これは、ぼくが新入社員の頃の昔語り。
先輩のミヤさんとまずい煙草を分け合った、気味の悪い電車での出来事。

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怪談『わかば』

 わかばの生産終了が決定というニュースを聞いて、新入社員の頃を思い出した。

 ぼくは、とある地方の土建屋で、建築士の仕事に就いている。ぼく自身は言ってしまえば平凡で、可もなく不可もなく、たぶんこれと言って特徴のない人間だと思っている。特徴があるのは、どちらかと言えば事務所の方だ。

 うちの事務所は少し変わっていて、普通では建てないものを専門に取り扱っている。別に隠す必要もないから最初に言ってしまうが、鳥居や祭壇といった儀式的なものなのだ。どうしてそんなものを、という質問には、残念ながら答えられない。守秘義務とかではなくて、ぼくのような下っ端には、理由が知らされる事はないから、なのだ。

 諸々の後片付けやら何やらのおかげで、自分の仕事がどういったものであるのか、どんな人のためにあんなものを建てるのかは、およその想像が早い頃からできていた。正直に言ってしまえば、その手の話は苦手な部類なのだけれど、今でもどうにかこうにか仕事は続いている。時折怖い体験はあるものの、現時点だけで言えば、五体満足に無病息災でやっていけていると思う。

 閑話休題。新入社員の頃のぼくは、当然ながら右も左もわからない若造で、よく先輩方に小突かれて走り回っていた。その中でも、一番面倒を見てくれたのが、大工のミヤさんだった。ミヤさんは、小柄だけれど肝が座った人で、若い頃はヤクザ者との大喧嘩もあったらしい。ミヤさんと言う仇名は宮大工の経歴が故のもので、本名は教えてくれなかった。なんでも、社長と古い馴染みの関係で、事務所の経営方針が固まったのもミヤさんのお陰だと言う。

 怒らせると怖いけれど、朗らかで素敵な人だった。事務所の中だけでなく、現場でもミヤさんを慕う人は多かったと思う。多分に漏れずと言うか、ぼくもまあそのひとりで、ミヤさんへの感情は憧れや尊敬が強い。たくさんの事を教わって、色々なところで助けて貰った。ミヤさんとの思い出話なら、事務所の中でもぼくが一番できる自信もある。

 

 これから話すのも、そんなミヤさんとの思い出のひとつだ。

 

 当時のぼくは、入社一年目のひよっ子だった。建築士の資格もないから現場に出て仕事を教わり、隙間を縫って試験勉強を繰り返す日々。

 お荷物でしかないぼくを、ミヤさんは根気よく育ててくれた。煙草の吸い方を教えてくれたのも、吸いやすそうな銘柄を選んでくれたのも、この仕事を始めてからの大体全てはあの人が先生だ。

「おう、煙草は慣れとけ。吸いたくないなら、辞めた方がいいぞ」

 クシャクシャの紙箱を押しつけられ、いきなりそんな事を言われて面食らったのを今でも思い出す。煙草は吸えないと伝えても、吸えなければ仕事を辞めろと言って聞かない。ミヤさんの事がわからなかった時は、いじめられているのかと思ったくらいだった。

 うちの事務所は、たぶん、とても変わっている。このご時世に、喫煙が絶対なのだ。毎日吸う必要はないが、いつでも吸えるようにしなくてはならない。試用期間を過ぎても残った社員には、頑丈で高価なライターを社長がお祝いとして配るほどだ。

「絶対に手放すんじゃないぞ、御守りだと思え」

 ずしりとした金属の塊を渡しながら、社長はひとりひとりの目を見て、真剣な声色で言う。ライターを忘れた事で大事故になったのだと言われても、新入社員の大半がそれを信じてはいなかった。社長の言葉を信じるようになるまでは、少しばかり時間が必要なのだ。

「キンちゃんはなぁ、無器用だからよう。ここで続けてきゃ、お前もわかるようになるから……まあ、信じてやってくれや」

 そう言って、ミヤさんは紫煙を吐き出しながら笑っていた。

 ぼくはと言えば、いつまで経っても煙草は苦手で、自分から吸おうとは思いもしなかった。ミヤさんは時々コツを教えてくれるのだけれど、煙を吸い込むと咽せてしまう。そんな情けない様を見て笑いつつも、ミヤさんが怒ったりする事は一度もなかった。

 入社から半年ほどが過ぎたこの頃には、ぼくはもう随分と彼の事を慕っていたと思う。いつも一緒に行動していた事もあって、他の人よりもずっと距離が近かった。ミヤさんからも何かと呼び出されて、遠出する必要のある現場の時は、小間使いのように付き従っていた。

 若手が仕事に慣れ、気が抜けて大怪我をするのも、大抵がこの時期だ。

 あの時は、そう、青森に向かう新幹線の中だった。

 

 ベテラン組は、ミヤさんとそのお弟子さんが三人。新入社員は、ぼくを含めてふたり。合わせて六人で、早朝から新幹線に揺られていた。

「いかんわ、おい、降りろ。これはダメだ、別れた方がええから次で降りて全員ばらけてけ。俺はとりあえず、このまま現場に直行するわ」

 上野を出たばかりの車内で、ミヤさんがいきなりそんな事を言い出した。ぼくを呼び付けると、良い機会だからお前は残れとだけ言われた。

 お弟子さんたちは慌てた様子もなく、慣れた様子でそそくさと荷物をまとめてデッキへ向かっていく。混乱するぼくの同期を連れて、皆一様に大宮で降りて行った。ただでさえ少ない乗客は、発進する頃にはぼくとミヤさんのふたりだけになっていた。

 

 現場に向かう車内は早朝という事もあってか、人気がまるでなく、軽く見渡しても空席しかなくてがらんとしていた。ミヤさんとふたり旅をしているようで、少し落ち着かない。お弟子さんたちとは別行動を取った理由を聞こうとしたけれど、空気が嫌に重苦しい。背筋を冷たい汗が流れ落ちていく感覚は、酷く不愉快なものだった。

「おう、ライター出しとけ。煙草、あるだろうな」

 そんなぼくの様子を見て、ミヤさんは声を潜めて話しかけてきた。返事をしようとすると、それを手で制して「黙って動け」と視線で命じられる。慌てて鞄の中から、社長に貰ったライターと、軽くて吸いやすいという理由から選んだ、ピアニッシモと銘打たれた紙箱を引っ張り出す。女みたいなのを吸うんだなと、ミヤさんは困ったように笑っていた。

「いいか、俺が『良い』って言うまでは、俺以外とは口を聞くな。見るのも良くねえが、黙ってるのも良くはねえ。だからまあ、俺だけ見て、俺にだけ話しかけとけ。誰に何を聞かれても、返事しちゃなんねぇぞ」

 言いながら、ミヤさんは上着の懐から取り出したわかばの一本を咥えて、その先端に火をつけ始めた。当然ながら東北新幹線は全車両が禁煙で、そんな事は許されない。困惑するぼくを見ながら、ミヤさんは咥え煙草で促した。

「あん時に言ったろ、仕事を辞めるか、吸うかだ。こういう時に吸えないなら、うちの仕事は向いてねぇ。今だけは俺の言う事を聞いとけ、そんでもって、帰ってから辞めりゃいい」

 その迫力に押されて、ぼくは結局、細くて長い一本を咥えた。慣れないというよりは緊張のせいで、着火に少し手間取りはしたものの、紙巻の先端に淡い紅色が灯るのを見て不思議と安堵した気持ちになった。ゆっくりと吸い込むと、強いメンソールの匂いが流れ込んでくる。

「なんだい、ほんとに女の好きそうな煙草だな。まぁ……最近じゃあ、煙草吸うやつは厄介者だから仕方もねえか。俺の若い頃は、酒も煙草もダメなやつはよう、色んなところでナメられたもんだったなあ」

 場違いに明るい声で、ミヤさんはそんな話をし始めた。がらがらと大声で笑いながら、深々と息を吸い込んで、天井へ向けて一筋の煙を吐き出していく。実に美味そうに煙草を吸うのだなあと、ぼくはその時、少しばかり感心した。

 こんこんと、咳き込む音が後ろの座席から聞こえ始めたのはその時だった。ミヤさんを見ると、そんなものはお構いなしに、深呼吸でもするように煙草の吸いしろを灰に変えていく。煙が立ち込めて視界がくもり始めると、咳払いは大きくなった。

「あの、ミヤさん、後ろの……」

「良いから黙って吸え、絶対に火ぃ絶やすんじゃねえぞ」

 すみませんと、呼びかける声。子供がいるんですけど、と、中年の女性の抗議が聞こえる。それでもミヤさんは、煙草を消さない。それどころか、吸い終えた煙草を携帯灰皿に押し込むなり、煙を吐き出しながら二本目を取り出して咥えた。最後の一息を吐くのと、ライターに火が灯るのはほぼ同時。あっという間に、吸いしろが灰になっていく。

 前の方の座席から、苛立たしげな舌打ちの音が聞こえた。座席の背もたれを、軽く、それでも悪意を持って蹴られているのがわかった。消すべきではないのかと、怯えにも似た感情で、頭の中がこんがらがってくる。

「でよう、お前みてえな弱っちい煙草だと、またナメられる。金を持ってる男が吸うような煙草か、でなきゃ吸い辛い……まあ、言っちまえばまずい煙草を吸ってるやつが一目置かれたもんさ、根性があるってよ。お前もちょっと吸ってみな、それじゃあ弱すぎんだよ」

 言いながら、ミヤさんはわかばの一本を箱から取り出して、ぼくへと突き付けた。肺の中に溜め込んだ煙を、後ろの座席へと吹きかけるように吐き出しながら。扉の開閉音が聞こえたのは、その時だった。

「他のお客様のご迷惑となりますので、お煙草はご遠慮いただけますか」

 穏やかそうな車掌の声に、すみませんと返事をしそうになったところで胸ぐらを掴まれた。ミヤさんの目が、ぼくをじいと見つめている。唇に触れた煙草をどうにか咥えると、それでいいと囁かれる。解放された身体を背もたれに預けながら、ミヤさんの差し出したライターに顔を寄せる。

「いかんぞ、見るな、聞くな、相手にするな」

「お客様のご迷惑となりますので、すみませんが、お煙草はご遠慮いただけますか」

 頭上から降ってくる声は、変わらずに繰り返す。背もたれを掴んで、車掌が覗き込んでいるような気がした。うなじの辺りに、ぢりぢりと視線を感じる。ミヤさんに煙を吐きかけられて怒ったのか、ガタガタと音を立てて、車掌はぼくの椅子を揺すり始めた。

「お煙草はご遠慮いただけますかお客様、他のお客様のご迷惑となります。お煙草はご遠慮いただけますか、ご迷惑です、他のお客様のご迷惑となります」

 そこで、ようやくぼくは気付いた。後ろの座席から、声が聞こえるはずはない。前の座席から、舌打ちが聞こえるはずはない。だって、この車両は今、ぼくらの他は空席なのだ。車掌が、座席を掴んで揺さぶるだろうか。背後から話しかけるだけの車掌など、見た事もない。こんな羅列めいた発言を、車掌が、普通の人間がするものなのか。

 ぞっと、嫌な感覚が背中を走り抜けていく。咥えた煙草の先に火が灯ると、あれほど椅子を揺すっていた車掌は、それだけで一歩を退いたようだった。

「お煙草はご遠慮ください、迷惑です。お客様、お煙草はご遠慮くださいお客様」

「絶対に見んなよ、いいな。お前のじゃ匂いが弱すぎるんだ、俺のを分けてやるから不味くても吸え。吹かすだけでいいから、火ぃ絶やすなよ」

 ミヤさんは、後ろの何かを見たのだろうか。うんざりしたような顔で煙を吐き出しながら、鞄を漁り始める姿を見ているしかできなかった。やがて取り出されたのは、封も切っていないわかばの箱たち。五つほどもあるうちの半分ばかりを、ミヤさんはぼくに渡してくれた。

「どんな煙草が良いか、後で選んでやる。なあおい、女はいるか? 俺もよう、若い頃はたくさんいたよ。女の家を泊まり歩いて、なんてジゴロみてえな真似もできてよう。モテたんだぜ、俺は」

「煙草を消してくれませんか、お客様。子供がいるんですけど、煙草を消してくれませんか。煙たいので煙草をご迷惑になりますので煙草を消してください」

 話しかけてくる声を無視するように、ミヤさんの昔語りが始まった。女がどうだとか、パチンコがどうだとか、そんな下らない話ばかりだ。けれど、この時のぼくには、その話が何よりもありがたかった。

 窓の外の景色も、周囲の話し声も気にならない。少し品のない、山も落ちも意味もない、ミヤさんの生活だとか過去だとか、そういう下らない話。それに聞き入ってまずい煙草を吹かし、吸いしろがなくなる頃には次の煙草に火をつける。白く煙った視界の片隅で、人影のようなものが、触れれば消えてしまう煙の壁を隔てたそこに立っている。あとはもう、ミヤさんだけが頼りだった。

「ちょっとちょっと、困りますよ! お客さん、新幹線は禁煙なんですよ!」

 不意に、怒鳴り声にも似た男性の声が聞こえて、座席から飛び上がるほどに驚いた。ミヤさんに視線を向けると、頭を掻きつつ誤魔化し笑いを浮かべながら、慌てて煙草を揉み潰していた。

「いやすいませんねぇ、何分、年寄りなもんで。昔の名残で吸っちまったんで、ええ……おい、お前も火ぃ消して良いぞ」

 煙の向こう側では、車掌さんがまだ何か言い足りないかのように、ぼくとミヤさんを睨み付けていた。咥えていた一本を灰皿に押し込みながら、すみませんと、そう呟くので精一杯。憔悴しきったぼくの様子に面食らったのか、車掌は切符の確認をすると、くれぐれも吸わないようにと念押しして去っていった。

「よう頑張ったなあ、振り向いちまうかと思ってたわ。おう、ヤニ吸ってばかりで具合も悪いだろ。水飲んで吐いてこい、悪いモンも流れていくからな」

 そんな言葉と共に五百円玉をぼくの手に押し付けて、ミヤさんは笑った。俺は少し寝ていくからと、大きなあくびをひとつ交えて。

 

 それが、ぼくの初めて体験した、この事務所での怖い体験。そして何より、ミヤさんに助けて貰った、一番最初の思い出だ。

 アレが何だったのかは、今でもわからない。振り返っていたらどうなったのか、返事をしたらどうなるのか、そういう疑問はわからないし、ミヤさんに聞いても「知らんよ」と言われるだけだった。ただ、やってはいけない事だけがある。ミヤさんがわかっているのも、そのくらいでしかないらしい。

 今のぼくも、まあ、あの頃のミヤさんと似たようなもので、何も知らないままだ。変わった事と言えば、建築士の資格を取ってただの下っ端から少し使える下っ端になった事。それから、吸う銘柄がピアニッシモでなく、マイルドセブン──ここ数年で変わった名前で呼ぶのなら──メビウスになったくらいだ。

 ミヤさんは、今年の始めに亡くなった。事故の類ではないけれど、詳しくはわからない。最後に電話で話した時は、さほど取り乱した様子も見せず、時折咳き込んでいたくらいだ。

 持病があったのかもしれないし、大病を患ったのかもしれないし、それ以外の要因があるのかもしれない。そのどれもがあり得そうで、そして同時にあり得なそうで、もどかしい。わかる事と言えば、ぼくは、大事な先輩を喪ったという事だろう。

「メビウスの八ミリのメンソール……えーと、十三番と、わかばを下さい」

「お会計、八百四十円になります。ちょうどですね、ありがとうございましたー」

 覇気のない店員の声に見送られて、自動ドアを潜る。冬の寒さは厳しさを増して、ぼくは思わず肩を竦めた。

 帰り道を行こうとしたところで、今時珍しい、店頭の灰皿が目に入った。いつも吸っている銘柄ではなく、わかばの包みを破いてポケットへと押し込んだ。銀紙を剥がすと、押し込まれた紙巻の一本を引き出してやる。

 咥えながらライターを取り出して、ゆっくりと火を灯す。吸い込んだ煙の味は、あの頃から変わっていない。少し咽せそうになりながら、タールとニコチンの塊めいたそれを、肺の中へと迎え入れた。

「……やっぱり、美味しくないや」

 ミヤさんも、まずいまずいと言いながらこれを吸っていた。歳を取れば味わいも変わるかと思ったけれど、やはり、まずいものはまずいままだ。

 夜空を仰いで、細く緩く、煙を吐き出す。冷たい風に吹かれて、煙は何処かへ流され、千々に切れて消えていった。

 吸いしろの半分ほどを灰にして、ぼくは吸い殻を灰皿の中へと押し込んだ。じゅっと音を立てて、紙巻に灯った紅が消える。意味はないけれど、何となく両手を合わせてから、家路へと一歩を踏み出した。


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