リンディア王国の王子アスト、そして神々の寵愛を遍く受けた聖女カズキ。
二人の婚約が国内外に発表されて三日経ったある日。大きな朗報に沸き立つ王都リンスフィアの街中で、それでも毎日の日常は繰り返される。
それはきっと幸せな事なのだろう。
忙しいお昼も過ぎ、パン屋の人影は疎らになったようだ。
店の親父は顔を上げて最後の客を送り出し、並んだ商品達を確認する。足りない分は夕方までに追加で焼かないといけないからだろう。
「やっぱり間に合わないな」
ただの小ぶりな白パンなのだが、この店で最も人気な其れは今日も売り切れだ。バターは多めに使っているから、噛めばジンワリと甘さが広がり、各種ジャムとの相性も良い。客にもよるが十数個纏めて買って行く事もある。
人気の理由を改めて見上げた。
視線の先には店の壁に突き立った包丁の刃先。親父自らが金槌を持って小さな屋根を作ったり、分かり易い様に矢印状の看板を向けている。
「アレから随分経ったな……」
あの時、大勢が何か捧げようと群がった。果物、服、血を拭う布や水、きっと他にもあっただろう。その中から白パンを手に取ってくれたのだ。そしてパンを口に咥えると、徐に走り出したものだから酷く驚いたのを覚えている。
リンディアは今や世界に冠たる王国となった。いや、神々が祝福する奇跡の国かもしれない。他国から来た者まで態々白パンを探して訪れるのだから笑うしか無いだろう。
「買う、いい?」
「ん?」
ツンと背中を突かれ声のした方を振り返る。どうやら二人組で、すぐそばに立つ小柄な女が話し掛けてきたようだ。声や身体つきから女性であるのは確実で、少し離れた場所に立つ若い男は腰に剣を差している。
若い男は精悍な顔立ち。鍛えられただろう腕が袖から覗いていた。服装からもリンディア王国民で間違いない。何処かの街から王都に来た、そんな感じだろう。彼は護衛を兼ねた同行人というところか。
「勿論大丈夫だ。もう何種類か売り切れだがな」
不思議なのは女性の方で、足首近くまで届くローブを着込み、頭部も矢張り隠れたままな事だ。薄く紅を塗った唇や細い顎は見えるが、瞳も髪も全体の輪郭すらも見る事が出来ない。しかし、それだけでも相当な美人だと察せられた。
「オススメ、あり?」
「あ、ああ。そうだな……売り切れも多いが、此れも美味いぞ」
妙な口ぶりだと思ったが、そんな指摘は不要だと乾燥果実を散らしたパンを指し示した。
「ん。それ、三つ、いや四つ」
「ありがとさん。少し大きめだから、半分に切ろうか?」
木製のパン挟みで一つずつテーブルに乗せた。ローブの女は何故かパン切り包丁をじっと眺めている。
「うん」
「あいよ。支払いは……」
「ノルデ、いい?」
ノルデと呼ばれた男がコクリと頷き、懐から財布を出して来る。同行者と言うより召使いみたいだな……親父は内心で呟きながら金を受け取った。
「確かに。ほい、分けて紙で包んだからな。後で食べるなら軽く火で炙るといい」
「ありがと」
「美味かったらまた来てくれ。知ってるだろうが、一番人気の品があるからな」
「なに?」
自画自賛になるが、黒神の聖女が口にした白パンは有名だ。しかし、彼女は分からないらしく首を傾げている。
「カズキ様に食して頂いたパンだよ。まあ、実際には見てないが」
「え?」
「だから、聖女カズキ様が……」
「う……いい、分かった。ノルデ」
「はい」
ノルデは背中に掛けていた皮袋から細長い木箱を取り出し親父に渡した。大きさは成人男性の肘から指先を少し超えるくらいか。思わず手にしたが意味が分からない。困惑を隠せないのも仕方がない筈だ。
「何だよ一体……」
「遅く、ごめん。お詫び、どぞ」
「はあ?」
「じゃあ、バイバイ」
「バイバイ? 何処の言葉だ?」
意味不明な単語を残し、二人組は去って行く。
「お、おい! 何だよこれは!」
振り返る事もなく、すぐ角を曲がって見えなくなった。何だか夢でも見た様で、手にした木箱を呆然と眺める。仕方無く奥のテーブルに箱を置き、腕を組んで考えたが分かる訳が無い。
「お父さん、どうしたの?」
大きな声が聞こえたのか、店の奥の住居を兼ねた部屋から娘が顔を出して来た。
「それがなぁ……」
擡げた疑問を消化出来ない親父は、丁度良いと先程の出来事を聞かせてみる。
「そんなの開けてみたら何か分かるよ。入ってるもので思い出すかも」
「まあそうなんだが……」
如何にも高級そうな木箱だ。丁寧に磨かれたであろう表側には何も書かれていない。開けたあと間違いだったと言われたら困る。外観の見た目通りならば、中身だって高級品だろう。
「もう、私が開けてあげる!」
「こ、こら!」
パカリと持ち上げた上蓋、中には白い布に包まれた何かと折り畳まれた紙が入っているようだ。遠慮なく布を開くと、鈍い金属光が目に入った。
「包丁だね、パンを切るヤツかな……わっ、此れって最近有名なセンの職人のだよ! ほら、聖女様にナイフを納めた人!」
「マ、マジか⁉︎ 騎士や森人の剣の匠だろう⁉︎」
そのナイフは黒髪を切り離した事で知られている。贈った者が聖女の母であるロザリーである事も。
本人は当初全く知らなかったらしいが、ナイフの研ぎと修復の為、聖女自らが訪れた事で判明したのだ。魔獣侵攻の際に一度放棄した南限の町センは、今やリンディアを代表する工匠……そんな男達が集まる場所となった。
「綺麗……よく見たら少し青色だよ。凄く切れそう。それと手紙だね、これ」
カサリと三つ折りした紙を父親に手渡す。その便箋すらも手触りで簡単に分かる高級紙だろう。仄かに花の香りがする。
「訳が分からんな」
「早く読もうよ。名前が書いてあるかも」
「ああ」
何となく丁寧に開き、綴られた美しい文字を目で追った。半ばに差し掛かると親父の手は震え、横で同じく見ていた娘などは何度も目を擦って嘘だよねと呟く。何かの夢かと再び読み返すしかない。
「……最後に、借りた包丁を折ってごめんなさい。色々あって返すのが遅くなりました。お詫びに知り合いの人に作って貰った包丁を贈ります。それと貰ったパン、凄く美味しかったです。ありがとう……」
「カ、カ、カズ……」
「……カズキ」
聖女の名を騙る様な者はこの世界にいないだろう。余りに恐れ多いし、何より神々の神罰が降る恐怖に抗えない。司るのは慈愛と癒しだが、寵愛している神は憎悪と悲哀、そして苦痛を支配する黒神のヤト。その怒りに触れたなら……いや、想像するのすら恐ろしい。
「ね、ねえ、お父さん……」
「じゃあ、さっき会ったローブの女性は……そう言えば、まるで片言の喋り口で……」
首に刻まれた言語不覚の刻印により、聖女は少しだけ話すのが苦手らしい。それも世界を救済した代償だと噂が流れているのだ。
「ほ、本物……?」
「「え、ええ〜〜〜‼︎」」
親娘の叫び声が響き渡り、奥から怪訝な顔した母親まで現れた。
最後の一筆を終え、絵筆をゆっくりと置く。
近くから、そして遠くから確認し、ふむと頷いた。
未だ完成に程遠いコレは何枚目か。いや、もしかしなくても生涯完成などしないだろう。そんな事を思いながらも、露店用の机に立て掛けた。
売るつもりなど無かったのだが、いつの間にか噂となり声が掛かるのだ。最初は戸惑いを感じて首を縦に振らなかった。描くのは奉ずる為で、同時に自己満足の極みでもある。しかし、ある知り合いから諭され、今はこうして露店を出している。
もう直接見る必要すら感じないリンディア城。そして佇む一人の女性。もちろん素描出来たならば此の上ない幸福だが、その女性にお願いする気もない。其れどころか絶対に不可能だろう。そもそも緊張の余りに指先が言う事を聞かないのは明らかだ。
「へえ……見事だね。リンディア城と空、そして」
早速一人目の客が来た様だ。手を抜くつもりなど無いから完成時期は判然としない。更に予約など受けてない事で出会いは偶然の産物となる。それも神々の導きだと、絵描きは思っていた。
「聖女様だよ。遥か先にいらっしゃる御姿だけど、一度だけ此方に手を振って下さったんだ。まるで夢の様だった」
「カズキ様に⁉︎ 本当かい⁉︎」
「聖女様に対して嘘なんて付けないさ。分かってるだろう?」
描かれた聖女は右腕を持ち上げて、絵を眺める者へと手を振っている。風に揺れる黒髪、残念ながら有名なあの瞳は映らない。
「そりゃそうか。そんな幸運もあるんだなぁ。これ、幾らだい?」
「まだ乾いてないから売れないよ。前に描いたので良ければ」
真っ白な布に包まれた作品を嬉しそうに抱えて客は去って行った。何となく溜息をつき、一度絵筆を洗おうと足元に視線を落とした時だった。次の客の革靴が見えて顔を上げる。小さめな靴だし、踵の高さや足首の細さから性別が分かった。そして予想通り、一人の女性が立っている。
「見た、いい?」
「ご自由に」
「ん」
予想よりずっと若く、何より印象に残る綺麗な声だ。何となく筆を取りたくなった。しかし残念な事に、その女性はローブで全身を覆っている。人物画を描くとき、命を吹き込む為に最も重要な瞳も見えない。
腰を少し曲げて一枚ずつ観察している。基本的に全てが同じ画題で描いた為に、其々に微妙な違いしかないのだ。風景画を主としているが、最近消費する色は白と黒が多い。
「城ばかり。丘、平原、は?」
ひとしきり終えたのか、再び前に来ると何やら曰う。
「最近は描いてないな」
「んー。城、高いところ、風景、絵、欲しい。風、草、雨、雲、綺麗」
「何だって?」
どうやら話すのが不自由な様だ。それを置いても意味が分かりづらい。城ばかりと言いながら、最初に城と言う。草原の風景画を探しているのだろうが、あのような珍しくもない画題は面白みに欠けるのだ。
「済まない。つまり、リンディア城から眺める景色が描かれた絵が無いか、そういう意味だ。高い位置からで、リンスフィアが入っていればもっと良い」
「……無茶苦茶だよ。リンスフィアも、城壁の外もなんてどれだけ高い位置から描けばいいんだ。それこそ白祈の間や聖女の間とか……陛下や聖女様が座すベランダからじゃないと。想像でいいなら描く人もいるんじゃないか? でも僕はゴメンだね。その風景は聖女様が見てる訳だし」
付き添いか付き人、護衛を兼ねているだろう若い男が会話に入って来た。恐らくローブの女性は金持ちの娘か何かだろう。もしかしたら城に招かれて、一度くらい其の景色を眺めたのかもしれない……そんな風に絵描きは思った。
「無いらしいです」
「残念」
哀しそうな声音が耳に入り、思わず謝りたくなる。
「ねえ、手、振って、描く?」
先程仕上げたモノを指差し、再び質問して来た。指を指す仕草に何となく怒りが湧いてしまった。ただの絵だが、そこにはどれだけ敬愛しても足りない聖女が佇んでいるのだ。
「まあね、一度だけ手を振って下さったんだ。まあ信じてくれなくてもいいよ」
つい突き放す様な言い方になって後悔する。彼女だって自分と同じくらい聖女様を敬っているに決まってる筈だ……そう思って居た堪れたくなった。誤魔化す為に絵筆を触るしかない。
「ねえ、どこ?」
「え?」
「描く、居た場所」
「……あの建物、屋根の上さ。見えるだろう? 屋根の色が珍しいから分かり易いんだ」
女性は教えてあげた屋根を見ると、リンディア城のある方向と交互に目を配った様だ。
「やっぱり。あの日、朝」
「えっと……何だい?」
疑問符が浮かぶ。
「ノルデ?」
「はっ。今なら人目もありません。周囲は
意味不明なやり取りに、絵描きは押し黙るしかない。しかし次の瞬間、全く別の意味で全身が固まった。まるで石や岩になった様に全てを動かせない。呼吸すら止まったのが分かった。
女性が頭に掛かったローブをゆっくりと後ろに流したからだ。
目に入ったのは陽の光を反射し、そして包み込む黒髪。一度閉じていた瞼が開いたとき、描く事は不可能とされた翡翠色が瞬いた。妙に白く艶かしい首には鎖を思わせる刻印が刻まれている。
その世界と切り離されたかの様な、隔絶した美貌が目の前に顕れたのだ。
黒髪を捧げた広場でも聖女を見たが、あの頃は少女らしさが強かった。しかし、目の前にいる人は……
「カ、カズキ、さ、ま」
「うん」
「な、何故……あっ!」
余りの衝撃に思考が止まっていたが、神々の使徒、救済を果たした聖女を見下ろしている不遜に血の気が引いて行く。慌てて膝をつこうと腰を落としたとき、聖女はやんわりと手を取り、そして制止させた。
「やめて、普通、お願いします」
絵描きは尊い御手が自分に触れている事に気付き、内心で思い切り叫ぶ……いやいや、普通とか無理でしょー‼︎と。
聖女とノルデからの説明で、今日の訪問の意味が分かった。以前手を振った人は多分画家で、描かれる絵に興味があったと。とある要件でリンスフィアを散策していて、目に入った絵に惹かれて来たらしい。そして勘は当たり、見事に当人へと行き着いたのだ。
「もし、他を描く、また見たい。あ……無理、なし。お願い」
風景画を描く事が有れば、また見てみたい。でも無理にはしないで。お願いします。
黒神の聖女カズキはそう言い残し、そこから去って行った。
次の日から絵描きは城外を歩き回り、凡ゆる場所で
そこには、誰もが幸せを感じる笑顔が浮かんでいたと言う。
○ ○ ○ ○ ○
一通りの準備を終えたロヴィスは、外の空気を吸って伸びをしていた。
主演のジネットは正しく命を燃やす様に演ずるから、一日一回しか公演が出来ないのだ。観客からはもっと沢山やってくれと要望が来るが、ジネットは演じているのでは無く伝えているのだと話す。そこには揺るぎない信心があって、公演回数を増やす気など無かった。
そんな座長のロヴィスの目に、ある意味恩人である者の姿が入った。最近メキメキと腕を上げ、騎士団でも屈指の剣士へと成長したらしい。無論アスト王子殿下やケーヒル副団長には及ばないが、一目置かれる存在となっている。
生み出す原動力は正に自身と同じであり、限界を超えた忠誠心を疑うこともない。
「ノルデ!」
耳に馴染んだ声に、ノルデも顔を向けた。
「ロヴィスさん」
呼び方は同じだが、何やら他所行きな空気を感じる。そう思ったロヴィスは歩み寄り、肩を掴もうと脚を動かした。しかし、何やら慌てたノルデが顔色を変えて此方に向かって来る。
「その格好、剣こそあっても今は非番だろ? 何を慌ててるんだ?」
「今は事情があって……ほら、あっち」
チラリと向けられた視線の先、ローブにすっぽり包まれた人が居る。分かりづらいが多分女性だろう。
「ははーん。お前にも漸く良い人が現れたか……歳上好きと思ったが、最近売出し中の騎士様なら不思議でもないな。で? 誰なんだ?」
「や、やめて下さい! そうじゃなくて!」
基本的に誠実でかなり堅物。ノルデはそんな男だ。まあ美人で歳上の女性を前にすると変身するが。珍しく慌てる様子を見て、ロヴィスは益々興味を惹かれた。
「知り合い?」
トコトコと歩いて来たローブ姿の女性が問い掛けて来た。声の響きと張りから、随分と若い女と理解する。もし何か歌わせたなら映えるかもしれない。固まったノルデを放っておいて、ロヴィスは言葉を返した。
「まあな、俺はロヴィスと言う。コイツとは長い付き合いだが、恩人でもあるんだ」
「恩人?」
「ああ、あんた名前は?」
更に慌て出したノルデを怪訝に思いながら、やっぱり無視した。何やら面白そうな気配だなと。
「ん、カーラ」
「カーラか。中々良い名前だ。今日は天気も良いし逢引きか? その割にローブで暑そうだが」
「あい、びき? なに?」
「ロヴィスさん! 本当にやめて下さい!」
「ノルデ、あい、びき、教えて」
「え⁉︎ いや、それは後で……何なら帰ったら聞いて」
まさか愛を誓った男性と女性が二人出掛ける事だと説明出来ない。城に帰ったらアスト王子殿下にでも教えて貰って欲しいノルデだった。
「何だかよく分からんが、どうだ? そろそろ幕が上がるし見て行けよ。ノルデはある意味で原作者だし、金は要らん。勿論連れの女性もな。今やってるのは新作だから見た事もない筈だ」
「いや、またの機会に……」
断ろうとしたノルデにカーラが被せてくる。
「お金なし?」
「ああ、約束しよう」
「何、見る」
「ん? あそこに看板が出てるだろう? 芝居、舞台、そして伝道かな」
首を傾げる仕草から意味が分からないのだろう。看板を眺めて其れを読んだ。
「銀月、小さな、奇跡?」
「ああ、副題は降り注ぐ光、だ」
「カ、カーラ、行きましょう、今日は」
「見たい。お金なし、お得」
何やら格好良い題名だ。多分感動作か、お涙頂戴系の劇だろう……そんな風に考えたカーラ。しかも
「い、いや、この演劇はですね」
「だめ?」
「うっ」
甘える様な声に、ノルデの気力は削がれた。何より目の前の人が望むなら何処であろうと連れて行くつもりだ。
「……わ、分かりました。ただ、怒らないで下さいね」
「ん?」
「行きましょう」
「うん」
ロヴィスの案内で、二人は天幕の中へと消えて行った。
カーラ、つまりカズキは両手で顔を覆っている。間違いなく真っ赤になっていて、涙も溢れているだろう。ローブのお陰で周りに見えないのがせめてもの救いか。
これ程の羞恥、居た堪れない気持ち、今すぐ走り出して此処を出たい。しかし女優の心地の良い声が嫌でも届くのだ。流石主演の女優らしく、力強い中に女性らしい柔らかさも秘めている。言葉は沢山流れて行くから全てを理解出来るとは言わない。しかし、全ては自身が経験した事だけに、分かってしまうのだ。
「うぅ……」
まさか演じられる主人公が自分だとは……勘弁して下さいと叫びたいだろう。
「違う、違う、からぁ」
ブツブツと呟きがノルデに届いたが、敬愛する聖女の反応は予想出来た為に驚きは少ない。
慈愛と癒しを司る聖女は、同時に献身と謙虚の象徴でもある。成した救済も、癒した人々や世界を誇る事もない。寧ろ自身は何も出来なかったと嘆くほどだ。刻印を自慢することも、身分すらも全く気にしない。敬称呼びを嫌うくらいだから当然だろう。
そして今、演じられているのは治癒院で起こした奇跡そのもの。風土病に冒された子供達のため、ヤトの封印すら振り切り救いを齎した。因みに、本劇はファウストナ公国の大公ラエティティが全面的に後援しているとの事だ。
ノルデは外に居たから全てを目撃した訳ではない。だから非常に興味深く演技を見ているし、限界を迎えた筈の忠誠心がより高い所へと羽ばたくのを感じた。
ところが、当人である救いの使徒は、自分を救ってと頭を抱えている様だ。だがノルデとしても少しくらい誇って欲しいと思うから連れ出したりしない。何より続きが気になるから。
『駄目、時間、ない!』
ジネットの魂魄からの声が劇場に響く。
ここは提供した場面だろう。子供達の祈りを聞き届けて馬上で声を荒げた。雨が降り注ぎ、何処かで休もうと提案した時に返した言葉だ。
尊いお身体がどれほど濡れようと、救うべき子供達が待っている限り走り続ける。そう、決して止まりはしない。
「違うの……銀月、死ぬから」
カズキの言葉が届いた時、ノルデはブルリと震えた。
天空に浮かぶ巨大な銀月すらも、聖女の前では救うべき存在なのか。いや、きっと神々が座す世界を見ているのだ。
『一人、入る、駄目?』
治癒師のチェチリアに告げた。たった一人、聖女として戦場に赴くと。まるで全ては自分の責務だと言わんばかり……
「だから違う……あれは、あれは、ね」
再び聞こえた聖女の呟き。あの程度は当たり前だと、いや誰一人として悲しみを背負わせたりしないと言うのか。
「カズキ様……」
「ちょっとだけ、一人で、銀月、を、もう、許して……」
遂には頭を抱えてしまった。
どこまでも、その行いを誇る事をしないのか。何故かノルデに怒りが湧いて来た。どうしてそこまで自身を責めるのですか、と。
「……カズキ様には当然であっても、救われた者達は忘れたり出来ないのです。どうか、それ以上御自分を……」
「ノルデ」
「は」
「静かに、お願い」
「……分かりました」
結局カズキは幕が降りるまで動かなかった。
いや、動けなかった。
「抗議、大事、ロヴィス、消去」
何やら不穏な事を言っている。
少しずつ客が天幕から去り、残ったのはカズキとノルデ、そして間違いなく変装した騎士が何人か。隠れて護衛していた精鋭達だ。全員アストが厳正に選抜し、忠誠心と戦闘力がずば抜けている。
「……カズキ様。アスト殿下もアスティア様もご心配されます。そろそろ戻りませんと」
「駄目、消去」
ローブの所為で見えないが、きっと恥ずかしくて堪らないのだろう。言葉こそアレだが、ノルデには可愛らしさの方が勝る。
「私は良かったと思いますが……」
「おう、ノルデ!」
「ロヴィスさん、それとジネットさんも」
汗と化粧を落とした女優ジネットも同行していた。舞台では恐ろしさすら覚える女性だが、
「ノルデ様。この度も色々と教えて頂き、感謝しかありません。カズキ様を演ずる不遜を神々が赦してくださいます事を願います」
「ジネットさん、前も言いましたが様付けはやめて下さいよ。何だかお腹がムズムズしますから」
「貴方はカズキ様を守護する騎士様、此方こそ敬語をやめて頂きたいです」
「はぁ、参ったなぁ」
「ノルデ、どうだった?」
「ロヴィスさん、素晴らしいですよ。カズキ様の慈愛が伝わって来る様でした」
「ははは、お前に言われると嬉しいよ。まあ、全てはジネットが居るからだがな」
「や、やめて下さい! 恥ずかしいですから!」
座長に人々の面前で持ち上げられ、ジネットは真っ赤になった。先程観衆を強く掴んだ女優とは思えない態度だ。
「恥ずかし、こっち」
「ん?」
ボソリと横から聞こえた。
「おお、キミはどうだった? あの深き慈愛を顕すのは不可能だが、ほんの少しでも感じられたなら嬉しい。化粧を落としたし、パッと見は分からないだろうが、この娘がカズキ様を演じたんだ。ジネット、此方はカーラ。因みにローブに関しては触れない方が良いと思う」
「あ、はい。えっと……カーラさん、私ジネットです。いつもノルデ様にお世話になっています」
「ノルデ、お世話? なに?」
「え⁉︎ そ、それはですね」
「カズキ様の深き慈愛、その救済の全てを教えてくださったんです。例えば先程の馬上での掛け合いは、ノルデ様から聞いた……」
「あ、あー‼︎ さ、さあ、帰りましょうか、時間が」
「……ノルデ」
「は、はい!」
「説明、早い。私、知らない、けど?」
「ひ、ひぃ⁉︎」
ジリジリと迫るローブ姿の女、後退りする騎士ノルデ。その不思議な光景にロヴィスとジネットは目を合わした。
「それに、これ、新作。前作、は?」
「カーラさん、前作は勿論"聖女の座す街"ですよ? そちらはノルデさんの証言を元に座長が書き上げたんです。ですよね?」
ビシリと固まったカーラ。やはり不思議だと劇団の二人は首を傾けた。
「まあそうだ。しかし、知らないのか……俺も自惚れていたな。もっと強くカズキ様の行いを伝えないと……」
「ダ、ダメ〜〜!」
突然叫んだものだから、全員がビクリと肩を揺らしてしまう。
「一体何を……げっ」
「あっ」
ノルデは額に手を当て、周囲の偽装した護衛達も天を仰ぐ。黒神の聖女カズキがローブから顔を出したからだ。アストより、大勢に正体を明かさないならと言う条件で街に出たのだが……先程のジネットより真っ赤な頬、涙に濡れる翡翠色した瞳が綺麗で眩しい。
「え? は? な、なにが……」
ロヴィスは疑問をぶつけながら、目を見開いて聖女を見詰めている。ジネットに至っては魂魄が抜けたのか、人形の様に動かない。
「抗議、あとノルデ、叱る!」
涙目のままの聖女は、やっぱり何処か可愛らしかった。
座長のロヴィスは聖女の抗議を受け、一時は開演を断念しかけたらしい。
しかし、それから僅か二日後。
何とリンディア次代の王にして、聖女の婚約者であるアスト王子が劇団を訪れる。
そして舌足らずだった聖女の言葉、その真の意味を伝えたのだ。
「大丈夫。カズキは凄く照れ屋なだけで全く怒ってない。だから安心して公演を続けて欲しい。私としても、ジネットが演じてくれるのは凄く嬉しいんだ。それと、聖女にはしっかりと言っておくよ。アスティアも今度見に来たいと言っていたからね」
そして、ジネットは稀代の大女優へと成長していくのだ。
今でも読みに来てくれる人がいます。本当に嬉しくてまた書いちゃいました。それではまたいつか。