医療用バッグに商売道具を詰め込み、車のキーを握った。
中古で買ったレクサスは、車体に小さな擦り傷があるが、走行は快適だ。
県道を走りながら、からっと晴れた空を見た。
天気予報は午後から雨だった。
とてもそうとは思えない。
美しい青に、白い雲が箒のようになびいていた。
僕はカーラジオのスイッチを入れた。
気持ちの良い朝の光景に似つかわしいピアノコンチェルトが流れ出した。
クラシックが好きだ。
無駄な雑念が心から消えていく。
旭ヶ丘分校に到着したのは、午前10時過ぎ。
学校に一人しかいない教師が待っていたとばかりに校庭で手を振った。
だだっぴろい校庭の隅に車を止め、バッグを片手に降りると、まだ年若い女教師が言った。
「ご苦労様―。こんな田舎までわざわざ来てもらって悪いね」
女教師の年齢はわからない。
だが、今年34歳になる僕よりも年下であることは間違いがないだろう。
親しみを込めて敬語を使わずに話しているのかもしれないが、僕はそういう人間が苦手だった。
他人との距離が近すぎる、田舎独特の空気に、どうにも馴染めない。
僕は首を振った。
「いえ。これも仕事ですから」
「相変わらず先生はクールだねぇ」
女教師が、細い目をもっと細めて笑う。
目が細い人がさらに目を細めると、他人を嘲笑しているみたいに見えることがある。
「そういう笑い方、やめたほうがいいですよ」
そんな言葉がのどから出かかって、僕は口を押えた。
悪い癖だ。
思ったことを、時々言いたくなってしまう。
子供の頃の僕は無口だったのに、いったいいつからこうなってしまったのだろう。
振り返ってみても、よくわからない。
生き物は絶えず変化をするもので、過去の自分が本当に自分自身なのか不安になることすらある。
「くしゃみでも出そう?」
気が付くと、女教師がのぞき込んでいた。
「いいえ」
極力、感情を廃した声で答えた。
「そう? それじゃ行こうか」
女教師が歩き出した。
校庭の奥にある木造建築の校舎に向かってだ。
僕は、バッグのハンドルを握りなおした。
父の代から使っている黒い革の医療用バッグは、重く、不便で、しかし愛着があった。
女の後ろを歩くと、鼻にかすかな香水のにおいを感じた。
こんな田舎でも女は化粧をするし、香水をつける。
ベルガモットのようなにおい。
女の香水から性的な興奮を覚えたことは一度もない。
なぜ女は香水をつけたがるのだろうか。
そういえば、僕が子供のころに出会った精神科医の女も、強いベルガモットのにおいを発していた。
鼻を内側から蹂躙するような嫌なにおいだった。
あの女は、いったい幾つだったのだろう。
子供の頃の僕からすれば、大人に見えた。
だがもしかすると、目の前の女教師と変わらない程度の歳だったのかもしれない。
記憶の中の女の皮膚や声は、思ったよりも若い。
女が口を開く。
『君は、精神に傷を負っている』
白衣の女が無機質な白い壁の医務室の丸い椅子に座っている。
僕はあの日、どんな服を着ていただろうか。
女がもう一度口を開いた。
『君は、』
「着きましたよ」
女教師が、めずらしく敬語を使った。
建付けの悪い木造の戸が目の前にあった。
ペンキは幾度となく塗りなおされ、上に塗られたクリーム色の下の白い元の色が、ところどころ露出していた。
まるで、皮膚が破れて骨が見えているようだった。
「中に入っていてね。子供たちを連れてくるから」
女教師が言った。
うなづいて戸を開くと、アルコールのにおいが鼻をくすぐった。
その部屋は理科の実験室だった。
「保健室じゃないんですか?」
僕が問いかけると、女教師は苦笑いをした。
「いやぁ、雨漏りがひどくてね。床が抜けちゃいそうだから、今日はこっちを使ってほしいんだよね。準備はしてあるから」
女のいうとおり、即席の診察室としての体裁は整えられていた。
布カーテンで簡易な仕切りが作られている。
仕切りを開くと、机と椅子が用意してあった。
僕は机の上に鞄を置いて、聴診器を出し、白衣を羽織った。
窓際に、標本が並べてあった。
へび、鼠、鳥。
小動物が一様に透明な瓶に詰められ、並べられている。
動物たちは、茶色く濁った液体の中で沈黙し、静止していた。
それは生命だったものの抜け殻に過ぎなかった。
「殻だ」
僕はつぶやいた。
中身のない、殻。
空。
カラ。
そんなものに興味はなかった。
やがて、カーテンの向こう側が騒がしくなった。
トーンの高い女児たちの声が飛び交っている。
事前に聞いていた話によると、この村の子供たちは5人。
そのうちの4人は女児ということだった。
しばらくすると、カーテンが開いた。
* * *
思春期の女児たちを相手にした健康診断ほど、精神をすり減らすものはない。
こちらをからかってくるならまだしも、若い男の医者に見られると知った瞬間、敵を見るような目でにらまれることもある。
僕は子供の体には興味がない。
それどころか、幼いころから女性全般に対する性的興味が薄かった。
級友たちが教室の隅で卑猥な本をこっそりと読んでいる間、ずっと自分の席で小説を読んでいた。
思索することが好きだった。
卑猥な本は、直情的であり、それ以上考えを掘り下げる部分がない。
僕は直情を嫌っていた。
「……」
いつの間にか、最後の生徒になっていた。
ひときわ幼い少女がカーテンを開けてたたずんでいる。
表情のあまりない子供だった。
開ききらない眠そうな瞳。
その瞳に見覚えがあった。
女教師の妹が一人いると聞いていた。
おそらくこの子供がそうなのだろう。
少女は首をかしげるようにして僕をじっと見つめていた。
僕は戸惑い、そして少しイライラとした。
「どうしたんですか。早く座ってください」
少女の前の椅子を指さす。
少女は、僕の言葉をほとんど意に介さないような様子で、椅子をじっと見つめた。
5分ほど椅子を見つめてから、その行為に飽きたのか、やっと顔を上げた。
「こんなところで何をやっているん?」
唐突の問いかけ。
なにをやっている?
僕は医者だ。
ここで仕事をしている。
それだけのことだ。
しかし、幼い舌足らずな声のトーンは、僕の脳に直接問いかけてくるようだった。
僕はここで何をしているのか。
わからない。
ただここにいて生きている。
それだけのことだ。
『君は何をしている?』
問いかけが頭の中で響いた。
問いかけに答えようと口を開くのだが、言葉が出てこない。
「なぁなぁ、服、真っ白なんなー」
気がつくと、少女が僕の目の前にいた。
僕の両膝に手を乗せて、小さな体の体重をかけてくる。
僕は息を呑んだ。
今、いったい僕は何を考えていた?
「これは、白衣というんです。僕の仕事着です」
「おしごと?」
「そう。仕事って言葉の意味はわかりますか? 僕は医者なんです。ここで定期健診をしているんです」
子供相手に話すのは苦手だ。
子供でもわかる言葉遣いをすることが苦手だ。
馴れ馴れしいタメ口も。
だから、子供相手にも僕は敬語を使う。
そのほうが楽だからだ。
しかし、定期健診という言葉を少女が理解できるとは思えなかった。
「医者なんっ!?」
少女が目を見開いた。
「そ、そうですけど」
思わずたじろいでしまう。
「すごいんなー! どんな病気でもぱっと治してしまうんな!」
少女が目を輝かせ、僕のひざの上によじ登ってきた。
「あ、こら。やめてください」
僕はあわてて少女を引き剥がす。
「むふー」
興奮冷めやらぬという表情で少女は鼻息を荒くしている。
り、理解できない。
いったいどういう行動原理なんだ?
無表情なおとなしい子供かと思ったのだが、唐突にひざに乗ってくるとは。
「れんげ! ウチは、宮内れんげといいますん!」
両手を挙げて名前を名乗ってくる。
「いしゃは? いしゃはなんて名前なん?」
「ぼ、僕の名前?」
名前を聞かれるなんて初めてだ。
「あ、その……墨染恵一ですけど」
「す、す、すみ……すみ……」
難しかったか?
「……〝いしゃ〟って呼ぶことにするん!」
覚えることをあきらめたらしい。
僕はいつの間にか苦笑していた。
他人と名前を名乗りあって、互いの名前を覚えようとする行為は久しぶりだった。
苦笑とはいえ、唇の端がつりあがることも。
「宮内さん、座って」
「れんげ! れんげでいいのん!」
「わかりましたから。れんげさん、座ってください。診察が始められないですよ」
「はいなのん!!」
元気よく返事をして、ぽすんと子供用の椅子に腰掛ける。
妙に楽しそうに僕を見上げて言った。
「れんげ〝さん〟って呼ぶのなんか面白いのん。いしゃは大人なのに子供に〝さん〟つけるんなー」
僕には、いったい何が面白いのかよくわからなかった。
「それじゃまず、口をあけてください」
「あーん」
少女……れんげは案外従順だった。
いわれるがままに口を開き、小さな口内を見せつけてくる。
まだ乳歯のままの歯が形よく並んでいた。
この柔らかそうなエナメル質が、噛み砕くことができるものはあるのだろうか?
そんなことを考えながら、口蓋垂をライトで照らす。
燃え尽きて落ちる手前の線香花火のような口蓋垂が見えた。
口内に続いて瞳の診察を終えると、聴診器を胸に当てる段になった。
「れんげさん、シャツをめくって下さい」
「こうすればいいのんな?」
言葉に従いシャツの裾をめくる。
子供特有のつるっとした腹部があらわになった。
脂肪分のほとんどない細い体。
あばら骨がういて見えた。
そのあばら骨を見た瞬間、僕は呼吸が止まりそうになった。
正確には数秒間、本当に呼吸が止まったのかもしれない。
血中に酸素が廻らなくなり、脳が沸騰したようになった。
いや、違う。
数秒間呼吸を止めただけで脳は沸騰しない。
もっと原初的な刺激だ。
頭が真っ白になるような感覚、強い刺激が、僕の脳を針のように刺した。
「…………これ、ちがうん?」
僕の沈黙を否定と受け取ったれんげが心配そうに問いかける。
僕は首を振った。
なんとか言葉を搾り出す。
「いや、いいんです、それで」
深く呼吸をして、聴診器をれんげの、薄い胸に当てた。
「んっ」
聴診器の冷たさに、れんげが小さな声を上げた。
その声が、耳の奥に届いた。
心臓の音がした。
暖かい血流がれんげの体の中を巡っている音がした。
その音が僕の耳を突き破ってしまいそうだった。
僕は、無意識に手を伸ばしていた。
「あっ。な、なにをするん?」
れんげが声を上げた。
「じっとしていてください」
僕はつぶやいた。
僕の指は、れんげの肋骨に触れていた。
その細い骨は、少女の滑らかな皮膚の膜に包まれて大切に保管されている。
うきだした肋骨をそっと撫でると、暖かい体温が指先に伝わった。
生き物の体温は、血液によって運ばれる。
皮膚と、血管の奥に、冷たく物言わぬ骨が眠っている。
こんなにも活発なれんげの肉の下に、冷たい沈黙が存在するのだ。
息を深く吸った。
「すこしだけ、そのままでいて……」
言葉が、自然に出た。
それは僕の意思とは違うところから勝手に這い出たかのようであった。
しかし、れんげは僕の言葉に素直に従った。
教師の言葉に逆らわない優等生のように、シャツのすそをめくり続けていた。
僕は、少女の肋骨をゆっくりと撫で回し、最後に耳をつけた。
聴診器はとっくにはずしてしまっていた。
心臓の鼓動ではなく、肋骨の音を聞きたかった。
だが、骨は何も言わなかった。
耳を離したとき、れんげは顔を赤らめていた。
突然の行為に動揺したのだろうか。
「なにを、していたん?」
「僕にもわからないんです」
「お仕事じゃないん?」
「……違います」
僕は首を振った。
「きわめて個人的な行為でした」
嘘はつきたくなかった。
「れんげさんの肋骨を見ていたら、なぜか触りたくなってしまったんです」
「んぅ」
れんげが、意味を成さない言葉を発した。
「嫌でしたか?」
「ううん……」
ふるふると首を振った。
少女の表情から、何を考えているのかは読み取れなかった。
時計を見ると、もう診察の本来の予定時刻を過ぎてしまっていた。
僕はどれぐらいの間、少女の肋骨の音を聞こうとしていたのだろうか。
「診察は終わりです。帰っていいですよ」
平然とそんな言葉を発することができる自分に些か驚いた。
* * *
子供たちがみんな部屋から出て行くと、急速に理科室の温度が下がっていくようだった。
片づけをしていると、棚の奥に白いものが見えた。
それは動物の骨だった。
標本だろうか?
近づいてみると、それは標本ではなかった。
簡素なダンボールの箱に入ったそれは、鳥の骨だ。
無造作にばらされた肉体の、その一部。
説明が書いてあった。
『20××年××月××日。生徒が山で拾ったもの。別の動物に食べられたのか、片方の羽と頭がなかった』
よく見ると、理科室の奥にはたくさんのダンボールがあった。
分校の子供たちが拾ってきたものを保存しているらしい。
授業の一環か。
子供の好奇心の残酷さゆえだろうか。
石や木の枝や木の実に混じって、生物の死骸もいくつかあった。
僕は、烏の残骸に再び目をやった。
女教師が呼びに来るまで、ずっとそれを見つめていた。
* * *
「ちょっと変わってるでしょ?」
夕暮れの校庭で、女教師にそう言われたとき、何のことかわからなかった。
「うちの妹。れんげ。相手するの、困ったんじゃない?」
「あ、いいえ。べつに」
僕は女教師と目を合わせずに、車のキーを回した。
「でもありがとね。あの子、喜んでたよ。医者のお兄さんに遊んでもらったって」
運転席のドアを開け、鞄を放り込んだ。
女教師が言葉を続けた。
「ビジネスライクなお坊ちゃんかと思ってたけど、ちょっと優しいとこあるんじゃないの」
僕は何も答えずに、車に乗り込んだ。
* * *
県道を走って帰る間、ずっとれんげのことを考えていた。
少女の、温かい皮膚の下にあった冷たい骨のことを考えていた。
僕はあの骨に触れたくてたまらなかった。
それは性的衝動にも似ていた。
これまでに、感じたことがない類のものだった。
ハンドルを握る手が震えた。
僕はどうしてしまったのだ?
どうしてあのような異常な行為をした?
わからなかった。
男性という生物が、勃起を止められないように、あの瞬間、少女の肋骨に触れるという行為は、止めることができないものだった。
あんなことをしたのは初めてだった。
あの瞬間、いや、しばらくの間、僕はおかしくなってしまっていた。
抵抗しなかった少女に対して、平然と会話をしたことについてもだ。
僕の内側から、別の僕が顔を出したかのようだった。
右手でハンドルを切り、左手をポケットに入れた。
硬いものが指先に触れた。
それは、骨だった。
僕は、理科室の烏の骨を一本、盗んでポケットに入れてしまった。
どうしてそんなことをしたのだ、という恐怖。
しかし、それを撫でていると、少女の肋骨の感触の記憶が少しだけ揺らいで薄まるような安堵にも包まれた。
* * *
『君は何をしている?』
女の声が頭の中で響く、響く、響く。
それは、ペダルを使用したときの鍵盤音の残響のようだ。
音は残響だけになり実態がない。
誰の声なのかわからない、誰かの口から発せられたはずの声が、持ち主をなくして僕の脳の中に漂う。
僕はその言葉の主を探ろうとする。
だが、わからない。
あの声は、いったい誰の声だったのだろうか。
大きく開かれた口。
口内から発された問いかけの声。
その口内の映像が、小さなものに変わっていく。
小さな、組み立てかけの模造品のような口内。
燃え尽きる直前の線香花火のようなオレンジ色の口蓋垂。
乳歯だらけの歯。
「れんげ、さん」
少女の名を呼びながら、目を覚ました。
汗をひどくかいていた。
ベッドのシーツがべたべたと湿り、心地悪さが体中に張り付いていた。
頭痛がした。
強い酒を飲んだ翌日でもないというのに、酩酊に似た鈍い痛みが頭にあった。
ざぁっという湿った音が聞こえた。
外は雨が降っているらしかった。
僕は、額を押さえながらベッドから這い出し、机の上を見た。
先日こっそりと持って帰ってしまった骨の一部が、そこには置いてある。
憂鬱が寝起きの気分を支配した。
自分がおかしくなっていくような感覚。
どうしても、それを捨てることができなかった。
捨ててしまうと、もっと自分が狂って行くような気がしてならないのだ。
自分の中に唐突に生まれたひずみが、徐々に広がっていくようだ。
しかし、そのひずみの中心の小さな黒い点は、もうずっと昔から埋め込まれていたような気がした。
机の端においてある携帯電話が点滅していた。
留守録を知らせるメッセージ。
手にとって、録音を確かめると、女教師の声が耳に飛び込んできた。
れんげが熱を出して寝込んでしまったので、診察に来てほしいという内容だった。
僕は急いで診察道具を用意して、家を出た。
* * *
旭ヶ丘分校周辺には、医療機関はひとつもない。
言い方は悪いが、そこは限界集落に近いといってもよかった。
一番近い町医者の僕の診療所でも、15キロほど離れている。
いい加減あんな村に住むことをやめればいいのにと思うこともしばしばだった。
だが、ある種の人々は、先祖代々の土地というものから離れられないのだということも知ってはいた。
農地を開墾して暮らしてきた人々は特にそうだ。
人生が、その土地に張り付いてしまっている。
『君だってそうじゃないか』
頭の中に、また声が響いた。
僕?
僕はあんな田舎に固執などしていない。
『いいや、固執しているよ』
また声が響いた。
固執。
固執。
固執。
僕はいったい何に固執しているというのだ?
頭蓋骨の裏側が傷んだような気がした。
息が荒くなっているのがわかった。
舌打ちをして、カーラジオのスイッチを入れた。
ヴァイオリンのコンチェルトが流れ出して、ようやく呼吸が整ってきた。
「固執、固執、固執」
僕は、つぶやきながらハンドルを切った。
父の顔が不意に頭に浮かんだ。
父も医者だった。
深い皺が特徴的な顔をした男だった。
目尻にも皺が多く、皺が彼の表情から感情を覆い隠していた。
彼は、たとえ悲しい結果を患者やその家族に告げるときでも、感情を見せずに伝えることができただろう。
2年前の暮れに死んでしまったとき、葬儀場で、死化粧された顔を見て初めて「こんな顔をした人だったのか」と思ったものだ。
僕は今、確かに、父が残した診療所のあとを継いで田舎の町医者をしている。
でもそれがどうしたというんだ。
「そんなものは固執とは言わない」
独り言をつぶやいた。
違う、とまた声が聞こえたような気がした。
宮内家につくと、女教師が外に立って待っていた。
「先生、早く」
言葉数少なげに言った。
女に案内されて居間の障子を開けると、れんげが小さな布団に包まって眠っていた。
「症状は?」
「さっき計ったときは、熱が37度5分。咳は出ていないんだけど、頭痛がひどいみたいで。痛い痛いって、なかなか眠ってくれなかった」
「わかりました」
改めて体温を測るために、布団をめくった。
れんげは子供用のカラフルなパジャマを着ていた。
かなり汗をかいていた。
れんげのパジャマをはだけさせる。
パジャマは汗を吸い込んで重かった。
脇に手を触れると、熱と湿り気があった。
僕は、タオルでれんげの脇をぬぐった。
れんげは起きなかった。
ただ、汗を拭いてもらったことが気持ちいいのか、少しだけ和らいだ表情を見せた。
僕は、れんげの脇の汗を拭きながら、タオル越しに触れる彼女の骨格を感じた。
大人とはまったく違う、弱々しく細い骨がそこにもあった。
目を少しそらすと、先日と同じ肋骨も見えた。
れんげが苦しそうに呼吸をするたびに、平たい胸部が動き、肋骨が語りかけてくるような気がした。
タオルを床に捨てて、直接その骨の部分に触れたい欲望に駆られた。
……何を馬鹿げたことを。
僕は目を閉じた。
深呼吸して、危うい欲望を消し去るように努め、タオルを強く握りなおした。
確かに、れんげの体温は、37度5分を少し超えていた。
幼い子供にはつらい熱だ。
口内を調べると、扁桃腺が腫れていた。
頓服を飲ませて、しばらく様子を見ることにした。
座布団を用意してくれた女教師に、「ずっと世話を見ていたんでしょう? 僕がいる間だけでも休んでください」と言った。
女教師はひどく感謝して、部屋を離れていった。
遠くの部屋から炊事をする音が聞こえた。
宮内家の居間は、古い家特有のいぐさの匂いがした。
仏壇の沈香の匂いがそこにわずかに混じっていた。
れんげが呼吸をする音だけが、一番近くで聞こえる音だった。
僕は目を閉じて、その音に耳を傾けた。
なぜか、心が休まるような気がした。
僕は目を閉じながら、れんげという少女のことを考えた。
小さく不安定で脆い存在だと思った。
力を入れて握り締めてたら、折ることができそうだ。
そういった感想は、ただ単に幼いからというだけではなかった。
無表情な表情や、唐突に感情的になるところなど、まだ存在そのものがグニャグニャとして定まっていないように感じられた。
彼女自身、自分が何者かわからず、自分自身を定めるために無意識に模索しているように思えた。
その柔らかく、弱いものをもしも、ひねり潰してしまえればどんな快楽だろうという考えが頭をよぎった。
僕は目を開いた。
れんげの呼吸は、かなり落ち着いていた。
無防備に布団に包まり、天井を仰ぐようにして眠っていた。
僕は、ゆっくりとその布団を剥ぎ取った。
布団の中で滞留していた、熱のこもった空気が僕の頬を撫でた。
僕は、れんげの脇腹に手を触れた。
パジャマの布地越しに、ゆっくりと指先で、彼女の骨の形を確かめた。
少女の骨は、滑らかで、芸術的なまでの心地よい指ざわりを僕の脳に感じさせた。
僕は、衝動的に、れんげのパジャマのボタンをはずした。
すべてをはずす勇気はなかった。
上から二つ分のボタンをはずし、首元から、手を差し込んだ。
熱を持った皮膚が、僕の指先に触れた。
まず、鎖骨に触れ、肩甲骨、第一肋骨と移動していく。
やはり、肋骨が僕の一番のお気に入りだった。
れんげのか細く滑らかな丸みを帯びた肋骨を撫でていると、この上もない幸せな気持ちになることができた。
こんな幸せな気持ちを感じたのは、ずっと幼いころ以来だった。
僕は、この20年近く、誰かに対して心を開いたことも、深い幸せを感じたこともなかったのだから。
少女の骨を撫でながら、自分が狂ってしまったのだろうか、と思った。
そう思う分だけの理性は、まだ僕の中に残っていた。
そのことに安堵しつつ、しかし、今の自分の行為は十分に常軌を逸脱しているとも思った。
僕は、れんげの骨に触れながら、それに直接触れてみたいという欲望を感じていた。
深く息をついた。
れんげの肌は、強く掻き毟れば破いてしまうことができそうな気がした。
僕は、自分でも無意識のうちに、爪を立てていた。
そんなことをしても、人間の皮膚を破るなど不可能だというのに。
「んっ」
声。
れんげがうっすらと眼を開けていた。
いまの刺激で、起きてしまったようだ。
僕は息が止まるような心地になった。
「ねぇねぇかと思ったら、いしゃなのん?」
しかし、れんげは、僕の異常な行為には気がつかない様子でつぶやいた。
不審がるどころか、わずかな微笑を口元にうかべて言った。
「ねぇねぇが、体をなでなでしてくれているような夢を見たん。とっても気持ちよかったんなー」
僕は、あいまいな表情を作って、うなづいた。
未だパジャマの内側に差し込まれたままの指を見て、れんげが言った。
「撫でてくれてたの、いしゃだったんな。ありがとなん」
その言葉は、裏表がなかったからこそ、僕の心を刺した。
己の異常な行為を、無邪気に赦されたような気がして、果てしのない羞恥を感じた。
僕はゆるゆると、震えるようにしてパジャマから手を抜き出した。
そして、れんげの服を整えると言った。
「苦しそうでしたので。薬が効いたのでしょう。楽になったようで良かったです」
この期に及んでも、平然とした言葉が自分の口から出てくることに驚いた。
もしかしたら僕は、感情の一部分をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。
* * *
再びれんげが眠ったことを確認してから、部屋を出た。
立て付けの悪い、古い障子戸をあけると、女教師がたずんでいたのでぎょっとした。
この女、いつからそこにいた?
もしも僕の行為を一部始終見ていたとしたら。
そう思うと、のどがからからになるようだった。
僕は女の瞳を覗き込んだ。
女は平然としているように見えた。
「ずいぶん長くいてくれたんだねー」
女が細い目をもっと細めて笑った。
僕は目線をそらした。
女の言葉は、長く部屋にいておかしなことをしていたなという皮肉にも聞こえた。
「あ、いえ」
僕は答えにもならない言葉をつぶやいた。
「謙遜しなくても。先生のお父さんなんて、喉をあーんとさせて薬出したらすぐに帰ってたよ。先生は熱心だ」
「僕が熱心、ですか」
「そう思うよー」
顔を上げて、もう一度女を見た。
女は奇妙な顔をしていた。
輪郭や鼻筋、唇の形はそれぞれ小ぶりで整っているのに、瞳だけがアンバラスに細かった。
それが、まるで何か不都合なことを隠しているような表情に見えた。
れんげとは、似ているようで似ていない。
僕は心の中が沸騰し、いらだっていくのを感じた。
「似ていないんですね」
気がつくとそんな言葉を発していた。
「え?」
女が呼吸するように疑問符をつぶやく。
「僕が父と似ていないんなら、あなたもれんげさんと似ていないと思ったんです」
「あぁ」
女がうなった。
少し戸惑うように口元をゆがませてから、納得するようにうなづいた。
うなったのではなく、肯定だったのか。
「そうだねー。似なかったのかもしれないね。れんげが生まれたころ、大学に行っていて家にいなかったから。一番小さいときに一緒にいる時間が少なかったからね」
今度は僕が言葉に詰まった。
僕はいったい何をしている。
この女に攻撃的な言葉を浴びせてもどうにもならないというのに。
「……帰ります」
僕がつぶやくと、女は小さく手を振った。
立ち去ろうとした僕の背中に、声が聞こえた。
「やっぱり、嫌なやつだね」
* * *
最近、自分が自分でなくなるような感覚がある。
その感覚は、日々強くなっているような気がする。
少し前の自分ならば、先ほどのようないやみを女に向かって言わなかったはずだ。
どうしてしまったのだ、僕は。
いつからこんなにも、感情を揺さぶられるようになってしまった?
いらいらとした。
白衣のポケットに左手を突っ込んだ。
ポケットの奥に、硬い小さなものがあった。
理科室で盗んだ例の烏の骨のかけらだ。
ここ数日は、それを毎日持ち歩くようになっていた。
心を落ち着けるには、それを撫でる以外に方法はなかった。
僕は骨の表面を撫で、息を吐いた。
理科室に放置されていた骨は劣化が進み、表面がざらついていた。
これがれんげの骨だったらよかったのに。
あの子の骨なら、もっと滑らかで美しく、それに触れれば僕の心は深く癒されるだろう。
県道沿いに、唯一のコンビニエンスストアが見えた。
僕はそこで車を止めて、アイスコーヒーをひとつ購入した。
白衣の男が入ってきたので、アルバイトの女は驚いていたようだった。
僕は、アイスコーヒーの缶を手渡しながら、アルバイトの女に向かって「君がもっと驚くものを見せてあげようか」と言いたくてたまらなかった。
その言葉とともに、ポケットの中の骨を投げつけてやるのだ。
きっとアルバイトの女は腰を抜かすだろう。
いいや、そんなことは僕は絶対にしない。
この骨は僕の大切なものだ。
これを手放したりはしない。
いや、しかし、もしもれんげの骨が手に入ったら、こんな鳥の骨なんて手放してもかまわないかもしれない。
僕は車をコンビニの駐車場に止めたまま、ベンチに座ってアイスコーヒーを飲んだ。
冷たい刺激が口の中を潤した瞬間、不意に意識が安定したような感覚にとらわれた。
れんげの骨を手に入れたい?
いったい僕は、何を考えていたんだ?
自分が先ほどまで脳内で繰りひろげていた妄想が信じられなかった。
僕は、アイスコーヒーをもっと口に含んだ。
そうすれば少しでも沸騰した感情が冷えて沈静するのではないかと思った。
だが、僕の左手は、ポケットに突っ込まれたままだった。
鳥の骨のかけらを撫でることをやめることができなかった。
* * *
家に帰ると、珍しく酒を飲んだ。
酔いはすぐに回ってきた。
酔いが回ると、思考はとりとめがなくなっていった。
熱を帯びた頬は、赤くなっていることだろう。
頭がぼんやりとして、僕は机の上に置いていた安ウィスキーの瓶を見つめ続けた。
そこには、酒の内容を明示したラベルが貼られているはずだが、文字列は何一つ頭に入ってこなかった。
だが、そうなることこそが今僕が望んでいることだ。
れんげについて繰り広げ続けている己の危うい妄想を忘れ去りたい。
そのためには酩酊するより他になかった。
アルコールの作用が自分の中の欲望を鈍らせ、押さえ込んでくれることを願い、飲み続けた。
* * *
記憶の奥底に、強い光が見えた。
目を凝らすと、それは光ではなく炎だった。
四角い石の箱の中で燃えさかる炎。
それは、何もかもを焼き尽くす炎だった。
火葬炉の炎だ。
人の肉を焼き、骨だけへと帰するための炎。
全自動式の火葬炉が、機械音を立てながら僕たちの眼前へと戻ってきた。
僕や父・母は、それを覗き込む。
そこには、たくさんの灰と、焼かれてからからに渇いた小さな骨があった。
これが骨?と僕は首を傾げた。
その骨は、所々黒くこげていたし、水分を奪われてスポンジのようになっているように見えた。
父の診療室においてある骨の標本のつるりとした滑らかさとはまったく違っていた。
マスクをした、目つきの悪い男が言った。
「それでは、これからお骨上げを行わせていただきます」
感情の希薄な声だった。
同じ作業を続けているうちに、その作業に対する感情を失ってしまったような声だった。
マスクのせいで顔の全部は見えなかったが、男は40代ぐらいに見えた。
彼はどうしてこのような職業を選んだのだろう。
もう何十年も続けているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、男は滑らかな動作で、長い箸を使って骨を拾いはじめた。
「これは、足の親指の骨です」
男はいちいち説明しながら、その小さな骨をつまみ上げた。
無駄のない動作だった。
骨が大きすぎるときは、容赦なくつついて骨を砕いた。
からからに乾いた骨は、いとも簡単に崩れ、かけらになった。
しばらくすると、骨壷はすぐにいっぱいになった。
「喉仏の骨は、ご家族で骨上げをしてください」
男が僕たちを見て言った。
目がぎょろりとしていて、少し怖かった。
父が、僕を見て言った。
「けい君、一緒にやるか」
〝けい君〟
その呼び方はひどく懐かしかった。
僕の好きな呼び名だった。
〝君〟という響きがなんとも優しくて好きだった。
それは、ある時期まで父が僕を呼ぶときに使っていた呼び方だった。
この少し後から父は、恵一と僕を呼び捨てるようになった。
父の大きな手が、僕の手を握った。
二人で一緒に箸を持った。
火葬炉を覗こうとしたのだが、それは大きくて、僕の背丈では覗き込めなかった。
僕の体はとても小さくなっていた。
父が、僕の体を抱き上げる。
上空から見下ろすような格好で、火葬炉の灰の中の小さな骨が見えた。
それは、6歳で死んだ、僕の妹の骨だった。
* * *
僕の骨への固執は、思えばあの時から始まっていたのかもしれない。
火葬場で妹の骨を見たとき、それが現実だとは思えなかった。
元気で闊達だった妹が、思わぬ病に冒されて死んでしまうと、あのような干からびた骨になった。
そのことが僕は悔しかったのかもしれない。
一方で、あの時目にした骨が、いびつで、醜かったがゆえに強烈に心に残ったとも言える。
標本や、理科の教科書に載っている骨とは違う、本物の骨のその焼かれた無残な姿。
その存在に宿る残酷さや不条理さに、どうしようもないほどに惹かれたのかもしれない。
惹かれ始めると、それは醜いものだとは思えなくなっていった。
からからに乾いた妹の骨の記憶は、いつしか僕の頭の中で、美しく崇高なものへと変わっていった。
美しい骨。
僕は、もう一度、そのような骨を見たいと考えるようになった。
最初は、たとえば夕食の手羽先の骨を興味深く眺めていたという程度だったが、どうにも自分が求めているものは違うと感じ始めた。
やがては生きている生物の骨を見たいという欲に駆られだした。
ある日僕は、耐えきれなくなり、公園の野良猫を捕らえ、そいつをぶち殺し、メスで解体した。
道具は父の診療所から盗めば、いくらでもあった。
公園のそばの雑木林の奥の使われていないバラック小屋が、僕の手術室になった。
手ごろな石で猫の頭をつぶして殺し、肉を切り裂く。
猫の薄い皮膚は、切るとすぐに骨に到達した。
その骨は、つるりとしていて、焼かれた妹の干からびた骨とは違っていた。
僕はがっかりとした。
こんなものが見たいのではない、と思った。
そう思う自分が怖かった。
僕は、何を求めているのだろう?
幼い僕には、自分の欲望の根源が何であるのか分からなかった。
僕はまさか、人の骨に固執しているのか?
そう考えるとゾッとした。
ただ単に骨に固執するだけならば良い。
小動物の骨で代替えがきくからだ。
しかしもしも、僕は、人間の骨を見ることでしか心の充足が得られないのだとしたら?
いつか僕は人を殺したくなるかもしれない。
殺人鬼にはなりたくなかった。
暴力的な欲望が内面から沸き立つ一方で、そのような自分にとまどい、否定したいという強い気持ちがあった。
妹の骨を見て以来、徐々に変わっていく自分が恐ろしかったのだ。
僕は子供なりに様々に考え、「焼けた骨が見たいだけではないか」という推論を出した。
それならば、小動物で事足りる。
翌日、ライターを持ってきて、骨をあぶってみた。
だが火葬炉の高温と違い、ライターなどで骨を焼くことはできるはずがなかった。
僕はそのようなこともわからない、幼い子供だったのだ。
火を使ったことで、異臭が漂ってしまった。
僕の「異常な行動」は大人に見つかり、僕は精神病院へと通院することになった。
このとき僕は小学4年生だった。
僕を見る父親の目を、よく覚えている。
僕は優秀な子供だった。
プライドが高かったし、父に褒められることが好きだった。
「優秀だったはずのお前が、急に壊れてしまった」
父親の目は、そのように語りかけているように見えた。
そのことは、僕の自尊心をひどく傷つけた。
自分に唐突に落伍者の烙印をつけられたようだった。
僕はまるで、妹の骨を見たあの日から、妹に呪いをかけられたような気分がした。
真夜中に布団にくるまり、僕は死んだ妹に幾度も謝罪した。
妹に病気が見つかるすこし前、彼女が欲しがっていたオヤツを独り占めしたことがあった。
それで僕に恨みを持っていたのかもしれない。
* * *
父の知人の精神科医の女は、僕をまるで哀れな子供のように扱った。
彼女は、僕を一週間に一度、診療室へと出向かせ、箱庭を作らせた。
人形やミニチュアを好きなように並べろというので、僕は好きに並べた。
人形をいくつも積み重ね、あたりには木々を配置してみた。
「これは何?」
彼女が問いかける。
その声は、作り物のように柔らかかった。
「人が折り重なって死んでいるんです」
「どうして?」
彼女の目は優しそうで、しかし、そのことが僕をイラつかせた。
「さぁ? 一酸化炭素中毒じゃないですか?」
理由なんてどうでもよかったのだが、なぜか、呼吸困難になり死んでいるほうが心地よいなと感じたのでそう言った。
おそらく僕は、火事を想定していたのだろう。
燃えるということにも固執があったのかも知れない。
大体において僕は、人形が死んでいる状況の箱庭を作った。
わざとではない。
自然にそういうものを作ってしまうのだった。
「これを作って、楽しい?」
そのたびごとに彼女はそう問いかけた。
「べつに」
僕もいつも同じ言葉を答えた。
「楽しいも楽しくないもありません。ただ、こうしたくなるから、そのとおりにやっているだけです」
嘘ではない。
ただ僕は、そのような状況を作りたくなるだけなのだった。
精神科医は、何も結論を言わない女だった。
ただじっと僕の話に耳を傾け、時折短い質問をするだけ。
彼女が何を考えているのか、わからなかった。
ただ、僕のことを勝手に決め付けるなよ、その頭の中で、とは思っていた。
「君は、生物の死に興味があるのかな?」
一度だけ、精神科医が踏み込んだことを聞いたことがあった。
僕は、口をあんぐりとあけて彼女の顔を見た。
どうしてそのような馬鹿なことを問いかけるのか、わからなかったからだ。
「いいえ」
僕は首を振った。
すると精神科医は、残念そうな表情をしたように見えた。
得たかった答えと違っていたのかもしれない。
「死には興味がありませんよ」
それは事実であるはずだった。
「では、なぜそのような状況の箱庭ばかり作ろうとするの?」
「それは単に作りたいからです。あなたが好きなように作れと言ったからです。作れといわれたら作ったということと、それに興味があるかは違います」
それから、僕はつぶやいた。
「こんな人形並べたって面白くありませんよ。人形は人じゃないし。プラスチックの奥に、血も骨格も何もない」
僕の言葉に、彼女は真剣な顔で耳を傾けていた。
「それから。僕をおかしな子供を見るような目で見るのはやめてください。僕は、何一つおかしくない」
それは僕の偽らざる気持ちだった。
僕は、自分が狂人であるかのように扱われることが不快でならなかったのだ。
* * *
そこから先の記憶は、ところどころ曖昧としている。
僕は、何年もにわたり通院を続けた。
いつの間にか僕は、人が死ぬ箱庭を造らなくなっていった。
キッカケはよく覚えていないが、思春期の子供は、成長とともに人格が変わることがあるが、僕はまさにそうだったのだろう。
骨のことも、次第に考えなくなっていった。
ある日の通院時、病院の窓越しにぽかぽかとした午後の日差しを眺めていると、ふと、骨のことを忘れていたことに気づいた。
ある時期までは、片時もなく骨のことを考えていたというのに。
いったい僕は、いつから忘れていたのだろう。
そのことに、気がついた時、僕は歓喜した。
己を超克したのだと思った。
妹の骨の呪いから逃げられたのだと思った。
しかしひとつ、記憶の中ではっきりと形を伴って覚えている嫌な出来事がある。
それは、例の精神科医の女に投げかけられた言葉だった。
患者に向かって言うにはあまりにもセンシティブな言葉だ。
だが、彼女は僕にはっきりとこう言った。
「君は、まだ心に傷を負っている」
その言葉を吐かれた時、僕は、ぼんやりと病院のベンチに座っていた。
その日は通院の終わりの日で、費用の支払いをしている父を待っていたのだ。
「え?」
僕は怪訝な表情で精神科医を見た。
その女がなぜ、そんな暴言を吐いたのかが理解できなかった。
僕は言った。
「患者に向かってそんな言葉、いいんですか? 僕が院長に言ったら、大変なことになりますよ」
「いま、何を見ていたの?」
女の問いかけに、僕は己の視線の先を辿った。
僕の視線の先には、鳥がいた。
カラスか何か、ありふれた汚い鳥だった。
その鳥は死んでいた。
羽に深い傷があった。
どこかで車にでもはねられて、ここまで逃げてきたが、力尽きたのだろうか。
「いや、僕は」
そんなもの、見ていなかった。
いま初めて認識したのだから。
そう言うと、女は悲しげに首をふった。
「ううん。ずっと見ていたよ。まるで意識をなくしたトランス状態みたいだった。お父さんは早くこんな生活から抜け出したいみたいだったけど、やっぱり君は、まだ」
ふざけるな!
僕は叫んだ。
やっと〝治った〟僕をお前は陥れようとしているんだ!
僕は、狂ってなどいない!
見返してやる!
患者を診る側になって、僕を狂人扱いしたお前らを見返してやる!
歯をむき出して叫ぶ僕を、女はじっと見ていた。
* * *
こんこん、と扉がたたかれた。
診療所ではなく、自宅の扉を叩かれることは稀だった。
いったい誰が来たのかといぶかしんで扉を開けると、女教師と、彼女に手を引かれたれんげがいた。
「やぁ」
女教師が手をひらひらとさせた。
「どうして、ここに?」
「いやなに、買いだしてでちょっと町のほうに来たんだけどねー。れんげが先生に会いたいって言って聞かないもんだからさ」
言葉を継ぐようにれんげが両手を振り上げる。
「いしゃのおかげで病気、治ったーん!! お礼いいにきたんなー!!」
両手をぐるぐると回して意気込む。
「ま、ちょっと遊んであげてよ。ずいぶん先生のこと気に入っちゃったみたいだから」
「え、えぇ」
僕は頷いた。
女教師はこのあとすぐ用事があるらしく、僕がれんげを車で家に帰すことになった。
ふたりっきりになると、れんげはしおらしくなった。
さっきまでのはしゃぎようが嘘のようだ。
子供特有の、唐突に変わる態度に僕は苦笑した。
「どうしたんです、れんげさん。急におとなしくなってしまって」
僕がそう言うと、おづおづとれんげが問いかけてくる。
「あんなー、ウチ、いしゃのおひざの上に乗りたいん」
「いいですよ」
肯定の言葉を受け取ると、ぽすんとれんげが僕の膝の上に乗った。
6歳の子供の、軽い体重に覚えがあった。
それは、遠い昔に死んだ6歳の妹の体重の感覚だった。
僕は首を振った。
違う。
そんなはずがない。
あのころは僕も小学生だったのだ。
大人の僕が、今受け止めているれんげの体重が、それを連想させるはずがない。
それにそもそも、れんげは妹と、まったく似ていないではないか。
それは事実そのとおりだった。
連想させるには、二人はあまりにも似ていない。
話し方、声、容姿。
すべてが似ていないのだ。
だからこれは、僕自身が乗り越えるべき試練なのだ。
頭の中にそんな言葉が響いた。
僕は、あの頃の僕ではない。
僕は今、34歳になり、「まともな大人」として自立している。
誰にも、この僕を再び狂人だなどと言わせはしない。
精神に傷を負っているなどと。
「あんな、あんな、いしゃ! いしゃ! この間のいしゃ、すごかったんなー」
気がつくと、僕の膝の上でれんげが一生懸命、身振りを交えて話しかけていた。
一度膝の上に乗ってしまうと、しおらしい態度はどこかへ消えてしまったらしい。
「すごいって何がです?」
僕は極力優しい声を出した。
出してから、あのときの精神科医の声のようだと思った。
「ウチが病気だったん、すぐに治してくれたん!」
あぁ、そんなことか。
僕は苦笑した。
たいしたことはしていない。
熱さましや痛み止めを調合した頓服を飲ませて、しばらく様子を見ていただけだ。
それどころか僕は……。
「いしゃ、天才なん」
れんげが、小さなつむじを僕の体に擦り付けてきた。
なんとなく、この子供を愛おしいと思った。
自然に手が、少女のつむじに触れた。
その小さな頭骨を、ゆっくりとなでた。
「なぁなぁ、いしゃ」
「ん?」
「お礼のプレゼント、用意しましたん」
れんげがそう言って、ポケットをまさぐる。
「受け取ってくれますん?」
「もちろんです」
僕は頷いた。
ポケットから少女が取り出したものは小さな骨だった。
「ウチの宝物なん! ほんとはあげたくないけど、いしゃは特別なんな!」
「え、と」
僕は言葉に詰まった。
「これな! 裏のお山で拾ったん! 学校に持っていったら、展示してくれるん。でもな、いしゃにあげるん!」
一瞬、頭が真っ白になったが、その言葉にようやく、現実感が戻ってきた。
それはなんてことのない、小動物の骨のかけらだった。
そうだ、ただの小動物の骨のかけらだ。
旭丘分校の理科室で見たじゃないか。
授業の一環で、こういうのを拾ってくると展示してくれるんだ。
れんげはそれを拾ってきたに過ぎない。
しかし、小さな手のひらにちょこんと乗った白い骨を見ると、僕の中の衝動は、まるで脈打つ心臓のように鼓動を始めた。
「それを、僕にくれるのですか?」
れんげは頷いた。
「進呈しますん!」
すばらしいものを手渡すように、僕の手のひらに、小さな骨のかけらを移動させた。
僕はそれを受け取ると、ぎゅっと強く握り、感触を確かめた。
脳が沸き立つようだった。
ポケットの中に移動させると、もともとポケットに入っていた烏の骨のかけらと、新しい骨が、かつんとぶつかる音がした。
僕は、ポケットの中でぶつかり合った二つの骨をまとめて握りポケットから手を出した。
なぜそうしたのかわからないのだが、れんげの前で、手のひらを開いた。
二つの骨が、仲のよいつがいの様に僕の手のひらにあった。
「あれ!? 2つになってるーん!!」
れんげが興奮したように言った。
「手品なん!?」
「違います。もともと、僕も持ってたんです」
言葉が自然に口から出た。
「いしゃも持ってたんな? いしゃ、骨、好きなん?」
無邪気な問いかけ。
僕は、否定しなかった。
「えぇ、好きですよ」
その言葉は、精神科医にも、父親にも、看護婦にも言えなかった言葉だった。
そのような己の禁忌に属する言葉が、するりと出てきたことに驚いた。
そして、言葉にしてしまうと、とめどない欲望が大きな流れのように精神を満たしだした。
僕は、骨を握り締めていないほうの手で、れんげの体に触れた。
やめなければならない。
わかっているのに、僕は、少女の体をまさぐり、薄い皮膚越しに、骨に触れようとする。
少女はそんなことはわからず、くすぐったそうに笑った。
楽しそうだった。
「骨、他にもいっぱいあったん!」
笑いながら少女が言った。
「内緒の場所だけど、いしゃにだけ教えてもいいん。いしゃが好きなら、もっと取りにいくん!」
その言葉に僕は手を離した。
このままではまずいということが本能的にわかっていた。
僕は、れんげの骨に触れたがっている。
このまま、もしかすると、あのときの猫のように僕は、れんげにおかしなことをしてしまうかもしれない。
それだけはやめねばならない。
そのためには、もっと。
他の骨で充足せねば。
酔いが回ったときに近い状態の脳が、そんな思考をとめどなく垂れ流す。
僕は、頷いた。
「車で家まで送るついでに、裏の山に一緒に行きましょうか」
* * *
れんげの家の裏庭に車を止め、僕たちは山を登った。
その山は、宮内家の所有物らしい。
田舎にはよくある話だ。
子供が上るには少し険しい斜面だったが、れんげはひょいひょいと登っていく。
普段からこういう場所で遊びなれている証拠だった。
「ここなんな」
れんげが指差す先に、小さなくぼみがあった。
覗き込むと、小動物の骨があった。
くぼみに落ちて、這い上がれず、そのまま死んだのだろう。
大きさからして、いたちか何かだろうか。
「むこうがわに、もっと大きいのあるん!」
僕が夢中になって覗き込んでいたからだろう。
褒めてほしいとでも言うように、れんげが叫んだ。
その様子が実に可愛らしくて、僕は深い愛おしさを感じた。
「どこにあるんですか?」
「あっちなん!」
れんげが、少しはなれた場所を指差した。
「いしゃ! 大きい骨、見たいん? 見たいん?」
興奮したように問いかけてくる。
僕が頷くと、
「ウチ、とってくるん!」
そう叫んで走り出した。
子供特有のおかしな雄たけびを上げて、斜面を駆け上る。
その姿が、唐突に消えた。
「え?」
僕は驚いて、後に続いた。
見ると、斜面の先が崖になっていた。
数日前に土砂降りの日があった。
やわらかい土が崩れたのかもしれない。
崖を覗き込むと、れんげの姿があった。
屈葬のような形で崖の下にうずくまっている。
ぴく、ぴく、と動いているのがわかった。
崖はそれほど高い崖ではなかった。
この高さからならば生きている。
僕はあわてて崖を滑り降りた。
「れんげさん!」
少女の名を呼び、駆けつけると、苦しげにうめきながら倒れこんでいる姿が見えた。
少女のすぐそばに、大きな石があった。
石の表面に鮮血がこびりついていた。
僕は、息を呑んだ。
この石に当たったのか。
打ち所が悪ければ、まずい状態かもしれない。
救いたい。
心の底からそう思った。
この少女を、僕は救わねばならない。
それは、少女を愛しく思っているというだけの理由ではなかった。
今はもうはっきりとわかっていた。
これは僕自身の克服だった。
あの、狂人呼ばわりされた幼い日からの克服。
再び芽生えた、狂人じみた欲望の克服。
僕は、そうだ――。
やはり、あの、妹の骨を見た日、それを美しいと思ってしまったのだ。
かわいらしかった妹が、無残に焼かれ、からからになった小さな骨を見たとき。
その矛盾にとてつもなく心惹かれていたのだ。
その事実を否定したくて僕は、ずっとおかしくなってしまっていたのかもしれない。
だから、これは僕への運命の試練だ。
僕は、今度こそ、死を否定して、人を助けねばならない。
ゆっくりと、傷口が開かないように、れんげの体を仰向けにした。
この場でできる応急処置をして、すぐに病院に運ばなければならない。
それをすることで、僕自身も救われるのだ。
れんげの白いTシャツの右側が、血で真っ赤に染まっていた。
Tシャツは、石によって破れ、激しく殴打した部分の肌が露出していた。
僕は息を呑んだ。
少女の薄い皮膚は、硬い石によって破られていた。
流れ出る鮮血の下に、白いあばら骨がわずかに露出していた。
早く、助けなければならない。
僕は、何度も口の中でその言葉を繰り返した。
しかし言葉は、音声にはならなかった。
僕は、震えるように、手を差し出した。
触れたくても触れることができなかった少女の骨に、指先が触れた。
(終)
いかがでしたでしょうか?
叱咤激励のお言葉をいただけますと幸いです。