりあえず相槌を打てばなんとかなる。マイナスにならず少しでも加点にしたいなら、すべきことだ。豚が木に上っているうちに斧を研いでおけばいいのだ。
鼻歌を使って暇をつぶす。減点しまくっている彼は今寡黙だからしょうがない。用意周到にして三分に出来上がるあの曲をハミングしている。いつもなら彼もふっわふわした能天気な声で乗ってくるはずだ。前他の子と一緒にカラオケに行っていたから知っているが、彼は音痴だ。自分に合っているキーも分からないし、選曲も少しアレだ。一番初めに歌うのが演歌だとは誰も思わないだろう。こぶしが利きすぎていた。
三分の内二分強歌い終えると、オケアノスからの音声が止まった。彼の時とは違い、普通に手は抜ける。痺れもないし、刺したような痛みもない。途中で軽く指を握ったり開いたりしても異常なしだ。手を抜き終わって当たりが出てくるのを後ろに下がって待つ。ここでは、流石に彼へにこりと笑ってあげた。まずいから。
彼があたしへ完全に目がいかないような位置に行くと、あたしも背中を向けて真実の口から出てこれた自分の手をもう一度見直した。前みくるたちと行った遊園地で押されたスタンプのようなものがあるのだ。チーズ泥棒を現行犯逮捕されているネズミだった。
普段なら、まぁいいかと流せるそれ。舌打ちしたくなるほど今は気に食わない。手持ちのハンカチでゴシゴシと拭う。
許せる気分ではない、許してもいい気分でもない。不愉快だ、あぁ、腹立たしい。
油性だ、このスタンプ。
グロスとリップを携帯しているけれど、これを落とすためにダメにしたくない。他の化粧品でもこんなののために使うなどと論外だ。ハンカチにインクが移ってくれないこの汚れは不快の塊だった。無駄なことだと分かっているが指でもゴシゴシ擦ってみる。優秀なインクのようで、指に汚れが移ることもない。
「んーーー……」
「鶴屋さん」
「ん~?」
そのまま唸っていると彼に呼ばれた、スタンプ付きの手を隠して振り返る。すると、ちゃんと当たりが出たらしい。よかった、ならさっさといつもで帰れるね。
「当たりました」
「オッケイ! んじゃ、早く帰ろっか。他の子たちがきっと待ちくたびれてるもんね?」
「うす」
「キョンくんたち男子組は大人しくしてるかな~? 古泉君もああみえて結構アグレッシブなとこもあるし、キョンくんも年頃少年だからパッションあるもんねー? 君も結構インクレディブルなことするもんねぇ?」
「いやぁ、俺はそこまでアカンことはしてないはずですけど」
「インハイ出場経験者をコテンパンにしたのは~?」
「……団長様のご指示です。当方は全くの無関係であります」
「部室に段ボールいっぱい来てたよね? そこまでの予算は通してもらってないんだけどな~」
「お菓子と俺は無実です」
「あとで押収するね~」
「え、ぇえぇ~…」
ハルにゃん含めSOS団のビューティープリティソサエティなレディたちとの不当なデートのためだったのは知っている。
陸上部のその何某男子組が挑み敗れツケを払っただけの結末。欲望に割と忠実な男たちだったので仕方ない結果だ。たとえ相手が三位まで入賞しなかったにせよ、全国の実力のある高校生選手をコテンパンにしたのは結構面白かった。
キョンくんもなんだかんだ格好良かったし、古泉君も青春してていい感じな格好良さ。そんな男の子しているキョンくんだけの写真も結構取られていた。ハルにゃんはそれに大分お気に召さなかったようだが。
彼は、アンカーだった。
三人リレーでの四継ならぬ三継だ。古泉君、キョンくん、で最後は彼の順。去年の体育祭の時は目立たなかった。普段の学生生活で運動神経がいい方だとはわかっていたが、走りもちゃんとできるとは思わなかった。日課で朝走っているとは知っていたものの、ハンデありでもぶっちぎりはとっても気持ちいいものをあたしは感じたものだ。
模造紙半分後ろにいる彼。相変わらず可愛い感じのふわふわというのではなく、生活指導の先生に活を入れられてしかるべきな彼。気の抜けている風船のような彼だ。抜けきっていないちょっとは浮いてくれる風船な彼だ。その彼が、意外にも格好良かった。
贔屓目抜きで、彼が一番誰よりも格好良かったのだ。
舞台役者がその魅力で観客を震え上がらせる、というものではない。映像の向こうで悪と戦うヒーローをしているそんな誰かの良さじゃない。見慣れたそんな程度の良さじゃない。
初めてだった。シャドーくんを初めて格好良いなと思った。
あたしが生まれて初めてお世辞でもなく、本当に格好良いんだな、と感じたのだ。
シャドーくんは、凄く格好良いんだと知ったのだ。
普段の立ち姿も潮の満ち引きに任せたまま揺られている海藻のようだ。言動もそう、見知らぬ海の向こうの誰かの忘れ物がずっと持ち主に帰ってこないようなふらふらとしたもの。そんな彼に付き合うのはいい人だからだ。
普通に付き合える人だから。気が楽だ、少し背中を丸めてしまっても気にしない楽な相手だ。一応異性だけれど身長が近いせいでそれはいまいち意識していない。顔もまるで女の子みたいに可愛いでもないし、かといって映画の主演になれるほどの美少年でもない。可もなく不可もなしな顔立ちだ。
普通な子。
SOS団の団員だからちょっとあるけれど、どこにでもいる普通な子だ。特に注視すべきところも注意すべきこともない、なんてことのない現代的若者青少年の一人だ。面識が碌にないそこら辺に歩いているレベル。
それがだ。そうだったのに、だ。
どうしようもなく格好良かった。
その格好良さは一体どうしたのか。団長ちゃんが怖いからとか、ご褒美のもののためにとっても頑張っただけだ。
理由がしょうもなさすぎる。でも、あの格好良さにそれは減点できない。科目が違うのだから。バトンを受け取った瞬間のときより、途中からSOS団の皆が彼に声援を送った時のシャドーくんはとんでもなかったのだ。
目をこちらに向けてきてただ黙って一度、うん、と頷いただけ、それが本当に格好良かった。絶対見たことのない真剣なだけの顔のせいかもしれないが、古泉君より格好良くそこらの顔で売れている芸能人よりも断然格好良かった。
勿論、あたしはびっくりした。格好良いシャドーくんがいることに心底びっくりしたのだ。真面目そうな顔は何度か見たことがあるが、格好良いなと思ったことはない。びっくりすることもなくあたしは顔にも出して何をやるのかわくわくしているぐらいだ。シャドーくんの真面目な顔はレアだ。サイコロを二時間降り続けてようやく目当ての数が出るくらいのレア。それを超えたのがあの姿だ。
あたしがシャドーくんを格好良いな、なんて思うことないはずだったのに。誰よりも何よりもシャドーくんは格好良いんだなと知った。素人がホールインワン出来る確率よりずっとないものだ。ビギナーズラックで喜ぶより、こんなところで運を使ってしまったととちょっと悩むもの。
「お慈悲はないんでしょうか?」
「収支がきっちりしていないと怖~い人来ちゃうぞ~? 大阪府警さんとか、呼ぶかい?」
「本当に怖い方のポリスメンはお許しくださせぇ…っ」
「流石にあの人たちはプロレスしてくれないだろうね」
「お約束と規則は別物ですもんねー」
「虎に代わってしょっぴくぞ!」
「そんなこち○的なこともしなさそう」
いつもどおりになってくれたシャドーくんとあたし。幸運にも当たりを引けたのだ、すべて吉だろう。悩んでいいのか喜ぶべきか。
手のひらのネズミはただしょげている。
→355 主人公視点
「やばい」
だいぶ先を歩いている鶴屋さんには聞こえない声で俺はつぶやいた。たとえ聞こえていたとしても好意のかけらもない無視をされているんだろう。
「やばいやばい」
小さくふらふらとした声で何度も同じことをつぶやいた。言葉通りやばいことをしてやばくなっている。だからといって、その言葉を呪文のように呟けばあっという間になんとかなる、なんて都合のいいことはない。ゲームとかならMPと引き換えに効果発動できるすっごい魔法や呪文が欲しくてしょうがない。ダンジョン探索型ゲームのように、一見他の何も変わらないところが一か所だけすごい何かがある、みたいなことが欲しいんだ。
こんな魔訶不可思議な空間ならあればいいのに。ここでも妙な現実とまるでかわりゃしないご都合良くないリアリティがある。
たとえば、ここの購買で売っている文房具ののボールペンが実はお菓子にはならない。ボールペンを模したお菓子は出るが、文房具という、お菓子ではないカテゴリーで購入したものは文房具にしかならないのだ。お菓子が欲しいなら、お菓子を買え。文房具が欲しいなら、文房具を買え。になり、カンスト買いもできない。いつも生きている現実と変わるわけないのが、まったく不便だった。
こうして六台めだと思う自販機もご都合の良いものはないようだ。さっきから間隔狭めに自販機が置かれまくっている。昔ながらの文房具店のおばあちゃんだって配列もっとしっかりできるはずだ。鉛筆の左右に必ず墨汁が置かれているという所でお世話になった俺が断言する。もうすぐ七台めに見合うことになるがこれも外れだろう。求めている品物が入っていないのだ。
三台目まで飲み物オンリーのもの。紙パックオンリーやサービスエリアにあるような注いでくれるタイプだ。とってもストロングなことにナタデココ一本勝負な自販機もあった。四台目からは食べ物も売り出していた。俺も好きなフルーツ味のブロックタイプもあれば、エンゼル集めなチョコ菓子もあり、ハンバーガーやうどんを販売する昭和の名残なものもあった。
だけど、どれにもロウソク的な品物は販売していない。
ずっと後ろを見ない鶴屋さんもそれがわかるんだろう。もしかしたら、希望的に見ればちょっとは後ろを振り返っているかもしれない。
けども、その表情はどんなものなのかと想像するだけで、やらかした癖に怯えるのは俺だ。俺だけが足が重い。
鶴屋さんは変わらずだ。いつも通り前へ進んでいる。俺がうっかり近寄りすぎたら更に前へ進み距離を必ず開けていた。
目の前に透明なボックスがあるようだった。これが壁ならもう遠慮なくおめおめと逃げ出せる。これはゲームのバグじゃないんだから壁抜けなんてできない、裏技も使えないのだから。そもそもそんなことをしたら強制終了したり、最悪セーブデータが死ぬことになる。出来っこないだろう。
透明なボックスみたいだから、無様に逃げ失せることができない。箱なんだ。何か中に入っているかもしれないし、むしろこっちから何か入れることになるかもしれない。
箱は容器、物入だ。収納用品だ。だからこそ、俺は都合のいい妄想を抱いてしまう。俺が鶴屋さんへ踏み入れてもいいのかもしれない、むしろ鶴屋さんが俺を迎え入れてくれるかもしれない。そんなどうしようもない都合良い夢のような妄想を抱くのだ。
「シャドーくん」
都合の悪いことが起こった。
前を歩きだしたときと同じ声。手を放せと、俺が嫌だと拒絶していた声とはまるで違う声だ。いつもの調子の声、みんなが好きだと思う声だった。いい意味でも悪い意味でも特定の誰かへは向けられない声。誰でも聞こえる声だ。誰でもいいから聞かせる声だ。
どうでもいい相手へ使うものだった。
全部同じだったんだ。
その先の言葉も同じ調子。嫌っていない、特に嫌ではないという調子だ。別の意味にもなる。好きではない、嫌いではないが好きにはなっていないという意味だ。嫌われ切っていないことに少しよかったと思った。別の意味を自覚してどうにもまずいとも思い知った。少しも嫌われてない、じゃないんだから。
よくもなくまぁまずいんだ。
自分の喉がいがらっぽくなる心地だった。それを抱えたまま周りを見渡すと、玄関の前に自販機があった。海神オケアノス型自販機。なんだか厳重警備されているが、こんな無駄に自販機を並べているんだからあいつも自販機のはずだ。俺の時とは違って最初から神様モードしている。
そして、相変わらず鶴屋さんは前へ進む。俺は置いておいて、俺を気にもせず、俺などは無視する。当然そうされるだろうとは思った。だから俺も、自分勝手に申し訳なさと肺にたまる冷たさなどもう感じるべきではない。
しかし、そこからの行動は絶対まずい。鶴屋さんが普通に海神オケアノスの口に手を入れたのだ。なんてことしているんだ、この人は。俺みたいなことがあったら大変だから慌てて近寄ると、振り返られた。そうしたら、もう俺はそこから動けない。
鶴屋さんは怒っていない。怖がってもいない。それでも、嬉しそうにも楽しそうにもしていないのだ。
同じだ。知りたくない顔だ。微笑んでいる。
ブーグローの描いたグースガールのような微笑み。照れてはにかんでいるのか、ちょっと面白可愛らしい表情であるものだ。鶴屋さんのそれは同じはずなのに、嫌だ、邪魔だ、来るなと俺をまた拒絶したのだ。そのあとまた何か一つでもあれば俺はもう逃げた。が、何もなかった。許されたからではないのは分かっている。
そして、俺が存在しないかのように自販機へ振り返ったまま鼻歌を歌っている鶴屋さん。
同じだ。が、やっぱり分からなかった。でも、まずいことだけは分かっている。どうしようもなくまずいことになっているのは分かっているんだ。どうすればまずくなくなるのか、どうしたらまずいがなくなるのか、分からない。鶴屋さんじゃなく、俺がずっと分からないままなんだ。
自分の足でもうどこへでも歩けるはずなのに、歩き方が分からないのと一緒だ。右足を前に出して、次は左足を前に、そしたらまた右足を、なんてわざわざ言葉に出さなくてももう体が意識しなくても覚えているのに。生まれたばかりの赤ちゃんじゃないのに、外へ行くための靴だって自分で選んで買ったりもできるのに。
歩き方が分からないんだ。つまずかないか不安で、とかじゃない。歩くのが面倒くさくて、とかじゃない。歩けばいいってわかっている、行先も分かっている。歩いていいのかなんて許可求めてない、歩きたくないなどとイヤイヤなんてしていないんだ。
歩み寄りたい。近寄りたい。そう思うたびに歩くことができないんだ。
だって、鶴屋さん好きだと今度こそ自覚した。
嫌われているのかもしれないけど、まだ好きだと思っている。告白して、できれば付き合いたい。絶対フラれるだろうけど、それでも鶴屋さんがまだ好きなままだろう。また鶴屋さんに彼氏ができても好きなままだと思う。保健室であんなことしなければよかったのかもしれない。保健室であんなことやめればよかったのかもしれない。
まずかった。この状況も心境も、口の中でさえまずくて仕方がなかった。まずさしかないんだ。まずいという味しかなかったんだ。
鼻歌が聞こえる。鶴屋さんのものだ。俺とは違って鼻歌でも歌手みたいにうまい。
昔一緒にカラオケした時も全部うまかった。団長はもちろん、長門も上手。朝比奈先輩は声を出すだけでお上手に思うものだ。古泉は当然イケてる。幼馴染は俺と一緒のネタ組なのに、羨ましいことだ。その幼馴染も低いあの声だからデュエットをしようと寄られるもので。完全にネタにしかならない俺とは違ってだ。にぎやかし要員でしかない。
だから、前に出てはいけないのだ。今のように、また。
鶴屋さんの手が真実の口から出てきた。逸話のように手首から先が食われているとか、あの映画のようにジョークなものをしていない。それにほっとする前に、また鶴屋さんが俺に微笑んでいた。まずい、としか分からなくする。ずっとまずいんだよ、と分かってしまう。
俺を置いて鶴屋さんは前に進む。帰り道の方へ進む。忘れたい、もういいから、をしている。
慌てて自販機の方へ行って当たりを取らないといけなかった。まずすぎる今だけど、他のとんでもないことになったら嫌だからだ。取り出し口は、やっぱりこのお口なのだろう。他にそれっぽいのがない。
手を入れ口を漁る。品物を落としてくるのにまだ時間がかかるのか、そういう振動はあるものの十秒たっても落ちてこない。苛立ちより焦りから人差し指でトントンと口内をたたき出す。もう十秒ぐらいたって品物が落ちてきた。手の甲に当たってきたそれも掴んで取り出す。俺の時も流石にちゃんと手が出てこれた。品物もちゃんと当たりだ。
急いで俺も追いつこうと振り返ると、意外なことに鶴屋さんがまだいた。待っていたと思いたいが、それは義務的なものなんだろう。おそるおそるまた声をかけると鶴屋さんはいつも通りに返してくれた。
異常なことがまた起きた。いつも通りの会話がまたできたのだ。
鶴屋さんと俺のいつものへんてこな普通の会話だ。
鶴屋さんからのからかいやちょっかい、年上お姉さん的なお叱り。それに対して俺がするのは、苦しすぎない言い逃れのような、痛々しくない失言のような、普通にそこらに転がっている一般男子高校生の軽さ。
いつも通りなら口は軽い、心も軽いものだ。宙に浮ける、屋根までだって飛べるだろう。
屋根まで超えて遠くに行けるだろう。
いつも通りにもうなれなくても。
。四日目。
お求めしていない朝を知った。
ここでの四回目になった朝だ。おじさん臭さがとれない携帯のデジタル表記も、一桁歳の時サンタクロースに強請ったのとは別キャラの時計も朝だと教えてくれる。
昨夜の一瞬で落ちたドデカ線香花火のように、もう夜になってくれと願う俺だ。当たりのロウソクも、ちっちゃな太陽と化したそれによって見事に倒された。俺的なアタリはなく、そのままちょっと季節ずれの花火はお終いとなり各々の寝床へ行く。俺たち北高二年組+な人と三年生組にすぐ分かれた。おやすみを交わしたときも変なものはなかったはずだ。妙にぎこちないこともなく、変にそわそわもしていない。普通に、またいつもどおりだ。
知り合いだから挨拶できる、それぐらいの優しさがあった。よくぞこられたごゆっくりなされというものだ。
それは、おもてなしというものだ。接客だ。友人でもそれ以上もない、ただの先輩後輩の知り合いだからこその優しさだったんだ。
だから、その先がなかった。
行き止まりの看板もないし、私道だからと三角コーンも置かれていない。
壁があった。誰も登れない、誰も壊せない、誰も許さない。そこで終わりだよ、と、その先は道もないんだよ、と。
どうしようもない線引きであった。開かない踏切だったんだ。ずっとカンカンカンと警告音が流れて進めない踏切。故意にでも入らないよう誰にでも緊張感を覚えさせる警告音を鳴らしている。右からも左からも列車の影も見えないけれど、立ち止まってないといけない。当然だ。バーが上がってないのに中に入ったら事故が起こる。どうあがいても悲惨なことになる。
危ないことをしてはいけないのだ、大変なことになるんだから。危なくなっているのだ、大変なんだから。
「あ゛ぐぁ゛~~……」
まただまただ、と思いながら無意味に声を出した。どうしようもないのを紛らわせたかったが、どうにもならない。転がっていたプーアル茶を飲んでも何も発展しなかった。
飲み干したペットボトルたちでジャグリングしていると携帯が鳴る。相手は幼馴染君。
「なぁにー」
ジャグリングしながら通話をする。壁にも当てて跳弾も交えたジャグリングは結構楽しい。
「オムカエデゴンス」
「あっちょんぷりけー!!」
兄妹にイタ電された。声からして兄の方は朝から大分お疲れになっているご様子。
「行かないとなの?」
「イエス」
「行かないとあかん?」
「あかんのやでー!!」
妹様の方は粋がいい。お元気で何より、兄にたくさん甘えたようだ。兄はもう呻き声なんだもの。
「どこ」
「昨夜んとこ」
「おぅけぃ」
「忘れないでね、シャドーくん!!」
忘れたのはお前が、と兄が面倒怒り声を出すも、その妹によって先は聞こえなかった。フリーダムすぎるリトルシスターだこと。学校ではここまでではないらしいが。やっぱり女の子だから外と内は違うようにしてるんだなぁ。外様に見せる用と、身内には見せる用がもう出来ている。現実から夢へ逃避したくなった。お願いだから、大人にならんでくれ。
夢ならばどうか覚めなさるな、と唱えながら軽く身支度を整え、昨日の花火会場へ向かったんだ。
→
「はぁい、お~はよ~」
「おはようございます、シャドーくん!!」
「あぁ、はよ。わりぃが、頼むわ」
なんか忘れ物をしたので探してるらしい、というのは電話でも分かった。
ここに来るまでに妹ちゃんの失くしそうな持ち物を思い出してみたが、十以上普通に思い描けたのでさっさと兄妹たちとダイレクトサーチだ。
女の子の持ち物って不思議だ。歌の通りに、ポケットを叩けば粉々になったビスケットが、をやらかした俺たち男とはまた違って小物をたくさんため込む。まだ小さくて無邪気で善意しかない俺が公園の隅から集めたエロ関係テレホンカード回収のようなことは、その当時の俺と同じくらいの年でもこの子はやらなかった。
ビーズで作ったアクセサリーが一つのポケットから十は出る。なんかよくわからん女の子が好きそうなキラキラしたものが二つのポケットから二十も出る。今もそれが変わらないようで、兄が把握している限り五個ぐらいは一応すでに発見できたようだ。
「あとどれくらいなん?」
「わからん、最低でももう五個は探さなきゃな感じ」
「心当たりは?」
「どっか行っちゃったからわかんない!」
なら仕方がない。へけっ、頑張るのだ! と、とっとこ頑張ることにした。流石に手あたり次第あたっちゅを人間がやらかせば大問題なので真面目にだ。
このゲンコツ広場は広場という名称がつけられている通り、一歩でも歩いた瞬間何かにエンカウント!! なんてことはない。テーブルや椅子があるものの簡易なものであり、そして重機のようなパワーがなければどこかに移動させることもできない。探すならそれらの上ではなく下だけでいいんだ。整地されているものの緑があるから小物は勝手にかくれんぼしてしまうんだ。海水から金を回収しろでも、もう掘りつくされている徳川埋蔵金探しでもないのだからイージーだろう。
だから、ほら。慣れているから三個はすぐ見つけた。兄も同じように、妹ちゃんは椅子からエールを送る係に徹していただいている。同じことの繰り返しは嫌だから、誠心誠意でお願いした。
「もう?」
「んー……」
兄と一緒に残数を考えたが、あともう少しはかくれんぼしてそうだった。再度サーチである。見落としはいけないのだ。テストでもそうだし戦場でもそうだ、犬ネズミとかね。窮鼠猫を咬み殺すな。
「おーい、キョンくんたちー!」
アイドルのお声だ。呼ばれたあいつと一緒にそちらへ顔を向ける。ニコニコ顔でこちらに来てくださった、当然お二人で。
「おはよう様だね、ちみたち」
きちんと目を見て挨拶をされた。俺は理解した行動を今度こそしなければならない。これ以上あんなに優しくされたくないから。
ちゃんと目を見て挨拶する
ちゃんと目も見て挨拶する
→ .
「おはようございます、先輩方」
「おはようです。いやぁ、お二人のおかげでとっても華やかになって嬉しいですよ」
兄のように軽口を叩ける余裕はない。それでもあの時と違い、目を合わさないで挨拶をした。それで視界の端で見た。鶴屋さんの目が瞳孔からゆっくり細くなっていく。食事用のナイフが黒色に染まってしまうように。それでも、決して目も合わせなかった。動物の中で目が合うのは、ただの喧嘩売りだから。
「あたしたちもちょっとお散歩をしていたんですけど、キョンくんたちは一体何を?」
「このおバカな妹が、あだっ、脛蹴るなばかっ。こいつが昨夜失くしものをしやがりましてね、広場捜索中なんです」
「どうどうどう、落ち着いてねー」
「シャドーくん、はーなーしーてー!!」
ひと暴れしだした妹ちゃんを抱えておく。俺よりも小柄ながら凄まじいものでよく暴れるのだ。朝比奈先輩方は幼馴染の癒し。朝比奈先輩のアイドルっぷりにドはまりしているこいつにとっては、もう最高の癒しだろう。そしてそんなアイドルが、女の子同士仲良さそうに話しているとまた癒しをもらえるそうだ。百理ある。
「お嬢様、お忘れ物がござりまするから」
「ぬーっ!!」
「ほ~らっ、これとか。さっき見つけたけど、前あげたのだったんでしょー? こんなとこに忘れられちゃったら、あげた俺としては悲しいですわよ?」
「あー……、…うん、ごめんなさい」
「誰しもうっかりするからねー。このピンキーなのも、もう忘れないでくだされ」
「カー○ィあったぁっ!!」
いつ頃あげたかまるで覚えていないし、今まであげたものも全部覚えているわけじゃない。このパチモノカー○ィっぽいのも、多分俺があげたとかじゃなかったはずだ。それでも適当言ってなんとかなってよかった。
「シャドーくん」
「はい」
困らないところで、鶴屋さんから御呼ばれした。抱えたままの妹ちゃんの足を、地につけておいてから振り返る。いつも通りに、当たり前のようにして、変わらず好意があることを隠さないで。
「ご助力いたしますね!」
「このキュルキュルキューティーなみくるズアイからは誰も逃れられないのさっ!!」
捜索隊員が二人追加されたようだ。素晴らしいことだった。本当にお優しい。
「俺もう逃げられないのでお縄にしてください」
「ちょっとこいつ、いい感じの池に放流してきますね」
「や、やめろぉっ!」
妹ちゃんを除いた捜索隊によって成果は上々となった。
念のため朝ごはんの後、幼馴染兄妹と一緒に長門様方へサーチをお願いしてもらった。それも杞憂だったらしく、ちゃんと全部発見していたようだ。めでたしでござる。
「もう失くすなよ、お前」
「勝手にかくれんぼしちゃったんだもん、あたし悪くないもん」
「かくれんぼしちゃったならちゃんと探さないとだめだよ、休み時間以外で遊んだらだめなのと一緒なんだから」
「でもぉ……」
「かくれんぼしてるのに見つけてもらえないと悲しいんだぞ~。めちゃくちゃ悲しんだぞぉ~?」
「お前それでおまわりさんにマジで世話なったもんな、いとあわれ」
「予言してやろう。貴様の今日の昼食はウィ○ーのような食べ物だ」
「はっ、そのタイヤ味な予言は外れるな。ノストラダムスの恐怖の大王だって来てねぇんだから、お前の予言なんてないないな~いっ」
まったく、こやし玉にしてしまいたい幼馴染君だこと。
「てか、もっとマシな予言しろよ。あと三十分後、俺に朝比奈さんが手作りお菓子を渡すみたいなのをよ」
「結構現実的に叶いそうな予言だなぁ」
「
「叶ってないだよね、まだな~んも」
「言うだろ、ほら、口に出せばなんでも実現するってさ」
「猿がタイプライターで、みたいなの言うね。カー○ィが炎とか吐くのはなんか能力あるやつ飲み込んでないと出せないんだぞ」
「あのピンク玉は口からなんでも出せるおかげで最強じゃないか。スマ○ラとかよぉ」
「カー○ィが王者になるゲームを出すんじゃない」
妹ちゃんに買ったジュースを渡し、兄の方にも渡す。俺のはまだ自販機の中だ。
「いい感じな予言ねぇかなぁ…」
「あぁ、考え込む系なんだ。こう、降りてくる感じじゃなく?」
「預言の最先端は統計学なんだよ、統計学。天気予報も靴占いで出すもんじゃねぇだろ、必ず計算式があんだよ」
「スコアラーすごーい」
「んんっ、スコアラーだからビビッと来てるぞ。そうだなぁ、一つ、この炭酸ののど越し。二つ、その爽快感。更にこの人工甘味料のうまさ。あとは、スチール缶が結構冷たくて手が痛いな」
「ただの感想な、それ」
「はい、ハンカチ」
「さんきゅー」
妹ちゃんにハンカチをもらった幼馴染君。本当にスコアラーなわけはない。
ポーがタイムトラベラーに違いないと思っていた当時。その年ごろとは違い現実的になってくれている。テルテル坊主を一緒になって大量に全員逆さまにして吊るした結果を思い知っている俺たちだ。大人になるって悲しいことなの。
「じゃああたしが予言するねー。んー……ん、ん~っはい! 今日お月様ちょっと出ます!!」
「昨日も普通に出張ってただろうが。グラサンモミアゲでもないくせに言わんでいい」
「シャドーくん、そのもみあげちょーだい」
「ごめんね、これ非売品なんだもな」
「ちぇー」
まさかもみあげをカツアゲされる日が来るとは思わなんだ。俳優さんとかだとつけまつげ感覚でつけもみあげとかあるんだろうか。
「んじゃあ、色違いになる!」
「アンノー○的な?」
「アンノー○のは色違い扱いでいいの?」
「うさぎじゃなくて、クマになる!」
「うさぎがくまぁ?」
「なんでうさぎ?」
「いや……んー……あぁ、模様のか」
「あー……」
月の模様はウサギに見える。外国だとライオンとかワニに見えるそうだ。捉え方がグローバルすぎるものとして泣く男だったり本を読むばあちゃんだったり、二宮金次郎だったりするようだ。
「鮭銜えてんのか?」
「はねるの、ぴょんぴょんっって」
「じしんになるよ絶対」
「トリックルーム使えるやつ欲しいな」
そんな面白そうな予言が当たるのか。テレビでは国民全員が同時にジャンプすると地球の反対側の国で地震が起きるんだとかなんとかあった。月のウサギがクマに変わったとして、その大きさのクマがドシンドシンと跳ねたりなどしたらどうなるのか。月が割れちゃうよ。三日もたずにタルミナ滅ぼしちゃうよ。
「クマがちょっとね、ぴょんっ!!てね、出るからね、シャドーくん!」
「そうだね」
妹ちゃんと自販機の向こう、今日が始まったばかりの空を見ながら思う。俺もやり直しができたらよかったのにな。
△
「ほら、このデザインとかよくないですか? 雑誌の特集にあったブランドなんですよ」
「おー、いいねー。これだと、前髪出して首元狭めがいい感じになりそう。で、下はトランペットよりフレアかなぁ」
「トランペットのも可愛いいんですよねー。ちょっと厳つめのヒールでも可愛い感じにできますし、ブーツ合わせもアレンジできるの好きなんですよ、あたし」
「おー、みくるも厳つめの持ってるんだ。見たーい!」
「中々つける機会無くて…それに、あの…ちょっと陰干し期間がありすぎるので……」
「あー、あるよねー、そういうの…あたしもどこかで着たいなってのが封印されてるもの」
「で、忘れちゃうんですよねー…それで、ああ、そういえば買った!? って思い出して探してどうしてか秘蔵になっちゃってって」
「わかる。すごくわかる。買ったんだから、買ったよね?ってちょっとは向こうが主張してもいいのにね?」
「分かります分かります、そこはちょっと主張してーっていつも埋葬されたの発掘して思いますもん」
朝から楽しい。みくると一緒に海外のファッション雑誌を見ながら適当に話しているだけ。それが一番楽しかった。お値段も普通に遠いもので、見かけたらついでに一緒に買うなんてことはできないだろう。あたしのお家パワーならできるが、そこまで欲しいわけじゃない。そもそもこのような可愛らしい服はみくるがいい。あたしのタンスに永住させているお洋服もお着物も、みくるに着せたい。可愛い子には可愛いものが似合う。可愛いは最強なんだもの。
「あれ、キョンくんたちだ」
「あれま」
三人で昨夜のところで何かしているようだった。
「………」
その様子を見た後みくるがあたしににっこり笑いかけてきた。可愛い子はずるいね、しょうがない。可愛いものには誰も勝てないんだから。
うちの可愛いモンスターなみくるが声をかけると三人全員が、この子に注目した。
妹ちゃんも、言わずもがなキョンくんも。そして、シャドーくんも。男の子だもんね、可愛い子に声をかけられたら脇見などせずすぐ振り向くもの。
男の子だもの、可愛い子から目を逸らせないくぎ付け、もっともっと近づきたいもの。可愛い子のためにその二つのお目めは他に目移りできなくなる。自然の摂理だ。可愛いものは良いもの、素敵なもの。可愛いものは誰でも欲しい。
別に可愛くないものはどうでもいいのだ。
どうでもいいからこそ、彼はあたしを引っ張り出したのだ。
始めに声をかけたのはみくるだ。可愛い可愛い、全部可愛いで生きているみくる。今もそうだった。前もそうだった。初めてもそうだったのだ。
みくるのついでで始まった。みくるのおまけで初めましてだった。ついでじゃなかったら続きはしないもの。おまけじゃなかったら何もありはしないもの。
ついでで始まって続いてきたのだ。見かけたら挨拶をし時間があればからかった。
それが何となく続いている。今になっても続いている。終わってくれていない。
日直当番だって翌日もお願いなんてされないのに。おまけからここに来てもゼロになることはない。加点もあれば減点もある。赤点クラスになりそうでもゼロにはならない。勿論百点満点なんてこの一年ちょっとの付き合いの中で一回もないのだ。高評価にはなることもあるが、同じような人の中ででの評価。特進クラスの平均点と普通クラスの平均点は同じものではないのだから。
おかしなことだ。
ありえなくていいことだ。
パッと芽が出てサッと埋もれて、あっという間に消えているものだろう。
やっと芽が出たのだとしても、水やりを少しさぼれば枯れてしまう。どうにか芽吹いたとしても、雑草に栄養を横取りされればあっさり枯れていく。世話をせず手入れもせずにいればその芽は伸びはしない。
例えば、バラのように一瞬でも目を離せば全滅するような植物ならば金の無駄になるだけだ。バラに例えられるほど高尚な繋がりではないが、世話人がいなければ育つものではなかったはずだ。
けして。
決して、アスファルトから這い出た草花程度のものではなかったはずだ。少し運がいいだけで、そんな勝手に育って良いものではなかったはず。運よくアスファルトの割れ目の中に入ったから育つような、そのような低俗な繋がりではなかった。そうだったはずだ。
ちゃんと育てるために水やりをこまめに。他に生育に邪魔なものをちゃんと除いてあげて。少しでも異変があればいけないから毎日観察日記を書かなければいけない。そういう繋がりだったはずだ。
なのに、どうして。
勝手に芽を出して勝手に育っていって、勝手に花を咲かせている。
勝手が過ぎる。
勝手なことをしては困る。
繋がりなのだから、自分以外の誰かと関わるのだから、自分勝手などあってはならないではないか。
また妹ちゃんの相手をしているシャドーくんは、嫌な人間だ。
まずいのだ。
勝手に続けてくる。続けようとすれば、あたしは待ってをかけた。一度待てしたからと結局続きが始まる。勝手に寄ってくる。寄ってきたなら、あたしはストップをかけた。チェスクロック方式にして止まることなどない。勝手に求めてくる。求めてきてしまったから、あたしは水をかけた。おかげさまで成長を促進してしまった。
だから、今度はちゃんと声をかけたのだ。
勝手なことを今度はあたしがした。続けば、いいのかまずいのか。何かあれば、いいのかまずいのか。終わった方がいいからか。
それでも、返事を返してきた。
いつものように気の抜けた風船のようなもどかしいふわふわとしたものだ。浮かびはするもののすぐ重力に負けて落下していくだけのものだ。浮力よりも重力に負けてしまうしょうもないもの。
勝手にした結果、手元に手繰り寄せてしまった。手元から放ったのに、手元に戻している。手放そうとしたはずが、名残惜しんだのはあたしだけではなかったらしい。
ただただ面白くもない結果となっただけだ。
「ふーん」
捜索終わりで朝食も普通に済んだ。まずくはないものだ。
「…ふ~ん」
いや、まずいのかもしれない。慣れたからいけるものになったわけではないのだから。
「どうしようね…?」
自分の口から零れていくモノたちなんて、まるでおいしくないのだから。
▼
なんとか今日のお昼も終えた。
精神的にも身体的にも持続性ダメージの伴う時間と内容だったんだ。それらを回復するために食堂で俺はダレている。たれパンダならぬたれオレダ。スポンサーからも顰蹙を買いそうだな。
お食事内容は是非もなしこともなしだ。おいしくないことはなく、まずいということもなく。
癖がお強かった。
まず、スメルがお強い。中華料理で定番になっている香辛料スターアニスさんから始まり、西洋版揚げ物フリッターの衣かソースに色々とあった。果物の揚げ物と日本語で書くと覚悟を強いられてしまうが、フルーツ入りのサーターアンダギーのようなものだ。サーターアンダギーのように衣で
で、だ。
揚げ物はやっぱり最強なんだ。
とんかつは間違いなくうまいじゃないか、ポテチは外れなくうまいじゃないか、アメリカンドッグなんてもううまいうまい。
だからサーターアンダギーも当たり前にうまいもんだ。どれもが一緒の油に入れられていたら覚悟を強いるだろうがさ。寿司を揚げたりバターを揚げたりするし、タランチュラも揚げるぐらい揚げ物もグローバル化が進んでいる。ならば、味付けも和洋折衷以上の
食事時間が必ずおいしいわけじゃないようにだ。
例えば、俺だけやたら豪華な食事の傍ら、ふりかけとレトルトご飯のお父さんと一緒のごはんなんて居たたまれなさすぎるじゃないか。その時に限ってお母さんは俺にとても親切になって、お父さんは必死に空気になろうとしてる。当時の俺はそんな両親のまずそうな感じに何も気づかず黒毛和牛のハンバーグと瓶入りプリンに夢中だった。その時のずぶとさは今はないんだ。
気まずかった。
親切だったんだ、鶴屋さんが。
気まずいものだったんだ。
今日までご飯の時もとても親切でいらっしゃったが、まぁなんともとても親切だった。
グールになりそうな俺に逐一親切をしてくれる。飲み物サービス、箸休めサービス、手術中の医師にする汗拭きみたいなの。流石にお口に手動配膳サービスはなかったものの至れり尽くせりすぎた。なによりも、距離が近いのはまずいのではないだろうか。いや、おいしい思いではあるがまずいことでもあるはずだ。
物理的に接触なんてのはない。が、近い。パーソナルスペースというやつが近すぎる。今まで手を伸ばせば届きそうだけど届かせない、そんな距離感だったと思う。
朝比奈先輩と一緒にいることの多い鶴屋さんだが、その親友様以外は俺を含めて他の人と話すとき基本的その距離間だ。ハルヒや長門にくっついていく以外はSOS団ガールズもそれぐらいの距離感。たぶん、野球用バッドぐらいの距離がある。俺の身長より低めだが、気を遣うけどしすぎようかなとは思わない絶妙な距離感だったと思う。
それが、近いんだ。手を伸ばせば届く、そんな近い距離間。三十cm定規でも足りるんだ。
それぐらいの距離を我が幼馴染君がやってきたら流石に、なんだよお前と三回ほどは言うぐらいだ。間違いなく近いし、普通に近すぎると思う。それを口に出す俺ではない。
気まずいと思うがそうではないのだ、言わないに決まっている。嬉しいし、喜んじゃう。そして、緊張もしちゃうのだ。忘れもしない、忘れられない終わらないあの緊張感だ。体温計なんて使ったらオムカエデゴンスとどんな名医だろうが匙を放ることだろう。
気まずい、それは俺だけにしか感じられないものだったらしい。
だって、女子様方は俺たちに何も見ざる聞かず言わざるだ。ならば、男どもも何もしない。
幼馴染君は俺と同じで友人は結構いるが、友人以上からの経験があまりない。だからこそ、女子の触れざるにそれなりな対応ができる。直接の経験値にはないが、他人から女子関係の経験値を得ている。おかげで、危機意識はまぁ備わっているのだ。古泉は当然だ。いつもハルヒのサイレントむむむ…っ!!に対処している者、場数が違う。
朝もお昼もハッピーだったさ。逸話通りの真実の口に手を喉奥まで突っ込んでそう言えば、絶対食いちぎられはしないとも。
ハッピーだったさ。ハッピーだったよ。
あの時にあったのは、おいしいお口と状況と俺だ。同時にまずいお口と状況と俺だった。
食べ物がおいしい、ハッピー。またなんかやらかしそうでおしゃべりもまともにできないまずいお口、でもハッピー。好きな人が近い、もうハッピーすぎる。経験がなさすぎるので何もできないから焦りの上緊張感まずいだけ、それでもまたハッピーだ。俺、ハッピー。なら、まずい俺でもハッピーだ。
そう、おいしいとまずいが一緒くたになってやってくる。いい思いをしているが負傷もしていた。得難いものだが、おびただしい流血であった。
「あー、もう……なんなの?」
ほんとなんなのだった。昨夜、やらかしたはずだ。合否でいえば否でしかなかったはずだ。否定で拒否で全否定されたはず。
俺は嫌だムリだ勘弁してよねってやつだったはず。言葉も声も顔も、好きな人の全部が俺にそうしてた。俺は知ったし見た、真正面で受けたのだ。一応、昨夜の最後で嫌悪は捨てないものの隠してたが、その嫌悪はこれからずっと続くんだろうと思った。
たしか何かの小説だったか、好きは続かないが嫌いは終わらない、そういう意味のがあったと思う。どんなにアツアツのお湯もいつかは冷めるし、埃はいつでもどこでも現れるものだ。
好かれなくなったなら嫌いになって、その嫌いがずっと続いていく。しかし、その嫌いが反転してまた好きになることはあり得ない。いつか折り合いがついて嫌いじゃなくなっても、嫌いではないにしかならないのだと。嫌いじゃないからじゃあ好き、にはなってくれない。
俺だってプーアル茶は嫌いじゃないからじゃあ好きってわけじゃないんだから。好きなわけじゃないけど、それしかないならしょうがないってのだ。
まぁ、嫌いではない。しょうがないから付き合ってやる、になるはずだ。
だが、鶴屋さんはそうならないと思った。嫌われた。今嫌いになったのだ、それがすぐしょうがないにはお嬢様である鶴屋さんでもなるはずがない。
実際どんなもんかは全く知らないけど名家であられるんだから、しょうがなくする教育をしっかり受けておられるはずだ。海外ドラマとか歴史ドキュメンタリーなどのエンタメに重きを置いたものでも、やりたくねぇけどしょうがないからというのでみんな動いていた。創作物でも厭々なものなら現実はきっとそれ以上だろう。事実は小説より、というのだから。そのしょうがないからを、また厭らしくつべこべと言われるはずだ。
だからこその教育は行き届いておられるのが、鶴屋さん。どこへ行っても恥ずかしくないほどの教養をお持ちである。お家の中でも、学校でも、他のお外でも教養の良さの化身であるんだ。
その所為で、昨夜はもうしょうがなくもできないはずだった。
あの夜、俺たちの間にあったのは透明なボックス。向こう側がまるで見えない壁ではなく、向こう側は見える箱だった。だから立ち入ったら分かる、入り込んだらバレる。それは、しょうがなくもできないというものだった。
俺が鶴屋さんの方へ進んできたら、侵害行為、犯罪だということだ。ちょっとした間違いならしょうがないよねとなる。だけど、犯罪はやってしまったらしょうがないでは済まない。
あの夜俺がやったのは犯罪スレスレ、もしくはグレーらへんなことをしたんだろう。
どれが本当にダメなのかは未だによく分かっていない。それでも鶴屋さんの中で俺がもう嫌な奴になっているのは分かっていた。
でも俺は鶴屋さんが好きだった。今日のお昼をまた今も思い出して口がユルユルだもの。
あの時も多分ユルユルだったと思う。緊張と嬉しさとか色々で手振れが激しい所為で、俺の口元はとてもカラフルだった。それをしょうがないなぁと微笑みながら拭いてくれたのは、緊張と嬉しさの源の鶴屋さん。
そうやって俺に微笑んでくれるのがなんでかよく分かっていない。そのしょうがないなぁの真実も良く分からない。嫌いだけどなのか、好きではないけどなのか。どっちなんだろうか。
「わ、わからぬ」
漢文の部分否定と全部否定の見分け方並みにわからん。副詞の前と後ろのどっちがどっちだったけでまた混乱するから辛いんだ、あれは。
鶴屋さんから見て俺にアリな部分はあるのか、鶴屋さんから見て俺は全くナシなのか。どっちなんだろうか。
今日の朝とお昼みたいなことをまたやってきたら、俺はどうしたらいいんだろう。
嫌いだけど部分的にはアリならば。
好きではないけど全部ナシならば。
「わーからんわっ!!」
まるで何にも分からん。再従兄の盆栽も丸刈りにする凡才にもなれない俺にはなんも分からん。紐がついていたら投擲武器に見立てて、とりあえず振り回す蛮族民な俺にはなんも分からんのだ。
「何が分からないのかな、シャドーくん」
またこうしてくるこの人が好きなんだけど全く分からないんだよ。
▼
「つ、るやさ、ん…」
「うん、なに?」
なには俺のセリフなんだけど。あぁ、ほらまた近いのですよ。なに、この近さ。あなたがなんなのですか。
声が聞こえたから振り向いた。そしたらほんとに近いところにいらっしゃるのだ、このお人は。食堂とはいえ机に顔張り付けて唸ってりゃ、まぁ心配はされるだろう。
だが、この四日間で誰もが見慣れた光景だ。朝比奈先輩も喜緑先輩も最初は心配されたが、もうスルーだ。回復用のお茶をお恵みくださるのはマジ女神であるけども。他は慣れたもんである。幼馴染兄妹、生まれてずっと一緒なんだ、そりゃ慣れる。長門、古泉、SOS団活動以外でも色々見ている、慣れたもんだ。佐々木、整腸剤のスペシャリストだ、伊達にラッパのマークにお世話になったわけじゃない。
なのに、この人は慣れた様子で近くにいる。またしょうがないなぁと言わんばかりに俺のすぐ近くにいるんだ。今日の朝から慣れたように隣に座ってくる、今もだ。
幼馴染兄妹なら特になんもない。気にもしないし気にもならない。古泉でも別になんもない。いや、少しでも動けばどっかに当たるこの距離は流石になんだよなんなの、とは言うな。他の友達でも言うと思う。相手が女の子なら当然、どうしたの、と一言でお尋ねはする。何も知らん他人なら、嫌だムリだ勘弁しろよだ。
なら、隣にいる鶴屋さんにどうしろと言うんだ。
どうしたの、と言うタイミングを逃した、もうこの手は使えない。なんですか、と言う機会はどっか行った、別の手を使わなければ。何か言うべき、と思うが思うだけで口は開かない。言うべきと思っているが、声を出す気がない。
それはびっくりして声が出せないってわけじゃなく、言う必要ないかって俺が勝手に思っちゃってるからだ。幼馴染兄妹への慣れみたいに。いや、それにはない緊張感はちゃんとある。でも、緊張でうまく口が動かないわけじゃない。
「あー…あ、こんちはです」
「うん、こんにちは」
こうやってとりあえず挨拶はできる。緊張してはいるが、それで口や喉が震えて声までもはない。普通にしゃべっている。いつも通りになんてことなく気軽にしゃべっている。俺の中身では何なのと緊張感でガッチガチなのに。
「えっと、どうしてこちらに?」
「シャドーくんいないなーって探してたから」
「探されてたか、俺。なんか俺に用事あったんですか?」
「んーん、とりあえずシャドーくんに会いたいなーって思ったから探してたんだよ」
「なるほ、ど~…?」
ど、どういう意味でそんなことをおっしゃってるんですか。
おじさんが言う、とりあえず生、みたいな感じではない。そう思いたい。お父さんが言うには、アレって店員さんに一番手っ取り早く注文できるのかららしい。注文する方も疲れないし、店員さんも注文に時間を取られないからウィンウィンなんだって。
だが、今の俺たちはそうじゃない。
とりあえずの意味も、俺という名指しも、会いたいの意図もなんも分からない。嫌いだけど部分的にはアリだからこその言葉か。好きではないけど全部ナシだからこその言葉か。分からねぇんだ、なんもかんもが。
「会いたかったんですか、俺に?」
「うん、会いたかったんだ、シャドーくんに」
倒置法に倒置法で返される。
俺のセリフならナルシストの痛いだけの奴なのに、鶴屋さんが肯定的に返してくるから痛くはないけど俺の喉がぎゅーっと絞られてしまう。心理的なあれもこれもと体を巡る血液と空気も絞っていってる。
それはぞうきんを絞るんじゃなく、カメラのレンズを絞るみたいだった。レンズを絞ればピントが合う、開きすぎればボケていく。今の俺の目と同じで俺の全部がピントがずれないようにぎゅーと絞られていく。オートフォーカスみたいにだ。鶴屋さんからずれてしまわないように、ぎゅーっとだ。
「ねぇ」
「はい、なんでしょうか」
今鶴屋さんがヴェールと扇子を持ってなくてよかった。持ってればロスリンの描いたヴェールの女の擬人化をこの目で見れたというのに。いや、心の底から残念だった。
机に肘を乗せるのはダメなんだってのはお位が高いなら当然ご存じだろう。庶民でもちっちゃな頃からダメだと叱られるもんだ。姿勢が悪くなるから、上品ではないからと叱られるもんだ。テレビに出ている人もどんな不真面目な番組でも頬杖なんてついていない。ウケないからだ。ドラマとかでも俳優さんが良ければウケる。それは頬杖しているのにウケているわけじゃなく、それをしている俳優さんが素敵だからだ。絵になるんだもんな、悔しいことにさ。
今ここで絵になっているんだもんな、苦しいほどにさ。
鶴屋さんは俺の隣で頬杖をついた。そして面白そうな眼と嬉しそうな微笑みのまま囁いてきた。
「うれしいね」
半音上がりで来なさったそれに大変な緊張をした俺です。
共感からの口調なのか、断定でなのか、はたまた疑問の語調か。全部適応されちまうんだけど。勿論、当然、EXACTRYに俺は嬉しかった。恋愛感情も含めての嬉しいを覚えたんだ。それを鶴屋さんも一緒に感じているのだろうか。そう自惚れてもいいのか。恋愛感情アリでの嬉しいを鶴屋さんもあるのだと、理解してもよろしいのでしょうね。
「うん、うれしい」
はっきり返す。俺は鶴屋さんからずれないようオートフォーカスみたいに俺の全部で微調整した。目もそう言葉もそう声もそうだ。あぁ、もう好きだ。好きだがもう終わらない。
「…うん」
鶴屋さんはちょっと溜めてそれだけ返してくれた。顔はなぜか背けられてしまったけど、距離は開きはしない。近いままだ。心なしか向こうからまた近寄ってくれたと感じる。
近寄ってくれたのだから、俺からも近寄りたい。触れるのは、昨夜をぶり返しそうだからやめておく。言葉だけ近寄って行こうと思った。好きな人が近くにいるなら、やっぱりもっと近寄りたいから。
向こうを向いてしまった鶴屋さんの方へ体を動かす。と、俺の椅子が思いの外大きい音を出してしまった。勢いが強かったんだろう脇腹を机にぶつけてしまった。ちょいとお待ちよと辻切りの如くだ。
「な、なにっ?」
音に驚いたのか、ぴょんっと擬音が付きそうな感じで鶴屋さんが跳ねる。そして俺に気づいて軽くのけぞっていた。それは悪い意味での引いたではなかった。
「鶴屋さん」
ここは押さずに一声だけかけておく。そして返事が来るまで待てもしておく。女性という生き物は買い物や風呂以外でも時間がかかるものらしいからだ。二分ぐらいたっただろうか。鶴屋さんはそんなに大きくないのに体を小さくしながらまた小さく、うん、と返してくれた。顔は今度は下に行ってしまったけれど。
「俺もね、会いたかったんです。鶴屋さんに会えて嬉しいなってさっきからずっとそうなんですもん」
また小さい声で、うんと言った。今度は間を少し開けながら二回も、うん、と言ってくれた。二回目のうんはくぐもっていて、よく見ると両手で口元を覆っていた。口元を抑えているみたいだった。くしゃみか咳を我慢しているわけじゃない。自惚れるが、今の俺のように口元がユルユルなんだろう。まったくもう可愛いなぁと感じる。
俺はいつも以上に頭もユルユルな状態だが、肝心なところは締めてある。調子に乗りすぎてはいけない、昨夜のようなことはもうごめんだ。三度目はないし、いらん。なんでもかんでも湯水のようではいけないんだ。ガス栓も蛇口もキチンと締めとかないと危ないんだから。
「あのさ…シャドーくんってさ…」
うん、と言って続きを促す。鶴屋さんはまた少しの間とんなぁ~っていう猫みたいなかわいい声を出した。物足りないという声だった。
「うまいよね、お世辞」
「お世辞じゃないんですよね」
「……うん、やっぱ違うね。へっっっったくそだ」
へそを曲げられてしまったような声だった。エアホッケーでうっかり点を入れられてしまった時の俺とある意味似ていた。一点もやるもんかと調子に乗って乱舞していたら、調子を付かれて見えていたのに取られてしまったあれと同じ感じだ。してやられた、コノヤローだ。次は許さねぇぞって言うやつだった。
「あたしは、まぁ、お世辞だから?」
「お世辞かぁ…それはちょっと……、ううん、結構寂しいですね」
「さ、さ、寂しいって?」
「お世辞って全部嘘じゃないけどってでも使えるじゃないですか。少しぐらいは本当にそう思って言ってるよ、でもありますけど。嘘:本当の割合だったら、よくて六:四ぐらいでしょ? 普通だったら七:三ぐらい。七割の嘘意味のうれしいね、ってのはやっぱ俺寂しいです」
俺の寂しいは嘘ゼロパーセント、そして嬉しいなは百パーセントだった。その嬉しいなは寂しいと思う気持ちの所為で七十パーセントも下回りそうになっている。鶴屋さんも俺と同じように思ってくれたってのと、鶴屋さんが嬉しいと自ら言ってくれたので実際は二百パーセント以上も振り切れていたのかもしれないけど。
お世辞でも言ってくれた嬉しいに対して、俺も嬉しいと思っているさ。でも、面と向かい合ってなくても本人からお世辞だからと言われたら、寂しくなっちまうもんだ。
「へー…寂しいんだ……」
「はい」
「…ふ、ふーん、そうなの。ふーん…」
頭から体まで心なしか俺へ寄ってきている。角度も多分だけど変わっている。手がもう少しで口元から落ちてしまいそうになっているから間違いないんだろうけど。自惚れるが、今の浮かれている俺のようにちょっと力が入ってくれないんだろう。もうなんとも可愛いなとまた思う。
「ねー、シャドーくん」
「はい」
ご自分でもこれ以上はまずいかなと分かったんだろう。あの三猿の奴みたいに手で隠していたのがもう顔全部になっているんだもん。だけど、俺のことが気になっているのは分かった。見ざる言わざるなのに、聞かざるではないんだもん。自惚れるが、俺のあれこれに悶えているんだろう。可愛いの権化だと思う。
「お世辞?」
俺の正直な口に対してだろう。
「ノーお世辞。ゼロお世辞」
「そ~ぉ……」
即答すると鶴屋さんは丸まってしまった。どこかのゲームのように防御力をあげようとしていた。倒れてなんかやるものか、攻撃できなくなるまで戦ってやるものかと言わんばかりに。
「あのさ」
正直者には正直にだ。うめき声も出さず呼吸もしていなさそうな静かな正直様へ、お聞きしてみる。どういう意味のリアクションか分からないが、許可を得られたと思う。その少しでも陽に透かせば、一本一本がジェムクオリティな髪を小さく波打たせながら頭を動かしていたから。
「うれしいよ」
いつも以上にしっかりしていない声だと自分でも思う。寝起きでもこんな声出さないだろう。ふわふわというかぷかぷかという感じだ。お風呂のお湯でもお空の上でも落ち着きなく浮かれているんだ。
鶴屋さんの言葉はうれしかった。お世辞でもうれしい。けども、お世辞じゃなかったらもっとすごくうれしいんだよ。もうずっとずっとうれしいんだよ。そういう意味を全部込めて、正直に言った。
言ったんだけど、なんか止まってしまった。
凍り付いたとか固まったとかじゃなく、止まってしまっている。ボタンを押されたストップウォッチみたいにピタッと止まっている。もう一度ボタンを動かせば、リセットをかければまた動き出すだろう。中身の電池とか回路とかがおしまいになっていなければ、専門家じゃなくても手動でなんとかなるはず。ストップウォッチ自体が自由にタイマー解除なんて出来っこないから、誰かの手を介さないといけない。俺が何とかすべきなんだろう。
が、どうすればいいのか。
もう一度同じことを言うのは違うと思う。それこそ鶴屋さんが完全にお世辞だと誤解するに決まっている。
塾にいたアルバイト先生が、二回連続で同じことを言うと二回目は嫌味の言葉になる、と言っていた気がする。あの熱湯風呂も三回目の言葉もあるからちゃんとギャグに持っていけるのかもしれない。しかし、もしライオットシールド装備のネイビーブルーな公務員様にそう言われたら、俺も呼吸すらうまく出来ないくらいに止まっちまうだろう。
あぁ、でも、そういう嫌な感じで止まっているわけじゃないはずだ。ホラー映画しかりパニックものでも、現実でもやべぇものに出くわしたら一旦動けなくなる。地震とかが起こったときに、まずやるのは安全なところでじっとしていろだしね。
まぁ、そういうのでもない。本当に止まっているだけだ。何か一つあれば変わらず普通に動く。それでも、その何か一つもないから止まっちまっている。どうしたもんか。
いざ、なんかしようと思ったわけじゃないが、自分の椅子を引いた。結構音がするもので、自分でも静かにしろと内心で思う。鶴屋さんもそうだったのだろう。俺よりも大きな音を立てて立ち上がっていた。鶴屋さんの座っていた椅子はひっくり返り、勢いついでにちょっと後ろに飛ばされてしまった。
「ぁっ、あのねぇ~…っ!!」
俺が声をかける前に鶴屋さんが口を開いた。両手で完全に顔を防御しているから、表情がうまく分からない。声もちょっと怒っている感じ。あぁ、でも、この感じは怒っているというより不満みたいだったと思う。文化祭の時良かれと思って先にやったら、あたしがやりたかったー、と言っていたクラスの女子みたいなのだ。いいけど違うじゃん、というやつだ。
「ま、ず、い、って言ったでしょーがぁっ!?」
シャドーくんのドアホー!!とまた大きな声で言いながら逃げられた。華麗に鮮やかに、エクセレントな逃げ足だ。芸術点でも高評価を得られるだろう。俺的にもとっても可愛いので花丸で答案用紙埋めちゃうぐらいだもん。
「はは、まずいんかい」
倒された椅子をまた戻しつつ俺は呟いた。あの保健室でも言っていた言葉だ。今回で二回目のまずいだ。なのに嫌な意味には聞こえない。むしろ良い意味にしか聞こえなかった。
「まずくなんかないじゃん、ねー?」
逃げる時見えちゃったもん。
俺と同じくらいうれしくてぷかぷかしてる浮かれまくったお顔がさ。
△
「ほんとあほ、ああ、もうっ! ほんっとーに、あほっ!!」
今日だけで一生分のあほを言っていると思う。あほは悪口、侮蔑、侮辱だ。けっしていい意味で使われることのない言葉だ。お笑い系の番組でも出演者を含めた他スタッフ全員にあらかじめブックを用意してからでないと使えない言葉。使ってもやはりいい言葉ではない。そこらの幼児が使ってたなら、親含め多くの大人がそんな言葉を二度と使わせにないよう教育的指導を行うだろう。
「あほー……」
あたしもちゃんと躾されているからめったに悪口は言わない。言ったとしても遠回りで回りくどくて一見無臭に見えるようにした劇毒をかけまわすぐらいだ。
たった一度の頷きだけで会社を潰した大人を、目の前で見せられて育った人間。それがあたしだ 常に猜疑心をもって誰かと接してきたのだ、あたしは。
それのおかげで多くの面倒なものから避難できた。あともう少しで女子大生になるまでに、もうたくさんの面倒なものから避けてこられた。ある程度苦難はあったが、仕方がない。実際に金を動かすわけではない子息や子女、他の普通家庭の子供相手は疲れたがそれだけだ。
漫画や小説のような面倒になるだけの行動を現実でするものはいない。あたしの気を損ねたらどうしよう、そういう人たちが先の人間よりも多くいた。だから、あたしもこうした温厚な性格になれたと思う。
今まで線を引かれるどころか展示会のような分厚いガラスの向こうから接してこられたものだ。そんな気の使われ方に慣れるし、その慣れに不満不平など持つことはない。面倒なものはやはりあたしでも嫌だ。しなければならないならしょうがないが、ずっとそんなのの相手は死んでもやりたくない。
だからこそ、これまでガラスの向こうの誰かなど誰一人まともに覚えていない。担任もクラスメイトも、家の都合でそれなりに付き合いのある誰かさんもだ。
幼・小・中、どれも悲喜こもごもしてて楽しかったと思う。普通に楽しく生活できたと思う。
小学校の時の卒業アルバムも中学校のも男女も併せて色んな子にメッセージを書いてもらった。何故かその子らの親御さんからももらったりもした。本当にいい思い出になったと思う。
だが、それも結局ガラスの向こうのお話だ。
ガラスの向こう側にいる誰かの視点。俯瞰的とでも言おうか、まるで他人の感情だ。他人が楽しい言っているというだった。転寝をしている時に見る夢みたいだ。寝て起きたらその夢の内容を忘れている。そしてそんな忘れたことも忘れてしまう程度のものだ。
ガラスに手を触れても、ガラスの向こうの誰かの何を感じれるだろうか。もし向こうの誰かがガラス越しに手を合わせても体温すら感じることができない。合わないという現実を教えてくるだけだ。
ガラスの向こうの誰かと顔を合わせても、感情すら共有できるわけがない。もし向こうの誰かが悲しんでいたとしても意味も理解できるわけがない。合うことはないという現実を教えてくるだけだ。
鏡ではなくガラスの境だからこそ、何も合うことも重なることがないのだ。
鏡は反射し鏡像を見せてくれる。合わない現実とは違う何かを、合うことはない現実とは違う何かを考えさせてくれるだろう。寝起きの自分が映る鏡を見て今日のファンデの濃淡を決めたりするものだ。顔色をうかがうのは他人よりも自分自身だ。合うものを選ぼうと躍起になれる。
だが、あるのはガラスでの境界なのだ。
鏡ならば映るものを反射してそれに合おうと努力するもの。しかし、ガラスではそうなれない。ガラスから見えるのは自分よりも他人がよく見えるものだ。その向こうからも同じことだ。しかし、境界であるガラス自体は見えにくい。こちらから見る他人で都合を決める、向こうも同じように。
鏡に手を振れば振った手と反対の手が振り返すだろう。ガラスへ振れば他人が同じ手で振り返してくるだろう。
どちらも手を振った本人の期待を裏切って、振り返してくる。
鏡からは鏡像としてではなくガラスの向こうの誰かと同じように振り返してほしい。ガラスからは鏡像として振り返してほしいのだ。裏切ってほしいことを現実のそれらは裏切ってくれない。
期待に応えてほしいし、裏切ってほしい。面白いことが起きてほしいし、つまらないことはもう死ぬほど間に合っている。
ちょっと不思議が欲しいだけだ。
とんでもないことがほしいわけじゃない。まずいことなんか欲していない。おいしいものが欲しいだけだ。
とっても小さな頃、お母様たちが引いてくれたベビーカーで見ていた夢のようなものが欲しいだけだ。老舗じゃない出店で売られていたベビーカステラみたいに甘くておいしくて幸せになるものが欲しい。その気になれば手に入りやすいけど、お祭りで売ってるあれらでしか味わえないおいしいものが欲しい。
「っのにー…あほがぁー」
有名老舗店でもないのに一袋で千五百円以上もしてしまう出店のベビーカステラ。お祭りの終わったどこかで出店のものを渡されても片手に収まるかぐらいしか食べられない。特別においしくないのだ。おいしいけれど、お祭りのときみたいに一袋全部一人で食べたいにはならない。味は変わっていないだろう、気分の問題だからだ。気分の所為でまったく変わっていなのに特別に感じてしまうのだから。
「………」
その特別はお祭りじゃなくてもいた。ただ一人、あたしの親友の可愛い子、みくるだ。
あたしの家で気後れしていたが、結構猫のようなアグレッシブさがあるのが、みくるだ。ティーカップを温めている時間程度で仲良くなれた。いつもお誘いをされる立場だったのに、自分から喫茶店やブティックに誘うほどにおいしい仲になれた。みくるは、一生ものの宝物だ。他のだったらちょっとした外れで勝手に消えてしまうのに、みくるはやりかえしてくる。嫌な意味ではなく、一緒に友達として遊んでくれるのだ。一生大事にしたい人だ、本当に。
また別に特別がいた。未確認生物的なものの特別だろう。なのにそれにだ。まずいことに、異性物だ。私と比べてもお手頃サイズで、特筆すべき優劣もない顔の普通の男子くん。まずいのだった。ベビーカステラの材料に、自分用にとっておいたイカソーメンを混ぜてしまったみたいなもの。おいしくなるはずだったものみたいにだ。
おいしいものを全部混ぜればとってもおいしいものになるはずだ、と考えたものは多いだろう。あたしもだ。実行した結果はただただ悲惨だった。
当時の味わいを思い出してしまいながら、備え付きの鏡で自分を映す。。学校の指定用品だから家のと質など比べるまでもなく下だ。それでも、自分を見るという仕事は損なわれていない。
だから、おいしくないのだ。
あぁ、もう、なんてまずいのだろうか。
まずいものだ。まずい人だ。おいしいところなんてない男の子だ、彼は。魑魅魍魎している社交場の毒と刺ばかりな枯葉若葉よりもずっとずっとおいしくない男の子だ。見ただけでだめだとわかる、触らなくてもいけないものだと知れる、口に含むなどとんでもない。
まずい色々を口にもお腹にも溜めたあたしは、そろそろ変え時だろう鏡を触ってみる。それにはそこそこ大きめの皹がある。ついうっかり勢いよくこのまま手を動かせば手が切れてしまうかもしれない。その勢いの所為で鏡がついバキバキに割れてしまうかもしれない。掃除が面倒だ、と思うが、きっとすっきりするだろう。
破壊するのは大人であれ子供であれとても楽しいことだから。まずくてどうしようもないときにやる破壊行動は最高の快楽だ。元花札屋さんのゲームにあるスター状態を一度自分で体験したいものだ。大乱闘ゲームでハンマーで暴れまわるのもいいかもしれない。カートの方で当て逃げしまくってケタケタ笑っちゃうのもいいじゃないか。
それをあたしはやりたかった。だがしかし、そうしてやられたのだあたしは。
目の前でお目当てを取られてしてやられた。面白いものが欲しくて行動した結果、何故かあたしにとって面白くない結果として帰ったのだ。
もう遊んでやろうとして、弄ばれてしまった。昨夜で減点しかなかったたから遊ぶことで終わろうと思ったのだ。
期待を裏切られたのだもの、結局彼もガラスの向こうの何某さんだったのだもの。ガラス越しに何を感じろというのだろうか、それ越しに温度も匂いも彼の何も感じるなんて出来っこないというのに。
鏡の向こうの何とかさんにもなってくれないなら、もうよかったのだ。あのL・Cの鏡の国のアリスに出てくる白の騎士のような残念っぷりをよく教えてくれたのだから。L・C自身のモデルと言われる彼とそっくりなドン・キホーテっぷりにとても残念さを感じたのだから。から回ってるだけでつまらないのなら、懇意にする義理はない。
面白かったのにひどい。楽しかったのに時間の無駄。嬉しかったのにどうしようもない。
期待を裏切られたのだ、あの昨夜で全部。一日目で少しを、二日目で大分を、三日目の夜まで大いに。それが、夜には壊れて消えた。
そうなのだから。期待を裏切ってくれたから、やり返そうと思った。そうだというのに、あれだったのだ。なんてことをしてくれたのだろう、あの阿呆くんは。
「もーっどんないじゃないのよー、もー…っ!!!」
何を感じているだろうか。何を思ってしまうのだろうか。あぁ、まったくもってどうすればよいのか。鏡を見てしまわなくても自分がどうだか分かっている。ガラスに透かさなくてもなんともあっけらかんとしてしまうものだ。
あれからずっと口だけじゃなく、もうどうしようもなくニヤニヤしてしまうのだ。
なんてことになっているのだ、あたしってやつは!
▽
「むさくない、ここ?」
「あ? 孤食がいいのか、お前?」
「これが男飯ですかね」
「いや、それは違うだろ」
「チャーハンを炊飯器丸ごと一つ全部で唐突に作り出す奴だ」
「目の前にありますよね?」
「あんこ型力士になってしまうな…」
隔離された場所にてんこ盛りのチャーハンが夕食だった。食堂利用は女性陣により一時使用不能となっている。なので男組は校長室で食卓を囲む。校長先生の椅子争奪戦の勝者は古泉。これまでの人生でズルなしじゃんけんで勝ったためしがない俺は、一瞬で負けたのだ。
「食べきれたら賞金一万円もらえる量だよね、これ」
「材料費一万超えるよな、これ。店側腹切りすぎね?」
「八割が米なので一万円ほどは流石に……。チャーシューやネギに特化させたら一万円消し飛んでしまうでしょうけど」
「さんげんぶた? 九条ネギ?」
「三元
「割と魚沼ってついてるコシヒカリありふれてね? この前スーパーで四シリーズぐらいあったよ」
「一つの農家さんだけが作っているわけではありませんからね」
炊飯器一つ分とはいえサイズは業務用だ。食べ盛りな俺たちでもデザートのためにと簡単にいなせない。
味はもう抜群に旨いし、チャーシューなんかも大きめのがゴロゴロ入っている。しかも、スーパーで優しさしかないお値段になっている、まぁないよりはいいかなよりもちゃんとお高い味だ。それに、味変用にこの○の素みたいなのをかければ飽きは来ない。この謎の粉は食べ物に振りかけてから効果を発生させるタイプだ。だからと言って中華味がいきなりピザソースの味に魔変化は起こさない。味自体に変化はなくおいしさの変化がある。元がなじみの店の味なのが、テレビで玉手箱やー、とリポートされるレベルになったり、禁断の夜中に食べるジャンキーさを出したり、合法的な飛ぶぞレベルになったりとおいしさの飽きがこない。もしかしたらマンダラふりかけかもしれない、これ。
「ふー、食ったー……半年分のチャーハンくったわー…」
「僕的には二か月分ですかね」
「古泉凄いね、本土の人並みに食うじゃん」
「いやぁ、中国の人も主食米だけどよ、基本チャーハンで出てこねぇから」
「北方だと小麦系らしいですね。ラーメン、水餃子、饅頭、揚げパンみたいなのです」
「朝から豪華だなぁ、そりゃあ無双乱舞するし竜巻出せちゃうよね」
「その人は南の方だよ。南だと米が主食で、基本は雑炊みたいなおかゆらしいぞ。あと、餃子とチャーハンセットで食うのはやべぇやつだって思われるらしいぜ」
「日本でも東西でありますよね。ラーメンとチャーハンはアリだけど、お好み焼きに米はないだろとか」
「炭水化物と炭水化物はうまいからしょうがないよ」
「生活習慣病って何歳からでもなるってよ」
と、駄弁りながら校長室に設置してある冷蔵庫からアイスを取り出して食う俺ら。本来の学校でやったら親呼び出しだけじゃすまないだろう。
「えぇぇぇ、お前バニラに醤油って…」
「うまいよ? みたらしみたいな感じだって」
「僕の知り合いもオリーブオイルかけてバニラアイス食べてますね、意外とおいしかったですよ」
「○こみちの手先? そういやうちの爺さんもせんべい潰して混ぜて食ってたっけ」
「クッキー&クリームみたいにいけるんかね? 中濃ソースも結構いけるよ、でもケチャップは無理だったわ」
「なんでそんなとち狂ったことをしたんですか?」
「お母さんとお父さんがまずいから食べてみてって言ったから」
「意味わかんねぇよな。やっぱお前んちすげぇよ」
ここの冷蔵庫も面白使用だったらしく、調味料もいろいろ出てくれる。オリーブオイルは実際なんか高い味でうまかったし、ごま油もうまかった。ケチャップは勿論まずかった。二人もやべぇよ、まっずいまずいまずいとゲラゲラしている。
「ここバニラオンリーなんだな」
「そろそろラムレーズンの時期だったよね、たべてぇー」
「クレープのも何か新作出るらしいですよね」
「あのガシャポンなら先取りできそうだよな」
「あぁ、そいやロールアイスとか出てたよね」
「欲しくなってしまいますね。ですが……」
「あー…なんか、女の子ワールドしてたもんなぁ」
「あそこに男が入っちゃだめだもんね。うーん、中学の頃のトラウマが…」
ハズレももちろんある面白ガシャポン。あの自販機のようにそこかしこにあるが、食品だろうと日用品だろうと何もかもランダムで出てくるのは食堂にあるものだけだ。
そしてご飯、というカテゴリーで出てくるのはあそこだけ。他のは精々軽食ぐらいなんだ。お菓子もアイスもバケツサイズで出てくるのは食堂のみ。しかも他の所だと回数制限なのか、クールタイムが必要で一日限定先着一名様のみ一回しか使えませんなのも結構ある。あと基本日本で売っているものだけが多い。だから、ここもバニラアイスだけだ。これもうまいのだが、やっぱりチョコレート味やラムレーズン味、ストロベリー味も恋しい。
だが、その食堂に繰り広げられているのは女の子だけしか許されない場になってしまった。いつものようにきゃいきゃいとしていたが、寒暖差というか熱量の波が結構あるにぎやかさがあったんだ。月による潮の満ち引きの方があっているかもしれない。あの場でもそういうものがありそうだった。なんでもかんでも引き際を見誤るものは死ぬのでござる。
「内容は分かんないけど、分かんない方がいいよねあれって?」
「何にも言えませんね、具体的にも」
「その無敵のイケメンっぷりでなんとかしてくださいよォーーーーーーッ!!」
「キョンくん、人というのは無敵にはなれないんですよ。痺れて憬れるイケメンでも罪を犯せば処刑されますから」
「え、死罪になるの俺たち?」
「何にも言えないんですよ、具体的なことも」
「OH MY GOD……」
校長室にある多分特注の窓の外へ皆でお祈りする。お月様が雲から出て来たり隠れたりしておられる。まるで見ない振りしようかどうか悩んでいるみたいだった。
お祈りに刹那で飽きた俺たち。暇すぎたので校長先生の私物か分からないけれどゲームをした。友達とやる前提なのに友情を破壊するゲームだ。パペットは当然禁止である。結局オラオラもしたがリアルファイトはなかった。男の友情は拳を交えなくてもいいのだ。お互い立派な大人になるために経験や情報交換はする。その成果として、どこかの八世と六世のように、どう考えても実子な甥と姪をたくさんこさえたいわけではない。でもさ、魔法使いにはなりたくないんだ、当然だよね。
そうこうしてたらいい子はもう寝ていないといけない時間だ。ここでは家とは違ってお風呂を済ませてからごはんになる。歯磨きと風呂中にやり忘れていた髭剃りをしたからもういつでもスヤスヤしてもいいだろう。さっきは隠れてばっかだったお月様も、その真ん丸なお顔から出る光がとっとと寝ろ寝ろビームを放っているみたいだった。
窓ガラスの向こうのお月様のメンチ切りに慄くことはない。ライカンスロープではないので毛むくじゃらにはならないし、キャベツを盗んだからといって月送りされはしないんだ。アポロ十八号とか意外といるのかもしれないけどさ。
そんなことをぼーっとしながら考えていると予言者様のお言葉を思い出した。たしか……じしん持ちのクマが月で大乱闘するだったか。
→月を見る
月見なんてことはしないが、ちらりとは見ておこうと思う。あとで妹ちゃんに拗ねられたくないし。そんなことを胸に抱えながら窓に寄る。
その時、携帯が鳴った。いつもはマナーモードにしているのに、着メロが流れてしまっている。昔よく聞いていたのだ。今までは一度も鳴りはしなかったのに。
懐かしい思い出だ。楽しかった日々は匂いすら簡単に思い出せる。ラムネ菓子の粉っぽくて舌に張り付く、あの安っぽくてわざとらしい甘さも勝手に思い描ける。格好つけて飲み慣れようとした全然微じゃない微糖缶コーヒーの、しばらく他の飲み物を飲みたくなくなるあの押しつけがましいあの甘さもだ。それは一度でも味わえばしばらくご遠慮するもの。
甘いのに
→応答する
無視した。今更という感情があった。なにを、と。どうして、と。もう友達にだって戻れないっていうのに、と。
必要最低限の機能しかないくたびれた色合いの携帯さんは、それから一分以上歌っていた。いつもならこの携帯さんも喉があるのか、喉が疲れたからと言わんばかりにいきなりブツッと音が切れる。それなのに今日は随分喉の調子がいいらしい。耳障りなだけだ。
聴きなれて、聴き飽きて、聞き煩わしくなったそれの電源を落そうと思った。中学の頃流行った曲だ。みんなでカラオケでも修学旅行のバスでもよく歌ったもんだ。お世辞にも上手ではない俺ともよく歌った。中学でできた大好きだった友達。
その友達だった子は、俺の名前を呼んでくれる子だった。周りもあだ名だけでなくそう呼んでくれるやつらもいた。が、男でも稀だ。女の子なら尚更。それでも、中学の頃、俺を名前で呼んでくれるの女の子はあの子だけだったんだ。腰まで長い髪をしたあの子だけだった。
思い出せるのは楽しい思い出。女友達というより、たまたま性別が違った友達だった。その子とはゲームでも勝負でも遠慮なくズルもセコイもしあった。それで多少の喧嘩もした。それでもすぐまた仲直りして遊べる友達。そんなまだまだ俺と同じで子供っぽかった友達だった。
この気持ちと同じ煩わしい騒音の元を断った。電源を落とすというだけでもこいつは多少の時間がいる。長押しして十秒、そこから画面が完全に静まるまで三十秒以上はかかる。この間にメールなりが入ってしまうと、えっちらおっちらしながらメール受信を画面に表示したはいいものの、シャットダウンだ。面倒で鬱陶しい。
そして案の定、面倒が起きた。メールを受信しだしてしまった。再起動にもなかなか時間を要するのに。一思いに今日はもう携帯禁止にでもしておこうか。
→携帯を使う
誰からか連絡をくれるかもしれない。
そういう念のため。そんな念のためだけに一応電源は入れておいた方が良いだろう。携帯さんは餅がようやくぷくっと膨れる時間に画面を切り替えた。
〔メールを拒否しました〕
「は?」
[メールを拒否しました][メールを拒否しました][メールを拒否しました][メールを拒否しました]
と、何度も画面に表示される。この期に及んで悪戯か? 再度電源ボタンを長押ししていると、また画面に何か表示される。
[鶴屋先輩のメールを拒否しました]
一瞬、それで固まるもあの手この手で拒否を撤回しようとあがく。けど無意味で、それから二回同じ表示がされた後勝手に電源を落としやがった。
「こ、のやろぉっ!!」
ぶん投げてやった。絶対壊れただろう音をがなったそいつに舌打ちをしても意味はない。
拒否なんて考えてない、そんなこと俺が思うわけない。そうなのに、それが通じず意味の分からないことになってしまった。あの時と同じで吐き気がする。
あの時と同じことになるのか、そう思うと足もすくむ。勝手に立ってなんていられなくなって、勝手に体が丸まってしまう。それは恐怖から自分を守るためだった。こんなの嫌だ、と。そんなの無理だ、と。辛いことからどうにかして逃げるためにするものだ。
嫌だ、もう前と同じことは。無理だ、もう前と同じことは。
嫌われたくなどない、好きになってほしい。それは誰だってそうだ。でも、もっと。もっと苦しいのは、もう好きではないということだ。
一思いに嫌われるのならまだいい。嫌いではないけど、とつけば期待してしまう。ずっとそうしてくれるなら、こっちもずっと飽きもせず期待してしまう。どちらもそんなもの求めていないっていうのに。
嫌いではないなら、なんだというのか。そうでないなら、好きなのか。そういう言葉は誤解される。勘違いをしてしまう。愚かなピエロになっちまう。
またそんな恥ずかしくて辛くて苦しくて。嫌で嫌で嫌でしょうがないことしたくなんかない。
頭まで抱えた俺に光が当たる。学校の非常灯ではなく、月の明かりなんてのでもない。
「あ、いた」
携帯の明かりと一緒に、拒否してしまった人が来てしまった。
→
「壊れちゃうよ、はい?」
ちょうど足元にあったのか、拾って俺に渡してくださる。礼儀として顔を見てお礼をしなければならないが、とてもじゃないが今そんなことはできない。ダンゴムシのようにではなく、適当に紙をクシャッと丸めているような俺は絶対に鶴屋さんに触れないようにしずしずと両手で受け取る。自分でも出したことのないか細くて聞き苦しい声でもありがとうございますは言えた。
そこから何かはできなかった。デジャブだった。前と同じだった。二年前と、それとまたどこかの誰かと。忘れられないものと、忘れているという事実か夢かわからないもの。
ただの舌にも鼻にも沁み込んで消えないもの。
ただの
それを塞ぐように、それのかさぶたを剥がされないように、俺は口を閉じていた。二の舞なんて許してほしくて怖がった。
「なんで無視したの?」
許されない。また許されない。同じだったからだ。声がうまく出ず、否定として首を横に振った。
「無視だったよ、あれも」
またも許されない。そっくりだった。再度首を横に振る、さっきよりも大きくだ。違うんだ、お願いだから違うって分かってよ、と。
「ずっと、無視だったよ。ずっと、今日も昨日も。最初からずっとじゃない」
もう許されない。変わらなかった。首をもうずっと横に振った。違う、と。だから違うんだ、と。何が違うのか、何のだからなのか自分でも上手く繕えない。
「じゃあ、携帯見て」
言われた通りに見た。消したはずの電源は復活しており、画面も目の奥が痛くなるくらい光っていた。
[不在通知四件です]
そう電話も来ていたことを今知った。思わず顔をあげてしまう。彼女は笑っていた。
同じように、笑っている。どうしようかなと困っているような、どうしたらいいのと悩んでいるような。好意など角砂糖一つ分もないものだった。そこに嫌悪はない、憎悪もだ。ただ面倒だなと疲れちゃうなというもので、こちらを不安にだけさせるものだ。
「出てあげてよ。出てあげないのは、ひどいと思うよ、私でもさ」
面倒くさいなと笑っている。
「無視ってさ、ムカつくの。とってもね」
疲れちゃうなと笑っている。
「ほら、ここ。かけ直せるよ。電話してあげてよ」
もうどうでもいいよ、と諦めた顔だった。
「でも」
「あのね」
何も言えないのに苦しくて声を出すも、彼女がその三文字だけで喉も凍った。声は冷たくない、態度も。むしろ温かいもので、かじかんだ手を握って温めてくれるような優しいもので。
「ひどいことする人は、きらい」
優しく厳しい言葉だった。突き放すような言い方ではないのに、手を払われるような感覚を覚える。
指は勝手に通話ボタンを押していた。コールが二回目に入ったとき、相手が出た。友達だった子が出てくれた。
「…よ~ぉ、元気?」
その子もどもりながら返事をしてくれる。二年前より大人びた声だと思った。知りたくないものだった。
「いやいや、ちゃんと二年生だよ、留年なんてできるかよ、どうやんだよ」
その子の相変わらずの話し口に勝手に俺の口が戻った。昔みたいに、あれより前に、友達でいた頃に。別の人がいるのに、もうその子に夢中になっていた。
昔みたいに下らないことを話してた。部活の先輩と買い食いしようとしたら先生にしょっ引かれて目当てが売り切れちゃったとか。友達とバイト先の人たちとプールに行って全勝ちしてきたとか。塾の人たちとカレートッピング賭けをして流石に胃もたれしちゃったとか。似たようなことを俺も話すと、変わらず楽しそうに笑ってくれたり突っ込んでくれたりした。
楽しかった。昔みたいに話せることも、変わらずふざけられることも。けど、困るという感覚を覚えてしまっていた。笑うってのもなんだかお上品すぎた。大口開けてゲラゲラではなかったものの、悪戯盛りの悪ガキじみたケタケタとした笑い方ではなくなっていた。ノリもなんだか距離ができている。どつき漫才とはいかないものの、肘からどーんとくるようなものではなくなった。
なにより、楽しもう、としている。面倒くさいとまでは言わないけど、頑張って楽しもうとしていた。疲れちゃうなって隠そうとして、どうにか楽しもうと。友達だった頃は、そんなことしていなかったのに。
あれから変わらなかった。あれから戻らなかった。だって、俺たちは友達ではなくなっていたんだから。
中学で友達になった。そして、卒業間近で友達になれなくなったんだ。俺が友達をやめてしまった所為だ。その子は友達でいたかったのに、これからも仲良く友達でいればよかったのに。俺が、その子を女の子として好きになった所為だ。
女子だったけど、女友達なんて名前にならずたまたま性別が違うだけの友達。他の女の子とはそういうものになれなかった。同小の女の子は中学生になったら女子になりいつの間にか友達ではなくなっていたからだ。
コンビニで女の子が好きそうな可愛いキャラがおまけのお菓子なんぞに目もくれず、ポテチやらお徳用の駄菓子を一緒に買い漁っていた女の子がいた。そんな友達もいた。
が、高学年にもなると一緒につるむこともしなくなり、中学入学から二週間も過ぎれば友達からただの知り合いに代わってしまった。同じクラスになれた子も三月も過ぎれば会話はなくあいさつ程度だ。移動教室の度に定戦を挑み合った子も、移送教室ですれ違い目が合うとわざとらしく大きめの声を出し友達の女子たちと盛り上がっていた子もいた。
それを嫌だとは思えなかった。ただ、どうして、と困り果てた。だって、少し前まで芸人の真似をしてケタケタ笑い合っていたのに。だって、前は方言当てクイズで意地の張り合いをしてギャーギャーと騒ぎ合っていたのに。
それがなくなってしまった。日常だったはずなのに。小学生の時には当たり前だったのに。中学生になった途端、そんなのは夢幻だったと言わんばかりに。ゼロだ。マイナスでもなく、ゼロだ。友達は、友達だった子になったんだから。
だから、特別だった。
中学で女子の友達はできたが、どうしても女子だからと遠慮がちになる。小学校の時もお姉さんぶっていた子がいたが、中学生になるとそれは大分きつくなっている子もいた。バイキーンと大声では言わないが、影でもっと陰湿に広める女子もいたらしい。それもあって、俺なりに女子には苦手意識を持ってしまった。その様子に女子たちもちょっとは戸惑っていたが、咎めることはせず気にもしなくなっていた。
それで女子たちにとって友達扱いは無礼であると学んだ。あくまで”女子の友達”と意識しないと付き合えないんだと学んだ。
だから、特別だった。
「あのさ」
だから。
「彼氏できた?」
特別じゃなければよかった。
その言葉にようやく元気づいた声で惚気てきた。女の子みたいな高い声だ。中学の頃とあまり変わらないはずなのに、全然知らない人のようだ。話し方もまるで女の子だ。何にも変わらないはずなのに、俺はテレビの声を聴いているように感じる。言葉遣い、全然違った。全然変わっていないのに、違っていた。言葉の使い方、声の出し方、知りたくないものだ。覚えのある照れ隠しで咳の途中みたいな声、覚えている上手い喩が出なくて妙な擬音で誤魔化す話し方。
知りたかったはずだ。覚えていてよかったはずだ。
違う。
そんなはずはなかった。
知らないものに耳を寄せるたびに、俺の何かがこそげる。少しずつまた高くなっていくそれに、俺のどこかが削れる。覚えているものに耳を近づけると、俺の何かが割れる。ちょっとずつまた大きくなるそれに、俺の中の誰かが壊れる。そこから音一つも聞こえやしないから、どんどん分かってしまう。
知らなかったのものを理解できてしまう。忘れられなかったことを飲み込めなくなる。
あぁ、変わってしまった。この子も、もう変わってしまっていた。
「あぁ、俺?」
変わったのなら、ゼロになってしまったなら。仕方がないと思う。飲み干したコップに何を入れるかなんて決まっていないのだから。
「うん、まだなんだ」
随分思いつめた、そっか、が聞こえた。変わっていたのに、そっくりだった。
「んじゃ、切るわ」
戸惑ったバイバイ、が聞こえた。変わらず同じだった。
「なぁ」
同じタイミングで向こうも声をかけてきた。あの時と同じだった。
「好きだったぜ、ばいばい」
掠れた声のごめんね、を最後まで聞いて電話を切る。もう流石にわかった。ゼロではない。マイナスになった。もうないでは済まない。これからずっと、何もなくなる。友達だったこともなくなる。”友達ではなかった”で上書きされ、もう何も始まることもないんだ。
それに、もういいんだ、と俺の気持ちと同じ言葉を鶴屋さんが言った。
「もういいの、本当に?」
いつの間にか俺から離れていた。窓に寄って夜空を見ていた。電話なんて聞こえないよう、俺なんて知らないよう、鶴屋さんは俺に背を向け続けている。
「まだ、大丈夫だと思うよ」
そのまま俺に語り掛けてくれる。そのいつもの明るく小気味いい話口は、別物に聞こえた。そっけないではない。そっぽを向いているが、完全にそうではない。気を使われているんだ。仕方がない、と。困ったなぁ、と。面倒をみられているんだ。
「時間…考えちゃう暇をあげちゃうと、だめになっちゃうよ」
俺にもそんな経験がある。俺がその所為で勝手に友達でいられなくなったし、今も勝手に友達になれなくなっている。抜き打ちテストなのに、事前に予告しては意味がない。次もそうしてくれると甘えっぱなしになってしまう。
「話をしなよ、ちゃんとさ。分からないことをそのままは性質が悪いもの」
そういうのもあった。おかげで勝手な期待をして性悪な結末になった。二年もたったのに今も引きずっている。卒業してから今まで連絡一つもなかったのに。それにまた引きずられている。まだ大丈夫だと甘えているから。
「────君」
俺の本名だ。キラキラネームほどじゃないが、定年間近の先生でも読みを間違えられる。漢字もちょっと古めかしいからもある。だから、それに掠りもしないあだ名で呼ばれるのが楽だ。気楽だ。気やすくもなれる。友達なら尚更。
ただの知り合いで呼ばれると、流石にお前誰だと困った顔はする。だって、そいつがどんな奴が知らないから。どんな漫画が好きだとか、最近発売されたコンビニ菓子どれが好きだったのかとか。それすら何一つ知らないから。友達なら掃除中でもいつでもそんなことでダラダラずっとしゃべれる。でも、そんなやつではないから。
友達じゃないなら。
気を遣わないといけない。友達の兄弟の先輩とか、親がよく使う店の店員さんの誰かとか。気を使って相手するのは面倒くさい。何か向こうにやらかせば迷惑になる。友達がとか親がとか。俺だけじゃなく、むしろそっちの方が迷惑をかけて、今度は俺が友達たちに気を遣われちまう。
それは嫌だ。気だけじゃなく重くなる。重いものが宙にも水にも自然に浮かべる訳じゃない。ボートと同じ重量の鉄そのものが水に浮けるだろうか。ヘリウムガスの代わりに砂利を詰めた風船が浮かぶだろうか。どれも無理だ。重力というものは下にしかいかない。重いものは誰も持ちたがらない。置いて行かれる、放っておかれるだけになる。
今みたいに。
「駄目だよ、そんなのはさ」
前みたいに。
→
嫌だ、があった。ずっと、嫌だな、があった。教えられた通りにやっているのに、見本とは違ったものができてしまうような、そんなものがあった。
どんなに親しい相手でもほんの少しの嫌だを持ってしまう。それは単純に嫌悪感と呼ぶものではなく、違和感と呼べるものだ。これは誰にでもあるだろう。もしかしたら生まれたてほやほやの赤ちゃんでも持ってしまうのかもしれない。
たとえば、お手洗いで軽くメイクを治すのが日課の誰かにいつもは特に何も思わないのに、ある日からその誰かに違和感を覚え次から別のお手洗いに行くような。校則に違反しない程度の人でその日もそうだった。ルージュと呼べるほどのものでもなく、新作のグロスを使っていた。それがある日突然見かけたくもなくなったのだ。極稀に新作のおすすめを話し合ったりする人で、教室に戻ればまた普通に話をしている。なのに、その場所ではなんだか避けることになってしまった。
違和感はそのような一種だけではない。家の者に対しても、他の誰かでも、あのみくるにもどこかで多種多様に覚えてしまう。でも、嫌いではない。家の者にはいつも感謝を欠かさないし、他の誰かでも親切にして頂いたら欠かさない。みくるにも当然だ。好きだ、普通に。嫌いになんて欠片もなってない。ただ違和感が残るだけだ。それもいつの間にかどこかに行ってしまっているもの。
なのに、ずっと忘れないでいる。違和感というものではなく、嫌だとはっきり言えるようなものを。いつからか、前からだ。ずっと前から、最初っからだ。
だから、余計なものがつく。楽しかった”のに”。嬉しかった”けど”。少し前まではそこで終われた。でも、もう我慢の限界だった。楽しかったのに、どうして。嬉しかったけど、なんで。そうケチがついた。ここまでいけば不満という言葉では足りない。
不快だ、不愉快だ。砂場で作ったお山をよりによって先生に壊されるような、そんな裏切られたというものだ。
ずっと裏切られていた。まただ。さっきもまただった。そして、今もまた。
唆したのはあたしだが、素直に鵜呑みにするその阿呆にほとほと煮えるほど熱いため息が出る。どうして、と思う。なんで、と思う。どうしてそんなことをするの、と。なんでそんなことをしてしまうの、と。好くないんだけど、良いわけないんだけど。やる必要などないのに、余計なことなのに。
勝手に裏切る。勝手にひどいことをする。
そんな楽しそうにすることないじゃない。そんな顔見たことないのよ、あたしは。そんなに女の子と喋れるんだ。あたしにはもっと距離を開けるくせに。そんなに、そんなに、とあたしじゃ知らないことを見て聞いて分かってしまう。
嫌だった。そんなにだらけでずっと嫌になる。そこにはこの阿呆くんとそのなんとかさんだけの仲の良さがある。盗聴なんて下種な真似はしたくないが、ここから逃げてやる気もない。
だから、知ってしまうのだ。あたしじゃ作れなかった居心地よさなんてのが。気楽にしてる。遠慮せず楽しそうにしている。あたしが欲しかったものをどうして、なんで。
あたしにも。あたしにもなんでそうしてくれないの。
ずっと、ずっと、そうやってあたしに重ねていたくせに。
→
あたしを見ずに誰かを重ねているのだ。あたしと話しているのに、あたしじゃない誰かと話している。挨拶している時、あたしの声にも誰かの面影を探している。みくるたちと一緒におしゃべりしている時も、あたしだけ誰かの面差しを求めていた。二人で何となくいる時も、ついさっきも、また今も。
あたしを代用品にでもしているのだ。ジェネリック誰かさんとして、この人はあたしと一緒にいたのだ。あたしに誰かさんのデジャブを感じて嬉しそうに、楽しそうにする。ちょっとつまらない空気で気まずくなっても、そのデジャブでどこかしらそう感じていたのを知っている。少しよくわからないむず痒い雰囲気で気まずくなっても、そんなデジャブだけを噛みしめているのを分かっている。
あぁ、なんて自分勝手なのだろう。
厚顔無恥が過ぎる。自分よがりが過ぎる。わがままなんて可愛く言えるレベルじゃない、恥知らずだった。
誰もいない窓の向こうへ手を振っても意味がない。黒ずんでしまった鏡で自分の何をしっかり確認できるのか。ただ空しいだけだ。なら、そんなこと人にしていいことじゃないだろう。その誰かさんだって、そうだろう。それによりによって、あたしにもすることはないじゃない。
あたしが知った嬉しいも楽しいも、その誰かさんが既に経験しているものだなんて悔しいじゃない。
こんな空気の抜けきっていない風船みたいな人の好さを、あたし以外にも知っているなんて冗談じゃない。
クラスメイトでもない子の落とし物を下校時間のチャイムが鳴っても一緒に探している人だ。日直だからか先生からの荷物を当番の子より先に持ってきて、バレてよくそんな女子たちに小突かれている人だ。バスで困り切った母親と大泣きしている赤ちゃんを遠慮なく大笑いさせている人だ。外国人に道を聞かれて、まったく英語なんて出来ていないが目的地まで連れてってあげる人だ。
それらに人間として好さを覚えた。異性としての好意より、人として一種の敬意というか、うまく言葉にできない素敵さを知ったのだ。こんなの他の人も大なり小なりやっているが、彼らにはそんな素敵さは感じることは今まで一度もなかった。
信号機のない横断歩道で困っているご老人に手を貸す人はそれなりにいるし、いきなり道の真ん中で座り込んでしまった人に声をかける人もそれなりにいる。うっかり小銭を撒いてしまった人に無言でも一緒に拾ってあげられる人はそれなりにいる。何度もそれなりに見てきた。老若男女問わず良い人だと感じてきた。
なのに、何故この人だけにはそのよく分からないものを感じていたのだろう。
もっとスマートに手助けできる人を見ても、もっと手厚くフォローをしている人を見ても感じなかったのに。それらの人より身近だったからだろうか。高校三年生にになるまで同級生でもクラスメイトでも何度も同じようなものをそんなのを見てきたが、それでもなかった。大親友であるみくるにも感じなかったものをどうしてだ。
「ごめんなさい」
まったくどうしてだ。
「もうダメでいいんです」
どうして、そんなに。
「もういいんです」
どうしてそんなに近いの。
距離を取ったのに。模造紙三枚分もの距離をまた取ってあげたのに。それよりも、近い狭い。だけど、すぐ傍にはいない。手を一生懸命伸ばしてもギリギリ触れないそんな距離だ。七十強cmの距離があった。
「まずいんだってわかったから」
距離があった。手を伸ばさないといけない距離が。
「でも、本当はまずいんじゃなくて、ただ良くないんだって気づいたんだ」
距離があった。手を伸ばすぐらいの距離が。
「もっと。もっとちゃんと分かればよかったんだって。この緊張感とか、勝手に期待しちゃうとことか」
距離がある。手が出ないほどの。
「俺さ、鶴屋さんのこと結構前から好きだった」
手も出せないぐらいに距離を失くした。
「さっきまで、無意識にあの子を重ねてた。それからの好きだと思ってたんだ。糞野郎すぎるけどさ、鶴屋さんだけ好きじゃなかったって」
手を引っ込めたいぐらいの距離を壊した。
「それ、もうなかったんだ。もうそれなかったんだ、あの子みたいになんて言葉なくなってた」
逃げたいのに逃げ場を失くしていた。
「好き。鶴屋さんが好き。大好き」
逃げ場がないなら飛び込むだけだった。
「……おあほうさんがっ」
本当にあたしも恥知らずだった。
→
知らぬ間に好きなったという言葉ではなく、勘違いして好きになっていただった。
さっきの電話でようやくケジメをつけられたが、もともと俺の中でも終わっていた話だ。恋愛的な好きなんてのは、もうあの子にはどこにもなかったんだ。ただ、好きだったという過去をずっと引きづっていただけだった。
あのこそげたり割れたり、結局壊れたあれは今の俺ではない。過去の俺だった。友達だったくせに彼氏がいなくなった途端、調子に乗ってしまった俺だ。入学当初から彼氏彼女で仲良くしていたのを知っていた。それが、三年生になったら彼氏好みにしていた腰まである髪をうなじが見えるまで切った。性格もその時少し変わっていたのもあって、俺は勝手にそこからあの子を友達ではなく女の子と意識して勝手に玉砕した。告白してもあの子は俺のことを友達としてしか見なかった。それに表ではなんともないという俺に気遣って、中学卒業後は今まで一通の電話もメールもしないほど疎遠になっていたんだ。
そこに寂しいという気持ちがあった。今も残っている。春の中頃になってもしぶとく残っている雪のように。それは新雪とは違ってみすぼらしく薄汚れていて鉄製のシャベルでも壊すのに一苦労する程硬い。その上、腰ごと持っていかれそうなほどずっしりして、やけに冷たく痛いんだ。これはまだまだ綺麗に消せるまで時間がかかるだろう。
でも、それだけだった。あの子とようやく久しぶりに話していても、それがまた大きくなって踏み固められるわけでもなく、まだ異性として好きになってほしいなんてのは一つもなかった。
もういいんだ、と思うだけだったんだ。何が、なのかよく分からなかったが、鶴屋さんの駄目という声を聞いて、ようやく、ようやく思い知った。鶴屋さんの言葉通り駄目だったんだ、今まで。勘違いしていたんだから、また。
前は俺でもいいじゃないかと思い上がったが、今までは俺ではまずいんじゃないかって勘違いしていたんだから。
ずっと鶴屋さんに重ねていた。最初は意識できていなかったが、愚かしくも比べていたんだ。鶴屋さんの全部にあの子みたいだと重ねていたのも最悪だったが、さらに最悪な俺がいた。あの子を好きだった俺をまた勝手に思い描いていたんだ。鶴屋さんにあの子の面影を求めて、求めた挙句当時の自分の好意をまた再現していた。俺は鶴屋さんを意識できなかっただけでなく、当時の俺のロールプレイをしていたんだ。そして、あの時できないようなことをして無意識に当時と比べてるなんて。
なんて阿呆だ。鍬と鋤で顔を耕されてもしょうがないレベルだ。
けど、それはある日終わった。よりによって昨夜にだ。そして今さっき勘違いにも気づいた。なんてどうしようもねぇド阿呆なの、俺は。
また、とか、みたいに、とか勝手に勘違いしていた。また”前みたいに”好きになったんじゃないのに。いや、無意識にそう誤魔化していたのかもしれない。俺ならいいんじゃないかって思い上がれないんだ。だって、それはもう昔のもの、俺はもう北高二年生なんだ。
俺ではまずいんじゃないか、って勘違いしたのは、これの所為でもある。俺は今年進級して北高の二年生だ。もうそれなりに制服も着慣れた二年生。そして先輩は三年生の一つしかいない。これだ。これで勝手に拗れてる。俺があの子に恋をしてしまったのが三年生になってから、失恋は恋をして半年もたたずに達成された。
鶴屋さんと結構仲良くなれたのは二年生ぐらいからだ。その前は、SOS団の活躍に貢献したり労役を強いられたり、個人的に仲良くはなれていない。ついでとかおまけで友好を深めたが合ってると思う。友達の友達みたいなもんだ。それが俺たちも友達になり、もう恋愛感情なんてものを抱いている。
その好きが、ちゃんと鶴屋さん相手だって理解したのが今だ。保健室で紛れもない自分から溢した癖に、食堂ですっげぇ可愛いとこ見れてずっとニヤニヤしていたってのに。前みたいな好きだって勘違いしていた。違うってのに。前はふんわりあの子のことが好きだから付き合ってほしいしかなかった。今みたいに何個何個も終わらないくらい好きが言えるほどじゃなかった。
鶴屋さんのことが本当に好きだった。
確かにぷかぷかと浮かれてるけど、前は好きの理由をうまく言えなかった。友達期間が長かったせいか、一緒の空気だけで好きとか戯けていたのかもしれない。今は言える。
悪戯するとき如何にも悪戯娘という稚気溢れるにやり顔が可愛いくて好きだ。あんなちょっと困るほど可愛いのどうかしている。子供みたいなのに、お嬢様もしていて緊張して困る。にやりと口元が上に上がるが、そこがどこか品があるんだ。口の角度かと思いきやご自分の人差し指でちょんと挙げている所為だった。可愛いんだ、あれ。
悪戯しない時も可愛い。職員室に用があって同じように用があった鶴屋さんがこっそり挨拶してくれるとこも可愛い。先生とお話し中のときは流石にあまりしてこないが、先に終わってると待っててくれたりしてる。そのとき、お勤めご苦労様ですとかふざけ合えるのも好きだった。別に叱られに行ったわけじゃないが、職員室はなんだか嫌な緊張をするからとっても助かる。お昼時間とかじゃないときは、そのまま少しだけ駄弁ってそれぞれに戻るが、そのとき手遊びとかしてくるのがとてもかわいい。手話のなんかとかテレビで見たことあるのでしりとりしたり、ふつうにルール無用じゃんけんをしあったりする。そして、別れるとき、しっかり頑張るよーにっとかいいながら手をぎゅっと掴んできたりするところとかなんもかんもが可愛い。
可愛くて好きだった。ずっと、そんなとこが好きだった。
そんな鶴屋さんがずっと今まで好きだったんだ。
「…どこが、どこが好きなの」
抱き着いてくれている鶴屋さんは俺の胸元でくぐもった声で言った。見事なタックルでうっかりアクション俳優みたいに転がりそうだったが、何とか耐えた。今も耐えている。精神的な意味でもだ。
「前、缶で指切っちゃったとき一番先に手当てしてくれたとことか。この前もあのオケアノスんとこで一生懸命心配してくれたでしょ? 安静にしてなって人呼べばいいのに、付きっ切りで心配してくれてさ。心配させてごめんなさいって気持ちと、この人こんなに心配してくれるの嬉しいなって」
「……へんたい」
「しょうがないじゃん。本当に嬉しかったんだから、ごめんなさいもあったけどさ。この人素敵だなぁ、好きだなぁになるよ、いつもそうやってくれるんだもん」
背中を割と強めにつねられるが、気にしないことにした。
「たまにさ、部活終わりに会うとき、こっそりすぐ俺の近くに来るの可愛いなって思ってるよ。今まで普通に可愛いって思ってたけど、もうすごくそういうの可愛いって思う、好き」
「き、気づいてたの…うそ?」
「気のせいかぁ? って疑ってても会うときいっつもそうするから」
「気づかないで」
「いや、もうバレてるんだよね、当人に。いいんだよ、可愛いし好きだし、これからいつもそれでいいし」
「ょ…よくはないんじゃない? ……いやでしょ?」
「よいよ、いやじゃないよ」
「なんか……その、まずいんじゃないの?」
「何が? いいじゃん、そうしてくれると俺もっと嬉しいし好き」
片手だけだったのが両手十本の指で背中をえぐられていた。広背筋どころかもっと深部までもっていかれそうな強さだ。
「さっすがに痛しなんですけど」
「もっと痛がれ、あほシャドーくんは」
とか言うのに、少し力を緩めるのは大変ずるいと思う。
「で、続きね。購買でパンとか漁りに行ったときに会うじゃん? んで、こっそり今日のおすすめとか教えてくれるの好き。もうあのしたり顔で”お勧め”も教えてくれるとこも好き。面白そうになるの隠しきれないで、でも両手で口元隠してこしょこしょ教えてくれるとこ可愛いから」
途端、力の限りになってしまった。痛すぎて少しうめいたがまったく弱まらない。なるべく我慢して続ける。
「いままで無意識に可愛いっての分かってた。先輩を慕う後輩としてとかじゃなくてさ、ああいうなんつーのか分かんないけど見てるだけで癒される可愛いって思うのじゃ、実はなかったんだって」
「かわいくはない」
「可愛いけど、すっごく」
「なわけないでしょ」
「じゃあ、俺だけの可愛いだ。嬉しいな」
手持無沙汰にしていた自分の両手をようやく鶴屋さんの背中に回す。しっかりしているもののやっぱり華奢で柔らかくて抱きしめるまではいけなくなる。抱きかかえるというか、支えるような感じになってしまう。色々限界突破しちゃいそうだったから。それが気に食わないのか、俺の腕側に身を起こした鶴屋さん。相変わらず顔は俺側に向かずよく分からない方へ。
「今から、言います」
そう拗ねている声に何のことかと思い尋ねようとするも、みぞおちを指先で刺され呻かされた。吐き気は起こらなかったのは、護身術をちゃんと身に着けているからの技なのだろう。
「覚えててよ、シャドーくん」
そのまま親指でみぞおちをすりすりするのはどういう意味を持つのか、一旦保留にしておいた。次は完璧に打ち抜くのか、二度目はないのか。または。
もういいよ、という意味なのか。
→
やられた。してやられた。二回も、一気に。確実に止めを打たれたのだ。異性として告白され、こちらの好意をさらっとばらされた。その上なんか勝手に告白成功したみたいな雰囲気出してくる。
「今から、シャドーくんの採点をします」
なら、やり返すのは当然だろう。あたしは右だろうが左だろうが頬すら貸してあげない。三度なんてそこまで許してなんかやらない。
「もっと頑張ってお勉強してください。今のままだと学費の無駄でしかないから、十二点マイナス」
お世辞にも優秀とは言えない成績だからだ。一応平均にはいるが所詮一夜漬けでの成果は模試では役立たず。このままだとC判定すら数少ない。携帯のこの周波数よりも心許なさすぎる。
「もっとしっかり目標を決めてください。いつか頑張るなんて言い訳はもう無理だよ、八点マイナス」
もう高校二年生なのだから大学の学部なんてのもそうだが、就きたい職や企業なんてのも最低でも六は見繕わなければならない。お祈りだけでは何の手当もないのだから。声が大きくても聞いてくれる相手がいなければ意味がない。
「もっと人をよく見てください。嫌われるのも信用を無くすのも一瞬なの、十三点マイナス」
合計で三十三マイナスだ。実際のテストでここまでやらかしたらもうその教科は捨てるしかない。これの所為で基準点の下になれば、もうどうあがいても諦めるしかない。一芸入試にしてもだ。
合格ラインは最低でも七割は必要だ。それに満たない場合、妥協しなければならないラインになる。その中で良しとされるのが六割強、この人がそこにいる。まだ許されるかもしれないラインにいるのだ。
いつでも切られる場所にいるのだ。いつでももういいやってほっとかれる
飲み終わって邪魔になったペットボトルをいつまでも大事に取っておくなんてこと私にはできない。空いているゴミ箱があればすぐにでも捨てる。非常時には役立つからと言われても、今必要ない。いらないものだ。いらないものを貯め込む趣味もない。
いらなければ捨てる。いらないものだらけで部屋すら埋まるなど冗談ではない。
「そっか。うん、ごめんね、ずっと」
いらないのが近くにいても何の意味もないのだ。
いらないものを増やしても意味がない。インクの無くなったボールペンの芯などさっさと捨てる、割れたブラシがいくらお気に入りでも次のに買い替える、何かの記念でもらったキャラクターものも自分の手元になければ死んでしまうなんてこと起きる訳がない。
今もいらないものが貯まる。そっか、でぐるぐると喉の奥に。うん、でぐるんぐるんと肺の中いっぱいに。ごめんね、でもうなんの音だか分からない音を立てながら臓腑中全部に。
ずっと、で、もうぐちゃぐちゃだった。
「マイナス」
声までぐちゃぐちゃだった。何と表現すればいいのか分からない。吐き出している自分でも不快すぎるものだった。
「マイナスなんだから」
ひどいと思う。卑怯だと思う。卑劣だと思う。
「もう、絶対ないんだから」
もうおしまいだった。
「ないから…、本当にもう、ないんだからね」
もういらないの。もうおしまいなの。
「うん、もうしない。もう、鶴屋さんだけ」
シャドーくんがいる。傍にいる。もう、いる。
全然動かないわたしのもうすぐ近くにシャドーくんがいる。だからか、いつもとは違うように見える。
知らない顔だった。昨日までの困らせたいシャドーくんでもない、今日の困っちゃうシャドーくんでもない。悪戯したくてしょうがない顔だ。
「なに?」
シャドーくんのお腹のところをちょっと掴んで引っ張った。Tシャツがやっぱりペラペラで柔軟剤を使う必要性も知らないらしい。それの下、お腹が結構カチコチなのは少しドキリとする。爪先で少しなぞってると、流石にくすぐったいからかシャドーくんの手が私の手を摑まえてきた。
「もー…なんなの?」
悪戯っ子を叱るためかもっと顔が近づいてきた。いつも以上にゆるゆるでふわふわした感じ。でも、今までとは全然違う。なんだか可愛いもあるし、なんだかかっこいいもある。だけれど、その言葉だけでは役不足だった。
「あのね、───くん」
漢字で書くと目の前の人と違って大層厳つい名前だ。命名したのは数々の盆栽を破壊された大叔父様なんだとか。大変だなと親近感をいまさら抱く。わたしは流石にもっと丁寧に相手をしてもらいたい。
「うん、なに? もうちゃんと聞くよ」
彼の服から片手を放し、彼の唇をつつく。全部が欲しいのだ。大分カサついているそこをつつかれ、少しどうしようという顔をしていた。その少しでうっかり口に隙間ができていた。
引っ張った。悪食な長い真っ赤な舌を。
「すき」
引っ張ったおかげでしやすい位置に、キューピットを差し向けた。
→
「………」
舌を戻した。どこかの緑の恐竜とか、己のそれをマフラーにするワイの手持ちのような能力や異能はない。勝手に二枚や三枚、四枚と増えそうだった。これならどこかの姫も眠らず、魔女も満足するだろう。…牛タンじゃねぇんだぞ。
「ふふ、どう?」
「びっくりした……」
普通に今もどんどこびっくり中だ。予想外のことだったんだ。舌を引っ張られるなんてのも、鼻にキスされるなんてのも。予想なんてできるわけがない。
そんな予想外に面喰いっぱなしの俺に、どこか物足りなさを感じつつも物足りたという顔をする。
「うん、六七点」
「あー…ぎりー、かぁ」
赤点というわけじゃないけれど平均点より少し低め。全国模試なら大健闘してるだろうが、学校のテストでそれだと進路を低めにするしかなくなる。そろそろ俺の時期的に頑張らないといけないから、流石にもう十点あげないとBLACK遺棄になっちまう。こうして黒板をひっかく音よりはマシだが、くそうるせぇヒヨドリが泣き喚くまで学校から帰ってもずっと勉強しないといけない。ついついキ゜ィィィィイー!!という声で起こされたら投擲してやりたくなるが、そのときはこの世で唯一の救いだと思うだろう。ゲロよりはましだが痰を吐き捨てる、この重い水音もそうだ。郵便配達員さんの特に検索する気もねぇこんな謎絶唱もそうだ。
いや、悪夢だよ。救えねぇタイプの悪夢だよ。
「はっ?!」
「えぇっ、なに?」
朝だった。まだ薄暗いけれど、月の姿はか細く夜空の色も薄くて太陽の明かりが透けている。一応夜だったが、深夜三時とか四時などではなく遅くても夜の十一時らへんだったのに。
「朝じゃん」
「ほんとだね」
二人そろって窓に近づいて、そこから見える夜明けにきょとんとした。そしてそれは窓ガラスに映り、ついついお互い笑っていた。あまりにもそっくりだったんだ。
「もー、同じ顔はダメだよ、───くん」
「そっちもだめだよ、同じ顔しちゃさぁ」
「君のは面白いからダメ」
「なら、鶴屋さんのは可愛いから、だめ」
「……ん~」
やっぱりちょっと足りないという顔だ。赤点ではないし、まずまずだけど、高評価ではない。平均点に届かない。
「あのさ、───くんってあたしのこと知らないの?」
「ん? 鶴屋さんでしょ? 可愛い可愛い、可愛くてしょうがない俺が好きな人」
「んんっ!! …そうじゃなくて。いや、それでいいんだけど、嬉しいんだけど、ね。うん、今はちょっと別なの」
「うん?」
あだ名ではなく俺の本名をさも当然のように、嬉しさたっぷりのぷかぷかした口調で呼んでくれる鶴屋さん。それにつられてというかいつもそうだったけど、俺もこれ以上骨抜きされたら地球圏を一マイクロ秒もかからず飛んでってしまう感じにぷっかぷかだった。
「もー、名前、あたしの」
「あー……、呼んでいいの?」
「呼ぼうよ。……好きじゃないの、あたしは? お友達でいいの?」
「好きだよ、お友達嫌だよ、付き合いたいよ、カップルしたい」
「あはは、強欲ー」
俺って、強欲なのかな。どこかの精へ銀のも金のも、元々持ってたやつもくださいとか、機織りに来てくれた娘の正体によっしゃあ鶴鍋だ!! と何処かのごんのようにバキュンともしない。好きなら好きになってほしいし、もっと好きになりたいし、二人一緒にいるのが当然だよねって周知しててほしいものではないの?
とにかく、名前を呼んでいいと言われた。許可されたというか、お願いされた。外国人じゃないんだから、異性のファーストネームを呼ぶのはかなりの勇気がいる。周りの目、そして本人の目だ。まじかよ、がまずい意味で使われたりすることが多いんだ。ジャパニーズは奥ゆかしいのが美徳だからしょうがないんだ。
「あのね」
その美徳はこんな浮かれポンチの俺でも会得済みだ。スキルレベルなら三ぐらいはある。
「名前、分かんない、ごめんね」
レベル三なのでこの愚弄だった。
「ほんとに、も~……」
また物足りない顔だ。でも、さっきまでより大分満足そうだ。加点で五千ぐらい入ってそう。どこかの育ちすぎた蝙蝠おじさんより評価点増減がゆるゆるそうだ。
そしてまた手をこちらに伸ばしてくる。さっきみたいに舌を引っ張らるのでは、と身構えた。閻魔様みたいに舌を抜くとか、現代にも未だ生息している問答無用で抜歯してくる歯医者さんみたいなことはしないとは思う。が、さっきみたいなのをすぐさまワンモアというのは流石に脳も心臓も持ちやしない。どこかのメロスだって十里走り抜いた後よろよろだったんだ。三分も休めばまたすぐ十里走れるわけじゃない。走った足も痛くて重くてだるい、肺も同じだ。たくさん空気を吸い込みたいが、それも疲れ切ってしまい勘弁してほしい。
俺もそうだ。生存のためにはそれらを無視してなんとかするべきだけど、もう無理しんどい、一旦ちょっと何もしないタイムくれになる。死ぬからだ。今の俺的には、俺の二十一世紀型日出国男児の尊厳というか、その他の色々が。
そんな身構えた俺にきょとんとして、おかしそうにくすくす笑う。可愛らしく上品に口元は見せてくれない。人差し指一本だけで口元が全部隠れてしまうから。なんて小さいお口だ。お徳用羊羹を思いっきり丸かじりしてもハムスケが齧ったぐらいになるんじゃないかな。ドミノなピザMサイズな大きさでも、三秒では全然食べられないだろう。俺なら一齧りで三分の一強はいけるのに。
そんな俺が簡単に食べちゃえるサイズの可愛いお口が無音で言葉を作る。みみかして、だ。て、の部分でワザとだろう、俺とは違って可愛いしサイズも可愛い赤い舌を見せてくれる。あっかんべぇみたい相手を舐めてるものじゃなく、扁桃腺が腫れてないかでべーと突き出す感じでもない。
猫がついつい仕舞い忘れたという、あの面映ゆい可愛いものだ。その時のシャミセンの舌とちょんとつつくと、キョトンとした後ああ、うっかりしておったとすぐさま戻し何もなかった顔をする。あれも面白かわいいものだ。
でも、この人のは何というか。とんでもない緊張感と、むずむずとするものがあった。訳もなく走り回りたい照れくささという以上のなんというか、全国の消防車を呼びつけるレベルに顔が大火事だとか以上のあれだ。
あぁ、まずいんだ。まったくもってまずい。どうしようもなくなる。どうにかなっちまう。どうもこうもやらかしちまいそうになる。
ちっちゃな口だ。小さいものはかわいいもんだ。子猫や子犬、子がつく生き物は全部かわいい。少しでも目を離したらコロコロどこかに転がって迷子放送をかけまくるほどに小さいから。それに、鬱陶しくても楽しい鳴き声から断固拒絶の泣き声を出させちゃうくらいとにかく構いたくなっちまうから。
それに更にくるのがこの人にはあるから、もうどうしようになるしかないじゃないか。
子供っぽい仕草のくせに、緊張する。ワクワクでもドキドキでもない。むずむずでそわそわだ。落ち着かない、大人しく出来ない、ちゃんとしてなさいなんて出来っこない。
可愛いにプラスしてる。可愛くて
苦いはまずいに繋がりやすい。まずいと感じればじゃあもう一口はない。もういらない、別なのおくれだ。局部を隠せば上等の時代からそういうものだ。生存本能に従うのは当然。
でもこれは、
可愛くてしょうがないんだ。思いっっっきり抱きしめたい!! っていう衝動に、そのまま動かされるには理性というブレーキがまだ効いてしまっている。けど、ブレーキを踏めているからといって、この可愛すぎてしょうがない感を止められてもいない。いつでもブレーキからアクセルに踏みかえてしまえるが、妙に人としてちょっとステイという倫理観というか理性というのがギリギリでなんともできなくさせる。
うっかり俺の心臓が百二十デジベルでなってそうなくらい可愛くてしょうがないのにだ。あぁ、なにか。なにかしてやりたいのに、いやでもちょっとやめとこうで、なんもできんっ!!
しょうがなく。しょうがなく。可愛いで色々ぶっ壊れそうな俺は耳をお貸しした。
今度は悪戯はされなかった。
「………」
食べたのはこのっ。この、可愛い人だった。
「────」
名前を唱えてきたので、なんも出来ず俺は復唱した。
「二人のとき、そう呼んでね」
あぁぁっぁ、
親から電話コールが轟くまで、名前をただ呼びあうしかできなかった。
○○○○
硬球がホームランとなって打ちあがり、星顔たぬ、ハムスターがマスコットな球団の応援歌が流れた。
「ナ~イスバッティンッッよ、スーパースラッガー古泉君!!」
流石にチアコスではない団長様が勝利のコーラをスラッガー君に贈呈した。
「お褒めに預かり光栄です」
「お前も打てや」
「ここのバッド、こんなかよわ~い女の子には重すぎるのよバカキョン。あたし、お箸より重いもの持てないの知ってるでしょ?」
「そんなか弱かったかお前? だーから、缶のプルタブも十円玉ないと開けらんなかったですかぁ? 骨粗しょう症の婆ちゃん?」
「はぁ? あれは、たまたま爪切りすぎてただけよ。さっきあんたに開けさせたのもそうだから、骨密度なんて世界一よあたしは」
俺も助っ人として参加した野球の時、えらい様になっていたスウィングを見せてくれた、どうみてもか弱くは見えない団長様だ。そこで煽りつつも団長様を心配している幼馴染君より、打率も遥かに上だったと思う。
「骨密度の世界ランキングってあるんですかね?」
「そんなものはなかったと記録している」
「ないとしても、世界一ってことはさ、ウルツァイト窒化ホウ素並みの硬度でも持ってるのかい、ハルにゃんは」
「ダイヤモンドの三倍じゃん…まじ? 車に突撃されても罅も入らないじゃん。あ、もしかして跳ね飛ばしもできるの? すごっ」
「涼宮ハー○様…っ!?」
「オオバカキョンとドアホシャドーには残悔積歩拳を喰らわせてやるわ、そこから逃げんじゃないわよ」
そうして、いやだー、しにたくなーいっと二人揃ってハルヒに追いかけられた。伝承者ではなかったので、特に何もおきはしなかった。俺のお菓子様と幼馴染君のお財布殿がなんともお寂しいことになるが。
→383
「ゲームだと百とかくそ遅いと思ったけど、早くね? やっぱゲームは全部ファンタジー?」
「確か海にあるアースので最高速度七五行くんだって。やばいよね、当たればそりゃ死球だよ」
「軟式でヘルメットしてても普通に死亡リスクは十分ありますからね」
「まじかよ…今度からデッドボール避けさすわ、なるべく」
選手の依怙贔屓がひどい野球ゲームなどで、死球狙いはやめとこうと一応俺も誓った。こないだ幼馴染君とそういう泥仕合をした苦い経験からだ。
「あ、古泉良いなー、プレミアムじゃんそれ」
「やっぱりコーラはビンですよね、格別な味ですよ」
「俺らパチモンコーラなのに…」
○プシでもなく、駄菓子コーラだ。ここの中にある売店でのお品である。切るのをずっと失敗している俺に彼女が切ってくれた。相変わらず、しょうがないなぁ、と楽しそうだった。
「こういうのってさやっぱ原材料が違うのかな、配合?」
「おいおい、深く調べるなよ、デリートされちまうぞ、お前?」
「ク○アおばさんのシチューの秘密は調べていいのかな」
「地獄の傀儡子さんにアーティスティックなことをされるでしょうね」
「嫌だなぁ…じゃあ、○ンぐダム○ーツ 完結 いつ で検索しとくわ」
「ゲーム版サクラダファミリアになんてことしやがる。夏休み続かせてくれよぉ、もっとよぉ」
「主人公永久離脱ってかなりえぐいですよね。今後の数多の派生作品にお祈りしときましょう」
「黒フードいすぎじゃない? 後付けでもう十三以上普通にいるでしょ、あれ」
「もっと遊べるドン!」
「それは会社が違いますよ。あちらも別の意味で後付け頑張りますよね」
その会社のグッズの完成度を思い出すと途端に物欲が沸いてきた。俺は未だに本物探偵バッチが欲しい。子供の頃買ってもらったのは所詮はおもちゃだった。なんか光るだけだったんだ。彼女さんは血糊が出る帽子が欲しいと言っていた。うっかり殺人事件をしたいらしい、ガイシャはもちろん俺なんだって。たわし爆弾とか爆発する力士が、とかチェロを弾きながら椅子ごと這い回るだとか、天井なんてなかったとかとんでもミステリーをやってみたいらしい。天井がないお家とか違法建築で逮捕だと思うけど。推理バトルでなく頓智大会になりそう。
「つかよ、打てる打ち方ってどーやんの? ○突はまぁ無理として、種田打ちも一本足もまるでできねぇぞ」
駄菓子コーラを口にくわえながらスイングする幼馴染君。とてもじゃないが先発どころか二軍にもなれないだろう。どこかのたった三年で一軍スーパーエースになってWBCで優勝しちゃうなんてのは結局ゲームだからこそだ。今もバッティングセンターだからある程度打てるが、うちの野球部にもコテンパンだろう。その実力を抜きにしても集中力が足りない所為だけど。
「まず、体幹しっかりしないとだめどす」
「あと下半身ですね。バッドを振らなきゃいけないのに振り回されてはどうしようもないですから」
「あー、そっかー……重いコンダラなのナシで鍛えるには」
「走り込み」
そう俺と古泉がハモっていうと、お前たちには心の底からがっかりしたと言わんばかりの深~いため息をつきやがる。
「やらねぇわ、ポテン君でいいや」
「それも打ててない」
「黄金バッドがあれば…」
「大人げないですよ、キョンくん」
「俺はまだ子供だからいいだろ」
「高校生はもう子供料金でないだろ」
「しまったぁ……」
バスや電車は中学生からもう大人料金だ。小学校卒業時点で成人の呼ばれる年齢の半分はとっているから、半分はもう大人でいいんだろう。その時点で女子でもお母さんよりも背が高くなった子とかいたし。男子の場合は中学ぐらいから父親よりでかいのが多くなる。俺はまるで関係ないが。
「おーい、男どもー集合しなさーい!!」
おっと、団長様招集だ。女子たちが追加の駄菓子をくれるらしい。それに寄って行くと、今じゃゴミ収集してくれない小さな黒い袋がいくつか並んでいた。とてもリーズナブルなもののようで、お手製だろう色んなマークのシール付きだった。トランプのあれや、ぼげムた、まだ時期じゃないサンタさん、多分単位、ヒエログリフ、敗訴確定パチモン版権キャラ、などなど多彩だった。
「なんだよ、これ?」
「なんかおじさんたちがサービスってたくさんくれたのよ、ちっちゃい子向けなんだけどね」
「あー、昔行ってた床屋さんでよくくれたわ」
「えー……あ、じっちゃんばっちゃんちの方か」
幼馴染君のお家の都合で、夏休みなどに一緒に俺の祖父母のとこに行くこともあった。そこでお世話になることもあったんだ。一応気を使ってくれたのか、○沢や○口、カ○オやタ○オヘアーにされたことはない。
「未だにあるんですね、そういうの」
「ここでも昔っからやっているところはあるんじゃないかな」
「あぁ、サインポールというのがあるとこに?」
「でも、ご時世的に減ってきてるらしいわよ、ほら、アレルギーとかあるじゃない?」
「それはそうですよね、絶対ちっちゃい子たち楽しいでしょうけど、アレルギーは……」
「流石に減ったけど、そこで根性論出す輩もいるからね」
そう話しながら、吟味する。俺の”ハズレ”を皆は欲しいのだろう。俺は当然”当たり”が欲しい。”当たり”を意識的に外せるだろう長門は流石にこんなところでそんな無体はしない。能力も使わず、真剣にみんなと一緒にどれが当たりか探っている。
「皆とったわね?」
おしゃれにリボンではなく、麻糸だったりなんかの紐だったりで封をされているのをそれぞれとった。重さはそれぞれあれど、十キロなんてのはない。重くても精々二百グラム以下ないかだろう。
「じゃ、一緒に開けるわよ、せーのっ!!」
団長様に合わせて開け放ったそれら。ちっちゃい子向けだが、基本はお菓子らしい。レアとして宝石を模したおもちゃなどが入っていたりするが、俺はそれにかすりもしなかった。
俺は、当たりを手に入れたんだ。
→384
「俺は無実なのに……」
当たりを引いてちょっと残念がっていた俺に押しかかったのは、”大当たり”を引いてしまった団長様だった。ならば、取り換えっこしようなどという女々しさのない団長様はそれを全部平らげなされた。
で、八つ当たりでござる。
”大当たり”なので味的なおいしさとはご無縁で、誰もが思わず振り向く美少女であっても地上波向けではないものになる。そのあまりな様子に我が幼馴染君は必死に対応していた。生まれてからのずっとの付き合いだが、一度も聞いたことも見たこともない優しい声と健気さだった。その乙女ゲーにいるキャラような感じは、あの古泉も凌駕していた。生涯ハルヒ限定だろうが。
そのような沙汰なので、幼馴染君以外もなんとかケアをした。他にも客がいたので、それの野次馬化を阻止などだ。とんでもねぇことにこっそり写メを取ろうとする輩がいたため、暴力でない実力行使をさせていただいた。衆人の目がいきなり集中するのはおっそろしいのだ。
それもなんとか過ぎ去り、幼馴染君の成果もあり団長様は復活された。それでも、ちょっとアレで。幼馴染君もまぁアレで。その二人の空気がどうにも小恥ずかしく、当人たちも色々出来かねていた。それにあてられた皆もどうもこうも出来ない中、安心から俺は自分の当たりを食いだした。こんな場なのでリアクションは表に出せない。空気を読めないものは罰せられるのだ。
なので、罰せられた。理不尽である。どこかの雷神のおもらし雷みたいにひどい。
「百六十をホームランなんて出来たら、プロのなれちゃうんだけど」
打てるまで返さん、お前だけは、と釘打ちもされている。なり損ねた野次馬さんが結成されてもいる。己らで打っとってくれ、あんたらは。
百六十kmの球はすごく早い。とてもやばくてすごいくらい早すぎる。ボールが出たと思ったら、もう後ろの網に当たって落ちてるんだから。打てるかどうかの前に、ボールが見えん。手品かなんかみたく空間移動マジックでもしてるとしか思えん。
「はやくポンポン打ちなさい、シャドー」
「無理難題すぎるよ……」
団長様の気迫が、鬼軍曹と呼ばれたある監督と同じになっておった。流石に本人様ではないので胃から汗は出ないが、それでもグラビティすぎるもので足裏すら冷たく感じるものだ。そのお隣で彼女を心配している幼馴染君を含めて嘆願に助力してと合図するも、ごめんねで終わった。
そもそもポップコーンでもないんだからぽんぽん打ち上げることもままならない。ゲームの中ならぽんぽん打てるが、これは現実だ。打率一なんて余裕で下回る。
「うー…、てんで見えねー……」
これでもう六球も見逃した。いや、そもそも見えてない。マシンからボールが出た音と一緒にもう網の中だからだ。 体をいったん解すためスイングを三回ほどして、また構える。念のためヘルメットなどプロテクトをしているものの、それでわざともこれでは当てられっこない。七球め、音が鳴った瞬間に振ってみた。が、遠慮なくお通りなされてしまった。かすりもしてない。感覚的に通った後に振っているのは分かった。
「ファイトですよー、シャドーくん!!」
「負けるなゴーゴー、打てるぜゴーゴー」
「一発打ちましょう、シャドー君」
「すまん、頑張ってくれ、シャドー」
仲間の団員たちが応援してくれる。長門なんて応援歌っぽいのまで歌ってくれてる。セリーグのもパリーグのもごちゃ混ぜにしまくったのだ。団長様はムスッとしつつも俺が打てることは当然とみて目だけはちゃんと応援してくれていた。
俺の彼女ちゃんはといえば、にっこりだった。打てなくてもいいんじゃないかな、という顔をしている。本心は真逆であるというのに。目が合った時、こっち見なくていいよ、と口パクもされた。
嘘である。ここで、素直に戻すとあとで三分間見つめあいの刑に処される。これの何が刑罰なのかといえば、見つめあうこと以上はしてはならぬのだ。手を握ってもダメ、なら抱きしめてもダメ、うっかり髪を触ってもダメダメだ。嬉死恥ずか死してしまうからだと。大変まずいのでやめてね、と前にすべてやってしまったら全部真っ赤っかになって泣かれた。しかし、本当にそれを封印すると延長してしまう。うっかり泣かしちゃうほど可愛いのだ、俺の彼女ちゃんは。
「─────」
口パクをされる。素直に読み取ればがんばって、だ。実際はそれでも他の応援の言葉でも何でもない。多分これはこの間約束した動物も一緒に入れるカフェの名前だ。お連れしなくても入れるし、そこの看板亀さんがいるのでそれ目的でもOKだ。どこぞの太郎もこれのような大きさに乗馬ならぬ乗亀しただろう大きさの子だという。その子はリクガメだけど。
俺が打つのは確定事項だ。むしろなんで打てないのとがっかりはせず、すごく不思議そうな顔をすることだろう。打てたら打てたですっごい喜んでくれるしすっごい可愛いことしてくれる。何度かあった。何度もしてきた。
ゆるみ切った顔を引き締めて頷いた。そして、また構える。八球め、振ったが相変わらずかすりもしない。まだ打てる感覚が掴めないんだ。それでも、ボールがどれぐらいで打席まで来るのかは少しわかった。構えを解いて、両腕を肩を含めてぐるぐる解してまた打席に。
九球め、打てない。流石の残っていたギャラリーもいい加減にしろとでも言いたいのか、車のクラクションみたいなヤジが飛ぶ。俺の友達たちがなんか言ってやろうとするのを、俺の彼女が止めていた。目が合う。彼女さんはにこりともしない。口パクだけだ。今度は、俺の名前と、がんばって、と言ってくれた。うん、と頷いた。
十球目。追加でお金を入れればもうワンゲームできるが、百六十も出せるこの機体は他に比べてすこしお高い。それこそ、お店でケーキセット+カメちゃんにあげるおやつ代になっちまうぐらいだ。それは、もったいなさすぎるだろう。彼女ちゃんにしょうがないなぁって、おすそ分けさせるのはお恥ずかしいのだ。食べさせ合いっこするなら、自力でやる。
そして、思いっきり振り抜いた。雑念だらけのフルスイングだ。
音が鳴る。大声もあった。そんな雑音よりも気になったので振り返る。
超超超かっわいい俺の彼女ちゃんが、大好きー!!と大声で言ってくれていた。
→385
「打てると思わんかったわ」
「でも、打てたじゃない」
「百六十とか高校生で投げる人おらんし」
「バッティングセンターだと基本設定のマイナス十の球速らしいけどね」
「あぁ、ならギリいけたのか」
「基本的にはね」
「………おやぁ?」
「えへへ」
こうしてお帰りデートをしている俺の彼女ちゃんは、実は結構依怙贔屓がすごい。親友の朝比奈先輩もそうだし、彼氏である俺もそうだ。やり方は違うが、甘甘すぎる。将来必ず親ばか様になるであろう。
「実際の野球だったら打てなさそうだけどね」
「メジャーもそうだけどプロもやっぱり違うもんね。ミスターのジュニアさんとかも野球は自分の力だけじゃ無理って辞めたんだもんね」
「あの人は格闘技の方やりたかったらしいからね。そんでも高校から始めて周りボコボコにしてたし、野球やる気があればちゃんとやれたと思うよ。パパもやる気があればたくさん教えたのにって残念がってるし」
「パパが超感覚派だし、教わる気ゼロになっちゃったんじゃない? 指導方法テレビで聞いてたけど普通に分からないもん。ゴジラさんの理解力がすごいのか、ご同類なのかは知らないけどね」
「うちにもいるけどね、超感覚派。何グラムだかいちいち計ってられるか、全部しこたまぶっこめっ!! てのが」
「お母様じゃない」
そう、うちの母上様である。気分で作り勘で料理なさる。それでも台所に君臨して少なくとも二十年ぐらいおられる。なので、どうしようもないのは素面の時にはそうそうない。ご近所さんとか職場のお姉さまたちと飲んだ後の、ざっとした出来上がりは恐れ多くもまずい。おいしくないレベルではなく、まずい、シャレにならぬぐらいだ。彼女さんちからもらった残りのグレープフルーツにどなたかの頂きものであろう、外国語だらけの謎調味料とみりんと賞味期限は切れてしまっていたすりごま、コンソメ、たまたまあとちょっとのリンゴ酢を混ぜ込めてしまったのなんてのだ。悪夢だった。
「マミー、有名シェフの料理本とか買い漁るんだけど一ページの終わりに行く前にもう二度と読まないんだよ。買った途端資源ごみ化する」
「多分、一般ご家庭にない材料とかがまず載ってたりするからだと思うよ。オリーブとかベビーリーフとか単品だとあんまりお手頃にないもの。あっても既に加工済みだったりするし」
「あと、なんか調理器具がないとかも良く言う。うちには長方形のなんて卵焼きの奴しかないんだよって切れてたことある」
「おしゃれレシピ本あるあるだね。ありそうでない感じの調理器具すぐ出すもん。自宅でも簡単パン作りってので、当然のようにスケッパーとか出されても一家に必ず一個あるわけないもの」
「なんだっけ……ヘラっぽい奴?」
「柄のないのだよ。カード一枚ぐらいのサイズの」
大体このサイズと繋いでる反対のお手てで教えてくれる。よくうちに遊びに来てうちのママ上様の感覚だよりクッキングに、ハテナマークを乱舞させつつメモをしっかり取る彼女さん。その腕前でここまで育てられた身でも、適当すぎるとしみじみ思うくらいだ。でも、素面の時にくそまずいものを食わせられたことはない。ホットケーキを強請って大失敗や失敗はご自分で処理されていたし、お父さんと一緒でなんかおいしそうなものはまず俺にくれるし。たまに、素面でまずいから食ってみなとかされるが、ネタレベルだ。テレビの真似でオレンジコーヒージュースなるものを一緒に作って飲んで、まずいひどいとケタケタするんだいつも。
そういう方たちの腕すらきっちり習得される可愛い彼女さんがいる。頓智きすぎるまずいものから、一口でも食べたらうちの味だと必ずわかるものを習得されたのだ。空想の世界ではお嬢様は料理ができないというが、現実のお嬢様ほど料理上手はいないらしい。ご夫婦揃って全世界飛び回らないなら普通に母親が作るらしいからだ。その場でそう教えられた。給仕さんのフリするお茶目すぎる彼女ママさんだった。
「なんか、お腹すいたわ」
「あれだけ食べたのに?」
景品として近場の屋台のおっちゃんがたくさんくれたんだ。
「たこ焼きはおやつじゃん? 片手で食えるし」
「なら、おにぎりは?」
「それはご飯」
「タコス」
「おやつかな…いや軽食?」
「稲荷ずし」
「んー……じっちゃまの家だとおやつだから困るー」
青のりが前歯についていてたら、ついてるよ、と俺にあーんしてた爪楊枝でつんつんする彼女さんだ。お上品でない俺は飲み物でぶくぶくしてやろうとしたが、阻止され洗面台に連れて行かされた。
「あ、そうだ。景品忘れてた」
「ん? あれ以上あった」
っけと言う前に、小さめの紙袋が口に触れていた。
「金賞なので~とかは、流石にそこまでのじゃないから言えないけど、はい」
「ありがとう、開けていい?」
「うん、是非開けて」
紙袋とはいえそんなザラザラしたのじゃなく、ちょっとお高い感のあるのだった。紙袋を開けるとさらに小さい何かが入っている。それを開けると革製のキーケースが入っていた。
「キーケースだ。嬉しいけど、なんで?」
「ふふ、なんででしょう?」
なんか意味ありげに笑うお嬢様彼女からもらったのを手に取ると、すでに鍵が入っている感があった。
「これ…どこの?」
「あたしの家の誰かのお部屋」
「お、お、おへやぁっ?!」
お部屋の鍵なぞ修学旅行とかでしか預かったことがない。それも集団で泊まるようの部屋。彼女さん家は大きいからそれ用の部屋はあるだろが、”誰かの”とか言ってきた。
「家の人ちょっと用事があっていなくなるから、それで来てくれていいから」
「玄関締まってるよね?」
「今時顔認識なんて当たり前でしょ?」
いつもそうじゃないと、とまた彼女ちゃんはただ可愛いってのより大人な可愛さで笑うんだ。
「あー…帰ってきちゃった」
デート中はもうそれは一切出さずにいちゃついていたら、もう彼女ちゃんのお家だ。相変わらず大きい。ローン二十年少し残っている俺の家など三個は余裕で入る大きさでござる。夏場の草むしりやアリさん駆除などがこの上なく大変そうだ。お掃除を済ませて一安心したら、もうすでに復活しなんなら前より増えてるもんだ。
俺も両祖父母の方で経験済み。うちにも庭があるが、物干し用だ。かわいいパンジーさんを植えることも、フルーツみたいに甘いミニトマトちゃんを毎年育てるなんぞしたことはない。
こちらの心当たりはまるでないのにいつの間にか我が家の顔として自生しているヨメナやノビル、なんか秋に紫色の花が咲くのぐらいはいる。俺がなにがなんでも色んなものに上ろうとしている頃には勝手にいた。そんな奴らは流石にここでは駆除されてしまっているだろう。ミントテロも含めて勝手に何処からか来た方が居直りするのだから。
「あーあ、帰したくないなぁ」
「男側のセリフなんだよ、それ」
「じゃあ、言ってよ。待ってるんだから」
「大学で一人暮らしになったらね~」
「いいけど、あんまり待たないからね?」
そう言いながら、名残惜しいが今日はさよならにする。今日はうちの両親がそれぞれ日をまたぐお仕事になるから、お夕飯の用意をしなければならないのだ。幼馴染君の母君にお世話になれば、とお母さんにもご本人にも言われたが、”とっておき”をちゃんと買ってあるので大丈夫。レンチンできるのも湯煎のも、アルミなべ焼きスタイルも豊富だ。お腹より心が楽しみで空いている。
「────、また明日ね」
立派な門の前でさよならする。ハグなんて海外式はここではやれないので、可愛い彼女ちゃんの両手を握ってその額に軽くこっちのもコツンと当てるぐらいだ。寂しそうで物足りなさそうで、それでも少女のように幼く愛らしい笑い声を出した。それがまたとてつもなくかわいくてそのままグリグリすると、楽しそうにやり返された。
二十秒ぐらいしてなんとか離れる。これ以上続けると動けなくなってしまうので離れたくないということ聞かないもう片方の手をポケットにねじ込みながら、さようならと口に出した。そして足を後ろに動かしてここから帰ろうとする。
「───」
名前を呼ばれてしまったので、戻ってしまう。
「あのね」
緊張しているのか、いつも良く回る舌がたどたどしい。声自体も不安定だ。それでも聞き取りやすく好きな子の声なのでいつでも聴いていたい。が、聞いていたら恐ろしくまずいのではないかという、邪気さがある。
「今使ってもいいんだよ?」
と、キーケースを入れている方の裾を軽く引っ張ってきた。もらってからずっと握りしめながら手ごとポケットに封印していたってのに。
そうなんだけど。俺が足を戻すのは、前か後か。
誰でも分かっちまうだろうね。
グッドエンドです
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※手書き風テストその1(製作者 りけん様)を使わせていただきました。
どれぐらいのヒロイン数がいい
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二人ぐらい
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ハーレム