黒神の聖女〜言葉の紡げない世界で〜   作:きつね雨

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第一話から数えて108番目の特別編。約三話分のボリュームがあるのでご注意下さい。内容は題名そのままです。



特別編 〜祝福のリンスフィア〜
Engagement kiss


 

 

 

 心で糸を、優しさを紡ごう

 

 花の名は想い

 

 紡いだ優しさで束ねたら

 

 慈愛と呼ばれる花束になるよ

 

 ほら、それは世界を彩って

 

 君と誰かを愛色に染めるから

 

 

      ダルグレン=アビ

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 

 王都リンスフィア、それどころかリンディア王国全土に駆け巡る噂があった。

 

 いや、噂では語弊があるだろう。

 

 リンディア王室からの正式な告知があったのだから。

 

 その告知自体は非常に短い内容だっだが、復興最中のマリギやテルチブラーノ、南の森を切り拓く為に造られた開拓村すら例外ではなかった。遠くファウストナ公国までも届いたのだ。

 

 予定された日程に合わせ続々と人が集まって来ている。王都リンスフィアは未曾有の人口爆発に見舞われ、凄まじいまでの活気に溢れていた。日々大量に消費される食料や酒、宿や劇場から人が途切れる事はない。

 

 リンスフィア各所に騎士団が派遣されており、来たる日に向けて着々と準備が進んでいる。最適な順路と警備、その中で可能な限り人々と触れ合える方法を決めなければならないからだ。大変な作業だが、騎士の誰一人として嫌な顔をしていないのが分かった。寧ろ誇りある任務だと笑顔すら浮かぶ。

 

 街の住民からは「是非この道を」「許されるなら足を運んでください」「休憩所として自由に使って欲しい」「花を献上したい」などなど、処理し切れない嘆願や申入れが王室へと届いている。

 

 それら全てが魔獣からの解放……つまり"救済の日"以来最大の活況、ある意味の好景気を生み出す事になっていた。

 

 

「本当なんだよな?」

「おいおい、しつこいぞ」

「態々来たんだ、仕方ないだろう」

「リンディア城前に告知が出てるよ。心配なら見てくればいい」

「そりゃ聞いてるが、事が事だからな……」

 

 似たような会話があちこちで交わされている。

 

 

 

 聖女カズキがリンスフィアに、国民の前に姿を見せる……

 

 遠目にリンディア城を仰ぎ、運さえ良ければ聖女を見る事が出来るのは知られていた。特に天気の良い朝は確率が高く、目にする事が可能な最高の場所は何処かと論議が絶えない程だ。

 

 しかし、聖女自らが街に姿を見せる事は殆どなく、誰もが叶わない願いを抱えていた。救済の礼を伝えたい、家族を救ってくれた、魔獣に怯えなくてよい国になった。そんな感謝の気持ちをずっと抱き締めていたのだ。

 

 今や何処を歩いても目にする聖女の絵姿は、人々の想像を掻き立ててしまう。

 

 

 

 美しき面差し

 

 艶やかで夜を溶かした黒髪

 

 慈愛を湛えた翡翠色の瞳

 

 黒神の寵愛、白神の加護

 

 刻まれた数々の刻印

 

 

 

 誰もが知る事実だが実際に会った者は非常に少ない。大半が騎士か森人で、あとは黒髪を捧げた広場にいた一部の者達だけだ。

 

 その為、聖女を描いた絵姿は飛ぶように売れている。

 

 幕が上がった舞台「聖女の座す街」は終日の満員となって、あの日聖女が如何に救済を成したかが明らかになった。その舞台は大変な話題を呼ぶ事となったのだ。

 

 捧げた黒髪によって人々を癒した事実が余りに有名で、其れが救済の手段だと思われていた。

 

 小さな身体でケーヒルを守ろうと立ち向かった勇気、千切れた右腕、流れ出る尊き赤い血。それでも王子へ笑い掛け、そして魂魄すら捧げて世界を救済した。その献身と慈愛の何と偉大な事か……何日も目を覚まさず、黒神ヤトが降臨しなければ間違いなく命を落としていたと。

 

 ジネット=エテペリ演ずる聖女カズキは、其れらを知らしめる事になった。後に語られた騎士や森人の証言が全てを裏付けしていく。今や真実を知らない者が少数だろう。

 

 演ずる前、ジネットは必ず観客に伝えるらしい。

 

「私は聖女カズキ様を演じているのではありません。救済の日に何があったのか……其れを人々に伝える義務があるのです。あのお方は感謝も称賛も、そして涙も望まないのでしょう。声高に事実を語る事には興味などないのです。ですから……私達が語ります。この舞台は伝道への一石であり、真実を照らす篝火。カズキ様の万分の一でも慈愛を抱く事が出来たなら、それは幸せな事だと確信しています」

 

 その聖女が街へ……

 

 今やその話でリンスフィアは沸騰し、それも仕方がないと誰もが語り合っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 告知される数日前ーーー

 

 

 

「お墓……行く?」

 

 聞きようによっては不穏な言葉だが、経緯を知る皆には感慨深いものがあった。

 

 予定外の整備の遅れからカズキは勿論、ロザリーも待たせてしまった。ヴァツラフを筆頭とするファウストナの戦士団が参加した事で、漸く完成に漕ぎ着けたのだ。

 

 因みにラエティティを始めとするファウストナ一行は既に帰路についている。ヴァツラフも力仕事が終われば挨拶もそこそこに立ち去った。公爵と息子は少し離れた場所から聖女の母へ言葉と気持ちを贈り、最初に霊廟の元へ参ずるのは聖女だと頑なだったらしい。そして、ファウストナ復興を果たしリンディアに貢献すると帰って行ったのだ。

 

「ああ、待たせてしまったね。皆が協力してくれて……遠いけど見えるだろう?」

 

 何時ものベランダから僅かに丘が見える。緩やかに立ち昇る煙の様に見える真っ白な道も、整備されたのだとカズキにも分かった。

 

「うん、皆、ありがと」

 

「ふふ、それを聞いたら喜ぶと思うよ」

 

 二人の距離はほんの僅かだけ縮まったかもしれない。アストはみだりにカズキに触れなかった為、大抵は半歩離れていたからだ。今はもう少しで触れ合う程の近さまで身体を寄せ合っている。

 

「お礼言う、どする?」

 

「そうだな……」

 

「カズキに皆が会いたいと願っているのだ。街へ行き顔を見せてあげればいい。それが何よりの礼となるだろう」

 

 いきなり背後から声が響き、二人は慌てて背後を振り返った。

 

 見ればカーディルが扉の陰から顔を覗かせている。一見真面目な表情だが、目は笑っていて隠せてない。如何に王といえど、女性の居室に勝手に入るなど許されない……アストは怒りの声を上げようと口を開きかけた。だが、原因がヒョコリと父の背中から顔を見せれば呆れて声が出なくなってしまう。

 

 性差はあれどもやはり親娘。ニヤニヤとイヤラシイ笑みはそっくりだ。

 

「二人とも……」

 

 それでも正気を取り戻し、アストは叱りつけようと脚を動かした。しかしそれに動ずる親娘ではやはり、ない。

 

「私はアスティアに確認して入室したぞ? クインもいる。それに、つい昨日カズキから何時でも会いに来て欲しいと言われたからな」

 

「それは一種の社交辞令でしょう……」

 

「いや、カズキはお前達と同じ我が子となったのだ。愛する娘に会いに行く親に何の罪があると言う気だ? そうだろう? カズキ」

 

「え……あ、うん」

 

 長い言葉で間違いなく意味は伝わってないが、勢いに負けたようだ。

 

 完全な詭弁を飄々と語るカーディル。言葉だけなら立派なだけにタチが悪い。しかし何時もの悪戯好きな顔は変わらないのだから台無しになっている。

 

「全く……変わりませんね父上は」

 

 アスティアはカズキの元へ行き朝の挨拶をかわしている。最初にアスティアと呼んでしまったカズキは、再び「お姉ちゃん」と言葉にするまで許してもらえない様だ。そんな姉妹を離れて見守りながら、カーディルは語り掛けた。

 

「アストよ、何故だ?」

 

「……何ですか?」

 

「肩を抱き寄せ、耳元で語る。時には頬へ唇を落とし、瞳を見詰め愛を囁く。まさに絶好の機会ではないか。ヴァツラフが帰ったからと()()してはならん」

 

「ならばお答えしましょう。父上が何処に潜むか分からない為、()()が出来ないのです。聖女の間すら安全ではないなら、ファウストナにでも身を寄せるしかないですね」

 

 意趣返しくらい許されるはずと、アストは横目を送った。

 

「ほう……少しは前進したか。これぐらいで許してやろう」

 

 許すのは此方だと思ったが、キリがないのでやめた。カーディルの性質は生涯変わりはしないし、言っても無駄だ……そうアストは思ったのだろう。

 

「しかし……街に、ですか?」

 

「ん? ああ、どうだ?」

 

「確かに良いかもしれません。献上品に代表する様に、皆の気持ちは膨れ上がっているのが分かります。流通するカズキの肖像画は今や数えることも出来ませんからね」

 

「最近開演した舞台は大変な盛況らしいな。聞けば随分と詳細な内容らしい。まるで命を燃やす様に演ずる女優だとな」

 

「ジネット=エテペリですね。私も内容を聞きましたが誇張も嘘もない様です。カズキは自らの行いを喧伝などしませんから、私は寧ろ嬉しく思っています」

 

「ほう、ジネットか。しかし、何故そこまでに詳細が伝わっているのだ? 隠す事でもないが目撃した者は少ないだろう」

 

「脚本にノルデが関わっていますので。座長と知り合いだそうです」

 

「……なるほどな」

 

 少し呆れた様子のカーディルだったが、最も間近にいたアストが良しとするなら構わないか……そう納得したようだった。

 

「しかし重要なのはカズキの意思でしょう。ロザリーとの時間にも関わりますから」

 

「確かにその通りだ。ならば早速聞いてみよう」

 

 先程から少しずつ追い詰められているカズキを救出するべく、父と息子は歩み寄った。恥ずかしそうに頬を染めるカズキを見るのも楽しいが、そろそろ限界だろう。

 

「アスティア」

 

「ほら、もう一回……恥ずかしくなんてないわ。一言"お姉様"と言えば許してあげるから」

 

「……アスティア、聞いているか?」

 

「に、兄様!?」

 

 直ぐ背後にいる事に吃驚したアスティアは、分かりやすく肩を震わせた。後ろめたいことがあったら当然かもしれない。父といい妹といい人を困惑させる才能でもあるのだろうかとアストは考えてしまう。しかし「助かった、ありがと」とカズキからの視線が届けば嬉しくなってしまう自分も同じかと苦笑した。

 

「少しカズキと話したい。姉妹として分かり合うのは待ってくれると助かるよ」

 

「も、もちろんどうぞ!」

 

 恥ずかしさ一杯のアスティアは真っ赤な顔でカーディルの横に並んだ。立ち去らないのは流石と言っていいのか。

 

「カズキ、君の意見を聞きたいんだ」

 

「はい」

 

 恩人?のアストの言う事は素直に聞く。そんな聖女にムムムと唸るリンディアの王女がいたが、街への誘いと聞けば嬉しくなったようだ。堂々と一緒に街を歩けたら幸せだと何度も思っていたアスティアにとって、それは朗報なのだろう。

 

「街……行く」

 

 そう答えたカズキの一言によって、リンスフィアの活況と歓喜は決定づけられたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丘の麓、馬車を停めるため広く取られた広場へとカズキ達は到着した。

 

 本来の目的であるロザリーの霊廟、その訪問に人影は全くないようだ。今日の日を当然に知られているが、聖女が母へ会いに行く事を邪魔するなどあり得ない……そう誰もが考えて国民達はひっそりと待っている。驚くほどにリンスフィアは静まり返っていた。

 

 周囲は騎士団が警護しているが、その必要性もないかもしれない。

 

 愛する偉大なる母との会話も、久しい時間も、もしかしたら流れる涙も、それは聖女一人のものだから……

 

 しかも今日は街をゆるりと歩き、人々と触れ合う時間すら設けるのだ。聖女自らもそれを望んだと伝わっていて、もしかしたら直ぐ側でお顔を拝見出来るかも、尊い声を聞き美しい掌で触れてくれるかもしれない……そんな願いを抑えるのは大変な労力だ。

 

 だからこそ、膨れ上がった民衆は誰一人として霊廟へ近づくことはないのだろう。

 

 

 アストに支えられて馬車から降りたカズキは、丘を見上げる。朝から見事に晴れ上がった青い空と丘の緑が美しい。石畳と時折見える階段は真っ白な石材だ。塵一つ落ちていない。

 

 王家の面々も揃い、優しく見守る。

 

 濡羽色(ぬればいろ)の落ち着いたドレスの上に、やはり濡羽色の上着を羽織っている。首元は暖かな襟巻で覆われ、言語不覚の刻印も肌も見えない。よく見れば襟巻には赤と黄金色の刺繍が薄っすらと施されていた。特注の其れにはアスティアやクイン、エリが意見を出したのだ。ロザリーの色を纏い、カズキも少し嬉しそうだったから正解だった筈だ。

 

 全体的に暗い色合いだが、襟巻以外にも目立つものがある。

 

 アストから手を放し、両手に持ち直した花束は赤や黄色が眩しい。有志の森人が集めた花々は特有の技術により鮮やかで花弁も永く咲くそうだ。酒精の力を借りた為ほんの僅かだけ酒の匂いが香るが、逆にカズキはお気に召したらしい。フェイが意見を出しているから当然かもしれない。

 

 そして、黒髪を彩るのは銀月と星の髪飾り。艶やかで控えめな銀の光を反射している。

 

 なにより美しいのは、陽の光に当てられた瞳だろう。

 

 角度によって色合いが変化して、まるで清らかな水を湛えた湖の様だった。

 

「カズキ、行こう。足元に気を付けて」

 

「うん」

 

 寄り添うが手は繋がない。カズキの両手は花で一杯だ。万が一にも転んだりしないようアストは気を配っているが、それを相手に気付かせたりはしていない。

 

 すぐ後ろからアスティアが続き、クインとエリもいる。エリの手には小さな木箱があって、耳を澄ませば液体が揺れる音色に気づくだろう。テルチブラーノで飲み交わした甘い果実酒を用意した。クインも同じ木箱を持っているが、中身は磨かれたグラスと軽食だ。

 

 騎士達は丘の麓で待ち、誰一人として侵入出来ないように囲っている。

 

「こっちだ」

 

 登り切ったカズキを促しなからアストも真新しい霊廟を見上げた。

 

 埋葬されている場所を覆うように霊廟は建立されている。参道と同じ真っ白な石材を積み上げ、神殿や聖殿の如く見事な彫刻が美しい。全てのモチーフは家族、そして母子だ。

 

 黒く染められた両開きの扉を開くと、人が十人入れば窮屈に感じるだろう空間が広がっている。奥には墓碑が三基。夫のルーと愛娘のフィオナが眠り、直ぐ側のまだ新しいものがロザリーだ。

 

「カズキ」

 

 コクリと頷き、カズキはゆっくりと歩み寄った。アストを始めアスティア達も離れて佇んでいる。今はカズキとロザリー、そして家族が語り合う時間なのだから……

 

 両膝を折りたたみ花を供えたカズキは暫く動かなかった。

 

 静謐と澄んだ空気、見えない筈の家族の幻影が見えた気がする……見守る誰もが感じたのだ。ロザリーがカズキに寄り添うように腰を下ろし、そして抱き締める姿を。赤い髪を靡かせて愛する娘の側に……

 

 カズキは俯き、少しだけ肩が揺れていた。

 

 

 

 

 

 随分と長い時間を同じ姿勢だったカズキだが、クインがそっと用意してくれた果実酒を受け取るとカチンとグラスを合わせた。一口だけ口に含むと、残りと合わせて並べ置く。ひとしきり会話を楽しむと両手のひらを綺麗に合わせて瞳を閉じた。

 

 そして「また、来る、ね」と呟いて立ち上がると、待っていてくれた新しい家族へと振り返ったのだ。

 

「もういいのか?」

 

「うん」

 

「いつでも来たい時は言ってくれ。カズキが良いなら私も一緒に行く」

 

「分かった。ありがと」

 

「ねえ、カズキ」

 

「ん?」

 

「さっき掌を、こう……合わせたじゃない?」

 

 カズキが行った不思議な行動をアスティアが真似をする。何となく祈りの姿勢だとは分かるが、初めて見た形だった。

 

「こう」

 

 指先を人に向ける様にしたアスティアに、カズキは訂正する。ほぼ真上に指先を向き変え、両手で柔らかく包み教えてあげた。

 

「もしかして、カズキの居た世界の祈りかい?」

 

「う、ん。多分」

 

 合掌が祈りなのか鎮魂なのかカズキには分からなかった。それを教えてくれる人はいなかったし、行う場所にすら訪れた事などない。ただ、何となく。ロザリーに届くなら形なんて気にしたりしないだけだ。

 

「多分……」

 

 聞こえないよう呟いたクインだが、カズキの過去を想い言葉尻を取らなかった。ヤトは神々すら感じる事のない異世界だと言っていたのだ。ましてや子供だったカズキには家族も、包む愛すら存在しなかった。時に垣間見えるカズキの過去に明るい色を感じる事はない。

 

「カズキ、行きましょう。リンスフィアを皆で歩くなんて滅多にないから楽しみね」

 

 アスティアも何かを察して話しと歩みを進めた。きっとカズキだってその方が良いと……

 

「そ、だね」

 

 

 

 

 

 

 騎士達が慌ただしく動き始めるのが見えて、待ち望んだ瞬間が来たのだと誰もが分かった。丘から最も近い東の街道を埋め尽くした民衆は固唾を飲んで曲がり角を見守っている。順路が間違い無ければ聖女が乗る馬車はここを通る筈だ。

 

 前列には小さな子供達が着飾って並んでいる。聖女の目に我が子が映れば、僅かなりとも加護に肖る事が出来るかもしれない……そんな親の気持ちを誰が否定できるだろうか。聖女の慈愛はより強く子供に向かうと聞いているのだ。

 

 間に合わなかった者達は肩車やら台を持ち込んで何とか視線を確保しようと躍起だ。幸運にも店や住居に知り合いがいた人々は、窓から身体を乗り出して見下ろしている。騎士団は周囲を見渡し万が一に備えていて、その注意は平面だけでなく上方にも向いているのは弓矢などを警戒しているからだろう。しかし、仮に弓などを構えたら周囲の民衆に捕まり袋叩きに遭うのは間違いない。

 

 まだかまだかと人々は待っている。

 

「そろそろ?」

「ええ、もう少しよ」

「手を振っていい?」

「大丈夫、聖女様は怒ったりしないわ」

 

 そんな親子の会話。

 

「此処なら絶対見逃さないな!」

「ああ、最高の場所だろう?」

「約束通り後で酒を奢るぜ」

「高い酒を頼んでやる」

「仕方ねぇ、今夜は許してやるよ!」

 

 閉めた店の二階から屋根まで身体を出して、声を荒げる二人。そんな姿はあちこちで見られた。

 

「なあ、怪我を見せたら癒してくださるんじゃないか?」

 

 そんな姑息な手段を軽い気持ちで話した若者は、周囲から非難の視線を浴びた。

 

「お前……何処の奴だ? 何も知らないのか?」

 

 直ぐ側にいた森人らしき初老の男から厳しい声がかかる。

 

「え……いや、何が」

 

「カズキ様の癒しの力は既に消え、神々により封印されているんだよ。救済の日、身体も魂魄すら捧げて下さったんだ。命すら失う寸前に黒神ヤトが降臨しなければこの時間すら無かったんだぞ!」

 

「その通りだ。癒しを求めると言う事はカズキ様の命を求める事と同じなんだ。ましてや世界を救済して傷付いた方に馬鹿な事を言うんじゃない。聞く人が聞いたら大変な目に合うよ」

 

「いいか、怪我人なんて聖女様の前に連れ出すな。もうリンスフィアでは常識だぞ。分かったな?」

 

「は、はい。すいませんでした」

 

 周囲からの非難を受け、大変な事を言ってしまったと反省する。そんな彼は悪い人間ではないのだろう。それが分かり皆も優しい表情に変わった。

 

 その瞬間騒めきが起こり、ついで掛け声がかかり始めた。

 

 遂にその時が訪れたのだ。

 

 

 

「カズキ様だ!!」

 

「聖女様!」

 

「見て! 本当に綺麗な黒髪よ!」

 

「カズキ様、救済に感謝しています!!」

 

「ありがとう!!」

 

「此方を見てくださったわ!」

 

 

 

 爆発的に声と歓声が上がり、同時に沢山の花びらが舞った。聖女が死者への手向けに花を贈る、それは皆も知っていたからだ。カズキを迎えると同時に、偉大なる母へ自分達も何かしようと考えた結果だろう。

 

 高い建物から花が撒かれ、風に舞い踊って夢の中の様だ。

 

 

 

 

 想像を超える

 

 憶測を上回る

 

 そんな言葉の羅列がカズキを見た者を襲う。大量に出回る絵のお陰で特徴は誰もが知っている。だから天井を取り払われた馬車に佇む女性が聖女だと直ぐに分かったのだ。両隣りにアスト、アスティアの兄妹が居て、手を振っているのだから間違えようがない。カズキも少し恥ずかしそうに小さく手を振っている。

 

 だがどんな著名な画家が描いても、特徴は見事に捉えていても、その美を描き残すなど不可能だったのだろう。

 

 ある絵描きは「あの瞳の色を創り出せない」そう言ったらしい。

 

 子供達はゆっくりと進む馬車の上をポカンと眺め、先程まであちこちで騒いでいた者も固唾を飲んで見守るしかないようだった。そして我慢出来なくなって叫び声を上げるのだ。自分でも何を言っているのか分からなくなって、それでも止まらない。

 

 視界から離れて、そして消えても暫くは固まったまま。それは埋め尽くした民衆のほぼ全てに言えることだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミーハウ、覚えている? あの方が命を救ってくださったんだよ。押し潰された身体を……血を捧げて」

 

「うん! 覚えてるよ! カズキさまーー! ありがとーーー!」

 

 現在は南街区の「聖女通り」と呼ばれることが増えた道に、ミーハウ達家族が待ち望んだ聖女が見えて興奮していた。沢山の声に掻き消されてしまうが、構いはしないと父も母も、勿論ミーハウも声を出す。聞こえなくてもいい、心からの感謝を……

 

 ふらふらと視線を彷徨わせながら、カズキは手を振る。正直かなり吃驚している。余りの人と声に、現実感すら失っていた。両隣りの兄妹は慣れたものなのか、笑顔で民衆に応えているようだ。それを見たカズキは出来るならアストの広い背中の後ろに隠れたいと思って、スススとお尻を下げた。

 

「あっ……」

 

 その時、カズキの視線の先に見えたのは男の子だ。声は届かないが、一生懸命に手を振っている。隣りに立つ母親らしき女性にも覚えがあるから間違いないと思った。

 

「手紙」

 

 名はミーハウ。拙い文字で頑張って書いたであろう手紙を貰っていたのだ。言語不覚を持つカズキにとって、子供が綴った文字は他より遥かに読みやすかったから強く印象に残った。

 

 アストの背中から再び現れたカズキはミーハウに向かって手を振った。周囲にいた皆も興奮した様子で、俺に自分にと騒ぎ始める。だからカズキは更に頑張った。

 

「ミー、ハウ! ありがと、手紙!」

 

 ブンブンと動きが激しくなったカズキにアストも漸く気付いた。

 

「カズキ、知っている子かい?」

 

「え、うん」

 

「そうか。馬車を止めてくれ!」

 

 アストの指示は直ぐに実行され、ピタリと止まる。元々ゆっくりと進んでいたからだろう。

 

「せっかくだから、少し話しておいで。アスティア、頼めるかい?」

 

「はい!勿論! カズキ、行きましょう」

 

「いいの?」

 

「今日はカズキの好きな様に。但し、いなくなったりしないでくれよ?」

 

 アストの冗談はカズキに届き、分かった!と頷きながら馬車から降りる。直ぐ側を並走していたノルデも馬を止めてカズキについて歩いて行った。

 

 驚いたのは聖女を見に来た王都民達だった。アスティア王女が人々の近くに歩み寄るのも余りあるわけでは無い。しかし今回はその隣に幻同然の聖女までが向かって来たのだ。喜んで良いやら、膝をつき祈れば良いのか、誰も分からなかった。

 

「ミー、ハウ」

 

 間違いなく自分の名前なのに、耳に入って美しい音楽に変わった。それだけ綺麗で信じられない事だから、ミーハウも両親も呆然と目の前の聖女を見るしかない。

 

「手紙、ありがと。読んだ」

 

 手紙をありがとう。読んだよ……あのとき話す事すら出来なかった聖女が名を呼び、ミーハウを見ている。そして腰を曲げて視線を合わせた。絵姿や噂通りの色をした瞳が降りて来たのだ。

 

「身体、だいじょぶ?」

 

「う、うん」

 

「良かった」

 

「あの……聖女様! 助けてくれてありがとう! 僕、僕……」

 

 するとカズキは右手を上げて小さな頭に添えて優しく撫でる。そして言葉を紡いだ。

 

「お母さん、大切に、ね?」

 

 どこまでも暖かい、しかし悲しみを僅かに帯びた言葉だった。皆が知っているのだ……母を失った聖女の悲哀を。

 

 そうして戻ったカズキとアスティアを乗せて、馬車は再び動き出した。

 

「もういいのかい?」

 

「うん」

 

「カズキ、良かったわね」

 

「うん」

 

 聖女が街に来て、人々と触れ合う……それは大袈裟な話ではなく、真実だと誰もが思った瞬間だった。

 

 

 この後は西街区から北へ抜けて、城に帰る予定となっている。途中の市場で食事を取りながら、ゆっくりと進むのだ。戻るのは夜になるだろうが、カズキの様子を見れば安心出来たアストとアスティアであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろか?」

 

「じゃねーか?」

 

「ダクマルよ、店はいいのか?」

 

「誰も来ねーよ……お前等だって外に来てるじゃねーか」

 

「がはは、それもそうか!」

 

 ダクマルを中心に常連客の森人達は店の前で待っている。はっきり言ってこんな寂れた路地が選ばれた理由がさっぱり分からないが、聖女様は目の前を通るらしい。何度か確認したが間違いないのだ。周囲に散らばる騎士達を見れば明らかだし、気のせいか店の周りに多い気がする。

 

 まあ他の街区では大通りを通る訳だし、気分転換か人々の生活に寄り添うとか、そんな理由だろう。茶色の薄くなった髪を撫でながらダクマルはそんな事を思った。

 

「しかし……こんな近くを歩くとは……信じられんな」

 

「だよなぁ……俺だって遠くからしか見た事ないんだぜ?」

 

「森人はみんな城壁にいたんだろ?」

 

「……気を失ってました……肝心な時に」

 

「そ、そうか」

 

 未だ聖女の姿はないが、少しずつ緊張してくるのが分かる。絶望を希望へと、未来への道を照らしてくれた神々の使徒。白神の加護と黒神の寵愛を受けた聖女がもう少しで目の前を通る……大抵の事では慌てないダクマルや森人達も、口数が減っていった。

 

 暫く沈黙が続き、そして遠くから人々の声が響き始めていよいよだと理解する。近付いて来るのだ。

 

「おい」

 

「ああ……」

 

「お前等は顔が怖いから笑顔を忘れるなよ。聖女様が逃げ出さない様にな」

 

「ダクマルに言われちゃおしまいだな。老け顔を勘違いされなければいいが……ジジィって」

 

「あん?」

 

「おお?」

 

 くだらない話をしていたが、睨み合いを始めた男二人の肩がバシリと叩かれる。横に居たもう一人が報せてくれたのだ。

 

「馬鹿はいい加減にして、見ろよ」

 

 直ぐに気付いた。誰もが知るリンディアの王子アストがゆっくりと歩む。左右に笑顔を振り撒きながら、慣れた様子で民衆に応えているようだ。何人かの騎士が追従しているが、邪魔になる程ではない。まあアスト自身がその辺の騎士より強いのだから当たり前かもしれない。

 

 数歩離れた後方にはリンディアの花、アスティア王女。花に例えられる通り、咲き誇る笑顔と銀髪が眩しい。王国民に愛される二人の登場に俄かに騒がしくなる。

 

 そして……アスティアより僅かに小柄な少女が手を引かれながら並んで足を動かしている。王女に合わせて手を振りはするが、笑顔は少しぎこちない。それでも彼女こそが今回の中心なのだ。皆の注目を集めながら、だんだんと近付いて来るのが分かった。

 

「あの方が……聖女様か」

 

 ボソリとダクマルが呟くと、後は無言だ。魂魄が抜けるとはこの事かと、ただ立ち尽くして眺めるだけ。

 

 陽の光に反射して銀色の髪飾りが光り輝いた。風に揺れる黒髪は、聞いた通りの優しい夜を纏っている。その一挙手一投足を注目される聖女が左右に振る顔を固定した。

 

 何かに気付いたのか視線は動かない。

 

「なんか……こっち見てないか?」

「いやいや、気のせいだろ?」

「でも、視線が」

「まさか本当に俺等って怖いのか?」

「んなアホな……」

「笑顔だ……笑えって、泣いちまうかもしれないぞ」

 

「この状況で無茶言うな……ダクマルよ、此方に向かって来てるよな?」

 

「お前等、なんかヤバイ事したか?」

 

「いや、あれは間違いなくダクマルを見てるだろ……」

 

「お、おい……なんで距離を置くんだよ……」

 

「ダクマル、俺達は他人だ」

 

「汚えぞ!」

 

 見れば、聖女は両殿下に「ちょっと、待って、て」と言い、スタスタと真っ直ぐに歩いて来るではないか!

 

 そして否定など無意味と、聖女カズキはダクマルの真ん前に立ち止まった。顔を上げてないから、彼女の足元だけがみえる。

 

「……ええと……な、何か粗相を致しましたでございましょうか……」

 

 緊張の余りに訳の分からない敬語を操るダクマル。恐ろしくて顔を見る事も出来ない。あれだけ見学したかった聖女様が直ぐ側に立っているのに……静まる民衆と空気に、ダグマルは汗が背中に滲むのを感じる。周囲にいる騎士達に捕まるかもしれないと、身動きも出来なくなった。

 

「……お礼。月の、酒」

 

「……は、はい?」

 

 オレイツキノサケ? 何語だ? まさか神代の言葉? 頭の中は意味の分からない単語が跳ね回っている。やはり聖女様となれば神々の言葉を操るのだろうか? ダクマルは助けを求めて森人達を見たが、全員が目を逸らしている。

 

「……ねえ」

 

「……なんで、すか?」

 

 チラリと見れば、両手を細い腰に当てて此方を見上げている様だ。だが、恐ろしくて瞳を見れない……

 

「……はぁ」

 

 溜息だと……これはヤバイ……緊張感が限界に来ていた時、聖女様が何かを言った。

 

「ダ、グマル、ジジィ! 酒、強い?」

 

「……ん? うん?」

 

「銀の酒、ありがと!」

 

「誰がジジィだ!って……」

 

 つい聖女の顔を見たダクマルは「ほげっ!」と気持ち悪い声を出して、まじまじとカズキの顔を眺めた。もう遠慮はない。

 

「ダ、グマル。また、土産」

 

「……お前、カー、カーラか?」

 

「ん。ほんと、名前、カズキ」

 

 ダクマルは絶句し、周囲で耳を澄ましていた森人達も同様だ。そして……

 

「「「な、なにぃーーー!!??」」」

 

 それは爆発だった。驚きと衝撃、歓喜と少しの絶望。

 

「うっ、うっそだろ!?」

「まじだ! あの綺麗な顔だ!」

「でも髪が、黒、黒髪……」

「目は一緒だ! いやいや、もっと」

「肌も治ったのか!?」

 

「うん」

 

 そう返したカズキは襟巻を取って見せた。当然だが、そこには言語不覚の刻印がある。何枚もの絵姿や最近有名な演劇でも似たものを見る事が出来る、本物の黒神ヤトの刻印。

 

「「「ほ、本物だぁーーー!!!」」」

 

「うん?」

 

 騒がしい男達に首を傾げるカズキ。治った肌を見せたのに何その反応は?と。それだけ見れば癒しと慈愛を司る、美しい聖女だ。

 

 だが次のダクマルの一言に、カズキは慌てふためいてしまう。

 

「聖女カズキ様は"酒の聖女様"でもあったって訳か!」

 

「ジ、ジジィ! 約束!」

 

 カズキからしたら待ってくれているアストやアスティアにバレる訳にいかない秘密なのだ。余計なことを言わないでと慌て出す。背後をチラチラと伺うのが哀愁を誘った。

 

「そうだな……確かに!」

 

「「ありがとう!! 酒の聖女様カーラ……いやカズキ様!」」

 

「や、やめて! 違う!」

 

「我等が酒の聖女さま!!」

 

 

 

 だ、だめーーー!!

 

 

 

 其処は大して広くもない路地……

 

 世界にたった一人の聖女、神々の使徒であるカズキの声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 コトリ……

 

 殆ど無音だが、静かな夜だから耳に届く。

 

 クインが用意した焼き菓子はテーブルの中央に置かれている。皿は美しい緑と青い空を思わせて、リンディアの平原を模しているのが分かった。先程の小さな音は最後にカズキの前に用意した果実酒の入ったグラス。同じものが隣に座るアストの前にもある。

 

「失礼します」

 

 見事な、しかし控えめの礼をしてクインは退室していった。

 

 アストとカズキの二人がいる場所は聖女の間のベランダだ。クインたちが気を利かせたのか、各所に配置された蝋燭の柔らかな光が二人を照らしている。テーブルにもランプがあるが、夜景を阻害しないように最小限の光度に落としていた。時に風に揺れて、ユラユラと明滅する。

 

 カズキお気に入りの景色、それは夜に彩られて別世界へと変わった。まだ真夜中でもなくリンスフィアのあちこちで灯りが灯っている。今日は聖女が街に降臨したため、皆が酒を酌み交わして話も尽きないのだろう。

 

 上空にも星光はあるが、下を見れば人々の営みと言う名の街の光があった。

 

 それは幻想的で、でも現実に在る美しさだ。

 

 

 

「カズキ、疲れたかい?」

 

「少し?」

 

「そうか……先ずは飲もうか」

 

「うん」

 

 乾杯とは言葉にせずグラスを合わせる。キンとガラスとは思えない澄んだ音がして、二人は微笑んだ。

 

「美味し」

 

「ああ。余り甘くないし好きな味だな」

 

「アスト」

 

「ん?」

 

「ありがと。ロザリー、街に、全部」

 

「私こそ礼を言うよ。君が居てくれて良かった」

 

 カズキの瞳は何故?と言っている。

 

「街のみんな、喜んでいただろう。だから、ありがとう。分かるかい?」

 

「……うん」

 

 アストの心の中にはもっと沢山の感謝があった。

 

 

 世界を救ってくれた。だから皆に笑顔がある。

 

 リンディアもファウストナも、ほかの国々も感謝は尽きないだろう。

 

 誰もが未来に希望を持っていて、幸せを感じている。

 

 そして……今、隣にいてくれて……生きて側に。

 

 あれ程の憎悪と悲哀を抱えながら、カズキは全てを振り切って此処にいるのだ。

 

 だから、全てにありがとうを伝えたい。でも、そんな長い言葉は分からないだろうし、きっとカズキは望んでもいない。聖女の望みは些細な……誰もが持つはずの家族との時間、優しい愛と温かい場所。

 

 アストは言葉を飲み込んで、すぐ側に佇むカズキを見た。

 

 もう果実酒は飲み切ったのか、グラスはテーブルの上だ。遠くに見える夜景を楽しそうに眺めている。何度見ても目を奪われてしまう、希有な横顔……

 

「綺麗だ……」

 

「うん、綺麗。リンスフィア、好き」

 

 夜景の事だと思ったのか、視線をリンスフィアに向けたままに答えた。悠久の時を超え、魔獣の侵略にも耐え切った王都はこの瞬間に祝福されたのか……聖女の声に応えるかのように瞬く。もしかしたら、カズキは初めてリンスフィアと言葉にしたかもしれない。

 

「カズキ、おいで」

 

 手を取り、立ち上がらせたアストは手摺りのある端まで促した。二人の前にはリンスフィアと闇に包まれた広大な平原がある。街は浮かび上がって見えて、何処までも美しい。あの灯りの一つ一つに人々の営みがあると思うと、不思議な感覚に襲われてしまう。

 

 老夫婦だったり、小さな子供達に食事を振る舞ったり、恋人同士が語らったりしているのだろう。沢山の家族のカタチが存在しているのだ。

 

「あそこはダクマルの店辺りかな。カズキ、どう思う?」

 

「た、多分」

 

「酒の聖女だったかな?」

 

 ビクリと肩を震わせたカズキを見て、思わず吹き出すアスト。

 

「くっ……ははは! カズキ、大丈夫だよ」

 

「うん?」

 

「ヴァツラフから聞いたよ。あの店に二人で行ったのだろう? 気にしなくていいさ……」

 

「?」

 

「ふふ……ロザリーとは話が出来たかい?」

 

「うん。出来た」

 

「そうか……」

 

 カズキは母を、アストもロザリーを想っていた。それは別々の理由だけれど……

 

「カズキ」

 

「はい」

 

「話を聞いて欲しい、今から」

 

「うん、だいじょぶ」

 

 アストはカズキに向き直り、それを見たカズキもリンスフィアから視線を外した。星空の下で二人は向き合っている。

 

「今日、私もロザリーに話をしたんだ。勝手に、一方的にだけど」

 

「そう」

 

「貴女の大切な娘に私は伝えたい事がある、その許しを貰いたくてね」

 

「伝え、る」

 

「ああ。前から言いたくて、でも言えなかった」

 

 翡翠色を真っ直ぐに見詰めながら、アストは言葉を紡ぐ。紡ぎ続ける。

 

「カズキ……私は君を愛している。家族としてだけじゃなく、一人の女性として」

 

 カズキも瞳を一度伏せて、その後に見上げた。

 

「だから、私と……君にも私を愛して欲しい。今もこれからも……結婚してくれないか、私と、カズキで……」

 

 カズキは動かない。変わらずにアストを見上げている。暫くの間動かない二人だったが、アストは不安になってきた。もしかして伝わっていないのか、と。言い直すのは少し不格好だが、伝わるまで何度でも言い続ける……そう決めて、アストは口を開きかけた。

 

 そのとき、カズキは両手を伸ばして高い位置にあったアストの首に掛けたのだ。少しだけ背伸びして、踵が浮く。

 

「……抱っこ」

 

「あ、ああ」

 

 言われるままにアストは、カズキの背中に手を回し持ち上げた。カズキの両足は今や宙に浮きプラプラと揺れている。随分と近づいて、互いの瞳に自身の顔が見えた。

 

「もう、一度」

 

「……私はカズキを愛している。だから、結婚して欲しい。私と、二人で……」

 

「……はい」

 

 そう呟くと、カズキは三度目の愛を伝える行為を行った。

 

 カズキのいた世界では、たった二文字で表すもの。

 

 星光に照らされて、二人の影は一つになる。

 

 今迄よりずっと長い時間、強い力で。

 

 アストはもう二度と離さないと、カズキはずっと離さないでと確かめ合う。

 

 その、愛を伝える名は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




エンゲージリングと呼ばれる指輪がありますが、正しくはエンゲージメントリングだそうです。其処から言葉を借りて、"engagement kiss"としました。

如何だったでしょうか?

それでは、ありがとうございました!

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また何処かでお会い出来たら最高ですね。 それでは!!

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