日が落ちても、夏の夜は蒸し暑い。
東京の夜は明るく、どうやら眠るにはまだ早いようだ。
インターハイ準決勝もいよいよ大詰め。
話題性があり、多くの注目を集めた先鋒戦に次いで、この大将戦の注目度は高い。
2回戦の大将戦を見た人々であれば、それは尚更。
今まさに始まろうとしている大将戦を、控室のモニターで眺めているのはやえ。
由華が卓に座る姿を、静かに見つめるその瞳。
そこにどんな感情が込められているのか、やえの隣に座る初瀬と憧にはわからなかった。
わからないから、聞きたくなったのかもしれない。
「……由華先輩、大丈夫ですかね」
「……相手は強いわ。でも……それは2回戦も同じこと」
冷静に相手と、由華との力量差を見極めるやえ。
あの後輩には、強い相手でも、戦える力があると確信しているから。
「負けるわけがないわ。……去年からの1年間。由華より努力した人間は、いないわよ」
涙をのんだ一年前。山越し狙い撃ちでラス転落という屈辱を味わった彼女は、誰よりも努力した。
いや、努力せずにはいられなかった、という方が正しいか。
そしてその事実を、部内で知らない者はいない。
やえの由華を信頼しきった発言に、憧と初瀬も胸を撫で下ろす。
そんな2人の様子を見て、更にやえが言葉を続ける。
その視線は、少し2人をからかうような表情に変わっていて。
「それに……あんたたちだって知ってるでしょ?……あいつ、対局中めちゃくちゃ怖いわよ」
「怖い」という感情が、麻雀の強さに影響を与えるかどうかはさておき。
確かに……と呟く2人の苦笑いは、とても実感がこもっているように見えた。
『お待たせしました……!ついに、ついに準決勝第二試合は大将戦を迎えます!泣いても笑っても、この2半荘が最後!……今、対局開始です!!』
席に着いた4人の選手。
落ちる照明と同時に、スポットライトが自動卓に当たる。
対局開始を知らせるブザーが鳴り響いた。
「「「「よろしくおねがいします」」」」
運命の大将戦が、始まった。
東1局 親 由華
素早く配牌を受け取った恭子は、理牌時も頭を動かすことに余念がない。
(さて……1番ヤバイんは間違いなく晩成。牌譜見とってもわけわからんとしか言いようがないわ。……とにかく、なるべく役牌を先切りしつつ、最速で和了りに向かう)
対戦校3人を研究した結果、恭子が一番の危険因子と踏んだのは由華だった。
2回戦のオーラス、臨海のネリーを抑えての四暗刻単騎。
恭子でなくとも、あのシーンが目に焼き付いて離れない人は多いだろう。
あのシーンだけでなくとも、巽由華は手が重く、そして高い。
手役派、面前派……言い方は様々だが、ともかく「ロン」と言われたら高打点を覚悟しなくてはならないのだ。
そしてそれを裏付けるデータを、恭子は持っている。
(なんやねん平均打点14000て。こいつの麻雀にだけ赤20枚くらい入っとるんちゃうか?)
入ってない。
しかし恭子の気持ちもわからないでもない。
平均打点とは名前の通り、その打ち手が和了った全ての手の打点を平均したものだ。
恭子であれば、平均打点は4000点ほど。
姫松の中で腰の重い部類の多恵であっても、平均打点は7000点ほどだ。
それをいとも簡単に凌駕する数字。
誇張ではなく、巽由華に「ロン」と言われたら最低12000は覚悟しなければいけないようなものなのだ。
普通であれば、ありえない数字。
だからこそ、最大限の警戒をもってあたらなければならない。
7巡目 恭子 手牌 ドラ{①}
{⑨⑨24478二三四赤五六七} ツモ{4}
(リーチかけなあかん方か……)
恭子の手に、聴牌が入る。
{3}が入ってくれれば平和の聴牌になったが、生憎持ってきたのは{4}。
待ちの{69}は決して悪くはないが、そういった常識の物差しでは測れないのが、この大将戦。
(リーチは危険すぎる。ツモれたらラッキーくらいでええわ。東1局は、見さしてもらう……)
恭子の得意とするスタイルは、言わずもがな、速攻。
今回の手牌は手なりに素直に打って、いち早く聴牌を組むことができた。
本来なら、リーチといきたいところだが、未知数な相手も多い。
一旦ダマにすることを決めて、{2}を河に置く。
その瞬間。
おそらく恭子が一番聞きたくないであろう単語が、耳に入った。
「カン」
恭子が、表情を歪める。
その単語だけで、誰から発されたものなのかなど、考える必要もない。
セーラー服を着た魔王が、本来麻雀ではツモれるはずのない、神域へと手を伸ばす。
「ツモ。嶺上開花」
咲 手牌
{①①赤⑤⑥⑦35七八九} {222横2}
「8000」
『嶺上開花だあー!!!開幕一閃!まずはトップ目の姫松から8000の責任払いです!!』
『かあーっ!始まったねえ!このコ、準決勝はいったい何点稼ぐのかな??』
開幕いきなりの嶺上開花に、会場のボルテージも上がる。
まずは咲が、8000点をトップの恭子から直取り。
豊音が、目を丸くして咲の手牌を眺める。
(宮永さん、映像では見てたけど……やっぱすごいよ~)
豊音も恭子同様、2回戦の映像はチェックしていた。
熾烈を極めたあの大将戦で大暴れし、点数を荒稼ぎしたこと。
わかっていても、止められるものではない。
もっとも、豊音はまだ止めようともしていないが。
感心している豊音をよそに、恭子がため息をつきながら点棒を渡す。
(いや、なんやねんそれ。役言うてみいや)
嶺上開花ドラ3。満貫である。
恭子からすれば、まずそもそもドラ3の役なしの手をリーチしていないことが意味がわからないし、役の無くなるカンも意味不明だし、そしてきっちり嶺上開花という役をつけてくることも意味不明だ。
しかし、この意味不明を受け止めて次に活かさなければいけないのが恭子に課せられた使命。
恭子が、もう一度大きくため息をつく。
(わかってはいても……ままならんもんやな)
そうは言っても、簡単に気持ちを切り替えることができるなら苦労はない。
ただでさえ、たった今恭子の手に暗刻になった{4}を引きこんでの和了。
開幕から頭を抱える恭子を、責めることはできないだろう。
東2局 親 豊音
咲は開局から全開だ。
なにせ点差が点差である。
トップ目の姫松には5万点近くの差があり、決勝進出ラインである晩成までもおよそ2万点差。
そして2万点差で上を行く晩成の由華とは2回戦でも戦っている。
そして戦ってわかったことだが、この由華という少女は一筋縄ではいかない。
であれば、やることは一つ。
(……姫松を引きずり下ろす)
この卓に君臨する魔王の目には、先を行く恭子の姿がくっきりと映っていた。
9巡目にして、その言葉は発される。
「カン」
またも咲以外の3人が、忌々しそうに表情を歪めた。
嶺上牌から持ってきた牌を、咲が手牌の横へと叩きつける。
「ツモ。嶺上開花」
咲 手牌 ドラ{⑥}
{赤⑤⑦⑧⑧⑧333二二} {裏七七裏} ツモ{⑥}
「3000、6000」
『またもや嶺上開花だー!!清澄高校宮永咲!!自由に嶺上牌を操る1年生が、準決勝で早くも大暴れです!!』
『こりゃキツいねえ……他のコたちも全力なんだけど、まだ追い付かないねえ』
嶺上開花の発生確率は、およそ0.2%。
しかしこの宮永咲という少女は、その0.2%という『偶然』の事象を、『必然』へと変える。
たった2局で準決勝進出ラインである晩成の由華を捉えたことで、会場の熱気も一気に最高潮を迎えた。
東3局 親 恭子
あっという間に親番が回ってきたのは恭子。
咲の独壇場となっているここまでの展開に、しかし恭子に焦りはない。
(まだ、慌てなくてもええ。徐々に、速度は合って来とる……次は、捉える)
今の局も、恭子は聴牌までたどり着いていた。
一番自信がある「速度」は、徐々に追いついてきている。
戦える。
恭子はそう信じて配牌から1枚の牌を切り出していく。
どんな時も誰が相手でも、恭子は思考を止めない。
6巡目。
咲から仕掛けが入る。
「ポン」
(ポン……?)
宮永咲はカンを得意とする割に、ポンをすること自体は多くない。
だいたいポンをするときは、本来自分がカンできる予定だったものが相手の手牌に行ってしまった時。
今回のケースであれば、恭子が3巡目に鳴きをいれている。
故の調整だろう。
恭子が一瞬で過去のデータを思い起こす。
(ポンをせんわけやない。せやけど……このポンは加槓されるもんやと思っとった方がええ)
長野県予選では一人の選手が、これを逆手にとって槍槓という珍しい役を成立させていた。
しかし咲からしてみれば、その経験があるからこそ、この牌を狙わせる猶予すら与えたくない。
わずか一巡後のことだった。
「カン」
(早い……!)
早すぎる。まだ7巡目だ。
恭子に冷や汗が浮かんだ。
今までの速度ならまだしも、これ以上速くなってしまえば手が付けられない。
咲が右目に光を走らせながら、嶺上牌へと手を伸ばす。
その伸ばした手は、咲の下家に座る由華によって掴まれた。
「カンカンカンカンうるさいなあ……ロンって言ったの聞こえなかった?」
思わぬ妨害に、咲が由華の方へ視線を移す。
1巡あれば、由華には十分だった。
左手で咲の腕を力強く握った状態で、由華は右手だけで自身の手牌を乱雑に倒す。
由華 手牌 ドラ{2}
{⑥⑦⑧35678三三六七八} ロン{4}
「ロン。……満洲だよ嬢ちゃん。満洲」
槍槓。
開かれた手牌。
咲にとって槍槓自体は2度目だが、県予選の時と違い、槍槓もケアした上での仕掛だった。
1巡で槓材を持ってこれるとわかっていたからこその、カン。
しかしそれでも、王者の剣からは逃れられない。
わずかに動揺する咲に対して、由華がようやく掴んでいた咲の手を放す。
その目にはもう既に、咲は映っていない。
まるで眼中にないかのように。
由華は呆然とする豊音と恭子へと向き直る。
「すみません先輩方……取り乱しちゃいましたね」
狂気。
豊音と恭子が、その狂気に触れて青ざめる。
わかっていたはずだった。
この大将戦がバケモノの巣窟なことは。
それでも、恐ろしいと思うこの感情に、嘘は付けない。
晩成の修羅が、にこやかに笑顔を作る。
「……続けましょう?」
狂気の宴は、まだ始まったばかりだ。