コロコロと転がってきた丸いもの、葡萄が足に当たってアストは我に返った。 少女はいかにも"拙いことになった"という顔をしていて、思わず笑みをこぼしてしまう。
闇の中で迷子になった子供のように行き場のない気持ちを抱えていたアスト達にとって、それは一筋のそよ風のようで……少しだけ空気が弛緩したのを感じる事が出来た一瞬でもあった。
クインが手を伸ばして葡萄を拾い、予備の紙に包んで懐に入れる。 後で処分するつもりなのだろう。
ちなみに少女は益々顔色が変わって、下を向いて動かなくなった。
「殿下……カーディル陛下にどうお伝えしますか?」
「もちろんそのまま伝えるさ」
「殿下……陛下は大変責任あるお方で、同時にそれを行動に移す事の出来る王でしょう。 大勢の王国民の命と、たった一人の少女の命を天秤にかける事になる……陛下であれば御決断なされます。 それでも良いと思われますか?」
王家の相談役としても意地悪な聴き方をしているのは自覚しているが、それは事実でもあった。
「違う、そうじゃない……陛下は、父上は分かって下さる筈だ……」
クインは甘い考えだと一蹴しようとした時、アストは強い眼差しでその碧眼を向けた。
「クイン、教えてくれ。 黒神は邪悪な、邪な思いを抱く悪神なのか……?」
「いえ……そんな事はありません。黒神の中で最も力を持つとされる神は、死と眠りを司る神エントーです。 エントーは等しく人々に死と眠りを与えてくれます。 もしその加護がなければ……人は死を迎えた筈のあとも、生きた屍として彷徨い歩くと言われる程ですから」
「そうだ……私もコヒンやクイン、君にも教えて貰った。黒神は在りようや形は違えども、人々を等しく愛していると。 私はそれは間違っていないと思えるんだ」
クインは、アストが何を言おうとしているのか分からずに困惑していた。 しかしアスティアは、何か希望を見出したかのように光を失っていた瞳の輝きを取り戻していく。
「クイン、もう一度考えてくれ。 癒しの力は何故封印されているんだ? クインの言う通りなら、封印などせずに直ぐに戦地に送り付ければいい話だ。 いや、他の刻印だって必要ないじゃないか。 私はそう思えるんだ」
「それは……死を迎えた時に解けるのでは……」
言いたくもない考えを呟いたが、同時に否定の言葉を待つ自分がいると分かった。そして期待通り、アストは力強く確信すら持ったかのように高々と言葉を紡ぐ。
「そうじゃない、ヤトはヤトなりに聖女も愛しているんだ。 だから必ず皆が助かる道がある。 そうだと信じるんだ。 神々のご加護は間違いなく降り注いでいると」
クインは眩しい光を見るように目を細めて、アストを仰ぎ見た。 アストは誇り高いリンディアの王となられるお方なのだと、彼は間違いなく、アスト=エル=リンディアなのだと。
クインは涙が零れるのも構わずに、目の前の希望にただ頭を下げるのだった。
「はい、アスト殿下」
雨は止み、雲の切れ間から光が黒の間に降り注ぐ。アストの白銀の髪と青い瞳はそれを反射してキラキラと光を放ち輝いていた。
「そうよ……兄様の言う通りだわ! きっと何か意味がある筈よ、だっていま私達と一緒にここに座ってるんだもの。 お父様と相談して、ケーヒルやジョシュ、みんなに力を借りましょう!」
アスティアは、何時もの元気を取り戻してアストと同じように力強く声を上げた。
「はい、アスティア様。 本当に……本当にありがとうございます」
クインは涙を取り出したハンカチで軽く押さえながら、思わず笑顔が溢れるのを止めなかった。
少女はクインがハンカチを取り出した際、再び零れ落ちた葡萄を素早く拾い上げて自身のワンピースのポケットに入れた。危なかったと溜息をついた少女の横には、エリがしっかり目撃をして、ニヤついているのは気付いていないようだった。
暫くは涙が零れるのに任せ、ゆったりとした時間が流れた。雨雲は消えて暖かい日差しが降り注いで、光がカーテンの様に輝いている。ベランダに咲く花々はまるで宝石の様に彩られていた。
「申し訳ありません、殿下、アスティア様」
「いいのよ、貴女の泣き顔なんて随分貴重なものを見せて貰ったわ」
アスティアは態とクインを茶化して笑った。
「はい……」
クインもアスティアの優しさに甘えてそれ以上は何も言わない。
少し落ち着きを取り戻した黒の間にアストの声が響いた。
「クイン、刻印の説明がまだ続いているようだが……?」
もう全ての解説が終わったと思っていたが、最後にもう一枚だけ刻印の紋様を書き写した紙が残っている。 どうやら首に刻まれた刻印の一部を拡大したもの、そう見えた。
「あっ! はい、まだ重要な事が残っていました。 彼女にこの場所にいて貰ったもう一つの理由です」
少し朗らかな声から悪いことではないとわかった三人は、少しほっとしながら耳を傾ける。
「これは、お爺様が見付けてくれたんです」
刻印の模写を指し示しながら説明は続いていった。
「言語不覚の刻印、その紋様の一部に意味を成さない単語らしきものがありました」
アスト達は幾ら眺めてもわからないパズルの様な紋様から探すのを諦めてクインの次の言葉を待った。
「一語一語は、時代も神々も違う神代文字のため、私達も最初は只の模様だと思いましたが、違ったんです」
「意味は含まれていません、ただ音を発音すればいいだけです」
「お爺様は結論付けてくれました。これは……彼女の名前だと」
アストもアスティアもエリも、それを待ち望んでいたのだ。
出会ってから今まで一度も声に出せなかった事を。
「こう読みます……」
「カ、ズ、キ……と」
初めてこの世界に聖女の名前は告げられた。
そしてこれから、人々は知るだろう。
救いは舞い降りたのだと。
神々は見捨ててはいなかったのだと。
黒神の聖女「カズキ」が降臨したのだと。