夢は見るもの。
夢は二度とは得難いもの。

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芒野に黄金を見ゆ

 最近は夢も見ない。ずっと、あの目覚めてからも暫く瞼に映り続けた景色を愛していたのに。

 

「君、誰?」

 

 襖を開けた部屋の中、廊下から薄く伸びた光の先。敷かれた布団の上にふわふわとした何かが陣取っていた。柔らかな金の毛に覆われて丸まっているそれはどこか猫にも似ていたが、間延びした鼻、蕩けた眼、牛のように伸びた尾がそれを否定する。

 つまり一言で表すなら、得体の知れない小動物。田舎にはよく出るのだろうか、こういうのが。

 それは此方をじっと見つめた後、微動だにせず布団の上で寝息を立て始めた。溜息を吐く。

 

「まあ良いけどさ、どうせ僕には必要ないし。好きに使ってくれよ」

 

 布団を踏まないように跨ぎ越すと、月灯りが透ける障子にもたれ掛かって座る。芒が風に擦れる音と微かに鈴虫の鳴声が聴こえた。

 

「きっとこれは夢で、君も一晩経ったら消えちゃうんだ。そうでしょ?」

 

 そんな訳がない事は自分が一番よく理解していた。これは夢ではない。という事は必然、目の前にいる不可思議な生き物も実在している訳で。なのに不思議と恐怖はなかった。薄い麻酔をかけられたように脳髄の奥が痺れている。

 

「寝床を貸してもいいけど、その代わり僕の話に付き合ってくれよ。夜は退屈なんだ。ずっと眠れなくて」

 

 きっと今自分の顔を鏡の前に持ってくれば、隈に縁取られた血色の悪い青年が映るのだろう。

 本当に突然だった。何か劇的なターニングポイントがあった訳でもなく、押し潰されそうな悩みがあった訳でもない。毎日をそれなりに過ごしていただけなのに、ただ急に眠れなくなった。

 常に身体を倦怠感が包むようになり、昼間は酔いにも似た微睡みの中をずっと彷徨う。そして醒めた夜は余りに長い。

 今まで自分が築いてきた物を捨てるのは時間の問題だった。大学、バイト、友人、プライド。澱んだ身体で人の真似事をするのも苦痛だったから。

 都会から逃げ出すように、大学を休学して祖父が独り暮らすこの山田舎の片隅に転がり込んで来たのはいつの事だったか。鳴り止まぬ車の排気音も、星霞むような眩しいネオンも、呆けた眠り無しでは到底耐え切れなかった。ここは凄く心地良い。静寂だけが波音のように寄せては返す。ひょっとすると、自分はこの刹那をずっと求めていたのだろうか。

 

 月満ちて、芒流れ、夢も見ず。

 

 喧騒を、煩わしい雑事を、真っ当な幸せを、全て捨ててこの荒屋で得体の知れない何かとひっそり朽ちてゆく。それこそが、自分の求めていた「夢」だったのかもしれない。それでも、いつかは戻らなくてはならない。皆それを望んでいる。けれど、今、もう少しだけ。

 布団の上の獣が、そっと欠伸した。

 

 

 

 ──ここには獏が住んでいる。

 

 いつか耳にした祖父の言葉。朝餉の途中、卓袱台を挟んで御御御付けを啜りながらどこを見るともなく投げられたそれに、何と返せば良いか分からなかった。

 

 ──あれは夢を喰う。それが良い物であれ悪い物であれ、な。今のお前の夢は何だ、叶えたい事は何だ。

 

 問いの意図は分からなかったが、眠る事だと答えた。そしてまた元の生活に戻りたいのだ、と。

 祖父の濁った目が此方に向けられた。白内障の入りかけた瞳はどぶろくの様に澱んでいた。

 

 ──ならそれはきっと叶うだろう。嫌という程にな。

 

 お祖父様もその獏に出会った事があるのですか。

 そう尋ねるには、あまりに彼の顔は窶れていて。深く刻まれた皺には、微睡みの名残も読み取れなかった。

 

 

 そして今、目の前で面妖な獣が寝息を立てている。これが祖父の話していた獏なのだろうか。そっと手を伸ばして、その金色の毛皮に触れてみる。とくんとくん、と命の音がした。熱が凍えた指先を溶かすように、淡く伝う。

 指で絹のような毛を撫で付けていると、ふっと目の前が歪んだ。慌てて確かめるように首を振る。久方振りに襲ったこの感覚を、自分は知っている。

 

 眠気だ。

 

 意識が一瞬失せた隙に、獣は襖の前に立っていた。振り向き開かれた白銀の双眸が、じっと自分を見据えている。

 かりかり、と爪で引っ掻く音。まるでここから出せ、と言わんばかりに。それが何だか胸が痛くなる程に切なくて、この寂れた一室から何処にも行かせたくなかった。けれど自分の手はそんな思いとは裏腹に、襖をそっと開いてしまう。水面に雫が落ちる。そんな足音と共に獣が去る。それを唇から血が滲む思いで見つめていた。

 

 ──行かないでくれ。

 

 暗闇に獣が溶けた刹那、やっとそう一言呟けた。身体を覆っていた淀んだ膜がふっと剥がれたような気がした。はだけた着物の襟を合わすと、軋む廊下を駆け抜ける。祖父が起きてくる様子はなかった。平時は何てことのない板張りの道が、終わりの見えない隧道のようで。

 土間を越え、裸足のまま外に飛び出した。

 

 目も眩む程に満ちた月、戦ぐ芒、その真ん中で佇む金色の獣。最初見た時より一回り大きくなっていたそれは、最早僕を見つめる事はなかった。

 きっとそれが求めているのは僕ではなく。その後ろに佇む、夢だけを。嫌だった。何となく理解できてしまったから、彼が自分をどうしてここに呼び寄せ、そして何を奪おうとしているのか。

 

「止めてくれ」

 

 ずっと嫌だった、煩わしい喧騒が、終わりの見えない人との繋がりが、星の見えない夜が。逃げ出したかったんだ。欠伸が滲む。

 

「眠りなんていらない」

 

 今宵やっと気付いたんだ。奪わないでくれよ、そう呟く。それに構わず、「()」はゆっくりと此方に歩みを進める。瞼を開けているのがどうしようもなく苦痛だった。

 

「僕の夢は」

 

 獏がそっと僕の頬を舐めた。途端に力が抜け、地面に伏せる。泥酔にも似た曇天が頭を占めてゆく。ゆっくりと遠ざかっていく獣に手を伸ばす。多分ずっとそれは届く事のない。後は泥のように眠るだけだった。

 

 そして夢を見た。何だかとても懐かしかった。今はもう、覚えていない。

 

 

 

 

 

 ───────────────────────────────

 

「お前さあ、講義の間寝るのやめろよな。なんで俺がお前の分の課題埋めてやんないといけないんだ」

 

「悪い悪い」

 

「まあ元気そうで良かったよ、半年も休学しやがってよ」

 

 半笑いで誤魔化しながら、友人からノートを受け取る。人懐っこい笑顔が眩しかった。

 

「まあまた遊びに行こうぜ、近い内に。予定空けとけよ」

 

 彼と別れて、駅へ向かう。昼下りの電車は拍子抜けする程に空いていた。バイト先へのこの数十分、いつも目を閉じて眠りの尻尾を手繰る。

 

 あの夜が明けた後、僕は家の前で眠り込んでいたらしい。祖父はただ一言こう呟いた。

 

 ──会ったか。

 

 会ったよ。ただこう返した。それだけで十分な様だった。何故か目尻に涙を滲ませながら、祖父は僕を抱き締めた。その時初めて、僕も彼も二度と取り戻せない何かを抱えてしまったのだと知った。

 あの夜以降、僕は普通に眠れるようになった。丑三つ刻は縁遠いものになり、僕は街へ帰った。大学に復帰し、新しくバイトを始めた。

 毎晩毎晩、ずっと待ち望んでいる。けれどもうきっとあの景色には辿り着けない。

 

 今もあの芒野に黄金の獣は佇んでいるのだろう。そして誰かの夢を舐め啜っている。満ちた月に白銀の光を受けながら。

 

 けれど僕はそこにもう一度帰る事はできないのだ。

 最近は夢も見ない。ずっと、あの目覚めてからも暫く瞼に残り続ける景色を愛していたのに。


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