ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第20話 仮想世界の申し子 (4)

 

 

「まずはオレっちとキー坊の馴れ初め話――の前に一層のPK事件後からにしようカ。オレっちはあの戦いに参加していないけど何があったかは知ってるから、キー坊プロデュースの《公式発表》にこだわらなくていいヨ。キー坊がPKを『やらされた』事とその後何を口走ったかも含めて、大抵のことは把握してるから」

「それはキリト君から?」

「詳細を聞いたのはずっと後だけどネ。一層攻略当時は、精々キー坊がオレンジになった経緯に不審があるってくらいのものだったかナ? まあ情報源には事欠かなかったから、攻略組から引き出した断片的な情報をつなぎ合わせれば凡その見当をつけるのは難しくなかったし、意図的なPKじゃないと判断したからこそ安心してキー坊にちょっかい出せたんだけどサ。さすがのアルゴオネーサンも本物の殺人者(レッド)は怖い」

 

 どうしよう? 話の腰を折ることになるけど、アルゴさんにはユイちゃんが教えてくれたあの時の真相も話しておくべきだろうか? キリト君はユイちゃんの事も折を見て皆に伝えておくって言ってたけど。

 

「あの、アルゴさん。一層のPK事件の事なんですけど、ユイちゃんの話では――」

「ちょっと待っタ」

 

 わずかの迷いと共に今日の出来事を語ろうとして、アルゴさんが差し出した手に止められてしまう。

 

「キー坊からはユイユイは死んだわけじゃないってことだけ聞いてる。だからオレっちは今日アーちゃん達に何があったのか詳しくは知らないけど、そいつを知ろうとも思わないんダ。これから話すことに影響はないだろうし、オレっちが踏み込んで良いとも思わないから。いつか笑い話に出来るようになった時にでも話してくれれば良いヨ」

 

 そしていつかは今じゃないのだと笑い飛ばすアルゴさんに、内心で頭を下げて表面上は何もなかったかのように振舞うことに決めた。気を遣わせてしまったらしい。

 

「わたし達が流した偽の発表についてですけど、アルゴさんのように気づいていて口を閉ざした人も多かったんでしょうか?」

「どうだろ? そもそも聞かせられる側だって余裕があったわけじゃないし、わざわざ疑問を持つ奴は少なかったと思うヨ。目の前のことに一杯一杯なのに最前線の事情を慮るプレイヤーがそういたとは思えないから。今どうなのかまでは何とも言えないケド」

「そうですか」

「一層のあれはキー坊にとっての分岐点(ターニングポイント)だっタ。いや、それはアーちゃんやあの場に集った当時の攻略組全員に言えることかナ? 誰にとっても衝撃的な出来事だったんだろうし」

「そうですね、濃淡はあれどみんなあの日の出来事は引き摺っていたと思います」

 

 特にディアベルさんはキリト君からたくさんのものを託されていたから、人一倍思うところはあっただろう。

 キリト君は犯罪者(オレンジ)の烙印を背負って皆に背を向けた。わたしも、そしてあの場に居合わせた誰もがその去り行く後姿を目に焼き付け、哀切と悲嘆、理不尽の味を噛み締める事しか出来なかったのだから。

 

「諸々の事情は捨て置いて事実だけを辿ると、キー坊は情報操作を企ててテスターとビギナーの全面衝突を避けようとしタ。行き当たりばったりで準備もなし、拙くはあったかもしれない。でも、キー坊の企みは一応の成功裏に終わっタ」

 

 アーちゃん達の尽力のおかげでね、とアルゴさんはまとめたけど、その件に関してはとにかくディアベルさんが東奔西走することで骨折りに努めた成果だろうと思う。

 

「テスターとビギナーの対立が収まる、つまりこの世界での生活基盤が出来上がって余力を持てるようになるまでの静謐を保てればってとこか。短ければ一ヶ月、長くても三ヶ月あれば情勢は落ち着くだろうっていうのが当時の意見だったよナ?」

「ええ、日々の不安と疑心暗鬼さえ高まらなければなんとかなるだろうと思ってました」

「それだけの見通しがあったからキー坊を受け入れるための下地作りを始めたってのに、キー坊も馬鹿だよなァ。大人しく最前線から引いて時期を待てばいいところを、ソロで最前線に挑み続ける選択をしちまうんだから。挙句にフロアボスにタイマン仕掛けるとか、もう自殺志願者と変わらなかったネ」

「……止められるものなら止めたかったです」

 

 でも、キリト君にわたしの声は届かなかった。

 

「あの頃のキー坊は聞く耳を持ってなかったから、誰が何を言っても変わらなかったヨ」

「キリト君が頑なだった事は確かですけど、アルゴさんは別でしょう? オレンジプレイヤーになったキリト君が唯一頼りにしていたのは貴女だったはずです」

「アーちゃんにはそう見えたのカ? ちょっと複雑だなあ、オレっちだって散々邪険に扱われたんだゼ?」

「なら、どうしてアルゴさんはキリト君に力添えをしようと思ったかをお聞きしても?」

 

 本当は、どうやってキリト君を止めたのかを聞きたかったのかもしれない。キリト君が唯一心を開いているように見えたアルゴさんが羨ましかった。誰も頼らず全てを振り切って戦い続けるキリト君を、わたし達攻略組は止めることが出来なかったから。

 

「ではでは、ここで衝撃の事実をご開帳! ふっふーん、実はオレっちキー坊の幼馴染なんダ!」

「……あの、今はそういう冗句は必要ありませんから」

 

 っていうか空気読みましょうよアルゴさん。「アーちゃんが冷たい」とか言われても、わたしの視線を冷やしているのはアルゴさんですってば。

 

「まあ昔馴染みって意味ではそこそこ合ってるんだヨ。オレっちもキー坊と同じベータテスターだし、テスト時分ではお互い結構な頻度で遊び倒してたから、そこそこ名前も売れてたしナ」

「ベータテスターだったこと、簡単に言っちゃうんですね」

「それこそ今更だしネ、テスターだのビギナーだので区別する習慣なんて今はほとんど残ってないもの。それに開始早々ベータ情報をまとめた攻略本(ガイドブック)を発刊してた関係で、オレっちに関しては暗黙の了解みたいなものだったし」

「アルゴさんが編纂してくれた攻略本にはお世話になりました」

「どういたしまして。リーダーシップを発揮しだしてた何人かと顔をつなぐ意味もあったし、完全にボランティアだったわけでもないから気にしなくていいヨ」

 

 それでも勇気のいることだったと思う。ベータテスター憎しの風潮の中でそれだけの活動ができたことは素直に感嘆する他ない。

 

「テスターとビギナーの確執にはオレっちも思うところはあったから、なんだかんだでキー坊が一層でやろうとしたことには察しがついたんだヨ。で、テスターのよしみってことでお節介を焼いてやろうと近づいたのが馴れ初めだったわけダ」

 

 おー、懐かしい、などと零してから。

 

「わざわざ自分から悪役を買って出て茨の道を選んだ挙句、意味もなくボスに単身突っ込むような馬鹿の顔を一目見てやろう。最初はホントにその程度の軽い気持ちで会いに行ったんだヨ。で、こっちがスキル獲得クエストの情報を教えてやったり、攻略組との橋渡しをしたりとか親切の押し売りをしてやってたのに、キー坊ったら全然懐いてくれないんだもん。オネーサン困っちゃったゼ」

「そんな犬猫みたいに」

 

 頬の引き攣りを自覚しながら苦言を呈すと、アルゴさんはくすりと可笑しそうに口元を綻ばせた。

 

「犬は犬でもあれは野生の犬だったナ。可愛げもないし死んだような目つきが最悪だっタ。こっちが用意する攻略状況の話とかスキル情報みたいな餌には食いつくけど、警戒心剥き出しで人を一定以上の距離には近づけさせないんダ。仲良くなる気なんて欠片もなかったんだろう、《誰も俺に近づくな》オーラが発散されまくってたもん。一番気に食わなかったのは人の顔を見て露骨に顔を顰めるところだったナ、しかもこっちが何か趣向を凝らさないとすぐに逃げ出すし。ホンット失礼な奴だったヨ」

 

 確かにあの頃のキリト君ならそんな感じになるかも。でもわたし達との接し方とも違う感じかな? 最前線で攻略組と顔を合わせる時は、キリト君はギラギラした抜き身の刃みたいな目をしていたから。

 

「そんな付かず離れずの関係を続けてる内にオレっちも意地張るようになっちゃってサ。そっちがそうくるならって反骨心がむくむくと膨れあがってきて、キー坊の索敵スキルを掻い潜るストーキングを始めてみたっ!」

 

 ……あの、それは犯罪では? ストーカー犯罪はオレンジ化しませんけど。

 ストーカー被害はわたしにも覚えがあるし、シリカちゃんも怖い思いをしたことがあるって言ってたっけ。むぅ、同じストーカーに狙われるにしてもキリト君のほうがずっと恵まれてるよ。

 

「キー坊の《ぼっち属性》も極まってたよナ、なにせあいつ寝床を迷宮区の安全地帯にしてたんだから。うん、絶対キー坊は頭おかしい。いくら主街区に入れないからってその選択はないだろ、マジで。最前線張ってりゃキー坊の居場所を特定するのは難しくなかったにしても、実際に追っかけるのは楽じゃなかったヨ」

 

 しみじみと昔を振り返るアルゴさんも相当破天荒な真似をやらかしてますけど、あなたのその情熱は一体どこから来たんです?

 

「へこたれないというか、アグレッシブというか……。すごいですね、アルゴさん」

「オレっちこんな性格だからネ、少しくらい邪険にされたところで堪えたりはしないし平気の平左なんだけど……。ただ、あの時ばかりは失敗したなあって思ったヨ。キー坊に対して同じベータテスターとしての同情心がなかったとは言わないし、お節介ついでに世話を焼いてやろうと思ったのも否定しない。でもサ、やっぱりオレっちは好奇心の赴くままキー坊にちょっかいを出してたんダ。そんな軽い気持ちで人の事情にズカズカと踏み込もうとするから手痛いしっぺ返しを貰っちまった」

「しっぺ返し、ですか……。それはわたしが聞いても良いことなんでしょうか?」

「構わないヨ、もう時効だからネ。駄目ならキー坊にオネーサンの身体で手を打つように迫る」

 

 危うく椅子から転げ落ちるところだった。

 わたしをからかうためにそういう言い方するのやめてもらえません!?

 

「それで、何があったんです?」

 

 一言一句区切るように、威圧感たっぷりに。

 アルゴさんの目論見通りに慌てふためくのも悔しかったので、極力澄ました顔で紅茶を口に含みつつ問いを放つ。そんなわたしの内心を察しているのかいなかったのか、アルゴさんは苦笑いを浮かべて頬をかいていた。

 

「迷宮区の安全地帯でキー坊が剣を胸に抱くようにして縮こまってるのを見つけた。本当に偶然だったんダ。でも、その時になって初めてキー坊の弱音を聞いちまった。消え入りそうな声で、迷子みたいに泣きそうな顔をして、『寂しいよ』だとサ」

 

 その告白に込められた悔恨はほろ苦い響きとなって空気を震わせ、わたしの耳に届いた。アルゴさんの目はわたしを映してはおらず、どこか遠く――おそらくは過去の情景を見ていたのだろうと思う。

 

「実際はその後にご家族らしき人の名前が続いてたんだけど、そこは伏せておくゾ。リアル事情は本人に聞いてくれナ。……その時に聞いちゃいけない事を聞いちまったって心底後悔したわけダ。誰でも大切に守ってるボーダーラインってのがあるダロ? オレっちは意図せずキー坊の踏み込んじゃいけないところまで踏み込んじまったのサ」

「……わたしは現在進行形で後悔してるところです」

「アーちゃんならキー坊も許してくれるヨ。それに今更気にしないだろうサ」

 

 頭は抱えるかもしれないけどネ、と意地悪く笑う。

 

「どうしてキー坊がソロプレイヤーを選んだのか、アーちゃんは考えたことがあるかナ?」

「……え?」

 

 その思いがけない問いかけにわたしは間抜けな声を漏らすことしか出来なかった。アルゴさんはそんなわたしの戸惑いを見て言葉足らずだったと判断したのか、少しだけ考え込んだ後、再度口を開いた。

 

「一層のPKの後、キー坊はアーちゃん達に背を向けて一人になった。以後はアーちゃん達の誘いを全部蹴って碌にパーティーも組まず、ギルドを結成できる三層を超えてもどこのギルドにも所属せず、カルマ浄化クエを達成してオレンジを解消した後もソロプレイヤーである事を貫いた。それをおかしいと思ったことはないかナ? 例えば、ソロプレイヤーである事とギルドに所属する事は両立できるんだゼ?」

 

 正確にはソロで戦うスタイルと共同体であるギルドに所属することは両立できる、となるわけだけど……。

 

「おかしな事でしょうか? キリト君が一人になったのは、オレンジプレイヤーのデメリットと悪評を担ってしまったことが原因だとわたしは考えていました。それと、PKに手を染めてしまった引け目も、ですね。……アルゴさんは別の理由があったと言うのですか?」

「本当のところはオレっちにもわからないヨ。ただ、オレっちはそこに誤解とすれ違いがあったんだと思ってる。アーちゃんは一人で攻略に向かい続けるキー坊をずっと止めようとしてたダロ? でもさ、本人に生きる気力がなかったらどうしようもないと思わないカ? あの頃のキー坊には誰の言葉も届かなかった、それはオレっちだって例外じゃないんダ」

 

 その時、アルゴさんの瞳が切なげに揺れたように見えた。錯覚だろうか?

 

「キリト君に生きる気力がなかった……?」

「キー坊自身何のために戦ってるかわからなくて、惰性で最前線に立ってるようなものだったんだと思う。何の展望もなく、嫌なこと、つらいこと、そういった何もかもを忘れるために、精も根も尽き果てるまで無茶を繰り返した。それで生き残れてたんだから呆れる話だけど」

 

 迷宮区に篭り戦い続ける鬼気迫った顔。人を全く寄せ付けずに戦い続ける、凍りついたキリト君の横顔が思い出された。

 

「知ってるか? あいつ、朝にフロアボスと戦って部屋から叩き出されて、昼にも同じことして、夜になってやっぱり叩きのめされて逃げ出したこともあったんだゼ。どうせ毎回危険域までHPを減らしてたんだろうし、ほーんと、死にたがりのキー坊は救いようがなかったナ」

 

 気付かれてなかったとでも思ってんのかネ、あの馬鹿。そう言って深々と溜息をついたアルゴさんの顔には、怒りとも呆れとも取れる複雑な表情が浮かんでいた。

 

「はじまりの街の騒動から一層のフロアボス戦まで、キー坊は皆の前で毅然とした態度しか見せてこなかったから先入観もあったんだろうけど、皆、あれの事を過大評価し過ぎだヨ。攻略組はキー坊の心が強いから、犯罪者として誰も巻き込みたくなかったから、だからソロで戦う事を選んだって誤解した。でもネ、違うんダ、逆なんだヨ」

 

 それはわたし達が考えたこともなかったもので――。

 

「共に戦っていたはずの仲間に裏切られ、わけもわからないまま自殺幇助をさせられて、腹の内に何を抱えてるのか理解できない人間が恐ろしくなった。だから誰かと肩を並べることに耐えられなくなったんダ。何てことはない、キー坊にとってはモンスターよりも人間の方が怖かった。それだけのことなんだヨ」

「モンスターよりもわたし達のほうが怖かった……」

「意外かナ?」

「いえ、言われて見れば納得できるところはあります」

 

 一層の後、キリト君には最前線から退くという選択肢もあった。主街区には入れなくても、点在する辺境の村には踏み入れられたのだから、そこを拠点にオレンジを解消するクエストが発生するのを待っても良かったはずなのだ。

 少なくとも、わたし達はそうなると考えていた。だからこそキリト君が目立たなくなるように細工をしたりもしたのだけど、大方の予想を裏切って、キリト君は誰よりも最前線で戦うようになってしまった。それを見て、わたし達はキリト君を一人でも最後まで戦い続ける気概を持った剣士だと思い込んだ。彼は強いのだと。

 

「キー坊は強かったから独りになったんじゃない、弱かったから独りになったんダ。だから――たとえ犯罪者(オレンジ)になっていなくても、やっぱりキー坊はソロプレイを選んだと思うし、ギルドに入ることもなかったと思うヨ。あの当時のキー坊は、一人でいることでどうにか正気を保ってたようなもんだから」

 

 キリト君は主街区の転移門が使えなかったために転移結晶が10層で見つかるまでは階層移動にとてつもない不便を抱え、オレンジのカーソルも20層を迎えなければグリーンに戻せなかった。つくづく序盤のオレンジ化がもたらすデメリットは大きかったと思う。それだけでも厄介だったのに、加えて精神の失調……。

 

「こらこら、そんな暗い顔をしないの。アーちゃんが気に病む必要なんてこれっぽっちもないし、キー坊は自分で自分を追い詰めていただけなんだゼ。同情すべき点はあってもやっぱりそれは自業自得ダロ?」

「そういうものでしょうか?」

「そういうものだヨ。……ただ、哀れだとは思っタ。あれが剣を胸に膝を抱えてる姿を見て、オレっちはキー坊を哀れんでいたのだと思う。きっと剣を精神安定剤代わりにでもしなきゃ、キー坊はまともに眠ることが出来なくなってたんだろうナ」

 

 むしろ眠りたくなかったのかもしれない、あれはよく嫌な夢を見るって言ってたから、と。

 湿った吐息と共に口にされた言葉は些かならず重力の頚木を秘めていた。

 

「キー坊が一番恐れたのは、一層の悲劇がまた繰り返される事――自分の手で誰かの命を奪ってしまうことだったはずダ。そのせいで人を遠ざけ、寄せ付けなくなって、攻略組の前では常に強くあろうと意固地になった。……弱みを見せればまた利用される、そう考えたのかもネ」

 

 哀れなこった。

 アルゴさんはもう一度繰り返して――。

 

「他人が信じられなくなって、だけどそれ以上に自分も信じられなくなって、そんなキー坊が最後に縋ったのは剣だった。皮肉なもんだよナ、そこまでキー坊を追い込んだのもPKの凶器になった刃だってのに、そいつに縋りつくことでしかキー坊は立ってることが出来なかったんだから」

 

 その皮肉そうな口ぶりとは裏腹に、アルゴさんは自身の表情を隠すかのように双眸を閉じて無感情を装っていた。

 

「あの頃のキー坊には、何かきっかけさえあれば自分からあの世に旅立ちかねない脆さがあっタ。何も省みずにあれだけ攻略に邁進し続けてたのも、戦い続けて死んじまえば楽になれるとでも思ってたんじゃないカ? 『俺はこれだけやった、だからもう許してくれ』って、体の良い言い訳にしようとしてたんだろう。オレっちがそう思うくらいには、キー坊はいつだって背水の中で戦ってたからネ」

 

 憶えがあるダロ、と問われ、はい、と短く答える。単なる事実の確認が、妙に寒々しく聞こえた。

 

「それでもキー坊は生き残ったわけだけど……先に言っておくゾ、キー坊を生かしたのはオレっちじゃない。茅場晶彦がキー坊に与えたスキルだヨ」

「スキル?」

「そ、あれだけが持つ唯一(ユニーク)

 

 それもまた、予想外だった。わたしはキリト君の支えになったのはアルゴさんだと考えてきたから。いえ、それは今でも思っているけれど。

 

「誤解しないでほしいのは、キー坊の高いレベルがどうこうって話じゃなイ。キー坊は自分の持つスキルが人よりも優遇されているのを知っていたから、だから最後の一線で命を投げ出すことが出来なかった、ってことなんダ。無為に死んじまうことが皆に対するとんでもない裏切りだと考えるようになってたんだろうナ。その歪な責任感がキー坊をソロとして無謀に戦い続けさせながら、ぎりぎりで退くことを忘れさせなかった理由だヨ」

 

 《特別》というのも良し悪しだとアルゴさんは溜息混じりに零した。

 最前線から退くことを許さず、命を燃やして戦い続けろと繰り返し耳元で囁く、キリト君を否が応にも戦場へと駆り立てるスキルだったのだと。

 

「茅場晶彦も何を思って公平さ(フェアネス)を壊すユニークスキルをデザインしたんだカ。今現在のユニークスキル使い二人の境遇を考えると、碌でもない理由だったとしか思えないヨ。この世界に閉じ込められた時点で、ゲームクリアへの責任はデスゲーム参加者全員が一律に負うものだったはずなのに、あの男は規格外のスキルをデザインすることでそいつを崩しちまっタ」

 

 辟易とした口調で。

 

「茅場晶彦は科学者としては超のつく一流かもしれないが、ゲームデザイナーとしては二流だ、デスゲーム主催者としては三流かもナ」

 

 そう吐き捨てたアルゴさんの顔は、珍しく嫌悪に歪んでいた。

 

「偶然か必然か、PKを契機としてユニークスキルはキー坊に義務感と責任感を与えて縛り、逃げたくても逃げられない状況を作り上げタ。その結果として、キー坊は独りで最前線を戦い続ける他なくなったのサ。仲間であるはずのプレイヤーには怖くて近づけないんだから、キー坊にとっては地獄だったろうネ」

 

 陰惨、その一言だ。

 スキルがプレイヤーを操ってしまう。荒唐無稽なようでいて、キリト君の境遇では冗談になっていなかった。一つ一つの出来事が複雑に絡み合ってキリト君を翻弄する様は、まるで悪意の神様が精緻に作り上げた運命の悪戯のようだ。

 

「それで……アルゴさんはどうしたんですか?」

 

 今語ってくれたことは当時のアルゴさんには知りえないことも含まれていた。それでも――。

 

「ん、大した事はしてないヨ。キー坊をちょっとばかし強引に宿に連れ込んで、オネーサンの胸で泣かせてやっただけ」

 

 わたしは、その答えを予想していたのだろうか。

 いずれにせよ、この時わたしの胸を過ぎったのは切なさを告げる痛みではなく、予定調和にも似た納得だった。

 

「泣けるならさっさと泣いちまえば良かったんダ、それを変に我慢して溜め込むからおかしな事になる。……別に、サ。オレっちはつらいことから逃げるのが悪いことだとは欠片も思っちゃいないし、嫌なことがあれば目を閉じて、耳を塞ぎたくなるのも当然だと思ってる。キー坊も中途半端な義務感やら責任感なんか発揮したりせずに、全部放り出しちまえば楽になれただろうに」

 

 まったく、変なところで真面目なんだから。

 そう続けたアルゴさんは、頑是無い子供を見るような困った笑みを浮かべると懐かしそうに目を細めた。

 

「それでまあ、キー坊を泣かすついでにちょっとだけあいつの未練になってやろうかな、ってサ。あれにだって泣きたい時に泣ける場所くらいあってもいいダロ?」

 

 何でもない顔で言い放つアルゴさんからは鬱屈した雰囲気を欠片も見つけることは出来なかった。だから……。

 

 ――誰でもよかった、と。

 

 不意にアルゴさんが零した言葉の真意を、わたしは当然の如く掴み損ねた。その答えもまた、アルゴさんの口からすぐに語られたけれど。

 

「キー坊にしてみれば泣かせてくれるなら相手は誰でもよかったんダ。必要だったのは『誰か』であって、オレっちじゃなきゃいけない理由はなかったんだから」

 

 その飄々とした物言いを受けて、わたしは驚きと共にまじまじとアルゴさんの表情を見つめてしまった。語る言葉とは裏腹に、そこには怒りも悲しみもなく、もちろん後悔もない。本当に淡々と事実を語っているだけだった。

 わからない、この人は何を考えているんだろう。まるで自分に遠慮などする必要はないのだと再三繰り返されているようで――この女性(ひと)はわたしに何を望んでいるのだろうか。

 

「でも、その時その場にいたのはアルゴさんです。必要な時に必要な事をしてあげられる、それが一番大切なことなんだと思いますよ」

「アーちゃん達だって必要なことをしていたヨ。自分に差し伸べようとしてくれている手を、あれが嬉しく思わなかったはずがなイ。キー坊はずっとアーちゃんや攻略組に感謝してたはずだゼ」

 

 それでも、と思う。巡りあわせと言えばそれまでだけど、キリト君の《死にたがり》を止めてくれたのなら、その役目を負うのはそれこそ『わたしでなくても構わなかった』。

 

「キー坊だって一層のPK事件で自分が悪くなかったことくらい知ってたし、どうにもならなかったことだってわかってたヨ。法的な意味で罪に問われることはないだろうってのも理解してタ」

 

 でも、と。

 

「それで割り切れるほど大人にはなれなかった。人間一人の人生を終わらせた償い方がわからなくて、わからなかったからパニックを起こして、せめて自分の命を使い潰すことで償いにしようとしてたんダ。命の代償は命の重さでしか贖えないとでも思ってたんだろうサ。そんなことだーれも望んでないってのに、勝手に一人で決め付けて勝手に一人で突っ走るんだもん、子供だよなあ」

 

 誰も得をしないことに何の意味がある。そう言って呆れて見せるアルゴさんだった。

 

「そんな奴にいくら周りが道理を説いたところで届くはずがないんダ。キー坊だってその程度のことは承知した上で鬱屈を抱え込んでたんだから」

 

 正しいことを言ってりゃ世の中上手くいくってんなら、これほど楽な事もないんだけどなぁ、と溜息と共に零すアルゴさんの愚痴を聞きながら、ふと、わたしは母に似たんだろうなと思った。

 正しさを口にすることに慣れて、道理に見合わないことを簡単に受け入れられない。この世界に閉じ込められて余裕がなかったということもあるけれど、正論を口にすることと、正論を受け入れさせることは違うのだとなかなか理解できなかった。

 もちろん正しくあろうとすることは必要なことだ。それを失ってしまえば、それこそこの世界では簡単に犯罪者(オレンジ)に堕ちてしまう。でも正しさだけで上手くいくはずがないことも、わたしは母への反発という他ならぬ私自身の経験で知っていた。

 

「だからオレっちはキー坊に何も言わないことにした。――何も言わずに傍にいてやろうって思ったんだヨ」

 

 まあそれ以上キー坊に何か出来るとは思えなかっただけなんだけどネ、と朗らかな声でアルゴさんは付け加え、笑った。リズやサチさんにも同じような片鱗を感じたことがあるけれど、女性としての柔らかな優しさとか心遣いとか、それにこういった懐の深さはわたしにとって羨望の対象だ。

 そんなわたしの視線に気づいたのか、それとも柄にもないことを口にしたとでも思ったのか、アルゴさんは気持ち性急な仕草でカップを持ち上げて喉を潤す。それだけでいつものアルゴさんに戻ってしまった。

 

「本当に強い奴――キー坊の言葉を借りるなら、『心に芯を持ってる』奴ってのはどんなにつらくても普通の人間をやってるもんダ。当たり前に笑って、当たり前に怒って、当たり前に泣く。クラインのお兄さんとかエギルの旦那がそうだナ、苦難にあっても自然体で臨める強い男達ダ。キー坊みたいに殺伐としたり、変にひねくれたりするのは心が弱い証拠だとオレっちは思うヨ」

 

 そんな風にキリト君を扱き下ろしながら、その一方で「必死に背伸びしようとするキー坊も乙なもんだけど」と悪戯な顔で語る。

 

「キー坊の可愛いところって、弱っちいくせにすぐ意地を張りたがるところだとオネーサンは思うわけダ。あと結構ロマンチストなんだヨ。オレっちに泣かされたことがよっぽど悔しかったらしくて、次の日には達成者ゼロのクエストに挑みに行ったんだけど――」

 

 ほら、あの悪名高き《銭ゲバ》クエスト。

 そう補足を加えると、アルゴさんは堪え切れないとばかりにくすくす笑い出した。

 

「何で持ち金ゼロにするなんて思い切った真似をしたんだって聞いたらサ、明後日の方を見て『もう二度と泣かないって願掛けしてきた』なんて言うんだゼ? まさかクエストを神社にお賽銭を投げ込む儀式に見立てるとは思わなかったヨ。もうそれを聞いた時はオネーサン、キー坊が可愛いったらなかったネ」

「確かに攻略効率をひたすら重視する《黒の剣士》らしからぬ所業ですね」

「だろう? まあそんな理由で有り金全部はたく馬鹿をやらかしたって知ったら、真面目に攻略に励んでた連中から怒る奴も出てくるだろうから秘密にしてあげておいてよ、アーちゃん」

「それを口にしても誰も信じてくれない気がします」

 

 クラインさんとかエギルさんくらいかな、攻略組で素直に信じてくれそうな人は。

 

「ねえアーちゃん、キー坊がオレっちに望んだのはネ、攻略組の活躍――ゲーム攻略の進展を逸早く全プレイヤーに知らせることだけだったヨ。誰かを祭り上げようとか、まして自分を持ち上げろなんて言ったことは一度たりともなかっタ。キー坊は誰か個人にではなく、攻略組という集団にこそ英雄性を求めたんダ」

「クリアを待つ人たちに『解放の日』という希望を見せるため。それがキリト君が攻略速度にこだわった理由ですか」

「そ。攻略速度の停滞が一層の悲劇につながった遠因だってキー坊は考えてたからネ。『もう二度と自殺者を見たくない』。キー坊が最初にゲームクリアを志した理由なんてその程度のもんサ。誰かを守るためだとか、皆を救ってやろうとか、そんな大層な使命感なんて欠片もなかっタ」

 

 それがキリト君が英雄を求めた理由。……あれ? でも何か引っかかる。

 

「最初に志した、っておかしくないですか? キリト君のスタンスは既にはじまりの街で明らかにしていた気がしますけど?」

 

 茅場晶彦と明確な対決姿勢を見せていたと聞いている。それにやりかたはともかく命を削る鬼気迫る戦いを繰り返してきたキリト君は、心に期するものがあってゲームクリアに全力で取り組んでいるようにしか見えなかったけれど。そんなわたしの疑問にアルゴさんはにやりと意味深に笑ってみせた。

 

「その辺の事情はキー坊に直接尋ねてみると良い。多分苦虫を噛み潰しながら何があったのかを話してくれるから」

 

 あれは存外愉快な男なんだゼ、と忍び笑いを漏らすアルゴさんに、わたしの頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。

 アルゴさんがそう言うのなら、そのうち機会を見つけて尋ねてみようか? そんな深刻な話でもなさそうだし、大丈夫だよね?

 

「アルゴさんはそれからずっとキリト君の頼みに応えて、一緒にゲームクリアを目指して活動してきたんですね」

「つっても一方的な関係ってわけでもなかったんだゼ? キー坊は律儀だから、オレっちが動きやすくなるように色々と材料を持ってきてくれたし。例えば迷宮区で発見した宝箱の位置情報を、オレっち経由でトレジャーギルドに回して顔つなぎするとかサ。なかなかどうして抜け目ない奴だヨ」

 

 オレっちもキー坊に貢がせてとっても良い気分に浸れたしナ、などと嘯くアルゴさんはとても楽しそうだった。その言い様に思わず笑みが込み上げてきてしまう。

 

「そうなるとアルゴさんがキリト君のイメージ払拭に尽力したのはお節介だったわけですか」

「テスターとビギナーの軋轢が解消された時点でキー坊の買って出た憎まれ役も終わりダロ? それ以上は誰にとっても不幸にしかならないんだし。まあ攻略組の記事を作ってるとキー坊の株も勝手に上がっていくんで楽なものだったけどネ」

 

 脚色をする必要もなかったというアルゴさんには同意する。当時から頭一つ二つ飛びぬけた強さを誇ってたから、キリト君。

 

「そんなこんなでオレっち上層から下層まで手広く情報屋商売をやってたわけだけど、アーちゃんとこの団長さんにキー坊の情報を求められた時は驚いたヨ。いや、あの御仁の立場ならキー坊の動向を気にするのは当然だったのかナ? ほら、密室PK事件でアインクラッド全体が騒がしくなってた頃のことなんだけど」

「キリト君が《月夜の黒猫団》の手伝いをしていた時のことですよね? わたしはキリト君と団長の会合に同席した折に知ったんですけど」

 

 絶対にメッセージを飛ばしてこなかったキリト君が、初めて自分からわたしに連絡をくれたのでよく覚えている。それまではこっちからメッセージを送ることはあっても、キリト君から貰ったことはなかった。

 ずっとわたし達を避けてきたキリト君だったから、いよいよ気持ちの整理がついて、ようやくわたし達とも本格的に協力できるようになったのかと喜んで舞い上がってみたり、その反動ですごく他人行儀だったメッセージの内容に怒ってみたり。あの時は団長にも気を遣わせちゃったし、穴があったら入りたいくらいだ。

 

「ちょっと意外だったのは、アルゴさんが素直にキリト君の情報を団長に渡したことでしょうか? 団長はキリト君を攻略組に呼び戻そうとしていました。アルゴさんはそれを知っていたんですか?」

「知ってタ。とはいえ、ギルド名は伏せてあくまで中層でレベリング支援活動をしてることを話したまでだけどネ。それにキー坊が攻略組に戻ろうが月夜の黒猫団に腰を落ち着けようがオレっちはどっちでも構わなかったもの。あれがアーちゃん達の話を聞いてどうするかはあれが決めることであって、わざわざオレっちが口出しすることじゃないダロ?」

 

 でも《聖騎士》相手に小遣い稼ぎをするのが結構痛快だったことは秘密だゼ、と声を潜めるように囁くアルゴさんに苦笑いで頷く。そういえば団長もアルゴさんに足元を見られたって言ってたっけ。この人もなかなかどうして曲者だ、団長の前だと萎縮する人も多いのに柳に風とばかりに渡り合ってしまうのだから。

 

「アーちゃんは、キー坊が《月夜の黒猫団》に関わった経緯を知ってるみたいだネ」

「ええ。サチさんとキリト君の間に何があったかも一通り聞いてますよ」

 

 一緒のベッドで夜を共にしていたこととか。

 

「あの子もそういうとこは結構大胆なんだよなあ……。黙っときゃいいのにサ」

「わたしはともかく、アルゴさんに話した理由はわかる気がしますけど。サチさんはキリト君とアルゴさんの関係を知ってるんでしょう?」

 

 サチさんの性格だとアルゴさんに話さないわけにはいかなかったと思う。

 

「確かにそうだけど、リアルで結婚してるわけでもないんだから気にしなくても良いのに――っと、ごめんヨ、今のは聞かなかったことにしといて」

「わかりました」

 

 仮想世界の関係性を軽視することはマナー違反になっちゃいますものね。

 

「あの子はキー坊との関係にこだわりがないんだよなあ。もちろんサッちゃんはキー坊と恋人だとか夫婦になったら心の底から喜ぶだろうけど、どんな形であれキー坊の傍にいれば満足しちゃうような、ちょっと不健全な――もとい変わった気質を持ってるんだヨ」

 

 それが良いか悪いかはひとまず置いておくけど、と頬杖をついて。

 

「キー坊もそんなサッちゃんを受け入れてるし大事にしてるから、放っておけば勝手にくっつくんじゃないカ、あの二人? アーちゃん達には悪いけど、オレっちキー坊と一番相性が良いのはサッちゃんだと未だに思ってるんダ」

 

 むしろオレっちがサッちゃんをお嫁さんに貰いたい。そんなことを言って愉快そうに笑っているアルゴさんこそキリト君は一途に想い続けているわけで……。何だろう、この不思議な状況は。

 アルゴさんはキリト君の想いを知っているし、キリト君への好意を隠してもいない。わたしに言質を取らせまいという照れ隠しでもないし、どうも釈然としない。……貴女は一体何を考えているんです?

 

「キリト君とサチさんの相性が一番、ですか。わかる気もしますけど、素直に認めるのは悔しいですね」

「アーちゃんはそれでいいと思うヨ。多分サッちゃんもアーちゃんを羨ましがってるから」

 

 そういうアルゴさんはサチさんのことが気にならないんですか、と聞いてみたくもあったが、真顔で頷かれそうな気がして止めた。

 

「ともあれ、黒猫団を壊滅させかけたことでキー坊はまたソロに戻ったわけだけど、ぼちぼち攻略組と連携を取り始めるようになったから悲観することばっかじゃなかったわナ。もっとも、まーた悪い癖を出してフロアボスにソロで突撃するようになっちまったけど。いくら偵察だけっつってもなあ……」

「キリト君曰く『必要な事』で、確かに先遣部隊の危険がキリト君の威力偵察のおかげで大幅に低下しました。労の多い役割を率先してこなしてくれるのは攻略組の一員として有り難いことではありますけど、またぞろ《黒の剣士》は独断専行が過ぎるって意見も出てきちゃいましたからね。キリト君も以前よりは態度を軟化させてましたから、風当たり自体はそこまで強くなかったのが幸いでした」

「調整役ご苦労様。キー坊はもっとアーちゃんを労うべきだよ、ホント」

「その分訓練に付き合ってもらったりしましたから」

 

 いくら訓練とはいえ、未だに勝ち星ゼロなのが悔しいけど。これでも剣士としての自負はそこそこあったりするのだ。

 

「攻略組のメンバーともそこそこ打ち解けて、この世界に来て一年が経つ頃にはキー坊も大分落ち着いてきてたしナ。《風林火山》が攻略組に合流したのも大きかった。……その頃にネ、キー坊からギルドに入りたいって相談を受けたことがあるんだヨ。クラインのお兄さんに昔のことを謝って、ようやく踏ん切りがついたんだと思う」

「……びっくりしました。それはソロプレイとギルド所属は両立できるという考えからだったんですか?」

 

 キリト君がギルド所属に消極的だったのは迷宮区に篭りっきりなオーバーワークを自覚して、そんな活動に他人を付き合わせることを躊躇してたことも一因だったはずだ。わたしもギルドの攻略シフトを組む上で、そのあたりのさじ加減には苦慮したものだし。

 

「いやあ、さすがのキー坊も風林火山を足手纏い扱いにはしなかっただろうけどネ。クラインのお兄さんをキー坊は慕ってたし、風林火山も雰囲気の良いギルドだったから、キー坊が入団するのはうってつけだと思っタ。オレっちも賛成したヨ。キー坊に必要だったのは馬鹿をやろうとしたら止めてくれる大人だと思ったから。――ようやく安心できるって、そう思ってたんダ」

 

 はあ、と疲労の篭った重い溜息を零した。

 

「もうちょっとだった。もうちょっとでキー坊は風林火山に入団していたんダ。だってのに、その矢先にラフコフの馬鹿共が暗躍したせいで風林火山から死者が出て、結局、キー坊は一人で殺人者(レッド)を向こうに回す決意なんてしちまった。ギルド入団の話もパアだ」

「攻略組でもまだレッドへの警戒が浅かった頃でした。衝撃は……大きかったですね。カルマ浄化クエストが多数確認されるようになってから犯罪者(オレンジ)の数は増えていきましたけど、PKを生業にするような集団は想像の埒外でしたから」

「考えてみればフィクションでの《デスゲーム》ってのは大抵参加者同士の殺し合いなんだよナ。モンスター相手のMMOって舞台が珍しいだけで、PK集団の出現ってのも別に驚くようなことじゃないのかもネ」

「だからといって納得できる話じゃありませんけど」

 

 まったくダ、と相槌を打つアルゴさんの顔は見間違う余地もなく嫌悪に染まっていた。もっともわたしだって似たようなものなのだけれど。好き好んでPKを起こすとか、本当に何を考えているのかわからない。

 

「昨年のクリスマスイベントで、蘇生アイテムを巡ってキリト君と風林火山、聖竜連合の間で一悶着あったと聞きました。それ自体は尾を引くようなものではなかったようですけど」

「尾を引くどころか、聖竜連合は歯牙にもかけてなかったヨ。奴らにしてみりゃキー坊に決闘で負けることを恥とも思っちゃいなかったみたいでネ。その時期二刀流を使いこなし始めたキー坊はますます強さに磨きがかかってたし、わからんでもないけど。で、百人抜きだの何だのデマが広がってたのも、別段隠す気がなかったからってのが真相っぽい。キー坊と剣を合わせた連中も最終的には面白おかしく酒の肴にしてたみたいだヨ?」

「あ、やっぱりあの噂にアルゴさんはノータッチだったんですか」

「決闘騒ぎはそう珍しいことじゃないしネ。つーかキー坊を聖竜連合に入るよう促してくれるなら、積極的にキー坊の武勇伝にしてくれても構わないって言われた時は目が点になったヨ。あそこの団長さんはホント強かっつーか、団員の生存率向上のためなら手段を選ばないトコがあるよナ」

 

 聖竜連合はそういうところでキリト君と気が合うんだろうなあ。

 

「それだけ頼りがいもあります、なにせ壁部隊(タンク)が一番充実してるギルドですからね。うちは団長が守勢特化で戦力が突出してますから、わたしを筆頭に攻撃部隊(アタッカー)に幾分偏ってますけど」

「その偏りは《神聖剣》で十分カバー可能なんダロ? それにフロアボス戦にはギルド間の対立を持ち込まない不文律があるから、お互いの弱点を補い合えばそれでよしと出来るわけダ」

 

 本当、フロアボス戦で協力し合う体制が固められたことは幸運だった。そのおかげで編成に苦労することもなく余裕を持って当たれる。

 

「ああ、それとね。キー坊がラフコフに突撃したのはクリスマスイベントの直後だよ。風林火山と別れた後、そのまま奴らに殴りこみをかけタ」

「……アルゴさん」

「なにかナ?」

「わたしを不意打ちして楽しいですか?」

「割と」

 

 にんまりと笑うアルゴさんに「そうですか」と力なく返し、深々と項垂れた。アルゴさんにキリト君、それにリズ。どうしてわたしの周りにはこうやってわたしを玩具にしようとする悪い人がたくさんいるのだろう。

 

「キー坊は当初、攻略組を巻き込まずに一人で終わらせようと考えてたみたいでネ。まあオレっちから情報を買ったわけだから一人で、ってのも語弊があるかもしれないけど。何にせよキー坊も見通しが甘かったのだとすぐに思い知らされる羽目になっタ」

「キリト君にしては無謀な戦い方をしたものですね」

「頭に血が昇ってたせいで後先考えずってのもあったけど、やっぱりラフコフの脅威を甘く見積もってたんだろうナ。キー坊も可能なら電光石火でPoHだけを相手どるのが最善だと考えてたみたいだし、状況にもよるけど敵が五人までなら勝ちの目はあると判断してたらしいヨ? ……ま、結果論になっちまうけどただ勝てば良いってわけでもなく、最終的に奴らを牢獄に放り込むキー坊の目的を考えれば失敗は必然だったわけダ」

「対人戦のやりづらさを考えるとそれでも甘い見通しだったと思いますけど。それで、どうなりました?」

 

 ラフコフが健在だったことを考えれば聞くまでもないのだろうけど。

 

「PoHに上を行かれたってサ、五人どころか二十人を超える数で袋叩きにされる寸前だったらしい」

「それは……これ以上ないほどキリト君の敗北、ですね」

「そうなるネ、『戦いは数だ』って常々標榜するキー坊が、逆にPoHの組織力の前に完膚なきまでに叩きのめされたんダ。言い訳の余地もない負けだし、ましてや古傷を抉られるおまけ付きだもん、完全敗北と言って良イ」

「古傷?」

「PKの事。ようやく傷口も塞がってきてたのに、PoHに毒を吐かれて思いっきり抉じ開けられちまったらしい。ったく、レッドの垂れ流す妄言なんざまともに取り合うなっての」

 

 アルゴさんの細い指が紅茶のカップへと伸びていき、ぴんと指で弾く硬質な音がわたしの部屋にどこか切なく響いた。

 

「何を言われても話半分どころか話一割で受け流しておけばよかったんダ。『それがどうした』って開き直って、笑って悪意を跳ね除けるふてぶてしさがあの頃のキー坊になかったのが惜しまれるヨ」

「こういうのはずるい言い方だと承知の上でお聞きします。アルゴさんはキリト君を止めようとは思わなかったのですか? キリト君の無謀さはアルゴさんだってわかっていたはずでしょう?」

「……多分、泣いて縋りでもすればキー坊を思いとどまらせることは出来たんじゃないカ? でも、それをしちまえばキー坊はオレっちも遠ざけて一人でラフコフを追っちまうんじゃないか、って思ったんダ」

 

 それが怖かったのだと自嘲するようにアルゴさんは告げた。そうなるくらいなら釘を刺すだけに留めておいたほうがマシだと。

 

「キー坊がゲームクリアのためにラフコフ排除を決めたのなら、《黒の剣士》としてラフコフと戦うつもりだったのなら、オレっちだってそこまで心配しなかったんだけどナ。そうじゃなかった。ラフコフとの対立も、最初は本当に感情に任せたキー坊の暴走だったんだヨ。もちろん後付なら何とでも理由をつけられるサ、レッド連中の脅威の拡大はそのまま攻略の遅れにつながる、キー坊の描いた戦略にも反する。でも、キー坊が最初に奴等を監獄に送ろうとしたのはそんな理屈によるものじゃない。ただ単に許せなかっただけダ。風林火山に何があったかを知って怒りのままにラフコフを潰そうとしタ」

 

 クールぶっていても一皮剥けば激情家。

 ドライを装っていてもその内実は人情家。

 理屈なんて全部後付けで考えるのがキー坊なんだヨ、とアルゴさんは断じた。アルゴさんがキリト君の傍に大人が必要だと考えたのは、あるいはそれが理由だったのだろうか。

 

「まして意地っ張りで面倒くさい男だからナ、オレっちやサッちゃんに素直にヘルプを出すこともなイ。だからキー坊がやばそうな時は、こっちから気を利かせて抱き枕になりに行ってたわけだけど――」

 

 やっぱりアルゴさんは不意打ちが大好きなのだと思う。

 

「何だか日本語がおかしくなってません?」

「いやいや、間違ってないヨ。キー坊は人に抱き枕にされるより人を抱き枕にするほうを好むし、オレっちも好き勝手されるのって嫌いじゃないからネ。オネーサンこう見えて誘い受けなんだゼ?」

「誘い受け?」

「おや、博識なアーちゃんの辞書にもそういう単語は載ってなかったカ。誘い受けっていうのはネ――」

「いえ、何となく意味は掴めますけど……」

 

 そう? と小首を傾げるアルゴさんへの返しがやや性急になったことを自覚しながら頷く。

 アーちゃんもキー坊の好みを覚えておくといいヨ、などと明け透けに語るアルゴさんのせいだ。その様子からはとても嘘をついているようには見えず、思わず想像力を働かせてしまったおかげで両の頬が火照ってしまっている。

 

 こうなったら好きなように受け取らせてもらおうと開き直ってしまう。男女の関係は複雑怪奇とはよく言うけれど、見えることばかりが全てじゃないということだ。だからそれ以上を妄想するのは禁止。

 必死に平常心を心掛けるわたしを横目に、絶対わざとに違いない澄ました顔でアルゴさんは飄々と続きを口にするのだった。落差が激しい……。

 

「次にキー坊とラフコフの因縁が交わったのはそれから一ヶ月と少し経った頃、第47層《思い出の丘》でのことだった。シィちゃんから聞いてるそうだから細かいことは省くけど、PoH、ザザ、ジョニー・ブラックのラフコフ幹部三人と一触即発の状態だったらしイ」

「キリト君が不利を承知でラフコフと一戦交えようとしたのは、シリカちゃんを『ただの同行者』にしておきたかったからですか?」

「ご明察。逃げるだけなら転移結晶を使えば済む問題だからナ。キー坊がそれをしなかったのは《タイタンズハンド》捕縛に色気を出したってより、ラフコフに自身の弱みを知られることが怖かったんダロ。だから好戦的な《黒の剣士》を演じることで連中を挑発しタ。キー坊としちゃ何も言わずに連中が帰ってくれるのが一番有り難かっただろうネ」

「いざ戦いになったとしても一対三の形に持ち込めればよしとしたあたりがキリト君らしい判断です」

 

 確かにシリカちゃんを省みることなく戦えたなら、キリト君一人でもラフコフ幹部三人衆を相手取れただろう。勝つことは出来ずとも、負けることはない。その自信が撤退ではなく実力の示威を選ばせた。一戦も交えず逃げてしまえばシリカちゃんの身の安全を優先していると看破されかねないから、キリト君は戦うことでその疑いを逸らそうとしたわけだ。

 

「とはいえ、ここでもキー坊の思惑はPoHに通用しなかっタ。しっかり見抜かれて脅しを受けたってサ。キー坊は焦りに気が逸って必要以上にシィちゃんを庇う挙動を取ったせいだろうって言ってたけど、多分それ以前の問題だろうナ。クリスマスの騒動時点で相当キー坊の事情をPoHに知られていたみたいだし、為人もある程度把握されていたと見るべきダ」

 

 嫌になるくらい用意周到だよ、PoHって男は。

 心底辟易とした様子で顔を顰めるアルゴさんに、わたしも異論を挟むことなく首肯することで同意する。キリト君はラフコフ首領を指して病原菌だと評していたけれど、正鵠を射ていると思う。

 人間観察に優れ、巧みに心理を揺らし、プレイヤーをオレンジへと引き擦り込む。やっていることは最低だが、その悪魔のような所業を可能にした力は認めなければならない。

 

「キー坊を相手にするなら全く以って正しい戦略ダ。ガチでキー坊と戦り合うのはリスクと労力に見合わなすぎる。戦わずに制することができるのならそれに越したことはないからナ」

 

 シリカちゃんが《プネウマの花》を取りに行った経緯を思えば、キリト君、ラフコフの双方にとって思い出の丘での邂逅は予期せぬ遭遇戦だったはずだ。計画性も何もない中で彼我の状況を勘案し、即座にキリト君の弱点を探り当てて口先三寸で《黒の剣士》を封殺してみせたのだから、その対応力たるや恐るべしといったところか。

 

「結局ラフコフが退いたことで事なきを得たわけだけど、キー坊にしてみれば負けだろうネ。シィちゃんの安全を脅かされているのは勿論、終始主導権(イニシアチブ)を握られていたんだから。ラフコフへの対応に苦慮したキー坊はその日の夜、オレっちのとこにシィちゃんを預けにきたわけダ」

 

 まあシィちゃんと一通りのデートを楽しんだ後に来たらしいから同情する必要はないゼ、といかにもアルゴさんらしいつなぎ方をした後、不意に表情を険しくした。

 

「シィちゃんが寝入った後オレっちに47層で何があったかを話すキー坊は、もうラフコフ討伐戦の青写真を描いてたみたいダ。下手に手を出せばシィちゃんやサッちゃん、黒猫団を対象に報復される可能性があるから、水面下で準備を進めて一網打尽にしてやるってネ」

「アルゴさんに協力を頼んだってことですよね?」

「可能な限り奴等の情報を集めるよう依頼されタ、渋れば土下座されそうな勢いだったナ」

 

 ったく勘弁しろよナ、と嫌そうに当時を振り返るアルゴさんだった。

 

「ラフコフってのはこれと言った主義も主張もなくPKを繰り返すイカレタ集団だったからネ、キー坊も奴らの出方が予想できなくて随分焦ってたみたいダ。サッちゃんに会いにいくのも大分気を遣ってたしナ」

 

 ホント性質(タチ)の悪い連中ダ、と憮然とした表情で語るアルゴさんにわたしも無言で頷く。クリアへの意思もなく、神出鬼没を旨として活動する殺人集団。対策も窮余を極めた。

 攻略組に被害が出たのは彼らの名が売れる前。攻略組を罠に嵌めて大々的に殺人者(レッド)を名乗って以降は、狙いを中層以下のプレイヤーに絞っていた。今思えば、ラフコフという集まりが旗揚げをする際のインパクトのために攻略組は利用されたと見るべきだ。センセーショナルな演出の仕方はPoHの遣り口に通じる。

 

「実を言えば、シィちゃんを預かるのは気が進まなかったんだヨ。これでオレっちもそこそこ忙しい身の上だったし、キー坊の危惧も『ないとは言えない』ってレベルで、実際にシィちゃんが狙われるかどうかは疑問だったから。わかるだろ? ラフコフにそれ以上シィちゃんの命を狙う理由なんてないんダ。報復の対象としてシィちゃんを狙うって匂わせておけば、キー坊もラフコフに対して強く出れないんだから。むしろそれ以上の手出しはキー坊を激発させかねない。だからキー坊の手足の自由を縛った時点でPoHの目的は達せられてたんじゃないかって思う」

 

 ただ、と溜息を零す。

 

「そいつもあくまで理屈の上では、って話だからナ。頭のネジが狂った連中だけに何をしてくるかわからない怖さがある。キー坊同様、オレっちも奴らが見せしめだとか気まぐれで動く可能性までは否定できなかっタ。その『最悪』が起きた時、キー坊がどうなるかを考えると面倒だから断るってのもできなくてサ。結局、シィちゃんの事をオレっちに任せきりにしないことを条件に受け入れたヨ。幸いだったのはシィちゃんがとっても良い子だったことかナ?」

 

 ふふん、と薄く笑みを浮かべ、どことなく挑発気味な表情を浮かべるアルゴさんだった。

 

「オレっちの見立てだとあの子は良い女になるヨ。あと二年、いや、一年で十分かナ? 今すぐは無理でも、その内アーちゃん達と女として肩を並べられるようになる。いやはや、その時が楽しみだネ」

 

 うかうかしてるとあの子にキー坊を持っていかれるよ、と。

 そんな忠告めいたことを口にして、心底楽しそうに笑うのだから不思議な人だ。今ならアルゴさんが攻略組で変わり者と評判になっているのも納得してしまいそうだった。

 

 同じ曲者でもキリト君や団長からは攻略を主軸にした意思を読み取れる。だからわたしにもある程度追随することが出来た。でも、アルゴさんの行動にはこれと言った《確かなもの》が見えてこない。ゲームクリアに血眼になるわけでもなく、情報屋としての矜持にこだわるわけでもなく、ましてキリト君の隣という立ち位置に固執する素振りも見せないのだから。

 

「キー坊とラフコフの対立も結局のところ激突は不可避だったんじゃないかって思うんダ。人的資源(マンパワーリソース)を最重要視していたキー坊の方針に真っ向から唾を吐いたのがラフコフのやりようだったからネ」

 

 どんな形であれいずれはぶつかったはずだとアルゴさんは言う。同感だ。仮にキリト君が対ラフコフの旗振りをしなくても、どこかで攻略組から討伐隊を組むことになっただろう。そうなった時、おそらく主導するのは《血盟騎士団》か《聖竜連合》だったはずだ。

 そこまで考えた時、実際との乖離に重苦しい溜息が漏れてしまった。キリト君は血盟騎士団(わたし達)を遠ざけ、独自の討伐隊を編成してラフコフとの決戦に挑んでしまった。

 

 もちろんわたしだってプレイヤーを相手にした戦いに進んで参加したいとは思わない。でもその思いは誰もが一緒だったはずだ、そして嫌だからと避けて通れるものでもなかった。もうどうにもならないところまで来ていたのは多くのプレイヤーがキリト君に賛同して討伐隊に参加したことからもわかる。

 

「ラフコフ討伐戦は六月のことでしたから、まだ半年も経っていないんですね。アルゴさんも討伐隊に協力して――」

 

 そこまで口にして、わたしは慌てて口元を抑えた。いくら二人きりだからといっても気が緩みすぎだ、無神経にも程がある。あの戦いは公式ではキリト君以外の参加者の名前は伏せられているのだから。

 もっともわたしが口にしかけた通り、全てを秘匿できたわけでもない。というか攻略組はそんなに大きな集団ではないのだから、討伐隊参加のメンバーだってある程度察することは出来る。吹聴するようなことじゃないから皆が口を噤んでいるだけである。それがせめてもの礼儀であり、心遣いだった。

 

「ごめんなさい、失言でした」

「うんにゃ、構わないヨ。オレっちが担当したのはあくまで事前の情報提供だけで、討伐戦そのものには参加してないわけだし。……ああ、あとはキー坊にATM扱いもされてたかナ」

「万一の保険ですか……」

 

 そういった損な役回りを引き受けてしまうアルゴさんもすごいと思う。

 

「そ。キー坊が死んじまった時に報酬のコルとアイテムを代わりに渡すためサ。つっても、この手の役回りはオレっちだけじゃなく、血盟騎士団にだって割り振られてタロ?」

「受け取ったのはわたしではなく団長でしたけどね。ラフコフ討伐が失敗した時は可能な限り参加メンバーを生きて帰らせるから、その後どうするかは団長の判断に任せる、ということでした。キリト君はリスク分散のつもりだったのでしょうけど」

「『最悪でも《聖騎士》と《閃光》が生きていればゲームクリアの芽は残る』――キー坊の言葉ダヨ。つってもあくまで最悪を想定しただけであって勝算なしだったわけじゃないゾ? 血盟騎士団なしでも勝てる戦いだとキー坊は判断してたんだから」

「わかっています。いくらラフコフが最悪の犯罪者集団でも、一人ひとりの戦力を比べれば攻略組が上です。平均レベルも装備の質だって討伐隊の方が充実していました。人数だってラフコフの倍用意して、単純な戦力比で言えば負けるはずのない戦いだったんです。事実討伐隊は勝利したんですから」

 

 そもそも、と続ける。

 

「敗色濃厚な戦いならキリト君が攻略組を巻き込んでまで強行する理由はありません。その勝算を下敷きにした上で撤退戦の殿をキリト君が部隊を率いて務める。そういう取り決めだったのでしょう?」

 

 元々キリト君が重視するのは勝利ではなく生存だ。50層のフロアボス戦で崩壊寸前まで陥ったぎりぎりの戦線を省みたキリト君が、真っ先に提案したのが撤退の際の取り決めだった。キリト君はフロアボス戦でも敵戦力が圧倒的なら逃げて再起を図るべきだと考えるし、将来的に利になるなら退却を躊躇しない、そういう人だから。

 

「『いよいよとなったら俺と一緒に死んでくれ』だとサ。そう言ってキー坊はクラインのお兄さん達を口説き落としタ。最後まで自分に付き合って殿を受け持ってもらうためにネ」

 

 ……それだけ、とも思えないけれど。

 

「アルゴさん」

「なんだイ?」

 

 緊張が高まり、渇きを覚える喉を否応なく自覚する。ごくりと唾を呑みこむ音がやけに生々しく聞こえた。

 

「キリト君はあの戦いでどこまでを許容――いえ、覚悟していたんですか?」

 

 ゆっくりと吐き出した言葉は嫌気を覚えるほど不吉な響きをしていたと思う。このまま耳を閉ざしたくなるくらい。

 

「……オレっち時々アーちゃんが怖くなるヨ。どうすればそこまで聡くなれるもんだかご教授してほしいくらいダ」

「犠牲を最小限に抑える方法を模索すれば自然と辿り着く答えですから。……アルゴさん、わたしはこの場で口にされたことを誰にも言いません。アルゴさんが望むなら生涯口を閉ざすことも約束します。ですから今だけは筋を曲げていただけませんか?」

 

 お願いします、ともう一度頭を下げる。

 聞いたからとて何も変わらない、知ったからとてこの先何が出来るかもわからない。それでもわたしは知りたいと思う。

 

「世の中には知らなくて良いこともあると思うんダ」

「かもしれません。でも……変わりませんよ。わたしは何も変わったりしません」

 

 わたしの気持ちは変わらないのだと、それだけを繰り返す。

 アルゴさんはそんなわたしをしばらくの間じっと見つめていたけれど、やがて諦めたような吐息を漏らした。

 

「アーちゃんが欲しいのは確認だけみたいだネ。あーあ、これは本格的にキー坊に怒られそうだなぁ」

「説得に難航するようならわたしが誠心誠意謝罪に向かいますよ?」

「おっと、それはさすがにオネーサンが格好悪すぎる。心配には及ばないヨ、駄目ならオネーサンの身体を――」

「二回目はなしですよ?」

「アーちゃんが冷たい……」

 

 天丼芸は基本なのにと寂しそうに口にするアルゴさん。いつのまに情報屋さんから芸人さんに転職したんです?

 

「仕方ない、こっからはおふざけなしでいくカ。アーちゃんはキー坊が対人戦に苦手意識を持ってたのは知ってるよナ?」

「それはキリト君に限った話でもないですよ。問題となるのは他者のHPが可視化されない点です。HPバーはパーティーやギルドを組んで初めて表示されるものですから」

 

 それがパーティーやギルドを組む最大のメリットと言い換えても良い。共に戦うメンバーのHPが見えないことには連携だっておぼつかないのだから死活問題だった。

 

「敵対的なプレイヤー同士の戦闘ではお互いのHPを視認することができません。このルールがあるからこそ、わたし達攻略組は安易にラフコフとの決戦に臨むことが出来なかった。安全保障という意味では悪くない仕様だと思いますけど、対人戦闘を考えるとあからさまな枷ですね」

「全力全開で人殺しに励めとかいくらなんでも無茶ってもんだよナ、オレっち達は単なるゲーマーであって戦争中の軍人じゃないんだゼ? もっとも、あいつらはそういう攻略組の事情を見越して動きを大胆にしてやがったけど」

 

 ルールを熟知した殺人者とかタチ悪イ、と嫌そうに零すアルゴさんにわたしも頷くことで同意した。

 殺人集団を相手に手加減を余儀なくされる。それこそがわたし達が二の足を踏んできた最大の理由だ。レベルや装備だけでは語れない、絶対的な意識の隔たりがわたし達とラフコフの間にはある。

 

「HPバーが見えない以上、殺さずに制す戦い方ってのは余程実力差がないと無理ダ。対処としては相手のレベルや装備と自分の攻撃力を勘案して常に与ダメージを予測しながら戦うしかなイ。とはいえ防具は防具で外見をある程度カスタマイズできるし、ダメージ計算ってもランダム性があるんだから気休めにしかならないしナ」

「ええ、だからこそPKの可能性に及び腰になっていました。ラフコフを排除すべきだと考えても思い切った手を取れなかった。それでもラフコフを止めないわけにはいかなくなりました」

「犠牲者の数がでかくなりすぎたからネ。奴らが直接手をかけた数だけで百を超えるとされてるんダ、間接的なPKを含めたら一体どうなっちまうんだカ」

 

 異常だとアルゴさんは断言した。わたしも声を大にして言いたい、あなた方はそこまでしてこの世界で朽ち果てたいのか、と。攻略に参加してくれとまでは望まない。でも、せめてわたし達の邪魔をしないでと何度思ったことか。

 

「討伐隊に参加した連中だって口を噤んでるんだから、こっから先の口外は避けてくれヨ?」

「もちろんです」

「……キー坊の立案したラフコフ戦の基本戦術は麻痺毒を駆使した監獄送りダ。理想的な達成目標としては敵味方双方が死者ゼロで戦闘が終わること。まあそいつはあくまで最善の終わらせ方であって、《事故》が起きる可能性は討伐隊の全員が覚悟していたけどナ」

 

 討伐隊が比較的すんなり組めたのは麻痺戦術の採用が大きかったのだろう。それだけで心理的なハードルはかなり下がっただろうから。

 

「もしも麻痺戦術が覆された場合は早々に撤退することも決められてタ。で、キー坊にとって一番の不確定要素がPoHだったわけダ。他の連中の戦力分析はある程度出来てたけど、PoHだけはキー坊も読みきれなかったからナ。なにせ判断材料が『PoHは凄腕』って感じの噂話程度しかなかったから」

「その強さはユニークスキル使いに迫るんじゃないかって評判までありましたからね」

「実際に剣を合わせたキー坊の感触だと、PoHの強さはアーちゃんに伍するって話だヨ。おっそろしい腕前だよナ」

「気を遣ってもらわなくて良いですよ。わたしが直接PoHと剣を交えればおそらく敗北で終わります。わたしでは最後の一線で攻め切れないでしょうから」

 

 それこそが殺人者(レッド)とわたし達の間に横たわる何よりの差だ。

 わたしはPoHよりもレベルは上だろう、技量も引けを取らない自信がある。決闘に限れば初撃、半減、どちらのルールでも勝てると思う。でも、本気の殺し合いになれば分が悪い。――それを恥だとは思わないけれど。

 

「ラフコフの司令塔はPoHだからキー坊も早々に頭を潰そうと仕掛けたらしいんだけど、麻痺剣はすぐに使いものにならなくなって、そっからは機を伺っての攻防になったらしい。後はお互いの《武器破壊》を切っ掛けにPoHが退いて終わり、って流れだったみたいダ」

 

 これはキー坊が後々教えてくれたことだけど、と前置きをして。

 

「PoHの力が想定以上だったことを知って、PK已む無しとキー坊が舵を踏み切ろうとした矢先のことだったらしいヨ、PoHが逃げたの。まさに『機を見るに敏』って言葉そのままの見事な引き際だったってサ」

「司令官が逃亡すれば残ったメンバーも総崩れになりそうなものですけど?」

「残念ながらそうはならなかった。ラフコフのメンバーにどんな結びつきがあったのかは知らないけど、単純な忠誠心とも違ったみたいだネ。PoHがいなくなった後は完全に乱戦模様になったそうだヨ。死兵ってのが一番近い表現かもしれない、再三繰り返した投降の呼びかけもどんな脅しの言葉も奴らには通じなかったそうだから」

 

 凄惨極まりない戦場だ。同じ人間なのにまるで理解できない敵、生きて監獄送りにされるよりも最後まで戦うこと――誰かを殺すことに拘ったレッドプレイヤー。

 何が彼らをそこまで駆り立てたのだろう。何が彼らをそこまで歪ませたのだろう。皆、現実世界では犯罪なんて犯さず普通に暮らしていた人達だっただろうに……。

 

「キー坊はどこまでを許容したのかと聞いたネ、アーちゃん」

「ええ。麻痺戦術が通用しなかった時、キリト君はどうするつもりだったのか。そして、もしも撤退を成功させて生き残った後、キリト君が何をするつもりだったのか。アルゴさんなら知っていますよね?」

「その決め付けはどうかと思うんダ」

 

 まあ知ってるけどサ、と渋々告げられる。それを羨ましいとは思わなかった。知らずにいたほうが良いこともある、それは何もわたしだけに向けた忠告ではないだろう。

 ふぅ、と気を落ち着けるようにアルゴさんは一息ついてから、感情を廃した声をぽつりと零した。

 

「――ラフコフの皆殺し。キー坊はそこまで考えてたヨ」

 

 瞼を閉じ、その表情に何の色も乗せず、淡々と。どこまでも無表情に感情を一切見せないそれはアルゴさんらしからぬ態度であり、だからこそ冗談などではないのだと知れる。

 

「作戦の根幹はラフコフメンバーを殺さずに制すること、その前提が覆った時は速やかに撤退。殿はキー坊と風林火山、それからエギルの旦那以下数名。当然だけどそこは死地ダ、死亡率は跳ね上がる。撤退を成功裏に収めるため、そしてクラインのお兄さん達を死なせずに帰すために残された手は多くないよナ」

「……出来るでしょうか?」

「時間とサポートさえあればやってやれない事はないってのがキー坊の言い分。ただし目的はあくまで撤退ダ。ラフコフを全滅させるより先に逃げ出せるだろうから、どのみち皆殺しなんて事態にはならなかったろうけどネ」

「いえ、そうではなく……キリト君がそれだけのPKを繰り返せるのか、ということです」

 

 望まぬPKをずっと気に病んできたキリト君が、そこまで思い切れるものだろうか?

 

「……さあ、どうだろうね。戦場の中でなら、それしか手がないのなら、キー坊は踏み切る。オレっちはそう思ってる。勿論後で死ぬほど後悔するだろうけど」

「事前の作戦通りに戦いが推移したことが不幸中の幸いですね。手放しで喜べる話ではありませんけど、最悪の事態にならなかっただけマシです」

「それでもキー坊は思いつめてたヨ。どうせ殺すことになるのなら、最初から諦めておけば味方から戦死者が出ることもなかったって」

「結果論……とも言いきれませんか」

「可能性はあったからネ」

 

 人を救うために人を殺す――その、冷たい方程式。

 

「確かにキー坊がそこまで思い切れれば、あの戦いで攻略組から犠牲者が出ることもなかったのかもしれない。その代わり、ラフコフから何十人って数の死者が出ただろうけどネ。さて、アーちゃんはどっちが良かったと思う? キー坊は……どうするべきだったと思う?」

「……わたしにはわかりません」

「そうだね、オレっちにもわからないヨ。きっとその問いは答えちゃいけない問いなのサ」

 

 意地の悪い質問をして悪かっタ、と物憂げな仕草で紅茶を口に含むアルゴさんにわたしは何も返さなかった。アルゴさんも特に返答を期待していたわけではないだろう。

 

「キー坊が嘆いていた事は、結局『たら』『れば』の話でしかなイ。PK前提で戦うことなんて討伐隊参加者が許すはずもなかったし、クラインのお兄さんやエギルの旦那がキー坊を止めたはずダ」

「それでもキリト君はその後を想定していたんですよね。討伐が失敗して、本当の意味でラフコフとの間に殺し合いしか残らなかった時、キリト君が思い描いた最後の手段は……暗殺、ですか?」

「……アーちゃんはホント聡いねぇ。正解。攻略に費やす時間を犠牲にしてひたすらラフコフを付け狙う。機を見て一人ひとり『処理』して回る。その方策が監獄送りになるかPKになるかは神のみぞ知るってとこかナ」

 

 マジで討伐が成功してよかったと思うヨ、と心底安堵した様子だった。想像通りとはいえ、いや、想像通りだったからこそ、ありえたかもしれない未来が訪れなかった今を思い、わたしもアルゴさん同様にほっと胸を撫で下ろしていた。

 

「嫌になるヨ。殺すだの死ぬだの、そんな物騒な単語を日常で使うようになってるのを考えると憂鬱にもなる。この世界で暮らしてると、少しずつおかしくなっていくのがわかる。生きるために必要だったと言えば聞こえは良いけど、やっぱりおかしな話なんだよナ。キー坊はそのあたりずっと割り切れずに苦しんでたし、あれはあれで悩みすぎではあったけど……それで良いんだと思ってる」

「アルゴさん……」

「この世界と現実は違う、そんなことはわかってるヨ。倫理も道徳も、そんなものは安全が保障されて初めて口に出来るもんだしナ。でも、それでもってどこかで思っちまうんダ。1層のPKは嫌悪と共に迎え入れられたけど、75層のPKはそうじゃなかったダロ? 皆、『仕方ない』って割り切っちゃってるんだヨ。……リハビリには時間がかかりそうだよナ、オレっち達」

「……そうですね」

 

 身体ばかりでなく、精神のリハビリも必須なのだと思い知らされる。心のケアのために生み出された一人の少女の面影が頭に過ぎらずにはいられなかった。

 

「まあ帰ってからの面倒は帰ってから考えることにしよう、想像するだけで嫌になってくるからナ。愚痴につき合わせてごめんヨ、アーちゃん」

「いえ、身につまされるお話でした。わたしも気をつけます」

 

 現実世界と様々な意味で乖離しつつある今と、それでも戦い続ける自分をきっちり認識しておこう。この先己を見失ったりしないように。

 

「話を戻すけど、ラフコフ討伐戦そのものが終わっても、それで万々歳ってわけにはいかなくてネ。ああ、PoHの行方とは別問題ダヨ? 有体に言えば後始末が残ってたわけサ。物事は始めるよりも終わらせるほうが厄介とは良く聞くけど、キー坊の直面した問題も似たようなものだったんだろうネ」

「報酬に文句をつけたプレイヤーはいなかったと聞いてますけど?」

「その通り、誰からも文句は出なかった。――キー坊は死者の遺言もきくことにしてたから、文句も言いづらかったと思うヨ」

 

 そう言ってアルゴさんはふっと寂しげな笑みを覗かせた。

 

「遺言というよりは万一の備え、遺族年金の約束みたいなものかナ? キー坊は戦いに先立って、討伐隊参加メンバー全員に本人が受け取れなくなっちまった場合の受け取り先を指定させてたんダ。もしも武運拙く屍を晒すことになった時は、せめてもの報い方をさせてくれって言ってネ」

 

 亡くなったプレイヤーが本来受け取るはずだった報酬に上乗せし、代理人に贈ることになっていたのだと。

 

「それは……キリト君もつらかったでしょうね」

「気の滅入る話だヨ。まあ間柄としては親友か、恋人あたりだよナ。事情が事情だから大切なプレイヤーを指定するのが普通ダ。キー坊は一人ひとり指定されたプレイヤーを訪ねて頭を下げて回っタ。『どうして死んだのか』『何のために戦ったのか』を逐一説明して、本人に渡すはずだったコルやアイテムを代わりに受け取ってもらったんダ。ったく、後味の悪さばかりが残る戦いだったヨ」

 

 あるいはその後味の悪さを想像できたからこそ、誰もラフコフ討伐の音頭を取ろうとしなかったのかもしれない。

 

「討伐隊を組織したけじめのつもりだったのかもネ、キー坊はその仕事だけは誰にも手伝わさせずに全部一人で済ませタ。ただ――」

「ただ?」

「『何も言われないことがあんなにつらいとは思わなかった』って珍しく弱音を零してたナ。訪ねた先でどいつもこいつも泣きそうな顔をして、だってのにキー坊に恨み言一つ零さなかったらしいし、気丈な声で討伐成功の祝いと礼まで言われたそうダ。それがキー坊にとっては何よりもつらかったんだとサ。もしかしたら残された奴らも極秘だったはずの討伐作戦を事前に聞かされていたのかもしれないけど……ま、今となってはどうでもいい話カ」

「……溜息しか出ないっていうんでしょうか、こういうのは」

 

 人間同士で戦うってのはそういうことなんだろう、とアルゴさんの諦めたような声が虚空に空しく消えていく。

 

「オレっち達はラフコフの馬鹿共に精々ざまあみろとでも思っておけばいいのサ。あんな連中、同情する価値もない。……そのずるさが、正しくはなくてもオレっち達には必要なことだと思うんダ」

 

 それはわたしを諭しているようでもあり、アルゴさん自身に言い聞かせているようでもあった。そんなアルゴさんにわたしは微かな目礼で感謝と了解を伝えていた。

 

「あんましリアル事情は探るものじゃないけど……どうもキー坊の家庭環境は複雑っぽくてサ。PKをあれほど思い悩んでたのも、ご家族に顔向けできなくなるようなことを厭った、というか帰る場所がなくなるようで嫌だったんじゃないかナ? そんなだから、アーちゃんにも同じ苦しみを抱えてほしくなかったんだと思うヨ」

「わたしも、キリト君の配慮を受け入れるべきだとは思うんですけど、ね」

「アーちゃんは驚いてないネ。キー坊が血盟騎士団を攻略に専念させようとしてた根っこの理由にも察しがついてたってことかナ?」

「確証はありませんでしたよ? ただ、対犯罪者の絵図は効率を重視するキリト君らしからぬ不合理さが目立ってましたから」

「そっか。……木を隠すなら森の中、アーちゃんを遠ざけるなら血盟騎士団ごとってあたりがキー坊らしい発想だったよナ」

「ええ」

 

 わたしを心配してくれたことが嬉しい反面、わたしを巻き込むまいとするキリト君の遣り方に複雑な思いを持った。それがキリト君の望みならわたしはせめて攻略に力一杯邁進しよう、そう決めてもいたのだ。

 だというのに、その攻略ですらわたしを頼ってくれないキリト君にやきもきさせられ、その挙句にソロでフロアボス攻略なんてことをやらかしてくれた時には、それまでずっと我慢していた諸々の感情が爆発してしまったりもしたのだけれど。

 

「とはいえ、あの戦いに女子供を参加させたくなかったのはキー坊だけじゃなく、討伐隊の総意でもあったから納得してあげてヨ。討伐隊が比較的年長のプレイヤーで構成されてたのは偶然じゃないんダ」

「納得せざるをえない、っていうのが正直な心境です」

「男共のなけなしの意地を汲み取ってあげるのも女の度量ってネ。思うところはあるだろうけど知らんぷりしてあげるのも優しさだゼ」

「わかってます。もう全部終わったことですから」

 

 あの当時、言いたかったこともある。ぶつけたかった不満もある。でもそれは全部呑みこむべきだと思ったから、わたしはキリト君に何も言わなかった。……顔には出ていたかもしれないけど。

 それはこれからも変わらない。今日知ったことも、確かめたかったことも、全てはこの場だけの秘事だ。

 

「キー坊もそれくらい融通きけばよかったんだけどナ。頑固者っつうか自虐的というか、妙に不器用な生き方しか出来ないんだから。攻略に加えてラフコフ戦の後始末、並行してPoHの追跡なんてやってたら早晩潰れるに決まってるじゃないカ。少しは心配するほうの身になれってんダ、あの馬鹿」

 

 腹立たしげに悪態をついたアルゴさんは、けれどすぐに相好を崩して表情を和やかなものへと変えた。その思いがけぬ変化に内心戸惑っていると、穏やかな声音でわたしの良く知る名前を出した。

 

「ねえアーちゃん、リッちゃんはすごいネ」

 

 その一言に込められた想いの全てを汲み取れたとは思わないけれど、でも、今のアルゴさんの気持ちの幾らかはわかる気がした。きっとわたしがリズに抱いている気持ちと同質のものだろうから。

 

「ええ、リズはわたしの自慢の親友ですから。……アルゴさんはキリト君とリズに何があったかを聞いているんですか?」

 

 胸を張って誇らしく答えてから、ふと小首を傾げて問いかけた。アルゴさんとリズはあまり多くの面識を持っていなかったはずだし、キリト君から聞いていたんだろうか?

 

「いいや、知らなイ。キー坊も攻略に関わることならいざ知らず、他人のプライベートを易々と漏らしたりしないから。ただ、何があったかはわからなくても、何かがあったことはすぐにわかった。キー坊の顔つきが変わったのがその頃だったからナ」

 

 わかるだろ? と問われ、言葉少なに頷く。アルゴさんはサッちゃんやシィちゃんも気づいてたみたいだヨ、と笑い――。

 まただ、と再三の疑問が浮かび上がる。この人はまたわたしに、あるいはわたし達に慈しみに溢れた表情を向けていた。何故という疑問を解消しようと思考に沈みかけるも、緩やかに首を振ることで意識の矛先を元に戻す。

 

「アーちゃんがリッちゃんをキー坊に紹介してくれた時はほっとしたんダ、キー坊にとって良い息抜きになるだろうって思ってサ。もっとも後でクエスト内容を調べた時はそのやばさに顔が引き攣ったけどナ」

 

 ピンポイントでキー坊のトラウマを抉ってるんだよ、あのクエスト。

 頭痛をこらえるようにアルゴさんが溜息をつく。

 

「元々ラフコフ戦の後遺症が残ってたところに、狭っ苦しい閉所に閉じ込められる罠。加えて結晶無効化空間のコンボをくらっちゃナ。サッちゃんたち月夜の黒猫団を窮地に追いやった記憶がどうしても刺激されずにはいられなかっただろうし、いつモンスターが召喚されるか、そうなった時どうやってリッちゃんを無事に守りきるかってかなりストレスを溜め込んでたろうサ。心労とトラウマのダブルパンチで相当ネガティブってたんじゃないカ?」

「密閉空間はただでさえ神経を削りますからね。迷宮区の広さがあっても圧迫感は消えませんから、キリト君とリズの捕まった脱出不能の小さな穴倉とか正直考えるのも嫌です」

 

 クエストの詳細が明らかになっている今ならともかく、二人が囚われた時は碌にノウハウもなかったのだから随分と焦燥も募ったことだろう。

 

「何度かリッちゃんと言葉を交わしたことがあるけど、あの子は人との距離感を掴むのがすごく上手い。人間関係の潤滑油的役割を無理なくこなす、どんな集団でも重宝されるタイプだ。もしかしたらキー坊に一番足りてないものを持ってるのがリッちゃんかもしれないネ」

「わかります。わたしもリズと一緒にいると安心できますから」

「『コミュニケーションの基本は相手の使う言葉を話してあげること』らしいけど、リッちゃんは自然体でそれをしてる感じだよナ。キー坊の背中を無理なく押してあげることが出来たのもそういう人柄あってのことかもネ」

 

 ホントすごいヨ、ともう一度アルゴさんは繰り返した。

 

「ずっと過去(きのう)を見てきたキー坊の目を、リッちゃんはわずかな時間で未来(あした)に向けさせタ。オレっちはそいつに手を出そうとも考えなかったから、結構リッちゃんが眩しかったヨ」

「でもアルゴさん、それは――」

「死ななきゃいい、って思ってたんダ」

 

 わたしの言葉を意図して遮るようなタイミングでアルゴさんは口を開き、そのまま続けた。

 

「キー坊はそりゃ色々抱え込んではいたけどサ。そんなのは現実世界に帰りさえすれば、そのうち日常に埋もれてゆっくり忘れていくことが出来る。だからこっちの世界で無理に解決させる必要はなイ、そう思ってた」

 

 ほろ苦さとやるせなさを混ぜ合わせたような切ない表情を目の当たりにして、わたしの胸に走った痛みに息がつまる。思いがけないものを見たとは思わない。この人はきっと、こういった顔をキリト君には決して見せずに生きてきた。

 

「オレっちが思うに、キー坊を危うくさせてたのは『自分は幸せになってはいけない人間だ』っていう思い込みだヨ。いや、強迫観念に近いものかナ? ずっと抱えてきた自責の念がキー坊を他人よりも一段低い位置に置かせるから、自分以外の誰かのために簡単に命を投げ出せちまうのサ。心の病みたいなもんだよ、あれは」

「そういうのは理屈じゃないって言いますもんね」

「結局、キー坊が自分の心とどう折り合いをつけるかの問題だからナ。……キー坊はサ、今までたくさんの嘘をついてきたし、打算も巡らせてきたヨ。《黒の剣士》を演じて多くのプレイヤーを攻略に駆り立て、時に人の命をその手にかけたことすらあった。それでもこの世界を終わらせるために選んだキー坊の生き方は、あいつ自身の未来を諦めるほど卑下するものじゃないと思うんダ」

 

 それは寂しすぎるヨ、とアルゴさんは言う。

 

「ほーんと、見識不足だよナ。キー坊はきれいな水でしか花は咲かないとでも思ってんのかネ。まったく、自分自身のことは見ようとしない男だヨ。世の中には汚泥の底からだって綺麗な花弁をつける花があるってのに」

「《泥に咲く蓮の花》ですね。泥の中で育ち、けれど泥に染まることなく咲き誇る清浄の象徴――キリト君の選んだ生き方、ですか」

 

 わたしの眼差しを正面から受け止め、小さく頷いて見せた後、アルゴさんはどこか遠い場所を見るような茫洋とした眼差しを浮かべた。

 

「生きるってのは幸福を求めるってことダ。なのにキー坊はずっと生きることを放棄してきた。だから……いつかキー坊が自分を赦してやれるようになるまでは、オレっちがあいつの逃げ場所になってやろう、そう思ったのサ」

 

 ――アルゴオネーサンも案外可愛いことを考えるダロ?

 

 くすっと口元を綻ばせ、穏やかに言の葉を紡ぐアルゴさんはとても優しい目をしていた。

 

「だから今のキー坊は安心して見てられるよ。ちゃんと生きようとしてる。――ちゃんと、幸せを求めてる。ようやく真っ当な生き方をするようになったんダ」

「そうですね、わたしもそう思います」

 

 この手に重ねたキリト君の温もりを覚えている。あの人はもう握りこぶしを開くことを忘れない。

 

「75層攻略の後にあいつホームを作ったろ? もちろんユイユイのためでもあったんだろうけど、キー坊自身疲れを自覚してたから静養を選んだんだって思ってる。昔のキー坊なら無理を押してるとこだしナ。元々キー坊はちょっとずれてるとこがあるし、今でも危なっかしいところは残ってるけど……ま、力になってあげなよアーちゃん。あれは支え甲斐のある男だろう?」

「もちろんです、と答えたところで改めて疑問に思うわけですが……」

「ん? なにかナ?」

「アルゴさんはキリト君と結婚しようとは思わないのですか?」

 

 割と本気で疑問符を覚えたわたしである。結婚とまではいかなくても、キリト君とアルゴさんの関係はそこらの恋人顔負けのものだと思うし、わたし自身それをずっと感じていたから遠慮してきた。

 アルゴさんが口にしたことを嘘だとは思わない。しかしながら額面通りに受け取るにはキリト君とアルゴさんは深く結びつきすぎているように思う。むぅ、わざわざ掘り返すのも悪趣味かな?

 

「あー、どうだろ。オレっち結構今の関係で満足しちゃってるしなあ。キー坊にもオネーサンに飽きたらさっさと好きな子捕まえに行くよう言ってあるし」

「半分聞き流してお尋ねしますけど、それってやっぱりキリト君に遠慮してるんですか?」

「遠慮? オレっちが?」

 

 きょとんと不思議そうに目を丸くするアルゴさんにしばし迷うものの、意を決して言葉をつないでしまう。

 

「半年以上前のことですけど、キリト君が『結婚する気はない』って零してたことがあったので少し気になったんです。アルゴさんが確かな関係を求めなかったのは、キリト君に気を遣ってたからなのかな、って」

 

 わたしがキリト君からその台詞を聞いたのは四月初頭のことだった。ギルド《黄金林檎》にまつわる過去の事件を追う中、キリト君に尋ねて返ってきた答え。その時わたしは、『この人はまだ自分を責めて苦しんでいるんだ』と胸を締め付けられるようだった。

 

「にゃハハハ!」

 

 そんな切ない想いを抱えて追想に耽っていたわたしだったが、さすがにこのアルゴさんの返事は予想外だ。思いがけない反応にわたしの目が点になってしまう。え、だってこの場面で普通爆笑が返ってくるとは思わないよね?

 

「いや、ごめんごめん、別にアーちゃんを馬鹿にしたわけじゃないんだヨ。にしても、キー坊はそんなアホなことを言ってたのカ」

 

 まだ笑いの波が収まらないのか、目尻にたまった涙を振り払いながら苦しそうにお腹を押さえているアルゴさんに、わたしはどう声をかけるべきか悩むことになる。ほんと読めない人だ。

 

「ご存知ではなかったんですか?」

「ご存知も何も、キー坊とその手の事は碌に話したことがないからネ。そんな愉快な決意を知るはずもなイ」

 

 けらけらと一頻り笑い飛ばした後、「アーちゃんはこの世界の結婚システムをどう思う?」と不意に質問を投げかけられる。世間話ついでのように軽い調子で訊ねられたせいか、何だか少し前の感傷に浸っていたわたしのほうが場にそぐわない態度をしていたんじゃないかとすら思えてきた。

 

「わたしはとてもプラグマチックで、ロマンチックなシステムだと思いますよ」

「実際的で情緒的カ、アーちゃんらしい答えダ」

「MMOではドロップアイテムの横領や着服も珍しくないと聞きますけど、結婚すると何も隠せなくなっちゃいますから。結婚しようとする者の覚悟を問う合理性と、思いの深さを確かめ、受け入れる証。その両方をストレージ共有化は持っていると思うんです」

「その試練を乗り越えた者にこそ祝福は訪れる、って理解でいいかナ?」

 

 こくりと頷く。アルゴさんはそんなわたしに向かって悪戯を仕掛ける直前のような雰囲気を纏うと、厳かに「アーちゃん」と呼びかけ――。

 

「オネーサンは茅場の作った結婚システムが気に食わなイ」

 

 これ以上となく満面の笑みを浮かべて断じて見せたのだった。

 

「オレっち天邪鬼だからネ、これみよがしに『こうすれば幸せになれますよ』ってのが用意されてると胡散臭く感じるのサ。ついでに言えば茅場晶彦の用意したレールに乗っかるのも嫌ダ」

「あ、あはは……。辛辣ですね、アルゴさん」

「所詮は戯言でしかないけどナ。システムなんざ運用する側の心持ち次第なんだから」

 

 アルゴさんは本当、人を煙に巻くのが上手いなあ。自然な会話の流れの中で巧みに焦点をぼかし、ずらし、変化させてしまう。そういう強かな一面があってこそ情報屋という難しい役目をこなせるのだろう。

 ようやく、なのかな? やっとアルゴさんの真意が見えてきた。もちろんその全てを察することが出来たわけではないし、まだまだ隠し事もありそうだけど、その一端は掴めたと思う。

 

「アルゴさん、わたしに嘘をつきましたね?」

「あれ? オレっち何か変なこと言ったかナ?」

「大したことじゃありません。ただ、アルゴさんが口にした情報提供を決めた理由――恋する乙女の味方っていうのはひどい嘘っぱちだと思っただけです」

 

 別に弾劾する気も、責める気もない。それはわたしの呆れ声に表れているし、アルゴさんだって百も承知のことだろう。もっともわたしが本気で怒ってもこの人は柳に風といなしてしまいそうだけど。

 

「アルゴさんは恋する乙女の味方なんかじゃなくて、徹頭徹尾キリト君の味方なだけじゃないですか。最前線ではわたしがキリト君に一番近い、だからここまで好意的に便宜を図ってくれるのでしょう? わたしのためじゃなく、キリト君のために」

 

 難しく考えることなんてない。アルゴさんにとってはわたしよりキリト君のほうが大事だという、ただそれだけのことだ。複雑な思惑とか、裏の意図を警戒して探るだけ無駄。だってこの人、キリト君が大好きなだけだもの。

 わたしの指摘を受けてもアルゴさんに慌てた様子はなかった。でも、一瞬だけ見せた《女》を伺わせる嫣然とした笑みが印象的で、ぞくりと背筋に寒気が走る。わずかに感じ取れた彼女の情念に心臓が鷲掴みにされるような錯覚さえ覚えた。

 もっともそれは本当に一瞬のことで、今見たものが夢幻であったかのように、気がつけばいつものアルゴさんがそこに座っている。

 

「アーちゃん」

「なんでしょう」

「オネーサン、これでも神秘的な女(ミステリアスレディ)を自称しててネ。これ以上は勘弁してほしいナ」

「わかりました。でも、少しくらい意地悪させてくれても良いと思いません?」

「ちぇっ、アーちゃんにそれをする権利があることは否定しないけどサ」

 

 不貞腐れたように唇を尖らせるアルゴさんがとても可愛らしかったことは内緒にしておこう。

 

「アーちゃんは鋭すぎるのが玉に瑕だヨ。男は(さか)しらな女より可愛い女を好むもんだゼ? アーちゃんはもうちょっとお馬鹿になっても良いと思うんダ」

「それ、キリト君に当て嵌まります?」

「もちろん。あいつ結構古臭い価値観持ってるから、『守ってあげたくなる女の子』とかポイント高いと思うゾ? 具体的にはサッちゃんみたいな子」

「アルゴさんみたいな女性はどうです?」

「オレっち? ないなイ、異性としてならアーちゃんやサッちゃんのほうがキー坊の好みだヨ」

 

 至極真面目な顔で興味深い分析を口にする傍ら、何故かわたしをじっと見つめてきた。アルゴさんの視線が上下し、感心したように頷く。何だか不穏な気配を感じた。

 

「ふーむ、アーちゃんなら《昼は淑女、夜は娼婦》を地で行けそうダ。……アーちゃんはエロいネ」

「人の身体を上から下まで眺めてしみじみ頷かないでください」

 

 それは女同士でもセクハラです。

 軽く見咎めたわたしに向かって「ごめんごめん」とぞんざいに謝ると、アルゴさんはおもむろに背もたれへと身体を深く預けると目を細めて笑った。

 

「ぶっちゃけ戦闘面でオレっちがキー坊を心配する必要なんてないんだけどナ。最前線のことはアーちゃんのほうが良く知ってるだろうけど、あれで引き際は心得てる奴だから」

「でも強すぎるっていうのも困りものなんですよ、突出が過ぎると連携が難しくなります。わたしとしてはどうやってキリト君の動きについていくかが最近の悩みですね。ちっとも差が埋まりません」

 

 75層のフロアボス戦で何かコツを掴んだらしく、最近のキリト君はますます神懸かってきた。わたしも何か考えないと本気でキリト君に置いていかれてしまいそうだ。

 そんな風に憂鬱な気分で吐息を漏らしたわたしを一頻り眺め、アルゴさんはにやりと唇を吊り上げた。

 

「キー坊はアーちゃんを何かにつけて天才だって褒めそやかしていたゾ?」

「なんです、それ?」

「アインクラッドには魔法や銃のような遠距離攻撃がない、つまり戦場で主導権を握るために重要なのは機動力ってことになる。キー坊曰く、この世界での強さは《戦闘の中でいかにステータス数値を限界まで引き出すか》《その現実離れした力と速さに自分の感覚をどこまで追いつかせることが出来るか》の二つで決まるらしいヨ。キー坊が《使える》剣士かどうかを見極める最重要ポイントだそうだ。アーちゃんはその才能が飛び抜けてるんだってサ」

「ああ、そういうことですか。仮想世界で発揮できる力は現実世界のものとは比べ物になりませんからね。その認識の誤差を埋めて、なおかつ高速機動を長時間維持し続ける集中力と判断力がトッププレイヤーには必須です」

 

 例えば同じ筋力値、敏捷値で百メートル競走をさせてもほとんど差は出ないけど、その感覚を維持したまま障害物競走をしろとなると話は別になる。まして戦闘機動は何人もの人間が入り乱れ、その一人ひとりが目にも止まらぬ速さで動く。目まぐるしく変化し続ける戦場を制すには相応の能力が求められるものだ。

 

「キー坊はそれを《認識を広げる》才能って呼んでたナ。そいつを元にある程度他人の適性を見極められるんだとサ。スポーツと一緒で長時間仮想世界で生活してると自然と磨かれていく感覚らしいけど、向き不向きはやっぱりあるらしいネ。例えばアーちゃんはその才能がずば抜けてて、レベルが上がってもすぐにステータス限界近くまで動きを最適化できる。逆にサッちゃんはこの段階でつまずくから、高レベルでの高速戦闘はまず無理だろう、っていうのがキー坊の見立て。参考までにシィちゃんの適正はアーちゃんに追随するレベルで、オレっちやリッちゃんよりずっと上だとサ。キー坊も遠慮なく言ってくれるゼ」

「キリト君、戦闘に関してはシビアで妥協しない人ですから。……それにしてもわたしが天才、ですか。わたしとしてはキリト君のほうが相応しく思えますけど、アルゴさんはどう見ます?」

 

 仮想世界に適応する《認識力》と、瞬時の判断で最善を選び続ける《総合力》。

 その二点において《閃光》の域を容易に凌ぐ傑物を、わたしは二人知っている。――《聖騎士》ヒースクリフと《黒の剣士》キリト。

 

「オレっち? そうだなあ、オレっちはキー坊の強さってレベルとかスキル以前に、突き詰めた合理性にあると思ってる。ゲーム世界ならではの戦い方とでもいうのかナ。この世界ではいくらモンスターから攻撃されても、それはHPを減らし、不快感として残るだけダロ? HPが満タンだろうが残り1ポイントだろうが変わらず全力で動けるから、理屈の上では常に最高のパフォーマンスを発揮できる下地があるわけダ」

「でも、それは理屈でしかないですよね。確かに痛みが身体を縛ることはありませんけど、死ぬかもしれない恐怖が心を縛ります。攻略組のプレイヤーですら注意域に踏み込めば臆しますし、危険域に陥れば逃げ腰にだってなります。いえ、命が数値化されているからこそ、余計に過敏にならざるをえません」

「アーちゃんも?」

 

 意地の悪そうな顔で問いかけてくるアルゴさんに思わず苦笑が浮かんでしまった。

 

「当然です。わたし達は生きて帰るために戦ってるんですから」

「そう、それが当たり前ダ。だからこそキー坊は異常で、その分だけ強いんだヨ。ぎりぎりまで最高のパフォーマンスを維持できるから他の連中より頭一つ抜けた活躍が出来る。自分の受けるダメージに頓着せず、HPがゼロになる前に敵を倒せれば良いとしか考えなイ」

 

 注意域(イエローゾーン)にHPを落としても、 危険域(レッドゾ-ン)に追い込まれようとも、怯むことなく一歩を踏み出せる。HPの多寡によって判断力が鈍らない。確かにそれは大きなアドバンテージになるだろう。

 

「そんな他人から見れば捨て身としか思えないキー坊の戦い方は、実のところ一番安全で効率的なのサ。誰のためでもない、キー坊が生死の狭間で生き残るために効率を追及した戦闘スタイルなんだから」

 

 《攻撃こそが最大の防御》を体現したキリト君の戦い方。

 面白い見方をする人だな、というのが率直な感想だった。MMO、あるいはゲームに精通しているからこそ出てくる発想なのだろうか? わたしはどうしても考え方の根幹が現実世界寄りの常識にあるから、こういう視点は新鮮だ。

 

「幸か不幸か、キー坊は死の間際まで自分の命を計算して戦える、そういう剣士になった。この世界を終わらせるために必要だからとキー坊が求めた結果として、剣士として最適で、人間としてどっかぶっ壊れた精神を作り上げたんダ。デスゲームにさえならなければ出来たはずの戦い方を、デスゲームと理解した上で身に着けちまってるのサ。それはこの世界でキー坊だけが辿り着いた境地だろうと思う。だからもしオレっちがあれを呼び表すなら――」

 

 ――《仮想世界の申し子》とでも呼ぼうカ。

 

 この時代、この場所、仮想世界そのものに望まれた御子なのだと。

 しかしその賞賛の言葉とは裏腹に、アルゴさんの表情は憂いに染まっていた。

 

「キー坊は強いヨ、ゲームクリアのためにますます強くなっていく。オレっち達の救世主(メシア)にだってなるかもネ」

 

 あの《聖騎士》のように。

 そう口にしたアルゴさんは何かを恐れているようだった。

 

「……きっとね、キー坊は仮想世界に馴染みすぎるんダ。だからこそこんなゲームは早く終わってほしいと思うヨ。この世界にキー坊は長くいるべきじゃなイ」

 

 淡々と告げるアルゴさんに何かを言おうとして、何も言えずに押し黙ってしまう。どんな言葉を口にしても気休めにしかならない気がした。

 眉間に力を込めて黙り込むわたしに、アルゴさんは「つまらないことを言ったネ」と困ったように笑い、これで一段落とばかりに大きく伸びをした。それから現在時刻を確認すると途端に顔を顰める。

 

「あちゃー、日付が変わっちまってるヨ。潮時かナ、話すことも話したしアルゴオネーサンのサービスタイムはここまでにしようカ。長話に付き合わせて悪かったネ、アーちゃん」

「いえ、わたしのほうこそ何もお構いできなくてごめんなさい」

 

 軽食と紅茶ではとても釣り合わないし、何かお返しを考えておかなければ。

 そんなことを考えながら、アルゴさんが席を立つのに合わせてわたしも立ち上がる。特に荷物も持ち込んでいないアルゴさんが軽やかな身のこなしで踵を返し――そこで何かに思い当たったように振り返り、頬をかきながら口を開いた。

 

「一つ言い忘れてることがあっタ。内緒話にしておきたいからちょっと耳を拝借させてもらえるかナ?」

 

 この部屋にはわたし達だけだし、外で聞き耳スキルを発動させているような物好きもいない。雰囲気が大事だということだろうか?

 そんな風に要領を得ないわたしの「わかりました」という返事にも頓着した様子を見せず、言葉通り内緒話にしようとアルゴさんがわたしの耳元に口を寄せてくる。わたしの耳朶を打つ囁きは何故か甘やかなもので――。

 

「キー坊ってあんな可愛い顔してるくせに意地悪なんだゼ。しかも女の弱点を見つけ出すのも上手い。だからアーちゃんもキー坊の抱き枕になりたいなら、虐められて泣かされる覚悟とかしておいたほうが良いゾ?」

 

 ――オネーサンは気にしないから、ネ。

 

 わたしの心に直接忍び寄ってくるような凶悪なそれに為す術もなく硬直し、途端身体の内側から熱が吹き上がって赤面してしまう。そんなわたしを慮るでもなく、むしろ嬉々として甘美な誘惑を繰り返すアルゴさんはとても楽しそうだった。……本当に楽しそうだった。

 

「……アルゴさん、大人げないですよ」

 

 もしかしてさっきの事、根に持ってたりします?

 

「何の事だかわからないナ。オレっちはアーちゃんが聞きたがってたことを教えてあげただけだヨ?」

 

 それにオレっち子供だから、と澄ました顔で飄々と口にするアルゴさんはやっぱりずるい人だと思った。確かにわたしはお二人の秘め事を知りたいと口にしましたけどね、まさか本当に答えが返ってくるなんて思いませんってば。

 

「それじゃそろそろお暇させてもらうヨ。お茶とお菓子ご馳走様、また機会を見つけて招待してくれれば嬉しいナ」

 

 アルゴさんの悪戯にわたしが混乱を抱えている内に、悪戯の仕掛け人から逸早く撤退――もとい辞去の挨拶を告げられてしまう。色々言いたいことはあるけれど、既に時間は深夜だし引き止める理由もなかった。ホストの最後の務めとして部屋の出入り口へと先導し、アルゴさんに改めて別れを告げて見送ると、ほうっと息をついて踵を返す。

 

「ユイちゃんのママになるのも大変だ」

 

 施錠を確認したわたしが真っ先にしたことはそんな弱音を吐くことだった。目標は高いほうが良いらしいけど、わたしの前に聳え立つ壁は呆れるくらい高かった。とはいえ、簡単に越えられるものではない事くらいわかっていたし、諦めるなんて選択肢はとうの昔に捨て置いてきた。だから今まで通り、一歩一歩前に進むだけでいい。

 

 わたしも頑張るから応援しててね、ユイちゃん。

 

 もう一度抱きしめるのだと決めた可愛らしい女の子の顔を思い出す。いつの日か胸を張って再会するためにも、今は立ち止まってなんていられない。剣の腕も女としての魅力も、もっともっと磨かなくちゃ、なんてね――。

 

 




 拙作では転移結晶は10層から出現、カルマ浄化クエストは20層から出現、ついでに回廊結晶は25層のクォーターボスからのドロップが初出と想定しています。この先原作で詳細が明らかになった場合も修正は入れないと思うので、独自設定ということでお願いします。

 HPの可視設定について補足。拙作では原作二巻《圏内事件》で描写された『通常他者のHPバーを見ることは不可能』説を採用しています。パーティー、レイド、ギルドを組んだ相手でないとバーは表示されません。例外は決闘時くらいのものです。

 もう一つ補足。原作と異なりラフコフメンバーが攻略組に迫る強さを獲得していたのは、プレイヤーネームを比較的容易に知れる拙作の仕様変更が原因となっております。原作と比べて犯罪者の身元も割れやすいため、暗躍のハードルが上がり、彼らも自衛のために直接戦闘力を高める必要性が強まりました。

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