黒の間
リンディア城の中心部、階層では王の間より僅か二階程しか下がらない。
最賓客を迎えるその部屋は、リンディアに伝わる絵画などの美術品を各所に散りばめている。そして絢爛でありながらも、黒と白を基調とした家具類により落ち着いた調和を見せる美しい空間だ。
暖炉の上にはリンディアの国土をモチーフに美しく織られたタペストリーが掛かっている。精緻に彫られたクリスタルの二本角の馬はまるで生きている様な躍動感で前足を跳ね上げ、光を反射して輝きを放っていた。
大きくせり出したベランダはそこだけで一つの完成された庭園の様に、美しい花々、磨き上げた黒い石材のテーブル、濃いブラウンの蔦を織り上げて組まれた椅子などが配置されており、大陸一と謳われた王都リンスフィアが一望できた。
高層階でありながら、洗面所すら完備され水浴びやお湯を運び入れて身体を清めることすら出来るだろう。
また、階下から直接そこに行く事は出来ない。一度王の間に向かう階段を経由しなければ辿り着けないその場所は、王国内でも有数の安全な場所とされ、そこに招かれる者は一握りしかいない。
訪れた者は、故郷に帰りその素晴らしさを伝えずにはいられない。
ここはそんな稀有な場所なのだ。
その黒の間に置かれたゆうに大人4人は眠れるだろうベッドの端に寄り、真っ白で薄手のリネンワンピースを着た黒髪の少女が膝を両手で抱えて顔を埋め、コロンと横になっている。
その愛らしさからは程遠い怨嗟の声を心で上げているとは、誰も想像など出来ないはずだ。
……本当は大声で泣き叫びたい。
俺は情け無い事に目尻に涙を溜めながら、つい数時間前の事を考えていた。
もしかしたら俺は、もう木崎和希ではないのかもしれない。
見ず知らずの大人のために、折角のチャンスをふいにしたのだから。 突然訪れたチャンスだったとはいえ途中までは良かった。闇に紛れて城を抜け出すことが出来ただろう。
なのに俺は朦朧とした意識で一人の怪我を治し、もう一人に至っては口から血を吸い出すまでして助ける事になった。 意識が全く無いならまだいい。 ところが記憶には存在していて、終わった後の安堵と満足感すら覚えている。いや、正直になろう。 今でも人の命を救えた事に喜びを感じている。そして暫くはそれに浸っていて、まだ残っていた脱走のチャンスすら失った。
この城の連中が何を考えているのかは正確にはわからない。 しかし、俺すら理解不能な治癒の力を欲するであろう事は明らかだろう。 見た限り医学はそこまで進歩していないこの世界では、この力は破格の価値を持つのは馬鹿な俺でも分かる事だ。
それはこの無駄に大きなこの部屋からもわかる……まさに籠の中の鳥だ。
そして力が自分でコントロール出来るなら良い。それを家業として稼ぐ事も出来るだろう。ところが心すらヤトに操られているのだろう俺の体は、言う事をきかない。 言葉すら理解出来ない俺には金勘定も出来ず商売も不可能だ。
こんな事なら意識ごと奪ってくれた方がましだった。
さっきまでいた病院らしき建物の中で腕の治療をされそうになった時は、冷や汗が出たものだ。他人を治す力も大概だが、自身の体すら素早く治癒する事だけは知られたくないし、餓鬼の頃には戻りたくはない。
どうやら不可思議な力はこの体を傷付ける事で発動するらしいが……人より早く治癒するこの体は、その性能の効率を高める事になる。俺にとってはいい迷惑だ。 あの化け物と戦争しているらしいこの国には尚更のこと知られてはならないだろう。
それなのに俺は……もう逃げるのは難しいと結論付けるしかない。
ここから見える扉には鍵はかかっていない。この体ではあの重い扉を押し開くのも一苦労ではあるが、不可能じゃない。 問題は外にいる鎧姿の男達だ。さっきそっとドアを開け、半分ほど顔を出して外を伺おうとしたら、何処かで見た事のある顔の鎧男がこちらを見てニヤリとしやがった。 逃げるのは無理だと言いたいのだろう。
更に輪を掛けて、ここは脱走した部屋と違い階層も高く城下町から遠い場所だ。運良くこの部屋を出れたとしても以前の様にはいかないのは明白だ。
せめてこのまま何も無ければいいが、それすら難しいだろう事はさっきの風呂場らしき場所でされた事からも想像がつく。
あの背の高い女に連れて行かれた風呂場で裸にひん剥かれた俺は、身体中をペットのように洗われたのだ。
まるで子猫や子犬が洗面器の中に居て、飼い主がお湯を掛けながら泡立てた両手でわしゃわしゃと洗われるアレだ。
あの背の高い女は侍女服を麻か何かで出来た服に着替えて俺の前に現れ、無駄に広い風呂場であろう部屋に連れ込み、俺の身体を洗い始めたのだ。この身体は俺の物じゃないし、どうでもいいが疲れたのは間違いない。
そして一番恐ろしいのは磨かれた身体中にある入れ墨、ヤトの言う刻印とやらを詳しく模写されていた事だ。 各刻印を書き写したであろうその用紙には、メモらしき言葉がびっしりと書き込まれているのが見えた。おそらくここに運び込まれた時だろう。 どんな刻印なのかは、俺も知らないが碌なもんじゃないのは間違いない。あれを調べられたら身体を操ったり、自由を奪われる可能性がある。 今でもそうなのだから。
考えれば考えるほど、絶望的な状況だ。
最悪は戦争の道具として使い回される可能性がある。 いや、この身体は小さな少女なのだ。 用済みになるか、反抗的な態度を続ければもっとタチの悪い奴等に引き渡される可能性すらあるのかもしれない……
だから俺は、子供の様に膝を抱えている。
堪えきれなかった涙が流れるのを感じたが、それを止める気力も無くなってしまう。そうしているうちに俺は、眠ってしまった。
エリに頼んで内緒で厨房から持ってきた焼き菓子は、香ばしくて甘い香りがする。今のリンディア、いや世界では昔の様に頼めば何でも出て来る王族や貴族みたいな生活は出来ないけれど、あの可愛らしくも儚い少女に焼き菓子を渡すくらいなら神罰も当たらないだろう。
アスティアはそんな事を考えながら歩いている。でも本当は、あの子と一緒にベランダのテーブルでリンスフィアを眺めながら話をしたいのだ。今日の一番の希望と目標は何時も何か辛そうなあの子の笑顔を見ることだ。
辿り着いた黒の間には二人の騎士が立ち少女を守っている。騎士達に会釈しノックはするが、返事はないのは分かっている。
アスティアが一人そっと扉を開くと折角の大きなベッドにもかかわらず、その端に小さく丸まって顔を膝に埋めた少女が見えた。
後ろ手に静かに扉を閉めベッドの直ぐ傍まで近づいて顔を覗き込むと、眠りに落ち閉じた目から涙が零れているのが分かり悲しくなってしまう。
人々の苦しみを、死を、この世界の痛みを悲しんでいるのだろうか?
ハンカチを取り出してそっと涙を拭きサラサラとした黒髪を撫でたあと、起こさない様にシーツを掛ける。
サイドテーブルに焼き菓子を置きもう一度頭を一撫でして部屋を出たアスティアは、締め付けられた胸をそっと押さえて黒の間を後にした。
あの子の名前を知りたい。名前を呼んで、大丈夫だよと抱き締めて上げたい。
兄様は、落ち着いたらあの子の事を教えると言っていた。早く教えて貰って出来る事をしよう。エリもきっと手伝ってくれる。
アスティアは、強く思う、伝えたい。
大丈夫、大丈夫だよ……と。
「ノルデ、どうだ何かあったか?」
「殿下……特には何も。ただ少し前ですが扉を開けて、半分程可愛らしい顔を見せてくれました。 すぐに閉められてしまいましたが」
ノルデは苦笑して扉の方を見た。
「そうか、もう怪我も大丈夫そうだな。 良かった」
それを見たアストはホッとした表情で、ノルデと同じく扉の方を見る。
「つい先程はアスティア様が。お菓子を一緒にと来られましたが寝ていたそうで……がっかりしてましたよ」
「ははは、そうか」
アストの笑顔にノルデは目尻を下げて笑い、急に真面目な顔になりアストに真っ直ぐに体を向けた。
「殿下。このノルデ、知らなかった事とは言え殿下のお命を救おうとした、救ってくれた少女を殴り付けたなど許せるものではありません。この命に代えても必ず守ってみせます。御安心下さい」
「ノルデ、お前は考えすぎだ……まあいい、もしあの子が外に行きたいとか、察することがあれば出来るだけ応えてあげてくれ。陛下からも最大限の対応を許可頂いている。 何かあればすぐに言ってくれていい」
「はっ!」
クインとコヒンは、ランプの光が淡く揺れるコヒンの私室にいた。 変わらず本や巻物に埋もれた部屋だ。
二人は何処か疲れが見える顔で、刻印の事をまとめた用紙を眺めている。あの黒髪の少女の刻印だ。
黒神ヤトの刻印と判明した事で解読は一気に進み、少女の刻印がどういった力を持つのか、意味を持つのか、そのほとんどが判明したと言っていいだろう。より正確に模写する事が出来たその資料も充分役に立った。
だが、その解読を進める事が出来たクインに歓喜の色はなかった。
「お祖父様……これは……これではまるで……」
「うむ……クインの想定で間違いないじゃろう……認めたくなどないが……全ての刻印が影響し合うよう計算されているとしか思えん。 辻褄が合ってしまう。 一見矛盾した刻印たちはその為にある」
「そんな……そんなの悲し過ぎます……あの子は何のために……もし世界が救われたとしても、あの子を誰が救うと言うのですか……」
普段は感情をあまり表に出さないクインの白い相貌と青い瞳に、神への強い怒りと、何も出来ない自分への悔しさが浮かんでいた。美しい金の髪は、怒りと哀しみに揺れている。
「クイン……この結果を陛下や殿下に報告するかを考えなくてはならんぞ。 全てを知れば苦しむかも知れん。辛い決断を迫られる事になろう……」
クインはほんの少しだけ考え、コヒンを力強く見た。
「……お話しします。皆でもっと良い方法を見つけて見せましょう。必ず……!」
リンディアの懐に抱かれた聖女は絶望の中にいる。
アスト達から送られた慈愛というケープに包まれて、その存在を許されている。
大丈夫だと、許されている。
しかし聖女はそれを知らない、知ろうともしない。
そして、少しずつ、世界は動き始めた。