「いやーーっっ!! キリトさん見ないで! 見ないで助けて!」
悪い、それは無理。
眼を閉じたまま自由自在に戦闘動作を可能にするような、言わば心眼スキルを俺は持ってない。というかソードアート・オンラインにそんな便利スキルは搭載されていなかった。多分これから先も発見されることはないだろう。
果たしてそんな俺の内心が聞こえていたのか否か、醜悪な触手に両足を掴まれて振り回されていたシリカの悲鳴は、既に泣き声と大差なかった。
今、俺の眼前では上空高くに吊り上げられて、涙目で必死になってスカートを抑えている少女の図が展開されている。……すまん、こうなるとは思わなかった。
さすがに女の子にこの仕打ちは可哀想だと判断し、瞬時にシリカを捕らえていた植物系モンスターに剣が届く間合いまで距離を詰めるや否や、一刀の元に切り伏せた。リーチと拘束力に秀でている代わりに防御力の心もとないモンスターは、その一撃だけですぐさまポリゴン結晶へと還って行く。
「きゃん!」
遅れて俺の腕のなかに飛び込んできた――もとい落下してきたお姫様ことシリカ。
その可愛らしい悲鳴に頬を緩めたくもなるのだが、はたしてそれだけで済ませて良いものか。
地面に叩きつけられて落下ダメージを受けないよう救出はした。しかしいくら醜悪極まりない外見のモンスターだとはいえ、生理的嫌悪感から有効な反撃が出来ずに振り回されたことは叱るべきことなのかもしれない。
でもな、昆虫とか蛇とかに鳥肌が立つほど苦手な女性も多いと聞くし、そういう苦手意識は口でどうこう言ってなんとかなるものでもないのだろう。そう考えると一方的に叱るというのもよくなさそうなんだが。
「キリトさん、見ました?」
お姫様だっこがお気に召したのか、それとも乙女の秘密を見られたかもしれない羞恥に耐えていたのか。しばらく俺の胸に顔をうずめていたシリカだった。そんなシリカもようやく気持ちの整理がついたのか、おずおずと顔を上げ、真っ先に上目遣いで尋ねてきた内容には少々感心した。ほう、最初に気にすることがそれとは、シリカも結構余裕があるじゃないか。
……なんて。いや、ごめんなさい。その件に関しては俺のほうが余裕がないかも。
「その、なんだ、丈の短いスカート装備を渡しちゃってごめんなさい?」
「あうぅ。やっぱり見たんだ。見られちゃったんだ。あたし、もうお嫁にいけないかも……」
それは流石に気にしすぎでは、と思うのだが、生憎被害者はシリカで、この場合の加害者は憎きモンスターではなくこの俺なのである。シリカとてモンスターに下着姿を見られてもここまで嘆いたりはしないだろう。現実世界で言えば犬猫に下着を見られるようなものだ、俺と目を合わせられないほど強く羞恥心を刺激されることなどあるまい。
この場合、あくまで年の近い異性である俺相手だからこそ、ここまでの精神ダメージを受けているのだった。あれは不可抗力だと思うのだが、こういう時ひたすら男の立場は低い。
アスナ、アルゴ、サチ、そしてシリカ。
この世界で出会い親しくなった女性プレイヤーの顔を順々に思い出し、やはり女性の扱いには細心の注意と心配りがいるのだとしみじみ思うのだった。
まさかのシリカ同衾から一夜が明けた。
一晩経って落ち着きを取り戻すと、さすがに男と同じベッドで眠ったという気恥ずかしさに襲われていたのか妙にぎこちない様子のシリカだった。そんなシリカを伴って朝食を終え、軽く武装やアイテムをチェックしてからすぐに第47層に旅立ったのは予定通りの行動だ。
第47層主街区フローリア。通称フラワーガーデン。
娯楽の少ないアインクラッドでは珍しい観光名所であり、カップルの憩いの場として有名であった。
この世界でも結婚システムはあるのだが、結婚するとお互いのステータスを自由に閲覧可能になったり、アイテムストレージが夫婦で共有になってしまう。いくら恋人同士だろうとそのために命綱である詳細なステータス数値やアイテムをお互いに握り合うという行為はひどくストレスになるし、疑心暗鬼の元になるものだ。共有アイテムストレージを利用した犯罪の手口も幾つか公表されているだけに、誰もが結婚には消極的だった。結婚詐欺を仕掛けてアイテム強奪に勤しむ、なんて犯罪は誰だって思いつく初歩の手口だ。アインクラッドで結婚に踏み切ることに誰もが及び腰になるのも至極当然のことだった。
しかし夫婦にならないからといって恋人関係が成立しないのかと言えばそんなことはなく、ここアインクラッドでも多数のカップルが成立している。吊り橋効果と言えば途端に胡散臭くなってしまうものの、命の危険が日常に潜む世界で互いの身を守りあっていれば自然と情も湧くものだ。この世界でのカップル誕生は別に意外なことでもなんでもない。
そしてそんな恋人たちのデートスポットとしてフラワーガーデンは最適だった。一面の花畑はカップルならずとも一見の価値があるだろう。シリカなど到着してすぐに歓声をあげるや花畑に駆け出したくらいだ。そんなシリカの微笑ましい姿に苦笑しながらゆっくり彼女を追いかける。
「昨日ホログラム模型で少しだけ見せてもらいましたけど、やっぱり自分の目でみると感動します」
「ソードアート・オンラインが誇る超技術の賜物だな。現実よりも現実らしいというか、ここまで人を感動させる光景なんてそうそう見れるもんじゃない」
「ほんと、そうですよね」
ソードアート・オンラインが悪魔のゲームであることに異論を唱える気はない。この世界に閉じ込められた1万人のプレイヤーにとって、ソードアート・オンラインと茅場晶彦の名前は悪魔の代名詞だった。しかし、それでも俺はこう思うのだ。ソードアート・オンラインが普通のゲームとして運営されていれば、と。
それほどこの世界は精緻に作り上げられていて、壮大で勇壮な景色やド迫力のモンスター群、全容を把握できない多岐に渡るスキルシステムや各種イベントは人の心を魅了してやまない。初期ロット参加プレイヤーをゲーム内部に閉じ込めるなどという暴挙さえなければ、茅場晶彦とソードアート・オンラインの名はゲーム業界のみならず人類の歴史に燦然と輝く功績になっていたことは間違いない。だからこそ惜しい。こんな形で技術と可能性を浪費させてしまったことが。
そして、心からこの美しい光景に感動できない自分が物悲しかった。
「なんだか男女のペアが多いですね。もしかして恋人さんたちでしょうか?」
周囲を見渡して不思議そうにつぶやくシリカに、そういえば説明していなかったかと気づく。
「言ってなかったっけ。フラワーガーデンは恋人たちの憩いの場としても有名なんだよ。アインクラッドで一度は訪れたい観光名所として紹介されたりもしてたはずなんだけど、聞いたことないか?」
「あたしくらいのレベルの中層プレイヤーにとってここはまだまだ危険な階層ですから。もちろん主街区だけなら安全だって皆わかってるんですけど、どうしても自分に関わりのない上の層には関心が薄くなっちゃうんですよ。あまり上の情報も流されないんです。もちろんあたしが世間知らずなだけかもしれないですけど」
恐縮そうに答えるシリカを気にするなと宥め、もう一度見事な花畑をぐるりと見渡す。
中層プレイヤーはアインクラッドにおいて一番日々の生活を楽しんでいる層だ。毎日の狩りを少しのスリルとともに楽しみ、危険度の少ないクエストを選んで冒険心を満たす。そうして気の知れた仲間に囲まれて噂話や雑談に講じるのだ。多分娯楽の類も中層プレイヤーの生活圏が一番充実しているだろう。
翻って攻略組はどうなのかと言えばどうしたって攻略優先の尖った雰囲気が消えないし、逆にはじまりの街付近の下層エリアでは戦うことを諦めたリタイアプレイヤーが多いためにいつだって陰鬱とした空気に支配されている。軍が迷走を始めているせいで治安も良くない。軍内部でも不穏な気配が漂っていると聞こえてくるのが不気味なだけに、軍上層部にはさっさと綱紀粛正に努めてほしいものだと心底思う。直接関わりのないコミュニティとは言え、あまり聞いていて嬉しい情報ではない。
攻略組プレイヤー、中層プレイヤー、下層プレイヤー。
細かく区切ればさらに特徴や習慣の変化も見られるのだろうが、おおまかに言って現在のアインクラッドのプレイヤー状況はその三種類に分けられる。そのなかで中層プレイヤーの数がもっとも多く、同時に危険の少ない安定した生活を送っているのだ。よく言えば安穏とした、悪く言えば保守的なコミュニティの集まりである彼らだから、自分のレベルに見合わない階層の情報にアンテナを高くしないのもむべなるかな。
「キリトさんはこういう場所、好きじゃないんですか?」
「そんなことないけど、どうして?」
「あたしが言っていいことなのかわかりませんけど、キリトさん、あんまり楽しそうじゃありませんから」
寂しそうに、そして申し訳なさそうに告げるシリカの言葉にはっと目を見開く。まずい、誤解させたようだ。
「心配させてごめん。こういう場所は好きだよ。それにあんまり男らしい趣味じゃないから広言しないで欲しいんだけど、花の世話をするのも結構好きだったりするしな」
そう言ってあたりを見渡す。うん、やっぱり綺麗だな。
花に関する趣味はもちろん本格的にやっていたわけじゃない。父さんが庭木の手入れをしている姿に触発されたこととか、小さいころスグに花を贈ろうとした影響とかで手慰み程度に齧っただけだ。それでも同年代の男のなかでは花に詳しいほうじゃないかと思う。だからなんだというささやかな趣味でしかないが。
俺が気落ちしていたように見えたのなら、それはこんな綺麗な景色にも足を止めることなく攻略に全精力を傾けていた、殺伐としか言いようのない俺自身の過去に思うところがあったに過ぎない。自分が剣を振るうだけの機械になってしまったようでやるせなかった、それだけのことだ。多分、そうした後悔が顔に出ていたのだろう。
「そうだな、こうすれば楽しくなるかも」
そんな内心の煩悶をシリカに悟られないよう、殊更明るい声をかけてしんみりした空気を霧散させ、彼女の小さな手を取って歩き出す。これもエスコートの内に入るのだろうか。
「え、ええぇ!? キ、キリトさん?」
俺の突然のスキンシップにシリカは素っ頓狂な声をあげてまばたきを繰り返してみたり、顔を真っ赤にさせてみたり。
気まずい思いを誤魔化すためだったとはいえ、少し強引だったか? しかしシリカに驚きはあっても拒絶はないことが見て取れたので、離す必要もないだろうと結論付けてしまう。
シリカの手を取ったままいつもより気持ち歩幅を短く、ゆっくりと歩いた。幸いここは恋人の多く訪れるデートスポットだ。男女が手を握って歩いていても違和感なく周囲に溶け込んでしまう。むしろ暖かな視線を幾つも感じた。多分俺とシリカを年少のカップルだと誤解してのことだろう。微笑ましいものを見る目だった。
「ほら、シリカ。名残惜しいけどもう行こう。デートの続きはピナを生き返らせてからゆっくりしようか」
「デートって……。もうキリトさん、あんまりからかわないでください!」
ようやく俺にからかわれていることに気づいたようで、ぷんぷんと頬を膨らませるシリカだった。しかしあくまでふりだけで言葉ほど機嫌を損ねたわけではなさそうだ。嫌がるそぶりもなく結んだ手を振り払わないことがその証拠だった。
俺としても半ば勢いでやってしまったことなので特に後先を考えていたわけでもなく、結局安全圏であるフラワーガーデンを抜けるまで、ずっとシリカと仲良く手をつないだままだった。
そんな心温まる一幕があったが決して攻略そのものを疎かにしていたわけではない。油断をして不覚を取ったわけではないのである。シリカを襲ったハプニングを除けば、思い出の丘の攻略そのものは順調だった。
そのハプニングにしてもシリカがダメージを受けるまで傍観するつもりはなかった。現時点でのシリカの危機対応能力、具体的に言えば索敵能力を確かめる意味で奇襲を防がなかったのだが、結果はシリカが逆さまに吊るされるという、多少俺の予想からずれてしまったことが幾ばくかの誤算だったくらいだ。
シリカに攻略組顔負けの用心深さやスキルの高さを期待したわけではない。
中層プレイヤーの間で有名だった《竜使い》だけにパーティー前提の戦い方に慣れているのだろうとは予想していたし、事実索敵に弱いことは確認できた。もしかしたら相棒のピナがその役目を負っていた可能性もある。使い魔モンスターの特性として敵性存在の気配を的確に捉えて主に注意を促す能力も持つと聞いているので、おかしな推測ではないだろう。その分、現在のシリカの頼りなさが目につくようになっているのは残念なことではある。しかしその程度なら俺がフォローできるのだから問題はなかった。
事実、その後のシリカの戦いぶりは俺のフォロー込みという前提を考えれば十分に満足できるものだった。先日の森の脱出行でも感じていたことだが、シリカの動きは実に軽やかでかつ鋭い。攻守の判断も的確で迷いがなかった。高レベルプレイヤーが後ろに控えているという安心感が手伝って思い切りの良さにつながっていたのかもしれないが、いつかアスナやクラインに見出した戦闘センスの片鱗をシリカからも感じ取ったことは確かだ。鍛えればモノになる、という俺なりの直感である。
俺も要所要所でカバーに入り、敵の数が多かった場合はさっさと俺が前に出て間引いてしまい、残りの一体だけをシリカに任せた。黒猫団をフォローしていたときのように、危険な攻撃はパリングを駆使して弾きまくったこともあってシリカはさくさくと敵を狩っていった。
このあたりの匙加減はシリカの心情も汲んでのことだ。最初から最後まで俺が全てのモンスターを相手にし、シリカの手を煩わせずにピナ蘇生を達成してしまうと、ピナの家族であり親友を自負するシリカの立つ瀬がない。これから先、必要以上に萎縮させる結果になってしまいかねないことを思えば、極力シリカ自身が達成感を得られるように配慮する必要がある。
俺個人としても、シリカには叶う限り自分の手でピナを生き返らせてほしいと思っている。俺はどこまでいっても部外者でしかないのだから。
それにこの階層のモンスターは観光名所に付随するフィールドのせいか、モンスターの脅威は他の階層の平均に比べると多少なりとも低い。装備の充実した今のシリカなら十分に渡り合えるのだから、過保護なまでに俺の後ろへと控えさせることもなかった。
そもそもゲーム難易度的には、シリカのレベルでもこの階層に踏み入れないなどということはないのだ――死んだらそこで終わりという制限さえなければ。
アインクラッドの不文律としてHPがイエローゾーンに陥るようなら即時撤退という常識がある。そのためにプレイヤーの想定する継戦能力はとても低い。攻撃力や防御力の数値で見れば、そしてこの世界が本来の意味でのゲーム世界であったなら、47層とてシリカにとって適正レベルでの狩場に過ぎないはずだ。
俺が思うに、デスゲームでさえなければこのゲームの攻略適正レベルは階層とイコールで結ばれる程度で済む。イエロー即撤退の戦術。命がかかっているために必要以上に保身的にならざるをえないことで、結果的に思い切りに欠ける現実。死への重圧が心身共にプレイヤーを蝕み、判断力を奪うという制限。それら全てが安全マージンの大きさへとつながっているのだと俺は考えている。
もちろんそうした意識や割り切りをしているのは少数派、もしくは俺だけの可能性もあるし、警戒を緩めて良い理由にはならない。
それでもシリカが不覚をとった出会いがしらの不意打ちをあえて見逃した戦闘を終え、索敵は全て俺が担当することを改めて言い聞かせてからの道中は、半ばシリカの経験値稼ぎの狩場となり果てていたのだ。俺の持論もそう捨てたものではないと思う。
レベルさえどうにかなれば十分攻略組に通用するシリカの身のこなしと戦闘技術だ。これでピナのサポートが加われば戦力としてかなり将来に期待の持てるプレイヤーだった。惜しむらくは既に攻略組との大きなレベルギャップがあることか。今から鍛え上げても現在の攻略速度で推移する限り、ゲームクリアに大きく貢献するのは難しい。もちろんシリカ自身にそこまで命をかける覚悟があるかとか、そんな環境で戦い続けられる精神力の持ち主かとかの問題は別だし、そうしなければならない理由もないから俺の勝手な感想に過ぎないわけだけど。
こうしてみると、シリカが中層で竜使いとして有名だというのも、なにも見た目と物珍しさに限った話ではないのだと改めて考えさせられる。ただのマスコット少女ではない、戦闘プレイヤーとしても一角の実力者だ。
道中シリカのレベルが上がったことを二人で喜びあったり、昼食にはシリカお勧めの弁当の感想を言い合ったりしながら和気藹々と進む。ちなみにシリカは、何故か弁当を手作りで用意できなかったことに不満そうだった。現実では簡単な弁当くらいなら用意できるそうだが、こっちでは料理スキルを取得していないせいで料理関係はさっぱりなのだそうだ。親切な知人プレイヤーからお勧め食事処などをよく聞かせてもらえるために食事に不満はないというが、ではなぜ今不服そうなのかと聞くと「キリトさんに料理のできない女の子だと思われたくないんです」と目を逸らしながら答えた。
アインクラッドのプレイヤーメイド料理はあくまでスキル熟練度によるもので、実際の調理技術とは全く別の話だ。それに現実世界でも女の子は皆料理できなければならないなんて極端な思想を俺は持ってないので、たとえシリカが料理の出来ない女の子でも全く気にしないんだけど。そのあたりを告げてみてもシリカは女の子の意地ですと納得した様子はなかった。
ふむ、男にも張らなきゃならない見栄があるように、女にも譲れない一線というものがあるのだろう、多分。
そんな会話を楽しむ傍ら、モンスター対策は完璧にこなしてまったく危なげなく目的地に到着した俺とシリカである。
昨夜の情緒不安定なシリカの様子から道中の苦労を多少なりとも心配していたのだが、一晩経ったことで気持ちの整理が出来ていたらしい。それとも元々集中力の高い娘なのか。無駄に好戦的だったり、逆に臆病風に吹かれてしまうこともなく、俺の指示に素直に従ってくれたおかげで予定よりも随分早く到着できた。
事前の想定としては夕暮れまでかかる、最悪は一日がかりの大仕事になるかもと覚悟していたのだが、拍子抜けするほど迅速に思い出の丘の頂上に辿り着けてしまった。口にはしないが結構びっくりしていたのは内緒だ。
「あれがプネウマの花の咲く岩……」
そんな間抜けな思いを抱えた俺とは異なり、シリカはついに辿り着いた目的地を前に高揚した気分を抑えられないようだ。上擦った声色で一刻も早く駆け寄りたいのだと全身で主張している。俺から不用意に離れないよう言いつけられていなければ、すぐにでも走り出していたことだろう。
ここまでくればもう大丈夫だ。索敵スキルの視界にも敵影はないし、プネウマの花が咲く岩場の周りはもしかしたらモンスターの徘徊範囲外の可能性もある。警戒は続けるが過度の心配はいらない。
「大丈夫。行っておいで、シリカ」
「はい!」
思い出の丘の中心に位置する岩にプネウマの花は咲く。ただし近づくのがビーストテイマーでないとフラグ条件は満たさないため、例えば俺が近づいても何の変化も訪れない。その正確なメカニズムを俺は知らないので、保険の意味でもシリカを先行させる必要があった。ここまで来てフラグ構築に失敗して花が咲かないとかなったらシリカに会わせる顔がない。
「あ、あれ? キリトさん、プネウマの花がありません!?」
だから、岩を覗き込んだシリカのその叫びに一瞬背筋がひやりとしたのは事実だ。
「よく見るんだシリカ。《プネウマの花が咲く》って言うくらいだから、すぐにイベントが起動しない可能性もある」
返答はすぐだった。
「あっ! ありました! すごい勢いで成長してます。わぁ……もうお花をつけちゃいました」
呆然としたシリカの声を聞きながらほっと息をつく。俺からもプネウマの花が咲く一部始終は見えた。まるで記録映像を高速再生するかのように双葉が萌芽したかと思うと、瞬きするうちに白い花弁をつけてしまった。その幻想的な光景に感動する以上に、うまくいってよかったという安堵が胸を満たしていたのはご愛嬌だろう。いや、ほんと咲いてくれてよかった。
「花に触れてごらん」
シリカの背後に立って優しく告げると、シリカも嬉しそうに返事をしてすぐに指を《プネウマの花》に触れさせた。すると大自然のなかに咲いた一輪の花から、使い魔蘇生アイテム《プネウマの花》としてオブジェクト化し、やがてシリカのアイテムストレージに消えた。
「これで、これでピナが帰ってくる。よかった、本当によかったよぅ」
ぼろぼろと涙を流して感極まったように胸に手の平を当てるシリカの姿に、ここ数日感じていた鬱屈が全て洗い流されていくようだった。人から見れば大したことがないと思えるのかもしれない。ピナは所詮この世界にしか存在しない電子情報のかたまりだ。現実に生きる人間からすれば絵画や物語に登場するキャラクターと同じ実在しないものでしかない。そんなピナを家族だと呼び、帰ってくるのだと大粒の涙を流すシリカの姿は滑稽なものに違いなかった。
しかしそれがなんだというのだろう。俺達は何の因果か茅場晶彦によってこのゲームの世界に閉じ込められてしまった。現実の身体は今もどこかの病院で眠っているのかもしれないが、それでもここにいる俺達はまやかしなどではない。生きているのだ。生きてここにいる。この電脳世界を現実と認め、死んでなるものかとなけなしの勇気を振り絞って戦っている。
ならばこの世界は俺達にとってもう一つの現実だった。この世界で生きるシリカがピナのために流す涙を、一体誰が否定できるというのだ。否定して良いと思うのだ。
今、俺の胸を満たす充足感は決して偽りなんかじゃない。
「キリトさん、本当にありがとうございました。ここまで来れたのはキリトさんのおかげです」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら礼を言うシリカの愁眉はすっかり晴れていた。今までのシリカよりずっと魅力的な表情を浮かべている。ピナを蘇生させられるプネウマの花を無事手に入れられたことで、ようやく安心できたのだろう。今までシリカを包んでいた、隠し切れない張り詰めた緊張感が解けてすっきりとした表情だった。
……後はピナを実際に生き返らせるだけなのだが。
「それじゃシリカ、悪いんだけど……」
ここまできてお預けを強いるシリカへの申し訳なさも手伝って、思わず語尾を濁してしまう。
「わかってます。安全圏に戻るまでピナを生き返らせるのは我慢しますね」
「すまない」
笑顔で頷くシリカの心遣いに罪悪感が募る。
そんな俺の内心に気づいているのだろう、シリカは気にしないでくださいと付け加えた。
《プネウマの花》を手に入れ、胸を弾ませながら元来た道を戻っていく。フラワーガーデンまであと少し、キリトさんがあたしを制止したのはそう思ったのとほぼ同時だった。
「出て来いよ。そこにいるのはわかってる」
思わず震えがくるほど冷淡な声音があたりに響きわたる。
あたしにかけてくれる言葉とはまるで違う。優しさなど何処にもない命令、ううん、恫喝の言葉だった。
今のキリトさんの言葉には温かみの欠片もない。あるのは怒りと憐憫と少しの呆れ。
キリトさん自身もここまで思惑通りになると思っていなかったのか、隣に控えるあたしだからこそキリトさんが今味わっている脱力が見てとれたのだと思う。あたしだって本当にこんなことになるとは思っていなかった。
「アタシの隠蔽スキルを見破るとはたいした剣士サンだこと。それともばれたのは他の連中のせいかしらね」
ここ数日ですっかり耳慣れてしまった女性の声が空気を震わせる。その声を合図にしたように姿を現すロザリアさんと仲間と思しき男性プレイヤーの数々。事前にキリトさんに聞いていたとはいえ、十を数えるプレイヤーに思わず悲鳴をあげて後ずさりそうになった。その大半が犯罪者を示すオレンジカーソルだったのだ。
怖い。
いくらキリトさんが強いと言っても、これだけの数をどうにかできるのだろうか? 最悪の場合は転移結晶で逃げろとは言ってくれてるけど、その場合キリトさんはどうするのだろう。あたしが離脱した後にやっぱり転移結晶を使うのかな。
「勘弁してくださいよ。皆が皆隠蔽スキルを鍛えてるわけじゃないんですから」
姿を見せた男性プレイヤーの一人が緊張感の欠片もなく言い放つと、違いないと幾人もの仲間が同意して笑い出した。品のない笑い方、というか人を威圧することを目的にしたような荒々しい笑みだと思った。獰猛な肉食獣が獲物に向けるような、そんな攻撃性の発露を表す粗野な笑い。
「やっほーシリカちゃん。また会えて嬉しいわあ。首尾よく《プネウマの花》はゲットできたみたいね、褒めてあげるわ。それじゃあ早速だけどそのプネウマの花、置いていってもらおうかしら。ちなみに断ったりしたらアタシの部下たちが地の果てまでシリカちゃんを追っていくことになってるのよ。そんなことになりたくないでしょう?」
ロザリアさんのあたしを嘲るような態度はいつものことだったが、今日ばかりはその粘つくような声に真っ黒な悪意しか感じ取れなかった。猫がねずみを甚振って遊ぶみたいに残酷で酷薄な笑みが張り付いている。
怖くなって思わずキリトさんの袖口を握ってしまう。こんなにむき出しの悪意をプレイヤーに向けられるのは初めてだった。
「大丈夫だ。心配ないよ、シリカ」
ロザリアさんたちに向けた鋭い声と視線、ぴりぴりとした雰囲気を途端に緩めてあたしを宥めてくれるキリトさんに頼もしさと申し訳なさと疑問を同時に抱いた。どうしてこの人はこんなにも落ち着いていられるのだろう。この自信はどこからくるのだろう。
「気に入んないわね、アタシ達を前に恋人ごっこなんてしてんじゃないわよ。あんた、その子のナイト気取り? それとも身体で誑し込まれちゃった口かしら?」
不機嫌そうなロザリアさんの声にキリトさんは何も答えなかった。ロザリアさんのこれみよがしの舌打ちが聞こえる。
「何とか言ったらどうなの剣士サン。それともここでアタシらとやろうっての? こっちが何人揃えてるのか見えてないのかしら、それとも、戦力差がわからないほど馬鹿なのかしらね」
その言葉通り小馬鹿にしたようにキリトさんへと疑問を投げかけるロザリアさん。キリトさんは一度大きく息を吐いてから、あたしをかばうように背に隠すと無造作に一歩前に出た。
「気に入らないのはこっちだって同じだ。俺とシリカが苦労して手に入れたプネウマの花を横取りしようとか、あんたらこそ何様のつもりだよ。あんまり調子に乗ってると軍にとっ捕まるぞ」
感情を排したキリトさんの言葉は、しかしロザリアさんどころかその配下の誰にも省みられることはなかった。
ロザリアさんたち皆がドッと一斉に笑い出す。
「笑わせないでよ、軍の腰抜け連中がアタシらを捕まえるですって? 出来るわけないじゃない、そんなの」
「おい、小僧。お前は知らねえようだが、軍の連中は内ゲバで忙しいとよ。お前の訴えなんぞ聞いてくれやしねえぜ」
「そうそう、ここから帰れるかどうかの心配をしたほうがいいぜお坊ちゃん。ほれ、大人しくプネウマの花を出しな。今なら命だけは許してやるからよ」
ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らすロザリアさん。嘲笑ったのは軍の人達? それとも軍を引き合いに出す程度の脅し文句で自分達を止められると思ったキリトさん? 他の人達も思い思いにキリトさんを嘲り笑い、誰もまともにキリトさんの話を取り合ってなどいない。
「命だけは許してやる、ね。やっぱりあんたらPKの前科持ちみたいだな。流石は犯罪者ギルド、脅し文句も悪党そのものだ。芸のない」
ロザリアさんたちも怖いけどキリトさんも怖い。この状況でどうして挑発なんてできるの? キリトさんの声には隠す気もない侮蔑が感じ取れた。あたしがわかるのだからロザリアさんたちがわからないはずがない。途端に空気が険悪に張り詰めた。
「……ふーん。あんた、アタシらのこと知ってたってわけ」
「シルバーフラグスってギルドに覚えがあるだろう? あんたらが少し前に襲ってメンバー四人を殺したギルドだよ。……リーダーだけが逃げ延びた」
「シルバーフラグス? ……ああ、そんな連中もいたっけ。しけた稼ぎにしかならなかったから忘れてたわよ。それがどうかした?」
「逃げ延びたリーダーに頼まれた。どうか俺達の仇を取ってくれってな」
「ちょっと、やめてよねそういうの。ああ、いやだいやだ、正義の味方ごっこなら他所でやってよ剣士サン。アタシ、あんたみたいな青臭いガキって嫌いなのよね」
虫を払うようにぞんざいな仕草で手を振って、うんざりした口調で話すロザリアさん。けれどそんなロザリアさんに頓着することもなく、キリトさんは淡々と続けた。
「……情けない姿だったよ。大の男が恥も外聞もなく泣き喚きながらこんなガキの腕に縋って、何度も何度も頭を下げてきたんだ。掠れた声で、哀れに弱弱しく懇願を繰り返しもした。――そいつはな、大切な仲間を失っただけでなく、あんたらに差し出したアイテムやコルのせいで全てを失ったんだ。そこからこの回廊結晶を手に入れて俺に託すまで、いったいどれだけ苦労したと思う? どれだけ自分を責めたと思う? その無念がお前らにわかるか? なのに俺に望んだのはあんた達のPKじゃなく、監獄送りだ。立派な人だったよ」
「はん、馬鹿じゃない? なにが立派な人よ。それにあんた、こんなゲームでなにムキになっちゃってんのさ。まさか本当にこの世界で死んだら現実でも死ぬんだって信じちゃってるわけ? 馬鹿らしい。仮にそうだとしても、プレイヤーを殺すのは茅場の用意したナーヴギアよ。アタシらを罪に問えるはずないじゃない」
ロザリアさんのせせら笑いが耳障りな音となって響き渡った。
……この人は一体何を言っているんだろう?
あたしにはロザリアさんの言っている意味がわからなかった。この世界でHPがゼロになったプレイヤーは現実でもナーヴギアに脳を焼かれて死んでしまう。それはゲームサービス開始初日にゲーム開発者から告げられた死の宣告だ。
もちろん信じなかった人はいるし、今も半信半疑な人は多い。でもこちらの世界で死んでしまった人は二度とこのゲームに帰ってきていないのは確かなことだし、ゲーム内での死が本当に現実の死でないのなら、もうとっくに現実世界の人の手によってゲームは強制切断されてるはずだ。あたしたちだって救い出されているだろう。
この世界で死んでしまえば現実でも死んでしまう。それは今も囚われたままのあたしたち自身が何よりの状況証拠だった。それくらい子供のあたしにだってわかる。だというのにロザリアさんも、その部下だっていう人たちも理解していない。理解しようとしていない。
だからそんなにも人の命を軽く扱えるんだろうか? ゲームだから? 現実に帰ったとき、罪に問われないから? だから人を殺しても構わないというのなら、あたしにはこの人たちがわからない。きっと、一生理解できない。
「俺も別にあんたらに対して心から悔い改めろなんて言う気はないよ。猿でも反省はできると言うけどさ、俺はあんたらにそんな大それたことは期待しない。無駄とわかってることに付き合うほど暇じゃないんだ。……でもまあ、つくづく救えない。馬鹿ばっかりだよ、あんたら」
「あんた、そこまで言うからには覚悟はできてるんだろうね」
「いつ俺が助けてくださいと命乞いしたよ? 頭だけじゃなく耳まで悪いんだな。オレンジギルド《タイタンズハンド》団長ロザリアね、よくもまあこの程度の女にここまで部下が揃ったもんだ。あんたら、そこの年増に誑かされたんじゃないか」
「こ、のガキ!?」
聞いているあたしのほうが青褪めてしまうくらいキリトさんは情け容赦なくロザリアさんを扱き下ろした。
正直、あの優しかったキリトさんがここまで他人を罵倒する姿など想像もつかなかったから、もしかしたらこの場の誰より驚いていたのはあたしかもしれない。ロザリアさんもその部下の人達も怒りに顔を歪めてキリトさんを睨みつけている。その表情は悪鬼のごとく恐ろしい縁取りに染まり、あたしは悲鳴を飲み込むようにキリトさんへと視線を移していた。怖かったのだ。
そんな怒り心頭のロザリアさんたちに対峙するキリトさんは、動揺の一つも感じさせず、微動だにしないまま悠然とあたしの前に立ちふさがっていた。その圧倒的な存在感を放つ背中に深い安堵を覚え――。
「そもそもだ。俺とシリカがプネウマの花を手に入れてすぐ使い魔蘇生に使っちまったらどうするつもりだったんだ? あんたたちはここで待ちぼうけした挙句さようならか。それでなくても転移結晶でさっさと帰ってここを通らなかった可能性も高い。ほんと、あんたら何のつもりでこんなところで待ち構えてたんだよ。襲うならプネウマの花を手に入れた直後じゃないと意味ないだろうに」
やれやれと呆れて見せるキリトさんにあたしも思わず同意してしまう。
そう、だからこそキリトさんもロザリアさんたちが姿を現すことに半信半疑だったし、実際にそうなったときに呆れ顔を隠しきれていなかった。あたしたちがピナをすぐに蘇生させなかったのはあたしたちの事情であって、そんなことはロザリアさんたちにわかるはずがない。キリトさんに止められていなければアタシは一刻も早くピナを蘇生させようとその場でプネウマの花を使っていたと思うし。
仮にモンスターが危険だというなら転移結晶を使って即座に街に帰り、やはり取るものも取りあえずピナを生き返らせていたに違いない。その場合、転移結晶を使うことにキリトさんが同意するかどうかは別にして、そのくらいピナを優先させることはあたしにとって当然のことだった。
キリトさんはあたしのピナへの思いを知っていたからこそ、こうしてあたしの手伝いをしてくれている。我侭は良くないことだけれど、キリトさんなら、あたしが一刻も早いピナの蘇生を本気でお願いすればすんなり聞いてくれた可能性は高かった。
そしてそうなっていたとき、プネウマの花狙いのロザリアさんたちの目的がどうなるかなど言うまでもない。
これまでとうってかわってうんざりした様子でロザリアさんたちを見渡すキリトさん。
キリトさんの指摘に虚をつかれたのか、あたしとキリトさん以外の全員がその場で固まってしまった。その有様にキリトさんが聞こえよがしに深々とため息を吐いた。
「悪党は悪党でも考えなしの小悪党かよ。シルバーフラグスの連中も気の毒に。こんな――」
――こんな……猿にも劣る畜生共に殺されるなんて。
その言葉が引き金になった。
「黙れ! あんたたち、なにしてるんだい! さっさとあのガキを殺しちまいな!」
キリトさんの度重なる挑発にとうとうロザリアさんが激発した。
冷静な判断で下した命令ではないのだろう。もしもロザリアさんが冷静ならあたしの傍にピナがいないことから、いまだ蘇生アイテムが使われていないことがわかったはずだ。あたしとキリトさんのどっちが所持しているかはわからずとも、キリトさんだけでなくあたしにだって部下を差し向けていたはず。それをしなかったのは、ううん、出来なかったのは、やっぱりキリトさんの作戦勝ちだったのだろう。
それでも。
「キリトさん!?」
たとえ今の状況がキリトさんの思惑通りなのだとしても、屈強な体格をした何人ものオレンジプレイヤーが殺到する様子に思わずあたしは声を張り上げていた。それが何の力にもならないことを承知の上で、それでもキリトさんを心配する気持ちが自然と喉を震わせていたのだった。
あたしが事の発端を聞いたのは昨晩、キリトさんと同じベッドに入った後のことだ。
我ながら大胆なことをしたと思うが、キリトさんはあたしを優しく寝かしつけるだけで変なことは決してしようとしなかった。それにあたしの知らなかった倫理コード解除の設定も教えられて、今回のように軽々しく男をベッドに誘ってはいけないと、それはもう口を酸っぱくして繰り返された。その真摯な内容と真剣な表情から、本当にあたしを心から案じてくれているのだとわかって、こんな優しいお兄さんを持つキリトさんの妹さんが羨ましくなったのは仕方ないことだと思う。
キリトお兄ちゃん、と呼んだらキリトさんは一体どんな表情をするだろうか。密かにそんなことを考えていたことはキリトさんには内緒にしなくちゃ。
そんなあたしの事情はともかく。
キリトさんは普段はもっとずっと上の階層にいるらしい。それはドランクエイプを難なく倒してあたしを助けてくれたことや、今日の戦闘を見ていれば嫌でもわかる。あたしなんて比べものにならないほど強い。キリトさんは口を濁していたけれど、多分攻略組の人だろうとあたしは思った。
そんなキリトさんが35層まで降りてきたのは、オレンジプレイヤー捕縛のためだった。
ギルド《シルバーフラグス》を壊滅させ、リーダーを除いて皆殺しにしたというオレンジギルド《タイタンズハンド》。キリトさんは残されたリーダーだった人の頼みでタイタンズハンドを追っていたらしい。そのリーダーと目される女性の周囲を張っていたのだと。彼らのアジトや構成員の調査を行い、判明次第一網打尽にするつもりだったと話してくれた。
そのオレンジギルドの団長と目される女性がロザリアさんだと聞いたときはとても驚いたものだ。なにせロザリアさんとはここしばらく臨時パーティーを組んでいたのだから。当然のことだがロザリアさんのカーソルはグリーンで、まさかオレンジギルドの構成員、まして団長だなんて考えるはずもない。そうした疑問をキリトさんに尋ねてみると、オレンジギルドは全員がオレンジプレイヤーで構成されているわけではないのだと教えてくれた。主街区に入れなくなっては物資の調達にも支障をきたすし、なにより獲物を見定めて襲撃を計画するには街を利用できたほうが都合が良い。そうした諸々の都合を踏まえて、オレンジギルドには常に一定数のグリーンプレイヤーが残されているものなのだ、と。
それにオレンジからグリーンに戻るカルマ浄化クエストも珍しくなくなってきたし。
苦い表情でそう告げるキリトさんは堪えきれない痛みを必死に我慢しているような表情をしていた。何かあったのだろうか?
そんなオレンジギルドの団長と思われるロザリアさんを追ってキリトさんは中層エリアにやってきた。あたしとロザリアさんの口喧嘩を見ていたのもそういった背景があったらしい。あたしを追い出し、パーティーメンバーの分散を図ったロザリアさんがついにオレンジプレイヤーとして動き出したのかと考えたキリトさんだったが、ロザリアさんを追っていくと何事もなく街に到着。その後も何も起こらず時間が過ぎて、あたしとの口喧嘩が残ったパーティーメンバーを襲うための策略でも下準備でもなかったのだと気づいて頭が痛くなった、と苦い表情でキリトさんは愚痴っていた。
その後、あたしを助けに来てくれた経緯も改めて聞いた。
迷いの森で一度ロストすると追跡は非常に難しい。だからこそロザリアさんの狙いがあたしではなく残りのメンバーに向いているのだとキリトさんは判断したらしいのだけど。改めて自分が危うい立場にいたのだと認識させられる。
もし、あの時点でロザリアさんの狙いがあたしだったら。
もし、キリトさんがあの時あたしの危機を偶然知ったりしなければ。
ピナだけじゃない。あたしだって――。
本当に紙一重のところだったのだと身を震わせ、そんなあたしの背をキリトさんは優しくさすって宥めてくれた。やっぱりキリトさんは優しい。
キリトさんがあたしにそうした事情を話してくれたのは、どうもロザリアさんの狙いがプネウマの花を取りに行くあたしに絞られた節があると判断したためらしい。あの時の盗み聞きは恐らくロザリアさんの手の者だろう、というのがキリトさんの考えだった。あたしは未だに半信半疑だったところもあり、控えめに同意するに留めたのだけれど。
そしてキリトさんがあたしに頼んだのがプネウマの花を囮にロザリアさんたちを引きずりだすことだった。要するに囮捜査だ。
プネウマの花をすぐに使わなかったのも、帰りに転移結晶を使わなかったのも、キリトさんが常に索敵スキルで万全の警戒を敷いたのも全てはタイタンズハンドを釣り出し、捕縛するための手段だった。……道中の恥ずかしいハプニングも同時に思い出して泣きたくなった。うぅ、恥ずかしい。
ただ最終的な判断はあたしに任された。ピナをすぐに生き返らせたい気持ちもわかるし、オレンジギルドとの抗争に巻き込みたくない気持ちもあるのだと。そしてプネウマの花を手に入れた段階であたしだけでも転移結晶を用いて街に戻す案も出た。
結局キリトさんの心遣いはあたしのほうからお断りさせていただいた。勿論オレンジプレイヤーの集団は怖い。とても怖い。それでもあたしを助けてくれたキリトさんのために何か力になりたい、恩返しがしたいという思いがあたしの心を決めた。そんなあたしの思いを告げるとキリトさんは複雑な顔をしていたが、それでも最後には「ありがとう」と受け入れてくれた。
その後に「絶対にシリカを守るから」と言われて顔どころか体中が茹蛸のように真っ赤に、そして体温が急上昇してしまったことはキリトさんには絶対秘密だ。不意打ちはずるいです、キリトさん。
人を傷つけることを何とも思わない犯罪者集団、オレンジギルドと相対することに不安と恐れはあったが、その夜はキリトさんのぬくもりに包まれて驚くほど安らかに眠れたのだった。
そして今日、プネウマの花はキリトさんのおかげで難なく手に入れることが出来た。その間にあたしのレベルも一つ上がるというおまけ付き。それでもソロや少人数パーティーではとても47層攻略なんて無理なレベルだったのだが、キリトさんがサポートしてくれると自分のレベルを勘違いしてしまいそうなほどスムーズに、そして安全に敵を倒せたことにびっくりだった。あたしが戦う時は必ずキリトさんのサポート付きで敵は一体だけ。あたしが受けるには危険だと判断した攻撃は全てキリトさんが弾いてしまうし、あたしに対する指示も明瞭でわかりやすい。
その結果、あたしはますますキリトさんを尊敬することになった。ただ、そんなキリトさんでもギルド一つ、それもオレンジプレイヤーの集団を相手にするのは難しいんじゃないかと心配していたのだ。覚悟を決めて今日を迎えたとはいえ、やっぱりオレンジギルドの人達は怖かったし、ロザリアさんも恐ろしかった。何度もキリトさんに逃げましょうと言いたくなった。
そのたび、キリトさんを信じるんだと心の中で呪文を唱えて平静を保とうとした。あたしはキリトさんの戦いの助けにはなれないけど、せめて無様に一人キリトさんを見捨てて逃げたりしないよう、必死で弱気になる心を叱咤していたのだった。
――そんな今までのあたしの思いを返してほしい。
思わず脱力して愚痴を言いたくなるような光景が今あたしの眼前に広がっている。
キリトさんは相変わらずその場に立っているだけだ。剣も構えていない。だというのに場は静まり返り、ロザリアさんとその部下の人達は一様に青い顔でキリトさんを見つめている。信じられないというか、いっそ化け物か幽霊でも見ているような目をしていた。
同情はしないけど理解は出来る。
だってありえない。
何人ものプレイヤーが代わる代わるキリトさんを切りつけ、ソードスキルまで使って本気で殺そうとしたのだ。あたしが悲鳴をあげたのは当然だし、ロザリアさんたちが勝利を確信して嫌な笑みを浮かべたのも当たり前のことだった。その当たり前が崩れたのは、攻撃している側の《タイタンズハンド》の行動全てが無意味だと思い知らされ、彼らの戦意が根こそぎ消失してからのことだった。
パーティーを組んでいたためにあたしはキリトさんのHPバーが見える。だからすぐに気づけた。何本という剣や槍に攻撃されたキリトさんのライフは一向に減る気配を見せなかったのだ。目をこらさねば減っているかどうかもわからないほど微々たるダメージ。たまにクリティカル判定が出てようやく目に見える範囲でゲージが削られることがあっても、そんな努力を嘲笑うかのようにライフゲージが自然と回復して満タンになってしまい、すぐさまスタート地点に戻されてしまう。その繰り返しだった。
アイテムを使った様子もないから何か特殊なスキルによる回復効果だろうか? もしかしてエクストラスキル?
今のままじゃ何時間攻撃し続けたってキリトさんは倒せない。それだけの実力の差が両者にはあった。
キリトさんは退屈そうに自分を攻撃し続けるオレンジプレイヤーの群れを眺めていた。度重なる剣撃にも全く動じず泰然と佇むキリトさんは、果たしてロザリアさんたちにはどう見えていたのか。想像するだに震えが走りそうだった。
やがて自分達ではどうしようもない状況に気づいたのか、一人が攻撃の手を止め、二人、三人と続き、すぐに全員の動きが止まった。ロザリアさんの檄も今となっては何の意味もない。キリトさんは剣の一振りもなく、一歩も動かずに彼らを制してしまった。
……信じられない。
味方のあたしですら呆然としてしまったのだ。ロザリアさんたちが悪夢を見たような顔になるのも仕方ないだろう。キリトさんを攻略組の一人だと推測していたあたしですらこんなの予測不可能だ。ここまで一方的で隔絶した実力差が存在するなど、誰も信じられないだろう。
「根性ないなあんた達。もう少し粘るかと思ったんだけど、案外簡単に諦めるもんだ。で、次はどうする? 死にたいやつから前に出ろとでも言ってやろうか? ああ、一応警告しておくぞ。逃げたりしたら俺が地の果てまで追っていく。そして今度こそ剣を抜いて相手になってやるよ、そうはなりたくないだろう?」
キリトさん、けっこう意地悪です。ロザリアさんがあたしたちに使った脅し文句をそのまま返しちゃいました。
「何なのよ、あんたいったい何なの!?」
耳を
錯乱したように叫ぶロザリアさんを一瞥すると、なぜかキリトさんはロザリアさんにそれ以上目もくれず、誰もいないはずの空間をにらみつけてしまった。どうかしたのかなと思う間もなく、キリトさんが今まで一度も抜かなかった剣を構えたことで場の雰囲気が一変した。
ぞくりと走る怖気。あたしでもわかる。これ、殺気だ。肌が粟立ち、心臓が締め付けられるほど鋭い気迫。演技なんかじゃない、キリトさんの本気の臨戦態勢だった。
でも、どうして?
「何度も言わせるなよ、そこにいるのはわかってるんだ。《出て来い》」
そう言うや否や、目にも止まらぬ速さでスローイング・ダガーを投擲した。あたしにわかったのは、そのダガーが乾いた金属音に弾かれて地面に落ちてからのことだった。そこでようやくキリトさんが投擲武器を使って攻撃を仕掛けたのだと理解できた。同時に、それはキリトさんが投じたダガーが防がれた音なのだと。
「久しい、な。その、様子だと、息災だった、ようで、結構な、ことだ」
木陰から姿を現したのは奇妙な骸骨を模したマスクで素顔を隠し、身体全体もフードマントで覆われていたせいで体格も定かではないプレイヤーだった。仮面の装備効果の一つなのか、ひどくくぐもった声をしていて、その上途切れ途切れに言葉を発するせいでとても聞き取りづらい。頭から足まで不吉な空気を纏っているプレイヤーだった。
こんな陽の高いフィールドで目にして良い雰囲気では絶対にない。むしろ夜の墓場とか、そうでなければお化け屋敷の幽霊みたいなおどろどろしい雰囲気の持ち主だ。ホラームービーにでも出てきそうな、そんな薄気味悪さ。この人には悪いが心底そう思ってしまったのだから仕方ない。思い出の丘に出現した気持ち悪い植物お化けよりももっと気色悪い感覚をあたしは抱いていた。
なにより、そのカーソルが示す色はオレンジ。見た目に相応しい後ろ暗い過去を持つプレイヤーだった。
「お前のせいで気分は最悪だがな。こんなところで何をしてやがる、ギルド《
《ラフィン・コフィン》!?
その名に動揺したのはあたしだけじゃない。タイタンズハンドの面々まで驚愕の目で新たに現れた不吉な男を見ている。
殺人ギルド《ラフィン・コフィン》。
悪名高きレッドギルド。
その脅威は凡百のオレンジギルドの比じゃない。というより別格中の別格。最悪の代名詞で、あたしたちをこの世界に閉じ込めた茅場晶彦と同様、下手をしたらそれ以上に憎まれ、恐れられている集団だった。
犯罪を好んで犯すギルドは通称オレンジギルドと呼ばれる。ではラフコフのレッドギルドとはなんなのか。その意味するところは公然とPKを謳う残虐性だった。犯罪とは言っても大抵の場合、恐喝や窃盗あたりまででPKまで及ぶプレイヤーは多くない。でもラフコフはそんな境界線を軽々と踏み越え、怨恨や利害を超えて無差別に人を殺そうとする。殺してしまう。だからこそのレッドギルドという蔑称だった。
「なぜ、この俺が、わざわざ宿敵に、そんなことを、教えてやらねば、ならん」
「勝手に人を宿敵に祭り上げるんじゃねえよ、俺にそんな大層な思い入れはない」
憎憎しげに、そして荒々しく告げるキリトさんにザザと呼ばれた仮面の人は気味の悪いくぐもった笑い声を漏らした。
あたしは一歩も動けない。キリトさんの変貌を信じられないからじゃない。赤眼のザザと呼ばれたプレイヤーの得体の知れない気味悪さに怖気づいて、声も出せないほど緊張を強いられていたせいだ。
「PoHの、団長以外は、眼中に、ないか。傲慢な、お前らしい、台詞だ」
「そのPoHのやつに警告しておいたはずだぞ。お前らがこれ以上プレイヤーを殺そうとするなら俺がお前を殺してやるってな。戦争と暗殺、どっちがお好みかPoHのやつに聞いておいてくれ。あいつの嫌いな方で決着をつけてやる」
「威勢が、良いこと、だ。甘ちゃんの、貴様に、そんなことが、出来るものか」
嘲り笑う声だった。けれどキリトさんは些かも気にした様子は見せず、ふんと小馬鹿にするように鼻で笑い返した。
「お前らこそ忘れてんのか。このアインクラッドにおいて最初の人殺しを犯したのはお前でもなければPoHでもない、この俺だ。元オレンジの俺が、今更お前らみたいな悪質な犯罪者相手に躊躇うとでも思ってんのかよ。お前こそ随分甘ったれた考えをしてるじゃないか、赤眼なんて粋がってないで改名でもしたらどうだ? 《甘ちゃんのザザ》」
「……タイタンズハンドを、屈服させたからとて、あまり調子に、乗るんじゃない。ラフィン・コフィンは、ここにいる、半端者程度とは、わけが、違うぞ」
「日陰者に本物も偽者もないだろう。犯罪の上下を競うとか、ちょいと程度が低すぎやしないかザザ。こっちが恥ずかしくなるようなつまらない自尊心の満たし方をするなよ。そんなだから何時まで経ってもお前はPoHの腰巾着なんだ」
「――殺す!」
「腰巾着風情が俺を殺す? ……はっ、面白い冗談だ。丁度良い、PoHより先に引導を渡してやるよ、ザザ」
八重歯をむき出しにして不敵に笑うキリトさんの両の手には、それぞれ一本ずつ剣が握られていた。
右手に握っているのはあたしも目にしたことのある、今までキリトさんが装備していた黒の装飾に黒の刀身の片手剣。もう一方の手に握られているのは緑の宝石が鮮やかな、紅の刀身をした片手剣。
アインクラッドにおいて両手にそれぞれ剣を装備するメリットはない。なにせ形の上では二刀を振り回せても、ダメージ判定は片手分しかシステムが計上してくれないのだから。しかも右手と左手の装備スロットを同時に武器で埋めてしまうと、システムエラーが発生してソードスキルの発動そのものを阻害してしまう、つまりデメリットしかない。
だから片手剣使いの多くは普通空いた手に盾を持つし、装備品の重さや敏捷数値を気にする人、アイテムを多用する少数の人は盾なし片手剣スタイルを選ぶ。キリトさんは後者のタイプだった。昨日からずっと、盾なし片手剣スタイルを変えるようなことはなかったのに。
けれどそんな無意味な二本の剣装備を、唯一意味あるものに変えるスキルがあった。この世界で未だ一人のプレイヤーにしか発現していないというエクストラスキル《二刀流》。《神聖剣》と並んでユニークスキルと噂されている、希少に希少を重ねたスキルだった。
でも、そうか。キリトさんが《二刀流》使いだというなら。
この人は、キリトさんは、攻略組の誇るトッププレイヤーの一人。血盟騎士団団長さんと並ぶ最強プレイヤーの一角であり、数々の逸話と二つ名を持つソロプレイヤーだ。……そして、第一層において初めてPKの凶行をなした《仲間殺し》のオレンジプレイヤーでもある。
あたしが顔も知らなかった《黒の剣士》さん。
それが、優しくて頼りになるキリトさんの正体だった。
突然に辿り着いたその事実に、あたしの心は乱れに乱れて一向に定まろうとしない。
そしてあたしの心がどれだけ乱れて混乱していようが、既にあたしは単なる傍観者の一人だ。あたしが何を思おうと事態の進行は待ってくれない。仮面のプレイヤーが無言で武器――鋭い切っ先の
元々片手剣と針剣では手数は針剣に分がある。片手剣よりも
細剣使いで最も有名なのは《閃光》として名を馳せる血盟騎士団副団長アスナさんで、最速の剣さばきを称えられているのもそうだ。針剣使いで凄腕と称えられるプレイヤーの噂は聞いたことがない。それを思えばザザと呼ばれた髑髏マスクのプレイヤーの実力は高くないと思いたかった。でも、ラフコフに所属するプレイヤーが弱いとはどうしても思えず、あたしの不安と緊張はいや増すばかりだった。タイタンズハンドの人たちにだって負けそうなあたしじゃ、多分ラフコフの人たちとは戦いにもならない。
キリトさんはどうなんだろう。殺人を辞さないレッドプレイヤーの集団、ラフィン・コフィンが相手でも怖くはないのだろうか。
先制攻撃は針剣の一撃からだった。その剣さばきは文字通り目にも止まらぬ速さで、恐ろしいのは針剣を操る腕がシステム補正のかかるソードスキルによるものではなく、プレイヤー個人の技量でまかなっていることだ。ソードスキル特有の燐光がない。
武器の性能を比較するとどうしたって片手剣による手数でキリトさんが劣勢だ。加えて針剣は対人武器カテゴリーと評されて嫌われているだけに使い手も少ない武器だった。経験という意味でもキリトさんに不利な戦いになるのは否めない……そのはずだった。
でも二本の剣を縦横無尽に振るうキリトさんの剣閃は、単純に剣が二本になったから手数も倍になったなんてものではなく、速度に勝る針剣の連続した突きを全て弾き返していた。キリトさんのHPはほとんど減っていない。逆にキリトさんの暴風のような剣撃はクリーンヒットこそしていないが幾度か敵の身体を捉え、そのたびに剣によるダメージエフェクトが発生する。
二人の戦いはあたしの力ではとても助けになんて入れない、中層では馴染みのない高等技能の応酬を駆使しあったものだった。目まぐるしく位置を入れ替え、時にアクロバティックな動きで互いが互いを出し抜こうと激しく交差する。そして相手の隙を見出した瞬間にソードスキルの燐光を輝かせているようだった。
その攻防の全てを理解できたわけではないけれど、戦闘そのものはキリトさんが有利に進めていることはわかった。あたしの目が特別に良いとかじゃない、単にキリトさんのライフゲージが一向に減る様子がなかったからそう判断したに過ぎない。
二人の激突を固唾を飲んで見守る。この期に及んであたしが出来ることなど何もない。タイタンズハンドの人達も何もできずに呆然と二人の戦いを観戦しているだけだった。次元の違う戦いに恐れおののいているのかもしれない。あたしだってキリトさんが敵だったならとても落ち着いてなどいられない。何をおいても逃げ出すことを選ぶだろう。そう思ってしまうくらいキリトさんの力は絶大だ。最悪ギルド《ラフィン・コフィン》の一員を相手にして一歩も引かないどころか圧倒している。
決着も遠くない。そう判断して小さく安堵の息をつこうとした時、どこからか「イッツ・ショウ・タイム」と雅やかな声が耳に届いた。妙なアクセントをした声だな、と考えてしまったこの時のあたしはどれだけ間抜けだったことか。
その瞬間、唐突にキリトさんが身を翻して懐から小さな短剣を取り出し、それをあたしに向かって飛ばした。まさか、という思いよりもその瞬間何が起こったのかわからなかった。反応ができるできないではない。あたしはキリトさんの投じたスローイング・ダガーを避けようという意志すら忘れて、馬鹿みたいに呆然と立ち尽くしていたのだった。
それがあたしの勘違いだと判明するのはそんなコンマ何秒かの世界を抜けてすぐのことだ。乾いた金属音を響かせ、あたしのすぐ傍に落ちた2つの凶器。一つはキリトさんが投じたもの、そしてもう一つは――もう一つのスローイング・ピックは一体どこからやってきたのだろう? あたしを狙った攻撃だったことは間違いない。そしてそれをキリトさんが防いでくれたのだということも。
じわりと胸を満たす恐怖と混乱に、ひっ、とひきつった悲鳴があたしの口から零れるのと、キリトさんがあたしの元に駆けつけてくれたのはほとんど同時だった。
「シリカ、無事か?」
「は、はい。おかげさまでなんとか」
恐怖と混乱に戦慄く唇を噛み締めて、なんとかキリトさんに答えた。キリトさんはあたしの無事を確認するとほっと安堵の息をつき、それからすぐに表情を厳しくして剣を構えなおした。視線は変わらず鋭い。ううん、弾かれた投げナイフを一瞥して今まで以上にきつく鋭く、そして険しくなったようにさえ見えた。
キリトさんの視線を追うと、いつの間にかそこには二人のプレイヤーが立っていた。言い知れぬ不気味さが際立つ片方のプレイヤーは高い身長にポンチョを纏い、その傍らに控えている小柄なプレイヤーは黒いマスクで顔を覆っていた。二人とも揃ってフードを目深にかぶっていているせいで表情はまったくわからない。でも、わずかに覗く口元は嘲笑に歪んでいた。
「ざまあないねぇ、ザザ。黒の剣士にいいようにやられたみたいじゃないか」
甲高い声音で面白げに囃し立てたのは小柄な方のプレイヤーだ。
苦虫を噛み潰した表情で「ジョニー・ブラック」とキリトさんがつぶやいた。
「……ふん、二刀流、とやらに、驚いた、だけだ。次は、仕留める」
キリトさんが相手をしていた髑髏マスクのザザも早速二人に合流していた。そのなかで一人沈黙を保っている背の高い男の人――彼らの中心に立つプレイヤーを目にして知らずあたしの身体が震えた。キリトさんの本気の殺気を感じ取った時か、それ以上の金縛りにでもあったみたいだ。怖くて寒くて座り込みたくなってしまう。立っていることすらつらいと思わされる、尋常でないプレッシャーの持ち主だった。あるいは不気味で酷薄な、と言い換えるべきだろうか。
キリトさんの背に隠れるように相対しているから向き合えているだけだ。あたしにあのプレイヤーと戦うことなんて絶対無理。レベルとか技術が足りないとかじゃなく、目があっただけで殺されてしまいそうなプレッシャーに立ち向かえるとはとても思えなかった。
「次から次へと……。相も変わらず演出過剰な連中だな。ラフコフに仲間意識なんてあったのかよ、PoH?」
陽光を吸い込んで真紅に光る剣先を向け、苦々しい声で告げるキリトさんだったが、あたしはそんなキリトさんの様子よりもその口にした言葉にこそ息を呑んだ。
《ラフィン・コフィン》団長PoH。
残虐非道、冷酷無比の代名詞。
ラフコフのメンバーがいるのだ、そのトップが現れたって不思議ではないと冷静に考えればわかることだが、あたしはそんなこと全く考えなかった。考えたくなかったのかもしれない。
あたし一人ではどうにもならない状況だ。キリトさんの言葉ではないが次々に襲い来る理不尽のせいであたしの目尻には涙が浮かんでいた。
ピナを生き返らせるためにプネウマの花を手に入れにきた。それだけだったのに、今はオレンジギルドとレッドギルドの二つと対峙している。その上あたしは戦力外だから実質キリトさん一人でこの状況を切り抜けなきゃいけない。どうしてあたしはこんなに弱いのだろうと、どうにもならない後悔が胸に湧き上がる。
せめて、せめてあたしもキリトさんと一緒に戦えるレベルなら……。
「仲間意識はねえが共犯意識はあるな」
「ご立派な御託だ。それで、今度はザザの代わりにあんたが俺の相手をするのか? 何なら三人同時でも構わないぜ、ここでいつかの決着をつけるのもいいだろうさ」
「Wow……! 今日はまた一段と吠えるじゃねえかキリト、三人同時とは大きくでたもんだ」
「これでも剣の腕にはそこそこの自信があってな。出来るか出来ないか、身を以って確かめてみるか?」
キリトさんは揺るがない。
ラフコフ幹部を相手に回して尚、多対一の戦闘を制すことが出来ると確信しているかのように声に迷いはなく、流暢に語る姿からは虚偽の一切を感じ取れなかった。
「おいおい、勘違いしてんじゃねえよ。俺達はザザの言う見世物を見物にきただけだ、ここでお前とやりあうつもりはねえ」
「……二枚舌も大概にしておけよ。だったらシリカを麻痺毒仕込んだピックで狙ったのはどういった了見だ?」
口元に笑みが刻まれたまま、返答は――ない。
沈黙こそが雄弁の証だと言ったのは誰だったろう。
「これ以上俺を怒らせるなら本気で息の根を止めてやるぞ、PoH。そんなに脳を焼き切られたいなら望み通りにしてやる。お前らお得意の持論なんだろう? ここで俺がお前らを殺しても、現実世界でプレイヤーの命を奪うのは茅場の用意したナーヴギアだ。俺を日本国の法で裁ける道理はない、ってな。ザザにも言ったが、PKがお前らだけの専売特許だと思うなよ」
「あまり虚勢を張るもんじゃねえな。連れの小娘を抱えて俺達と殺し合いとは笑わせてくれるじゃねえか。まして俺らとの決着なんざ夢のまた夢だろうよ。くく、足手まといを気にしなけりゃならねえってのは難儀なことだ、頼れる部下を持って俺は幸せだよ」
キリトさんを揶揄するように嘯き、次いであたしにぞっとするような冷たく無機質な視線が向けられた。怖い。それだけで息がつまり、身震いに凍えてしまう。キリトさんはそんな萎縮したあたしを気遣うように、そっと背に隠すことであの恐ろし気なラフコフの人達の視線から庇ってくれた。
「……あんたらしい悪辣さだ、直接手を出さずとも人質は取れるってか。だがな、あんたこそ思い違いをするなよ。人質は無事だからこそ意味があるんだ。お前らが俺の目を盗んでシリカに指一本でも触れようものなら、その瞬間から俺はお前達全員を付けねらう暗殺者になるだろうさ。喜ぶといいぜ、攻略至上主義の黒の剣士がゲームクリアよりも優先してその首を狙ってやるんだ。――毎夜殺される恐怖に怯える覚悟があるなら手出ししてみろ、後悔させてやる……!」
射抜くように、貫くように。その剣の切っ先と同じくらい鋭く尖るキリトさんの舌鋒だ。
常のキリトさんらしくない荒々しさと言い、遠慮呵責ない脅迫の言葉と言い、どちらが犯罪者なのかわからないほどの並々ならぬ激情の発露だった。キリトさんとラフォン・コフィンの人達はどうも顔見知りのようだけど、その仲は険悪そのもので寄らば斬るといわんばかりのキリトさんの態度だ。一体どんな因縁があるのか、この確執ぶりは単純にレッドギルドが相手だからという理由ではすまない気がする。
そんなあたしの内心の疑問に答えなどでるはずもなく、キリトさんたちの間でぴりぴりと肌を焼く睨みあいが続く。場に満ちる剣呑な雰囲気が刻一刻と臨界点を目指して高まっていくようで、あたしは瞬き一つできず彫像のように固まっていた。
「お前は本当にいじらしいなあキリト。顔に似合わねえ激情家ぶりも健在ときたもんだ。――まあいいさ、今日のところは黒の剣士殿の顔を立てておいてやる」
自分達の優位を確信しているかのように余裕たっぷりに、あるいはキリトさんを甚振って楽しむかのように低く空気を震わせる。「退くぞ」と皮肉そうな口ぶりで部下を促したのは、あたしが息苦しさに喘いで必死に空気を求める直前だった。
「えぇ、ヘッドぉ、ここで殺っちまわないのかよー」
「俺達がしたいのは殺しであって殺し合いなんかじゃねえだろうよ。キリトのやつと正面からやり合いたいなら止めないが、加勢も期待するんじゃねえぞ。俺は猪を部下に持った覚えはないぜ?」
「へいへい、つまんねえの」
いっそ無造作に背を向け、歩き出すラフィン・コフィンの幹部勢。
その最中、赤眼のザザが一人足を止めて振り返る。
「黒の剣士、お前は、この俺が、必ず殺す……!」
「保護者同伴で来るようなガキはご遠慮願いたいもんだ。二度と顔を見せるんじゃねえよ。――さっさと消えろ」
その言葉の応酬を最後に三人の姿がすぅっと景色に溶け込むように消えてしまった。何かのスキルかアイテム効果なのかもしれない。キリトさんならあたしの疑問にも答えてくれるのだろうか? 自然とそんな考えが浮かび、また自分の無力さと無知さに気落ちしてしまう。出会ってからずっとあたしはキリトさんに頼ってばかりだ。
しばらく無言のままラフコフの人達が去った方向を睨んでいたキリトさんだったけれど、やがて大きく息を吐いて剣を鞘に納めた。そして手のひらに回廊結晶を乗せて、未だに固まったままのロザリアさんに向き直り、口を開く。
「さてと、待たせて悪かったな。この回廊結晶は黒鉄宮の監獄エリアに出口が設定されてる。……選べ、ギルド《タイタンズハンド》団長ロザリア。配下の連中ともども回廊結晶の扉をくぐるか、それともこの場で俺に斬られて黒鉄宮の墓碑に仲間入りをするのか。好きなほうを選ばせてやる」
「……アタシはグリーンプレイヤーだ。そんなことしたらあんただってオレンジになるんだよ。なのに殺すっていうのかい」
頬を引きつらせたロザリアさんの声は明らかに精彩を欠いていた。さっきまでの、そしてあたしに嫌味を言って笑っていたころの余裕はどこにもない。得体の知れない強プレイヤーに怯え、アインクラッド最強の双璧とされる黒の剣士の姿に恐れ慄き、殺人も辞さないというキリトさんの宣言に身を震わせていた。なけなしの気概を張って口にしたのであろうロザリアさんの口上は、哀れなくらい弱弱しく聞こえた。
そんなロザリアさんの悪足掻きの言葉にキリトさんは深々とため息をついてから口を開いた。
「カルマ浄化クエストくらい知ってるだろう。何より俺はソロだぞ。追い出されるパーティーもギルドもない。オレンジのまま攻略組に身を置いていた時期だってある。そんな俺がいまさら犯罪者の称号を恐れたりするものか」
「違うわよ! アタシを斬って人殺しになれるのかって聞いてるの!」
「それこそ何を聞いてたんだよあんた。このアインクラッド最初のPKは俺の手によるものだ。俺はシリカみたいな善良なプレイヤーじゃないし、あんたらと同じく人を殺した前科持ちの元オレンジなんだよ。それに攻略の一番の障害であるラフコフと同じく、プレイヤー側の戦力を面白半分に削るあんたらみたいな連中は俺の敵でしかない。敵に容赦する必要なんてないと思わないか? 攻略第一の俺にとっちゃ好んでPKを犯す連中なんて百害あって一利なしだ。モンスターより性質が悪い」
顔を顰めて吐き捨てるように口にしたキリトさんに本気を感じたのか、タイタンズハンドの面々は皆うなだれ、立ち上がる気力もないようだった。誰も彼もが怯えきっていて、キリトさんと目を合わせることを避けているようですらある。
……わからなくもない。だってあたしだって今のキリトさんは怖い。どうしようもなく怖かった。
「勘違いしてるみたいだから言っておくけどな、シルバーフラグスのリーダーの頼みがなければお前らみたいな外道連中、問答無用で殺してやりたいくらいなんだ。……もういいだろう、俺の自制が効いてる内に早く選べ」
「待ってよ。アタシたちはあいつに……!」
「《赤眼のザザ》に騙された、か? だからなんだって言うんだ。この期に及んで言い逃れでもしたいのか、見苦しい」
「あんた、知って……?」
「そもそも利用されただけなんて言える立場じゃないだろう。ザザのやつになんて言われて唆されたのかは知らないが、一つのギルドをPKで壊滅に追いやったんだ。情状酌量の余地なんてどこにある」
呆れ混じりのキリトさんの声は続く。
「元々殺人なんて大それた真似をするのは《ラフィン・コフィン》の連中くらいだからな。アインクラッドで起きる殺人事件のほとんどにやつらの影が見え隠れしている。直接的なPKだけじゃない、忌々しいことに人の悪意や弱みに付け込んで扇動するのはやつらの十八番だよ。……今回俺がシルバーフラグスの頼みを引き受けたのも、ラフコフの連中が暗躍してる可能性があったからだ。タイタンズハンドなんて今まで碌に話題にもならなかった無名のギルドが、いきなり余所のギルドを皆殺しにしようなんて派手な動きをしたんだ。これは何かあると思っても不思議じゃないだろう。実際にラフコフが出てきたわけだしな」
――調子に乗った末路だ。
冷たい双眸で淡々と語るキリトさんにロザリアさんも観念したのだろう。それ以上の言葉はなかった。キリトさんが回廊結晶を起動させ、扉に入るよう促すとのろのろとした動きでロザリアさんが扉をくぐる。続いてタイタンズハンドのメンバーたちも生気のない表情で重い足をひきずって次々に転移していった。
キリトさんに逆らって逃げ出そうなんて考えるプレイヤーは誰一人いなかった。多分、怖かったのだろう。《聖騎士》と並んで最強を冠せられる《黒の剣士》から逃げ続けられるとは思えなかったに違いない。そしてもしここで逃げて次にキリトさんに捕まったら、監獄送りどころか宣言通り首を切られることになると恐怖に駆られたのだろうと思う。それくらいキリトさんの言葉は真に迫った迫力があったし、何より語る言葉の一つ一つ、キリトさんの来歴そのものが非情さを裏付けていた。最凶最悪ギルド《ラフィン・コフィン》を相手にまわし、一歩も引くことなく渡り合った姿を見れば抵抗の意志を失くしたのもまったく不思議じゃない。
ギルド《タイタンズハンド》の全員が回廊結晶の扉を潜り、やがて回廊結晶の生み出す青白い光が収束していく。残ったのはキリトさんとあたしの二人だけ……。そしてあたしは、キリトさんになんて言葉をかければいいのか見当もつかなかった。
優しいキリトさん。
頼りになるキリトさん。
怖いキリトさん。
今のキリトさんはそのうちどのキリトさんなのだろう?
声をかけることが怖かった。敵に向けるキリトさんの目が恐ろしかった。そして、そんなキリトさんの目を見たくなかった。
「……ごめんな、シリカ」
ぽつりと、それだけ口にしたキリトさんはその場に倒れこんでしまった。
「キリトさん!?」
慌ててキリトさんの隣に駆け寄り、横になったキリトさんの顔を覗き込む。何か状態異常でも引き起こしてしまったのだろうか。あたしを狙ったピックには麻痺毒が付与されていたというけれど、じゃあキリトさんも戦闘の最中に何かしらの毒を受けてしまっていたのだろうか。今の今までそんなそぶりは一つも見せなかったはずだけれど。
「大丈夫ですか! えっと、解毒結晶? ううん、それより転移結晶で街に跳んだほうが……!」
「そうじゃない、そうじゃないんだ、シリカ。状態異常にかかったわけじゃなくて――」
――ただ、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差しただけだ。
そこでようやく気づいた。キリトさんの声はひどく弱弱しい。あたしの中のキリトさんはいつでも自信たっぷりな姿の印象が強いから、右腕を被せるように表情を隠して力なく横たわり、のろのろと疲れきった声音で話すキリトさんは意外そのものだった。
……ううん、妹さんのことを話してくれたときだけは、今みたいな、迷子みたいに泣きそうな顔をしてた。
あたしを元気付けてくれる姿や、モンスターと戦う背中の印象が強かったせいですっかり忘れていた。そうだ、キリトさんだってあたしと同じ人間なんだ。悲しみもすれば弱気にだってなる。なのにどうしてあたしはキリトさんを怖いだなんて思ってしまったんだろう。
すうっと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。よし、落ち着いた。
黙り込んでしまったキリトさんの隣にそっと腰を降ろす。生い茂った芝生の感触がこそばゆかった。
「……さっき、あたしに謝ってました」
「うん」
「どうしてですか?」
「隠し事をしてたこと、危険に巻き込んだこと、怖がらせたこと、全部――全部謝りたかった。だからだよ」
「でもキリトさんはあたしに色々話してくれたじゃないですか。囮になることを決めたのだってあたしです」
だからキリトさんは悪くありません、そう続けるもキリトさんはその腕で表情を覆ったまま「違うんだ」と否定するだけだった。あたしと目も合わせてくれない。
「ロザリアにはああ言ったけど、ラフコフが関わっているかどうかは正直半信半疑だった。ありえるかもしれない、その程度の可能性だったからシリカには言わなかったんだ。もし奴等が関わっていたのだとしても、せいぜい下っ端の誰かが遊び半分にPKを教唆してる位で、幹部クラスが直接手を貸すような密な関係だとは想定していなかった。……甘かった。まさかザザどころかPoHまで来てるなんて想像の埒外だ。どうしてこんなところにラフコフ三巨頭が……」
そう嘆いたキリトさんの声はしわがれたように疲れていた。
呻くように声を搾り出すキリトさんは心底後悔している。ラフィン・コフィンが関与している可能性が低かったからあたしに囮役を頼んだ。だというのにまさかのラフコフ、それも幹部クラスの登場だ。その上団長まで出張ってきたのはキリトさんにとって言葉通り完全に予想外のことだったのだろう。軽率な判断を悔やみに悔やんでいる様子だった。
「でも、キリトさんはあたしを守ってくれました」
「危険にさらしたことには違いない。そもそもシリカの目的は《プネウマの花》だ。プレイヤー同士の争いにも、俺とラフコフの因縁にも関係なかった。なのに俺はシリカに協力の代償としてタイタンズハンドを釣る餌になることを強いた。そのせいでシリカまでラフィン・コフィンに目をつけられる結果を招いてしまった。……最低だし、最悪だ。シリカに詫びのしようもない。完全に俺のミスだ」
低く深く、ズブズブと沈み込んでいくかと思うほどキリトさんの声は暗い。表情も見えない。それでも悔恨に暮れていることはわかる、疲れきっていることも。
なら、あたしがキリトさんに出来ることはなに? 打ちひしがれているキリトさんにあたしは何をしてあげられるの?
「キリトさんがアインクラッドで最初のPKをしたプレイヤーだっていうのは……」
「ああ、そのことも黙ってたっけ。……ごめん」
「いえ、黙ってたことは別にいいんです、気にしてません。でも、それってやっぱり第一層フロアボス討伐戦でのことですか? ボスに追い詰められて錯乱したプレイヤーが仲間を襲いだして、その人を止めるために《はじまりの剣士》さんが手を汚したんだって聞きました。その時に、攻略の邪魔をするやつは俺が許さない、って宣言したことも」
もっともあたしが聞いたのは第一層攻略が成功してから随分後のことだった。報告が届いた当時ははじまりの街にいなかったし、事の顛末を知ったのはそれから随分時間が経ってから別の噂に混じって聞き知っただけだ。詳しいこともわからない。
今でこそ各種メディア情報が充実しているけれど、ゲーム開始当初は大々的に情報を広める手段なんてなかった。皆自分のことに手一杯だったこともあるし、システム的に利用できなかったということもある。新聞のような不特定多数に情報を伝える手段は階層を進めて初めて使えるようになったものだ。低階層を攻略していたころは信憑性の不確かな噂が蔓延している状況だった。
「攻略の邪魔をするやつは許さないって……、ディアベルはそんなふうに脚色して話したのか。ベータテスターと一般プレイヤーの溝を解消するために、改めて一致団結するよう促したわけだ。俺を抑止力にするあたり、やっぱり頭いいな、あの人」
お人好しは変わらないみたいだけど、と小さくつぶやいたキリトさんの口元には皮肉気な笑みが覗いていた。
「嘘なんですか?」
小首をかしげて問いかける。いつもならピナに頬を寄せる形になるので好んで繰り返した仕草だったけれど、今はピナがいないことをありありと感じさせられて少しだけ悲しくなった。
「俺が仲間割れを起こしたプレイヤーを斬ったっていうのは事実だよ。その後、俺は長い間オレンジプレイヤーとして過ごしたわけだし。でも、ほかのことは大部分が作り話なんじゃないか? どんな話が伝わってるのか俺は詳しくないから、どこまでが嘘かは断言できないけど」
きっとその話題をずっと避けてきたんだろうな、って思った。キリトさん、とってもつらそうだし。
それはそうだろう、PKの過去なんて、それこそレッドギルドのような人でもなければ誇れることじゃない。
誇れることじゃない? ……そっか。だからキリトさんはあんなことを。
「全部、演技だったわけですか」
「シリカ?」
「PKをロザリアさんやタイタンズハンドの人達を脅す材料にしたんですね? あの人達の逃げ場を封じて、自分から回廊結晶をくぐることを選ばせるために。そうしないと監獄エリアに送れないから」
思えば、キリトさんが怖くなるときは何時だってキリトさん自身に敵意や悪意を向けようとしていた。聞くに堪えないような罵詈雑言でロザリアさんたちを煽り、PKを厭わない姿勢を繰り返すことでラフコフの人達を牽制し続けた。
まるで、あたしを隠すかのように。ロザリアさんたちの、そしてラフコフの人たちの目にあたしが映らないようにするために、興味が向かないようにするために。
きっと、その表情に浮かべた不敵な笑みと自信たっぷりな態度とは裏腹に、ラフコフと渡り合っていたキリトさんの内心は緊張に張り詰め、焦燥に心臓を激しく脈打たせていたのだと思う。ラフコフが去った後のキリトさんは本当にほっとした表情をしていた。それもタイタンズハンドに最後通牒を突きつけるに当たってすぐに消えてしまったけれど。
違和感はずっとあったのだ。不自然というか、あたしの知るキリトさんからはあまりにかけ離れた脅し文句の数々に、急にキリトさんが別人に見えた。それはきっと意識してそういう言葉を選んでいたからなのだろう。
「……驚いた。シリカって結構鋭いんだな」
「むっ、その台詞はちょっとひどいです」
不本意なことにキリトさんは本気で驚いていた。むぅ、あたしってそんなにお馬鹿さんに見えるのかな? これでも学校では勉強できたほうなんだけど。あ、こういう場合は勉強がどうとかは関係ないか。
「悪い。でも、シリカの言う通りだよ。口ではああ言ったけど、本当に転移結晶とか使われて逃げられたらまた見つけるのも骨だし、見つけ出しても監獄エリアに確実に送れるわけじゃない。やつらの中にはグリーンプレイヤーもいたわけだしな。皮肉なことに犯罪防止コードがオレンジギルドを守る盾になる。まさか一人ひとりPKして回るわけにもいかないし」
「キリトさん、冗談でも軽々しくPKをするなんて言っちゃ駄目です。あたしはキリトさんが平気でPKできる人だなんて思ってませんからね」
誰がなんと言おうとキリトさんは優しい良い人で、あたしの恩人だ。キリトさんが悪く言われるのは嫌だし、キリトさんが自分で自分を追い詰めて欲しくもない。
そんな怒りと懇願のこもったあたしの言葉を受けてキリトさんは困ったように視線を左右に揺らした。そして、ごめん、とまた小さく謝る。
……キリトさん、あたしはキリトさんに謝ってほしいわけじゃないんです。あたしはただ、キリトさんにそんな顔をしてほしくないだけ。自分を傷つけて欲しくないだけ。それだけなのに。
やがて独り言のように茫洋とした口調でキリトさんは語りだす。
「迷いの森でシリカを助けたのは偶然と罪悪感からだ。ピナを生き返らせる手段を思い出した時もシリカを囮に使おうなんてことは考えてなかった。でも街でロザリアに会って、シリカの宣言でロザリアの狙いがプネウマの花とシリカに向いたのだと思った。あわよくば、と思ったのはこの時だったな。そして、シリカの身の安全とタイタンズハンドの捕縛は両立できる、そう判断してシリカを思い出の丘まで連れてきたんだ。……月夜の黒猫団のときと同じだ。俺はまた自分の力を過信して取り返しのつかない事態を招くところだった。いつまでたっても成長しない。自分で自分が嫌になるよ」
その言葉通り、キリトさんは広げた掌で目を覆い隠し、如何にも《自分に失望してます》と言わんばかりの重苦しい溜息をついた。
「タイタンズハンドの連中の心を折るためにどうにもならない実力差も演出した。ここまでは良かったんだが、ラフコフの存在は本当に予想外だったな。なんだってこんなところでラフコフのトップスリーが揃うんだか」
「そういえば、ラフィン・コフィンの人達はどうしてここにいたんでしょうか? タイタンズハンドの人達も知らなかったみたいですし」
「いや、ロザリアだけは《赤眼のザザ》に驚いてなかったよ。他のやつらは知らないがロザリアだけは完全に黒だ。あの女は確実にザザと通じていたし、もしかしたらラフコフとも交流があったのかもしれない」
断言するキリトさんの声に疑念の色はまったくなかった。そういえばあたしはあの瞬間のロザリアさんの表情は見逃していたし、その後のロザリアさんの様子にも気を配ってはいられなかった。それくらいキリトさんと《赤眼のザザ》の戦いに目が釘付けだった。
「他の連中にしても素性を知らなかっただけで協力者としてザザの存在くらいは知ってたんじゃないか、と思うんだけどな。これ以上は連中自身に聞かないとわからないか」
「ロザリアさんは騙されたようなこと言ってませんでした?」
「……さて、どうだろうな。煽られたのか、誑し込まれたのか。ラフコフが色を使うっていうのは聞いたことがないから、多分言葉巧みに意識を誘導されたんだと思うけど。犯罪思想の扇動はラフコフのお家芸だしな。それに元々オレンジギルドを率いていたくらいだ、PKに対する忌避感も低かったのかもしれない」
「た、誑し込むって……」
かあっと頬が熱くなっていくのがわかる。色を使うって、そんな。それって大人のあれでこれでそれなえっちのことだよね? 昨夜キリトさんに倫理コード解除設定の話を聞いていたせいで思い切り生々しい話に聞こえてしまった。
キリトさん、あたしとそう年が離れてるとは思えないけど、こういう話に遠慮のない人なのかな? それとも経験済み、とか?
いけない、これ以上考えると頭が回らなくなってしまう。ぶんぶん首を振って無理やり頭に浮かんだあれこれを追い出した。左右で結んだ髪が合わせて揺れる。やっぱりちょっと子供っぽいかな、この髪型?
「PoHはザザの見世物を見に来たって言ってたから、多分ラフコフの狙いはプネウマの花に託した希望を摘み取られるシリカの姿を嘲り笑うことだったんじゃないかと思う。その上でシリカ自身とおまけの護衛の命を奪うことも含まれていたかもしれない。俺が同行していたことは奴らにとっても予想外だったとは思うけど……シリカ?」
「わわわ。なんでもないです、ちょっと色々整理していたと言いますか」
しどろもどろになるあたしをきょとんとした顔で見上げるキリトさん。う、そういえば未だにあたしはキリトさんを上から伺い見るような体勢なのでした。ちょっと、ううん、かなりまずいかも。一度意識するとこの距離はなんだかとても緊張してしまう。
「と、とにかくですね! キリトさんは悪くありませんし、あたしも気にしてません。今日はキリトさんのおかげでプネウマの花を手に入れることができました。これでピナを生き返らせてあげることができます。それにプネウマの花を狙ったロザリアさんたちをキリトさんが捕まえて、ラフィン・コフィンの人達もキリトさんが追い払ってくれました。全部キリトさんのおかげなんです!」
「……そんな綺麗にまとめられる話じゃないんだ。PoHは俺のことを見透かしていたよ。シリカが俺の弱点足りえるのだと、俺を押さえつけるのに最適な獲物なのだと、そう認識したはずだ。……俺の苦し紛れの恫喝もどこまで奴等に効果が期待できるかわからない。だからシリカ、俺は君に――」
「キリトさん!」
それ以上は言わせたくなかった。きっとこの人はまた自分を責めようとする。そんなの嫌だ。
もちろんキリトさんの口にした内容は怖い。泣き喚きたくなるくらい恐ろしいものだ。
それでもあたしの気持ちは変わらない。
「キリトさんの事情は聞きました。あたしを巻き込んだことでご自身を責めてることもわかります。でも、あたしのキリトさんへの感謝の気持ちまで否定しないでください。疑ったり……しないでください。お願いしますキリトさん、どうかあたしの《ありがとう》を受け取ってください……!」
勢いで言い切ってしまおう。そう思ったのだけれど、言い募る内にみるみる涙がこみ上げてきて、最後はしゃくりあげるような情けない声になってしまった。だめだな、あたし。伝えたいこともきちんと伝えられない。キリトさんには本当に感謝してる、恨みになんてこれっぽっちも思ってないってわかってほしい。ピナとあたしのために戦ってくれたキリトさんに、これ以上つらい顔をして欲しくない。
「《ありがとう》は、きっと俺のほうこそ言わなきゃいけないんだろうな。昨日からずっと励まされてばかりだ」
ややあってキリトさんがその身を起こす。よかった、きっとこれ以上沈黙が続いていたら、キリトさんの返事を待つこともできずに涙と嗚咽がこぼれ出てしまっただろうから。そしたらまたキリトさんを困らせてしまっていたはずだ。
でも――。
現金だなぁ、あたし。
俯いたあたしの頭を優しく撫でてくれるキリトさんの暖かな手に、すっかり気分が持ち直してしまっていた。泣いたカラスもびっくりだ。
「そんなことないです。あたしのほうがずっとずっと元気を貰ってますから。キリトさんに頂いてばかりで心苦しいくらいなんですよ」
本当にその通りだ。あたしはキリトさんに優しくしてもらってばかりで、頼りっきりだ。何も返せない。なんとかしたいと思っても、キリトさんの手伝いなんて出来るほどあたしのレベルは高くない。最前線で戦おうものならすぐに戦死してしまう。手伝いどころか足手まといだった。そんなことしたってキリトさんの迷惑にしかならない。
「だからキリトさん、今日はあたしがキリトさんを元気付けてあげます……!」
「……シリカ?」
「そうと決まればまずはあたしの部屋に戻りましょう。早くピナを生き返らせてあげなくっちゃ」
「いや、ピナ蘇生は俺も望むところなんだけどさ。……やっぱりちょっと待った、なにがどうしてそんなことに?」
「だってキリトさん、あたしとデートの続きをしてくれるって言ったじゃないですか。昨日はあたしがキリトさんから元気を貰いましたから、今日はあたしがキリトさんに元気をあげるんです。そうすればお相子ですから、ちょうどいいかなあって」
弾む胸の鼓動を宥めようとも思わず、自然と緩んでしまう表情を満面の笑顔に変えてキリトさんの驚いた顔を覗き込む。キリトさんはそんなあたしの宣言に戸惑ってばかりいたけれど、キリトさんを元気付けてあげたいというあたしの気持ちは本物だ。本物で、全力で、絶対の、心からの願い。あたしに出来る精一杯のお礼の気持ちを込めようって、そう思った。
ロザリアさんたちが待ち伏せに使った場所だけあってこのあたりはモンスターの寄り付かない安全地帯なのかもしれないけど、それでもあまり長いこといたくはないし、早く街に戻ってピナを生き返らせてあげよう。宿はどっちがいいかな。あたしのホームである8層に戻ってもいいけど、35層の部屋はキリトさんと一緒に寝た思い出の場所だ。やっぱりそっちのほうがいいかな。
「行きましょうキリトさん。ピナも絶対キリトさんに会いたがってます」
心アイテム《ピナの心》の中で、きっとピナはあたしを見守ってくれていたはずだから。だからピナだって恩人であるキリトさんにお礼を言いたいだろうし、もしかしたらあたしと同じかそれ以上にキリトさんにも懐いちゃったりもするかもしれない。それもいいな、と思う。キリトさんとあたしとピナの三人で一緒に眠れたら、どんなに良い夢が見られるだろう。
そんな素敵な想像に自然と表情が綻び、笑顔でキリトさんの手を取る。今まではおっかなびっくりだったけど、これからはもう少しだけ積極的にキリトさんの傍にいられるはずだ。
「あのですね、キリトさん。あたし、キリトさんのこと《キリトお兄ちゃん》って呼びたかったんですけど、やっぱり止めておきますね。キリトさんはキリトさんでいてくれたほうが嬉しいです」
急なあたしの話題転換にキリトさんが目を白黒させ、そんな姿にまた笑みがこぼれる。
なんだか可愛い。それにキリトさんの弱点も発見、強気で攻めると案外流されやすい。それはあたしがキリトさんにとって妹さんと重ね合わせてる存在だからなのかもしれない。でも、あたしはキリトさんの妹じゃ嫌だなって思ったのだ。だからあたしはキリトさんと呼び続けることに決めたし、これから先もこの人のために少しでも力になろうって決めた。それにピナのことで恩返しだってしなくちゃいけない。
黒の剣士、はじまりの剣士、二刀流使い、最強プレイヤー。
数々の異名を誇るキリトさんだけど、その本質はとても優しくて、そして脆いところだってある普通の人だ。あたしと同じ寂しがりやで、弱音だって吐くし疲れもする。けれど、現実とは違うこの世界を――剣で怪物と戦う恐ろしい世界を懸命に生きている強い男の人だった。
強くて、優しくて、格好良くて、時々可愛い男の人。
ねえピナ。ピナにも紹介してあげるね。あたしを助けてくれた人、ピナを生き返らせるために戦ってくれた人を。あれから何があったのか、どんな冒険をしたのか、キリトさんがどれだけあたしたちのために力を尽くしてくれたのかをいっぱい話してあげる。
残された時間は少ない。キリトさんは最前線で戦う攻略組のトッププレイヤーだ。中層に降りてきた目的も果たしたのだから、いつまでも一緒にはいられない、別れはすぐそこに迫っている。そしてこれから先どれだけ会えるかもわからなかった。
生きる世界が違う、と言ってしまえばそれまでのこと。
でも、あたしはキリトさんの傍にいたいって思った。
出会いは劇的で、なのに別れは間近で、胸に芽生えたこの想いがこの先どう育っていくのかはまだわからないけれど――。
――ピナ。あたし、好きな人が出来たよ。