ソードアート・キリトライン   作:シダレザクラ

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第04話 嗤う黒猫、薄氷の呼び声 (2)

 

 

 今日も今日とてモンスターを狩る。

 ありふれた日常だ。もはやすっかりゲーム世界の住人である。

 そうした境遇を厭うことなどとっくの昔に諦めていたし、剣を振り回すこともモンスターと向かい合うことも、何より戦いそのものが俺にとって苦ではなかったのは僥倖というやつなのだろう。

 惜しむらくは、最近の狩りは敵が雑魚に過ぎて退屈極まりない作業だということだろうか。最前線の迷宮区フロアに出現するモンスターでも俺のレベルじゃぬるいと感じるのだ。それよりずっと低層の、しかもフィールドモンスター相手じゃこんなものだろうとは思っても、物足りないものは物足りなかった。この渇きにも似た飢えはいったい何だというのだろう。いつから俺はこうなった?

 安全に、手堅く、さりとて油断なく。

 大抵のプレイヤーと同じことをしているというのに、どうして俺はこんなにもこの戦場を場違いだと感じて、居た堪れない気分に陥っているのだろう。日に日に増していく胸の内の煩悶を持て余しながら、それでも戦いに順応した俺の身体は半ば自動的に動く。

 

「サチ、今だ!」

「うん!」

 

 長大な鎌を持ったカマキリ型のモンスターが一体。その頭上から鋭く振り下ろされる一撃に、こちらも負けじと下から吹き付けるように剣で迎撃する。タイミングを合わせたパリイが成功し、現実で考えれば馬鹿馬鹿しいほどの体重差を跳ね返してその巨体を押し返した――のみならず、パリング効果でリスクブレイクと技後硬直時間の延長が発生し、わずかな時間ではあるがモンスターは無防備な姿をさらすことになる。

 そこに長槍を構えたサチがソードスキルを発動させ、燐光を散らしながら突きの連撃を叩き込んだ。適正な距離でソードスキルを発動できれば、後はシステムがアシストして勝手に身体を動かして攻撃を命中させてくれる。

 ほどなく巨大なカマキリのHPを削りきり、ポリゴン結晶となってモンスターはシステムへと還っていった。即沸きマップではないから次にポップするのは結構な時間が必要になる。と言っても、同種であっても同じモンスターというわけではないのだが。

 残心の心構えで周囲に気を配り、索敵スキルの視界で警戒を続けるものの、今の一匹で近場のモンスターは粗方狩り終えたらしい。索敵に引っかかる敵の姿はなかった。

 

「やった、キリト! レベル上がったよ!」

 

 幾分気を緩めて振り向くと、控えめながらも全身から喜びの気配を発散する槍使いの姿が――まあサチなのだが。

 レベルアップをしたというサチの声に他のメンバーも歓声も露わに駆けつけ、取り囲むように祝福の声をかけていた。

 相変わらず仲の良いことだ。誰かのレベルが上がるたび、あるいは誰かがレアドロップアイテムを入手するたび、皆で祝福の声を掛け合って喜び合う光景にももう慣れた。ソロで活動していては終ぞ体験しえないことだ。

 

「おめでとう、サチ」

 

 剣を背中の鞘に収めながら黒猫団のメンバーに便乗するように声をかけた。空気を読むことは大切。

 しかし、だ。

 周囲に敵影がないことは確認しているが、できれば喜び合うのは索敵担当を置くか街に戻ってからにして欲しい、そう思うのは無粋というものだろうか。ギルド一丸となって喜んでいるのに水を差すこともあるまいと黙っちゃいるが、俺はあくまで臨時の助っ人であって月夜の黒猫団団員ではないのだ。まがりなりにも攻略組に合流しようという気概を持っているのならば、そろそろ外部の人間に生命線の一つである索敵を頼りっぱなしという現状に疑問を覚えてもいい頃だと思うのだが。しかし残念ながらその辺りの相談は一度も受けていない。

 

「ありがとう、キリト」

 

 朗らかにはにかむサチ。出会った頃のような、どこか張り詰めた様子の力ない笑みではない。最近のサチはこうした柔らかな所作をよく見せるようになった。心に平静を取り戻し、良い具合に力が抜けたためだろう。弱弱しさや臆病な面はなりを潜め、万事控えめでありながら傍にいると自然と和むような雰囲気を作り出している。おそらくは現実世界でそうしていたような彼女本来の魅力なのだろう。

 不安と恐怖と混乱により一時陥っていた、目を離せば消えてしまいそうな女の子の姿はすでにない。

 この先全く問題はないと言えるほどこの世界は安穏とした場所ではないが、さし当たっての懸念は晴れたと思えるようになった。

 俺にとっても黒猫団の面々にとっても慶事と言える。

 

 ただし、月夜の黒猫団そのものに問題がないわけではない。

 それどころか、言葉を飾らずに言えば問題だらけだ。サチの進退ばかりが強調されていたが、むしろ月夜の黒猫団の問題は攻略組を目指そうという目標それ自体にあった。

 キャラクターレベルだけならまだなんとかなる。月夜の黒猫団に不足していた前衛に俺が入ることで安全性を確保し、経験値効率の良い狩場を巡ってパワーレベリングを行うことで短期間で戦力アップを目指す。この方法で中層の上レベルまでならそう時を置かずに連れて行けるようになるだろう。安全マージンさえしっかり取れていれば早々モンスターに遅れを取ったりしない。

 

 ただ、それでも足りないものはいくらでもある。

 例えば装備。

 経験値とコルはある程度比例するため、レベルアップに伴ってコルは自然と貯まっていく。上質の装備が整えられないほど余裕がないわけじゃないのだが、月夜の黒猫団の当面の目標がギルドハウスの確保にあるため、どうしても装備の充実が後回しにされてしまっている。ただ、ギルドハウス購入に関しては俺も賛成していることなので強くはいえない。

 見栄が云々ではなく、単純に安全性の問題だ。主街区の宿でも確実に安全だと言えない現状、セキュリティの高いギルドハウスの確保は急務だと言えよう。また、一時的に棚上げになっているサチの前線離脱問題のためにもギルドハウスは是非欲しい。

 

 例えば協力者の存在。

 攻略組ではギルドごとに縄張り意識が強いため、迷宮区探索には個々のギルドで対処することが多いが、フロアボス戦や強敵の存在する特殊イベントが発生したような場合にはギルドの枠を超えて協力し合う体制が出来上がっている。これが中層以下になると攻略組に比して仲間意識が若干弱く、その場限りの野良パーティが頻繁に組まれるなど雑多な様相を見せ始めてはいるがそれだけだ。後につながるような信頼関係はなかなか築けないのが実状だった。

 中層プレイヤーは攻略一辺倒の最前線に比べてゆとりがあるというか、生活感が如実に感じられる。もしもソードアート・オンラインがデスゲームではなく、普通に遊ぶゲームならおそらく今の中層プレイヤーのような過ごし方が主流だったはずだ。そして俺自身彼らのような生活に惹かれていることは否定しない。何せ殺伐とした攻略組に比べて楽しそうなのである。

 

 現在の月夜の黒猫団のレベルはこの中層階層に位置する。ギルド構成員全員がリアルでの友人同士のせいか内部での結束は固いのだが、一方でその目が外に向きづらい。ギルド間の横のつながりが薄いのだ。

 聞けば月夜の黒猫団ははじまりの街での基礎修練を除き、開始から今までギルド内の単位でしか行動していないらしい。上を目指さないのならそれでも構わないのだが、強力な敵、難解な迷宮に挑もうというのなら戦力的にも情報的にも人脈を豊かにしなければ立ち行かない。その点、よくも悪くも黒猫団の皆は閉鎖的なため、これも課題になるだろう。

 残念ながらソロプレイヤーの上、親しい知人の数が圧倒的に少ない俺ではこの面では助けになれそうにない。ぼっちのコミュ障にそんな高度な要求を突きつけないでくれよ、頼むから。

 

 例えばプレイヤースキルの問題。

 高レベルプレイヤーが低レベルプレイヤーを引っ張る強引なパワーレベリングは、時間効率と引き換えに低レベルプレイヤーの咄嗟の判断力を養う機会を奪い、モンスターのアルゴリズムを見抜いた上で、最適な動解を求めるような戦闘思考法が身につく可能性を低下させてしまう。システムに規定されないプレイヤー自身のスキルを有効に扱えないと未知の敵や迷宮区の罠、なによりフロアボス戦で致命的なミスを引き起こしかねない。よほど切羽詰った事情でもない限り歪なパワーレベリングは控えるのが常道だった。

 それでも俺が彼らのレベリングを優先させたのは、こうしたプレイヤースキルはあくまで戦闘の補助であり、戦闘の根幹はキャラクターレベルとソードスキル、そして強力な武器防具にあるからだ。

 《レベルを上げて物理で殴ればいい》というのは昔からあるネットスラングというかRPGにおける諧謔(かいぎゃく)の一つだが、これが笑い話でもなんでもなくこの世界では適用されている。ステータスの数値以上にレベル差による補正が大きいのだ。

 もっとも、そうでなければいくら俺が抜群の経験値ブーストスキル持ちで反則レベル上げをした結果とは言え、単独で何度もボス撃破などという博打染みた真似をした挙句、生き残ることなど出来ようはずがなかった。レベルの大切さは、俺自身骨身に染みて実感していることである。

 

 ただし、補正云々は今のところ俺の体感による仮説でしかない。ソロで何度もボス狩りができることが証明だ、などと臆面もなく言えるわけがないので、機会があれば誰か適当なプレイヤーに話して検証してもらいたいところだ。しかし検証のためには、逆に安全マージンの足りないレベルで相対的に強大な敵に挑む必要もあるため、そうそう頼めるようなことではない。むしろ頼みたくない。

 とはいえだ。証明されていなかろうが、レベル補正が強く働く可能性がある以上は最も優先すべき方針はレベリングだというのが俺の持論だ。勿論俺の流儀に他人を巻き込む気はない。しかし黒猫団の面々も早急なレベルアップを望んだために現在の方針になっている。

 つまり俺が先頭に立ってモンスターを索敵し、時に投擲武器でモンスターを引き寄せ、前線を支えつつモンスターの体勢を崩す。そしてその都度経験値ボーナスが発生する止めを黒猫団の面々に任せて撃破、という流れとなる。モンスターのヘイトを前衛である俺に集めることに集中しているだけに、黒猫団の面々は非常に経験値を稼ぎやすいはずだ。もちろん効果は覿面で20にも満たなかった彼らのレベルはぐんぐんと上昇している。

 

 反面、効率的な防御や適切なスイッチ行動、危急の撤退の判断のような、地味だが大切なプレイヤースキルがほとんど磨かれないことが懸念材料ではある。ただまあ、この先ずっと俺が彼らの面倒を見るわけでもなし、やがて俺が抜けた後、空いた穴を埋めるためにそれぞれが必要な技能を適宜身に着けていくことになるだろう。

 そもそも一から十まで教えられなければ戦えないというのなら最前線である攻略組など目指すべきではない。そのあたりのことは既に言い含めてあるし、俺が協力するのはあくまで安全性を確保するためのレベリングと護衛、それにギルドハウス早期購入のための資金集めだ。

 

 彼らに協力を約束したことに後悔はない。後悔はないが、時折不満が湧き上がるのは俺の身勝手なのだろうか。

 基本的にソロでしか動かず、フロアボス戦では攻略組と協力し、高レベルで良装備かつ緊密な連携を駆使した上で集団戦を行う攻略組を見てきた俺からすれば、月夜の黒猫団は何から何まで不足した実力しか持っていなかった。戦闘における適宜の判断も甘ければ攻撃動作への切り替えも遅い。比べる対象が悪いというのは理性ではわかっていても、なかなか感情は追いついてくれない。もどかしさばかりが募るのだ。

 なによりこんな低層でのんびりやっていて良いのかという焦燥感もある。ここにいるのは本意ではない、ここは俺の戦場ではない、それが偽りなき俺の思いであろうことは間違いなかった。

 ただし、そうした内心の不満などおくびにも出していない――つもりではある。この世界では感情を隠すということが至難であるから、怒りや不安のようなマイナスの感情は現実以上に自制して秘める必要がある。

 

 幸い今回も気づかれた様子はない。皆、仲間のレベルアップにプチお祭り状態だったせいかもしれない。

 念のためともう一度索敵を行い、異常がないことを確認して警戒レベルを一段階下げる。見上げれば晴天の頂――とはならず、相変わらず鈍色に鎮座する上層の石壁が見えるだけだ。憂鬱になるだけの頭上から視線を外す。

 時間もそろそろ頃合だろう。昼食を兼ねた休憩を提案しようと声をかけようとしたが、未だに雑談に華を咲かせている集団を見やって懸命にため息を押し殺すことに注力せざるをえない。

 現実の暦で言えば春先の今日、自身の暗鬱とした気分には似つかわしくない穏やかで心地よい気象設定に皮肉めいた思いを抱くのだった。

 

 

 

 

 

 月夜の黒猫団と出会い、彼らと一瞬すれ違ってまたいつもと変わらない攻略とレベリングの日々が訪れると思っていた。そんな俺の予想は見事なまでに外れてしまったようだ、今もこうして彼らと行動を共にしていることがこれ以上ない証拠だろう。一日二日どころか一週間、二週間とずるずる日数が延びてしまっていた。

 良くないことだ。そう思いながらも、しかし一度深く関わってしまうと中々別れの言葉を切り出せなくなってしまうものだ。まして、同道する理由が理由だ。ここでさよならをするのはいかにも《彼らを見捨てた》ような気がして、結局なあなあで済ませた挙句今日まで来てしまっている。

 俺が最前線から離れて幾ばくかが過ぎ、その間に三つの層が攻略されたと聞いた。

 第25層において軍が壊滅的な被害を出した記憶も薄れ始め、直近のフロアボス戦では最精鋭との呼び声高いギルド《血盟騎士団(Knights of the Blood)》が主導して戦死者ゼロで切り抜けている。まだまだ先は長いが、それでも確かに攻略のスピードは加速している。第25層のフロアボスが強すぎた点を差し引いても最前線に集う攻略組の奮闘は目覚しいものがあった。

 やはり血盟騎士団、それも団長と副団長の存在は大きい。

 

 血盟騎士団団長ヒースクリフ。

 攻守共に無駄のない洗練された盾持ち片手剣士。情報屋を凌ぐ博識と重厚なカリスマ。戦闘におけるその先読みの鋭さと的確な剣撃は全プレイヤー随一のものだろう。実力、声望共に抜きん出た男だ。俺はどうにも馬が合わないというか、苦手な男なのだが。

 血盟騎士団副団長アスナ。

 柔軟な身のこなしと目にも止まらぬ華麗な刺突剣技を得意とする細剣使い(フェンサー)。加えて見目麗しく品のある立ち居振る舞いが良家の子女を思わせるために人気も抜群だが、決して見た目だけの女性ではない。一途に攻略に励む凜とした意志は眩しいほどだ。かつて一時の間とはいえパートナーを務めた身としては誇らしい限りだった。そんな彼女はその美貌と実力から最近では《閃光》の二つ名で親しまれているらしい。

 誰が呼び始めたか知らないが、このあたり本当ロールプレイである。切羽詰っているわりにどこか余裕があるとでも言おうか、あるいはそう演じることでひたひたと忍び寄る絶望から必死に目を背けているのかもしれない。悪夢のようなこの世界で、現実と乖離した己を演じることで少しでも精神の均衡を保とうというのならば、それを責める資格など誰にもないのだろう。

 

 ヒースクリフとアスナ。

 この二人が攻略組の柱となり、癖の強い有力ギルドやベータテスト上がりのプレイヤーを纏め上げることを可能にしている。その目的はソードアート・オンラインクリアによる全プレイヤー開放。

 それはここ、アインクラッドに生きる全てのプレイヤーの悲願ではあるが、しかしそのために命を懸けて戦おうとする人間は稀である。ゲーム攻略に必要な命題、すなわち迷宮探索とフロアボス撃破。そのためのレベリングと死闘のみを目的に生きるのは精神的につらすぎるのだ。なによりHPがゼロになったら死ぬという現実は未知のマップへの怖れとなる。

 動機は人それぞれだろうが、そうした諸々のデメリットを呑みこんで戦い続ける道を選んだのが攻略組の面々であり、その中でも純粋に攻略「のみ」に全精力を傾けているのが血盟騎士団だった。彼らは生活のほとんど全てを攻略に費やし、日々その神経をすり減らしている。最前線にたむろする高レベルモンスターを相手に高効率のレベリングを行い、強力な武具調達から強化に多額の金銭を費やし、日夜更新されるマップ情報の確認に奔走する、あるいは自らが未知のマップを踏破する。

 その先鋭にして規範が件の二人なのである。

 

 フロアボス戦以外に興味はないと公言したというヒースクリフ。一日も早いゲームクリアのために他プレイヤーに協力を呼びかけ、有言実行とばかりに毎日迷宮区に挑むアスナ。マップ攻略やボス対策会議を主導するのは副団長のアスナで、団長ヒースクリフは概ね副団長の決定を追認するだけのようだが、しかし命が危ぶまれるような危険なフロアボス戦、難解な迷宮エリアの攻略にはヒースクリフもその重い腰を上げて団員を鼓舞していると言う。

 率先して危機に立ち向かう男。だからこそのカリスマだろう。あの男が台頭し、アスナを副団長に迎え入れてから攻略組の攻略スピードは明らかに加速した。

 そんな二人だからこそ全プレイヤーの希望となれた。しかしその一方で攻略に先鋭化しすぎた弊害も出てきている、中層階層以下の揉め事に関心が薄いのだ。もっともそれはヒースクリフやアスナだけの問題でもない。攻略組の多くは攻略以外のことに時間と労力を割くのを嫌う。いや、嫌うというより攻略に手一杯でそれ以外に力を割くだけの余力がないと言うべきか。ただでさえ多忙なのに、下層の安穏と生きるプレイヤーたちの面倒まで見ていられるか、というのが彼らの総意だろう。

 仕方ない。なにせ俺だってそう思うからだ。実際の話、当事者でもなければ今回の事件など放っておいて迷宮に篭っていたはずだ。

 

 そう、今も俺が月夜の黒猫団と共に過ごすきっかけとなった事件である。

 新聞記事を作成する情報屋の一人がセンセーショナルに書き殴った密室PK事件。

 被害者はとある少人数ギルドに所属していた槍使いの男で、下層から中層に上がってきた矢先のことだったという。事件当日、狩りを終えたギルドメンバーで宿に宿泊を申し込み、ドロップアイテムの整理や初挑戦マップで無事に帰れた祝いとして少し奮発した夕食を終え、各々の個室に戻っていった。

 翌朝、いつまで経っても起きてこない団員を心配して部屋を訪ねると部屋は施錠されたままで、いくら呼びかけても応じる声はなかった。メッセージやギルド通信でも反応はなく、陽が昇りきっても起きてこないメンバーに流石に嫌な予感を覚えてメンバーの一人が黒鉄宮に恐る恐る確認しにいくと、最悪の事態が発覚したというわけだ。キャラクターネームに横線が引かれ、死亡理由に第12層主街区にてプレイヤー攻撃によるHP全損と刻まれていた。生命の碑にまた一つ訃報が届けられたということだ。

 

 自分で自分を攻撃した末の自殺ならば死亡理由にその旨が記載される。故に自殺ではない。他殺、すなわちPKの可能性が高いわけだが、ここで問題なのが《主街区で死んだ》ということだった。主街区は犯罪防止エリアに指定されており、プレイヤーを傷つけようとしてもダメージが通らない。PKなど不可能なのだ。

 加えて、犯行場所が宿屋内部というのも問題だった。宿の施錠セキュリティは登録した本人以外は開けられない仕様になっているし、勝手に鍵をかけることもできない。本人が許可せず部屋に押し入ることは出来ず、侵入に成功してもそこから部屋を施錠した上で脱出することなど、やはりシステム上不可能なことだった。

 それを可能にした。つまりは不可能犯罪の完成である。

 

 掲載された情報を信じるならば、という但し書きは必要だが、今まで犯罪防止コードに守られて安全だと思われていた街中で、それもさらにセキュリティの高い宿の一室でプレイヤーによる殺人が行われたということだ。

 もしもこれが狂言ではなく真実であった場合、プレイヤーの安全はこれ以上ないほど脅かされることになる。なにせ最も安全で危険のない宿の個室という場所ですら安眠できないことになる。いくら食べなくても死なないソードアート・オンラインでも、空腹になれば飢餓感を覚えて集中力の欠如を招くように、適正な睡眠時間を取らないと精神的に不調になるのは現実と一緒だ。この辺り睡眠は現実の脳を休ませる意味があるのだろうと考えているが……。

 

 新聞では昼間でも単独行動は慎み、夜間は外出を控えるよう促してはいたが、記事そのものが不安を煽る論調であった以上、その言葉にどれだけ説得力を持たせられたものか。あるいは全プレイヤーに発信して警鐘を鳴らすなどという行動に出ず、秘密裏に事件に対処するという方法を取ったほうが混乱は少なかったかもしれないとさえ思う。もっともその場合、同じ手口で第二第三の事件が引き起こされた場合、当事者のギルドとそれを知った上で秘匿した情報屋の立場が難しいものになりかねないか。自分達の手に余ると判断した結果の決断なのかもしれない。

 しかし結局のところ、今もって犯人は見つかっておらず、同様に密室だったのかどうか、本当に宿の個室内でPKが行われたかどうかもわからずじまいだ。なにせ宿の登録は本人が更新しない限り時間が立てば契約は破棄され、内部から鍵がかかっていたのかどうかの確認も今となっては不可能なのだ。だから確かなことは犯罪防止コードの圏内で殺人が行われたということでしかない。

 

 ――それだけならば。

 

 生命の碑に記載された死亡理由だけならば、仮説の立てようもあったのだ。

 犯罪防止コード圏内で唯一HPの減少が確認される手段。

 すなわち決闘システムだ。

 

 最初にクリーンヒットを決めたプレイヤーの勝ちとなる初撃決着モード。

 プレイヤーのHPがイエローゾーンに踏み込むまで戦う半減決着モード。

 そしてプレイヤーのHPが全損するまで戦う完全決着モード。

 

 ゲーム開始直後、俺はクラインに初撃決着モードを利用した戦闘基礎訓練を示唆したことがある。

 中には半減決着モードを試したプレイヤーもいるだろう。

 しかし完全決着モードだけは使われていないはずだ。

 茅場晶彦によってソードアート・オンラインがデスゲームという本仕様に変更となり、HPがゼロになれば現実の死が訪れるこの状況で完全決着モードは忌避されるべきものだ。これが従来の健全なMMORPGならばプレイヤー同士の本気の腕試しとして好評を得た可能性もあろうが、今となっては存在するだけ無駄な機能だった。使い道がない。

 ……少なくとも、真っ当なプレイヤーにとっては。

 

 第一層において唯一確認されているPK事件。つまり俺が犯してしまったPK以来、犯罪行為による死亡者が出たとは聞いたことがない。

 だが、もしも犯罪を志向するプレイヤーが潜んでいたとすれば?

 もしも彼らがオレンジになることで被るデメリットを恐れて大人しくしていたとしたら?

 そしてオレンジを解消するクエストの存在が明らかになってしまった今ならば?

 信じたいことではないが、今回のように計画的な犯罪行為に走るプレイヤーが出てきてもおかしくはない。

 完全決着モードを利用した故意の殺人。

 決闘申し込みを本人が望まなくとも承諾させることができるのなら、犯罪防止コード圏内でPKが可能になる。

 

 その可能性に思い当たった俺はアルゴの協力を得て検証を試みたことがある。

 その結果として、他人に補助ないし操作されていようとも、メニューの呼び出しや眼前に浮かぶ決闘受諾が可能なことが判明した。もちろん本人に抵抗されれば不可能なのだが、何らかの要因で身体と意識の自由がない時ならば――街中では麻痺のような状態異常は起こらないから考えられるのは睡眠中だ。これは眠っている俺の身体を使って検証したアルゴが確かめたし、俺自身もアルゴの手を借りて決闘を成立させたりした。アルゴのあれは狸寝入りだった可能性もあるが、少なくとも俺はアルゴの前で熟睡していたことに間違いないので構わないだろう。

 犯罪防止コード圏内においてPKを起こす手段についてはひとまず実証できた。睡眠中のプレイヤーの手を動かすことで無理やりに決闘を引き起こし、殺害を図る。確証はないが多分今回使われた手口はそれだろうと思う。というか二つも三つも犯罪防止コードシステムの穴を早々に発見したくもないし発見されたくもない。

 

 しかし問題は密室が事実だった場合だ。

 先の仮説を用いれば犯罪防止コード圏内でPKを起こすことは出来ても、宿の個室に侵入することは不可能なのだ。被害者が街中で眠りこけていたならばともかく、情報が正しければPK現場は施錠された宿の個室だ。外部犯は考えづらい。では身内に犯人がいるかといえば、それも考えづらかった。なぜならプレイヤー所有のギルドハウスのようなものならともかく、NPC経営の宿では登録者本人以外に施錠の権利を設定することは不可能だからだ。まして被害者の死が確認された時点ではまだ部屋は施錠されていたと言う。後日被害者プレイヤーと宿の契約が切れた直後にギルドメンバーで部屋に踏み込んだところ、やはり誰もいなかったらしい。

 つまり本人以外は何人たりとも立ち入りのできない状況だったのは間違いない。間違いないのだが……それでは事件が起きるはずもない。そもそも犯罪防止コード圏内ではHP自損による自殺は不可能なのだから、他殺を否定すれば黒鉄宮の石碑に刻まれた死亡メッセージと矛盾してしまう。ソードアート・オンラインを支配するシステムの誤認か管理者権限による改竄(かいざん)でもしない限り、他殺を装った自殺などという手のこんだ真似は不可能だ。

 

 施錠された部屋への侵入を可能にする手段か……。街中の建物は基本破壊不可能オブジェクトに含まれるため、内部から唯一の出入り口である扉が施錠されている限り他者が立ち入る隙はないはずだ。たとえ窓が開いていようとも外から入ろうとすればシステム障壁に弾かれるしな。

 では、無理やり侵入できないのならば被害者本人が犯人を招きいれたならどうか。夜間とは言え顔見知りなら出来なくはないだろう。

 その場合PKそのものは可能だろうがその後に施錠できる理由がない。内密の話として先に鍵をかけさせる? しかし施錠された部屋から脱出できるかどうかも不明だ。転移結晶でなんとかなるか? 駄目だ、宿内部は転移結晶の使用ができないエリアだったはずだからこれも無理。

 それらが可能だとしても犯人側に都合が良すぎる展開ではある。被害者がよほど楽天的で人を疑わない性格でもない限り偶然に左右されすぎるのだ。その上、犯罪防止エリアでは他プレイヤーとの過度の接触はシステムに弾かれてしまうから、被害者プレイヤーに意識があると決闘モードを受諾させるのは困難だろう。

 部屋の外におびき出しても事情は同じだ。被害者本人に抵抗されれば決闘を受諾させることなどほぼ不可能。システムが許すのはあくまで《攻撃と認識されないレベルでの接触》だ。

 部屋の中だろうが外だろうが、被害者プレイヤーに抵抗する意志があった場合決闘を利用したPKはほぼ不可能、というのが俺とアルゴの最終的な結論だった。

 

 やはりPKそのものは睡眠中の決闘システム利用の可能性が高い。

 そうなると残る問題は施錠された宿の個室にどうやって入り、そして施錠された部屋からどう消えたのかに戻るわけだ。

 殺害方法にもしも睡眠状態のプレイヤーに対する決闘システムを利用したPK以外の手段があるなら話は別だが、そう幾つもシステムの穴を思いつけるのなら苦労はない。後は密室の謎を解き明かすだけなんだが……。

 八方塞だ。

 そもそも俺は灰色の脳細胞を持つ敏腕探偵なんかじゃない。こんな事件は根本的に俺の手に余るものだった。

 思考が袋小路に迷い込んだ段階で、とりあえず睡眠PKの手段だけでも公表しようとアルゴに頼んだのだが、アルゴ曰く時期が悪いと渋られている。

 今回の事件は全プレイヤーの知るところとなった。しかし睡眠PKの仮説だけでは施錠された部屋に侵入する手口が明らかになっておらず、解決にほど遠い状況は変わっていない。PK手段がわかっても、安全なはずの部屋に難なく侵入できる可能性が残っている以上、結局安眠はできないまま不安ばかりが募る状況なのである。

 伝え聞いたところでは、夜中外出しないのは当然であるが、大手ギルドのなかでは交代で歩哨を立たせるようなところもあるらしい。死亡プレイヤーがポリゴン片となって消えてしまうこの世界では、捜査そのものが難解なために事件の立証が難しいため、みな半信半疑ではあるようだがそれでも不安は隠せない、といったところだろうか。

 

 同じ手口の事件が続いていないことから、楽観的に考えるなら手口そのものが何度も使えるものではない可能性が一つ。犯人と被害者にPKを行うだけの理由があって、これ以上の殺人の意志が犯人にない可能性が一つ。

 とはいえ、新聞記事が正しいにせよ間違いにせよここまで話が広がってしまった以上、何らかの解決が提示されない限りプレイヤー間に蔓延る不安を早期に払拭することは無理だろう。誰だって自分の部屋に無断で見知らぬ他人が入ってくる手段があるなんて怖いし気味悪いはずだ。できることなら対抗手段も併せて事件の全容を公表するべきだった。

 その際に犯人を監獄にぶちこめれば最上だが、おそらく無理だろう。本人が自首するならともかく、何食わぬ顔で生活しているのなら捜査の困難なこの世界で犯人を見つけ出すのは不可能に近い。オレンジプレイヤーとPKがイコールではないし、カルマ浄化クエストも散見されるようになってきた今、元オレンジの現グリーンなプレイヤーもそこそこいるはずだ。俺のように。

 第一、もしも犯罪の手口に決闘システムが用いられているのなら犯人はオレンジになっていない可能性のほうが高い。完全決着モードはあくまで決闘の一部であり、システムが規定したオレンジ化の条件を満たすとは思えない。

 それに、今は犯人確保よりも手口究明のほうが先だ。論理的に可能な解と対処さえ構築できれば、この際それが真実だろうが嘘だろうが当面は問題ない。このままプレイヤーの士気が下がり続けることのほうがよっぽど問題だった。

 

 ……そうか。大手ギルドにも事件の余波が出ているのなら、攻略組にも協力を仰げるかもしれない。

 違うか、攻略組というより攻略至上主義の血盟騎士団、その筆頭である団長ヒースクリフに、だ。

 あの男の知恵を借りるべきなのかもしれない。

 甚だ不愉快なことではあるが、早急に事態を収束させられる可能性があるなら打診してみるのも一つの手だろうと思う。たとえこの世界で出会ったプレイヤーのなかで気に食わないプレイヤーリスト最上位の男だろうが、その程度のことで優先順位を見誤るべきではないはずだ。

 どんなに馬の合わない男だろうとも。

 どんなに不倶戴天認定間近な男だろうとも。

 そんな理由で足踏みをすることなど許されないはずだ。

 

 眉間に皺が寄り、溜息を一つ。

 何もかも見透かしたように色のない瞳をした壮年の男が思い浮かび、思わず舌打ちをしてしまった。どこのチンピラだと思うほど品のない仕草だと自分でも思う。そう理解した上で自制するでもなく顔には嫌悪の表情がありありと浮かんでいるのがわかった。

 ああ、あの男を決闘でボコボコに出来たらさぞ爽快だろうに。

 その思いつきは割と優秀な精神安定剤だったらしい。盲が晴れて実に晴れ晴れしい気分とでも言うべきか。

 

「キ、キリト? 預かってた飲み物持ってきたけど飲むか? あと顔怖いから。その笑い方滅茶苦茶怖いから」

 

 緑に茂る芝生に身を投げ出してしばしの休憩を楽しんでいたのもつかの間、脳内で少々不健全な想像を思い巡らせていたところで上から声が降ってきた。月夜の黒猫団団長ケイタのものだった。なぜかこれ以上ないほど表情筋を引き攣らせていたが。

 おかしいな、数瞬前の冬の心象風景に比して、今の俺は春の季節に相応しい穏やかな気持ちに包まれているというのに。

 多分ケイタの見間違いだろう。適当に笑って誤魔化し、感謝の言葉と一緒に飲み物のボトルを受け取る。

 レモンのしぼり汁に盛大に水をぶちまけたような薄味のそれはあまり人気のある飲み物ではなかったが、重さと量のバランスが良好なので俺は結構気に入っている。アイテムストレージにも個数制限、重量制限があるのに味にこだわって戦闘に必要な物資を削りたくない、という切実な理由なのだが、黒猫団の面々には理解しがたいようである。

 まあ時に野宿をしてでも迷宮区にソロで潜る俺だから身についた意識だ。彼らはパーティー単位で動いているのだし、命知らずに補給なしで迷宮に篭るようなことをする必要がないのだから、俺のような何から何まで効率重視のプレイスタイルはピンとこないのだろう。

 

「それで、何を考えてたんだ?」

 

 俺の隣に腰を下ろしたケイタが、いつもの穏やかな声でそう尋ねてきた。

 こういう時、小なりとはいえ一つの集団を統率しているのだなと思う。

 今は戦闘休みの自由時間だ。誰が何処にいようと注意する必要もされる謂れもない。が、日ごろからメンバー間の連携や結びつきの確認をする必要があるためか、ケイタは特定の相手だけと話し込むような真似はしなかった。全体の調和を常に心がけ、メンバーが孤立しないよう心を砕いている様子がありありとわかる。もっともそれは隙あらば一人になろうとする俺が、皆の和を乱しているせいもあるのだろうけど。

 しかしなあ、どうも居辛いんだ。月夜の黒猫団が特別排他的なギルドというわけでは勿論ない。ギルドの構成メンバー全員がリアルの友人同士であるために多少閉鎖的で外に目を向けないきらいはあるものの、迎え入れた人員を冷遇するような真似は一度としてなかった。むしろ攻略組の能力と利害による協力関係に慣れた俺にとって、黒猫団の気安い友人関係は時に羨ましいものと映ることさえある。

 ただ、正式な団員でもなく、また団員になるつもりもない宙ぶらりんな我が身を省みるに、その距離感に悩むこともしばしばなのが難しいところだ。

 

「例の密室PK事件について少し」

 

 一度周囲を見渡し、サチら他のメンバーの意識がこちらに向いていないことを確認してから声を潜めてつぶやくように口にすると、俺がそう答えるのが予想通りだったのかケイタに驚いた様子はなかった。とはいえ事件の重さに耐えかねるように顔を顰めてはいたが。

 

「結局犯人もわかってないんだよな。丁度良い機会だし聞いておこうか。キリト、知り合いに当たってくるって言ってたけど、何か成果はあったのかい?」

 

 成果か。成果ならあった。ただし解決にはほど遠い。

 

「そのことでちょっと相談があるんだけどいいかな、ケイタ」

「改まってなんだい」

「これから先方に連絡を入れての反応待ちではあるんだけど、その結果次第では狩りを一時的に抜けるから了承して欲しい。あいつなら犯罪の手口に思い当たる可能性があるからさ」

 

 会いたくないけどな。心底会いたくないけどな。

 

「それはもちろん構わないけど、なんだか嫌そうだね。キリトがそんな顔をするなんて珍しい」

 

 苦笑気味にそんなことを言うケイタ。そこまで言われるほど表情に出ていたのかと反省する。この世界では心情がすぐに顔に出るのが困り者だ、おちおち人を嫌ってもいられない。

 

「悪いな。一応夕方以降を打診してみるから」

 

 それなら街に引き上げてから別行動となるので何も問題はない。

 本当、なんで俺はあいつがこんなに嫌いなんだろうな。あの冷然とした、無機物を見るような目で人を観察しやがるところも、団員から死者が出ようが泰然自若とした態度で剣を振るう姿も、攻略以外に全く見向きもしない方針も、何もかもが癪にさわる。あるいは同属嫌悪に近いのかとさえ思う。尖ったプレイ方針を貫いているという点では俺も人のことを言えない。

 

「気を遣ってもらわなくても、キリトのおかげで僕らのレベルもだいぶ上がってるからね。心配には及ばないさ。それで、会う人っていうのは?」

 

 女性プレイヤーならサチに告げ口しないとなあ、などと軽口を叩くケイタ。

 残念ながら期待には添えないがな。

 

「血盟騎士団団長ヒースクリフ」

 

 短く告げた俺の言葉に何を思ったのか、ケイタの動きがピシッと音が立つほど瞬時に固まった。それから俺の顔を見て、仲間のほうを見て、もう一度俺に視線を戻して深々とため息をついた。

 

「最強ギルドの呼び声高い血盟騎士団の団長殿か。そうだよな、キリトは攻略組にいたんだから顔見知りでもおかしくはないか」

 

 まあ顔見知りではあってもフレンド登録はしてないんだけどな。俺に直接ヒースクリフと連絡を取る手段はない。よって間接的な手段になるわけだ、副団長アスナに出すメッセージという形で。

 第一層共闘時のフレンド登録が生きていることに安堵した。なにせ俺がオレンジプレイヤーになる現場に居て、その後の俺の非友好的な態度を知っていて、今に至るまでこちらから連絡を取ることなど一度としてなかった、そんなあまりにあまりな関係の相手だ。クラインもそうだが、よくもまあ今日までフレンド登録を破棄されなかったものだ。

 今日の血盟騎士団の予定は知らないが、アスナに取り次いでもらえればヒースクリフには間違いなく伝わるだろう。やつが攻略以外の時間に何をしているのかなんて知らないし知りたくもないけど、その時間を少しばかり貰うとするさ。門前払いをされたときはそれまでだ。アルゴもこの件では動いているのだから、また別の手を考えよう。

 

「それにしても、キリトは随分あの事件を熱心に調べているね。……やっぱり早く攻略組に戻りたいのか?」

 

 再び思考に沈もうとしていた俺の姿に何を思ったのか、ケイタは申し訳なさそうな、そして心苦しそうな声でそんな問いを発した。

 

 

 

 ――全てはあの密室PK事件が発端だった。

 サチの戦線離脱を決め、今後の方針の相談だと集まるはずだった朝食の席で、ケイタたちが息せき切ってやってきた理由。絶対安全圏であったはずの主街区で起きたPKの発覚。しかも宿の個室が犯行現場だった可能性さえある。

 そんな知らせにただでさえ精神的に追い詰められていたサチが平常心でいられるはずがなかった。

 予定通りサチが戦線を離れるならば、彼女は仲間が狩りに出ている日中は一人街で過ごすことになる。事件を知る前のサチならそれを寂しいと感じても怖いとは思っていなかったはずだ。当然だ、命の危険があり、怖くて震えていた戦場から逃げるために安全の保障されている街で待機しようとしていたのだ。だというのに、その避難先である安全圏に危険が迫っているのだからどうしようもない。サチの不安と恐怖は膨れ上がるばかりだっただろう。

 

 声も出せないほど震え上がったサチの姿に、ようやく失態に気づいたケイタらの顔が青褪める中、ただ一人冷静を保っていられたのは俺にとって命の危険など今更なことだったせいなのだろう。今になってそう思う。

 迷宮区にもモンスターの侵入できない安全圏はある。そこではPKをする気になれば出来るし、あくまでモンスターが入ってこれないだけの安全圏だが、ソロで最前線を過ごす俺にとっては貴重な仮眠所だった。無論警戒を緩めて爆睡など出来るはずもない。そもそも主街区の安全圏を長い間利用できなかった俺にしてみれば、いまさら絶対安全圏が絶対でなくなることくらい大したことでもなかったのである。

 

 それに架空の話――ゲームや娯楽小説の類――として語るならば、デスゲームの常として一定以上のプレイヤーが攻略に参加せず街に残っているような状況では、主催者側の何らかの手段により強制的に旅立たせるような措置も珍しくない。幸か不幸かその手の知識を俺は大量に持ち合わせていた。

 元々ゲーム開始当初に、そういう《強くなければ死ぬ》という事態に備えた利己的なレベル上げに俺が邁進していたのは、我が事ながら理に叶った行動だろうとは今でも思う。もっとも開始当初の漠然とした不安に突き動かされるのではなく、今幾つかの最悪を想定するようになったのは、ひたすらネガティブな思考を巡らせたオレンジプレイヤー時代の産物でもあるから複雑ではあったが。

 

 俺は月夜の黒猫団を初めとした多くのプレイヤーが死に対する鈍感さを身につけ始めていると評したが、何のことはない、当の本人である俺自身が最も死に鈍感になっているのである。平和な現代日本人の一員として壊れた価値観を作り上げてしまった、あるいは削り上げてしまったことに忸怩たる思いはあるが、文句を言う相手は何処とも知れぬ場所でこちらを観察している神か魔王気取りのろくでなしだ。茅場への呪いの言葉を叫べばログに残ってやつが目にする機会もあるかもしれない、しかしその程度の罵声は既に大勢のプレイヤーが何度も繰り返しているだろう。その上で現在もこの世界が続いているのだから無意味でしかなった。

 

 ケイタの報告を受けたサチの反応は劇的だった。

 あまりの顔色の悪さに、人の気持ちの機微に疎いと自認する俺が真っ先にサチの身を慮ったほどだ。

 華奢な身体を抱くように身を縮こませ、事件の衝撃に唇を震わせるサチの手を取って、ゆっくりと「大丈夫だから」と言い聞かせながらケイタたちに目で席に着くよう促した。その場で部屋に戻れというほうが混乱するサチには酷であろうし、一人にするのは逆効果だろうと考えたからだ。気心の知れた仲間といたほうがいい。それにケイタたちにも落ち着く時間が必要だった。

 しばしの後、ようやく落ち着いた月夜の黒猫団は今後の予定を大幅に変更した。新聞の内容を信じた上で、外に出ても街に居ても危険ならば全員で固まっていたほうが良いだろうという案が出たのだ。道理ではあるが、その場合の問題はサチが外、つまり狩りに再び戻ることになることだった。

 

 全員が街に残って亀のように身を固めるという選択肢はなかった。最低限のコルは稼がなければならなかったし、何よりサチ以外の全員が攻略に積極的なのだから選択肢などあってないようなものだ。その提案を受けたサチは俯いたまま即答できなかったが、最終的には同意することになるだろうとその時の俺は半ば他人心地の気分で静観していた。

 一応の落としどころとして武器は長槍のままでサチを前衛には出さない、狩場も安全マージンを十分取って無理はしない、という方針になっていたからだ。一人街に残ってPKの対象として狙われる恐怖に震えるよりは、まがりなりにも今まで無事にやってこれた実績と気心の知れた仲間を選ぶというのは想像に難くなかった。

 その提案は妥当なところだと思う。

 迷宮区に潜らなければ悪質なトラップなどほとんどないため、安全マージンを十分確保し、多数に囲まれることのないよう索敵にさえ注意すれば早々不測の事態は訪れない。あまりに無茶な内容なら制止も入れたろうが、弱小ギルドの方針としては十分穏当なものだったので部外者として口をつぐんでいた。しかし予想に反して、サチはいつまで経っても諾と返せなかった。

 

「サチ?」

 

 重苦しい沈黙に耐えかねたわけではなかった。それでも俺が声をかけてしまったのは、その時の雰囲気が黒猫団のメンバーにその気がなくとも、結果としてサチへの圧力になっていたことが明白だったためだ。本来でしゃばるべきでない俺が口を挟んだことは正しかったのかどうか。その是非の判断は未だについていないけれど、少なくとも後悔にはつながっていない。そう思いたい。

 俺が呼びかけた瞬間、弾かれたように顔を上げたサチの目には大粒の涙が浮かび、ほどなく頬を一筋流れて落ちた。

 頼るような、縋るような、そんな目をしていた。声にならないサチの叫びが全てその涙に集約しているようにさえ思えた。同時にその願いが許されないと諦めている力ない目でもあった。昨夜にも増して弱弱しいサチと目が合って、それから耐えかねたように再び俯いてしまったサチにその時の俺はかける言葉が見つからなかった。

 黒猫団の連中とは違い、俺とサチはあくまで昨日今日の関係でしかなかった。モンスターと戦うことに怯える女の子に、自ら最前線に飛び込む元オレンジプレイヤーが一体何を言えるというのか。

 気まずい沈黙。湧き上がる罪悪感。そうした沈黙の果てに、何も言えずに佇む俺に向かってケイタがおずおずと口を開いた。

 

「キリト、サチが落ち着くまでの間、僕らを手伝ってもらえないだろうか。今のサチを一人には出来ないし、多分、サチには君が必要だよ」

 

 それはサチを見かねた助け舟だったのか、はたまた俺の逡巡にお墨付きを与えようとしたものだったのか。

 結局、俺はPK事件が解決するまでならと消極的に賛成し、月夜の黒猫団指導者兼サチの護衛役の立場を受け入れることになった。

 

 

 

 

 

 そんな経緯があったから、俺が事件解決に奔走するのはサチの不安の原因を取り除き、一刻も早く最前線に戻ろうとしているためだ、とケイタが考えるのは至極当然の帰結だったのだろう。

 ケイタの推測は間違っていない、大枠は正解である。言っちゃ悪いが月夜の黒猫団の実力は高くないのだ。彼らを中層以下のプレイヤーとして十把一絡げとまでは言わないが、さりとて攻略組に是非とも加えたいと思うほど光るものを持っているわけでもない。

 むしろ――。

 ……やめよう。いつから俺は他プレイヤーを偉そうに批評できるようになったんだか。もしも今現在の黒猫団がフロアボス戦に加わるというのなら、俺自身の安全のためにも彼らを攻略会議から弾くよう動きもするだろうが、多少背伸び狩りをしているだけのギルドなのだからそう悪し様に貶すこともないだろう。

 力なく首を振る俺にケイタの表情が明るくなる。まずい、勘違いさせたか。

 

「いつかは攻略組にも戻らなきゃいけない。それは変わってないよ。ただ攻略自体は今のところ順調だって話だし、俺みたいなソロプレイヤーが一人攻略組に加わったところで何が変わるわけでもないから、今日明日にってことでもない。密室PK事件の片がつくまでは一先ず黒猫団の世話になるつもりだ」

 

 むしろ世話してるのはこちらのような気もするが。

 そんな俺の内心を知るはずもなく、ケイタは安心したようにほっと息を吐いた。

 

「助かるよ。出来れば前衛の当てが見つかるまで一緒にいてほしいところだけど」

「難航してるのか?」

「皆、新しいメンバーを受け入れるのに抵抗があるんだ。あんなことがあったからね、少し神経質になってるのかもしれない」

 

 今回の事件の余波か。宿の個室に侵入できた手口がわからない限り、身元のわからないプレイヤーを快く迎え入れるというのは難しいだろうな。

 

「ケイタ自身が前衛を務めるって線はないのか?」

 

 実際、月夜の黒猫団のメンバーで一番マシな戦い方が出来ているのがケイタだった。昆使いだけに前衛にコンバートもしやすいはずだが。

 

「全体に指示を出しながらとなると難しいね。多分僕じゃどっちつかずになって戦力ダウンしちゃうんじゃないかな」

 

 ……まあ、確かにその可能性は高い。ケイタはリーダーらしく自身を中央に置いて全体を統率指示するオーソドックスな司令塔だ。しかし黒猫団のメンバーはケイタも含めて全員視野が狭い。前衛としてモンスターと刃を交えながら、後ろに控えるメンバーに対して正確に指示を出すなどという高等技術は到底望めまい。それが出来るくらいなら弱小ギルドに甘んじてはいなかったはずだ。

 それに黒猫団は副団長を置いていない。ケイタを前に配置するのなら、当然今までケイタが請け負ってきた司令塔の役割をこなす副団長が必要になる。しかし全体を見て的確な指示を下す、ケイタ以外にそれをまがりなりにも出来るだけの能力を持っているのが、現在ただ一人の前衛だけに結局没案だ。ケイタを前衛に押し出しても元からいた前衛を下げては何の意味もない。

 つまり現状維持。そういう結論になる。

 

「下手に形を変えるより今のままレベルアップを目指したほうが堅実か」

「うん、そう思う。……僕としてはキリトの器用さに驚きだよ。キリトの盾なし片手剣スタイルは本来攻撃特化仕様(ダメージディーラー)であって、前線でモンスターを足止めするような壁戦士(タンク)には向かないはずだろう? なのに完璧に壁戦士をこなしてる。すごいとしか言えないね」

「単純にレベル差が大きいっていうのが一番の理由だけどな。ただ敏捷優先の回避型でも前衛を務めることはあるぞ。その場合はスイッチ前提の攻守入り混じった変則型の前衛になるけど」

「キリトは違うよな? スイッチなしでずっと前衛を続けてるんだから」

「それこそ格下相手だから出来ることだからな、っていうのは嫌味になっちゃうか。後はずっとソロでやってきたからダメージ判定にはシビアなんだ。システムに規定されづらい、判定のファジーなラインをある程度見極めた上で戦えるようになったというか。ぶっちゃけると俺のステ構成と戦闘スタイルでまともにボスとぶつかり合えば、すぐにライフが削られきってお陀仏だからな。そりゃあ必死にもなるさ」

「……凄いよな、キリトは」

 

 羨ましい、そうぽつりと口にしたケイタにあえて気づかないフリでやり過ごす。ケイタの望みを知っているだけに下手なことを言えなかったし、言ってどうなるものでもなかった。

 そんな少し気まずい空気の中で、丁度おあつらえ向きにメッセージの着信を知らせる音が鳴ったことを幸いに、ケイタに一言断ってから文面に目を通す。途端、渋面となった。

 

「もしかして血盟騎士団からの。……うまくいかなかったのか?」

「いや、会ってくれるらしい。日時と場所の指定もされてる」

「すごいじゃないか!? 血盟騎士団と言えばバリバリの攻略組で忙しいはずなのに、そのトップがこんなにすぐ連絡を返してくれるなんて。それでいつなんだ? 明日? 明後日? それとももう少し先なのかな」

 

 興奮して高まったケイタの声に何事かと他のメンバーが視線を向けてくる。

 彼らに応えるのは後回しともう一度文面を最初から読み取り、そこに記載された内容が変わっていないか確かめた。しかし残念ながら文面は一言一句変化していない。

 

「血盟騎士団団長は暇なのか?」

 

 指定された日時は今すぐ。「指定した飲食店に今から向かうので急ぎ来られたし」だ。

 ……あの男、やっぱり嫌いだ。

 

 

 

 

 

 悪態を内心で唱えながら出向いた先には一人の少女がいた。

 

「こんにちわ、《黒の剣士》様」

「……コンニチワ、《閃光》様」

 

 にこりと。

 それはもう清清しい笑顔で俺を出迎えてくれたのは、血盟騎士団副団長《閃光》アスナだった。二重の意味で視界に色鮮やかに飛び込んでくる彼女の存在感は、ある意味で《閃光》と称えられる卓越した剣の腕よりも凶悪なのかもしれない。血盟騎士団の女性用ユニフォーム――純白のノースリーブが眩しい騎士服に真っ赤なミニスカート、白のハイニーソックスは美貌の副団長様には似合いすぎるくらい似合っている。そして腰に提げた細剣はアスナの細身の身体とのバランスを見事に調和させ、凛々しさと優美さを際立たせていた。

 その姿を見るたび、男性ファンのみならず女性ファンも多数存在するという彼女に関する噂話はあながち間違いではないと実感する。

 しかしその女剣士殿はなんだかひどくお怒りのご様子だが、いったい何があったというのだろう。思わず敬称を使ってしまうくらい怖かった。片言の言葉に相応しいカチカチの敬礼まで無意識に出かかってしまった辺り、彼女から発せられる重圧が並大抵のことではないことは理解してもらえると思う。無性に逃げたくなった。

 

「その恥ずかしい二つ名は止めてくれないかな黒の剣士様。もしかしてわたしが好んで閃光だなんて呼ばせてるとでも思ってる?」

「滅相もない。けど、俺だってそんな仰々しい呼び方されたくないぞ。誰だよ、黒の剣士とか言い出したやつ」

 

 内心の怯えをひとまず置き去りにして久方ぶりに会う旧知の少女と睨み合った。相変わらず整った相貌である。そういえば初めて会った頃の彼女は、女性であることを隠すためか陰気なフーデッドケープを羽織っていた。第一層攻略以降、主街区や転移門の利用が出来なくなった俺は文字通りの意味でソロ活動を続けていたため、彼女が何時何を思って素顔を晒すようになったのかは知らない。第一層当時のアスナは随分張り詰めていた様子だったものの、今の彼女からは触れれば斬るような鋭い雰囲気は感じられなかった。余裕があるのだ。良くも悪くもこの世界に順応した結果だろう。

 が、なぜここまで怒っているのかは謎だ。

 しばらく二人で睨みあっていたものの、ここは最前線に近い主街区の一角だ。人目もそれなりにある。あまり長いこと珍妙な挨拶を交わしていると妙な噂を流されかねないのだけど、それでもいいのだろうか? 思わずそんな的外れな感想を抱く。

 やがてにらみ合いに飽きたのか諦めたのか、アスナが深くため息をついた。

 

「やめましょう、不毛だわ」

「賛成。それで、なんでアスナがここにいるんだよ。確かにアスナに仲介を頼んだけど、俺が用があるのはあくまでヒースクリフなんだけど」

 

 そう口にした瞬間、下火になっていた彼女の怒気が再び爆発した。それはあたかも活火山のごとく、噴火と言っていいほど劇的に彼女の頬は怒りに紅潮したのだ。やばい、と反射的に身を竦めた俺は悪くない。いや、悪いんだろうけどさ。

 

「へえ。へえ。そんなこと言うんだ。言っちゃうんだ。第一層以来一度も連絡寄越さなかった上に、フロアボス対策会議でも遠巻きに決定を聞いているだけ、時には対策会議を開く前にソロでボスに挑んでみたり。死にかけて逃げ延びたことだって何度もあるって聞いたわ。しかもここしばらく最前線でも見かけることがなくなって心配してた矢先に、初めての連絡が団長に話があるから取り次げですって? 君、どれだけ自分勝手なことしてるかわかってる……!?」

 

 地鳴りのようなエフェクトを幻視してしまうほど、今の彼女は怒り狂っていた。というか今までの鬱憤全てを吐き出している感じだ。もしかして血盟騎士団の仕事ってストレスが溜まるんだろうか。

 

「待て、落ち着けってアスナ。そりゃ自分でも虫の良い頼みごとをしたと思ってるけどさ。そんなに嫌だったのなら断って……いや、無視してくれても良かったんだし」

「そういうことを言ってるんじゃないの!」

 

 ではなんだというのだろう。元々人付き合いは苦手だ、この世界に来てからはなおさら不得手になった。そんな俺に年頃の女性の心情を慮れとか無理だろう? アルゴからも散々言われているが、一向に治る気配はない。

 

「本当、君って勝手過ぎ。メッセージの文面も用件だけの簡素なものだし、もう少し書くことだってあるでしょう?」

 

 そう言って不満そうに口を尖らせる閃光殿だった。

 そういえばアスナはその所作から良い所のお嬢さんだって噂があったな。なるほど、そんな家に生まれたのなら時事折々の挨拶やら文面の形式やらも細かく仕込まれている可能性が高いか。そんな相手に大して親しくもない俺が一方的かつ簡素な文面の要求だけを送りつけたわけで、礼儀知らずにも程があると思われても仕方なかった。まして一度もメッセージを出したことのない間柄だ。

 

「悪い。次から気をつけるよ」

 

 なけなしの誠意を示そうと腰を深く曲げて頭を下げる。

 俺の無作法についてはどうだろうな。現実世界に帰れたところで俺に礼儀作法を覚える時間があるかと言えばそれも難しい。なにせナーヴギアを介して間接的にとはいえ人を殺してしまっている身だ。バーチャル空間での殺人なんて法整備されていない項目だろうが、無罪放免になるとも思えない。父さんや母さん、それにスグには悪いけど、帰還後に矯正施設へと送りこまれるくらいはありえそうだ。

 

「これで許しちゃうわたしもなんだかなあ……」

 

 ため息と一緒にそんなつぶやきが聞こえ、次いで頭を上げてとのお許しの言葉が。神妙な顔つきを崩さないようアスナと向き合うと、彼女は実に不本意そうな表情をしていた。

 

「まだまだ言い足りないくらいだけど、団長をあんまり待たせちゃいけないから案内するね。ついてきて、キリト君」

「わかった」

 

 彼女に先導されてほどなく、主街区の大通りから一本逸れて少しばかり歩いた先の、こじんまりとした飲食店にたどり着いた。少人数向けの座卓が幾つか、それから個人向けのカウンター席が数席あるだけの小さな定食屋のようだった。見渡せば店主の男性型NPCを一人、給仕の女性型NPCを一人すぐに発見した。

 そして奥まった席に一人座るのは暗赤色のローブに身を包んだ偉丈夫だ。後頭部で縛ったホワイトブロンドの長髪、精悍な顔つき、思慮深く理知的な雰囲気を漂わせた男。見間違えるはずもない、血盟騎士団団長ヒースクリフ。

 その堂々たる姿を目にして思わず顔を顰めそうになり、口を堅く引き締めることで我慢した。

 

「団長、キリト君をお連れしました」

「アスナ君か、待っていたよ。それと久しぶりだねキリト君。立ち話もなんだ、まずは座るといい」

 

 微笑を浮かべて着席を促すヒースクリフに無言で従う。

 俺に続いてアスナが席につくとすぐに給仕がやってきた。他に客がいないせいか行動が迅速である。

 

「ああ、いや、俺は用件が済んだらすぐ出て行くから……」

 

 お構いなく、と続けようとして、果たしてNPCにそれで通じるのだろうかと疑問を持つ。ここは「いらない」とはっきり言うべきなのかもしれない。しかしそうなると不当に店に居座る悪質な客認定されかねないか。ヒースクリフとアスナが同席する以上問題はないのかもしれないけど。

 

「そう言うなキリト君。ここの食事はNPC提供の料理にしてはなかなかのものだよ。なんなら奢りでも構わないが」

「……無理を言ったのはこっちなんだ。そこまで気を遣ってもらわなくて結構だよ、ヒースクリフ」

「ちょっとキリト君、団長に向かって横柄な口を叩きすぎよ」

 

 先ほどの怒気ほどではないが、目に非難の色を込めて俺を諌めるアスナだった。副団長という立場以上に、攻略組のカリスマであるヒースクリフを尊敬しているのだろう。彼女自身、ゲームクリアに並々ならぬ闘志で挑んでいるだけに、目的の通じるヒースクリフは共感しやすい相手なのかもしれない。

 

「いいんだアスナ君。この世界では年齢や立場以上に戦闘能力が優先されるし、そうであるべきだ。私もキリト君には多大な敬意を払っているからね。むしろ正直なキリト君の言葉は実に好ましい」

 

 大人の余裕か貫禄か。子供染みた俺の態度に些かも気分を害した様子も見せなかった。その彫りの深い精悍な顔には特に不快を示す悪感情は見受けられず、何事もなかったように給仕にメニューを告げてアスナや俺にも注文を促す。幸いなのか不幸なのか、俺も昼食はまだ摂っていない。どうやら今日の昼食はこの三人で囲むことになりそうだ。……胃が痛くならなきゃいいけど。

 そんな俺の不安をよそに給仕が一度厨房に消え、間髪いれず戻ってきた。その手には注文された定食セットが載せられている。現実と違い、この世界ではほとんどの料理店で待ち時間というものが存在しない。よって注文した料理が速やかに三人分卓に並ぶのも何も不思議なことではなかった。あくまでほとんどであって、稀に現実世界と同じかそれ以上に客を待たせるやる気のない店もあるというが本当だろうか?

 

 それはともかく、俺のような効率主義のプレイヤーにはこうしたNPCレストランは嬉しい仕様なのだが、なかにはこうした待ち時間のない作業に情緒がないと嘆くプレイヤーもいるらしい。人それぞれというやつだろう。

 ちなみに食事そのものの味は悪くなかった。変に冒険した料理の少なくないアインクラッドでは現実ではとても味わえない珍味に出会うこともままあるが、ここのメニューは大よそ現実に則した料理が並んでいるようだった。あくまでそれっぽいものであって微妙に違うことは変わりないけど。ヒースクリフや俺はともかく、アスナは料理を口にするたび、そのギャップに目を瞬かせていた。舌が鋭敏なのかもしれない。

 悪くない……悪くない料理なのだが、それだけの料理である。無難と言い換えてもいい。仮に俺が店を指定し、同席する相手がヒースクリフだった場合、もっと味の残念なとんでも料理の提供店を選んだ可能性が高い。子供の悪戯並の嫌がらせだけど、この三人で食卓を囲むような機会はこの先ないだろうと思うと、些か残念な気分になるから不思議だ。

 

「さて、それではキリト君の用件を聞こうか」

 

 アインクラッドの食事事情のような当たり障りのない話題をぽつぽつ交わしていた俺達だったが、食後のコーヒーもどきを追加注文したヒースクリフがおもむろにそう切り出したことで場の空気が引き締まった。

 

「アスナ君からはキリト君が私に訊ねたいことがある、とだけしか聞いていないのだが?」

「確かにその通りなんだが……こう言っちゃなんだが、あんたよくそれだけで一席設けようなんて思ったな。攻略組筆頭の立場じゃそうそう自由時間なんて取れないもんだと思ってた」

 

 俺のような風来坊ならともかく。

 

「いくら攻略が大事だと言っても息抜きは必要だよ。団員にも折を見て休息を入れさせてはいるものの、そのあたりアスナ君は頑なでね、なかなか休みを取ろうとしない。攻略に熱心なのは喜ばしいことだが、上が休まなければ下も休みを取りづらいだろう? 今回、丁度良い機会だから君の提案を利用させてもらったというわけだ。気を悪くしたかね?」

「別に構わないよ。そっちの思惑はどうあれ、わざわざこうして機会を用意してくれたんだ。わざわざ文句を言うようなことじゃない」

「感謝する」

 

 ちらとアスナを見やれば、話題の当人は肩身の狭い様子で縮こまり、少し気落ちしているようだった。自覚はあったのだろう。血盟騎士団は攻略組のトップギルドであるため、アスナに限らず所属団員は慢性的なオーバーワークに近い状態だ。どこかで手綱を引いてやらないと取り返しのつかない事態にもなりかねない。今回はヒースクリフがアスナを慮って気を利かせたようだ、団長としては妥当な判断だろう。

 

「それにアスナ君は随分君を心配していたようだからね。この際、胸襟を開いて話し合ってみては、と思った次第だ」

「団長!? わたしはそんな……!」

 

 団長の補佐として自分がでしゃばる場面ではないと心得ていたのだろう。席に着いてからはほとんど相槌に徹していたアスナだったが、思いがけないヒースクリフの言葉に慌てて反論しようとして、言い返す言葉が見つからなかったのか尻すぼみに黙ってしまった。

 そんなアスナの渋面を見やり、顰めつらしいイメージの強いヒースクリフに似合わない朗らかな笑いが浮かんだ。微笑ましい子供を見るような視線である。見た目からして三十路超えていそうなヒースクリフだ、俺やアスナの実年齢は知らずともティーンエイジャーであるとは推測しているだろうし、事実その通りなのでこの態度にも納得はできる。面白くはないけど。

 

「アスナ君のように君を純粋に心配してというわけではないが、私自身もキリト君に尋ねたいことがあったのでね。先に私の話を済ませてしまって良いだろうか?」

「呼び出したのはこっちだ、その程度の譲歩はするさ。それで聞きたいことってのは?」

「ここ最近君がフロアボス攻略戦に不在なのが気になってね。聞けば深夜に攻略とレベリングを進めているというが、何かあったのかと心配になったのだよ。ドロップアウトをした様子でもないが一線からは引いている。どうも中途半端だ」

 

 余計なお世話だと言いたくなるのをぐっとこらえる。

 相変わらず情報屋顔負けの高いアンテナである。不定期だが結構な頻度で情報交換しているアルゴのような例外を除けば、俺の近況を知っているプレイヤーなんかそういないはずなのに。少なくともヒースクリフの周囲にいるような高レベルプレイヤー達で、俺と親しいプレイヤーなんていなかったはずだ。どこから俺の動向を聞き知ったのやら。

 

「些か腑に落ちないものを感じてキリト君と懇意にしているアルゴ君と接触した。そこで君が弱小ギルドに協力してレベリングを手伝っていると聞いたのだよ。もっともアルゴ君からは随分足元を見られてしまったがね」

 

 俺の胡乱な目つきを察したのか、早々に苦笑しながら種明かしをするヒースクリフだった。

 ……うん、わかってたけどさ。脳裏に描いた懸念の筆頭から俺の情報が漏れていた、というか売っぱられていたらしい。そりゃあ情報屋に情報を売るなと文句を言える筋合いではないのだが、アルゴのやつ相変わらず抜け目がないというかちゃっかりしてやがる。にゃハハハーと笑う想像上のアルゴにでこぴんを敢行。……ちくしょう、かわされた。可愛くない。

 溜息を一つ吐くついでにアスナのほうに目を向けると、どうやら彼女は知らなかったらしい。驚いた様子でヒースクリフと俺の双方を忙しなく見つめていた。

 

「随分熱心に調べてくれたみたいだな。俺にとっちゃあまり面白いことじゃないけどさ」

「なに、私はキリト君のファンだからね」

「戯言を……」

 

 思わず舌打ちした俺にヒースクリフは真顔で肩を竦めやがった。本気なのか冗談なのか今ひとつ判別しづらい。他人の表情を伺うのは決して得意なわけじゃないが、この男はとびっきりにその内心が読みづらいのだ。やり辛いことこの上なかった。

 

「戯言などではないよ。勇者には敬意を払うべきだと私は常々考えているのだから。まあ私の信条は置いておくとしてもだ、キリト君の不在は攻略組にとっても痛手なのだよ。君のしていることが無駄だとは言わないが、出来れば早急に最前線に戻り、私達に協力して欲しいと思っている」

 

 それが皮肉や恫喝からのものなら正面から反発もしたろうが、この時のヒースクリフからはそんなつまらない感情は感じ取れなかった。真摯と評すには無機質に過ぎる表情ではある。さりとて嘘をついている様子もない。そして、俺自身現在の自分の立場に焦燥を感じていたせいか、ヒースクリフに異を唱える気にもなれなかった。

 

「生意気なソロプレイヤー1人いなくても、攻略にそう影響があるとは思えないけどな。実際にここしばらくは死者なしで順調だって聞いてるぜ。血盟騎士団が八面六臂の活躍をしてるとも」

 

 だから半分逃げのような返答をしてしまったのも、俺自身の後ろめたさからのものだったのだろう。

 

「確かに今は順調だ。しかしキリト君も二十五層のフロアボス戦は覚えているだろう? 何時また軍の壊滅のような悲劇が起こるとも知れない。及ばずながら私もアスナ君も攻略組を支える士気を高めようと尽力させてもらっているが、私達だけでは足りないのだよ。キリト君、君の力が必要なのだ」

「それこそまさかだろう。そりゃ俺だってそこそこの強さへの自負はあるさ。けど、それとこれとは別だろう。俺は元ベータテスターで元オレンジの、嫌われ者のソロプレイヤーなんだ。そんな俺が攻略組の士気を上げるのに必要? 何の冗談だよ」

 

 最近のボス攻略会議やフロアボス戦には参加していないが、第二層以降、参加した会議や討伐隊では常に腫れ物を扱うように遠巻きに見られているだけだった。陰口や非難もあった。人を殺したオレンジに好き好んで近づいてくるようなプレイヤーはいなかったのだ。

 とはいえ、排斥されなかっただけマシだろう。フロアボス戦はギルドやパーティーの枠を超えて協力し合うという不文律がある。それをギルドに所属していないソロプレイヤーであることを盾に半ば無視して行動し、対ボス戦における単独戦闘を繰り返した前科もあるのだ。

 主観的には破滅願望に突き動かされた猪突猛進でしかないが、客観的に見ればラストアタックボーナスを含めた貴重なボスアイテムドロップを独占しようとしていると思われても仕方なかった。当時はそんな他人の事情などひたすら無視していたのだから、今の苦境も自業自得だと納得しているのだが。

 そんな俺が攻略組を盛り上げる一助になるとか、一体何を言い出してるんだろうな、こいつは。

 

「冗談ではないのだキリト君。君のレベルはおそらく私やアスナ君を抑えて全プレイヤートップのはずだ。その事実の持つ重みが決して君を軽んじることを許さない」

 

 ……推測と呼ぶにはあまりに強い口調だった。そのヒースクリフの確信を持った話しぶりに、やはりこの男は気づいているのだと改めて思う。俺が経験値ブースト系のエクストラスキル保有者であり、その恩恵を存分に利用して他プレイヤーの追随を許さない高レベルプレイヤーである事実。もっとも他のプレイヤーにしても直接問い質してこなかっただけで、疑惑は常に俺につきまとっていたはずだけど。

 

「何よりレベルだけの問題ではない。キリト君、君はこのアインクラッドで最初に誕生した剣士なのだよ。あの日、あの場所で、只一人茅場晶彦に敢然と向かっていった勇者なのだ。そしてベータテスターと一般プレイヤーの垣根を取り払った功労者でもある。皆、それをわかっているから君に一目置いているし頼りにもしているのだ。攻略組の面々も単純にレベルの高いプレイヤーを望んでいるわけではない。彼らはこれからも君を旗印にこの世界を戦い抜こうと考えている。攻略組にとってキリト君の存在はとても重いのだよ、君が考えている以上にね」

 

 この時ばかりはヒースクリフの台詞に熱が込められているようだった。ヒースクリフの語る言葉の内容よりも、むしろこの冷徹な男がそんな反応を返したことのほうが意外だったくらいだ。

 全てが終わり、そして始まったあの日。この男もまた多くのプレイヤーと同じく、絶望を抱いて空に浮かぶ巨大なアバターを眺めていたのだろうか。そんな様は全く想像できないんだけどな。

 

 《はじまりの剣士》か。

 ソードアート・オンライン開始初日。はじまりの街で起こった惨劇にちなんで、いつの間にか名づけられていた。

 《黒の剣士》と並んで呼んで欲しくない二つ名である。

 この世界では名前よりも役職や二つ名のような呼び方が横行していた。そりゃネットを源流とするバーチャル世界では本名はご法度なわけだが、そのためのキャラクターネームなんだから、誰憚ることなくキャラクターネームだけでいいじゃないかと常々考えているのだ、俺は。

 しかし俺以外の大半のプレイヤーはどうも違う認識らしい。ノリが良いのか、そこまで現実逃避したいのか。とはいえ、アスナのような多分に本名そのままのプレイヤーにとっては今の風潮も悪くないのかもしれない。

 

「全部が全部信じられるわけじゃないんだが、つまりヒースクリフ、あんたはこう言いたいわけか? 《さっさと攻略組に復帰しろ》」

 

 少なくとも現時点でトップクラスの戦力を遊ばせておきたくない事情は理解できた。

 力ある者は責任を負うという考えもある。そういった思想に心から賛同するわけではないものの、俺自身も今の安穏とした状況に浸っていて良いとは思っていなかった。自分から死にに行くような真似は金輪際するつもりはない。しかし安全だけを目的とした効率プレイをするには、俺は罪を重ねすぎたのだろうと思う。命の危険のない場所で暮らしていると、心苦しさばかりが募って胸が痛くなるだけだった。

 ……やはり潮時なのだろう。むしろ寄り道しすぎたとさえ思う。

 

「言葉を飾らずに言えばそういうことになるな。我々は少しでも早く、そして安全に攻略を進めるために常に戦力の向上を必要としている。君の力は捨て置くには余りに惜しいのだ。無論、中層以下のプレイヤーを育てることに意味がないとまでは言わない、そういう役回りも必要だろう。ギルド《青の大海(Blue Ocean)》を率いるディアベル君やギルド《風林火山》を率いる……なんといったかな、そうそう、クライン君だ。彼らが中層以下のプレイヤーへの支援を優先してくれているようだ、私としても頭が下がる思いだよ。しかしキリト君には彼らのような支援活動ではなく、是非ともフロアボス討伐や迷宮区タワー攻略のためにその力を揮ってもらいたい。どうだろうか?」

 

 より正確に言えば――。

 ディアベルは攻略組が通り過ぎたマップ調査を優先することで後に続く中層階層のプレイヤー達の安全を確保し、クラインは戦力に不安を抱えるギルドやパーティーへ助っ人と称して傭兵紛いの手助けをしているらしい。ディアベルは攻略組に合流してフロアボス戦に参加することもあるし、クラインもそう遠くないうちに攻略組に仲間入りするだろうと目されている。方向性は違うが、この二人もヒースクリフやアスナと並ぶアインクラッドの有名人には違いない。

 そして俺にとっても縁深い二人である。クラインとは一時期ほど顔を合わせづらいとは思わなくなってはいたし、時折不意に遭遇するようなこともあった。ぎこちなくではあっても挨拶や世間話に興じるくらいはしている。それでも自分から旧交を温めに行こうとは思えないあたり、俺の臆病さも相当である。奴を見捨てて一人はじまりの街を発ったこと、俺に犯罪者の烙印が押されて以降は連絡の全てを遮断したこと、謝らなくちゃいけないことは山ほどあるのに、なかなか踏ん切りがつかずにいた。

 

「……あんたの言い分はわかった。さし当たってすぐにフロアボス戦に復帰することは問題ないんだが、完全に攻略組に戻るのは少し待ってほしい。というより、今日来てもらったのはそのための相談なんだよヒースクリフ」

「ふむ。そういうことならば襟を正して聞こうじゃないか。話してくれたまえキリト君」

 

 攻略組復帰の言質をとったと判断したのか、口元にわずかながら笑みを浮かべて問いかけてくるヒースクリフ。相変わらずの上から目線だったが、それがこの男の素なのか、それともロールプレイなのか判然としない。尊大な態度のくせに妙に似合っているあたりが皮肉屋のアルゴをしてカリスマと評したこの男らしいと思う。アルゴもアルゴで本心から敬っているわけではなさそうだが、その博識ぶりと過不足なく血盟騎士団を率いる手腕には舌を巻いていた。辛口のアルゴにしては手放しの賞賛である。正確な評価を下すことには情報屋としてのプライドもあるのかもしれない。

 

「そうだな、まずは――」

 

 それから巷を騒がせている密室PK事件の概略から調査結果、俺なりの事件への考察を話すと、アスナは神妙に聞き入り、ヒースクリフは何を考えているのかよくわからない無表情を貫いていた。殊更深刻に考え込んでいるようにも見えない。話の合間合間に幾つか疑義を問い質しては来たが、それだけだ。話半分というわけではないが切迫さは感じられなかった。

 やはり攻略組ではこの事件そのものが重く捉えられていないのか? しかしそれにしてはアルゴの報告と食い違う。

 

「……なるほど。軍がこの件に手出し無用と通達してきたが、未だ解決への糸口なしだったということか」

 

 その口調からは失望や侮蔑は感じ取れなかった。ただ事実を口にしているだけ。本当にそうとしか思えない無機質さである。

 

「軍が動いてるってのは噂で聞いてたけど、血盟騎士団にそんな通達を出してたのかよ」

「我々だけではないよ。大手の有力ギルドには軍から個別に通達があったはずだ。軍は治安維持に関して責任があると自認しているから介入を嫌ったのだろう」

 

 もちろん軍にそんな法的権限はないのだが、最大人数を擁する巨大ギルドであることからその発言力は当初相当に大きなものだった。それが崩れた原因は、第25層において軍の抱える最精鋭部隊が壊滅の憂き目に遭ったことだ。以後、軍はその影響力を一気に削られていった。

 

「軍の動きが鈍いのは戦力補充が上手くいってないせいなんだろうな」

「最近では治安維持活動にも支障をきたしていると聞いているよ。どうも内部で意見の衝突が激しいようだ。彼らとしてはこれ以上求心力が低下する前に何か目に見える成果を欲したのだろうが、今回は裏目に出たようだな。我々も当初は下の出来事と気にしていなかった事情があるため軍を強く非難できないのだが、下の混乱が上にも波及してきていてね。何らかの手を打つ必要は感じていた」

 

 だから今回の話は渡りに船だったと続けるヒースクリフ。本当にそう思っているのかと聞き返したくなるような味気ない調子だった。

 

「俺が世話になってるギルドにもこの事件ですっかり怯えちまった団員がいる。事件の解決と安全を確保できるまでって条件で宥めたわけなんだが、PKの手口はともかく密室にできた手段が全く思い浮かばなかった。あんたなら何かわかるかも、と期待したんだがどうだ?」

 

 そう問いを向けるとヒースクリフは両手を組んで顎を乗せ、しばし沈思に耽った。小さな飲食店の一席だというのに、この男の仕草一つで世界が変わる――重厚な執務室で執政を取っているような錯覚を覚えるのだから、この男の醸し出す雰囲気がどれほど常軌を逸しているかわかるだろう。浮世離れしていると言い換えてもいい。

 

「……そうだな、PKの手口に関しては睡眠時を狙った決闘だというキリト君の意見に私も賛成だ。そして施錠された個室に侵入し、脱出した方法だが、私に心当たりがある。無論、検証は必要だろうがね」

「本当か?」

 

 思わず身を乗り出した俺にヒースクリフは鷹揚に頷いて見せた。それからメニューを操作してとあるアイテムをオブジェクト化したのだが……。

 

「これは……もしかして回廊結晶(コリドークリスタル)か?」

「キリト君も知っていたか、ならば効果の説明は割愛して話を進めよう。回廊結晶は転移結晶以上に数が少なく値も張るアイテムだが、手に入れさえすれば、今回の事件の焦点となる密室を作り出すことも出来るだろう」

 

 回廊結晶は最近になって発見された転移結晶の亜種アイテムだ。今のところフロアボスからのドロップか迷宮区の宝箱(トレジャーボックス)からしか入手を確認されていないため、手に入れるのはひどく困難なレアアイテムの一つだった。

 その効果は記録していた場所に瞬時に移動できる扉を作り出すこと。転移結晶と異なるのは個人でなく集団で移動することが出来る点にある。また転移先についても細かい調整が可能で、フロアボスに続く大扉の前に設定しておけば踏破に時間がかかる迷宮区で雑魚戦を繰り返し、貴重な余力を消耗するような事態を避けてボスに挑めるようになる。攻略組にとってこれほど重宝されるアイテムは中々ないだろう。ただし入手頻度が極めて限られているため、転移結晶以上に乱用できない貴重品でもあった。

 俺とて話に聞いていただけで実際に手にしたことはまだない。もっともソロプレイヤーの俺では、手に入れても使いどころに困ることになりかねないアイテムだけど。

 しかし――。

 

「うろ覚えで悪いんだが、回廊結晶で場所設定できるのはあくまで公共の場所か制限のない狩場であって、宿の個室みたいな私的空間を刻むことは出来ないはずじゃなかったか? それに記録しておける時間にも24時間の制限があったはずだ」

 

 俺とアルゴだって回廊結晶の存在に気づいていなかったわけじゃない。しかし回廊結晶の持つ制限事項から宿内部での犯行を可能にした手段だと思わなかった。だからこそ候補から外したのだ。

 

「キリト君の指摘通り、通常回廊結晶で宿の個室を記録することは出来ない。しかし条件付きではあるが例外を作り出すことは可能だ」

「もったいぶるなよ。で、その方法は」

「自身の契約した部屋である場合だ。宿システムにプレイヤー名義で登録された場合、その部屋に限っては回廊結晶の記録先として使用できる。当然、別プレイヤー名義の部屋は不可能だがね。あくまで自身の部屋に限られるよ」

「ちょっと待ってくれ。そうなると宿の個室に泊まった被害者本人が回廊結晶に記録したのか? そいつをわざわざ犯人にくれてやったと? 被害者は下層プレイヤーだったんだから回廊結晶を入手できたとも思えない。まさか犯人に渡された回廊結晶を使ったなんて言わないよな」

 

 真偽はともかく、理屈の上で成り立つ方法であることは否定しない。しかし屁理屈にも似た強引さだ。そこまで被害者プレイヤーが間抜けだとも思えなかった。

 

「私もそこまで強引なこじつけをする気はないよ。回廊結晶は犯人が用意したものだろう。犯人の行動としてはこうだ。まず使われていない宿の一室を登録し、適当な時間を見計らって回廊結晶に記録する。翌日、宿を引き払った犯人は誰か別のプレイヤーが前日自分が利用していた部屋を使おうとするのを確認し、深夜回廊結晶を起動して部屋に侵入した。後は寝ている被害者の身体を操作し、決闘要請を承認させてPKに及べばいい。回廊結晶は数十人単位で通過できるアイテムだ。起動してから数分間は扉が維持されているから、PKを済ませた犯人がそのまま元の場所に戻ることも十分可能だろう。これで密室の完成だ」

 

 得意げな顔になることもなく自説を淡々と口にするヒースクリフ。奴の語る言葉に言い知れぬ不気味さを感じるのは、実際に犯人が深夜PKに及ぼうとする情景がありありと想像できてしまったせいだろう。見ればアスナも血の気の引いた顔をしていた。

 ごくり、と生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。

 

「つまり、無差別殺人だった、ってわけか?」

 

 回廊結晶で記録しておける制限時間や場所の選定を考えれば、今回明らかになった手口は特定個人を狙うには不向きだ。なにせ他人名義になった部屋を記録することは不可能なのだから、自身の名義であるうちに記録し、そこから24時間以内に犯行に及ぶ必要がある。被害者の選別は難しいだろう。

 

「無差別の可能性が一番高いが、犯人と被害者の関係が不明な以上それ以上はわからない。24時間が経過して回廊結晶に刻んだ場所の記録が消えても、結晶自体が消えるわけではないからね、何度か機会を吟味したということも考えられる」

「そうなるとやっぱり犯人追及は無理か……厄介な」

「犯行前日の宿の記帳システムを調べれば犯人のキャラクターネームが残っているはずだが、それを閲覧できるのはログとして内部情報を監査できる現実世界側の人間だけだろうな。私達プレイヤー側からは無理だ」

「現実世界側……つまり茅場晶彦か。ゲームマスターへの呼び出しにも一度も応答がなかった上に、デスゲームを引き起こした張本人だ。考えるだけ無駄だな」

 

 投げやりな俺の感想に同感なのか、ヒースクリフにしては大仰に頷いて見せた。

 基本的にこの世界では犯罪を裁けない。治安維持を謳っている軍だとて監獄エリアに続く施設を押さえているために大きな顔をしているだけで、捜査権限や法の後ろ盾はない。そもそもこの世界に司法なんてないのだから当たり前なのだが。

 元オレンジの犯罪者プレイヤーである俺が言うのもなんだが、この世界で罪を明らかにしたいのなら現行犯以外にはないのだろう。だからこそプレイヤー1人ひとりにモラルが求められる。しかし無差別の疑いが強い今回の事件を見るに、そろそろプレイヤーの良識に期待するのも難しくなってきたのかもしれない。元よりストレスの高い生活なのだ、溜まりこんだ鬱憤が一度あふれ出せば歯止めがきくかどうかなど誰にもわからない。

 人間同士の争いの予兆。オレンジプレイヤー量産への端緒。最悪は殺人を志向するプレイヤーキラーの誕生。

 今回の件からどうしても暗い未来を予感せざるをえない。

 

「回廊結晶の悪質な利用法に関しては検証も必要だろうけど、どうしたもんだろうな。回廊結晶自体が貴重品だから気軽に手に入らないのが痛い。なあヒースクリフ、相場の何割増しか払うからさ、それ譲ってくれないか」

「いや、検証はこちらでやっておくとしよう。血盟騎士団には広報担当部門もある。元々は優秀な団員を募るために用意したのだがね。彼らに今回の件の経緯と対応策を発表させようと思う。その際には君の協力があったことも明記させてもらおうと思うが、どうかな?」

「ギルドで広報してくれるなら手間が省けるな。それと俺の名前はいらない。悪名高いソロプレイヤーの名前が並ぶよりも、血盟騎士団が単独で発表したほうが信頼されるはずだ」

 

 ギルドもパーティーも結成してない身だ、知名度や名声をメリットに代える手段がないのに注目を集めても仕方あるまい。そんな俺の態度にヒースクリフは何も聞かず頷き、アスナは何かを口にしようとして寸前で飲み込んだような様子だった。

 別に強がりを言っているつもりも、手柄を譲ろうという殊勝な心持でもなかった。手柄どうこうなら回廊結晶のくだりは完全にヒースクリフ任せだったのだし、決闘による手口も思いついていた連中はそれなりにいたはずだ。

 そもそも犯罪を防ぐための発表に元犯罪者の名前を載せてどうする、という思いが強い。そのあたりを口にせずとも大人の感覚で割りきれるのがヒースクリフ、わかっていても納得してないのがアスナの表情だろう。

 

「念のために聞いておくけど、発表の概略はどんな感じで考えてるんだ?」

「犯罪防止エリアでPKを可能にした手口が睡眠時の無防備を利用した強制的な決闘、宿の個室に侵入した手段が回廊結晶の悪用だね。対応策としては宿泊施設を頻繁に変えないこと、それから新しい宿を利用するときは契約してから一日空けておけば問題ない、と言ったところだろうな。キリト君、何か付け加えることはあるかな」

「ないな。強いて言えば、回廊結晶はまだまだ高価で希少だ。入手できるプレイヤーは最前線かそれに近い階層を根城にする高レベルプレイヤーの可能性が高い。これは発表すると攻略組と中層以下のプレイヤーで衝突の種になりそうだから内々にでも注意を促してほしいってとこか。俺からはそれくらいだよ」

「キリト君の懸念はわかるが、正直時間の問題ではないかな。少しでも目端のきくプレイヤーならば、今回の事件は資金力に秀で情報に精通した高レベルプレイヤーが引き起こしたものだと予想がつく。本腰を入れて犯人探しなどと不毛な真似をする気はない。しかしその程度の犯人像、公表してしまっても問題にはならないと思うが」

 

 ヒースクリフは相変わらず表情に乏しく抑揚に欠いた口調だった。今回の事件が攻略組に対する不審につながる可能性があるというのに、攻略組筆頭に挙げられるこの男にはまるで歯牙にかけた様子がない。

 あるいは、この世界に閉じ込められてから半年が経とうとする今になっても中層以下で安穏としているプレイヤーに、すでに見切りをつけているのか。攻略組内部で相互不信にさえならなければ問題ないとでも思っているのかもしれない。少なくとも血盟騎士団に関しては統率しきる自信があるのだろう。

 

「かもしれないが、無駄に不審の種をばらまく必要もないだろう。どうせ犯人が名乗り出ない限り捕まえることなんて出来ないんだ。それなら発表には犯人の特定を促すより、身を守る手段を前面に押し出した論調のほうがいい。あんただってそっちのほうが都合がいいはずだろ」

 

 少しばかり揶揄したような言い回しをしてしまったが、ヒースクリフは別段気にした様子もなく小さく頷いた。

 

「確かにその通りだな。そうさせてもらおう」

 

 そう重々しく口にする男に内心では舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。しかし俺の不満はわざわざ口に出して言うことでもない。その発言全てが俺自身に返ってくるのだから、言うだけ間抜けになるだけだ。

 そうした内心の煩悶を抱えながら、それでも先の見通しが開けたことに喜びを感じてもいた。ヒースクリフへの好悪の感情は別として、十分に有意義な会合だったことは間違いない。細々と今後のことについて幾つか話し合い、急遽開催された常ならぬ小会議はそれから間もなく解散した。

 

 

 

 二人と別れ、帰路をゆっくりと辿る最中、一時的に足を止めてぼんやりと考えに耽る。

 フロアボス攻略会議は近いうちに開催されるだろう。約束通り俺もその席に加わることになる。

 

 ――月夜の黒猫団を離れる日も遠くない。

 

 近い未来を思って我知らずついて出た吐息が落胆によるものだったのか、それとも安堵によるものだったのか。

 その答えを俺はあえて求めることはせず、ゆっくりと歩を進め始めた――。

 

 




 《回廊結晶》の記録できる時間・場所制限、宿屋のセキュリティ等は独自設定です。

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