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ぼんやりと意識が戻るのを感じる。軽く溜息をつこうと口を開いたとき、息が出来ない事に気付いた。
なんだ? 水、いや泥の中か?
「……っ!……」
両手をつき上半身を起こす。口の中の異物を吐き出し大声で叫ぼうとした。しかし、口からは吐き出す泥以外に何も出てこない。
……なんで……? 声が出ない!?
思わず喉と胸に手を当てたときに、いくつかの違和感を感じた。それなりの修羅場をくぐって鍛えた硬い胸筋はそこにはなく、代わりに柔らかい肉の感触が返ってくる。それに俺の手はこんなに小さくない。汚い腕から泥を拭うと筋張った筋肉はやはり無く、まるで子供の頃のように変わってしまっていた。
「……!!」
もう一度自分の身体を見ると、ワンピース?いや貫頭衣だろうか、元の色がわからない程に汚れて赤黒い色に染まっている。
胸を押し上げる僅かな膨らみを見て、恐る恐る首もとから服をめくってみる。下着を付けていない体は、上から見ただけで自分がどうなってしまったかを明らかにさせた。それに体中に入れ墨が入っている。全く読めない文字とうねる気色の悪い模様が刻まれて……
なんだ……? どうなってる!?
強い不快感を覚えた。唐突に湧き上がる吐気に耐えられず、再び泥だらけの地面に両手を付いて思い切り吐いた。一度、二度三度と吐き続けると、胃液も呻き声すら上がらずに膝を抱えて蹲る。
暫く吐気と戦っていると、少し前の出来事が頭に浮かんで来た。膝を抱えていると胸の柔らかさに当たってまた余計なことを意識してしまう。
くそっ!
ヤト……黒神のヤトか! アイツが何かしやがったんだ……あの野郎!!
思い出せ……アイツは何を言ってた?
刻印……呪い、異世界、救いの道、そして世界を?
馬鹿が……ふざけやがって! 何を勝手な事を! こんな子供、しかも女なんてどうしろって言うんだ! 声まで出ないなんてふざけた呪いを……いや、そもそもなんで俺がそんな事を……
目をを強く瞑り、現れては消える声にならない怒りや戸惑いを吐き出す。ふと何か生臭い、鉄錆の匂いに気付いて目を開いた。
こんなにすぐ側に赤い壁などあっただろうか? 何とか起き上がりもう一度壁を見る。
いや……壁なんかじゃない……何かの生物だ。死んでるのか動かない……大きい、大きいなんてもんじゃない。毛は生えてないのか肌が直接見える。赤褐色と言えばいいか、酷く筋肉質な体だ。少しずつ後ろに下がり全体を見ないと大き過ぎて、近くでは何なのかがわからない。
いや、俺が小さくなったのか……?
それはまるで犬のようだった……いや犬みたいに可愛げのあるもんじゃない。犬に牛を無理矢理混ぜて捏ね回したような姿だ。それにあんなに巨大な牙や爪なんて冗談としか思えない。爪一本が今の俺の腕よりも大きいのだ。
うっ……
さっきまで自分が寝転がっていた場所は、只の泥じゃなくこの奇怪な生物の血が混ざっているようだ。または吐気が戻ってくるが、なんとか両手で口を押さえて我慢する。
他には何かないか探して見ると剣が落ちている。二本あるそれは日本刀ではなく、西洋の剣のようだ。一本は片方と比べると非常に大きく血糊がべったりと付着している。この化け物の血だろうか?
恐る恐る剣を持とうと近づき手に力を入れるが、全く上がる気配がない。もう一本の小さな剣ですら、まともに持ち上げるのは無理そうだ。息を止めて思い切り力を入れると手が滑り後ろに勢いよく倒れてしまう。再び顔も手足も泥だらけになり、より気持ちが暗くなった。
こんなの……一体どうしたらいいんだ?
ここが何処かもわからないし、こんな化け物がウヨウヨいるような世界なら、このひ弱な体で戦う事も逃げることだって出来ない。尻餅を付いて剣をボンヤリと眺めるしかない俺の耳に、僅かに人の声が聞こえた気がした。
気のせいか? もう一度耳を澄ましてみる。
いや……聞こえる。悲鳴?慟哭? 大人の男の声だろうか? 人の声だと思うが、何を言っているのかわからない。この化け物の向こう側か?
化け物の体を壁にしつつ、少しだけ顔を出して覗き見る。
その声の場所はすぐにわかった。
20人位の集団だろうか、金属の鎧を着た集団が何かを中心に集まっている。集団の隣りにはいま壁にしている化け物と同じ奴がもう一匹死んでいるのが見えた。
大きな声が聞こえて、一人の男がこちらとは反対側に駆け出して行った。何人かが膝を付き絶望感を全身で表しているようだ。
その時、集団の円の中心が少し見えた。どうやら若い銀髪の男が倒れ別の鎧の男に支えられていて、一際目立つ大きな男が何かを喋っているみたいだ。
やはり言葉の意味が分からない。
声が出ず、意味もわからない……?
それって酷くマズくないか? こんな訳の分からない場所で、子供になって言葉すら通じないなんて……
足元から崩れ落ちて行くような錯覚を覚えて目眩がした。何とか化け物に寄り掛かって倒れるのは防いだが、何の慰めにもならない。
絶望を感じつつ、兎に角何か情報をともう一度集団の方を見た。
ドンッ!
そんな音など鳴ってはいないが、自分の心臓が大きく跳ねるのが分かった。
銀髪の男の側で跪き喋っていた一際大きな体躯の男が涙を流しているのが見えたのだ。恐らく銀髪の男の生命が危険に晒されているのだろう。 男にしては銀髪同様に美しい相貌だが、血の気もなく口元は血であろう物で真っ赤だ。
……助けないと、あの人を助けないと、死んでしまう……
周りの人も哀しんでいる。
絶望の
なにを……ダメだ!俺は何を考えている! あんな得体の知れない連中の事など信用出来る訳がない! アイツらは…アイツらは大人だぞ! 今迄どれだけの裏切りを受けたと思ってる……!
でも、でも死んでしまうよ……きっと大勢の人が悲しむんだ……まるで少年の様な言葉が心に響く。
ふらふらと、化け物の側から抜け出して奴等の方へ歩きだしてしまう。俺の視線は倒れている男から離す事が出来ない。
くそっくそっ……なんだ!? どうなってる?
あんな見も知らずな奴のために、なんで俺が……!
……助ける、助けるんだ。誰の死も見たくない……
もう戸惑う事なく歩き出した俺に奴等も気付いたようだ。何人かが振り向き、体の一際大きな初老の男もこちらを見る。倒れていた銀髪の男の血を視界に捉えた瞬間、また大きく心臓が跳ねる音を他人事の様に聞いた。
立ち上がった若い鎧のもう一人が何かを話す。意味など分からないしどうでもいい。それに……あのキズ! ダメだ死んでしまう……!
思わず駆け足になった俺の頭に衝撃が加わり、鋭い痛みがこめかみに走った。地面に倒れて付いた手に俺の血がポタポタと落ちた。
血が、赤い血が落ちている……
でもちょうどいい……
立ち上がるのも面倒になった俺はベチャベチャと地面を這い、肩から腹にかけて真っ赤に染まった男にたどり着いた。遠くから見ても美丈夫だと思ったが血に染まりながらも、その美しさは変わらない。その青き碧眼を大きく見開いて俺を呆然と見ている。傷口を見ると深く抉れていて、心臓の鼓動に合わせてだろう血液がドクッドクッと流れ出て行く。
大丈夫……助けるよ。こんなキズなんて……
熱に浮かされたようにもう冷静な判断なんて出来ない俺は、手元に見えたナイフを右手に持った。横にいる大男が何か言った気がするが、耳にすら音は響かなくなっていた。
このナイフをどうすればいいかなんて簡単だ。
ただココに突き立てて、俺の体を
痛みなんて心から離してしまえばいい。
人が泣くところなんて見たくはない。
そう、俺の事なんてどうでもいい。
つらつらと考えながらナイフを掌に突き立てた。思ったよりずっと痛かったが、まだ足りない。
喉から叫び声が出ないから、五月蝿くなくてよかった。
抉りながら引き抜くと赤い血が溢れてくる。子供みたいな手は赤く染まり、手首まで伝わる。
目の前の傷口に押し当てれば後は勝手に始まるんだ。
まだ、まだ足りない……? 彼の碧眼が俺を見た。
分かってる、大丈夫。まだまだ幾らでも贄はあるんだから。
俺ナイフをもう一度握り締めて、力を込めて引いた。