燭台に灯された火は、部屋とそこにいる人間を照らしている。
軍務長室では、白く染まった髪を薬料で撫で付けた初老の男が多くの書類に目を通していた。 痩せた体に不釣り合いな鋭い眼光は見る者に威圧感を与えるだろう。
南部地域での被害状況をあらゆる角度から確認し、効率的に回復をしなければならない。 限られた資源を最適なところへ配分する、それが男の職務だった。
南部での被害は厳しいものだった。だが騎士達の復帰もひと段落した事で、ほかの事に手を付ける事も出来るだろう。
さらにその南部では森人も一組行方不明らしい。 無い事ではないが珍しくもある。 彼らは森の専門家であり騎士達とは違う知識と経験を持つ。 しかし森の近くで背負袋も見つかっており、森で魔獣に襲われたのは間違いないだろう。
その男は次々と起こる問題に指示を与えるべく、書類に書き込みを入れていく。
書類のいくつかは再び担当官に返して再考させる必要があるが、概ね予定通りと言っていい。
目頭を押さえ首を回転させて疲れを少しでも無くす。
それを繰り返してきたが 、今は入室してきた部下の話を聞く時なのだろう。 軍務長室に2人の男が向かい合っていた。
軍務長ユーニード=シャルべは、執務室に来た軍務情報官から報告を受けていた。
彼は若い頃から鍛えた腹心で、信頼出来る者にある調査を依頼していたからだ。
「どうだ? 何かわかったか?」
「はっ。残念ながら不思議な程に情報は伏せられています。 どうやらアスト殿下自らが緘口令を敷いている様です」
「殿下自らが……?」
ユーニードは、顎を指で支えて暫し考えるが答えは出なかった。
「なぜ、1人の少女にそこまでする必要がある? 仮に殿下の想い人だとしても隠す理由にならない」
この時代は血統をそこまで重んじない、いやそんな余裕はない。 リンディアの血は勿論重要だが、妃にまでそれを強く求めたりはしないのだ。現王カーディルの妻アス王妃も元は町娘だったのだから。
「何かあるのか……?」
ユーニードも少しだけ興味がある程度で、そこまで深く考えていた訳ではない。 しかし緘口令を敷くとは尋常な状況ではないだろう。 リンディア王家には忠誠を誓っているし、尊敬もしている。 カーディル陛下もアスト殿下も民を想う立派な王族なのだ。 だが何かが引っかかっている。
「ユーニード様。噂話をお耳に入れるかどうか悩みますが、お聞きになりますか?」
ユーニードは、思考を止めて耳を傾ける。
「ああ、何でもいい」
「先日、南部の森で起きた被害ですが……」
「死傷者も出たあれか。 命を落とした騎士達には、白神に抱かれる事を祈るしかない」
「はい。 あくまで噂話ですので、そのおつもりで」
「わかっている。 話せ」
軍務情報官の話はこうだ。
城下の治癒院に神の御使いが現れ、 血を流し運び込まれた騎士を光る手で癒した。闇に溶ける様な真っ黒な少女で、その姿はまるで亡霊のようだった。致命傷に思われた台車に横たわった騎士は、何も無かったかのように立ち上がった。
「ふん……よくある怪異の話か? だがそれだけではあるまい?」
ユーニードは、目の前の情報官が有能であると知っている。自らが育てたのだから。
「はい。 暫くすると治癒院に人が訪れた……と。 アスト、アスティア両殿下、クイン様、侍女エリの方々です」
「……ほう。 噂話としてはいまいち出来が悪いな」
その様な目立つ登場人物がいれば、直ぐに裏が取れてしまうだろう。
「その治癒院にいらっしゃったのか、事実はわかりません。ただ、お二人を含む4人が城を出たのは間違いないと」
「……その目撃された少女に、何か特徴があるのか?」
「いえ、なにぶん暗かったので、髪の色も顔も分からなかったようです。ただ濃い色の、星空をあしらったワンピースを着ていたと」
殿下が連れ帰った少女は、珍しい黒色の髪だった……らしい。
「いや、だからこその噂話とも考えられるか……殿下が連れ帰った少女など、格好の噂話の材料になろう」
やはり、ただの噂話か……そう考えをまとめかけたユーニードに情報官が重要な話をもたらした。
「治癒院にいた者は、わかっています。 典薬医見習いのクレオンだそうです」
「クレオン……確か会った事があるな。 典薬医長と一緒にいた」
ユーニードの記憶には、ブラウンの癖毛の気弱そうな青年の顔がはっきりと思い出せた。
「少しだけ話を聞いてみるか。 大した手間でもない」
「はっ」
独り言ではあっただろうが、情報官は律儀に返事をした。
最近、クレオンは同僚から心配の声を掛けられる。
上の空だったり、王城を飽きずに眺めたりしている。
だがクレオンは申し訳ないと思いながらも治せるとは思わなかった。 病名は明らかで、ククの葉のように効く特効薬などないのだから。
その病の名は"恋の病" と言った。
クレオンにとってあの夜の事は忘れられない出来事だった。
運び込まれた騎士、吹き出した血、何も出来ない自分。
夜の闇に溶ける様な髪をなびかせ、現れた少女。
僅かな香油の香り、淡い光、その美しい相貌。
自らを顧みないその誇り高き精神。
全てが今もそこにある様に感じる事が出来る。 一度だけこの胸に搔き抱いた小さな体を、今も思い出し心が震えている。
……群青のワンピースから僅かに見えた、その中も。
時間が解決してくれるのだろうか? 誰にも話せないからこそ、気持ちは募るばかりなのだろう。
だからクレオンは、今日も城を眺めている。
「クレオン! お客様だぞ! 大変な方だ。急いで行って来い!」
薬草を種類毎に並べて数量を確認していたところ、いつも嫌味な典薬医長の声にクレオンは振り返った。
「大変な方ですか?」
まさか、あの娘だろうか? そんな事を思っていたら、典薬医長からその解説があった。
「軍務長のユーニード様だ!そこは後でいいから急げ!」
「ユーニード様……? 」
早足で応接室に向かう。ただユーニードと話す事など自分にあるとは思えないクレオンは、疑問符が頭に浮かんだままだった。
「失礼します。 クレオンです」
軍の事務方の長たるユーニードにどう話しかければ良いかわからないクレオンは、とりあえず無難なセリフを言って応接室に入った。
「ああ……クレオン君。職務中に済まないね。近くに来たから用事を終わらせたいと思ってね」
噂では血も涙もないユーニードと聞いていたクレオンは、その柔らかい物腰に少しだけ肩の力が抜け席に着いた。
「いえ、大丈夫です。 あの……僕に何か……?」
「いやいや、そんなに緊張しなくていいよ。 先日の南部での被害の確認をしててね。 人手も足りないものだから、私まで引っ張り出されてしまったよ」
ははは……と頭を掻きながら笑うユーニードに、クレオンはホッとしていた。
「騎士2人は回復と。 いや助かったよクレオン君。
ユーニードはここで仕掛けた。 クレオンに反応が無ければそれでいい……重要な事はユーニードが関係者と思わせる事だ。ユーニードは一言もアストの許可があるとは言ってはいない。
そしてクレオンはユーニードの思った以上に反応を示すことになる。
「素晴らしいなんてものじゃないですよ! 正に聖女です!2人の騎士様は助かる筈のない怪我だったのに、まるで御伽噺のような白く光る手で癒したのですから!」
「……ほう、そんなに凄かったのかい? 確か……黒髪の?」
「そうです! 黒髪の聖女です。 美しい若葉色の瞳、なにより刻まれた刻印! その慈愛の精神は心を掴んで離しません」
刻印だと……? そうか、だからクインを……ユーニードの中で全てが繋がっていく。体から湧き上がる強い気持ちを何とか抑えながら、クレオンを更に煽る。
「……やはりそうか。 本当は国を挙げてお礼を言いたいけどね……何処にいるのかな?」
「アスト様とアスティア様が来られて、連れて帰られましたよ? きっとアスト様が側におかれているのでしょう……」
ユーニードはクレオンの嫉妬を感じたが、そんな事はどうでもよかった。
「そうだったね。 私も近くでは見た事もなく、会ってなくてね……いいなあ……クレオン君は城に入るのを見たのかい?」
「勿論ですよ。 最後までお見送りしましたから」
ユーニードは自分の悲願を、息子の仇を嬲り殺す手段がすぐ近くにある事を知り、全身が震えるのを抑える事は出来なくなった。
「……ユーニード様? 大丈夫ですか?」
「ああ、勿論大丈夫だとも。 クレオン君、
急に怜悧な空気を見せ始めたユーニードに、クレオンは一瞬見間違いかと思った。
「それでは」
そのまま振り返ることもせずに立ち去ったユーニードを、クレオンは呆然と見送った。
自室に帰ったユーニードは、僅かに灯る蝋燭の炎で最愛の息子からの手紙を読み直していた。
「アラン……いよいよだ。 お前を殺した魔獣共に裁きの鉄槌を下す時が来た。 奴等を一匹残らず消し去ってやる。必ずだ」
妄執に駆られたその目は、炎の光を浴びて爛々と輝いていた。