月に行きたかった、二人のお話。

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第1話

 小さい頃。星を見て、時たま思うことがあった。

 この空の向こうには一体、何があるのか。青く、碧く、蒼く。何処までも広がっているようなこの空も、無限ではない。必ず途切れ、その先には誰も知らない世界がある。

 例えばそれは、夜空に浮かぶ星の世界。空を越えた輝きを宿した、本物の万華鏡。暗く、深く、されど異彩に溢れる未知の領域。

 もしも、そこに行けたなら。

 そんなことを、少年はよく考えていた。

 そんなことを、老人になっても、よく考えていた。

 最初から最後まで、その願いだけは、変わることなく。

 彼は、いつも空を見上げていた。

 

 

 

 

 

 ファータ・グランデ空域。

 地を離れ、空に浮かぶ島々の一つが、その少年の故郷だった。

 いつからそうだったかは分からない。ただ、島が空を浮かんでいるという摩訶不思議な光景は、この世界にとっては常識であり、好奇心旺盛な少年にとっては当たり前のことだった。

 そして少年は、当たり前に飽き飽きしていた。

 時間は深夜。日付は変わり、少年は村の外へと走っている。

 無論、好奇心を満たすために。

 

(……うん)

 

 今日も欠伸を噛み殺す見張りを、小さい体でかわして、暗闇を走る。息を切らして、されどなるべく音を出さないよう注意を払いながら、少年は進む。

 たどり着いた先は草原だ。何の植物かも分からない雑草は、少年の胸くらいまであったものの、構わず背中を預けて寝転んだ。

 一面に広がるのは、空一杯の宝石。普段は青く、澄み渡る空は、暗闇においては極彩の輝きを放つ。

 夜にしか見られない、非日常。

 少年は、星空が好きだった。

 夜は赤い化け物が出るから、村の外には出てはいけない。そんな大人達の言いつけを、毎夜破るほどに。

 

「……はぁ」

 

 けれど。

 伸ばす。伸ばした手は、星を掴むどころか、無限に広がる空すら突き抜けることはない。小さな手は、まるで水面を撫でるように空気を掻いただけで、ぼとり、と草むらに腕が落下する。

 誰もが寝沈んだ頃だというのに、夢ならともかく、現実の自分は雑草を踏みしめているだけで、見上げるだけ。

 嘲笑うような金色の輝きは、夜空で一番大きな星。

 

(……つまんないなあ)

 

 少年が毎夜出掛けているのは、結局はそれだ。

 純粋な知的好奇心。

 大きな真ん丸のそれに、羨望の眼差しを向ける。

 人は空を駆けることも可能になり、超常の現象すらもその手中に収めた。

 でも、空を越えることは出来ない。まるで神様に決められたみたいに、虫かごに入ったような不自由さが、少年には付いてまとう。

 星空は綺麗だ、それは間違いない。

 でも、その先は?

 これで終わりなのか?

 だとしたら、もうそこには何もないのか?

 知りたい。

 果ては何処にあるのか。あるとして、それはどんなものなのか?

 

(まあ……こんなとこで寝転んでるんじゃ、確認しようがないけど)

 

 すぐそこで這い回る虫を、中指で潰す。何度も行った暇潰しで虫の体液の色、臭いまで知っている。好奇心は猫を殺すと言うが、少年は好奇心のためなら猫を殺して解剖だってやるだろう。

 見飽きたものはどうだっていい。

 少年は知りたかった。

 この世界のことを、もっと知りたかった。

 そのためなら、決まりごとなどくそ食らえだと思っていた。

 だからだろう。

 その視界に入ってきたものを、いち早く捉えていた。

 

「……え?」

 

 月下。草原の端で、何かが立っている。

 人にしては、それは眩し過ぎた。

 獣にしては、それは人に近しかった。

 腰まで伸びている長髪も、瞬きをしない瞳も、つややかな肌も……全て深紅で統一されているそれを、形容するのなら、赤い人型の何か、としか言えなかった。

 あえて言うなら、赤い少女か。

 彼女の視線は、寝転んでいる少年ではない。視線は下ではなく上を向いていて、その先は空ではなく、恐らく……。

 

(……月?)

 

 村の外には、夜になると赤い化け物が出るというが……それが彼女なのだろうか?

 でも、ならどうして、

 

(……あんな、悲しそうな目をしてるんだろ)

 

 瞳は開かれたまま、月を眺めている。

 化け物なら何の感情も乗っていないはずの目には、明らかに感情があった。

 憎むような、恨むような、それでも瞳はそこから離れられない。

 と、

 

「……?」

 

 観察し過ぎたか、少女はぐるりと首を回転させ、こちらを睨んできた。その骨格を些か無視するような挙動に、少年は恐怖しながらも、その異物から離れようとはしない。

 

「……テクラ チスイ ンナ?」

 

「は、え……?」

 

 ぼそ、と彼女は何か言ったようだが、引っ掻いたような音だけが木霊して、少年は首を傾げる。すると少女は思い出したように口をパクパクと動かし、

 

「こ、……れで、い、い? わか、る?」

 

「う、うん……分かる、けど。ええっと、君は?」

 

 少年は突然の来訪者に圧倒されながら、確信していた。

 何か、とてつもない存在が目の前にいると。

 

「わた、し。ヤチマ。あなた、だれ?」

 

「俺? 俺は……」

 

 胸の高鳴りを抑えずに、少年は答えた。

 

「ーーアラン、アランドゥーズ。よろしく、ヤチマ」

 

「よろ、しく、おねがい。アラン」

 

 ヤチマはそれだけ言って、ぷい、と視線を逸らす。こちらに興味の欠片もないその反応に、アランはやや戸惑う。

 

「ええっと……ヤチマはここで何をしてるんだ?」

 

「月」

 

「へ?」

 

 そのとき。

 アランは確かに見た。

 ヤチマの瞳が、ほんの少しだけ、潤んだところを。

 

 

「月を、みてた」

 

 

 それが。

 空の民アランドゥーズと、月の民ヤチマの、出会いだった。

 

 

 

 

 ヤチマは月から来たらしい。

 これだけ聞くと、なんじゃそりゃとなる発言だが、アランは詳細な話を彼女から聞くことにした。

 何でもヤチマは元々、月の科学者らしく、目的があって空の世界に降りてきたのものの、帰る方法がなく、ずっと探しているのだとか。しかし見つからず、辺境のこの島でさ迷っていたら……とのこと。

 

(普通なら信じられないけど)

 

 相変わらず空を見上げているヤチマをよく見ると、体から管のようなものが何本も伸びている。恐らく何らかの機械なのだろうが……肉体と融合させるなんて、見たことも聞いたこともない。

 

「……そもそも、何で空の世界に降りてきたんだ、ヤチマは?」

 

「あおいかみ、しょうじょ、さがす。でも、いなかった」

 

「青い髪? なんでそんなの探すんだ?」

 

「わたしに、かせられた、にん、む」

 

「へえ」

 

 月の民も変なことをするんだな、とアランは不思議に思う。

 とにもかくにも。

 

「……でも、いなかったならヤチマは月に帰れるんじゃないのか? だってこれ以上はいたって意味ないだろ?」

 

「データ、あれば、わたし、いらない。そして、データ、そうしんずみ」

 

「……だから迎えも来ないのか? なんだそれ、冷たいな。同じ月に住む人なんじゃないのか? なのに頑張ったヤチマには何もなしか?」

 

「しかた、ない。そういう、にんむ、だった」

 

 そういうもの、か。

 月に人が住んでいるって、とてもロマンチックなことだとアランは思っていたが……月の民に人情はないらしい。何だか幻想をぶち壊されたみたいで、少し肩透かしである。

 

「はぁ……」

 

「なんで、おちこむ?」

 

「いや、べつに。この分だと、月には兎もいなそうだなと思っただけだよ」

 

「?」

 

 ともかく、なるほど。そういう事情があって、ヤチマは月へ帰りたいのか。

 まあ……気持ちは、アランにも分かる。元いた場所に戻りたい。それだけは、アランにだって理解が及ぶ。

 帰りたくても帰れない。見えているのに、戻れない。その日々はきっと、アランが思っている以上にもどかしく辛いものだ。

 

「……大変だったんだな、ヤチマは」

 

「……アラン、は」

 

「ん?」

 

「アラン、どうして、わたし、こわがらない?」

 

「どうしてって……」

 

 ヤチマは無機質に問う。目で分かる。ヤチマはアランを疑っているわけではない。ただ、不思議なだけ。それでも、えも知れぬ威圧感があった。

 

「フォッシルのたみ、わたし、こわがる。わたし、きじん、ゆうごう、した。にんげん、ちがう。フォッシルの、ことば、でいうなら、あかい、ばけもの」

 

「……、」

 

「月、フォッシルのたみ、いけない。ぶんけんも、ない。わたしの、はなし、かくにん、すべがない。アラン、なぜ、しんじる?」

 

「胡散臭いことは自覚してるのか。まあ、そりゃそうだな。突拍子もないし」

 

 どうしてヤチマを怖がらず、信じるのか。

 そんなもの、決まっている。

 

「だって、信じた方が面白いだろ、それは」

 

 そういう類いの話が、嘘でも本当でも好きだからに決まっている。

 

「……おも、しろい?」

 

 首肯して、アランは立ち上がる。見上げた先にあるのは、空の果てで待つ月。

 

「あの月には人が住んでて、君はそこから降りてきた。こんなおとぎ話みたいなこと、嘘か本当かなんてどうだっていい! ワクワクするだろ!」

 

「……いう、こと、よく、わからない」

 

「単純に言えば、君の話が好きってことだ、ヤチマ。なら嘘で構わない。こんなにドキドキしてるのは久しぶりなんだよ、俺!」

 

 へへ、と笑う。

 ああそうだ。待っていたのだ。空ではなく、もっと遠くに行ける日を。誰も知らない世界を知る日を。

 

「俺は俺の好きなようにやる。だから、行こう。月に行こう、ヤチマ!」

 

「……なぜ?」

 

「俺が行きたいから。それだけ!」

 

 す、と小指をアランが差し出す。首を傾げるヤチマの指に無理矢理絡ませた。

 

「約束だ。君を月に帰す。約束する」

 

「……、かんしゃ、する、ます」

 

「好きだからやるんだ、気にしなくていい」

 

 彼女は表情を変えない。いや、元々そんな機能がないのか。それでもアランには、未知の世界に足を踏み入れる興奮すらあった。

 そこに、少女の深い絶望があったことなど、欠片も知らずに。

 少年は、最初で最後の約束をした。

 

 

 

 そうして、アランとヤチマの奇妙な関係は始まった。

 会うのは決まって深夜。アランは日中、月に行く手段を探し続け、それを毎夜ヤチマへ報告しにいった。

 無論、その手段は子供の絵空事のようなものが多かったが、それでもアランは大真面目だった。

 月へ行く方法自体、そもそも確立されてないのだ。どうにかして見つけるしかないが、簡単に見つかるものではない。

 それでもアランは、毎夜行ってはヤチマに首を振られ、を繰り返す。彼女からすれば、子供の児戯に付き合うに等しいそれは本当に鬱陶しかっただろうに、文句一つも言わずに付き合った。

 だからだろう。他愛もないことを話すことも、中には多かった。今日はこうだった、明日はこうなるといいな、とか。そんななんでもない会話も。

 ヤチマと話すだけで、アランは楽しかった。

 彼女は既存の何者とも違う、まさしく単一の存在だった。

 そして、気付いたときには、出会って五年が経過していた。

 

「よっ、ヤチマ」

 

「こんばん、は、アラン」

 

 村外れの草原。

 ヤチマを見下ろすくらいには成長しても、アランは毎夜ヤチマの元を尋ねる。

 毎晩の逢い引きにも似た会話によって、ヤチマも空の民の言葉をほぼ覚え、近頃は発音の違和感もなくなっていた。

 二人は野原に並んで座ると、月を見ながら喋りだす。

 

「今日は、何、話す? 昨日、アラン、学校の卒業式、だった」

 

「そんなつまんない話はいいだろ。どうせ学校なんて勉強するだけのとこなんだよ」

 

「? 友達、いない? アラン、一人?」

 

「ほっとけ」

 

「一人、違う。わたし、いる」

 

「……むぅ」

 

 ぽりぽりと頬を掻いたアランは、それよりと話を進める。

 

「……月への帰還計画も話しただろ? どうだあれ? 名付けて星晶獣の力ならなんとかなるんじゃないか計画」

 

 星晶獣とは、かつて星の民が生み出した大いなる獣であり、五百年前に起きた星の民と呼ばれる存在との間で起きた戦争、覇空戦争では猛威を奮い、現在でも島々で神として崇められることもあるほどの存在だ。

 その星晶獣ならば、月へ行く方法を知っているのでは?、とアランは思ったのだが。

 

「星晶獣、万能、じゃない。現存する、星の獣、そこまでの力、ない」

 

「やっぱりそうか。まあもしいたら、もっと話題になってるか」

 

「月に、行く、簡単じゃ、ない」

 

「そうだけどな。やっぱ限度あるか、こんな島だと」

 

 うんうん唸るアラン。五年かかっても糸口すら見つからないとは、難しい。そんな彼に、ヤチマは微笑む。

 

「ありがとう、アラン。でも、今、月のこと、後回し。あなたの、話、聞きたい」

 

「んん? まあいいが。今日の話はあんまり面白くないぞ?」

 

「いい、構わない」

 

「構わないって……その、こっちは構うというか」

 

「? 意味、不明。アラン、風邪? フォッシルの民、よく風邪ひく」

 

「そんなんじゃない。ただちょっと言いにくいからな」

 

 そう前置いて、アランはやや緊張しながらも、告げた。

 

「俺、明日から遠い島の士官学校に通うことになった。しばらく、ここに来れない」 

 

「……、そう。了承」

 

 言って、ヤチマはまた空を仰ぐ。

 続く言葉はない。

 

「……それだけか?」

 

「? 会えない、しかたない。アラン、事情がある」

 

「そうだけど……でも、ヤチマはいいのか? その」

 

「寂しく、ない。今までも、あった。それと、同じ。別れ、何度もあった」

 

「……何度も?」

 

 それはどういう、と言う前に、彼女はこう続けた。

 

 

「それにーーわたし、もう、五年も、生きられないから」

 

 

 そんなことを、当然のように言った。

 

「……ぇ?」

 

 あと、五年?

 唐突に頭を殴られたような衝撃は、アランの頭どころか全身を伝播し、まるで高波のように思考が溺死していく。

 死ぬ? ヤチマが?

 

「月の民、生存、月での補給、必要。なければ五十年、限度。機神と融合、しても、限界が、くる」

 

 待て。

 そもそもヤチマは、いつからこの空の世界にいるのだ?

 

「……ヤチマは、いつからここにいるんだ?」

 

「千年、前」

 

「せん、……!?」

 

 アランが絶句する。

 千年前と言えば、五百年前の覇空戦争より更に前である。そこまで遡れば、最早神話に近いだろう。

 それから、ずっと帰れなかったということは。

 じゃあ彼女はずっと、この空を見上げていたと言うのか。

 

「それで……あと、五年?」

 

「恐らく」

  

……何で。

 アランはヤチマの肩を掴む。

 

「……何で、そんな大事なことを言わなかった!? それなら!!!」

 

「それなら、なに? あなたじゃ、月には、行けない」

 

「っ……」

 

 それは。アランはたたらを踏むように、勢いを削がれる。

 ヤチマは淡々と、

 

「そして、わたしも、帰れない。最初から、分かってた。アランが、気に病む、ことではない」

 

 じゃあ、なんだ。

 彼女はずっとそれを受け入れて、自分と接してくれていたというか。

 毎日毎日飽きもせず、ただ夢物語を語る人間に。

 どうせ帰れないのだからとは、一言も。

 千年待っても、誰一人来ない世界で、彼女は。

 

「帰る方法なんて、最初から、ない。だから」

 

「だから……なんだ……」

 

「もう、来なくていい。これ以上は、アランが、辛いだけ」

 

「……っ!!」

 

 耐えきれなかった。

 みっともなくて仕方なかった。

 一番が辛いのは誰か、知っているから。

 だから。

 アランドゥーズは初めて、夜が明ける前に、家へ帰った。

 

 

 

 

 

 去り行く背中を見て、ヤチマは不思議と悲しくはなかった。

 アランドゥーズ。

 たまたま出会った少年は今まで出会った人間とは、何かが違った。自分の話に目をキラキラと輝かせて、否定はせず、怖がることもなく、関わろうとしてきた。

 恐らくフォッシルの民では、稀有な存在なのだろう。少なくともこの島で自分にそんな態度をとれるのは、アランだけだ。

 

ーー月に行こう、ヤチマ!

 

 その言葉が、嬉しくなかったと言えば嘘になる。

 帰る。あの場所へ、帰る。それだけが、今のヤチマにとっては唯一の願いだ。脳裏に残った記録をかき集めて、何度も何度もその光景を幻視した。その度に、余りに遠すぎる現実に、心が壊れそうになる。

 届かない。

 触れない。

 帰れない。

……ああ、だから。

 そんな約束も、結局意味などなかったはずなのに。

 ひとりぼっちで空を見上げることが、こんなにも寂しかったのだと。

 ヤチマは今更、そんな当たり前のことを、知った。

 

 

 

 

 全て一人相撲だった。

 アランは村へ帰る道を走りながら、ぐちゃぐちゃになった感情を噛み締める。

 本気だった。少なくともアランの中で月へ行くという計画は、ただの暇潰しなどではなかったと思う。

 最初はそうだったかもしれない。こうすればいいと提案して、揚げ足を取られるように彼女に否定され、むくれながらも、二人で毎夜空を見上げ。

 全てが新鮮で、全てが新しかった。何もかも分からないから、知る楽しさがあった。彼女のことを知る度に、心が惹かれていった。

 でも。

 

ーーそして、わたしも、帰れない。

 

 その一言を口にすることが、果たしてどれだけの苦痛だったか。

 だって、知っている。ヤチマは教えてくれた。月がどんなところか、どう生きてきたのか。懐かしんで、教えてくれたのだ。

 懐かしむくらいには、帰りたかったはずなのだ。

 千年もずっと、待ち続けるほどに。

 なのに自分はそれを知りもせず、何故帰れなかったのかすらも棚に上げて……希望にもならないことを、語っていたのか。

 

「、……!!」

 

 土に埋まった小石に引っ掛かって、アランは派手に地面を転がった。

 やがて仰向けになると、倒れたまま空を仰ぐ。

 

「……くそ……」

 

 確かに、この五年間は、何の意味もなかったのかもしれない。

 結局アランのやっていたことは、ヤチマにとっては耳障りのいいものではなかったのだろう。

 全部勝手な期待だったことも、アランにはよく、分かっていた。

 届かない。

 触れない。

 帰れない。

……それでも。

 ああ、それでも。

 

「……お前を」

 

 あの星へ、帰してやりたいと。

 アランドゥーズは、そう思ってしまったのだから。

 

 

 

 

 

 そうして、二人が会うことはなくなった。

 夜になっても、ヤチマの隣にあの少年はいない。瞳を輝かせて、月のことを話してほしいとせがんできた彼は、島を出たのだろう。

 それでいい、とヤチマは思う。あの好奇心を、こんな島で繋ぎ止めておくのは不憫過ぎる。もっと広い世界を見て、色んなことを知って、幾つもの出会いがあれば、自分のことなど記憶の彼方になるだろう。

 それでいい。

 それでいいのだ。

 もう二度と、会うことなど。

 そう思っていた。

 

「ヤチマ」

 

 それは、彼が現れなくなって、四度の春が過ぎた頃だった。

 もう何年も、同じように見る空の下。月明かりに照らされているのは、ヤチマだけではなかった。

 

「……、?」

 

 最初、それが誰か、ヤチマには分からなかった。

 ヤチマの頭一個分は高い、精悍な体つきに、軍帽を被っており、顔までは伺い知れない。

 だが名前を呼ぶその声には、ヤチマも聞き覚えがあった。

 

「……アラン……?」

 

「よかった、覚えてたんだな。安心した」

 

 軍帽を脱いだ顔は、確かに懐かしの彼だった。やや彫りの深くなった顔は、以前として何も変わらないヤチマと違って、人として成長していた。

 

「あんなに、質問責め、された。忘れられない」

 

「そりゃそうだな。悪い、若造だったからな」

 

「……でも、どうして? 軍の、学校、は?」

 

「つい先日、卒業した。来月から軍人だがまあ、そんなことはどうだっていい」

 

 彼、アランは草を掻き分け、歩いてくる。その姿は四年前より逞しく、まるで別人のようだった。

 

「君を、迎えに来た」

 

「わたしを? なぜ?」

 

「……君の延命装置を、新しく開発することに成功した」

 

「え……?」

 

 今、なんて?

 

「……あり得ない。これは、月の民として、わたしが、発明した……」

 

「確かにそうだな。だがそれはいつの発明だ? 百年は前だろう? 空の民とはいえ、科学は日進月歩していくものだ。届かない道理はない。俺の見立てでは、メンテナンスさえ怠ることがなければ五十年は保つはずだ」

 

 五十年。月の民ならともかく、空の民なら一生とも言える時間。

 だが、それでも。

 

「あなたは、わたしを、月へは、連れていけない」

 

 帰れないなら、意味なんてない。

 だったらここで朽ち果てればいい。

 それで終わる。

 終わらせてほしい。

 何度もそう思ったのだ。

 何度も待って、裏切られたのだ。

 だから、なのに。

 

「関係ない」

 

 むんず、とヤチマの腕を掴んだ手は、ざらついていて、固くて、何より大きかった。そのままアランは細身のヤチマを無理矢理引っ張る。

 

「月に行けないとか、フォッシルの民とか、そんなもの関係ない。俺は、君を、月に帰すと決めた。言っただろう。俺は俺の好きなようにやる」

 

「……無理。たった五十年で、月へ帰れる、わけがない。どうしたって、途中で死ぬ。それじゃあ、意味がない」

 

「本当にそうか?」

 

 アランは強い意志を言葉に乗せる。

 

「だからここで一人死ぬか? ふざけたことを抜かすな。本当にそれでいいなら、どうして毎晩未練たらしく月なんて眺めてた?」

 

「……、」

 

 言葉に詰まるヤチマ。その間にも、アランは訴えかける。

 

「本当に帰れないと諦めていたのなら、空の底へ身投げしていればよかっただろう。俺のことが鬱陶しかったなら、次の日からこの草原に来なければよかっただろう。だがそうしなかった。

 お前は、一度も俺から逃げず、俺の話を闇雲に否定したりもせず、ただ一緒に月を眺めただろう」

 

「……、それは」

 

 青年になりつつある少年は、二年前と何ら変わらない瞳で、少女を射抜いた。

 

「何かに期待することが、そんなに怖いか、ヤチマ?」

 

「……、!」

 

……ああ、なんだ。

 分かっていたのか、それすらも。

 

「千年の間、帰ることはなくとも、チャンスはあったはずだ。月へ帰るチャンスが。それでもさ迷い続けた。いずれも失敗し、その度にお前は意気消沈した。その苦しみを、俺が分かったなどと口が裂けても言えない。だが」

 

 アランは躊躇うことなく、その言葉は吐き出した。

 

 

「ーーそれでも。お前は、帰りたいんだろ?」

 

 

 瞬間。

 ヤチマの中で、何かが、溢れた。

 

「毎晩毎晩、月を見て。見ることしか許されず、それのどんなに辛いことか。どんな想いで、お前は、俺に月の話を聞かせてくれたのか。どんな気持ちで、俺の戯言を毎晩聞き流していたのか、想像もつかない」

 

「……、っ」

 

「これ以上は俺が辛いだけだと? 笑わせるな!! 本当に辛かったのは、辛くて泣きそうだったのは!! お前本人だろ、ヤチマ!!」

 

 それはまさしく、堰を切って、瞳から溢れた。肉体の半分以上が機械化しているのに、それでも、胸の奥で残り続けた本能が込み上げてくる。

 帰りたい。

 帰りたい。

 家に、帰りたい。

 

「お前が好きだ、ヤチマ」

 

 アランは赤髪の少女を抱き締め、

 

「だから、何年かかっても、お前を月へ帰す。必ず……お前を、元いた場所に帰してやる」

 

ーー俺は俺の好きなようにやる。

 

 ならば。ああ、確かに。

 この少年が諦めるわけ、なかったのだ。

 ヤチマは抱き締められながら、瞳から雫を落とした。

 きっと、もうこのときには既に。

 少女は孤独から、救われていた。

 

 

 

 

 恐らく、ここが境目だったのだろう。

 もしも二人が、また会うこともなければ。

 月へ帰るだなんて、そんな無い物ねだりをしなければ。

 きっと、その地獄は起きるはずもなかっただろうに。

 もう、後戻りは出来ない。

 

 

 

 

 

 正式に軍人となったアランは、故郷からヤチマを連れ出し、一緒に住むことになった。

 軍人とは言うものの、延命装置を作り出したように、アランは元々研究者としての一面が優れており、戦場へ赴く傍ら、あらゆる文献や科学などの調査も行っていた。

 多忙を極めながらも、アランはヤチマのメンテナンスもこなしていき、徐々にその頭角を現していく。

 そして月へ帰るという影の目標を掲げた一団、『組織』を結成したアランは、本格的に月への帰還方法を捜索する。

 しかし、これが中々有力な情報が見つからない。やはり千年間、ヤチマが探しただけあって、空振りかそうでないかはすぐに分かってしまう。

 しかし、それでもアランとヤチマは幸せだった。年老いていくアランと、千年後も容姿の変わらないヤチマとでは、最早父と娘のようにしか見えないほど外見年齢の開きが出てきたが、二人の間には確かな絆があり、愛があった。

 このまま死ぬのも悪くはない。どっちが先に思ったか、それは分からない。

 だが、神はそれを許さなかった。

 ヤチマが倒れたという情報が耳に入ったとき、アランは走り出していた。

 

 

 

 

 

 走る。年齢も三十に近い体は、軍人として鍛えていても、十代に比べれば大幅に劣る。息を切らしながら、アランはその施設へとたどり着いた。

 そこは『組織』の機密機関、第零拠点の一部屋だった。そのドアに手をかけ、アランは入る。

 

「……ヤチマ」

 

 走っていたさっきまでとは裏腹に、アランは静かに入室する。そこは、まるで病室というよりは、研究室に近い造りで、ヤチマはその中央の寝台に寝かせられていた。

 彼女の体から伸びる管は、力なく床に垂れていて、『組織』の技術班も手をあぐねている。

 研究者の一人が近づいてきたところで、アランは冷静に問い質した。

 

「……容態は?」

 

「それが、原因不明です。いきなり倒れたかと思ったら、そのまま昏睡状態になってしまい……何らかの攻撃を受けたようで、右手の先から肉体が崩壊しています。これで今月三度目です。やはり何か異常が起きているのでは……?」

 

「そうか……分かった、もう下がっていい」

 

「え? ですが……」

 

「いいから下がれ、そしてここへの立ち入りを禁じる。分かったな」

 

 念を押したところで、不服そうながらも『組織』の研究者達は部屋を後にしていく。

 アランは一人、目を閉じているヤチマの手を握り締めた。

 

「……すまないヤチマ。まだ、月への帰還方法は見つかっていない」

 

 不甲斐ない、と思う。月下で彼女の悲しみを受け止めたあれから、随分色んなことがあって、色んなことを知った。その過程で得たものもあれば、失うものもあった。

 だが……これは、失えない。例え何があっても、彼女だけは。

 なのに少し前から、ヤチマは体調を崩しがちだった。いや……崩すというよりは、単純に崩壊といった方がいいか。障害は体の欠損だけではない。

 

「……?」

 

 ぱち、と目を開けた赤い少女に、アランドゥーズはほっと胸を撫で下ろす。 

 

「……起きたか、ヤチマ。無事か?」

 

「……?……???」

 

「ヤチマ?」

 

 しかし、様子が可笑しい。ヤチマは横になったまま、こちらを一瞥すらせず、天井をぼうっと見つめて、呟いた。

 

「……ニ コチソノ カラ クラモイ……」

 

 昔は分からなかった月の言葉も、アランはヤチマから教わった。だからその言葉の意味も、全て理解出来る。

 

「……ニ コチソノ カラ クラモイ(家に帰る)……ニ コチソノ カラ クラモイ(家に帰る)……ニ コチソノ カラ クラモイ(家に帰る)……ニ コチソノ カラ クラモイ(家に帰る)……」

 

 うわ言のような、ただ何かを恨むような言葉は、千年積み重なったヤチマの根底。

 最早それは願いではなく、ただの妄執に近い。

 アランはヤチマの手を握る。

 

「ヤチマ」

 

ニ コチソノ カラ クラモイ(家に帰る)

 

「ヤチマ」

 

「ニ、……ぅ、……あ、ラン……?」

 

「そうだ。俺だ、大丈夫か?」

 

 ヤチマは頷くが、その微動だにしないはずの表情は、少し歪んでいる。それだけ苦しいのだろう。

 一時的な茫然自失に、肉体の崩壊。今はこれだけで済んでいるが、時間が経てばこれ以上のことも起きるだろう。

 アランにはヤチマが倒れた理由の心当たりがあった。それは前もってヤチマにも説明してあることであり、アラン自身も理解していた。

 つまり、

 

「……やはり、延命装置複数使用による、肉体、精神の崩壊」

 

 元々ヤチマの肌や髪は、もっと白かったらしい。しかし補給を受けられず、千年生きるには、やはりそれ相応の代償がいる。

 それが機神と呼ばれる、月の民の兵器であり、ヤチマの延命装置の内の一つである。

 そしてもう一つは、アランの作り出した空の民による延命装置。しかしあくまで延命は延命、命を繋ぐ代わりに、ヤチマの身体機能や精神は崩壊の一途を辿る可能性はあった。

 分かっていたことだった。

 分かっていたことなのに、いざそうなると、腹だたしくて仕方ない。

 ヤチマが何をした。

 ただ帰りたいという願いすら奪われてしまうほどの大罪を、彼女が侵したというのか?

 千年。余りに長い時間、見知らぬ空をぷかぷか浮かぶように生きた彼女が、やっと生きる希望を見つけたのだ。

 それを、なんで、こんな。

 

「……アラン……」

 

「喋らなくていい。疲れるだろう、休め」

 

「ごめん、なさい……」

 

「……、」

 

 何故。

 何故お前が、俺に、謝らなくてはならない。

 

「謝るのは、俺の方だ。島から連れ出しておいて、この始末。むしろ、お前は俺を恨んだって……」

 

「うら、まない」

 

「……ヤチマ」

 

 その否定は、有無を言わせない圧があった。声を出すことすら苦しいだろうに、ヤチマはむしろ、アランの言い分を全て切り捨てる。

 

「あなたが、すきになって、くれたから。わたしは、ここにいる。あなたが、つれだして、くれたから。わたしは、たのしい、おもいでを、つくれた。なにも、ない、わたしが……あなたを、みつけられた」

 

 だから。

 

「すきに、なって、くれて。ありが、とう。アラン、ドゥーズ。わたしも、あなた、が……」

 

 そう、ヤチマは笑って、気を失った。

 気を失うまで彼女は、アランに愚痴一つ、なかった。期待させておいてと、そう糾弾することだって出来たのに。彼女は何も、言うことはなかった。

……何も変わっていない。

 彼女の余命が分かったときと、自分は何も変わっていない。

 無力で、ちっぽけな、空から出られもしない人間だ。

 

「……だから、どうした」

 

 それが何かの理由になるものか。

 あの日、連れ出したときから、アランには絶対やらねばならぬことが出来たのだ。

 彼女を月へ帰すという、己の命すら惜しくない使命が。

 タイミリミットは、恐らくあと三十と数年。メンテナンスを欠けばもっと早いかもしれない。

 崩壊のカウントダウンは既に、始まっている。

 

「……救う」

 

 白髪が生え出した髪を揺らし、アランドゥーズは覚悟を決める。

 

「どんなことをしても。俺は、ヤチマを月に帰す」

 

 奇しくも。

 それは、アランドゥーズという男が元々持っていた、身勝手さの塊だった。

 

 

 

 

 

 とにかく時間がないと悟ったアランドゥーズは、手荒な真似を行うことも厭わなくなった。

 資金を得るためなら暗殺を、研究を進めるためなら非道な実験を、そしてヤチマを救うためならどんなことでも。

 それは幼い頃、好奇心のために同じ虫を潰して、全容を知るようなものであり、徐々にその瞳には狂気すら宿り始める。

 ある意味、それはアランドゥーズという男の良心だったのかもしれない。狂わねばやっていけないと、そういう心から生まれた、安っぽい狂気だったのかもしれない。

 いいや……アランドゥーズという人間にとって、一番辛かったのは、やはりヤチマの崩壊だろう。

 どう足掻いても壊れていく最愛の人。それを間近で見せられて、アランドゥーズは壊れていったのだ。

 しかしいくら安っぽくても、狂気は狂気。熟成され、引き金を引けば、あとはもう止まらない。

 そして何より……アランはついに見つけてしまった。

 月の民の使役する獣ーーつまり、機神を。

 

 

 

 

 

「……おぉ……」

 

 その機神を持ち帰った先は、ヤチマのいる第零拠点だった。ここはアランドゥーズの研究室もあり、そして月のテクノロジーに詳しいヤチマもいる。まさにうってつけだ。

 アランの前に横たわっている、というより、這いつくばっているのが機神だ。神という名の割りには、蜥蜴に似たフォルムの機械で、つるりとした手足、顔のない頭部など、研究者としてのアランとしても、非常に興味深い代物だった。

 

「これが、月の民の生み出した兵器……」

 

 感嘆しかない。まさか、これほどまでに月と空で文明力に差があるのか。本当に月の民には驚かされると、アランは節々を見る。

 隣にいるヤチマも、流石に同族のそれは何年も見てこなかったらしい。視線をきょろきょろと動かしている。

 

「ヤチマ、これを起動出来るか?」

 

「……無理。鍵がなければ、起動出来ても、これを制御することは、不可能」

 

「そうか……いやしかし、だとしてもだ。これはまさしく、神の代物。利用しない手はない……」

 

 アランドゥーズの中で、計画が走る。次第にその計画は熱を帯びていき、機神を調べていく過程で、実体的になっていく。

 

「……ふ、くふっ、くははははは!! そうかその手があった!! 機神を核とした武器!! これならば、神とも言われる星晶獣すらも屠れる……!! 神には神、これなら、俺は神話すら作れる!!」

 

 魅入られる。さながら甘い蜜を吸い、己の本分すら忘れるように、アランは月に魅入られる。

 何かが、変わった。何かが、堕ちた。それを自覚しながらも、自意識すら壊れかけたヤチマでは、アランを是正することは出来ない。

 

「……アラン?」

 

「ん? ああ、すまないヤチマ。メンテナンスならもう少し待ってくれ、すぐにやる」

 

「ううん、いい。アラン、がんばっ、てる、から」

 

 笑い声が響く。かつて二つあったかもしれないそれは、狂気に飲み込まれ、ガラスみたいになった少女の耳で反響する。

 何も響かない。

 響くほどのものが、もう、残っていない。

 だから、転がり落ちていく。

 壊れたまま、何処までも。

 

 

 

 

 

 計画は最終段階に入った。

 機神を使用した武器、封印武器と、機神セスラカの体、そしてデータを己の脳と入れ換え、新たな神となる。

 機神ヴァーサタイル。それが、アランドゥーズという男が名乗る神の名前。

 月からの渡航者が、鍵を持っている。それを手にさえすればあとはもう、手術を行い、月の叡知を我が物とするだけ。

 

「アラン」

 

 聞き慣れた声に、視線をやる。その声はどんな作業よりも優先されるものだ。

 ヤチマ。四十年以上前から姿の変わらない彼女は、やはり何処か人形染みていて、体から伸びる管だけが、前よりも増えた。

 日々崩壊していく自我を繋ぎ止めるために、一日一回のメンテナンスが必要にはなったが、こうして出会うと、背が引き締まる思いだ。初心を忘れてはいない。神になるのはあくまで彼女のため。それだけだ。

 機神にさえなれば、月へ行ける。彼女と、同じ存在になれる。

 ああ、それはなんて……素晴らしいことだろう。

 

「アラン、大丈、夫? 無理、して、ない?」

 

「大丈夫だ、何も問題ない。俺は至って健康だ。それよりお前のメンテナンスだな、ヤチマ」

 

 アランはすぐさま膝をつくと、ヤチマに繋がれたケーブルや、駆体の調整を始める。この作業も手慣れたもので、五分程度で全ての工程は済んだ。

 だが、手先を使うとより自覚してしまう。自分が年老いたことを。

 油にまみれた手は皺が目立ち、以前より動きが固くなった。目は衰えてヤチマの体がぼやけて見えるし、足は一回曲げるごとに軋む。

 気づけば、アランドゥーズはもう老人になっていた。

 出会ってからもう、五十年は経ったか。二人は最早祖父と孫のようになってしまったけれど、それでもいいと、アランは思う。

 同じ時を歩めたことこそが奇跡で、だからその奇跡に、自分は報いねばならない。

 この少女と出会えた奇跡に。 

 メンテナンスも終わり、あとは、計画を実行するだけ。

 だからなのか。

 少し、センチな気分になったからかもしれない。

 

「ヤチマ」

 

「?」

 

 真っ赤な飴玉のような瞳が、こちらへ向けられる。その、一見壊れた人形のような動作すら、今は愛しい。

 ヤチマも外見こそ変わらないが、中身は老朽化が激しい。恐らく、彼女の人格はほとんどスリープ状態だろう。

 今はもう、家へ帰りたいという願いしか、残ってないのかもしれない。

 だからこそ。

 

「帰ろう、一緒に」

 

「……ニ コチソノ カラ クラモイ(家に帰る)……」

 

「ああ、そうだ」

 

 最後の作業を終え、アランは背を向ける。

 一人残るヤチマの姿を目に焼き付け、男はその瞳に狂気を燃やす。

 

「帰ろう、あの星へ」

 

 

 

 

 

 そして。

 アランドゥーズは、神になり。

 とある騎空団と『組織』によって、殺された。

 

 

 

 

 

……アランが来ない。

 恐らく計画とやらが、忙しいからだろう。一日も欠かさず来てくれていたが、やはり大詰めになるとそれすらも難しい。

 ただ、彼の顔が見れないのは、少し寂しい。

 年老いた彼の皺の数を数えるのが、最近のヤチマの楽しみだ。共に月を眺めることは、最近出来ていないけれど、それでもアランが開発してくれた、このプラネタリウムなら、天井が擬似的な天体になる。当然月もあって、その美しさは中々だ。

 だから大丈夫。

 アランが頑張っていることは、よく知っているから。

 

 

 

 

 

 アランが来なくなって、一週間が経った。

 何だか体が動かなくなってきたけれど、意識は割りとはっきりしている、と思う。最近目を閉じてしまうことが多くて、屋内のここでは時間の感覚もすぐには分かりづらい。だから十分だけ機能を停止していることもあれば、二時間ほど睡眠していることもある。

 アランが必死に頑張っているときに、寝るなんて不誠実だ。なるべく寝ないようにしないと。

 プラネタリウムもいいけれど、早く二人で月を見たい。

 早く帰ってきてほしいな、アラン。

 

 

 

 

 

 アランが来なくなって、一ヶ月が経った、らしい。

 意識を失う前の自分が書き留めたメモによれば、どうやらアランの所在を突き止めたようだ。

 計画は大詰めと言っていたのに、一体何をしているのだろう。

 確か研究施設にいるらしいけれど、何か不具合でも見つかったのだろうか。

 それならわたしも、一緒に、見つけ、

 

 

 

 

 

 アランが、死んだ。

 わたしは空で、ひとりぼっちになった。

 

 

 

 

 

 アランは頑張ってくれた。

 でも、月に帰してはくれなかった。

 約束したのに。大丈夫だって言ったのに。

 嘘つき。嘘つき。嘘つきめ。

 結局、一人だ。

 嫌いだ。

 わたしの側から消えたお前など、嫌いだ。

 わたしが好きだったのは。

 わたしが愛していたのは。

 一緒に月を眺めていた、あの。

 あなただけだったのに。

 どうしてこの空には、あなたが、いないの。

 

 

 

 

 

……最近、意識がはっきりしない。

 どうしてだろう、と考えてみても、その考えすら、中々まとまらない。

 ただ一つ言えることがあるのならば、何か欠けていることだけだと、ヤチマは考える。

 毎日毎日何かしていたはずなのに、何をしていたのか、誰と会っていたのか、何も思い出せない。

 メンテナンスを長くしてないせいか。スリープ状態の人格すら、今はもう錆び付いて動かなかった。

 部屋は壁などに傷ついた跡があって、映写機のようなものが床に壊されたまま、途切れ途切れに光を放っている。

 天井が真っ暗なことに、軽く違和感もあったが、それもすぐに消えた。

 そもそも。

 わたしは一人だったのに、どうして、こんなにも、寂しいのだろう……?

 

 

 

 

 

「やあ、相棒。調子はどうだい? 少なくとも朝食を食べる前くらいには、絶好調だと思うけれど」

 

 目の前にいるのは、見覚えのない(誰かに似た)、グレーに近い髪の優男だった。

 きょろきょろと見回せば、何処かのゴミ捨て場か何からしい。辺りにはジャンクが一杯で、落ちていた手鏡の破片から、自分の姿が映っていた。

 単眼の機械。

 状況が少しだけ、読めた。

 

「……お前は?」

 

「おや、僕が分からないのか? 可笑しいな、確か機神の残骸(・・・・・)もパーツとして使ってるから、ある程度の演算速度はあるはずなんだけど」

 

「……なるほど」

 

 つまり、先の記録は機神のものか。随分と執念深かったらしいな、とその機械は思考する。

 

「いや、問題はない。俺の機体名はレイベリィ、そして底無しに弱そうなお前がアイザック。そうだな?」

 

 男、アイザックが目を丸くする。

 

「底無しに弱そうって……君にそんな言語能力を付け足した覚えはないぞ、僕は」

 

「なんだっていい。つまりお前は俺の相棒ということだろう」

 

「まあそうだけど。君は万能(ダクト)を目指して作ったんだ、頼りにしてるよ」

 

「任せておけ」

 

 さて、とアイザックが片付けをし始めたところで、機械、レイベリィは己の機能を使って主をサポートする。

 先程の記録を見て、泣き叫んだりするほどの感情は、レイベリィにはない。そもそもただの機械であり、機神とレイベリィそのものは別だ。

 ただ。

 あの少女はどうなったのだろうと、機械は少し、考えていた。

 

 

 

 

 

 そして、今。

 

「お願い! ティアマト!」

 

 青い髪の少女が、両手を重ねて叫ぶ。するとその背後から竜を侍らせた巨大な女性が出現し、辺りの機械を風の閃光で吹き飛ばす。

 星晶獣を吸収し、使役する、青い髪の少女。

 彼女が千年間探し続けた、標的。

 

チミチリンツイ(分析)……」

 

 赤い髪の少女は、弾丸を全身に満遍なく受けながらも青い髪の少女からずっと目を離さない。

 一人、千年前に課せられたタスクを、果たすために。

 機械はそれを見ていた。

 きっと。

 最早あの機神の主すら忘れてしまった、少女の残骸を。

 

「……、」

 

 故に、その言葉に意味はなく。

 故に、その邂逅も意味はなく。

 故に。

 

 

「…………可哀想なヤチマ」

 

 

 無感動な別れは、誰も正しく意味を理解出来なかった。

 かつて、誓いあった二人ですら。

 その運命を恨むことすら、ないまま。

 決定的に、一つの関係が終わった。

 

 

 

 

 

 ざらつく感情はない。

 あるのは単純な、事実の反芻だけ。それは聞き慣れた曲をリピートするような、無意味な行いでしかない。

 自身の記録よりもその記録の方が長いのだから、リピートする回数は自ずと増えたし、結局その機械は、何もすることは出来なかった。

 それでも、機械は思う。

 あの少女に対して、もう一言だけ、言えることがあるのなら。

 

「……俺は、お前と会えて良かったよ、ヤチマ」

 

 赤い少女の破片に向かって、機械は静かに追悼する。

 どうか。

 この少女が、彼の魂と共にあることを、願って。

 祈ることだけは、最後までやめなかった。

 

 

 

 

「なあヤチマ」

 

「? なに、アラン?」

 

「月に帰ったら、ヤチマは何がしたいんだ? そんなに帰りたいなら、何かしたいことがあるんだろ?」

 

「……わたしは」

 

 

「アランと、ずっと、一緒に、いたい」

 

 

「……当たり前だ、そのために連れ出したんだから」

 

「うん。ありがとう、アラン」

 

 

「本当に、出会ってくれて、ありがとう」

 

 






切ねえ~~~~!!(3か月前のぼく)
そんなわけで大幅に遅れましたが、書きました。タイトルは本家準拠、意味はまあ興味があれば調べてみてください。
グラブルはそれなりにプレイしてるので、いつか長編の二次も書いてみたいですね……。


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