ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

12 / 24
第12話 星屑の軌跡

 

 

 腹の底から叫び声が迸り、吹き荒れる闘志の炎は天をも焦がさんとますます燃え上がる。俺の偽物の心臓を激しく鼓動させる戦意の昂ぶりに心を委ね、たった一つしかない命をチップにひたすら踊り続けた。

 猛り狂わねば生き残れない。

 そんな畏怖とも高揚ともつかぬ重苦しい重圧に耐えながら、命を懸けた戦場で泥臭く剣を振るい続けてどれほどの時が流れただろう。荒々しく吼えるは戦人(いくさびと)の意思か、それとも戦場に生きる獣の証明か。思索の暇などないほどに戦況は逼迫していると言うのに、追い詰められれば追い詰められるほど思考と行動が乖離していくようだった。

 ……いいや、それも誤りだ。戦闘開始から今に至るまで、無駄な行動一つ、無為な思考一つとてない、ないはずだ。そんな余裕のある戦場では断じてなく、余力を残せる相手でもなかった。ならば脳裏に浮かんでは消えていく戯言の端々は、これ全て生存に必須の欠片なのだろう。

 長きに渡る年月が、俺の心も身体もとっくに戦闘に特化したシステムへと組み換えていた。いまさら自分自身を疑ったところで剣の切れを鈍らせるだけだ。

 

 目の前を俺の胴ほどもある大型剣が唸りをあげて空を薙いでいく。寸での見切りにほっと息をつく間もなく、バックステップから一転敵の懐に飛び込み、その勢いを殺さず右の刃を一閃。ダメージエフェクトの光が散るもダメージは微々たるものだ。

 俺の一撃に怯むことなく逆袈裟気味に振り上げられた剣の一撃をどうにか受け止め、その衝撃に逆らわずに再び後方へと退く。退いた、というよりは弾き飛ばされたようにすら見えたかもしれない。もっとも今この場に観客など皆無なのだから見栄えを気にする必要もないし、そもそもそんな余裕もないのだが。

 距離が開いたと胸を撫で下ろす間もなく眼前に巨大な質量が迫り来る。一直線に襲い来る猛牛のような突進は理屈抜きで怖い。見上げるような巨体はそれだけで威圧感を放ち、常に恐怖の対象となるものだ。まして相手は人の何倍もの背丈を有する怪物である。そんな馬鹿でかい生物が勢い込んで体当たりをかましてくるなど、どれだけ肝が据わっていようが見たい光景ではない。

 現実で言えば大型車と喧嘩して勝とうと思うようなものか。でかいというのはそれだけで武器である。アインクラッドでは質量がイコールで脅威となるわけではないのがせめてもの救いだった。

 

 それでも怖がっていては戦えない。生き残れない。怯みそうになる心を叱咤し、逃げようとする足を押し止め、相手のぶちかましにも似た突撃剣技に呼応するように力強く床を蹴った。

 前へ。怪物の正面へと駆け出し、さらに踏み切る。勢いそのまま上空高くに跳躍することで空恐ろしい勢いで放たれた一撃を回避し、死角を取ったことで一瞬無防備を晒した巨大な背へと、前方宙返り込みのアクロバティック斬りで一閃。クリティカル判定を得たことを視界の隅で確認しながら、床を滑るように着地した。

 やたらと五月蝿く騒ぎ立てる心臓の脈動を無視して体勢を立て直す。ある程度の距離を稼いだことで急ぎポーションを取り出し、口にした。回復するHPバーを見やる暇もなく両手に剣を握り直せば再び仕切り直しだ。

 

 息つく暇もない剣技の応酬。

 これで一体何度目の相対だろう。時間感覚などとうの昔に麻痺していた。戦闘開始から今までどの程度の時間が経ったのか、もはや俺にはわからない、わからずに戦い続けている。やつのHPバーの減少と、俺のアイテムストレージから刻々と数値を減らしていく回復ポーションの残数だけが確かな標だった。アイテム個数の意味でも、俺の精神力という意味でも限界は近い。

 溜息を押し殺して敵を睨みつける。いくら先の俺の斬撃が単なる通常攻撃であり、ソードスキルを発動させたわけではないとは言え、もう少し手応えを感じさせてくれても良いだろうに。今の攻防で与えたダメージなど、やつのHPバーをわずかに削ったに過ぎなかった。その事実に泣きたくなってくる。

 それも仕方ないか、と断じる思考は諦観が入り混じった苦々しいものだった。

 俺が相手をしているのは有象無象の雑魚モンスターではない。迷宮区最奥を守る最難関そのもの、すなわちフロアボスなのだから。

 

 第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》。

 頭上にねじれた角が聳え立ち、広間への侵入者を睥睨する瞳は青白く輝く。その(かんばせ)は山羊のものだ。はちきれんばかりの筋肉の鎧を纏った屈強な体躯もまた青に染まり、胴の下部――腰から足にかけて濃紺の長い毛に覆われているため、これぞ悪魔と言わんばかりの大型モンスターだった。ご丁寧に長い尾はコブラという異様さだ。そして手にするのは巨大な肉厚の刃で、あれに一刀両断されたら瞬く間にHPを全て持っていかれてあの世行きだろう。

 大広間は床一面が青白い輝きに満たされ、格子状に炎エフェクトが吹き上がっていた。温度を感じさせないガス炎のような揺らめき。蛇のようにおどろおどろしく身を躍らせるそれは、この世とあの世を隔てる境界線のようにも思えた。縁起でもない……!

 

 これもグリームアイズの威圧感を際立たせる演出だとしたらたいしたものだ。部屋は全体的に薄暗く、燭台と床からうねるような炎に照らされる仄暗い明かりが全てだった。だからこそ悪魔の異形も引き立つというものだ。これが開けた草原で、涼やかな風と爽やかに照らしつける日光が背景ならば、こうも恐怖を掻きたてられはしない。

 フロアボス戦において何より重視されるのは、冷静沈着を実践できる肝の太さと、決着の瞬間まで最善の選択を選ぼうと努め続けることのできる集中力だった。鋼鉄の意志とも呼べるそれらを維持するためには、忍び寄る死への恐怖と異形に怯える原初の恐れを克服しなければならない。その最たる敵の一つが暗闇だった。

 暗闇はただそこにあるだけで人の心をかき乱す。その上、今この場には自然界にありえない青く灯る炎の蛇が遊び狂っているのだ。舞台装置としては最悪の部類だろうと思う。仕掛け人としては最高の小道具なのかもしれないが、こちらは命が懸かっているのだから勘弁してもらいたいものである。

 

 刹那の判断の連続が要求される戦闘で心が乱されるのは好ましくない。それはこちらの判断ミスを誘うことももちろんだが、フロアボス戦においてはもっと即物的な理由があった。すなわち、スタン対策である。

 気絶効果と呼ぶほど決定的な隙を生むものではなく、一瞬の金縛りにあう程度の遅滞に過ぎないのだが、それが戦闘中に起こるとなれば座視できる問題ではない。ましてフロアボスを相手にするなら、ゼロコンマ以下の行動停止が生死を分けることだってままあることだった。

 グリームアイズが吼え、恐ろしげな雄たけびが広間に響き渡り、ビリビリと肌を焦がす。これだ。これこそがフロアボスと一般モンスターを隔てる大きな差異の一つ。その雄たけび一つでプレイヤーの動きを阻害する、広範囲に渡るスタン効果を誘発するのだ。

 その判定基準はフロアボスの発声ウェーブを食らった瞬間の心拍数の変化だと言われている。プレイヤーの怯みがシステムによってそのまま物理的な縛鎖となって表れるのだった。胆力の足りないプレイヤーはこれだけで封殺されかねない。フロアボス戦で被害がでかくなるのはステータス数値の差だけではなかった。

 

 とはいえ、俺にとっては見慣れた、もとい聞き慣れた攻撃でしかない。俺に限らずとも攻略組でフロアボス討伐戦の常連になっているメンバーは、いまさら雄たけび一つでスタンを誘発されるような柔な根性をしていない。それは単にフロアボスの異形や迫力に慣れて、恐怖を感じる感覚器官が鈍磨しているだけかもしれないが、それでも構わない。

 感覚の鈍磨も適応の一つである。戦闘に適した心構えが自然と形成されているのだから、ひとまずはそれで良しとしておくべきだった。それがこの世界を生き抜くために必要な能力だというのなら身に着けるだけだ。嘆くのは現実世界に戻った後にすれば良い。

 雄たけびに惑わされることさえなければ、その行動は逆にボスの隙になり、攻撃に転じる好機となる。再び剣撃の雨を降らせんとソードスキルの発動を準備し、そっと腰を落とした。

 ソードスキルの纏う燐光が二刀を包み込む。一瞬の溜めを作り、短く吐き出した呼気を置き去りに一瞬でグリームアイズへと肉薄した。

 

 二刀流剣技《ダブルサーキュラー》。

 防御の間に合った巨大な剣の腹に右手に握ったエリュシデータは弾かれたが、元々俺の繰り出したソードスキルは二段構えだ。左に握ったダークリパルサーがガードの隙間を縫うようにグリームアイズの腹へと吸い込まれ、綺麗に一撃を決めた。グリームアイズのHPバーが目にわかる勢いで減少し、システム内部で痛み信号でも入力されているのか、青い悪魔は悶絶するかのように叫び声を轟かせた。

 追撃を、と剣を強く握り締めた瞬間、嫌な予感を感じて身を投げ出すように横っ飛びを敢行。その刹那、丸太のような豪腕が俺をなぎ倒さんと鋭く振るわれていた。思わず冷や汗が出る。あと一瞬判断が遅ければこめかみあたりに一撃を貰っていた。剣の間合いに入るために至近を余儀なくされるとは言え、その分だけ視界が狭まるのはやはり心臓に悪い。本来ならスイッチを駆使しての接近と後退を繰り返す波状攻撃を行うべきなのは重々承知しているのだが、それもソロでは無理な相談だった。今、この場にいるのは俺とグリームアイズだけだ。

 

 ……失敗したな。

 心からそう思う。今回ばかりはソロで威力偵察などするべきではなかった。後悔先に立たずとはよく言ったものである。

 ソロでのフロアボス戦。クォーターボスのような規格外の相手でなければ、俺一人でも先遣隊の真似事くらいなら十分務められる。それは今まで何度も繰り返してきたことだし、今回もフロアボスの顔を拝んだら適当に一当てして帰還する予定だったのだ。それを不可能にしたのは、この部屋を支配する《結晶無効化空間》という忌々しいトラップだった。

 攻略の要所要所でプレイヤーに立ち塞がる結晶無効化空間には俺自身、幾度となく煮え湯を飲まされてきた。その分、迷宮区の攻略については細心の注意の元に進めてきたのだが、フロアボスの鎮座する大広間が結晶無効化空間に設定されているのは初めてだった。第1層から第73層まで一度たりともなかったことだ。

 フロアボスの広間を結晶無効化空間が覆うという事態は誰も想定してこなかった。というより、誰もが想定したくなかった最悪の事態の一つだったと言うべきか。ただでさえ死亡率の跳ね上がるフロアボス戦で結晶が使えないなど、いよいよ茅場が俺達を皆殺しにするつもりかと疑わなければならない有様だ。これではあまりに難易度が跳ね上がりすぎる。

 

 しかし愚痴を零すにもここから生きて帰れなければどうしようもない。さてどうしたものだろうと悩んだところで、これまでの方針が変わるはずもなかった。戦闘継続、それだけだ。

 未だに俺が一人で戦っているのは何も蛮勇を振りかざしてのものじゃない。グリームアイズを前に逃げ出す隙が見出せないだけだった。

 フロアボス戦における鉄則は幾つかあるが、そのうちの一つは《ボスに背を向けない》ことである。ただでさえフロアボスの攻撃はクリティカル被弾率やスタン発生率が高めに設定されているのに、そこで状態異常判定を大にする背中への攻撃を受けようものなら問答無用で動きを封じられてしまう。ましてグリームアイズの速度は俺の上を行く。軽々しく背を向けて逃げ出すわけにはいかなかった。

 仲間の支援を望めない以上、数瞬と言えど動きを封じられればあとは渾身の一撃を受けて終わりである。そんな末路はごめんだ。

 

 こんなところでもソロの弊害は出ている。最低限ペアさえ組めればスイッチが使えるのだ。そうすればここまで戦術が限定されて苦戦することもなかった。俺と同レベルといかずとも、せめて最低限連携の取れるパートナーさえいればやりようはいくらでもあるというのに……。

 いよいよフロアボスを相手にソロは絶望的か。持ち込める回復アイテムにも限りがあるし、その回復アイテムを使うにしたってソロでは厳しい。一瞬の猶予を作りだすのも容易ではなかった。

 なによりまずいのは、あまりに長引き過ぎた戦闘時間が俺から集中力を奪いつつあることだ。このままでは遠からず致命の隙を晒しかねない。回復アイテムも底を尽きかけているし、常備している結晶も使えない。用意しておいたポーションの残り個数や俺の疲労を考えると、取れる手段は二つだけだ。

 すなわち、リスクを承知で俺の敏捷値を上回るグリームアイズを出し抜き、脱出を図るか。それとも短期決戦に全てを賭けてグリームアイズ撃破に舵を切るか。乾坤一擲を期するしかない苦境に俺はあった。

 

 70層を超えて以来、迷宮区に出現するモンスターのアルゴリズムに目に見える変化が現れるようになってきた。これまでより敵の思考ルーチンが大幅に広がり、多種多様なパターンを見せるようになったのである。例えばHPの減少したプレイヤーを優先して狙っている節があったり、ソードスキル発動直後の技後硬直時間を見越して的確な反撃を選択するようになったりだ。

 明らかに攻略難易度が増している。そしてそれはフロアボスにも適用されている共通項だ。プレイヤーを相手にするのに比べればまだまだ荒削りな戦術ではあるが、時折こちらの狙いを見透かしたかのようにひやりとさせる行動を取ることが多くなってきた。

 気のせいではないだろう。攻略組の中でも深刻な問題として取り沙汰されているし、俺自身の感覚で言わせてもらうなら間違いなく敵モンスターが強化されてきていると断言できる。敵AIの学習速度が増しているのか、以前ならば容易くフェイントにかけることの出来た場面でも的確に反応してくるようになった。

 まったく冗談ではない。そのおかげで俺は今、盛大に苦労しているのである。

 

 確かに俺のレベルは飛びぬけて高いし、二刀流のおかげで攻勢に関しては全プレイヤーでも指折りだろう。しかし元々が軽装の盾なし剣士スタイルなのだ。攻勢に特化している分、防御面は脆い。

 一寸の見切りやパリングで極力回避を繰り返し、間に合わない場合はクリティカル判定の発生しづらい箇所で攻撃を受けることでダメージを最小限に抑えてきた。その程度の技術がなければソロでフロアボスとなど相対できない。無防備に攻撃を受けるようなことがあれば俺なんてすぐにあの世行きである。

 しかし武器防御や回避運動にだって限界はある。どれだけプレイヤースキルを突き詰めようとも不可能は厳然として存在するのだから、直撃判定は封殺できてもかすり判定までオール回避できるわけではなかった。加えて今回の場合、奴の両手剣技を防いだとしても、その合間に繰り出される噴炎までは防ぎきれない。奴の呼気はそのままダメージ判定につながる嫌らしい仕様だった。恨むぞ、茅場。

 そもそもフロアボスからの一撃は、中途半端な当たり判定でも十二分に俺の防御数値を抜いてくる。そんな有様で盾を持たない軽装の剣士がまともにフロアボスの一撃を受ければどうなるか、言うまでもないことだ。

 

 だからこそ、撤退のタイミングを図れずにいる。万が一を考えると迂闊に逃走を選べない。

 ……これ以上はもたない。腹をくくるべきか。

 その決断を下すまでに要した時間は短かった。元より残された猶予も少ない。

 戦場において性急な判断がミスにつながりやすいのと同様、決断できないことも死を迎える最大の要因だった。勇敢も過ぎれば蛮勇となるように、慎重も過ぎれば臆病となってプレイヤーの命を脅かす。進むか退くか、その判断を瞬時に下すバランス感覚こそがソロで生き抜く大きな要因でもあった。引き際を見誤る危険は重々承知している。そして今は決断の時だった。

 

 ――グリームアイズを、討つ!

 

 当初は四本あった青眼の悪魔のHPバーも既に最後の一本を残すのみとなり、そのゲージとて大幅に減じていた。我ながら良くもソロでここまで削れたものだと褒めてやりたいくらいだ。そして折角ここまでHPを削れたのだから、出来るならばこの場でボスを撃破してしまいたかった。ついでに俺の安全のためにも、この辺でご都合主義的に騎兵隊が訪れてくれないかなあと切望する次第だ。たまには神様も俺にサプライズのご褒美をくれたって良いじゃないか。

 そんなどこか気の抜けた思考に苦笑が漏れてしまった。そうして自身の暢気さ加減に顔の強張りがほぐれたところで、その思いもよらぬリラックス効果に驚く。強張っていたのは何も表情だけではなかった。剣を握る掌も、気負いによって微かに震えていた身体も、鉛を引きずるように重苦しかった足も、その全てからほんの少しだけ疲労が抜けた。活力が戻ったのだ。

 どうやら知らず知らずの内に随分と張り詰めていたらしい。そして俺の意識の外で、過ぎた緊張が適度なものへと作り変えられていく。これはこの世界を長い間生き抜いてきた経験の賜物なのか? 身も蓋もない言い方をしてしまえば人の生存本能というべき力は本当にすごいものだと感心してしまった。

 いける……! 今の俺なら限界だって超えられる。疲労がなんだ。恐れがなんだ。そんな有象無象、意思の力一つで乗り越えてみせる。俺のポテンシャルはまだまだこんなもんじゃない。

 

「前座はいい加減終わりにしようぜ。真打は次の第75層――最後のクォーターポイントなんだ。いつまでもお前如きを相手にしてられるかよ」

 

 アインクラッドのモンスターに言語機能なんかついちゃいない。そんなことは百も承知の上で不敵な笑みを浮かべ、傲岸不遜に言い放つ。

 古来言葉には言霊が宿ると言う。ならば言葉とは力だ。向ける相手は他者でなく己、俺自身だった。刻んだ言の葉を身体の隅々まで行き渡らせ、血肉に変えて循環させる。思い込みも暗示の一種だ。あるいは法螺吹きだろうとハッタリだろうと構わなかった。要はそこから如何に利を汲み取るか、意味あるものに変えるかだ。勝つためのビジョンすら描けない戦いは敗北必至でしかない。敵を打倒するイメージを鮮明に脳裏へと描いていく。

 返答は天高く吠え渡る今日最大の雄たけびだった。まさか俺の挑発じみた言葉を解したわけでもあるまいが、叩き付けられる殺意はシステムの産物とは思えぬほど生々しいものだった。

 空気を震わせる悪魔の叫びを無念無想の心持ちで受け流し、だらりと下げた両手を始点にふっと力を抜く。意図的に虚脱状態を作り出して最後の攻防になるであろう時を静かに待った。脳内では一瞬の後に訪れる剣技の応酬のシミュレーションが展開され、幾通り、幾十通りものパターンがめまぐるしく浮かび、弾けていく。

 

 一瞬の静寂。俺の足が地を蹴ったのはそれから間もなくのことだった。

 先手を仕掛けることに決めた。後手でも勝機はさして変わらない、勝率に大差ないなら後は好みの問題だった。ならば守勢よりは攻勢を選ぶのが俺である。

 俺の初動から一拍遅れてグリームアイズも飛び出す。弾丸のように疾駆する様はその巨体にひどく不似合いだ。このフロアボスに設定されている筋力値、敏捷値が共に尋常なものでないことを無言の内に示していた。真正面からの消耗戦で俺に勝ち目などない。

 だからなんだ、と歯を食いしばって身をひねる。

 力も速さも敵わない。だったらわざわざ相手の土俵で戦ってやる義理はない。受け止めきれないならかわせばいい、逸らせばいい。俺がこれまでどれだけフロアボスが放つ致死級の一撃を凌いできたと思ってやがる。この程度の苦境、俺にとっては日常茶飯事だ。

 

 盾なし軽装最大のメリットは敏捷数値を生かした精密な身体操作である。クリーンヒットを貰えば大ダメージを受ける反面、細かな身のこなしでダメージ判定を最小に絞り込む防御術に長けていた。無論、そのために必要とされる胆力やプレイヤースキルも相応のものだが、そんなものは慣れの一言で済む。経験は決して人を裏切らない。

 最高速近いダッシュからの急制動、加えて半円を描く見切り回避から間髪入れず遠心力を込めた一撃につなげた。グリームアイズのわき腹のあたりを横なぎの一閃がヒットする。こうした無茶な身体運用もこの世界ならではのものだ。現実世界でこんな動きを再現しようとしたら筋肉か関節を壊す。

 返しの太刀はすぐさまやってくる。俺の一撃への返礼とばかりに振るわれた、振り向き様の一文字を目にするや否や身体を沈め、頭上を通過する暴風の剣をやり過ごす。地に沈めた体勢は反撃への布石だった。溜め込んだ力を解放するように飛び上がり、捻りあげるように無防備に空いた胴体目掛けて二本の剣を突き出す。二つのダメージ判定の内、一つがクリティカル表示を示した。

 しかしダメージ総量自体は大きくない。やはりソードスキルを叩き込まねば消耗戦は不利だった。出血覚悟の短期決戦に持ち込まない限り、俺の余力が先に尽きるのは変わらない。

 

 グリームアイズの戦慄きと共に剣でなく丸太のような豪腕が迫る。回避は間に合わないと判断し、交差させた剣で防御姿勢を取ることでダメージを最小限に抑えた。とはいえ、その衝撃で再び距離が開く。俺の体勢も崩れていた。

 その一瞬の隙を見逃すことなくグリームアイズの猛攻が始まった。攻守が入れ替わり、グリームアイズの放つ連撃の刃を時に弾き、時にかわすことでなんとか反撃の機会を伺う。焦ることはない、焦りは剣を鈍らせる。今はじっと耐える場面だった。

 右の剣で弾き、左の剣でいなす。受け止めきれないダメージが俺のHPを徐々に削っていく様に頓着せず、ひたすら致命の一撃を避けることだけに腐心した。

 ややあって――。

 二十合を超えてなお俺を捉えきれないことに焦れたのか、一声吠えた悪魔がその巨体を最大限生かす構えを取った。すなわち、大上段からの振り下ろしである。その瞬間、奴のガードの上がった胴部に俺が反撃を行えなかったのは、大きく振りかぶった威容に圧倒されたわけではなかった。その余裕がなかっただけだ、ぎりぎりの回避を続けてきた俺にその一瞬で攻勢に転じる暇はない。

 それを見越した上で必殺の一撃を放とうと画策したのなら見事なものだ。出来の悪いAIなどとは二度と言えないだろう。……その全てが俺の仕込みでさえなければ。

 

 人の行う闘争とは、すなわち知恵を絞った戦いである。騙し、揺さぶり、罠に嵌める。この世界においてもそれは変わらない。攻撃力や俊敏性に勝るモンスターを相手に、馬鹿正直に戦うプレイヤーを《下手くそ》と呼ぶのだ。まあ、そういう意味ではソロでモンスターと戦い続ける俺こそ戦術的に致命的な《下手くそ》プレイヤーの筆頭なわけだが、それはこの際置いておく。

 モンスターの動きが洗練されてきているというのなら、プレイヤー側とてそれに対応した動き方をすればいいだけのことだ。

 フルダイブ型の仮想世界ではプレイヤースキルが全てではない、しかし同時にプレイヤースキルなしで戦力の優劣も語れない。武器やソードスキルの選択だけではなく、敵の駆使する戦術に呼応する対処行動の適切な選択もまた重要なことだった。

 あえて隙を演出することで望む行動を誘発させる。

 《上手い》プレイヤーならば誰しもがやっていることだ。フェイント、擬態。別にそんな技術は今に始まったことじゃない。70層を超えてモンスターの動きが複雑化したことで、そうした戦闘の駆け引きがより顕著に現れるようになってきただけのことだ。

 プログラム風情が人間の悪辣さを舐めるな。悪魔より悪魔らしいのが人間なんだよ。それで納得できなきゃ、パターン化を見抜くゲーマーの習性に敗北したとでも思っておけ。

 

 青眼の悪魔が吼える。血走った目で俺を見下ろす姿に怯むまいと、俺もまた眼光鋭く睨み返した。

 頭上高くから放たれたグリームアイズ渾身の一撃。両手持ちで打ち落とされたそれはまさしく剛剣と呼ぶに相応しいものだ。今日一番の重く鋭い太刀筋に背筋が寒くなりもしよう。

 しかしそれだけでは足りない、その程度の攻撃は読んでいるのだから。正確にはその一撃をあえて誘った。ならば適切な反応が出来ずしてどうする。最大のピンチとは転じて最大のチャンスとなるものだ。首尾よく必殺の一太刀を引き出せたなら、後はそれを如何に捌いて反撃につなげるかだった。

 大上段からの一撃に対して二刀を十字に交差させるように合わせる。その衝突の瞬間に最大の力を発揮できるように調節できれば完璧だ。

 別に特別なことをしようと言うわけじゃない。むしろこの場面で必要となるのは基礎中の基礎技術。武器を用いた防御術の基本技《弾き防御(パリング)》だ。

 

 スイッチを使うことのできないソロプレイヤーの基本戦術、それがパリイからソードスキルへつなげる連携技能である。ソードスキルを放つにはどうしても一瞬の溜めが必要となるため、どうにかしてその隙を作り出さなくてはならない。そのための基本にして奥義がパリングの技術だった。

モンスターの攻撃を弾き返すことで発生する強制的な静止時間を利用し、渾身のソードスキルを放つこと。それがソロで強敵と戦うに当たって最低限求められる技能である。

 逆袈裟の軌道を描いて交差気味に繰り出された二刀十字とグリームアイズ必殺の一撃が衝突し、一瞬の鍔迫り合いを経て俺の剣が競り勝った。グリームアイズの操る巨大な剣が腕ごと俺の振るう二刀に弾き返され、通常発生する技後硬直に加えてパリング成功分のペナルティ時間が発生する。いや、この場合は俺にとってのボーナス時間と言うべきか?

 単純な質量と体重差では勝てるはずのない勝負ではあるものの、そこはゲーム世界だ。正確なタイミングで技の発動さえ出来れば、多少の重量の不利を覆してシステム的に有効と判定される。それは今更語るまでもないルールだった。なにせ俺達はそのルールの下、長い間命を懸けて戦ってきたのだから。この世界独特の法則に順応できなければ待つのは死だけだ。

 

 飽きるほど繰り返してきた戦技はすっかり俺の身体に染み付き、意識せずとも次の手順へと遅滞なく移行する。

 敵の体勢を崩したのなら後は大技をぶつけるだけだ。加えて撒き餌に使った劣勢の演出でライフはレッドゾーンに調節しており、狙い通りの自身のHPバーが示す値に唇を吊り上げる。薄氷の舞踏の効果によってステータス値に大幅な補正が加えられることでようやく準備が整った。

 ここまでの全てが布石だ。いつか俺自身が語ったように、何度も剣を振り回すよりは一発ソードスキルをぶち当てたほうがずっと効率が良いのがこの世界での戦闘の鉄則だった。そして渾身のソードスキルを放つだけの準備時間をやっとのことで確保できた。

 二刀流上位剣技――《スターバースト・ストリーム》。それが今から放つ技の名であり、俺の十八番だった。

 規定のアクションを取ることで剣から燐光が放たれ始め、剣の輝きに呼応するように俺自身も高揚に沸き立っていく。この昂ぶりは決着を見据えた最後の激突を予感するが故か。あるいはもっと単純に、この青い悪魔と剣を交わして以来刺激され続けてきた感覚――闘争本能ともいうべき俺の飢えが、ようやく開放されると荒れ狂っているがためか。

 

 度し難い、とも思う。俺は間違いなくぎりぎりの戦いの到来を喜んでいた。今、この瞬間は生と死の狭間だというのに、そんなことはおかまいなしに狂ったように胸を弾ませる俺はとっくにこの世界に毒され、後戻りのできない精神を形成していたのだろう。それでも構わない。異常を異常と認識し、自分自身の醜い本性を他人事のように容易く飲み込めるようになったのは、極々最近のことだった。

 以前の俺ならそうした感情を否定していた。否定しようと自分自身を騙し続けてきた。アインクラッド――剣の世界に魅せられた俺の根本を認めまいと躍起になっていたのだ。剣を振ることに喜びを見出すなど一体何を考えているのか、そんな浮ついた気持ちでどうして戦えるものか。そう自省し続けてきた。

 それらが間違いだったとまでは言わない。憎き茅場の作り出したこのアインクラッドという世界を、一万人のプレイヤーを閉じ込めた最悪の世界を、今でも愛してしまっている馬鹿さ加減に俺自身呆れているくらいだ。――呆れる程度で収まるようになった。

 

 この世界で犯した罪の重さと人の放つ悪意の毒が俺の心を蝕んだように、この世界で出会った人達のひたむきに生きようとする姿が、そして交わした言葉の一つ一つが俺の思い違いを正してくれた。

 過去はどうあがいたって変えられず、どれだけ思い悩もうともその後悔は未来にはつながってくれない。過ちに惑うことも、罪科に打ちひしがれることも、悔恨に暮れることも、それはどこまでいっても俺の独り善がりにしかならず、誰の為にもならなかった。

 全てを放り捨てれば良いわけじゃない。決して忘れてはならないことがある、投げ出さずに背負わなければならないことだってある。しかしそれは断じて後悔に囚われるだけで終わらせていいものではない。良いことも悪いことも、その全てが俺の糧だ。

 罪も罰も、それがどうしたと開き直って前を見据える。そんな境地に至ったのが転機だったのかもしれない。その果てに俺へと纏わりついていた重苦しい重力のような何かは、何時の間にか消え失せていた。

 身体は軽く、心は熱く、思考は冷徹に。欠けていたピースを取り戻したかのように、今の俺は心身共に充実していた。

 その俺が、どうしてたかだかフロアボス程度に遅れを取るものか。取ってたまるものか……!

 確かに今、俺は追い詰められている。命の灯が危うくなっている。それでも負ける気がしないのは、自らを背水に追い込むことでしか過去と向き合えなかった俺が、ほんの少しだけ強くなれた証だと思っている。それは取るに足りない心境の変化なのかもしれない、しかし確かに俺に力を与えていた。

 

 一瞬の回想。その全てを力に変えるように剣を握り直し、以前よりも遥かに迷いなく踏み出せるようになった一歩が俺の身体を前へと押し出した。ステータスに規定された数値限界だけでは足りない。システムアシストがもたらす速さのさらに先を目指す。

 速く。速く。ただ速く。

 今の俺なら出来る。極限の集中と研ぎ澄ませた技術、そこに生き抜こうとする意思を上乗せし、システムアシストすら超える速さを体現する。

 短く吐き出した呼気と共に胸に必殺の覚悟を刻みこんでグリームアイズの間合いに踏み込んだ。そこからさらに加速を続けていく。ここからは俺自身の集中力と胆力の勝負だ。意思と技術の融合が崩れれば俺の負け、貫き通せれば俺の勝ちだ。

 現在のアインクラッドにおいて最高火力を誇るとされる二刀流スキル、そこから繰り出される奥義クラスの上級剣技《スターバースト・ストリーム》が放たれ、怒涛の16連撃が開始された。先刻のパリイによって上段からの渾身の一撃を弾き返されたグリームアイズは技後硬直がようやく解けるところだ。故に先制の権利は俺が有していた。それを企図してわざわざ全力の一手を誘ったのだから、そうであってもらわねば困る。

 

 システム的に意味のない叫びですら敵を圧倒せんと吼える。

 声を力に、眼光を力に、昂ぶりを力に。あらゆるものを勝利への道筋につなげていく。

 初撃の右の剣が翻り、力強く踏み込んだ脚力が生み出すエネルギーは螺旋を描いて上半身へと伝達される。勢いそのままに仕掛けた中段払いは瞬速の刃と化してグリームアイズの胴を捉え、続けて左の剣が間髪入れずに突き立てられた。グリームアイズは防御も間に合わずに大きくHPを削られる。

 そこからさらに加速し、右、左、右と止め処なく剣の嵐を叩きつけていく。その間、反撃をもらわずと言うわけにもいかない。ソードスキル発動中はある意味で一番無防備だ。そしていくら最速の16連撃と言えども、瞬きほどの間に全ての斬撃が完了するわけではなかった。モンスターの中でも極めてタフなフロアボスの反撃を封殺できるはずもない。

 ……だからなんだ、と口元を歪ませる。

 全てを覚悟して放ったソードスキルだ、今更何を戸惑う必要がある。

 まだだ。もっと速く、もっと鋭く、もっと力強く。システムアシストは絶対ではなく、システムの速さを超えることは可能だ。それを俺は知っている。

 

 システム外スキル《剣技追尾(スキルトレース)》。

 

 それがシステムアシストを超える速さを実現する技として、俺が開発したスキルだった。

 本来ソードスキルは発動準備さえ終えてしまえば後は半ばオートで放たれるものとして設定されている。その認識は間違っていない。

 しかし各々のソードスキルが規定するモーションは大枠こそあれ毎回同一というわけではなかった。敵モンスターは動かない的ではないのだし、その大きさや都度変化する間合いに対応するためには、完全に一定の動作しか出来ないシステムでは不完全だ。システム補正とはそうしたファジーな領域すらカバーしてしまうソードアート・オンラインの誇る超技術の賜物だったが、そこにプレイヤーの技術が介在する余地がある。

 ソードスキルの動作に重ね合わせるように自らの身体を操り、システム補正の数瞬先に先行することで剣撃の速さと威力を倍加させる。それがシステム外スキル《剣技追尾(スキルトレース)》だった。

 もちろん、その効果は劇的なものなんかじゃない。《武器破壊》同様に純技術的なスキルであり、難易度が高い割に恩恵は少ない。目に明らかな範囲で技の速度や威力が変わるというものではなく、せいぜいが数%という単位のものだ。加えて技の発動をミスればソードスキルそのものがキャンセルされ、その場で技後硬直時間の到来である。リスクはでかい。

 それでも、命をかけた死闘においてその《わずか》は大きい。強敵との戦いを制すのは何時だって紙一重の差だ。そして剣技追尾はその紙一重を確実に俺の側へと引き寄せる。

 

 ――決着の時だ。

 

 俺のものともグリームアイズのものとも知れぬ絶叫が戦場に混じりあい、次いで16撃目の刺突を合図にして、今までの激闘が嘘のように一切の物音のない静寂が訪れる。スターバーストストリームに付随する星屑の煌きが白く散りばめられて虚空へと消えていき、その輝きを追う前にそれ以上の膨大な光の放射が俺の目に飛び込んできた。

 視界を埋め尽くす結晶の奔流――第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》の四散した姿である。

 なんとか終わったな……。

 フロアボス撃破を祝い、戦いの終わりを告げるシステムメッセージが宙空に浮かび上がるも、その表示を黙殺して二本の剣を早々に鞘に収めてしまい、その場に大の字で寝転んでしまう。疲労が色濃く滲んだ安堵が意図せず零れ落ちた。

 

 流石に今回ばかりは肝が冷えたし、背筋に震えが走りっぱなしだった。

 まさか少しフロアボスの顔を拝もうとしただけのつもりが、ガチでソロのままフロアボスとやり合う破目になるとは想像だにしていなかった。結晶無効化空間の嫌らしさをつくづく思い知らされるな。あれは俺にとって鬼門だ、碌な思い出がない。まあ、結晶無効化空間に楽しい思い出を抱けそうなプレイヤーなんて一人も思い浮かばないけど。

 そんな馬鹿な想像に乾いた笑いが浮かびそうになり、そこでふと視界に映ったHPバーを確認すれば赤いラインが僅かしか残っていなかった。予定よりも少し削られたか。15%は残すはずだったのに、見た感じ10%を割っていた。スターバーストストリームは16連撃という破格の連撃性能を持つ分、スキル展開の時間も比例して長くなる。その分だけダメージを貰いやすかった。

 現在時刻を確認してみると、何とグリームアイズとの戦闘に要した時間は一時間を優に超えていた。マジかー、と内心の呆れがそのまま溜息へと変じてしまう。

 そりゃ、ソロでフロアボスに挑めば撃破までに相応の時間はかかるものだが、二刀流を駆使してこの結果となると本当に辟易としてしまう。良くもまあ俺の集中力も保てたものだと感心してしまったくらいだ。肉体疲労がなく集中力の持続しやすい世界とは言え、精神へのシステムアシストでもかかっているんじゃないかと思うくらいには信じ難い戦闘時間だった。

 

 もう二度とフロアボスにソロで挑んでやるものか。

 激闘を終えた疲労が今更ながらに身体へとのしかかり、霧がかった思考の中でそんな愚痴を繰り返すも、毎回ボスを相手にソロで戦った後は似たようなことを考えていたことに気づいて余計に落ち込んでしまう。学習しないとはこのことだ。

 まあいい、自分の馬鹿さ加減なんて散々に思い知っているのだし、そのうち治ることもあるだろう。それまでは放っておけばいいや。そんなおざなりな結論を付けてしまった。

 なにはともあれ、これで最上階までに残る階層の数は25。次は最難関と目される最後のクォーターポイントである75層だ。

 現在の年月日は西暦2024年9月7日。後二ヶ月もすればこの世界に囚われてから二年が過ぎてしまう。ようやく終わりが見えてきたことを喜ぶべきか。それともゲーム開始から今に至るまでの間に、三千に迫ろうという数の死者を出してしまった重すぎる事実を悼むべきか。死者の数字が示す重みは、この世界に生きる誰もに等しく重圧と哀悼を抱かせるものだった。今日を無事に生き延びたとて、明日自分がその死者の列に加わらないとも限らない。

 ぼうっと空中を眺めやれば青い光の粒子が未だに舞っていた。そんな光景を見るとはなしにこれからのことをつらつらと考えていたのだが、どうにも落ち着かない。やはり場所が悪いと内心で悪態を吐いて眉根を寄せた。

 

 ――行くか。

 

 元々フロアボスの広間は休むには適さないのだし、さっさとアクティベートを済ませて街に戻ろう。

 気味の悪いフロアボスの広間の中心で大の字になりながら、そんな当たり前の選択肢が浮かんだのはそれから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

 第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》との死闘を終え、次層の《街開き》を確認して早々に俺は75層を後にした。

 現在俺がいるのは第50層主街区アルゲード。夕闇迫る刻限のことだった。

 アルゲードは《この街で迷ったら三日は脱出できない》と笑い話で語られるほど雑多に入り組んだ街だ。街の至る箇所で複雑に隘路が多重構造を描き、引きも切らぬNPCとプレイヤーの往来が猥雑な雰囲気を否応なく与える。そんな騒がしくも活気に満ちた都市だった。

 この街は巨大な施設が一つたりとも存在せず、NPC経営の屋台や処狭しと軒先に連なる小さな店舗が並び立っているせいか、とにかく狭苦しい印象を受ける。街の面積自体はかなりの広さを誇るというのにだ。無秩序な都市開発計画によって縦横に意味もなく道が引かれてしまった、そんな感じだろうか。実際、俺もこの街はよく訪れるものの未だに全容は知れない。特に迷路のような路地裏など、好奇心で訪れればそれだけで帰れなくなりそうな怖さがあった。

 とはいえ、迷った時はNPCに道を訪ねれば10コルで快く案内してくれるのだから、流石に道に迷い続けて帰れないプレイヤーの噂は酒の席の与太話だろうとは思うけど。

 

 そんな騒がしくもエネルギーに満ちた都市の一角、中央広場から西に伸びた目抜き通りを数分歩いた先にあるプレイヤー経営の店を俺は訪れていた。攻略組に席を置きながら商人プレイヤーとしても活躍している斧戦士エギルが店主として経営する、買い取りから取り寄せまで幅広く対応してくれる何でも屋である。

 俺は一度迷宮区に潜ると大抵は武器の耐久値限界が来るか、回復アイテムが心許なくなるまで街に戻らないため、必然、街に戻った時には大量のドロップアイテム整理が必須となる。エギルの店を訪れたのは不要なアイテムを処分するためだった。

 とはいえ今回の場合はちょっと特殊だ。まさかフロアボスに突貫した挙句にそのままボスの首を取ってくることになるとは思わなかった。フロアボスからドロップされたアイテムが無事にストレージに収まりきったのは、回復アイテムが底をついてその分ストレージに空きがあったからだ。不幸中の幸いと呼ぶべきなのか悩むところである。

 何にせよ、本当に継戦限界ぎりぎりだった。もう二度とあんな綱渡りはごめんだ。

 

「毎度あり! また頼むよ兄ちゃん!」

 

 そんな威勢の良い声が階下から俺の元まで届き、思わず苦笑が零れてしまう。買い取りに訪れていたのは初見の客だろうか? 強面かつ筋骨隆々なエギルのド迫力に押されて買い叩かれてる様がありありと想像できた。180を越える身長に鍛え上げられた筋肉のぶ厚い鎧、加えてこの世界で唯一カスタマイズできる髪型を剃りあげたスキンヘッドに設定しているものだから、どこのレスラーかと見紛う程だ。初見プレイヤーならまず間違いなくびびる。しかも自分のそうした特徴を理解した上で商売に生かすのだから性質の悪い男だった。

 実を言えば、エギルはある意味で俺がこの世界でとんでもなく憧れている男だった。なにせ現実世界ではもやしっ子の俺だ。しかも将来的にも筋肉ムキムキな男らしさとは縁がないことが確定している身なので、エギルのような如何にも《男らしい》体格は俺にとって憧憬の対象なのだった。人の夢と書いて《儚い》とは良く言ったものである、ちくしょう。

 

 そんな俺の内心はともかく、折角狩りで手に入れたアイテムをエギルに買い叩かれた不運なプレイヤーに合掌でもしようか。今頃は涙目で店を後にしているかもしれない。南無南無。

 まあ騙されるほうが悪いを地でいく世界だけに、少し泣きが入る程度の不利な取引なんてそれこそ日常茶飯事だった。エギルもあれで商人としての最低限の仁義は通す男だし、本気で阿漕な真似をしているわけでもない。自衛の力をなにより要求される世界だ、エギルの多少強引な商売方針は隙の多いプレイヤーに対する警告のつもりなのだろう。相変わらずわかりづらい善意を発揮する男である。

 

「キリト、急に手を合わせてどうしたの?」

 

 おざなりに手を合わせた俺を見て目を丸くしていたのは、泣きボクロが印象的な穏やかな佇まいをした少女――ギルド《月夜の黒猫団》所属の後方支援プレイヤーであるサチだ。首をかすかに傾げた仕草に合わせて、肩口で揃えた黒髪がさらりと揺れる。上品と評すにはまだまだあどけなさが勝る立ち居振る舞いだった。そこがまた可愛いんだけど。

 前線から引いたことが影響しているのか、以前にもましてサチは柔らかな所作が似合うようになった。淡い空色のサマーワンピースも清楚な雰囲気を引き立てて良く似合っているし、ほんわかと優しげに微笑む様子なんかデスゲーム渦中にあってこの上なく貴重だと思えるくらい魅力的だ。

 

「たいしたことじゃないよ。今日もまたエギルの阿漕な商売の犠牲者が出たな、って思っただけだ」

「もう、またそんなこと言って。エギルさんが聞いたら怒るよ?」

 

 そう言って俺を諌めるサチだったが、正直その垂れ気味な目尻を無理やり吊り上げて睨まれても怖くもなんともない――とは言わないでおこう。仮にも年上の女性に対して失礼だし、こうしてサチに叱られるのも私的には悪くないというか、すごく和む。

 

「心配しなくていいって、エギルに会うたびに似たようなことを言ってるから手遅れだしな。もはや挨拶代わりだ」

「あんまり失礼なことしちゃ駄目だってば」

 

 ふふん、と無駄に威張って胸を張る俺にサチは呆れたように吐息を漏らしてから、半分諦めたような哀愁を表情に滲ませて苦言を呈したのだった。部屋の入り口から野太い男の声がかけられたのはそんな時だ。

 

「サチの嬢ちゃんの言う通りだぞキリト。お前さんには年上を敬う気概ってやつが足りねえんだ、反省しやがれ」

「ほほう、よしわかった。なら次からはエギルの店じゃなくて、他の適当な買取屋を探してアイテムを売りさばこう。何ならNPC売却でも――」

「おっと、やっぱ反省しなくていいぞキリト。お前の可愛い生意気盛りは笑って許してやるから、今後も変わらぬご贔屓を願いますよ、ってなもんだ」

「惚れ惚れするような見事な手の平返しに思わず尊敬しちまいそうだぜ。商人の鑑だな、エギル」

「そんなに褒めるなよ、照れるじゃないか」

 

 お互いに人を食ったような笑みを貼り付けて言葉の応酬を楽しむ。そんな馬鹿なやりとりをする男二人を、俺の傍らではしょうがないなぁという雰囲気を漂わせたサチが苦笑いを浮かべて眺めていた。アルゴ曰く、男の馬鹿なところに理解があるのが良い女の条件らしいから、その点サチは間違いなく良い女なのだろう。

 

「冗談はともかくとしてだ。キリト、お前はいい加減本拠地(ホーム)を作れ。うちは雑貨屋であってお前の安全地帯(セーフハウス)なんかじゃねえぞ」

「つれないこと言うなよ、常連相手なんだから宿くらいサービスしてくれてもいいだろ」

「うちにそんなサービスねえよ。まあ確かにお前さんは特別な常連客だから多少は融通も利かせてやらんでもない。――だが」

「だが?」

「断じて我が家を逢引所にした覚えはないぞ。女を連れ込むなら、なおさら人様の家を使うんじゃない」

 

 あれ? なんかエギルの眼が呆れてらっしゃいますよ。

 ここはエギルの店――の2階にある私的スペースの一つだ。簡易なベッドと卓、それから一対の椅子が用意されているだけのさして広くもない一室であり、がらんとした殺風景な部屋は質実剛健を合言葉にしたかのように必要最低限の家具しか置いていなかった。

 そんな部屋に俺とサチは二人きり、となれば確かに誤解の生まれる余地はあるかもしれないが、エギルは俺がここにいる理由もサチが俺を訪ねてきた理由も知っているだろうに。

 

「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよエギル。何時俺がそんな不埒な真似をしたって言うんだ」

「客観的に見て今のお前がどう見えるかって話をしてるんだ。それじゃ俺は店に戻るから、後は修羅場でもなんでも楽しめ。刃傷沙汰だけは勘弁しろよ」

 

 にやりと笑って去っていく巨漢の男を見送り、サチと二人で顔を見合わせて首を傾げていたのだが、エギルの謎めいた発言の意味はすぐに明らかになった。具体的にはエギルと入れ替わりで現れた細剣使いの姿によって。血盟騎士団の誇る美貌の副団長、《閃光》の異名で知られるアインクラッドで一、二を争う有名人がひょっこりと顔を覗かせたのだった。

 ……まずい。アスナのやつ、笑顔なのに笑顔じゃない。どんなに澄ました顔で優雅に微笑んでいようとも、今のアスナは噴火寸前の火山ばりに怒気を溜め込んでいる様子だった。流石は攻略組でも指折りの実力者、そのプレッシャーだけでそこらの雑魚モンスターなら退散させられそうな覇気に満ちている。彼女の態度に対する心当たりは――ありすぎて泣きそうだ。

 

「こんにちは、キリト君。それとお久しぶりです、サチさん」

「アスナさんも元気そうでよかった。ご活躍はかねがね伺ってます」

「恐縮です」

 

 俺に向ける鋭利な雰囲気とは一転してサチには物腰柔らかく対応するアスナ。その扱いの差に文句をつけようにも、今の俺は脛に瑕を持ちすぎていてとても強気に出れなかった。今回の独断専行はちょっと言い訳できない。

 そんな風に冷や汗を流す俺に再びアスナの目が向けられる。思わず視線を逸らそうとして、その寸前しとやかに微笑んだアスナによって俺の動きは儚くも封じられてしまった。どうしよう、アスナが怖い。

 

「さて、キリト君。わたしが何を言いたいか、わかってるよね?」

 

 なんというか、俺に尋ねているには違いないが《答えは聞いてねえよ》的な圧力を感じる。助けを求めてサチに目をやれば「今回は私もアスナさんの味方」とすげなく断られてしまった。もしかしてサチも怒ってる?

 孤立無援に陥った俺の鼻先にアスナが突きつけたのは、ちと内容に覚えのありすぎる新聞記事だった。執筆者並びに発行者はどちらもアルゴで、一面を飾る見出しには堂々と《黒の剣士 ソロで第74層フロアボス撃破!》の文字が躍っていた。

 確かに第74層フロアボス《ザ・グリームアイズ》を撃破してすぐにアルゴに事の次第を報告したわけだが、それにしても仕事が早い。まさかここまで迅速に記事を仕上げて速報としてばらまくとは思わなかった。その上、背を向けているとはいえ二刀流スタイルで戦う俺の全体像を写した姿絵つきだ。アルゴのやつ、何時の間にこんなもん盗撮しやがった?

 脳裏に浮かんだチェシャ猫の笑いに人知れず戦慄しつつも内容に目を通していく。……よかった、記事はまともだ。俺の要望もきちんと盛り込まれてるし、文章も簡潔かつ明瞭でわかりやすい。さすがアルゴ、良い仕事をする。

 

「大活躍だったみたいだね、黒の剣士様」

「俺を吊るし上げるのは後にしてもらおうか。で、血盟騎士団に内容の周知は出来てるんだろうな?」

 

 皮肉めいたアスナの真意がわからないわけじゃないが、それよりも今は優先しなければならないことがある。……決して面倒の先送りではない。断じてない。ないんです。信じてお願い。

 そんな内心の焦りを誤魔化すように殊更眼光鋭く問い質した俺の言葉を受けて、アスナも真剣な顔をして頷く。

 

「フロアボスの大広間に初の結晶無効化空間が仕掛けられていたことなら、もちろん即座に情報の共有は進めたわよ。他のギルドでも大騒ぎになってたみたいだから、今日中には広まりきるでしょうね。……それと、そのことで団長からキリト君への言付けを預かってるの。《独断専行はいただけないが、貴重な情報の提供には感謝する。75層では是非黒の剣士殿と(くつわ)を並べて戦場を共にしたいものだ》、だそうよ」

「相も変わらず大仰な言い回しを好む男だな。まあ、ヒースクリフの言葉を素直に聞くのは癪だけど共闘って部分には全面的に賛成だ。最後のクォーターポイントは万全の状態で臨みたい」

「そう思うならフロアボスにソロで挑むなんて馬鹿な真似は金輪際やめなさい」

「いや、責められるのも仕方ないんだけどさ、今回の件は俺にとっても予想外だったんだよ。ちょっとボスの顔を拝んだら転移結晶で跳ぶ予定だったんだから」

 

 本当にどうしてこうなった。物見遊山が一転、おどろおどろしいデスロードにようこそとか、そんな悪趣味なエスプリは要らない。数時間前の命を削る鉄火場を思い出してぶるりと身体に震えが走った。

 

「それならキリト君は、わたしが今すごく怒ってることもわかってるよね?」

「……付き合い長いから、その程度はな」

「じゃあ遠慮なく言わせてもらおうかな」

 

 お手柔らかに、なんて茶化す雰囲気でもなかったし、その暇もなかった。すぅーっと息を吸い込んだアスナがぴたりと止まり、それからキッと俺を睨みつけて、一瞬生まれた静寂を鋭く切り裂いた。

 

「キリト君の馬鹿! わからずや! なんで君はいつもそうやって、一人でなんでもやろうとしちゃうのよ。わたしたちは、いいえ、わたしはそんなに頼りない? 君の背中を守ることくらいならわたしにだって出来るんだよ? なのに、どうして信じてくれないの……!」

「待った待った、まずは落ち着け。アスナの実力を疑ったことはないし、何でも一人でやろうとなんてしてないから。今回のことはそりゃ軽率だったとは思うけど」

「嘘。だってキリト君、フロアボスの部屋を見つけたら何時もソロで挑んでるじゃない。偵察に赴く先遣隊の危険を減らそうとしてるのはわかるけど、そのためにキリト君が無理をするのは違うと思う。そもそもキリト君の戦闘スタイルで威力偵察なんて危なすぎるよ」

 

 眉根を寄せて苦言を呈するアスナに思わず反論しそうになった。盛大な誤解だ、どうもこの手のことは勘違いを招きやすい。それは俺がきっちり説明しないのも悪いのかもしれないけど。

 月夜の黒猫団から離れて以来、ずっと攻略組の戦力増強と被害軽減に努めてきたわけだから、アスナの言うような思惑が皆無とは言わないけどさ。ボス偵察に関しちゃ本命は別だぞ。フロアボスの特徴を逸早く知ることは決戦前の戦闘シミュレーションに必須で、俺自身のメリットありきでしかない。ボス戦における俺の効率至上主義をみくびってもらっちゃ困る。

 

 いいか、事前に俺自身が先遣隊の真似事をした時とそれ以外とでは、本番に当たっての命中率と回避率に段違いの結果が出るんだ。体感で言えば二割は固い。俺はボス戦における最大戦力の一人なのだし、それだけの効率の差がどれだけフロアボス戦での全体の優位につながるのか、今更講釈の必要もないだろう。頭の中で繰り返すシミュレーション展開を現実に落とし込む手管は、俺の数少ない自慢なんだぜ?

 そんなことを口に出そうとして、結局失敗してしまった。

 別に俺になにかあったわけじゃない。ただ、アスナがそっと俺の両頬に手を差し伸ばして、そのままじっと見つめてくるという思いがけない行動に、結果として俺の動きがフリーズしてしまっただけのことである。

 

「本当に……ほんとうに心配したんだから。いつもいつも無茶ばっかりして。君を心配してる人はいっぱいいるんだからね。わたしだって」

 

 アスナの目尻に光るものを見つけて息が詰まった。同時に、頬に添えられた彼女の繊手が俺に微かな痺れをもたらし、暖かくも切なく胸を締め付ける慣れない感覚のおかげでどうにも座りが悪い。

 勝機があったからこそボス撃破に舵を切ったにしても、今回の俺の行動は軽率そのものだったわけだし、とても口になんて出せないがあの青い悪魔との戦闘それ自体を楽しんでいたのも事実だ。ここで冗談でも『夢中になって戦うのが楽しくて逃げるの忘れてた』とか言ったらどうなるんだろうなあ……。

 

「心配してくれてありがとな。それと、すまなかった」

 

 アスナに返した言葉はそれだけだった。むしろそれ以上の言葉は無粋だと思った。何を言っても、何を加えても蛇足になる。そんな気がして。

 

「ほんとにわかってる? もう無茶しない?」

「いくら俺でも、クォーターボスに加えて結晶無効化空間の可能性が高い場所にソロで突っ込むなんて自殺行為はしないって。信じろ。むしろ信じてください」

「むー、色々引っかかるところはあるけど……まあいっか。ひとまず信じてあげる」

 

 アスナの中で俺の言葉の信用度はとても低かった。いや、自覚もあるけどさ。

 

「アスナさん、私からもお礼を言わせて。キリトは放っておくとすごく危なっかしいところがあるから、アスナさんみたいな人が傍にいてくれるならとっても安心できる。ほんと、誰よりも強いくせにどうしてこんなにはらはらさせてくれるんだろうね」

 

 俺とアスナの話に一段落着いたと見たのか、今まで傍観しているだけだったサチも会話に加わってきた。アスナにお礼の言葉と共に頭を下げ、それから俺に目を向けると困ったように笑う。俺への援護射撃かと思いきや、サチが口にしたのはアスナの言を肯定するものだった。……切ない。

 

「その、ごめんなさい。わたし、サチさんそっちのけでキリト君とばっかり」

「ううん、気にしないで。それに、キリトとお話ししてるみたいにしてくれると嬉しいかな。女の子の知り合いって少ないから」

「あ、わかるかも。元々男女比が偏ってる世界だから仕方ないとは思うけど、やっぱり寂しいよね」

 

 そんなこんなで和気藹々と話し始める二人だった。アスナはまだ血盟騎士団副団長の顔が多少なりとも出ているけど、それも時間と共に解消される程度のものだろう。

 意外なのはサチがリードする形でアスナに気を遣っているように見えることか。以前に顔を合わせた時は《閃光》の名を馳せる有名人のアスナにサチのほうが気後れしてるように思えたものだけど……やっぱり共通の話題があると違うのかと得心する。というか、二人ともナチュラルに俺に対する愚痴を言い合うのは止めてもらえませんかね? 地味にダメージくるんだけど。

 一度こうなってしまうと男の立場はひたすら弱い。なんというか、ひしひしとアウェー感を思い知らされるのである。もちろんアスナとサチにそんな気はないのだろうけど、そこは男と女の絶対的な差というやつだった。

 

「サチさんはどうしてここに?」

「キリトのアイテムストックが底をついたって連絡をもらったから補充をしに、かな」

「ポーション作成スキルを取ってるプレイヤーは珍しいからな。サチには世話になりっぱなしだよ」

「特に君みたいなソロプレイヤーならなおさらでしょうね」

 

 俺がサチの返答に補足を入れると、アスナはどことなく呆れたような口調でさもありなんと頷いていた。

 ポーション作成スキルは鍛冶スキルや商人スキルに比べて人気が低い。というのも、ポーションのような消耗品はNPC店舗で手に入るアイテムで十分という認識があるせいだ。それに緊急性の高い場面に遭遇しやすい攻略組にポーションは不向きだったし、即時回復を可能にする上位互換としての結晶アイテムがある時点でお察しだ。高価と言えども結晶優位になるのはどうしようもない。

 加えてプレイヤーメイドのポーションは確かに市販品に比べて性能は上なのだが、回復値や状態異常耐性の上昇幅そのものは大きくなかった。むしろその真価はポーション類に設定された重量の軽減にあり、プレイヤーメイドのポーション最大のメリットはアイテムストレージに大量の数を放り込めることだった。

 

 しかしそのメリットも、パーティーを組んだ上で無理せず攻略を進めるスタンスが主流な現在では有り難味が薄い。安全マージンをしっかり取った上でバランス良く配置されたパーティーを組むことが出来れば、たとえ迷宮区のモンスターを相手にしても余裕を保ったまま戦える。アイテムの消耗だって少なくて済むし、そもそも複数人の場合アイテムストレージもある程度融通し合える為、ソロに比べてストレージに余裕を持たせられるのだった。

 よって、アイテム重量の軽減も特筆すべきようなことではないのである。必然、ポーション作成スキルを主要スキルに鍛えるプレイヤーは少なかった。ただでさえ地味なアイテム作成作業に時間が取られ、戦闘に直結するスキルのせいか熟練度上昇速度も遅々として進まない始末。そのくせ見返りが少ないとくれば人気が下火になるのも仕方なかった。

 

 アスナが俺向きのサポートスキルだと納得していたのもそのためだ。大多数のプレイヤーにとっては市販品で十分でも、それがソロとして活動する俺となると多少事情が異なってくる。俺の攻略スタイルは単独で、かつ補給限界が訪れるまで長時間迷宮区に篭ることがザラなため、アイテムストレージはいつでも重量制限ぎりぎりだった。そんな俺にとって、サチが作ってくれるポーションの重量軽減効果は間違いなく有用なものだ。戦闘継続可能時間が飛躍的に伸びるのである。

 なによりサチのポーションがなければ今日のフロアボス戦で打倒と退却の二択が浮かぶこともなかった。逃げの一択しか選ぶ余地はなかっただろう。

 

「キリト君がフロアボス戦で初の結晶無効化空間なんていう異常事態を乗り切れたのも、サチさんの助力があったおかげね。サチさん、一度きつく言っておいたほうが良いわ。そうじゃないとこのヒトまた無茶すると思うし」

「そ、そうかな……?」

「ええ、間違いなく」

 

 戸惑い気味のサチに笑顔で断言する《閃光》様だった。男女問わず見惚れてしまいそうな魅力的な表情だというのに、俺の口からは乾いた笑いしか出てこない。

 しかしこれもアスナに多大な心配をかけたお侘びとして享受するしかないだろう。先遣隊の真似事だけならともかく、74階層のボスをソロで撃破するまで戦い続けるとかさすがにやりすぎだよなぁ、と自分でも思うので反論なんてできようはずもなかった。あっはっは、やっちまったぜ。

 

「ポーション作成スキルかあ、ちょっと羨ましいかも。もしかして完全習得(コンプリート)してる?」

「うん、最近になってようやくだけどね。キリトがずっと協力してくれたおかげ」

「すごいね。もしかしたら現時点で完全習得済みのプレイヤーはサチさんが唯一かも」

 

 サチをしみじみと眺めやったアスナがぽつりとスキルに関する疑問を口にすると、サチも特に隠すことなくスキル熟練度を明かした。お互いこの場限りという暗黙の了解の上だし、そもそも職人クラスのスキル熟練度はあまり秘匿する意味もないからいいか。まあ、その熟練度の数値からプレイヤーの戦闘力が測れないわけじゃないので本来はむやみやたらに話すことじゃないが、今回の相手は名にし負う血盟騎士団副団長である。その人望の厚さは全プレイヤーでも有数のものだし、そもそも猜疑心とは無縁なサチなのだからこうなるのも自然だ。

 それにしても、アスナの様子を伺う限りサチへの賞賛はお世辞でもなんでもなく、心底羨ましがっているように見えるのが意外だ。予想外の反応に思わず首を傾げてしまう。

 

「そんなに驚くようなことか? 血盟騎士団にだってお抱えの職人プレイヤーはいるはずだろ」

「職人クラスの人がサブで取ってるくらいで、本職のポーション作成師はいないのよ。鍛冶とか細工は完全習得してる団員も多いけど、ポーション作成の熟練度となるとね。完全習得まで最低でもあと二ヶ月は必要だと思うわ」

「なるほど、血盟騎士団ですらその程度だっていうなら、つくづくポーション作成スキルの人気のなさっぷりが偲ばれるな」

「ちょっとキリト? 人が頑張って鍛えたスキルをみそっかすみたいに言わないでよ」

 

 俺とアスナが頷き合う横ではサチが唇を尖らせて不満を露わにしていた。おっと、これはまずい。

 

「あんまり膨れるなって。サチは間違いなく俺の生命線だよ、胸張ってくれていいんだぜ」

「そうよ、出来ることならうちのギルドにサチさんの作ったポーションを卸してほしいくらいなんだから。――いえ、むしろギルド移籍を交渉するべき……?」

「待てアスナ、サチはお前ら血盟騎士団にはやらないぞ。最高品質のポーションなんてただでさえ作るのに時間かかるんだから、血盟騎士団の分なんて用意してたら俺に回ってこなくなる」

 

 結構本気で考え込み始めたアスナを慌てて制止した。

 冗談じゃない。サチが俺の生命線だというのは慰めでも何でもなく事実なのだから、俺のために確保してくれている時間を削られようものなら俺の命が一気に危うくなる。ただでさえ月夜の黒猫団の後方支援はサチが一人で請け負っていて多忙なんだし、これ以上負担を増やすわけにもいかない。主に俺の都合で。

 

「冗談よ、うちは強引な勧誘はご法度なんだから。……でもサチさんが入団してくれたら大歓迎っていうのは本当」

「よし、喧嘩売ってるなら買ってやるぞアスナ。サチが欲しければ俺の屍を越えていけ。それとこの件ではヒースクリフに決闘吹っかけてでも邪魔するからそのつもりで」

「うわぁ、眼が全然笑ってない。こんな理由で君の満面の笑みを見たくなかったよ」

「仕方ないだろ、サチがいなくなるとガチで俺の命がやばいんだ。それに血盟騎士団所属の後方支援プレイヤーなら素材に困らないんだし、急がせれば完全習得までの期間をもっと短縮できるはずだろうが」

 

 だから諦めてくれ、と続ければアスナは困ったように眉根を寄せて腕を組んだ。そして唸るように続ける。

 

「うちも人員に余裕があるわけじゃないから、言うほど容易くってわけにもいかないんだけどね。……ところでキリト君」

「ん、なんだ?」

「君、結構すごい発言してるけど自覚ある? サチさん、困ってるよ」

 

 そういえば当事者が黙ってるなと目を向けてみれば、白磁の頬に朱を散らしたサチと目が合った。サチは胸元に両手を重ね、落ち着かない様子でわずかに身をよじり、上目遣いの視線を俺へと向けている。褒められ慣れていないせいか、サチの仕草には多分に気恥ずかしさが含まれているようだ。

 

「ありがとキリト、そこまで言ってくれてすごく嬉しい。それと心配しなくても大丈夫だよ。私、月夜の黒猫団を離れる気はないし、キリトのサポートを止める気もないんだから」

「俺のほうこそ助かる。ほっとしたよ」

「アスナさんも私のことびっくりするくらい評価してくれてすごく嬉しかった。ありがとう」

「あらら、振られちゃったか。残念」

 

 そう言って舌を出しておどけてみせるアスナに釣られたように、俺とサチも一緒になって一頻り笑いあったのだった。

 血盟騎士団副団長としてのアスナしか知らないやつは今のアスナの屈託ない少女の顔も見たことないんだろうな。そう思うと非常に得をした気分になるのだから俺も結構人が悪い。こういうのも優越感に浸ると言うのだろうか。

 

「うーん、なんだか久しぶりにリフレッシュできたかも。これからギルド本部に戻っても頑張って仕事をこなせそう」

「これから? 今日はもうオフになってるもんだとばかり思ってた。違うのか?」

「残念ながらね。キリト君がフロアボスをやっつけてくれたことは快挙には違いないけど、そのおかげで攻略パーティーのシフトも組み直さなきゃならないのよ。それに75層のフロアボス戦を見据えた回復アイテムの準備もね。備蓄の確認と不足分の確保も急がないと。次のボス戦は結晶が使えない可能性が高いわけだから、相応の用意をしなきゃ。それも含めてこの後、幹部会議があるの」

 

 仕事量の多さに憂鬱そうな息を吐くアスナに申し訳ない思いが過ぎるが、一つ疑問も浮かんだ。

 

「そんな状況でよくここに顔を出せたな。副団長がいなくてギルドのほうは大丈夫なのか?」

「団長が色々調整してくれてるわ。それにわたしがここにきたのも私用と公務が半々ってところなのよ。キリト君から新聞記事の裏づけを取ることと、75層の迷宮区攻略そのものにも協力してもらえないか要請するためにね」

 

 その提案は些か意外の観があった。俺のほうもいずれは、と考えていたがまさか血盟騎士団のほうからコンタクトがくるとは思わなかったぞ。

 

「それって血盟騎士団の団員とパーティー組んで攻略しろってことだよな?」

「そうよ。どうせならボス戦だけじゃなくもう少し密に協力しませんかってこと。75層はクォーターポイントだけに、万全の体制を敷きたいのはどこも一緒ね。どうかな、キリト君?」

「提案そのものは有り難いんだけど、アスナだけならともかく他の連中も一緒というのはちょっと……。どうにも俺嫌われてるっぽいし」

 

 自分で言ってて悲しくなるが、血盟騎士団の団員が俺に抱く心証は控えめに言っても悪い。

 そう思って遠まわしに断ったつもりなのだが、何故かアスナは先程の俺を上回る満面の笑みを浮かべていたのだった。

 

「だったら決まりね。75層のボス部屋が見つかるまでわたしが臨時にキリト君と組むからよろしく」

「よろしくって……。あのな、なんでそうなる?」

「言葉通りよ。君、放っておくと何しでかすかわからないから、わたしがお目付け役も兼ねて一緒に行動するってこと」

「んな馬鹿な。ヒースクリフがそんな滅茶苦茶なことを許すはずが――」

 

 言いかけて、あの男だからこそ出来る協力要請でもあることに気づく。副団長という重職にあるアスナが、団長であるヒースクリフの了解も取らずにこんな勝手なことを言い出すはずもない。となると、今回のアスナの提案はヒースクリフも了承済みということになる。むしろ俺が断るのも織り込み済みの提案か?

 

「なんだかヒースクリフに見透かされてる気がするんだけど?」

 

 具体的にはアスナとツーマンセルなら俺が了承するはずだ、というところまで。

 

「そんなことはないわよ。白状しちゃうとね、キリト君と協力して攻略を進める、というか、キリト君のサポートをしてやってくれっていう要請がうちにきたのよ。団長はその要請を受けて、キリト君と以前ペアを組んだことがあるわたしが適任だろうって話を持ってきたの。キリト君の返答待ち案件だから、今の所この話はわたしと団長くらいしか知らないわ。その結果報告と併せて幹部会議で事後承諾を取る予定なの」

「……うげ、その幹部会議、間違いなく荒れそうだな。頑張れよ」

「応援してくれるなら日頃からうちの団員と仲良くしてくれないかなあ」

「善処する」

 

 いや、別に俺は血盟騎士団のメンバーを嫌っちゃいないぞ? むしろ高潔な騎士を体現しようとするかのように、自分達を厳しく律している団員達には敬意を抱いてるくらいだし。攻略組の範として振舞う様はまさしくトップギルドの名に相応しい姿だと思う。

 俺が血盟騎士団で嫌いなのは団長のヒースクリフくらいのものだ。それだって嫌悪の対象ではなく苦手な相手、というニュアンスのほうが近いのだし。どうもあの男だけは好きになれないんだ、いつまで経ってもやつから受ける印象が改善しないのは、我ながら徹底していると呆れるほどだった。戦場においては小憎たらしいくらいに頼りになる男なんだけど、未だに苦手意識は消えてくれない。

 

「それより、血盟騎士団に俺をサポートするよう要請を出すような変人に心当たりはないんだが、どこのどいつだ?」

「変人って、その言い方はさすがにひどいんじゃないかな?」

「そうは言ってもな。唯一の心当たりはクラインなんだけど、それにしたってわざわざ血盟騎士団に要請なんてしないで直接俺に話を持ってくるだろうし。……駄目だ、お手上げ」

「じゃあ答え合わせをしてあげる。キリト君の推測も的外れじゃないわ、ちなみに要請元は聖竜連合ね。そこから風林火山に話が持ちこまれて、うちに直接伝えに来たのがクラインさんってわけ」

「……そういうことか。参ったな、どいつもこいつも人が良すぎる。困った連中だ」

 

 聖竜連合というと最初に話を持ち出したのはシュミットあたりか? あいつ、体育会系の厳つい顔と雰囲気の割に細やかな配慮するんだよな。むしろ上下関係に厳しい環境で過ごしてきたからこそ、妙に面倒見が良いのかも。

 シュミットは壁戦士として前衛隊長も務める聖竜連合の幹部の一人だけにギルド内での発言力も高い。そこから聖竜連合団長に話を通したものの、聖竜連合は血盟騎士団とは露骨に張り合う仲だから直接話を持っていくのは嫌がった。そこで俺と親しく、かつ中立色の強い風林火山を仲介に話をまとめたってところか。ちょっとばかし面倒な背景をしているけど、おおよそこんなところだろう。

 

「攻略組の皆だってわかってるのよ、こんなところで君を失うわけにはいかないんだって。74層フロアボス撃破の報を聞いて喜ぶよりも、キリト君がソロで挑んだって知って青褪めた人のほうが多いんじゃないの? だからこそ電光石火でこんな提案がうちに来たわけだし。君はいい加減自分の影響力を知るべきね」

「そいつも善処しよう」 

 

 俺の気のない玉虫色の回答を受け取ったアスナは、頭痛をこらえるように額に手をやってこれみよがしに嘆息せしめた。サチはと言えば、どことなく同情的な眼でアスナを眺めていたし、俺は俺でどうしたものかと腕を組んで考え事に耽っていた。

 昼前に激突したフロアボス戦からまだ半日足らず。そのわずかの間に聖竜連合から風林火山、そして血盟騎士団へと件の提案が持ち込まれたことを踏まえると、アスナの言う通り電光石火と称すに相応しい迅速な動きだ。二刀流スキル持ちの俺は、ボス戦における最大のダメージソースの役割を負っているから、プレイヤー最大戦力の一人として安易に失うわけにはいかないという懸念はわかる。ソロでボスに突撃するなんてその危険の最たるものだろう。アスナを俺に付けたのはサポートが半分、お目付けが半分という推測も多分間違っていない。一応の筋は通るはずだ。

 

 問題があるとすれば、血盟騎士団団長であるヒースクリフがそこに何を見たか、だ。

 まさか純粋に俺を心配してアスナを遣わしたわけじゃないだろう。気軽に俺に貸し出すにはアスナの立場は重すぎる。

 フロアボス戦はともかく、平時の迷宮区攻略の実質的な指揮官はアスナだ。それでなくても副団長という重職にあるのだから、風来坊のソロプレイヤーに貸し出すにはとても立場が釣り合わない。

 俺に目付けが必要だというのなら、それこそクラインにでも一声かければ済む。ヒースクリフだって俺とクラインが親友と呼べる間柄であることは承知しているだろう。その縁で俺と行動を共にするよう要請したってよかったはずだ、わざわざ自分のところの副団長に話を持っていく必要もない。それを理解したうえでわざわざアスナを説得した理由。ヒースクリフの狙いは一体何処にあるのか。

 

 ……まあ、そう難しいことじゃないか。ヒースクリフの目的は単純に攻略組の戦力向上だろう。そのために俺を血盟騎士団の団員として迎え入れる下地作りを狙っているのだと思う。現時点では俺を嫌ってる連中といきなり歩調を合わせるのも性急だと考え、まずは気心の知れたアスナを宛がって準備期間にした、そんなところか。

 あの男からギルド入団の打診を受けたことがなかったわけじゃない。正確にはアスナを通じて意思の確認をされたのだが、俺はその誘いを固辞し続けてきた。以前はギルドに所属すること自体に抵抗感があったし、望んで波風を立たせる必要もないだろうと思っていた。なにより血盟騎士団の看板に俺が瑕を付けるのは本末転倒だろう、とも。

 今となってはソロにこだわる理由も薄い。故に頑なに拒否の姿勢を貫く気もないのだが、それでも血盟騎士団と強引な関係改善を迫るには時期尚早だと見ていた。特に次の層は激戦必至のクォーターポイントだけに、この段階で今までのスタンスを崩すのは俺のみならず攻略組全体でも混乱の元だろう。攻略組の士気、攻略速度そのものにも悪影響を与えかねない。

 そう考えたからこそ、血盟騎士団と歩調を合わせるにしても75層を攻略してからと皮算用を立てていたわけだが、ヒースクリフはより具体的な形に踏み込み、かつ、時計の針を廻すことを選んだ……ということか?

 

 ヒースクリフは俺よりもよっぽど物事の深奥を覗き込める男だ。あの男が些か強引な手を使ってまで事態を進めようというのなら、俺には見えない勝算あってのことなのだろうとも思う。しかし実際のところ上手くいくかどうかは未知数だった。少なくとも俺には性急と映る。何か急がなければならない理由でもあるのだろうか?

 たとえば、第75層のフロアボスの強さを、今の攻略組の戦力では届かない高さの壁だと想定している、とか。

 ありえない話じゃない。第25層、第50層、共に討伐隊が全滅する危険性を孕んでいた。最大最後のクォーターポイントである75層の攻略が平穏無事に終わると考えているプレイヤーなど一人もいない。ヒースクリフの危惧は俺も等しく抱いているものだ。

 俺とアスナの連携を深めることでより戦力の充実を図る。俺に多少なりとも指揮権を与えることで遊撃以上の役割を期待する。最終的には神聖剣と二刀流を最大限生かす編成の構築。そこまで見据えているのかもしれない。

 

 ――あるいは。

 あの男は自分のギルドから死者が出ることすら計算している、その上で俺という戦力を補充要員として見ているのだ、というのは穿ちすぎだろうか。確かにその程度の冷徹さは持ち合わせている男だろう、しかし同時にプレイヤー戦力の消耗をひどく嫌う男でもある。犠牲を割り切ることはしても、犠牲者ありきの作戦を立てることはない。さすがにこれは悪意に偏った見方だろうな、反省しないと。

 血盟騎士団と協調体制を築き上げる。いや、いっそのこと血盟騎士団に入団することになってもこの際構わない。最近は最前線の攻略速度も落ちているし、俺にしてもこれ以上ソロで攻略速度を加速できると思えない以上、ギルドを上手く使って攻略に挑むのは望むところだ。

 問題があるとすれば、血盟騎士団の団員と俺がしっかりとした協力関係、信頼関係を作り上げることが出来るかどうか怪しいことだな。なにせ今に至るまで反目は解消していない、その溝を埋めるのは容易なことではないだろう。むしろ聖竜連合や風林火山の世話になったほうがずっとスムーズに話が進む気もする。

 無論、精鋭という意味では血盟騎士団に勝るギルドはない。クォーターポイントならずともこの先の階層は難易度の激化が予想されるだけに、安全と効率の両面から考えても彼らの力は是非借りたいし、そのための条件がギルド入団ならば吝かではない……のだけど、俺への悪印象がどう影響してくるか。軍のように内部分裂、派閥争いで攻略が疎かになっては目も当てられない。

 

 やっぱり時期尚早な気がするんだよなあ……。腕を組んだまま自然と表情も険しくなってしまう。ヒースクリフの思惑もわかるんだけど、どうにもハードルの高さに尻込みしてしまいそうだ。まあ、当面はアスナとだけ密に協力し合えばいいわけだから、過度の心配はいらないのだけど。

 諸々の事情を省きさえしてしまえば、ペアを組むに当たって相手プレイヤーがアスナというのは、望みうる限り最上の選択肢だ。特に迷宮区攻略では長時間活動を共にするわけだから、気まずくなるような相手とは断じて組みたくなかった。

 命のかかった戦場で何を馬鹿なことをと呆れられるかもしれない、しかし命がかかっているからこそモチベーションは最大を保っておきたいのである。俺にとって無条件で背中を預けられるプレイヤーは貴重だ。

 

「アスナ」

「何かなキリト君?」

「明日のことなんだけど――」

 

 血盟騎士団で開かれるという幹部会議の行く末が気になるところであるが、ひとまず暫定的な予定を伝えておこうと口を開きかけたその時――。

 

「アスナ様!」

 

 俺とアスナとサチの三人で形成していた、穏やかで心地良い空気を一瞬で吹き飛ばす大声が響き渡った。

 おいおい、なんだよ一体。ってかアスナ《様》? なんだその珍妙な呼びかけは。団長からして時代がかった言い回しを好むギルドではあるが、血盟騎士団は上位者を様付けで呼ぶ規則でもあるのか。

 空気を読まない無粋な闖入者を胡乱な目つきを湛えて眺めやる。

 部屋の入り口に立っていたのは長身痩躯かつ長髪をゆるやかに流し、三白眼気味に落ち窪んだ眼窩が特徴的な男だった。白の生地に赤の刺繍を施した血盟騎士団共通のカラーをした騎士服を着込み、その大半を覆い隠す大型のマントを装着している。腰に提げるのはこれまた大振りな両手剣だ。その剣を見て今日激戦を繰り広げた青い悪魔の異形が思い出され、自然と気分が悪くなった。さすがに八つ当たりだと理解してるから表情には出さないよう自制したけど。

 どこか陰気な雰囲気を思わせる男は見知った顔でもあった。ギルド《血盟騎士団》所属の団員、名をクラディール。

 剣の腕は良いのだが俺にとっては頭の痛くなる相手だ。血盟騎士団内部で俺を嫌う勢力の急先鋒である。そんなクラディールは俺のことなど目に映らぬと言いたげな様子で、挨拶の一つもなくアスナの元へとズカズカと歩み寄っていた。

 

「予定の時間が迫っておりますぞ。至急ギルド本部へお戻りください」

「会議が始まる時間にはまだ余裕があります。それにヒースクリフ団長から多少の遅れは大目に見るとの言質も貰っていますから、心配には及びません。そもそも護衛は十分なので先に戻っているよう伝えたはずですが?」

「何を仰いますか。このクラディール、アスナ様の身辺をお守りする栄誉を戴いた以上、身命を賭して任務に励む所存でございます。任務放棄などとんでもありません」

「当の本人であるわたしが構わないと言っているんです。……護衛なんて大袈裟よ」

 

 最後にぼそりと付け加えられたつぶやきこそアスナの本音だったのだろう。迷惑そうな素振りを隠そうともしていなかった。

 それにしても護衛の任務とは、アスナのやつギルドでも大袈裟な扱いを受けてるな。本人が攻略組を支える支柱の一本であり、加えて礼儀正しく見目麗しい少女とくれば、こうしたお姫様扱いも有り得ないことだとは言えない。アスナにしてみれば窮屈極まりない環境だろうし、本人が無意味に持ち上げられることを良しとしない性格をしているだけに、下手すればモチベ低下につながるんじゃないかと老婆心ながら心配になってしまうが。

 そもそも街中は犯罪防止コードの圏内なのだし、《閃光》の異名を誇るアスナに不埒な真似をしようと近づくプレイヤーなんてそうはいないだろうとは思うんだけどな。護衛を必要とすることなんてあるのか?

 そんな俺の疑問をよそにアスナたちの言い合いは続いていた。

 

「ご不満は参謀職のお歴々に語るのがよろしいでしょう。お戻りいただけますな、アスナ様」

「いいえ、了承できません。まだキリト君と打ち合わせが残っています。あなたの任務放棄にはならないよう団長に言付けをしておきますから、心配せずにギルドへ戻ってください」

「キリト? そこの不心得者のことでしょうか。あのような身勝手な男などアスナ様が気にかけるべきではありません。――薄汚いオレンジ風情が……!」

 

 そこで初めてクラディールの目が俺へと向いた――のみならず、全力全開の罵倒付きである。加えて、眼光鋭く睨みつけてくれるだけならまだマシだと思えるほど、クラディールは嫌悪も露わに蔑みに染まる視線を隠そうともしない。眼は口ほどに物を語るというが、眼も口もそのどちらもが考慮の余地なく俺を完全否定していたわけで……だからなんでお前はそこまで俺を目の敵にしてるんだよ。

 ここまで不躾な態度を取られて笑って流せるほど俺は人間ができちゃいないぞ。それに厚顔無恥と言われようが、オレンジと罵られて俯くだけでやり過ごすのは止めにしたんだ。喧嘩を売ってくるなら相応の値段で買ってやるぞこのやろう。

 血盟騎士団に入団する手筈まで考えていた先の思考を全て棚上げにして睨み返した。そんな俺に対するクラディールの反応はこれ見よがしの舌打ちである。とことん俺が気に食わないらしいな、お前。

 

「――クラディール、口を慎みなさい」

 

 冷え冷えとした声で俺とクラディールの睨みあいに一石を投じたのはアスナだった。彼女は苦虫を噛み潰したような表情でクラディールを諌め、さらに続ける。

 

「キリト君――黒の剣士殿は今に至るまで要注意プレイヤーリストに載ったことは一度たりともありません。口汚い誹謗中傷はギルドの品位を貶めるだけでなく、無用な軋轢を生みます。攻略の志を共にする仲間に失礼でしょう」

「ですがアスナ様、こいつが《仲間殺し》の卑劣漢であることは事実でしょう。私は決して間違ったことは申し上げておりません」

「……聞こえなかったの? わたしは《口を慎みなさい》と言ったわ」

「ぐっ、む……」

 

 うわ、すごい迫力だな。これではさしものクラディールも黙る以外にないだろう。

 決して声を荒げたわけではない。しかし絶対零度の視線をクラディールに向けた今のアスナが放つ威圧感は、とにかくすさまじいの一言に尽きた。何が怖いって、怒り心頭な状態になってなお彼女の美しさは些かも減じていないことだ。むしろ余人を遥かに凌ぐ類稀な美貌はますます磨きがかっているようにすら思える。今のアスナに正面から口答えできるような人間などそうはいないだろう。

 

 ヒースクリフがカリスマの際立つ男ならば、アスナとて負けず劣らず衆を従える資質を持った少女だ。本人がオールマイティに何でもこなせる高スペック持ちの上、たまたま上の立場にいるのがヒースクリフだから補佐役に甘んじているだけである。彼女はその気になれば一団を組織し、トップとして血盟騎士団に負けず劣らずの精鋭ギルドを運営することだって出来たはずだ。まあ、俺が見るにアスナの性向はナンバーワンではなくナンバーツー、すなわち組織の副将にこそ適正があると思っているが。

 できることと向いていることは決して同一ではない。プライベートのアスナを知っていれば、自らが先頭に立つよりも一歩引いた場所から誰かを支えることにやりがいを見出すタイプだとすぐに知れる。この点において俺とリズの見解は一致していた。

 攻略組の牽引者としての立場がアスナに隙のない女を演じさせていても、平時の彼女は穏やかで慎ましやかな良家の子女そのものだった。むしろ温厚篤実なアスナをここまで怒らせたクラディールが哀れだ。南無南無。

 

「ごめんなさいキリト君。……血盟騎士団副団長として部下の非礼を詫びさせていただきます」

 

 そう言って深々と頭を下げるアスナだった。

 

「アスナのその言葉だけで十分だ、《閃光》殿の言葉はいらないぜ。何を言われたかなんてもう忘れたから」

「……ありがとう。明日のことは追って連絡するね、今は落ち着いて話せるような雰囲気じゃないから」

 

 俺の言葉にほっと安堵の息をつき、それから苦笑いで辞去を告げるアスナに俺も軽く頷くことで応えた。お前も苦労するな、アスナ。

 

「サチさんもごめんね。なんだか慌しくなっちゃった」

「私は平気。また会おうね、アスナさん」

「ええ、また。――エギルさんも、お騒がせして申し訳ありませんでした」

 

 アスナが頭を下げる先に目を向けると、いつの間にか廊下につながる扉付近に巨漢の大男が立っていた。背を預けていた壁から身を起こすと、気にするなとばかりに肩を竦めるエギルだ。口元に浮かべた笑みが如何にも大人っぽい。つーか漢臭い。

 ……エギルのやつ、一部始終を聞いてやがったな。収拾がつかなくなるようなら踏み込むつもりだったんだろう。考えてみればクラディールがここまで来るにはエギルの許可が必要だったはずだ、案内ついでに俺達のことを見守っていたのか。

 まったく、やることなすこと渋い男だ。なんだろうな、この頼れる重厚感。エギル、お前三十路前後にしちゃ貫禄がありすぎやしないか、かっけえな。

 

「それじゃまたね、キリト君」

「ああ、また明日」

 

 最後にもう一度アスナは俺とサチ、それからエギルに丁寧に頭を下げると、クラディールを従えるように部屋を出て行った。

 ……去り際にクラディールが一度だけ振り向き、人を殺しそうな眼で俺を睨んでいったことに関してはもはや何も言うまい。アスナが持ち込んだ提案を飲んでおいてなんだが、血盟騎士団との協調関係の構築は無理じゃないかなぁ、と切実に思った一幕だった。

 なにせクラディールの眼は敵意を通り越して殺意すら感じさせられるものだったし。怯えたサチに腕を取られていなければ怖気に身体が震えていたかもしれない。サチの前だからと格好つけて平静を装ってはいたが、俺だってあんな血走った目を向けられるのは怖い。

 ……クラディールか。

 人柄に角が立つプレイヤーだとは思っていたが、こうまで気難しい男だとは思ってもみなかった。これまでは衆目があればこそ自重してきたということだろうか?

 

 この分だとヒースクリフの目論見もご破算かな。クラディールは幹部ではないが実力は侮れない。下手をすれば血盟騎士団でも上位に食い込む有力プレイヤーという話だし、実力主義のギルドだけにその影響力は馬鹿にならないだろう。

 となると、平穏無事に俺と血盟騎士団の協力関係が深まるとも思えないし、入団したらしたでいらん諍いも起こりそうだ。これから行われるという幹部会議とやらでアスナが俺の補佐兼お目付け役に就くことが話し合われるのだろうが、建前通り75層クリアまでの一時的なものに留まるかな。それ以上を望むのは難しいだろう。

 もっともそれはそれで特に問題にするようなことでもない。残念ではあるが、今まで通りでもあるのだから変な混乱も起きずに済む。あとは俺がどこまでソロで攻略を進められるかを考えるだけだし、あるいはクラインなりシュミットなりの伝手で彼らと歩調を合わせて攻略するのも手だろう。ソロに拘る必要もないのだから選択肢は幾らでもある。

 アスナとは75層が攻略されるまではペアを組むことになりそうだし、俺の身の振り方はまた後で考えよう。

 

「……血盟騎士団にも色々な人がいるんだね」

「一応弁護しておくけど、あれは血盟騎士団でも特別だ。あいつ、《黒の剣士》排斥派の急先鋒なんだよ」

 

 クラディールのおかげで気まずい空気の残る中、ぽつりと口にしたサチの声音は複雑な内心をそのまま表しているかのように暗い。

 言いたいことは良くわかる。血盟騎士団は攻略組のトップギルドだけに、下の階層のプレイヤーからすると幻想を抱くには格好の対象だ。ヒースクリフやアスナというビッグネームが所属し、二人ともが尊敬に値する人格者であるために憧憬の思いはどうしたって高まってしまう。俺のようなひねくれ者でもなければ素直に賞賛するはずだ。実際、二人への熱狂的な支持者も多いのだし、それに伴ってギルドそのものへの尊敬も深まっている。

 血盟騎士団の他の団員にしてもそうした期待に相応しくあろうと努力しているだけに、俺としてはむしろヒースクリフよりもそんな下の団員の姿にこそ尊敬の目を向けちゃいるんだが、どうも俺の思いは一方通行らしかった。ままならないものだと思うこともしばしばだ。

 

 それはともかくとして、血盟騎士団所属のプレイヤーと言えども人間なのだから完璧などありえない。幾ら名に相応しい振る舞いを心掛けようとも限界はあるのだし、そもそもヒースクリフとアスナの自制心の強さのほうが異常だ。あれほど克己心に富んだプレイヤーはまずいない。

 つまるところ、攻略組最強のギルドと言っても付き合ってみれば怒りもするし嫉妬もする、立派だが普通の集団だということだ。そして実力主義を掲げている以上、所属プレイヤーに武断的な色彩が強くなるのは仕方ない。強さがステータスの世界で力を示す者は相応の発言力を得るものだ。

 ……だからと言ってクラディールの自侭な振る舞いは行き過ぎだとは思うけどな。悪い意味で血盟騎士団の頑迷さを凝縮し、象徴しているかのような男だった。それだけ俺と血盟騎士団の不仲が進んでいるのだと考えると頭痛ものでもある。

 

「あー、なんか無性に疲れた。あいつとは当分顔を合わせないよう気をつけよう」

「そうしとけ。ったく、別の意味で刃傷沙汰になるところだったぜ」

「そう思うならここまで通さなければ良かったじゃないか。何だってわざわざ火種をぶち込むような真似をしたんだよ」

 

 愚痴だとはわかっていても言わずにはいられなかった。

 

「さすがの俺もお前らが顔を合わせただけでああなるとは思わなかったんだよ。むしろ俺のほうが文句を言いたい。お前、あいつに何かしたのか」

「その心当たりがないから困ってるんだ。確かに俺と血盟騎士団の仲は良くないが、かと言って俺が直接奴等とぶつかったことなんてないぞ。決闘騒ぎとか利害の衝突ならまだ聖竜連合相手のほうが因縁あるし」

 

 血盟騎士団の中では唯一アスナと幾度か決闘したことはあるが、そのアスナとの仲は良好なのだから何の問題もない。

 俺と血盟騎士団の不仲は言ってみれば実態のない対立なんだよな。何かあってそうなったとかじゃなくて、小さな出来事の積み重ねが今の状況を形成しているとしか言えない。攻略組の足並みを乱して単独でフロアボスに突撃するとか、ラストアタックボーナスを数多く持っていっているとかいうのが、はたして小さなことかどうかはともかく。

 直接の契機となる原因が見当たらないから対処も今ひとつ浮かばない。血盟騎士団の中で何となく出来上がってしまっている《黒の剣士は気に入らない》という空気が問題だけに、手を出しあぐねているのが正直なところだった。

 

「まあいいさ。血盟騎士団に関してはヒースクリフとアスナもいるんだ、滅多なことにはならないだろ。最低限の連携は取れてるんだし、急ぎで何とかしなきゃならない問題でもないからな。ゆっくり構えることにしてるんだ」

「ふむ、言われてみりゃそうか。団長と副団長はお前さんに好意的なんだし、そのうち風向きが変わることもあるだろうからな。俺としちゃお前がうちの店を変わらずに贔屓してくれりゃ文句は言わんよ」

「へいへい、商魂たくましいことで」

「それが商人の性ってもんさ。ほれ、そろそろサチの嬢ちゃんを送る時間だろ。俺も店に戻るからさっさと行った行った」

 

 しっしっ、と追い払うようなぞんざいな対応である。

 そこまでお前の店が繁盛してるとも思えないぞと内心突っ込みを入れながら、急かされるように俺とサチはエギルの店を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 外はすっかり暗くなっていた。

 エギルの店の窓から垣間見た黄昏色に染まっていた景色は急速に夜の帳を下ろし、墨を塗りたくったかのように暗闇がアインクラッドの全てを侵食している。気づけば星の輝く時間帯が訪れていたことを意外に思った。急激に流れ行く時間が常になく慌しいように思えて、一体何故だろうと疑問を抱くも、今日は色々あったせいかとすぐに一人得心する。緊張の連続したフロアボス戦のせいで体感時間が盛大に狂っているせいだろう、今になっても落ち着かない心のさざ波がいい加減じれったかった。

 道中サチが足を止めたのは、そんな気もそぞろに落ち着かない内心を持て余していた時のことだった。月夜の黒猫団のギルドホームを目前にして、隣を歩く俺から一歩二歩と先行したかと思えば軽やかに振り返った。そのまま少しだけ屈むような姿勢で俺を見上げ、どこか悪戯っぽい上目遣いで口を開く。

 

「ねえキリト。さっきのアスナさん、とっても格好良かったね。いつもあんな感じなの?」

「血盟騎士団副団長としてはそうかな。トップギルドの実質的な攻略指揮官だから、概ねあんな感じで気を張り詰めさせてるよ。けど、サチだって私的な顔のアスナは見たろ? どちらかと言わずともあっちが素の態度だな」

「キリトを心配していっぱい涙を溜めてた方だね」

「あぐっ」

 

 声に詰まった俺を横目にサチはくすくすと楽しげに笑う。まいったな、今日のサチは明らかに俺に対して容赦がない。

 

「……サチさんや、もしかしてまだ怒ってマスカ?」

「むしろどうして怒ってないと思えるのか不思議だよ。私、キリトがソロでフロアボスを撃破したって聞いて、冗談抜きで心臓が止まるかと思ったんだからね。結晶無効化空間だったって知ったときは、いっそのことキリトを引っぱたいてやろうかと思ったくらい」

「叩かれるのはイヤだなあ」

「だったらあんまり心配させないで。次に同じことやったら本気でぶつからね」

 

 ここで善処するって濁したら平手か拳骨でも飛んで来るのだろうか?

 ……泣かれるのが先かもしれない。

 

「サチも聞いてたろ? 明日からはアスナが俺のお目付け役をするから、ソロでフロアボスと戦うなんてことはないよ。第一、クォーターボスを相手にソロで挑むなんて無茶は出来ない……って、これも言った気がするな」

 

 そんなことが出来るのは血盟騎士団の団長様だけだ、俺にはとてもじゃないが無理ゲーである。加えてクォーターボスを相手に結晶無効化空間の可能性が高いとか、茅場のやつはどれだけ俺たちを絶望の淵に叩き落としたいんだって話だ。

 そっか、とつぶやいたサチはどことなく気落ちした表情を浮かべ、俺から視線を外して俯いてしまう。そんなサチの様子に何かまずいことでも言ってしまったかと不安になり、恐る恐る呼びかけようとした時だった。わずかに緊張を孕んだ固い面持ちでサチが告げる。

 

「……あのね、キリト。少しだけ後ろを向いてもらえるかな?」

「後ろを? 別にいいけど、急にどうしたんだ?」

 

 いいから、と急かすサチに疑問符を飛ばしたまま言う通りにする。

 それから間もなく、ふわりと重みとも言えぬ重みが背中に加わり、両手のそれぞれには柔らかな手の触れ合う感触が伝わってきた。密やかに絡み合う指の感触に少しだけ驚き、それ以上に自然と和らぐ自身の心に二重の意味でびっくりした。今の今まで燻っていた戦闘の余熱がサチの手を介して吸い込まれていくような、あるいは霧散していくような感覚を覚えていた。

 

 ……静かな夜だ。喧騒は遠く、見える範囲に人の姿はない。耳を澄ませば互いの心音すら聞き取れそうだった。

 背中合わせに立ったサチと俺の間で絡ませ合った指はあくまで優しく、そっと触れ合うに任せていた。俺も殊更力強く握り返そうとは思わず、サチとの暖かなつながりがじんわりと胸に広がるのを自覚して微かに笑みが零れる。

 どうしたんだ、ともう一度尋ねた。穏やかに、あるいは安らかに。

 

「ごめんね。キリトの背中を守れるんだって、そんな風に当たり前に言えるアスナさんが羨ましくて、ちょっとだけ妬いちゃったんだ。だから、もう少しだけこのままで。お願い」

「謝るようなことじゃないよ。それに、サチがいなかったら俺なんてとっくに死んじまってるんだ。百万言を費やしても足りないくらい俺はサチに感謝してる。嘘じゃないぞ?」

 

 臆病でも懸命に生きている君を見て、俺と同じなんだと励まされた。

 この世界そのものに潰されようとしている君を知って、初めて人を守りたいと思った。

 生きて現実世界に帰ってほしいと、心から願った。

 

「ありがと。キリトはやっぱり私のサンタさんだね」

「サンタ?」

「うん、キリトがサンタさんで私がトナカイ。《赤鼻のトナカイ》って歌があるでしょ? 私、その歌だけはよく覚えてるの。誰からも必要とされないトナカイは、サンタさんに出会うことで自分の生きる意味を知ったんだ。どんな人でも誰かの役に立ってる、私みたいな弱虫な子でもここにいる意味はあるんだって、そう思えるようになれたのはキリトのおかげだよ」

 

 それは俺を買い被りすぎているのだと思うけれど。

 でも、とても――とても嬉しい言葉だった。 

 

「……なあ、サチ」

「なに、キリト」

「赤鼻のトナカイ、歌ってくれないか。君の歌が聞きたい」

 

 俺の請いをサチは拒まなかった。

 季節外れだし、歌うの下手だからって笑っちゃ駄目だよ、と言い置いて、絡ませた指を改めて結び合い、歌いだす。

 ゆっくりと、滑らかに、そして、ほんの少しだけ誇らしげに。

 

 

 誰からも省みられないトナカイに、サンタはあなたこそが必要なのだと告げました。

 サンタはトナカイに願います。暗い夜道を照らす星として、私と一緒にいてほしいのだと――。

 

 

 一つだけ、訂正させてほしい。君は俺をサンタだと言ってくれたけど、俺にとっても君はサンタだったよ。俺達は互いにサンタで、トナカイなんだって、そう思うんだ。君が俺を必要としてくれたように、俺だって君を必要としていたんだから。

 もしかしたら俺達は合わせ鏡みたいなものなのかもしれない。ふとそんな思いが過ぎるも、それはサチの歌に瞬く間にかき消されてしまう程度のものでしかなかった。

 想いを込めて紡がれる言の葉は、こんなにも人の心に染み渡る。サチの唄う調べは、星屑の散りばめられた夜空へと吸い込まれるように涼やかに澄んでいて、それでいて軽妙な旋律を奏でていた。

 目を閉じ、心を傾け、身を委ねて、今はただ彼女に寄り添えばいい。

 

 

 

 大丈夫。君は死なない。俺も死なない。生きてこの世界から帰れるよ。

 そう、必ず――。

 




 フロアボス専用広域スタン誘発スキル《雄たけび》は拙作独自の設定です。
 また、システム外スキル《剣技追尾》はオリジナル名称となります。システムアシストを上回る速さについては原作でも《知覚の加速》と仄めかされていますが、技能そのものの明確な方法論は明かされていません。
 《ポーション作成》スキルの仕様については独自設定です、原作にも詳細は登場しません。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。