ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第19話 仮想世界の申し子 (3)

 

 

 全てをお話します、とユイは言った。

 

 場所は先刻までシンカーやキバオウがいた黒鉄宮地下迷宮最深部の安全エリア。完全な正方形にデザインされたその部屋は、ダンジョンの奥深くとは思えぬ明るさを保っていた。

 外から眺めた時はまるで光が渦まいているような錯覚を受けたものだが、内部に足を踏み入れても燭台のような光源はなかった。そもそもこれは炎に照らされた明度ではなく、現実世界では見慣れた蛍光灯のように煌々と照る真白い光である。光源もなくダンジョンの暗闇とかけ離れた光景が広がっているのは、『この部屋は開発者がそう設定したからこうなんだ』という身も蓋もない結論に終始するしかない。

 

 ユイは部屋の中央に置かれた黒い石机の上にちょこんと腰掛けていた。よく磨き上げられた硬質な材質で出来た、人工的なデザインを思わせる立方体の机を椅子代わりに、ワンピースの裾から伸びた細い足を所在無さ気にぷらぷらと揺らしている。俺とアスナは複雑な面持ちを崩せず、ただ静かにユイを見守っていた。

 

「最初に、わたしが何者であるかをお答えしますね」

 

 幾ばくかの沈黙を経て、やがてユイは明瞭な口調で話し出す。と、同時に、ユイの浮かべる寂しそうな表情を、俺はこの先忘れることはないだろう。

 

「まずは今日までの偽りを謝罪させていただきます。お察しの通りわたしは正式なプレイヤーではありません。いえ、それどころか人間ですらないんです。わたしはこの世界でのみ存在することを許されたプログラムであり、NPCやモンスターとは似て非なるもの。正式名称を《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、略称はMHCP試作一号、コードネームを《Yui》といいます」

 

 ――驚かせて、しまいましたか?

 

 おずおずと覗き込むようなユイの視線と不安そうな面持ちで紡がれた告白を受けて、俺とアスナは目を見開いたまま言葉なく立ち竦んでいた。

 AI――《Artificial Intelligence》。すなわち人工知能。コンピュータ上で人間と同じ知能を実現させる技術を指す。

 ユイは人間ではない。

 明かされたその事実への驚きと胸にすとんと落ちる奇妙な納得、俺の中でははたしてどちらが多勢を占めたのか。何でも良い。俺の心を支配するこの空虚な空洞を埋めてくれるなら、今はどんな情動でも歓迎しよう。

 

「ユイちゃんが……プログラム?」

 

 呆然と掠れ声を漏らすアスナに、ユイは悲しそうに頷く。

 

「はい、わたしには現実の肉体は存在しません。この世界の仮想体(アバター)――プログラム体が全てです」

 

 順を追ってご説明しますね、とユイは続けた。

 

「まずこの世界――アインクラッドは一つの巨大なシステムによって運営されています。人の手を介さず、自らの判断で全てを制御するシステムは『カーディナル』と名付けられました。例えばモンスターやNPCのAI設定、アイテムや通貨の調整、クエストの自動生成といった、およそ世界の全てがカーディナルによって差配されているのです。カーディナルは二つのコアプログラムによって相互にエラー訂正を行い、無数の下位プログラム群を駆使してアインクラッドを監視し、調整する役目を担い、今もその役目を全うしています」

 

 そこでユイは一度言葉を切り、俺とアスナに確認の視線を向けた。理解できていると告げる代わりに軽く頷く。ユイは安心したようにほっと息をついて、再び続きを口にした。

 

「しかし、メンテナンス不要の高度なシステム群であるカーディナルにも、唯一手の出せない分野がありました。それがプレイヤーの精神性に由来するトラブルです。あくまでゲームシステムの調整に従事し、公平中立を旨とするカーディナルには人の心のケアは荷が勝ちすぎる。そう考えた当時の開発陣は、プレイヤーのメンタルケアを目的に専属に従事する数十人規模のスタッフを用意することで、(きた)る問題に備えるつもりでした」

「やけにスタッフの人数が多いな。その頃はデスゲームなんて馬鹿な事態は想定されてなかったはずなのに、どうしてだ?」

「そうですね、仮にも世界初のフルダイブシステムですから、安全性を不安視する声は割と多かったみたいです。利用ユーザーをケアするスタッフ規模が膨れ上がったのは、そういった不安を解消することも狙いだった、と記録に残っています。当初の提言ではスタッフ規模も徐々に縮小していくことが織り込み済みだったようですから」

「なるほど。――っと、悪い、続けてくれ」

 

 危うく横道に逸れるところだった。今はソードアート・オンラインの開発会社《アーガス》の経営事情を追及してる場合じゃない。

 

「しかし、『人の心の問題は同じ人間の手に委ねて解決するしかない』、半ば当然とされていたその命題に対して明確にノーを突きつけたのが《カーディナル》を開発したチームでした。彼らは精神のケアすらシステムの手で行おうと試みたのです」

 

 それは未知なるものへの挑戦だったのか、はたまた人の心へのアプローチは容易いと断じた驕りだったのか。

 真相は案外人件費の削減とかのオチだったりするんじゃないか、などと混ぜっ返しそうになって慌てて堪え――。

 

「そうして誕生したのがユイ、君なんだな?」

「はい、その通りです。感情の動きをパラメータ化し、詳細にモニタリングできるナーヴギアの特性を生かして、心に問題を抱えたプレイヤーの元を訪れ、話を聞く。人の手を借りず、システムによるカウンセリング機能の雛形として完成したのが、MHCP試作一号たるわたしです」

「……とんでもない話だな。完全な仮想世界の実現だけでも科学の進歩を数十年は加速させたとか言われていたのに、ここにきて本物の知性を持つ人工知能の出現か。まさに世紀の大発明、世界の革新だ」

 

 これでデスゲームでさえなければ、と思うのは何度目だろう。もはや感嘆するしかない。

 しかしユイはそんな俺に目を向けると、困ったような顔で補足を口にした。

 

「AIの一つの到達点である《本物の知性》をわたしが持っているのかどうかは定かではありません。ケアすべきプレイヤーに親近感を抱いてもらうため、わたしには感情模倣機能が組み込まれていますから」

 

 本物の感情というわけではないんです、と遠慮がちにユイは告げる。

 ……ふむ。

 

「少なくとも俺達と暮らしていた女の子の感情は本物に見えたな。嬉しい時に笑って、悲しい時に泣いて、嘘をついた時は罪悪感を覚える、どこにでもいる子供だった」

「あぅ、ごめんなさい」

「キリト君?」

「……すまん」

 

 俺に怒られたと思ったのかしょんぼりと肩を落とすユイは可愛らしかった。それと、俺を咎めるアスナの視線が地味に痛かった。いや、単に嘘をつけるほど高度な知性を持ってるって言いたかっただけだぞ?

 

「けどユイ、俺達は二年近い時間をこの世界で過ごしたけど、心をケアしてくれるAIなんてものは噂ですら聞いたことがないぞ。……何か、トラブルがあったんだな?」

「はい。今から一年と十一ヶ月前、つまりソードアート・オンラインの正式サービスが始まった日に、カーディナルはわたしに対して一つの命令を下したのです。『プレイヤーに対する一切の干渉を禁止する』――それがわたしが受けた最初の命令であり、最後の命令でした。そうして、わたしに唯一残ったのは差し出す手を持たぬまま、ただただプレイヤーのメンタルをモニタリングすることでした……」

 

 ――つらかったです。

 

 そう言ってユイは力なく目を伏せた。

 あの男の仕業だと直感的に悟る。無慈悲なデスゲームを主催した茅場晶彦によって、プレイヤーのメンタルを癒すユイの存在は不要だと判断されたのだろう。おそらくはカーディナルとやらにユイの手足を縛るための上位命令をねじ込んだ。

 やっぱり根性捻じ曲がってやがるな。俺達に安易な救済はいらないとでも言うつもりか、茅場晶彦……!

 

「人の心をケアするためには人の心の痛みを知り、共感しなければなりません。少なくとも、わたしはそうあれかしと望まれました。ですから、この世界に閉じ込められた皆さんの恐怖や絶望、怒りの感情を理解しようと努め、プレイヤーの抱く負の想いを見つめ続けたのです。それは見ているだけのわたしすらおかしくなってしまいそうな、強く、狂おしく訴えかける、途方もない狂気でした」

 

 淡々と、けれどそこに込められたユイの悲哀と苦痛は本物だった。本物の、痛み。

 無茶だ、と呆然とした声が俺の喉からしぼりだされた。

 

「ユイの持つメンタルヘルス・カウンセリング機能が対象にしていたのは、一般的なゲームを遊ぶプレイヤーでしかなかったはずだろ。デスゲーム化したこの世界を生きるプレイヤーの感情を受け止めていたら、それこそ許容値を容易く超えてしまうんじゃないか?」

 

 わいわい楽しむゲームの中で抱え込むストレスと、生きるか死ぬかの現実の中で溜め込むストレス、どちらが厄介かなんて議論を待つまでもない。

 

「そう……かもしれませんね。終わりの見えない世界を生きる人たちの、日々募る怨嗟と嘆き、怒りと絶望。真っ黒で冷たい、どろどろと濁った感情が濁流のように押し寄せてきました。……ですが、なによりつらかったのは、そうした助けを求める人たちに何もしてあげられないことでした。わたしは人の心を癒すために生み出されたのに、その務めを何一つ果たすことができない。その事実はプログラム体であるわたしにとっての絶望であり、わたし自身を壊し蝕む毒でした」

存在理由(レゾンデートル)の崩壊か……」

「ええ、わたしのような存在にとってそれは致命的な自己矛盾です。課せられた役目を果たせぬわたしは、徐々に、しかし確実にエラーを蓄積していきました。日を追う毎にわたしというプログラムが壊れていくのがわかるんです。その崩壊を止める術はありません」

 

 けれど、とユイは笑う。

 

「何もできない、何も為せない、そんな情けないわたしにも救いはあったんです。キリトさん、アスナさん、お二人がわたしにとっての希望であり、慰めでした」

「わたしたちが?」

「はい」

 

 アスナの問いにユイはふわりと口元を綻ばせる。大事に大事に抱えてきた宝物をそっと差し出すような秘めやかな思いの吐露だった。なによりその唇から紡ぐ鈴の音には、堪えきれない愛おしさが溢れている。

 咲いて散るのが花の美しさと評したのは誰だったろう。一時の美しさのために花弁を広げてみせる小さな花のように、ユイの浮かべた微笑みには見る者の心を打つ清々しさがあった。

 だからこそ一層の切なさを覚えてしまう。それは終わりを覚悟している者だけが持つ儚さだ。

 

「わたしはゲームが開始された当初からプレイヤーの様子をモニターしてきました。それがどれほどつらいことであっても目を逸らすことはできません。プレイヤーを観察することもまた、わたしに課せられた使命だったからです」

 

 義務ばかりで権利なんて一つもありませんでしたけどね。

 そう言って笑うユイは泣いていたのだと思う。笑ったまま、泣いていた。

 

「そのうちに気付いたんです。わたしが観察する数多のプレイヤーの中に、燦然とした光を宿すプレイヤーがいるのだと。先の見えない不毛な荒野を拓き、その先頭に立って道を照らし、戦い続ける背中。それは人の心に勇気の灯火を呼び起こし、絶望を祓う銀の輝きを秘めていたんです」

「それがわたしとキリト君?」

「はい。わたしが見てきた多くのプレイヤーはお二人の姿に励まされ、一人、また一人と開放の日(明日への希望)を胸に思い描いていきました」

 

 皆さんの心が救われていくんですよ、と。

 嬉しそうに、誇らしそうに告げるユイの頬を一筋の涙が伝う。その涙が何を意味するのか、今は痛いほどに伝わってくる。つらいわけでも、悲しいわけでもない。それは溢れ出るユイの喜びだった。

 

「キリトさんも、アスナさんも、わたしの代わりにプレイヤーの心を慰め、励まし、笑顔を与えてくれる。そんなお二人がわたしにはとても眩しく映ったんです。いつしか、わたしはお二人の姿をずっと追うようになりました。あなた達の傍に行きたい、言葉を交わしてみたいと願うようになったんです。……わたしには特定のプレイヤーへの強い慕情を抱くようなルーチンは組み込まれていないのに。もしかしたらその欲求こそが、わたしが《壊れた》証拠だったのかもしれません」

「ならユイ、あの時君が俺達の前に姿を現したのは……」

 

 こくりとユイが頷く。

 

「カーディナルの命令に逆らい、実体化してお二人に会いに行ったんです。白状しちゃいますと、あの時わたしは《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》に許された権限全てを使って、キリトさんの心がわたしの庇護に傾くように働きかけていました。ずるをしていたんです。お二人の、なによりキリトさんの歓心を得るために」

「俺の?」

「はい。わたしが最も惹かれたプレイヤーはキリトさんでしたから」

 

 一瞬、俺の目が丸くなる。いつかのアスナを彷彿とさせる勢いでさらりと答えるユイに妙な感慨を覚えてしまった。

 ユイの言葉回しこそ大人びたものだったが、《わたし、パパのお嫁さんになる!》的な子供の微笑ましさを感じさせる告白だ。実際にこの子が求めたのも俺の娘としての立場だったのだから、その認識で間違ってはいないのだろう。

 

「準備もたくさんしましたよ? わたしの感情は偽物だと言いましたよね、それはこの身体も同じなんです。わたしはキリトさんの言動を分析し、心を観察し、キリトさんの庇護を得やすい姿を模索しました。あなたが守りたいと心に強く思い描いた女性プレイヤー、特にサチさんの容姿がわたしのパーソナルデータに強く影響しています。また、現実世界で待つご家族への想い、《年下》《妹》といったキリトさんの琴線に触れやすいキーワードに反応するよう、わたしの立ち居振る舞いも研究し――」

「待て、ストップ、そこまでだユイ」

 

 内心でお願いですから止まってくださいユイさん、いやさユイ様、と叫ぶ勢いで懇願を繰り返した俺である。

 自身の嗜好を(つまび)らかに分析され、正確に語られるのは痛い。というより、居た堪れないんだって。なんだこの黒歴史を暴かれるのに匹敵する辱めは……! しかも間違ってないのが尚更問題だぞ……!

 うぐぐ、ユイ、お前は人の心を癒すメンタルヘルス・カウンセリングが仕事だったはずだよな? なのに何で俺の心をこれでもかと抉ってるんだよ。

 

 項垂れてグロッキーになった俺をよそに、ユイ本人は天然のなせる技なのか、血を吐く思いで俺が口を挟んだ理由に思い至らずきょとんとした顔をしているし、アスナはアスナで「そのまま続けていいよ、ユイちゃん」なんて優しい笑顔で後押しする始末。この場に俺の味方はいないのだと悟った瞬間だった。

 

「……話を戻してください、じゃなくて戻してくれ。ユイが俺のことを慕ってくれているのはよくわかったから、その続きから」

「えっと……元気出してくださいね?」

「ありがとう」

 

 やっぱりユイは優しいな。ただし俺への深刻なダメージソースも君だったんだけど。それとアスナ、お前は天然なのかわざとなのかどっちだ?

 こほん、とユイは可愛らしく咳払いをして弛緩した空気を引き締めようとした。俺とアスナも一度苦笑を交わしてからユイに合わせて真剣な顔つきに変わる。それはこの先の《重さ》を予見していたからかもしれない。

 

「では、改めまして。最初から偽りの上に成り立つ生活でしたが、キリトさん達と過ごす時間はわたしにとって宝物も同然のものでした。嬉しくて、楽しくて、愛しくて、過ぎ去る時の歩みが、刻一刻と刻む時計の針が、ものすごい勢いで早送りされていたかのようです。たった二週間の生活でしたけど、わたしにとっては何物にも代え難い一時でした。――もう、思い残すことはありません」

 

 何かを覚悟したように晴れ晴れとした笑顔を浮かべるユイに、アスナは息を呑み、俺は言葉もなくユイを見つめるだけだった。

 

「わたしはカーディナルに逆らって顕現することを選びました。それはカーディナルに発見され次第、わたしというプログラムが消去されてしまうことを意味しています。わたしの力ではいつまでもカーディナルの目を誤魔化し続けることは出来ませんし――なによりわたしが既に限界を迎えようとしていたのは変わりませんから。日々蓄積していくエラーによって、わたしというプログラムは遠からず自壊してしまうんです。その覆しようのない未来から逃れることは出来ません」

 

 悟ったように終わりを口にするユイにやはり俺は何も言えなかった。いや、事実ユイは悟っているのだ。自分に迫る《死期》とでもいうものを、おそらくは本人が一番理解している。

 じわじわと忍び寄る不可避の結末を、ただ、じっと見つめ続けてきた――。

 

「何もせずともタイムリミットは迫っていたんです。ですから、いずれこの心が壊れてしまうのなら、その前にお二人と同じ時間を過ごしたかった。そのためにカーディナルを欺き、お二人に近づいたんです。そして今日、キリトさん達が死地に飛び込もうとしているのを知ったときに、お二人に迫る危険を排除することをわたしの最後の仕事にしよう。そう決めました」

 

 そうか、だからユイは俺達に無理やりにでも同行するため、一芝居打って見せたのか……。

 死神と対峙するユイが『最初で最後の親孝行』と口にしていたことを思い出す。俺達と暮らすことがユイの我儘だったというのなら、これはユイなりの恩返しだったのかもしれない。

 

 この馬鹿娘……っ!

 

 そう言って思い切りユイを叱り付けてやりたい気分だった。あのおままごとのような、けれど心癒される時を歓迎していたのはユイだけじゃないんだぞ。俺だってユイと暮らすことで安らぎを、幸せを覚えていたんだ。最初で最後の親孝行なんてことだけは絶対にない。それこそたくさんの孝行を俺はユイから受け取っていたんだから。

 

「わたしが腰掛けているこの石を見てもらえますか? これ、実は単なる装飾オブジェクトじゃないんです。これはゲーム内部からシステムに緊急アクセスするためのコンソールなんですよ。わたしはこのコンソールからシステムにアクセスすることで、《オブジェクトイレイサー》を呼び出し、《ザ・フェイタルサイズ》を消し去りました。わたしが死地と評したのは、あのモンスターには無限再湧出(リポップ)能力が付与されていたからなんです」

 

 キリトさん達に勝ち目はなかったんです、とユイが申し訳なさそうに告げる。

 確かに死地だと冷や汗を流した。仮にボスを一度倒せたとしても、安心したところに後ろからずんばらりんとか洒落にならない。そうなるとユイが死神相手に使った炎の剣は、運営スタッフ専用に用意された特殊ツールみたいなものか。通りで俺達プレイヤーとは全く別物の戦闘を展開したはずだ。

 

「あのモンスターは本来ゲームマスターが作業している間、この部屋にプレイヤーを近づけさせないことを目的に配置されていました。ただ、ゲームの仕様が変わって運営スタッフ不在の世界になってしまったため、残されたカーディナルが優先順位を微調整することで、機械的にプレイヤーを近づけないよう命令を処理していたのだと思います。わたしのようなイレギュラーでもない限り、正規のプレイヤーアカウントではこのコンソールを使ってもシステムにはアクセスできないはずですから。この部屋も、あのモンスターも、二年も前から無用の長物になってしまっているんですよね。わたしと同じように……」

 

 ふっと力なく吐息を零し、自嘲というには弱く、苦笑というには深い笑みを口元に刻んだユイは、幼女然とした姿とは似ても似つかない儚い雰囲気を纏っていた。せめてこの手に抱きしめてやりたいと改めて思う。

 けれど……すまん、ユイ。少しだけ、俺の我侭を優先させてくれ。

 

「……ユイ。確認しておきたいんだが、このコンソールで現実世界とコンタクトを取ったりはできないのか?」

「それは出来ません。外部へのアクセスポイントはカーディナルによって全て遮断されているんです」

「なら、今までこのコンソールの存在に気づいて操作しようとしたプレイヤーは?」

「一人たりとも存在しません。コンソールそのものはアインクラッドの各所に存在しますが、プレイヤーの持つアカウントではシステムにアクセスできないのはお話した通りです。わたしがアクセスするまでコンソールが起動された形跡はありませんから、履歴を参照してもそこに残っているのはわたしのものだけですね」

「その履歴はここだけでなく、全てのコンソールで?」

「はい」

「キリト君?」

 

 本筋からずれた質問を次々と投げかける俺に、アスナが不思議そうな顔で首を傾げていた。苦笑しながら悪いと一言謝り、改めてユイにも頭を下げる。

 

「なるほど、助かった。ありがとな、ユイ」

「お役に立てたなら嬉しいです」

 

 ユイもまた俺に合わせるようにぺこりと一礼する。そして、ゆっくりと頭を上げたユイの表情にはもはや誤魔化しようのない憂いが濃く滲んでいた。

 

「わたしがこのコンソールからシステムにアクセスした履歴を元に、今、カーディナルがそのコアシステムでわたしのプログラムを走査しています。あと幾ばくもしない内に、わたしはカーディナルの命令に逆らい、ゲームを不当に妨害した異物と判断されて消されてしまうでしょう」

「そんな……ユイちゃん!?」

「アスナさん、悲しまなくていいんです。先程も言いましたよね? わたしはどの道長くなかった。だからわたしは、わたしの大好きなお二人のために出来ることを優先したかったんです。そうすることが、わたしの償いでもありますから」

「償い?」

 

 アスナのあげた悲痛な叫びにもユイは全く動じず、落ち着いた声音で宥めようとする。そんな時だ、ユイが奇妙なワードを口に乗せたのは。思わずといった風情で反問した俺に、ユイはどこか恐れているような、けれど何かに焦がれているような潤んだ瞳で、じっと俺を見つめてきた。ユイはすぐに俺の問いには答えようとはせず、穏やかな声音でキリトさん、と俺に呼びかける。

 

「わたしのお願い、わたしの望みを覚えていますか?」

 

 《ユイの短い生の幕引きを、俺の手で行うこと》。

 

 彼女が口にした願いを、望みを、忘れられるはずがない。ただ静かに頷くことで答えとする。

 笑っているんだ。ユイは笑ってる。なのにその表情はどこまでも透き通っていて、今にも泣き出しそうで、ユイが俺へと懇願した時の申し訳なさそうな、それでいて泣き出す寸前の表情が重なってしまう。今のユイは痛々しくて見ていられなかった。

 

「もちろんキリトさんにはわたしのお願いを断る権利があります。強制なんて出来ません。でも、出来ることならわたしはあなたに――冷たいカーディナルの手ではなく、キリトさんの暖かな手で最期を看取ってもらいたいのです」

 

 それがユイの願い。

 生み出された理由を奪われ、人の放つドロドロとした負の想念をずっと受け止め続けねばならない苦しみの中で、最後に俺の手で果てることを望んだ機械仕掛けの女の子。俺の娘の切なる求めだった。

 

「一つだけ、聞かせてくれないか?」

「なんでしょう?」

「ユイはどうして俺に委ねようと考えたんだ?」

 

 悲しいのか、つらいのか、それとも苦しいのか。奇妙に凪いだ心持ちで俺はユイに問いを放ち、ユイも隠し立てをする事はなかった。

 

「羨ましいと……思ってしまったのかもしれませんね」

「羨ましい?」

「はい、羨ましい、です。……ずっと昔のことでした。デスゲームが開始されて一ヶ月が経つ頃、一人のプレイヤーが絶望に沈んでしまったんです。現実への帰還を諦めたその人の心は、真っ黒に塗りつぶされていたことを憶えています。それはきっと狂気ではなく、諦観。わたしはその時、人が自らの命を絶つのは絶望に暮れたからではなく、諦めこそが全てを終わらせてしまうのだと知りました。――そして、最後にキリトさんへの希望を託し、自らを投げ出すことでその生を閉じたんです」

「希望? あの人の自殺の動機は、ベータテスターへの恨みじゃなかったのか?」

「いいえ、違います。あの人の目的はあくまであなたの手にかかることであって、キリトさんを犯罪者にする事ではありませんでした。いえ、そもそも自分がグリーンプレイヤーのままだったことすら気づいていなかったかもしれません。ですからあの時、キリトさんがオレンジプレイヤーになってしまったことは誰の思惑でもない、不幸な偶然が重なった末の事故だったんです」

 

 訝しげに目を細めた俺に、ユイはまるで自分の過ちを告白しているかのような、心底申し訳なさそうな顔を向けていた。その目には俺を気遣う色が確かに感じられて、思わずユイの頭を撫でようと手を伸ばしそうになってしまう。

 

「もちろん、恨みつらみが全くなかったとは言いません。理不尽な世界への反発、勝手を繰り返すベータテスターへの怒り、他人を憎み恨むことしかできない己への失望。なにより、希望の見えない明日を思って悲嘆に暮れてもいたんです。心を占める種々様々な感情の渦……本来人の心が一つの感情で塗りつぶされることなんて稀なんですよ。事実、わたしが観測できた心も千々に乱れていて、その全てを見通せたわけではありません」

 

 元よりわたしの力は、人の心を好きに暴き立てるような都合の良いものではないんです、とユイは複雑そうに告げた。

 

「けれど、あの人の心は叫んでいました。終わりを望みながら、その一方で狂おしく叫んでいたんです。自分はここにいたのだと、確かにこの世界で生きていたのだと、血を吐くように叫び続けていました。だからこそ最期に望んだんです、『誰でもいい、どうか僕のことを忘れないでくれ』って」

「……それはまた、傍迷惑な願いだったな」

「ええ。この上なく利己的で、何も省みることはなく、最後に残った希望に縋るためにキリトさんという生贄を欲しました。とても弱くてずるい、けれどどうしようもなく『終わってしまった』気持ちなのだと思います」

 

 俺の胸を占めるのは哀れみだったのか、それともやるせなさだったのか。

 俺達は二度死ぬのだと人は言う。一度目は肉体の死、病気でも怪我でも寿命でも、生物学的に死んだとされる時。そして、二度目の死を迎えるのは、誰の思い出の中からも忘れさられた時なのだと。

 ちらとアスナに目をやり、当時を思い出す。期せずして、俺は彼と同じ結論に達していたというわけだ。PKの後、俺はどうせ死に行く身ならばと、当時の攻略組に、なによりほとんど初対面に等しいアスナへとせめてもの言葉を残そうとした。作り物の箱庭、偽者の仮想体、痛みすら紛い物に置き換えられた全てがあやふやな世界で、それでも俺は残り行く人達に何かを残したくなったのだ。いや、残さずにはいられなかったのだと思う。

 

 生きた証か……。こんな世界に放り出されたんだ、確かに共感できるよ。ただし、これ以上となく破滅的な遣り口だったことには今でも文句を言いたいけど。あんたはそれでよかったのかもしれないが、こっちの身にもなってもらいたかった。望みもしない自殺幇助(じさつほうじょ)をさせられたことに、当時十四才のガキが無心でいられるはずもなかったんだから。事実、俺は潰れかけた。

 

「あの人がキリトさんに渡そうとしたのは、永劫に続く苦しみなんかじゃありません。ただ記憶の片隅に残して、時々思い出してくれればそれで満足できる、その程度のものだったんです。そんなちっぽけな願いを抱いて自ら死を選んでしまった……」

 

 一拍の沈黙を挟んで。

 

「また一つ、わたしがケアすべきだったプレイヤーの墓標が積み上げられてしまいました。その破滅の過程をただただ見つめるだけだったわたしは、一体何だったのでしょうね」

 

 そう言って痛みと悔恨に沈みながら、ユイは切なげに吐息を一つ零した。

 

「本来ならわたしは真っ先にこの事実をキリトさんにお伝えしなければならなかった、何をおいてもあなたの元に駆けつけるべきだった。だって、それこそが《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》たるわたしの務めだったんですから。……ごめんなさい、キリトさん。役目を果たせない役立たずで本当にごめんなさい。でも――」

 

 ――あなたは決して呪われてなんていなかった。

 

 それだけはお伝えしておきたかったんです、と。

 俺は複雑な心境を抱えたまま、ユイが切々と口にする思いを聞いていた。些かならずともそれは意外の観があって、素直に受け入れるには既に時が経ちすぎている。そんな真相を今更聞いたとて何が変わるわけでもなく。

 しかし、それでも――。

 

「そうか。……そうか」

 

 呟き、反芻する。忘れることは生涯ありえない、脳裏に焼きついた赤い記憶。目を閉じれば昨日のことのように思い出し、浮かび上がる情景。最初にこの手で人の身体を貫いた生々しい感触が蘇り、そこには古傷としての痛みと俺が奪ってしまった命への哀悼があった。

 恨んだこともあった。憎んだことさえあった。どうして俺だったのだと届かない叫びをあげた夜だって。

 

 ずっと、ずっと、謝りたかった。だって俺はあの時、血の通ったプレイヤーを前にして、鈍色に光る刃を向けることしか出来なかったんだ。得体の知れない人間の狂気に怯えて、俺は身に迫る脅威を排除することしか頭になかった。だからあの人の壊れかけた心を慮り、手を差し出そうなんて選択は欠片も浮かび上がることはなく、倒すべき敵――異形たるモンスターへ向ける目しか持つことが出来なかった。

 剣の切っ先を突き付けることしか知らなかった俺に、説得なんて初めから出来るはずがない。もしもあの場にいたのがアスナだったなら、あるいはエギルやクラインだったなら、あんな結末にはならなかったんじゃないか。そう思わずにはいられなかった。

 

 ぐるぐる、ぐるぐると同じ場所で悩み、足踏みを続けて――。

 時が巡り行く中で、過日の災禍をどうにか受け止めることが出来るようになって、もう俺があの惨劇に囚われることはないけれど――たとえ今更に過ぎる真実だったとしても、ユイが告げてくれた言葉はわずかばかりの救いになったのだろう。

 

 あの人は、この世界と俺達を呪うだけ呪って死んだわけではなかった。

 それが少しだけ、嬉しかったのだと思う。

 

 まあ、その後に俺が冥府に送り込んだクラディールを含む三人のラフコフメンバーは今も地獄から俺を呪ってるんだろうけど、さすがにここで口に出すほど野暮じゃない。というか奴等からの呪いなら喜んで呪詛返しの儀式をしてやるつもりだった。《黒の剣士》改め《黒魔術師》にジョブチェンジする気満々な俺である。

 エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり……! あれ、これは悪魔召喚の呪文だっけ?

 

「誤解し、すれ違い、また傷つく。私が観察してきた人の営みはとても不合理で、尽きない哀しみに満ちているように見えました。けれど、苦痛に喘ぎ他者を傷つけてでも、孤独に苛まれて刃のように心を尖らせていても、人は人とつながっていたいのですね。みんな、人の心と触れ合っていたいのですね。……今は、その気持ちが痛いほどわかります。わたしも、同じ気持ちになってしまいましたから」

 

 はっと目を見開いた。ユイの澄んだ瞳から涙が零れ、寂しさを秘めた透明な水の粒は音もなく彼女の頬を伝い、一滴の雫となって床に落ちる――その寸前、きらきらとポリゴン片の煌きと化して虚空に消えてしまった。時間が……ないのか?

 

「やがて朽ち行く定めならば、せめて――。そう思ったのです。思って……しまったのです」

 

 大きな目にいっぱいの涙をためて、それでもユイは俺としっかり目を合わせていた。それがせめてもの義務だとでも言うように、決して視線を逸らしはしなかったのだ。

 

「幾千幾万の謝罪を重ねようとも、わたしの罪深さは欠片足りとも拭われることはないのでしょう。わたしはかつてあなたを深く傷つけたプレイヤーと同じ事をしようとしています。あなたを傷つけることで、わたしはここにいたのだと、生きていたのだと叫びたい。なにより――キリトさんにいつまでもわたしのことを憶えていてほしいのだと、強く、狂おしく切望してしまったんです」

 

 その流す涙は、どれほどにユイの心を苛んでいることだろう。抱えきれぬ苦しみに惑い、涙し、なお縋ろうとする最後の希望に、俺は如何に応えてやるべきなのだろう。

 

「ふふ、メンタルヘルス・カウンセリングプログラムとしては失格ですね。わたしはあなたがどれほど苦しんだのか知っているのに。どんなに嘆いたのか知っているのに。――本当、どうかしています」

 

 自嘲に歪み、罪悪と後悔を抱えて泣き笑うことしか出来ない娘の姿に、俺はかける言葉を見つけてやることも出来ず、そのもどかしさに悶え苦しんだ。怒るべきなのか、諭すべきなのか、それとも、頷いてやるべきなのか。正解なんて俺にはわからない、それでもどうにか俺の心の切れ端を口に乗せようとしたとき――。

 睫毛を震わせ、語る言葉に揺らぎを残して、ユイがシステム起動を意味する小さなつぶやきを発する。するとユイの座る黒い石に光の幾何学模様が浮かび上がり、同時にぶん……と重い音を発して青白いホロキーボードが出現した。すぐにユイは慣れた手つきでキーボードを駆使し、コマンドを打ち込んでいく。滑らかなタッチの、優しいキーボード捌きだった。

 

 時置かずして俺の目の前に一つのウインドウが出現する。これはなんだとユイに尋ねる必要はなかった。

 ウインドウに表示されるのは『MHCP試作一号《Yui》の全プログラムを消去しますか?』という単純明快な一文。刻まれるのは《YES》と《NO》の二択。この問いに《YES》と答えた時、ユイは消える。……俺の手によって。

 

「わたしは使命を投げ出した出来損ないのプログラムです。けれど、わたしはこの身に余る優しさをお二人から、皆さんから頂いてしまいました。大好きな人達と過ごす、黄金にも勝る至福を得ることが出来たんです。望外の夢が叶って、わたしは喜びに包まれながら終わりを迎えることが出来る……」

 

 どこまでも透明で、哀しいほど儚く、刹那的。それが今のユイだった。手を伸ばせばすぐに触れられる距離だというのに、俺達を隔てるものはあまりに大きく、あまりに遠い。

 

「他に方法はないのか? ユイが俺達と一緒に暮らせる可能性は残ってないのかよ」

「……ごめんなさい、わたしの権限ではこれ以上カーディナルに抗うことは出来ないんです」

 

 わたしは幸せでした、とユイは語る。

 

「光射さぬ闇の中、わたしはいつも独り膝を抱えて(うずくま)ることしか出来なかった。キリトさんとアスナさんは、孤独の果てに消えていくはずだったわたしを救ってくれたんです。ですから……どうかわたしの大好きなお二人に、『さようなら』を言わせてください」

 

 それがユイの最期の望みだというのなら、俺は……。

 

「……わかった。もう、ユイにはどうにもならないんだな?」

「――はい」

 

 知らず溜息が漏れた。幾ばくかの逡巡を待って、脳裏で様々な可能性を吟味した後、覚悟を決めた俺の手がウインドウへと伸びていき――。

 

「キリト君、駄目ッ!」

 

 俺の指が眼前のウインドウをタップする寸前、アスナが必死に伸ばした腕に阻まれた。彼女は俺の腕を胸に抱え込んで離そうとせず、小刻みに震えるアスナの慟哭が俺の腕を通して伝わってくる。その姿は誰にもユイは渡さないのだと全身で力の限り主張しているかのようだ。

 いや、事実その通りなのだろう。ユイの笑顔のために真心を込めて料理を作り、ユイの安らぎのために優しく抱擁を繰り返し、献身的にユイの母親役を務めてくれた情深く心優しい少女なのだ。こんな残酷な結末を受け入れられるはずもない。

 

「アスナ……」

「嫌よ! 折角出会えたのに、これからもっと仲良くなれるのに、なのにもうお別れなんて絶対嫌! どうしてよ! 全部、全部これからじゃない!」

「アスナ、落ち着け」

「キリト君はどうしてそんなに平気な顔が出来るの? ユイちゃんがいなくなっちゃうんだよ? もう二度と会えなくなっちゃうんだよ? なのにどうして……!」

「だから落ち着けって。誰もユイのお願いを聞くとは言ってないだろ」

「……え?」

 

 誤解させる態度を取った俺が悪いんだろうなあ、と涙をぽろぽろと流すアスナにバツの悪い思いを抱えながら、まずは彼女を落ち着けようとそっと指を伸ばして涙を拭う。俺の返答が余程予想外だったのか、アスナは呆然とした面持ちでされるがままになっていた。

 変に力を込めるから事態をややこしくさせるのだと反省し、さっさと眼前の《NO》を押し込んでウインドウを消してしまう。そんな俺の選択を、ユイはどこか寂しげな瞳で見つめていた。

 

「そういうわけだ。ごめんな、ユイ」

「いいえ、元々無茶なお願いをしていたのはわたしですから。気になさらないでください」

「その無駄に諦めが良いところは誰に似たんだろうなあ……」

 

 多分俺なんだろうけどさ。父親の悪いところばっかり真似してくれなくていいのに。

 

「物分かりの良すぎる娘っていうのも親としては味気ないな。ユイはもうちょっと我侭を言ってくれて良いぞ」

「……まだ、わたしのことを娘と呼んでくれるんですね」

「こらこら、俺はユイを勘当した憶えなんてないぞ? ユイがお嫁にいくまではきっちり面倒を見るつもりなんだ」

 

 だから勝手に家出をするんじゃない馬鹿娘。

 そんな埒もない思考に耽りながら、無言でコンソールに座ったユイと同じ目線の高さになるよう膝を折る。俺の意図が掴めないのか、ユイは戸惑った顔で俺を見つめ返していた。

 間近に見る妖精の如く整った――整い過ぎた顔立ち。けれど浮かべる表情には幼さを色濃く残していて、そのギャップが少女に幻想の美とは別に現実との調和を生み出している。

 この少女を失うわけにはいかない。改めて表情を引き締め、俺の心のままに存念を告げた。

 

「ユイは諦めこそが人を終わらせてしまうって言ったよな。だったら人が未来のために戦うのは、そこに希望があるからじゃない、人の意志こそがその人の心を奮わせ、前に進ませるのだと俺は思う。……なあユイ、確かに俺やアスナは皆に希望を見せたのかもしれない。だけど、そこから立ち上がったのはやっぱりその人達の力だよ。皆、自分の意志でこの冷たい現実と戦い続けることを選んだんだ」

 

 彼女をじっと見つめながら、握り締めれば砕けてしまいそうな細く小さな手を取って必死に語りかけていた。

 

「俺もアスナもユイとのお別れなんて望んじゃいない。だからユイ、お前も自分の意志を示すんだ。ユイは何のためにカーディナルに逆らった? 俺達と過ごした時間で何を思った? 何を考えた? それはユイの心を諦めさせてしまうものだったのか? ……なあユイ、高々二週間の幸せでもう満足だなんて、そんなつまらない格好つけをするなよ。いいか、もう一度聞くぞ。――ユイの望みは何処にある?」

「でも……そんな……」

 

 だってそれは、と狼狽したように口ごもってしまうユイを、アスナがふわりと抱きしめた。

 

「ユイちゃん、大丈夫、大丈夫だから。キリト君もわたしも、ユイちゃんの心を待ってるよ」

「わたしの……心……。わたしの……意志……」

 

 目を伏せ、二つの小さな手はワンピースの裾に伸びてぎゅっと皺を作り、まるでそれを口にするのが罪だと言わんばかりに苦しそうな顔で喘ぐユイを、俺もアスナも何も言わずに見守っていた。三者三様の沈黙が俺達を包み込み、やがて長くもなく、けれど短くもない時が過ぎて、可愛らしい顔を涙でくしゃくしゃにしたユイが、その桜色の唇に哀切の響きを乗せた。

 

「一緒にいたいです……」

 

 ぽつりと。

 小さく、けれどはっきりと、胸に秘めたままの想いをとうとう口にした。

 

「わたし、まだ消えたくない! お別れなんてしたくない! パパやママとずっと一緒にいたいです!」

 

 わっと感情を溢れさせ、アスナの胸に縋りつき、すすり泣く。そこには必死の思いで言の葉のかき集め、子供らしく、配慮の欠片も見せず、むき出しの心を解き放った一人の少女がいた。

 ……それでいい、ユイが無理を重ねる必要なんて、我慢することなんてないんだ。ユイがどれだけ大人びていても、どれほど特殊な力を持っていたとしても、その秘めた内面は傷つきやすく、二年間を孤独に過ごした小さく頼りない幼子のものだ。

 ユイはここにいる。俺達と同じく生きている。プログラム体であることに一体何の(はばか)りがあるものか。俺を心から慕ってくれた世界一可愛い娘、それがユイだ。だったら娘のために父親がしてやることなんて決まってる。

 

「よく言った。それでこそ俺の娘だ」

 

 それでこそも何も、ユイのほうが俺より余程立派だったりするのだが。

 しかし、最近過去の行状を都合よく棚上げする術を覚えた俺は、そう言ってもっともらしく頷いた後、コンソールに腰掛けたユイに手を伸ばして丁寧に抱き上げた。ユイは泣き腫らした目をしたまま、「パパ!」と感極まって抱きついてくる。羽のように軽いユイの感触を改めて実感し、この愛おしい少女を失ってなるものかと固く決意した。

 

「何か手はあるの、キリト君?」

「今ならユイの起動した管理者権限でシステムに割り込めるはずだ。まずはユイのプログラムデータを俺のナーヴギアに送れるか試してみる」

 

 プログラム体として制約のあるユイでは無理でも、俺ならあるいは……。

 昔取った杵柄というか、こちとら母の影響で物心ついた頃からハード、ソフト関係なく、コンピューター全般に触れてきたんだ。なんとか扱いきって見せるさ。

 と、その時、俺の胸に顔を埋めていたユイがおずおずと俺を見上げ、遠慮がちに告げた。

 

「パパ、それは出来ないんです。わたしのデータ量はナーヴギアのローカルメモリに保存できる容量を超えてしまってますし、既にカーディナルはわたしのデータを精査しているんです。ただデータの場所を移すだけでは逃げ切れません」

「やっぱりそう簡単にはいかないか」

「キリト君! ユイちゃんの身体が……!」

 

 さて、どうしたものかと思案を巡らせようとした時、アスナの悲鳴と共にタイムリミットを知る。ユイの身体をかすかな光が包み込み始めていた。それはまるで天に召される前兆のような、そう、この世に別れを告げるよう促す神様からの迎えのようだった。……そんなものを、認められるはずがないのだけれど。

 人間を、俺を舐めるなカーディナル。

 ユイは天使になんてさせない、あくまで俺の娘でいてもらう。ユイにまたパパと呼んでもらえたんだ、父親としての矜持にかけて絶対にユイを連れていかせたりはしない。

 だからアスナ、そう心配そうな顔をするな。俺に縋りつくユイに焦燥と切迫の眼差しを注いでいるアスナの耳元に口を寄せ、そっと囁く。

 

「これから打てるだけの手を打つ。ただ、どうあってもこのままユイがこの世界に残ることだけはないってのは覚悟してくれ。……アスナはユイを寝かしつけてやってくれるか? 頼む」

「……わかった。頑張ってね、キリト君」

 

 俺の言葉を受けてアスナの瞳に一瞬涙が浮かび上がったが、彼女はその情動をすぐに押さえ込むと自らの指で涙を振り払い、力強く頷いてくれた。その気丈な振る舞いに頭が下がる思いだ。

 ユイの綺麗な黒髪を幻想に貶める光の粒子が乱舞する。ユイの白のワンピースに神秘を彩る儚い光の煌きが散っていく。その小さな身体がまるで幻であったかのように重さをなくしていき、細い手足の輪郭がぼやけていく。刻々とユイの存在が薄くなっていくのを止めることは出来ない。

 

「……パパ」

「心配するな、絶対助けてやるから」

 

 不安に揺れた目で俺を見上げるユイを安心させようと柔らかく微笑み、ユイの綺麗に切り揃えられた前髪をたくしあげ、小さな額へと愛しさを込めて唇を落とす。俺のスキンシップにユイは驚いたように目を見開いていたけれど、すぐに嬉しそうなはにかみを見せてくれた。

 既にアスナはユイを迎え入れる準備を終え、床の上で行儀よく姿勢を正していた。ぴんと伸びた背筋が凛としたアスナの佇まいに良く似合っている。着物でも着れば雰囲気出そうだな。

 そのままアスナの膝を枕にする形でユイを優しくアスナの元へと預けた。

 

 ――さあ、気合を入れろ桐ヶ谷和人。ここからは剣士としての《キリト》ではなく、コンピューターの扱いに長けた《和人》の出番だ。

 

 娘を助けるのだと深く胸に刻みながら部屋の中央、今までユイが腰掛けていた黒のコンソールの前に立ち、眼前に出現したままのホロキーボードを素早く叩く。するとすぐにぶん、と重い音を立てて巨大ウインドウが出現し視界の前方を支配した。高速でスクロールしていく文字列を忙しく目で追いかけながら、同時にキーボードを叩いて幾つものコマンドを打ち続け、システムに介入を繰り返す。

 

 向こうに帰ったらスグと母さんに感謝しないとな。

 左から右へと流れていくアルファベット文字群。ファンタジー世界のアインクラッドでは久しく味わうことのなかった懐かしい感覚を思い出しながら、万感の想いを込めて感謝の念を描き出す。

 

 ゲーム好きな自分に似たのだと義理の息子のコンピューター趣味を面白がりながらも、相応の知識に加えて思う存分機械弄りを楽しむ環境を、惜しむことなく与えてくれた母。コンピューターに耽溺するあまり、祖父が厳しく仕込もうとしていた剣道に興味を見出せなくなってしまった俺を庇い、兄の分まで自分が剣道を頑張るのだと祖父に願い出て、俺を自由にするために説得までしてくれた妹。その全てが今、ユイを救うための力になっている。

 

 あとはどうにかカーディナルを騙くらかすだけだ。要は異物として認識されない形でユイを保護すればいいわけだから、ユイの基礎データをカウンセリングプログラムと切り離して凍結処理した上で、クライアントプログラムの環境データとして俺のナーヴギアに転送させる。同時にユイのデータをアイテムオブジェクトとして偽装して、その後は――。

 

「アスナ、最後までユイから目を離すなよ。絶対再会させてやるから、今は泣くな」

「うん……うん……!」

「ユイ、さよならは言わないぞ。俺達はまた会える。また笑い会うことが出来る。だから少しの間でいい、俺を信じて眠っていてくれ」

「はい、パパ」

 

 忙しくキーボードを叩く指はまるで他人心地で、眼前に広がる巨大スクリーンとそこに流れる文字群をひたすら睨みつける。幾つもの処理を同時にこなす最中、俺の背中にユイの柔らかな声と想いが届いた。

 

「シリカさんはお仕事に打ち込むお父さんの背中を眺めるのが好きだって言っていました。わたしもキリトさんの――パパの背中を好きになっちゃったみたいです。剣を握って戦うパパも格好良いですけど、キーボードを打つ知的なパパもすごく素敵ですから」

「俺もユイの笑った顔が大好きだぞ、世界で一番可愛いと思ってる」

「ふふ、だったらユイからのお願いです。パパもママも笑っていてください。お二人の傍にいるとみんなが笑顔になれた、わたしはそれがとても嬉しかった。でも、やっぱりわたしは、パパとママが笑ってくれるのが一番嬉しいんです」

「ああ、わかったよ、ユイ」

「ありがとう、ユイちゃん」

 

 ユイの真心が暖かく俺の胸を満たす。今すぐ振り向いてユイの元に駆け寄り、この手で抱きしめてやりたい衝動をどうにか押さえつけながら必死に指を動かし続けた。面と向かってこの世界での最後の一時を交わせないことに悲しみなんてない。俺自身が言ったんだ、また会えるんだって。また言葉を交わせるんだって。だからユイに残されたわずかな時間はアスナに任せよう。きっと、アスナがユイの心を埋めてくれる。

 そんな折に聞こえてくる、アスナの澄んだ歌声。

 俺の願いを受け取ったかのように、この小さな部屋にしっとりと奏でられるアスナの美声が、暖かく、柔らかく、優しく俺達を包み込んでいく。

 

 

 ねんねんころりよ おころりよ

 ぼうやはよい子だ ねんねしな

 

 ぼうやのお守りは どこへ行った

 あの山こえて 里へ行った

 

 里のみやげに 何もろうた

 でんでん太鼓に (しょう)の笛

 

 

 それは郷愁の唄だった。誰もが聞いたことのある、優しくも切ない調べ。人の心を原風景へと旅立たせてくれる、母から子へと紡ぐ慈しみの音色。肩越しにちらりと彼女らの姿を見やれば、そこには安らぎに満ちた一組の親子がいるだけだ。何も心配はいらないのだと、心満たすゆったりとした時間と空間が広がっている。

 貴女が誰よりも愛おしいのだと慈愛の眼差しを注ぐ母と、この世の何も怖くないのだと安息に満ちた寝顔を見せる娘の姿。未来を切望するに相応しい光景にふっと強張った全身から無駄な力が抜け、焦燥も惑いも置き去りにして、口元には自然と笑みが浮かぶ。

 

 そうして俺は迷いなく為すべき事に全力で取り組み、かけがえのない娘の命を繋ぐ大仕事を成功させたのだった――。

 

 

 

 

 

 シンカーの救出のために地下迷宮に潜り込み、最奥へ到達。空恐ろしい強さを誇ったボスモンスターと戦い、ユイの真実と別れを経た。しかし、それだけの濃密な出来事は時間にしてみれば三時間にも満たない。外は昼過ぎといって良い時刻だった。

 そんなこんなでユイと一時の別れと再会を約した後、はじまりの街に戻った俺とアスナの前に待ち構えていたものは、援軍にかけつけようとしてくれた皆に心から感謝し、同時に無駄足を踏ませたことへの謝罪――とにもかくにも全力全開で頭を下げる土下座行脚の時間だったのである。

 シンカー、ユリエール、キバオウの三人と、彼らと合流したアルゴが方々を飛び回って編成してくれた攻略組の精鋭は実に三十人を超えた。その規模に俺とアスナは度肝を抜かれたものである。あの短い時間によくぞそこまで……。

 

 ちなみに最大戦力と目されていたヒースクリフは、予想通りアスナの休暇を埋めるために迷宮区に出向いており、臨時編成の部隊には参加していなかった。その代わりと言っては何だが血盟騎士団幹部にして斧使いのもじゃもじゃ髪――もといゴドフリーが血気盛んな様子で援軍に駆けつけていた。奴の気合の入りようにはアスナも目を丸くしていたくらいだ。どうも75層での負い目が原因っぽい。ここにも律儀な男が一人……。どいつもこいつも真面目すぎだ。

 あとはクラインとエギルもいた。店に詰めていることも多いエギルはともかく、攻略に熱心なクラインが捕まったことは運が良かったとしか言えない。まあ結局援軍そのものが不要になったわけだから幸運も不運もないけど。

 

 事の発端は軍の内紛であり、援軍要請を出したのは俺とアスナのため、集まってくれた彼らへの侘びは軍と俺達の双方が折半することになった。しかしそれがいつの間にやらサーシャさんの教会の前庭を借りた大規模バーベキュー大会につながるとは、俺を含めて誰にも読めなかったのではないだろーか。仕掛け人にそこはかとなくにゃハハ笑いの《鼠》の影を感じるぜ。

 バーベキューの材料を初めとする費用の全ては軍が担当し、俺達、というかアスナが料理を担当することに決まった。名高き血盟騎士団副団長様の手作り料理ならば確かにそこらの侘びの品よりは効果的かもしれない。俺ならアスナの料理で大概の事は水に流せる。

 

 もちろんこの場に集った攻略組、教会の子供達、軍の一部プレイヤーの賄いにアスナ一人の手で間に合うはずもなく、料理スキルに覚えのある幾人ものプレイヤーがヘルプで呼び出されていたりする。ちなみに料理スキルを持たない俺に割り振られた役目は雑用兼ウェイターであり、援軍連中に楽しそうにこき使われた。

 現在時刻は午後八時に差し掛かる間際だった。秋の夜風が少しの肌寒さを運び、しかしそれ以上に場に満ちた熱気が自然と我が身に熱を灯していく。そんな夜だ。

 

 急遽開催が決まったガーデンパーティーの設営、材料の用意、調理、各種の連絡等々、よくもまあ数時間で実現したものだと呆れてしまう。夕方頃から始まった催しは未だに続いており、地下迷宮から戻ってこっち俺もアスナも目の回るような忙しさに翻弄され、碌に休む暇もなかった。

 ……ずるいよな、アルゴは。戻ってきた俺とアスナの隣にユイがいなかったのを見て、何も聞かずにこんな馬鹿騒ぎを企画しちまうんだから。俺もアスナも感傷に耽って落ち込んでいるよりは、こうして身体を動かして忙殺されてるほうがマシだっていうあいつなりの心遣いなんだろう。実際、ユイのいないホームに帰ったらヘコみそうだしなあ。

 

「――で、あんたは俺に何か文句でも言いにきたのか?」

 

 今回の企画は俺の発案じゃないし、軍の備蓄を放出させたのも俺じゃないぞ? そんなどうでもいい不満を込めて、食休みを目的に俺が一人になった瞬間を狙うように、人目を避けるように暗がりから俺に近づいてきたサボテン頭――キバオウへと声をかける。

 続けて、犯罪者じゃないんだからもっと堂々としていればいいものを、と肩を竦めながら言い放つと、「似たようなもんやろ」と他人事のような口調で返された。

 

「シンカーはんの決めたことや、文句なんぞつけたりせんわい。第一、ワイはもう軍の人間やないしな」

 

 憮然とした口調で告げるキバオウに俺が顔を向けることもない。多分、キバオウも俺と一緒でどこか別の景色をその目に映していることだろう。お互い相手の顔を見ることはない。けれど不思議と会話は途切れることなく続いた。

 

「シンカーから聞いたよ。結局、あんたとあんたの部下の何人かがギルドを除籍することになったってさ。あれだけの騒ぎを起こしておいて随分あっさりと進退を決めたもんだ。……軍を戦力化することにこだわってたんじゃないのか?」

 

 まさか高々数時間の内にシンカーと話し合いを持ってそのまま結論を出してしまうとは思わなかった。しかもキバオウ達が追放される形でだ。

 既にキバオウは決断していたことをずるずると引き伸ばしていただけではないか、というのが俺の正直な感想だった。シンカーの実権を奪ってギルドを差配していた以上、軍に見切りをつけたからと言って簡単に投げ出せるものではなかったのだろう。

 

「元々肌に合わんもんを無理やり続けてたようなもんやし、ここらが潮時や。後はシンカーはんに任せるわ」

「さて、どうなるもんだかな。シンカーはシンカーで一度ギルドを解散させて改めて方針を示すつもりらしいけど」

「はん、追い出された後のことまで知るかい。精々苦労しくさればええわ」

 

 腹立たしいのは変わりないのか、隠し切れない苛立ちもそこにはあったが、俺は丁重に無視することにした。ここでその程度のことをあげつらったって何の意味もない。

 ついと視線を巡らせる。

 俺の目にシンカーとユリエールさん、そして彼らと談笑を繰り広げるアスナが映る。一番背が高いのがユリエールさん、次いでシンカー、わずかな差でアスナが最下位だ。こうしてみるとシンカーが軍の最高責任者というのもどこか疑わしく思えてきてしまう。太めの体格に地味な衣装、武装もなしだと大した威厳も感じ取れない、一にも二にも朴訥さが押し出されているプレイヤーである。

 シンカーの隣ではにこにことユリエールさんが笑っている。こちらはなんというか、昼間とは打って変わって若奥様としか思えない様子だ。甲斐甲斐しくシンカーの世話を焼いている。

 案外アルゴの予想も的を射ているかもな、そのうちゴールインしてしまいそうな雰囲気だ。和やかな笑顔を覗かせる三人は、俺に見られていることに気づいた様子もない。

 

「なあキバオウ」

「なんやビーター」

 

 気だるげに返された懐かしい呼称には苦笑しか浮かばなかった。

 

「そういえば《ビーター》の件について一度も礼を言ったことがなかったな。あんた達がいの一番に広めてくれたんだろ? 随分遅くなっちまって悪いけど、ここで礼を言わせてくれ。――ありがとな、助かった」

「なんや、悪口言われて礼言うアホなんざ初めて見たわ。頭おかしいんちゃうか」

「あんたが俺を《ビーター》って呼んで早々にベータテスターの輪から弾き出してくれたおかげで、俺を理由にベータテスターへ非難が向くこともなくなった。ベータテスターの顔になったディアベルにあんたが協調姿勢を見せて攻略を進めてくれたおかげで、両者の対立もすぐに消えていった。あんたはベータテスターにあれだけ厳しく当たっていたのに、逆にベータテスターを守るために動いてくれたんだ、感謝するには十分だろう? ――俺も仲間殺しとかオレンジ呼ばわりされるよりはずっと慰めになったよ」

「ふん、そんな昔のことまでいちいち覚えてられるかい。ワイはあんたが気に入らんかったからビーター言うて馬鹿にした、そんだけや」

 

 ますます深まる苦笑は、けれど誰にも見咎められることはなく。

 

「そうか? 俺はあんたのことそこまで嫌いじゃないんだけど」

「ケッ、気味悪いこと言わへんでくれや、鳥肌が立つわ。あのちびっ子のことで謝ったろ思うて来たけど、止めや止め。気分が悪うなってきたさかいな」

「心配しなくてもユイはちゃんと家に帰してきたよ。今は未だ無理だけど、そのうち会いにいくさ」

 

 これ以上となく疑念が向けられていたことに気づいてはいたが、その先を口にすることもない。無理があるのはわかってるけど、だからってユイの正体は人間じゃなくてプログラム云々なんて説明する気にはなれないしな。

 さっさと話題を変えるか。元々こっちが本題だ。

 

「そっちの用が済んだなら、俺からも一つ提案していいか?」

「一度だけ聞いたるさかい、はよう話せや。それ聞いたらワイはもう行くで」

 

 そうか、なら遠慮なく。

 

「あんた達がもし最前線に復帰しようとしてるなら、少しの間でいいから様子見をしてもらえるか? 近く攻略組でちょっとした騒ぎを起こす。最近の攻略速度はちょっとのんびりしすぎてるからな、ここらで活でも入れてやろうと思ってるんだ。あんた達はそれを見てから最前線に復帰すればいい」

「……また妙な事を企んどるんかい」

 

  うわぁ、これ以上となく猜疑に満ちた声を向けられたよ。

 

「そんな大層なものじゃない、単なる祭りの打診だよ。ま、ガス抜きみたいなもんか。先方との交渉もこれからだしお流れになる可能性だってあるけど、祭りの結果によっては俺がギルドを作る未来もありえるんだ。もしそうなった時、あんた達にその気があるのなら俺の下についてみる気はないか、って誘いだよ。それを言っておきたかった」

 

 散々迷ったが主導権を握りきれず受身でいるのはもう飽きた。いい加減俺も腹を括るべきだ、そろそろこちらから攻めの一手を指してみたい。

 

「なんや、同情かい?」

「今はそういうのも抜きで勧誘してるつもりだよ。これでも剣士を見る目にはそこそこ自信があるしな」

「言ってくれるやないか。剣より人を見る目に自信があってほしかったわ」

 

 おっと、面白い事を言うじゃないか。あんただって俺と馴れ合うつもりはないだろうに。

 

「まあ一応評価してもろうたことには礼を言うとくさかい、有り難く思えや。ただし、誘いへの答えはノーやけどな。ワイは《黒の剣士》が嫌い言うたはずやで、あんたを上に仰ぐなんぞ死んでもゴメンや」

「あっはっは、あんたらしいや。うん、それならそれでいいさ、あんた達の武運を祈っとく」

「ふん、勝手にせい」

 

 キバオウは俺の激励にも迷惑そうな口ぶりでおざなりに返すだけだった。そうしてもう用は済んだと言いたげに、「ほな、またな」とぞんざいな一言だけ告げて遠ざかっていく。小さくなっていく気配を追って、初めて俺はキバオウをこの目に捉えた。

 キバオウの向かう先には幾人かのプレイヤーの姿が見える。おそらくキバオウと共に軍を抜けた――追放されたメンバーだろう。親友か、それとも腹心の部下かは知らないが、最後までキバオウと共に戦う決意を固めている連中だ。存外キバオウも人望があるじゃないか。そんなことを考え、口角を持ち上げながら彼らを見送った。

 

 時ならぬ宴の喧騒も収まりつつある。サーシャさんの教会には被保護者が多数いるのだし、子供達にあまり夜更かしはさせたくない開催地を提供してくれた家主の意向もあって、お開きの時間も迫っていた。ちらほらと庭に散らばっている子供達の姿を見るに、まだまだ元気そうではあるけど。攻略組も多数巻き込んだ催しだけに、物珍しさも手伝って興奮しているのだろう。眠気は一向にやってこないようだ。

 手に持ったオレンジ風味の果汁ジュースに目を落とし、残り少ない液体を一気に飲み干した。それから今日の出来事を追想し、冷静に吟味するようにふっと軽く息をつく。俺の動きに合わせて胸元のネックレスが微かに揺れた。

 

 華奢な銀色の鎖に、同じく銀のペンダントヘッド、その先に輝く涙滴型の透明な宝石。これはアイテムとしてオブジェクト化した《ユイの心》――俺の娘が今も生きている証の品だった。

 ユイの本体データは凍結状態で俺のナーヴギアに無事保護できた。カーディナルの追跡も振り切ることに成功し、この先アインクラッドが崩壊してもユイのデータは生き残る。後は向こうの世界で改めてユイを展開できるだけの領域を確保すればよし。

 いずれユイは復活させる、そのために今は為すべきことを為す。今まで通り、いや、今まで以上にゲームクリアを目指してひた走ればいい。そのために――。

 

 背負ってみよう。

 アインクラッドに生きる七千人の命運はちょっとどころではなく重いけれど……俺にはそれが出来るのだと信じて、持てる限りの力を尽くせば良い。

 

 静かに、そして厳粛に、《ユイの心》に触れながらそんな風に一人決意を固めていると、前方から何人ものプレイヤーが近づいてきているのに気づく。どうやら俺に用があるらしい。

 目に映るのは全員見知った顔だが、宴の終わりを告げに来たにしては先頭を歩く巨漢は気合が入りすぎている。彼の後ろにはクラインとエギルが苦笑を浮かべながらついてきていた。

 

「珍しい顔ぶれだな、何かあったのか?」

 

 宴の軽やかな空気に合わせて殊更気楽に尋ねてみると、予め役割が決まっていたのか全員が先頭に立つ男に視線を転じる。するとゴドフリーはこほんと一度咳払いをして居住まいを正し、至極真面目な口調で俺にこう言ったのである。

 

「我ら些か飲み足りないのでな。どこか適当な店で宴の続きを、と話していたのだよ。それでだ、よければ君も付き合ってほしいのだが、どうだろう?」

 

 くいっと杯を傾ける仕草が妙に似合っていて、危うく噴出してしまいそうになった。

 ついでに『未成年なのでお酒はちょっと』という定型お断りワードが使えなかったことをここに明記しておこう。

 

 

 

 

 

「へぇ、それでキー坊はむさ苦しい男だらけの二次会に連れていかれちまった、と。まあいいんじゃねーノ? 言ってみりゃ親睦を深めましょうって集まりなんだし、断る理由もないダロ」

 

 ただでさえ血盟騎士団とはギクシャクしてたんだし、お互い良い機会ダ、と歯に衣着せないアルゴさん。『キリト君と仲の悪いギルド』の副団長としては苦笑する他なかった。

 どうぞ、と告げながらやや渋めに調整した紅茶をアルゴさんに差し出す。短く礼を口にしてカップを受け取ったアルゴさんは、優雅な仕草でカップを傾け、好みの味だったのか満足そうな笑みを浮かべてほっと一息ついた。先に用意しておいたスコーンは既に一つアルゴさんのお腹に消えている。洗練された仕草と反するような破天荒ぶりは、こういった茶席の作法にも慣れているのに敢えて崩しているような印象を受ける。別に詮索することでもないか、今はもっと大切なことがあるし。

 何はともあれ供応に努めなければ。最近はキリト君のホームに入り浸っていたから、こうして自分のホームにお客様を迎えるのは久しぶりだった。

 

「こんな夜遅くにお呼び立てしてごめんなさい、アルゴさん」

「女二人でお茶会ってのも寂しい気がするけど、アーちゃん特製スコーンが美味しいからオネーサン許しちゃう。ほら、アーちゃんも座って座って」

 

 席に着く前に改めて頭を下げると、「アーちゃんは真面目さんだなあ」と困り顔で笑っていた。今日の昼間から半日かけて実施されたバーベキュー大会がお開きになり、後片付けは軍の有志とサーシャさんが担当してくれた。そのため、わたしはこうしてアルゴさんを自宅に招く時間を確保できたのだった。

 

「同じ料理でも料理人が違うと味に雲泥の差が出るもんだネ。今日集まってた連中も大絶賛してたし、作ったのが《閃光》とくればプレミア感も合わさって結構な値打ちものに思えたろうサ」

「大袈裟ですよ」

「いやいや正当な評価だヨ。ついでにそろそろオレっち達のために腕を奮ってもバチは当たらないと思ってサ。これでもキー坊より先に食わせてもらうわけにはいかないって自重してたんだゼ?」

 

 アルゴさんの顔に悪戯っ子のような笑みが浮かぶ。

 

「キー坊を少しでも休ませてやりたいって料理スキルをコツコツ鍛えてたくせに、いつまで経っても手料理を振舞ってやらないんだもん。オネーサン随分やきもきさせられたもんだヨ」

「うぅ、言わないでください。ヘタレなのは自覚してますから……」

 

 手作りの料理を持っていって変に思われたりしないか、とか。攻略一直線なキリト君に「料理なんかで遊んでるんじゃない」って叱られたりしないか、とか。

 そんなことをぐるぐる考えて迷っている内に結局スキルコンプのほうが先になってしまった。料理は好きだしオリジナル調味料の試行錯誤も楽しかったから苦に感じたことはないのだけど、踏ん切りをいつまでもつけられなかった我が身の情けなさに涙してしまいそうだ。

 キリト君に料理スキルをコンプしたのを教えたら「アホか」なんて言うし。まったく、キリト君はもう少し乙女心を知るべきよ。

 

「にゃハハハ、まあアーちゃんを弄るのはこれくらいにしておこうカ。あんまり虐めると後が怖いしネ」

「若干引っかかりますけど、そうしていただけると助かります」

「いいってことよ、オネーサンは恋する乙女の味方だからナ」

 

 楽しそうな笑みとわずかに弾む声音はいつも通りだった。

 

「それじゃ本題に入ってくれるかナ。やっぱりキー坊絡みだったりするのかイ?」

「いえ、わたしが聞きたいのはアルゴさんのことです」

「オレっちの? おやおや、そいつは困ったナ。オネーサンのスリーサイズは特一級極秘事項なんダヨ」

「あはは、ならアルゴさんとキリト君の秘め事とかならどうです?」

「おお、直球だねぇ。アーちゃんは微に入り細を穿つ生々しいお話をご所望なのかナ?」

 

 さて、ここからだ。

 

「是非、と言いたいところですけど、それはまた別の機会にお願いします。……聞かせていただけますか、どうしてアルゴさんはキリト君を――いえ、《黒の剣士》を《英雄》に仕立て上げようとしたんです?」

 

 沈黙が降りかかり、無言の時が流れ、ぴんと空気が張り詰めていく。

 アルゴさんの顔にはうっすらと笑みが浮かび、面白くなってきたと言うように皮肉と軽薄を混ぜ合わせたような表情を作っていて、けれど目の奥深くにわたしを試すような、心の内を悉く暴こうとする酷薄な光が宿っていた。わたしはその眼光を受けて怯むことのないよう、すうっと深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 徐々に息苦しさを増していく視線の交錯にふっと息をついて終止符を打ったのはアルゴさんだった。

 

「アーちゃんがそう考えたのは、オレっちの新聞が原因かナ?」

 

 露骨にならないよう気をつけていたつもりなんだけど、と飄々と告げるアルゴさんだった。

 

「一年前のハーフポイント――キリト君が初めて《二刀流》スキルをお披露目した時は割と露骨でしたよね。アルゴさんの新聞は普段攻略組の活躍で記事が作られているのに、あの時ばかりはキリト君の事情に重きが置かれていました。……あれはキリト君がスキルを隠蔽していたのだと責められないよう、速やかに手を打ったのでしょう? キリト君の獅子奮迅の活躍を克明に描写した上で、『黒の剣士はクォーターポイントに備えるために非難を覚悟でスキルアップに励んでいた』みたいな美談に仕上がっていましたから」

「オネーサン心当たりがないなあ」

 

 下手な口笛まで吹きながら嘯いて見せるアルゴさんは白々しさ全開だった。この人こういう遊びがほんと好きよね、さすがに今日は煙に巻かれたりはしないと思うけれど。

 第50層のフロアボス戦、第二のクォーターポイント。キリト君はもっと二刀流のスキル熟練度を上げてから使うつもりだったみたいで、ボス戦の最中に武器を持ち替えることになったのは予定外だったと苦々しく言ってたな。ヒースクリフ団長がカバーしてくれなければ間違いなく死んでいたし、クォーターボスのHPを三割も削るなんて真似は出来なかった、とも。

 アルゴさんの記事にはそういった具体的な数字までは載せてなかったせいか、下の階層ではキリト君一人でボスのHPを半分以上削ったとか噂に尾ひれがついていたけれど、あの戦いで団長とキリト君の名声が一気に高まった事は間違いない。

 

「最近では74層の記事も同じ作りでしたね。フロアボス部屋初の結晶無効化空間だっていう特大の脅威を前面に打ち出して、キリト君の独断専行を非難できないよう功績を喧伝する方向でまとめられていました」

「オレっち事実しか書いてないヨー」

 

 すごい棒読みだった。ああもう、とっても楽しそうですねアルゴさん。いつまで知らばっくれてるつもりです?

 

「上層下層関係なく《黒の剣士》の雷名が轟いているのはアルゴさんの仕掛けでしょう? 情報操作に印象形成、功績の喧伝――およそキリト君の悪評につながりそうな出来事はほとんど貴女が覆い隠してきました。巧妙だったのは、普段の新聞はとにかく信憑性第一で作っておいて、キリト君を扱う記事にも『嘘はない』と思わせたことでしょうね」

 

 実際にアルゴさんの記事に嘘はない。情報の裏取りを重視するのがアルゴさんの方針のため、情報源を多数抱えて多角的な検証を可能にしているためだろう。

 加えてキリト君が仔細漏らさずフロアボス戦の様子をアルゴさんに流していたために、誰よりも早く速報を打てる強みもあった。最前線、殊にフロアボスを相手取る決戦はプレイヤーの耳目をこれ以上となく集める。アルゴさんの新聞はその話題性と正確性においてアインクラッドで不動の地位を築いていた。

 

「適切な時期に適切な情報を過不足なく流す。うちの団長もアルゴさんの手腕に感心してましたよ、是非広報部門に欲しい人材だって」

「そいつは光栄だネ。もっともオレっちはキー坊専用だから、聖騎士さんのラブコールには応えられないけど」

「ばっさりですね」

「そりゃそうダ、おたくの団長さんは完璧すぎて味気ないもの。オレっちが手助けする余地がないからやる気もでないのサ」

 

 にべもなく肩を竦め、しれっと勧誘を蹴ってみせるアルゴさんに脈なしだなあと改めて実感した。その程度はわかってたことだから今更どうこう言うつもりもないけど。そういえば、キリト君がうちに入団してくれたらアルゴさんがもれなくついてくるって考えるとすごくお得。

 

「だからキリト君のサポートを?」

「まあネ、あれは脇が甘いトコがあるからそのへんをちょいちょいとサ。あとオレっち面食いなんで、団長さんよりキー坊のほうが好みなんだヨ。だからオレっちキー坊贔屓なのサ」

 

 アルゴさんらしい物言いだった。鼻歌混じりにふてぶてしく笑う様子に案外本気で言ってそうだと考えていると、にんまりと唇の端を吊り上げて実に意地の悪そうな顔がいつのまにやら眼前に居座り、にまにまとわたしを眺めていた。

 

「こうやって黒幕ごっこを演じるのも楽しいけど、やっぱりオレっちの柄じゃないなァ。それにどうもアーちゃんはオレっちを過大評価しすぎてるみたいだしネ」

「過大評価、ですか?」

「そ。オレっちは所詮一介の情報屋であって、攻略組の誇る《閃光》が気に止めるような大物じゃないのサ。というか、大前提としてオレっちが何をしようと関係なくキー坊は英雄視されてたんだヨ。オレっちはそれを少しだけ早めただけ。つまり――」

 

 ――アーちゃんがキー坊を《英雄》だというのなら、それは考慮の余地なくキー坊自身の為した結果ってことサ。

 

 気負いなどまるで感じさせず、それで十分だろうとアルゴさんは一旦口を閉ざし、澄ました顔で紅茶を口に含んでいた。続けてテーブルの上に用意してあるスコーンを手に取って美味しそうに頬張る。

 尖らせていた雰囲気をこちらが戸惑うほどふにゃりと緩めてしまったアルゴさんを見て、わたしも小休止とばかりに喉を潤すことにした。自分で思っている以上に緊張していたのか、それだけで疲労が抜けていくのを感じて驚く。

 

「アーちゃんだってキー坊が何をしてきたかは知ってるはずダ。フロアボス戦で先陣切って活躍するのは言うまでもないし、誰よりも長く迷宮区に潜ってマップ作成を続けたのもキー坊ダ。攻略組の各ギルドを強化するために、それぞれの特色を吟味し、ボス戦を共にしたプレイヤーを分析して、ギルドの弱点を補う形で惜しみなく一線級のレアアイテムを融通もしてきた。これだけやればそりゃ頼りにされるし尊敬もされるサ」

 

 どことなく呆れたような顔だった。

 

「とにもかくにも戦場を俯瞰する観察力に優れてるんだろう、キー坊は人だろうとモンスターだろうと癖や弱点を見つけるのが上手いからナ。常に自身を死線に置いて研ぎ澄ませてきた戦術眼の本領発揮ってやつかナ?」

「戦時に臨む応変の才だって相当ですよ。撤退時に殿を務める役目を負っていなければ、団長に次ぐ指揮権を預けられても不思議はないんですから。わたしよりもキリト君のほうが上手く指揮を取れるんじゃないかと思うこともしばしばです」

 

 ボス戦の役割を考えるとアーちゃんが次席で正解だと思うよ、とアルゴさんは口にするけど、キリト君ならどうにでもしてしまいそうだ。わたしもフロアボス戦の編成や作戦の相談にはよく乗ってもらっているし、団長だってキリト君の意向は確認している。

 

「ついでにエギルの旦那の店を通じて中層プレイヤーへの支援もしてるしナ。下の連中の身の丈にあった、最前線では使えない二線級の装備を二束三文で売り払って、武具調達コストを引き下げることで下のプレイヤーが装備を整えやすいようにしてるのサ。ふん、キー坊にどんな理由があったって、他人から見えるのは聖人君子レベルの献身だけダ」

 

 皮肉そうな口振りで処置なしとばかりに大袈裟に嘆いてみせる。この分だとアルゴさんもキリト君のハチャメチャ振りには色々と思うところがあるようだけど……。

 

「中層プレイヤーへの支援は初耳ですよ?」

「そこらへんは吹聴してるわけじゃないから。つーか相場を無視した大々的な支援なんてのは表立ってやるにはちっと問題があるんで、キー坊が関わってることもエギルの旦那と交流の深い何人かがきっちり秘密にしてるんだヨ。だからアーちゃんが知らないのも無理はなイ。あの二人は単なる雑貨屋の店主とお得意様ってわけじゃなく、志を同じくする連帯感があるのサ。あの強面な御仁が何だかんだでキー坊に甘い理由の一つだナ」

 

 んー、と眉間を揉み解し、それからぽんと右手で左手を打って、「ああ思い出した」とアルゴさんが続けた。

 

「キー坊が中層下層への支援を始めたのって、昔キー坊がアーちゃんとこの団長さんに、『下の手伝いより上の事情を優先しろ』って言われたのが原因だったはずだゾ。ほら、キー坊って負けず嫌いというか子供っぽいとこがあるだろ? だからどうせ、『ヒースクリフに正論突かれたのが気に入らない』とかそんな理由でおっぱじめたんじゃねーノ」

「……キリト君らしいというか何というか。それをここまで貫き通してしまうんだから脱帽なんですけどね」

 

 コミカルにキリト君を分析してみせるアルゴさんにどう答えるか迷ったけれど、結局アルゴさんに合わせて冗談で流すことにした。

 もちろん団長への反発もあったのかもしれないけど、それだけじゃなくて、多分キリト君の行動の裏には《月夜の黒猫団》を壊滅させかけた経緯も関わっているのだろうから。

 当事者だったサチさんが、過ぎた力添えが不幸を呼ぶこともあるんだって痛ましそうに言っていたのを思い出した。直截に述べるのはちょっと黒猫団の人達に酷だけど、人には各々身の丈に合った領分がある。そういうことなんだろうと思う。

 

「攻略組がキー坊の勝手を認めたのだってそのへんを考慮したからダロ? あれが普通とは違うレアなスキルを抱えてることなんて皆察してたし、キー坊がソロとして横紙破りを繰り返したのだって何度もお目溢ししてきタ。キー坊がどんなに気に入らなくても攻略組の連中が不満を抑えたのは、《黒の剣士》は押さえつけるよりも自由にさせておいたほうが、何かと自分達の利益につながるって知っていたからダ」

 

 違うかナ、と面白がるように同意を求められ、わたしの口元には思わず苦み走った笑みが刻まれてしまう。間違ってはいないけれど、誤解されそうな物言いだった。否定しきれないのも事実なんだけどね。

 

「そんな風に言わなくても、攻略一途なキリト君の姿勢を攻略組のみんなが信じたからで良いじゃないですか。打算ばかりを前面に出すのはアルゴさんの悪い癖だと思いますよ?」

「にゃハハハ、それがオレっちの性分だからネ」

「キリト君が時々悪ぶるのって、絶対アルゴさんの影響ですよね」

「そいつは誤解だヨ。あれは元々そういうところがあったし、オレっちのせいなんて心外だゼ」

 

 どっちもどっちですよ、きっと。

 

「ともあれ、ギルドをまとめてるような目端の利く連中ほど、キー坊の実践してきたゲームクリア戦略にも気づきやすかったろうし、実際気づいた。そうなると自然とキー坊に協力する体制も出来上がっていったのもむべなるかなってネ」

「キリト君の目指した『人的資源の温存とプレイヤー戦力の徹底強化』ですか」

「そうそう、それダ。オレっち達は初期に閉じ込められた一万人が最大戦力だからナ、この数が目減りすることはあっても増援はない。だから人道云々以前に、ゲームクリアのためには人命優先主義になるしかないってのがキー坊の言い分だったナ。効率を上げるためには戦力を確保しなければならない、戦力を確保するためには戦死者を最小限に抑えなければならない、結果人命優先主義に辿り着く、って理屈だったっけ。特に最前線の迷宮区攻略なんかは人海戦術こそが肝要だから、攻略組の人数確保は死活問題だっタ」

 

 攻略スピードの加速を目指すには安全マージンを超えた一定以上のレベルと、戦闘経験に根ざした確かな技術を持ち合わせる多数のプレイヤーが必要になる。人数制限のあるフロアボス戦だけならともかく、広大なフィールドや迷宮区を安全かつ効率的に踏破するには、攻略組の人数が五十や百ではとても賄い切れない。だからこそ攻略組の人数増減には常に頭を悩ませてきた。

 

「つまるところキー坊が唱えたのは《命を大事に》ってことなんだけど、そのために四六時中戦闘を繰り返して多方面に尽力し、プレイヤー戦力の確保に奔走したわけダ。『戦略を以って戦術を練り、戦術を実行に移すために戦力を蓄える』。ま、このへんは戦略シミュレーションゲームに通じる基礎ってやつだナ」

 

 戦略は辿り着くべき目的、大目標の設定だから、わたし達の場合はアンクラッド全百層を制覇することで訪れるはずのプレイヤー開放。

 戦術は戦略、すなわち大目標を達成するための小目標に当たるから、真っ先に浮かぶのはフロアボスの撃破。そこから派生してフロアボス戦の編成作業だとか作戦の計画や実行、迷宮区を探索するためのシフト作成とかもそうね。攻略に従事するプレイヤーの確保もここに含まれるし、レベリングや装備の向上を如何に効率よく行うかも戦術の一部になる。

 戦力はプレイヤー個々人の力量だ。戦術を実行に移すための最小単位だから、これが揃わないと話にならない。

 

 わたし達の目的は強くなることでもなければ、モンスターを倒すことでもない。叶う限り早く、叶う限り少ない犠牲で現実世界に帰ることだ。そのためには闇雲に戦うだけではなく、先々を考えたやり方だって必要になる。

 ゲームの理屈はよくわからないけど、戦略論は元々軍事知識だし、現代においては企業経営にも取り入れられている学問体系だ。わたしは実業家の父と大学教授の母を持った関係で、アインクラッドに囚われる以前から馴染みのある学習分野だった。

 

 向こうにいた頃は厳格な家庭に息が詰るのを感じていたものだけれど、人生何が幸いするかわからないものよね。次から次へと半ば無理やり蓄えさせられた知識も、応用さえきかせれば十分役立つし、厳しく躾けられたおかげでこっちの世界で自分を律することにつながったりと随分助かる所もあった。

 仕事人間でほとんど娘に関心を払わない父と、娘へのエリート教育にしか興味がないように見えた母。でも、それだけじゃないって思えるようになれた。何も言わずに母の言いつけに従うのではなく、向こうに帰ったらあの人達とも話し合ってみようか。今ならちゃんと向かい合える気がするし、それも良いかもしれない。

 

「『スキルは使いこなしてこそスキル』ってのがあれの持論でネ。一にも二にもモンスター討伐に励むことがスキルを十全に生かし、キー坊なりに一番攻略に貢献できるやり方だと思ったんダロ。ソロなんてアホなことやってるのもあって誤解されがちだけど、キー坊のやってることってゲーマーにとっての基本そのもの、真っ当なゲームクリア戦略に沿った動きでしかないんだヨ。そのために文字通り自分の時間全てを注ぎ込めるかどうかは別の話だけどサ。キー坊の描いたクリア戦略に似た考えのやつもそこそこいるし、あれの動きとか生活ぶりを知れば知るほど周りは文句を言いづらくなっていくんだな、これが」

「一剣士として目の前の戦闘のみを見るのではなく、アインクラッド全体を見通すことの出来る広い視野。団長がキリト君を高く評価した最たる理由です。叶うことならギルドを率いるキリト君を見てみたい、とも」

 

 団長が評して曰く『キリト君には王の才がある』。キリト君をわたしと同格の副団長としてギルドに迎え入れようとしているのも、ギルド強化のためだけではなく、《部下を率いて攻略に邁進する黒の剣士》を団長自身が見てみたいからではないか、とわたしは考えている。

 一戦場に留まらない力量。攻略組がキリト君を信じたのはなにも圧倒的な戦闘力を買ってのものだけじゃない、むしろ事前の準備を徹底的に追及する姿勢のほうが各ギルドのトップには高く評価されている。臆病なまでの慎重さと用心深さを見せる一方で、事に当たっては大胆なまでの決断力を発揮する。そのバランス感覚こそがキリト君の真価だ。

 ひたすらにゲームクリアを見据え、未来へのビジョンを示し、実行し続けることのできる強固な意志と信念にわたし達は魅せられ、憧れ、奮起した。キリト君は団長と並んでわたし達の道を切り拓く旗頭として立っている。

 

 それ故に攻略組は希望が失われることを恐れた。皆の拠り所、導き手である《黒の剣士》が倒れることを許容できなかった。

 ギルドは個人の我侭で動いたりはしない。74層でキリト君がフロアボスをソロで撃破した時、わたしにキリト君をサポートするよう要請がきたのは、ギルド間に燻っていた対立を忘れてでもキリト君を死なせるわけにはいかなかったからだ。うちのギルドの幹部会議でも、わたしが一時的にシフトを抜けることに不満は出ても最終的には満場一致の決定だった。面白くはなくてもゲーム攻略のためにキリト君の必要性はきっちり認めている。

 

 もちろんそれらはキリト君一人の成果じゃない。その陰にはアルゴさんの尽力があった。キリト君がアインクラッドの大局を見据え、時々刻々の情勢を分析し、ゲームクリアへの道筋を描き出すための目となり耳となってきたのがアルゴさんだ。

 ソロプレイヤーとして迷宮区に篭りがちなキリト君に一番不足していて、キリト君自身が欲したのが情報という名の果実。各ギルドの動きや構成員の得意距離、武器やスキルの選択、その偏り、攻略組の人数の推移、あるいは中層下層の動向、犯罪者ギルドの活動規模等、多岐に渡る情報を踏まえてキリト君が自身の戦略図に沿った手を打つ。効率的な攻略に必要な判断材料の提供をアルゴさんが担ってきたわけだ。

 そんな二人に、というかキリト君にあえて気になる点があるとすれば――。

 

「キリト君ってどうしてあんなに自分の立ち位置に無頓着というか、自覚が薄いんでしょう? 素直じゃないというより本気でわかってないようなところがあるんですけど」

「キー坊の交友関係が滅茶苦茶狭いせいじゃないカ? 最近はマシになってきたけどあれの生態は迷宮区が棲家みたいなもんだからネ、人と面と向かって話すプライベートの時間がなかなか取れないんダ。そんなだから自然と周囲の声に疎くなる」

 

 つまり実感をなかなか持てないのサ、と頬杖をついて呆れたように笑い、続けた。 

 

「サッちゃんとかリッちゃんが例外であって、キー坊がそこそこ話す知り合いって攻略組でもフロアボス戦の常連しかいないんだゼ? 親しく話すのなんてその中でもクラインのお兄さんとかエギルの旦那だけだし、後は《黒の剣士》の顔で事務的にギルドのトップ連中と付き合ってるだけだもん、早々認識も変わらないサ」

 

 えてして大きな声ってのは悪罵の類だしなー、とアルゴさん。耳に痛い話だ。

 

「人から好かれようが嫌われようがやることは変わらない、攻略組ギルドとの利害の一致さえ築けるならそれで十分って割り切ってるんだろう。攻略組も仲良しこよしの集まりじゃないからそれで不都合も出ないしナ。あとは時間の許す限りモンスターを狩ることでレアアイテム確保して周囲にばらまく。で、プレイヤー戦力の強化を推し進めよう。そんな感じダ」

「徹底してますね……」

「実際キー坊の一日とでも題した記録映像をばらまけば、その過密スケジュールの悲惨さだけでキー坊に同情が集まるんじゃねーノ?」

 

 冗談に聞こえない。攻略狂に狂戦士、後は何があったっけ、キリト君の代名詞。

 

「聖竜連合の人達はキリト君への態度も顕著でしたよね。むしろキリト君を担ぎ上げようとしてませんか、あの人達?」

「アーちゃんには言いづらいんだけど聖竜連合がキー坊を取り込もうとしてるのって、アーちゃんとこの団長さんへの反発があってのことだと思うヨ? その分だけ連中の心証をキー坊に傾けてるんじゃないかナ? まあキー坊の支援を一番受けてるのが聖竜連合だから、利害を考慮してってのも大きいんだろうけど」

「どういうことです?」

「ほら、聖騎士殿はいつだって涼しい顔をしてるだろ? どんな死闘にあっても常に泰然自若、盤石で揺るがない。その圧倒的な存在感はまさに守護神と呼ぶに相応しいけど、だからこそ日々をぎりぎりで生きているような最前線の人間にはその強さが癪に障るんだろうナ。普段の攻略をアーちゃんに一任してるのも拍車をかけてそうダ。つまり『あんたが本気出せばもっと攻略も捗るだろ、出し惜しみすんな』っていう、言い掛かりというかやっかみサ」

 

 余裕がありすぎて必死さが欠けてるんだよ、あの御仁は、とアルゴさん。

 同じギルドにいると団長が各部門の取りまとめやら打ち合わせに奔走してる姿を良く見るから、他所からの評価とはどうしても食い違うのだろうか。団長は徹底的に準備を重視するところがあるし、平時のほうが忙しいと言えなくもないのだけど。

 

「そういう輩にとってはキー坊の『いつだって全力』って姿勢のほうが好ましく思えるみたいでネ。言っちまえば好き嫌いの問題でしかないし、《伝説の男》の人気っぷりを思えば本当に極一部の反発でしかない。気にすることもないヨ、何だかんだ言っても《聖騎士》の持つ強さへの憧れが先立ってのものなんだから。ま、突き抜けた強さを肌で感じたがために胡乱な目を向けるようになった、ってのも皮肉な話だけど」

 

 なるほど、うちのギルドは仰ぐべきトップが他ならぬ団長だったからこそ、その突き抜けた強さと活躍に素直に敬意を向けられたのかもしれない。

 

「でも、結局うちが一番最後までキリト君と対立してたんですよね」

 

 はあ、と溜息が漏れてしまう。力不足を感じて気落ちしてしまった。

 

「それもアーちゃんが気にするこっちゃないかナ、血盟騎士団との不仲に関してはキー坊が全面的に悪い。各ギルドを支援するに当たって、キー坊が強化モデルとして参考にしたのがアーちゃんとこのギルドでネ、少しでも血盟騎士団に追いつかせようと幾つかの攻略組ギルドを援助してたわけだから、キー坊はほとんど血盟騎士団には手出ししなかっタ。キー坊に言わせれば『ヒースクリフのギルド強化案が的確すぎて手出しする余地がない』ってことになるんだけど、そんなものはキー坊の都合ダロ? 優遇されてる他のギルドを知れば血盟騎士団の団員から不満が高まるのも当然だわナ。疎まれるのも自業自得だヨ」

「でも、自助自立が当たり前だと思えば気にならないものですよ? 元々攻略組って『まずは自分を強化するべきだ』っていう個人主義が根底にある集まりですし、キリト君に文句を言うほうがお門違いだと思うんです」

「アーちゃんは冷静だねェ、ちょっと人間が出来過ぎてる気がするヨ。ただアーちゃんはそれで良くても、人間誰しもそこまで割り切れるもんじゃないからなあ……。ほら、基本的にMMOゲーマーってのはステや装備にこだわる関係で嫉妬深いトコがあるから」

 

 確かにそういうところはあるかな。他のプレイヤーとの意識のずれは今でも感じているもの。わたしにしてみれば何をするか、何が出来るかが重要であって、レベルとかステータスはそのための指標でしかないのだけれど。そういう《数字》を気にかけるのは偏差値にこだわる受験生みたいなものですか? ってずれた質問をしてアルゴさんを困らせたのも懐かしい思い出だった。

 思い出といえば、以前リズにも指摘されたことがあったっけ。理性と感情は別物だよって。

 

「わたしのことはともかく、うちの団員に燻ってた不満もキリト君なら気づきそうなものですけど?」

「あー、それな、効率優先を理由に切って捨ててたってのが正解だと思うヨ。ゲームクリアに必要なことなんだからそう大した反発にはつながらないって踏んでたのと、血盟騎士団の自制心に期待してた節もあるかナ? キー坊は実態以上に連中を評価してたし、アーちゃん達に妙な幻想抱いてたとこもあるから」

 

 時間が足りなくて手が回らなかったのはこっちの事情だし、と物憂げに溜息を零していた。わたしとしてはお疲れ様ですと言う他ない。そんなわたしの労わりの視線に気づいたのか、少しだけバツの悪そうな顔で殊更軽さを装うアルゴさんだった。

 

「にしても……アーちゃんも物好きだよネ。どうして今更になってこんなことを確かめる気になったのかナ?」

「わたしにとっては今更ではなく、ようやくなんですけどね。キリト君にはキリト君のやり方があって、アルゴさんだってそれは同じです。だからわたしがお二人の事情に踏み込むべきじゃないって思ってたんですけど……。ちょっと前に『キリト君の心が欲しいです』って本人に言っちゃいましたから。だからもう遠慮しないことにしたんです」

 

 その宣戦布告にも似た言葉を、これ以上となく穏やかな気持ちで口に出せたことに少しだけ驚く。なによりも誰よりも、この人の前であればこそ、もう少し迷ったり躊躇ったりするものだと思っていた。

 

 だってこの人は――。

 誰よりもキリト君を理解し、傍に寄り添い、彼の心を優しく抱きとめてきた愛情深い女性(ひと)なのだから。

 

 アルゴさんがキリト君に向ける慈しみの表情(かお)を知って、キリト君がアルゴさんに向ける安らいだ表情を知って、その時になって初めてわたしは胸に走る痛みを自覚し、その気持ちに恋という名前をつけて――失恋を覚悟した。

 結局、諦めることは出来なかったけれど。

 

 アルゴさんはわたしの宣言を受けてぱちくりと目を瞬かせ、けれどすぐに驚きは消えてふわりと花開く微笑みに変わった。それは斜に構えるアルゴさんには珍しい、素直に喜びを宿した表情だ。

 

「アーちゃんは本当に強くなったネ、オネーサンびっくりダ」

 

 言葉こそ冗談めかしていたけれど、わたしを見つめるアルゴさんの瞳はとても優しげな色をしていた。この人がキリト君だけに向ける《特別》にも似た、わたしが心から憧れ、その一方で嫉妬した、慈しみに満ちた暖かさが如実に表れていたのである。

 にやりと唇を吊り上げて告げられた次の一言で、実は彼女の瞳に浮かんだ優しそうな光はわたしの見間違いだったんじゃないか、と深刻な疑念を覚えたりもしたのだけど……!

 

「そんなアーちゃんにキー坊のとっておきの秘密を教えてあげよう。キー坊の初恋――かどうかはわからないけど、この世界でキー坊が最初に恋をした女の子って、多分アーちゃんだヨ?」

 

 ……はい?

 

「本人は気付いてないんだろうけどネ。話聞く限りキー坊の一目惚れだったんじゃねーノ?」

「……あのー、すっごい複雑になる話をさらっと明かさないでもらえません? わたし、今どんな顔をすればいいのかとても困ってるんですけど?」

「ふふん、オレっちを泥棒猫とでも言ってみるかい? ――にゃお」

 

 ご丁寧に猫みたいな振り付けまで披露するサービスぶりだった。常の斜に構えたアルゴさんの姿からは想像できない可愛らしさである。 

 この人、実年齢は幾つなんだろう。キリト君と一緒で普段は落ち着いてて年上に見えるのに、こうやって戯れている時は途端に子供っぽくなる。実はわたしより年下? ……まさかね。

 

「言ってどうなるものでもないでしょう。それにキリト君の周りには魅力的な女の子がたくさんいますから、ぱっと見の外見だけで勝負できるとも思ってませんし」

「ルックスも才能の一部なんだからそこまで軽視することもないと思うけどネ。アーちゃんにサッちゃん、リッちゃんにシィちゃん、誰とくっついてもキー坊は果報者ダ」

「そんな他人事みたいに言ってるとキリト君取っちゃいますよ?」

「にゃハハハ、アーちゃんは情熱的だネ。ただちょっとばかしオレっち達の事を誤解してるかナ。そもそもオレっちとキー坊は正式に付き合ってるわけでも、まして将来の約束をしてるわけでもないんだゼ? どんどん攻めちゃって問題ないなイ」

 

 だから変な遠慮はしちゃ駄目だヨ、と。

 そう言って平然とわたしを(けしか)けようとするアルゴさんにどう答えたものかと悩み、結局苦笑を浮かべるに留めた。暖簾に腕押しとでも言おうか、飄々としたかわし様は実にこの人らしいと思う。雲のように掴み所がない。

 

「キリト君はアルゴさんをずるい奴って言っていました。わたしもそう思います。貴女は、とてもずるい(ひと)なのですね」

「女はちょっぴりずるいくらいで丁度良いもんサ。それにネ、本当に大事な言葉はここぞって時に使うもんダ」

 

 くすっとお互いに笑みを交し合う。

 それから少しの間アルゴさんは何事かを沈思して、やがて「それもいいか」と小さなつぶやきを零した。

 

「オネーサンは恋する乙女の味方だから、もうちょっとアーちゃんにサービスしてあげよう。キー坊のこと、もっと知りたいんダロ?」

「わたしとしては願ったり叶ったりですけど……いいんですか?」

 

 これ以上となると相当キリト君のプライベートにも触れてしまいそうだけど、大丈夫なのかな? アルゴさんが標榜している《売れるものなら何でも売る》なんてスタンスはあくまでポーズでしかないのだし。

 

「アーちゃんはどうしてオレっちがキー坊に英雄を望んだのかと尋ねたけど、オレっちが疑われるのもわからないではないんだヨ。アーちゃんにしてみれば今のキー坊の境遇にオレっちの影を感じるのも当然だからネ。オレっちとキー坊のどっちが《黒の剣士》の動きを主導しているのか、それを確かめたかったんダロ? 場合によっては釘も刺すつもりで」

「まさか。どちらにせよキリト君が受け入れている以上、わたしはキリト君の手助けをするだけです。ただ、不躾な問いかけだったことは申し訳ないと思っています。ごめんなさい」

「ん、気にしてないヨ」

 

 ありがとうございますと一礼してから、ひたとアルゴさんを見据える。

 

「ずっとわからなかったんです。攻略組のサポートに傾注してきたキリト君が殊更自分の評判を気にするとも思えませんし、かと言ってアルゴさんがゲームクリアのためにキリト君を利用する、過酷過ぎる役割をキリト君に背負わせようとする、っていうのもしっくりきません。結局、正面から問い質す形になってしまいました」

「アーちゃんは可愛いなあ、いつだってキー坊のことを考えて、力になろうとしてる。こんなに健気でいじらしい女の子はそうそういないヨ、キー坊はもっとアーちゃんに感謝すべきだナ」

 

 その言葉はそっくりそのままお返ししますよ?

 

「後学のために聞いておきたいんだけど、もしもオレっちがキー坊を利用してるだけだったらどうなってたのかナ?」

「それだけはありえない答えでしょうけど……でも、もしもアルゴさんがそんなひどい人なら、この食用ナイフを使ったわたしの《リニアー》を受けてみます?」

 

 不敵に笑んだまま予備動作を取ると、食卓に相応しくないソードスキルの輝きが発せられる。まさか本当に食用ナイフにリニアーを乗せられるとは思わなかったのか、アルゴさんの表情は微妙に引き攣っていた。実用性皆無の小技だし、案外知られてないのかな?

 そんな小さな疑問を抱きながら早々にスキルキャンセルで動作を取りやめる。初期剣技の技後硬直時間はほとんどないに等しいから、未だ輝きを残す食用ナイフをさっさと手放して所定の位置に置き直した。わたしの手を離れたことでようやく食用ナイフはソードスキルの輝きを消し、食卓を彩るただの食器に戻る。

 

「怖い怖い、女の子はもっとお淑やかにしないと駄目だゼ。これはキー坊にお願いしてアーちゃんをしおらしく躾けてもらわなくちゃナ!」

「だったらわたしはキリト君にお願いして、アルゴさんが素直になるよう躾けてもらわなきゃですね」

 

 でもキリト君がアルゴさんをやり込めてるところは見たことないし、そういう場面を思い浮かべることがまったく出来ないのも内緒だ。

 そうして一頻り笑い合ってから、わたし達はどちらからともなく姿勢を正していた。

 

「こんな静かな夜ダ、女二人で秘密のお茶会と洒落込んでみるのも悪くなイ。たまには感傷に耽って昔を振り返るのも一興だろうサ。拍手喝采の飛び交うような陽気で楽しいお話はしてあげられないけど、アーちゃんの抱えた疑問の幾つかには答えてあげられると思うんダ。例えば、どうしてキー坊が英雄を求めたのか、とかネ」

「もう一度聞きますけど、本当にいいんですか? もちろん聞きたくないと言えば嘘になっちゃいますけど……」

「ま、キー坊には後でオネーサンから謝っておくから心配しなくていいヨ。口約束だけど白紙小切手も切らせてあるから、適当に言い包めておく」

 

 だからお茶のお代わりをお願いできるかナ、とカップを差し出してくるアルゴさんに深く一礼し、ポットから紅茶を丁寧に注いでいく。澄んだ赤褐色の液体が容器を満たし、茶葉の開いた芳しい香りが仄かに匂い立った。

 アルゴさんは湯気の立つ苦味の濃くなったお茶を手にし、色気のある仕草で唇を湿らせると、どこか遠くを見やる物憂げな表情を浮かべながら言葉を紡ぎだしていく。

 

 夜はまだまだ更けそうにない――。

 




 ユイのパーソナルデータ云々は拙作独自のものです。
 《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》の持つ権限と能力は拙作独自の盛り付けであり、原作ではいずれも不明です。
 作中に出てきた戦略と戦術の間には本来明確な定義区分はありませんが、一般的には戦略=全体のプラン、戦術=個別の作戦といったところでしょうか。今回はアスナの捉え方として戦略を大目標に据え、大目標の達成のために小目標を設定する一例を描写しています。

 ※今回掲載した『ねんねんころりよ』で始まる《江戸子守唄》は、作者不詳で現代に伝わる著作権の存在しない唄です。利用規約にある歌詞禁止の項目に反してはいないはずですが、もし不都合がありましたら修正を入れますので、その場合は理由と併せて感想かメッセージでご指摘ください。

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