『なあ、麻雀打ってて一番気持ち良い点数申告ってなんやと思う?』
かつての記憶が、ふと甦った。
くたびれた校舎。二階の窓辺。差し込む夕日と、がらがらやかましい自動卓の洗牌の音。
小汚くて少し埃っぽい雀卓のあるこの場所は、きっと今でも四人にとって一番大切な場所。
安っぽい粗悪なリクライニングチェアにぎしぎしと悲鳴を上げさせて、天井を見上げたセーラがぼやくように呟いた。
僅差のラスをなんとか縮めようと、丁寧に育てた高目倍満の宣言牌で、親のトリプルにダイビングした直後のことだった。
そのトリプルを和了した女が、読んでいた漫画から目線を上げ、ドヤ顔で言い放つ。
「流局で1000オール」
「洋榎あんた変態ね……」
間髪入れずに一人聴牌が快感と言ってのけた洋榎に、やえがジト目を向ける。
「そこまで言うんやったらやえは何が好きなんや?」
「そうねえ……相手からむしりとれるなら何点でもいいわね」
「回答が物騒だよやえ……」
なかなかえげつない発想のやえも、大概だった。
「セーラはどうなのよ」
「そりゃあ32000やろ!一番気持ち良いやんか!」
自動卓の上に乗っていた牌を一つ掴んで、心地いい音を響かせてツモる動作をしながら、セーラがそう答えた。
確かに、セーラが一番その点数申告をしている回数が多い。
「セーラらしいわね……多恵はどうなのよ」
買ってきていたペットボトルのお茶を飲みながら会話を聞いていた多恵に、やえが振り向く。
キャップを丁寧に締めながら、多恵は少しうつむきがちに答えた。
「点数かあ……12000が嬉しいかな」
「なんやあ。夢がないなあ多恵」
多恵の控えめの点数申告に、3人とも少し驚く。
そんな3人の反応に、片手で頭をかきながら、多恵が恥ずかしそうに、だって、と言葉を続ける。
「32000……って、言ったことないんだよね」
2度の人生で1度も。と、多恵は心の中で付け加えた。
会場は、異様な熱気に包まれていた。
長かった先鋒戦も、いよいよ大詰め。
あまりにも大きなことが起こりすぎたからか、まだ先鋒戦にも関わらず、喉を枯らしている人まで見受けられる。
『長かった……時間にしてみればさほどですが、濃密すぎてあまりにも長く感じる先鋒戦は、ついに後半戦のオーラスを迎えます……!』
『ついに……だねい。でもすぐ終わるとは限らないよ。こんな状況になってしまった以上、晩成は連荘できるところまでするんじゃねえの?』
咏の指摘はもっともだった。現在、完全にやえの一人浮き状態。この状況なら、連荘で点数を伸ばしにいくことは容易に想像ができる。
この小走やえという王者はそういう打ち手だ。
『長年の強敵、姫松の倉橋がいても……それは変わりませんか』
『いやあー知らんし!……けどま……、逆に言えば、倉橋が連荘を許すとは、思えないけどねい?』
咏が、目を細めてモニターの先にいる多恵を見つめる。
晩成以外の状況は絶望的。とにかく最少失点で次につなげるしかないといった状況。
なのに。
(何か起きそうな気がするねい……)
咏はそう思わずには、いられなかった。
姫松高校控室。
「そ、そんな……多恵先輩が三面張で負けるなんて……」
「完全にやえちゃんの一人浮きなのよ~……」
絶望的な親流しをされ、モニターから最前列で見ている漫と由子が嘆いている。
多恵がどこまで理解しているかはわからないが、観戦者視点から見れば、南3局の勝負の待ちの枚数は、8-1で多恵の7枚有利だったのだ。
麻雀とは恐ろしいゲームで、重要なのは残りが何枚あるかではなく、残りの牌がどこの山にいるか、なのだ。
とはいえ、確率的には枚数有利なほうが当然勝ちやすいわけで。
見ている側は到底納得できるものではない。
「……やえ……完全に仕上がっとんな」
洋榎も、厳しい表情で局面を見つめている。
「なんでや……!!多恵は最適解を踏んでるはずや……!」
恭子だって、この怒りがどこに向けたって意味のないものであることは理解している。
麻雀とはそういうゲームで、自分だっていつもそういった理不尽に振り回されてきた。
でも、自分は誰よりもこの3年間彼女が努力してきたことを知っている。
誰よりも麻雀に真摯に向き合ってきたことを知っている。
だからこそ、やるせない、恭子はそんな感情に襲われていた。
そんな時。
「あっ!善野監督なのよ~!」
「?!」
由子の声に、反射的にモニターを見る恭子。
オーラスを迎えるというこの状況の中、一時的に映った善野監督。
おそらく、視聴者向けに、多恵をスカウトした監督の様子、ということで写したのだろう。
その画面に映る善野監督の表情は、とても柔らかかった。
「善野監督……!」
恭子が、少し目を丸くする。
こんな厳しい状況にあって、善野監督は何故あれだけ落ち着いた表情をしていられたのか。
恭子の思考が止まる中、洋榎が、椅子に座りながら足を組みなおした。
「恭子、由子、漫、このオーラスが終わって、多恵がそこまで点差を縮められなかったら……一局だけ打つで」
洋榎の言葉に、控室にいた全員が驚いた表情で椅子に座る洋榎の方を向く。
確かに、この控室に麻雀卓は備え付けられている。麻雀を打つことは可能だ。
しかし、先鋒戦から次鋒戦までの時間は短い。なのに何故今なのか。
洋榎が、静かに一つ、息をついた。
「焦ってもしゃーないんや。焦って前のめりになれば、必ずボロが出る。フォームは崩さずいこうや。そうやっとるだけで、ウチらはまあ、負けん」
「主将……」
洋榎のこの状況でも落ち着いた判断に、全員がうなずく。
多恵に頼ってばかりではいられない。自分たちが多恵を助けるくらいのつもりでいなければならないのだ。
姫松の全員が、覚悟を決める。
「それも大事やけど〜、まだ多恵ちゃん、終わってへんよ~?」
赤阪監督代行も、珍しく目をしっかりと開いてモニターを見つめる。
「せや!多恵!やったれ……!!」
「多恵ちゃんごーごーなのよ~!」
「多恵先輩!ファイトです!!」
そうだ、まだ、終わっちゃいない。
次を考えるのは、半荘が終わってからでいい。
「多恵。やえにやられっぱなしは、気に食わんやろ。それに……」
洋榎がニヤリと口角を上げる。
「やえを良い気にさせんのは、ウチとセーラが、許さへんで?」
南4局 親 やえ ドラ{北}
ガラガラガラ、と、自動卓が音を鳴らす。
それはオーラスだろうが、東発だろうが、変わらない。
どんなことがあっても、手牌は上がってくる。
なら、やるべきことは一つ。
長い半荘は、ついに終わりを迎えようとしていた。
やえ 配牌
{④赤⑤⑦22349三四六七東南}
やえが、配牌を眺めるより先に、上家に座る多恵へと目をやった。
良く知る親友は、今は強敵となって前に立ちふさがっている。
(今日だけは、勝たせてもらうわよ。多恵)
勢いよく{南}から切り出す。
点差はある。が、油断はできない。この半荘は絶対に譲れない。
自分は諦めかけた。
それでも、後輩達が切り開いてくれた。
自分を信じてついてきてくれた後輩達のためにも、この一戦は、負けられない。
例え、相手が一番の
多恵 配牌
{①③8一一二四六七九九西北} ツモ{北}
多恵が第一ツモを手牌に乗せる。
『倉橋の配牌……ドラで自風の{北}が対子になりました!最後の反撃はなるのか……!』
『……他の形が悪いねい……鳴いていっても跳満は狙えそうだけど……』
高打点の種はできている。
しかし、面前でこの手を進められるのか。
(……面前混一……いや、対々和つけて倍満……)
多恵の頭の中で、様々な完成形がかけめぐる。
{北}がポンできれば、対々和までつけて倍満の未来は見えなくはない。
しかしこのメンツが、簡単に鳴かせてくれるとは思えない。
白望や優希だって、ある程度の打点は狙ってくるだろう。
南3局であまりにも痛いツモを食らい、それ以降、頭痛がやまない多恵。
それでも、多恵は前を向く。牌を握る。
どんな世界でも。それだけは変わらない。
7巡目 多恵 手牌
{一一二三四六七八九九西北北} ツモ{一}
『倉橋選手、聴牌……!後がないこの状況で、聴牌を入れました……!』
『……ダマで{九}の方の出和了りだと、満貫止まりだねい……さあ、どうするよ姫松の騎士……!』
立直を打たなければ、出和了りしても安目で満貫しかない聴牌。
しかし、多恵はこの手では立直を打たない。{西}を縦に切る。
今優先するべきはそこではない。
手代わりが、ある。
まだ、広くなる。
自身のこの世界での麻雀を、信じる。
多恵の手に、わずかに炎が燈った。
『ダマを選択しました倉橋選手!まだ手代わりを待っていますね……三尋木プロ?』
冷静に解説を続ける針生アナの隣で。
咏が椅子から立ち上がって画面を眺めた。
『聞いたことがある……麻雀を誰よりも愛した者が、正しい道をたどると、炎が燈る、と……』
針生アナが首をかしげる。
咏が聞いた話。咏自身には縁がなかった。元から牌に愛されていたから。
では、そうでない者は?
愛されない者は積み重ねるしかないのだ。
自分の、麻雀にかけてきた時間の、全てを。
一つ、また一つ、地道に積み重ねる。
牌効率、手組み、押し引き、局収支、リーチ判断、鳴き判断、手牌読み、速度読み、牌姿理解。
その全てが今。
灯りとなり、火を燈す。
やえ 手牌
{③④赤⑤⑦2234赤5三四六七} ツモ{五}
聴牌。それも3面張。
(多恵は萬子の清一色に向かってる。なら……!)
やえは多恵の手出しを見て、清一色に向かっていることを理解していた。多恵の清一色は手変わることが多い。だからこそ、余るであろう萬子で、仕留める。
やえは静かに、{⑦}を河に放った。
多恵がまた、山に手を伸ばす。
多恵 手牌
{一一一二三四六七八九九北北} ツモ{五}
また、炎が燈った。
(絶好の手代わり。{九}を切れば、待ちは{一四七北}で、{一}なら一気通貫。{北}なら役とドラ……けど)
多恵が瞬時に河を見渡す。
残念ながら{一}は先に河に切られていて、もう無い。
(ドラの{北}も、手を作っている小瀬川さんか片岡さんの手牌の中に組み込まれていると思ったほうがいい)
なら。
多恵は今まで使ってきた全ての知識を総動員させている。
『絶好の聴牌……!三尋木プロ、倉橋選手聴牌!{九}を切ってリーチすれば、{北}でツモって倍満です!!……リーチですかね?』
『……倍満って、親と何点縮まるか知ってる?』
『え?……16000で、8000だから……24000点差縮まりますよね?』
『じゃあ、今の姫松と晩成の点差は?』
『……!……47200……です。しかし、点差はかなり縮まりますし、2着で良しとするかも……』
『……2着で良しとする打ち手かどうかは、打牌を見ればわかるよ』
咏の言葉が言い終わるより少し早く。
多恵は手牌の{北}を切り出した。
『聴牌拒否……!倉橋選手ここにきてまだ聴牌を崩します……!!』
歓声が上がる。
会場の声援が、多恵を後押しする。
その姿に、もう、過去のプロ雀士倉橋は重ならない。
華がなく、応援されなかった雀士はそこにいない。
数多の応援が、今の多恵を支えている。
だからこそ、多恵の頭は思考を止めない。
止まるわけには、いかない。
(この手形なら、鳴く牌は無い。{九}だけ形上はポンすれば{二三五六八九}待ちになるし、鳴きたいところだけど打点が足りない。それくらいなら今さっきの手でリーチしたほうがマシ。この手は、必ず面前清一色で和了る)
萬子の形が良い。なにより、この形なら萬子なにを引いてもとりあえず聴牌になることが大きい。
今はとにかく、高い和了りへ。
白望 手牌
{1123366北北白白発発} ツモ{⑧}
白望の、手が止まる。
多恵の河を眺めた。
多恵 河
{①③8中⑨西}
{1北}
({北}の……手出し……?自風で、ドラの牌を切ったってことは、聴牌でもおかしくない……)
白望は少し考えてから{⑧}を切り出した。
自身も、ツモれば倍満の聴牌だ。
引きたくはない。
静かに、多恵が山に手を伸ばす。
この世界に来てから、多恵は何故か多面張で聴牌することが多くなった。
牌を愛し続けた雀士が、少しずつ、牌に愛され始めている。
炎が、燈った。
多恵 手牌
{一一一二三四五六七八九九北} ツモ{九}
(来た……!これなら一番待ちが広い絶好のツモ……!待ちは{一二三四五六七八}…………{九}…………って……)
瞬間的に。
手が、震え出す。
理解が追いついたから。
心臓が、痛いほど暴れ出した。
(……違うか。これ)
多恵が{北}を切る。
明確な{北}の対子落としに、対面に座っている優希が目を細めた。
優希 手牌
{②②③③④④⑤⑥⑨⑨南南南} ツモ{二}
(自風でドラの{北}の対子落としだと……?!もう……もう萬子は切れない……!)
今きた{二}を睨みつけながら、グッとこらえて優希は{⑨}を切り出す。
経験が活きている。
自分の手に溺れなかった優希の選択は、正解だった。
優希の手出し{⑨}を見て、オリたのを察したやえ。
多恵の河を見る。
多恵 河
{①③8中⑨西}
{1北北}
ドラで、自風の{北}の対子落とし。
いずれも手出しだ。
強烈な違和感が、やえを襲う。
反射的に、多恵の方を見やる。
その手が。
ひどく震えていた。
その様子を見て、ゾクり、と、やえの背中を悪寒が走る。
麻雀が、好きだった。
どんなに辛いことがあっても、理不尽に見舞われても、麻雀だけはやめようとは思わなかった。
麻雀を、深く愛する心。
強い信念を持つ打ち手に、牌は応える。
持ち続けた信念は、「麻雀を心から愛する」ということ1つだけ。
その貫き続けた信念は今。
その心に、牌に、灯を燈した。
暗かった対局室に、灯りが燈る。
卓を囲むように、眩しく輝く宝剣が、
――――宝剣の燈火よ。九つ連なりて、その道を示せ。
多恵の周りに、道を照らす火が燈った。
その姿は、ただただ神々しく。
「ツモ」
多恵 手牌
{一一一二三四五六七八九九九} ツモ{赤五}
―――かの光を見よ。かの光こそ、麻雀を愛せし者の光。
―――九つ連なる宝剣の燈火なり。
(ああ、これだから、麻雀は、麻雀だけは、わからない。)
驚愕に目を見開くやえの前。
静かに多恵が顔を上げる。
「……8000……16000」
点数申告をした声と、手牌を倒した手は、いずれも、ひどく震えていた。
かっこ良い和了り方とは、言い難いかもしれない。
何よりも。
誰よりも麻雀を愛し続けた打ち手の目に、ほんのわずかに涙が浮かんでいたこと。
割れんばかりの大歓声が、会場を貫いた。
先鋒戦 最終結果
清澄 78900
宮守 77100
姫松 122400
晩成 121600